藤堂藩寛政大一撰
序
宝暦‑・天明期が'幕藩体制の基盤‑本百姓体制Iが動捜しはじめるtlノー・llいわば転換期に位置していることは先学において周知の説である。幕
府・諸藩における財政窮乏の露見'それにともなう政情不安としだいヽtノ2′ーに激化するl茂に対し、これら支配権力は執榊望退任政策を試みたがI
封建的良営農の成長と'村落における封建的紐帯の強化の前には、そ
の試力も彼等の反感を助長するものでしかなかったのであるO
姦蒜争鮒態においても、すでに元禄‑享保期には広域的な「惣榊百姓」あげての全港一段に変化し{暴動や強訴で幕府権力に対し全面ヽJ4
円︼川u勘な対決を挑むようになってきていた。
このような情勢の中で、幕府・諸藩では'とりわけ'財政の建て直
しと年貢収取体制‑本百姓体制の維持に全力をあげて大改革を打ち出
したのであるが、これが幕権におゆる寛政の改革であり、諸藩におゆ
る寛政期の藩政改革であるo
津・藤堂藩においても、寛政親に入いって画射的諸政欝の連打を見
せる.が'その改革の評価は、寛政八(一七九六)年十二月の大小操と
さてi)て由れ'清勝に大打撃を与えた結果になったのであるoしかし'本 西繁
来'「惣百姓一授」の矛先は直接に村役人や大庄屋に向くはずのもので
あったが'津の寛政)漢においては、一腰の階級構成の先頭に大庄琴Ii'4LE51村役人が立ち'なおかつ'蒜の対象が豪農・豪商であっ専従っ・て・
この一舞にかぎって.農民のほとんどの階層と都市貧民が広域軒に鎗果
して村役人に対して強訴したという'一般的広域闘争として総括し.tJ鰐
釈することはきわめて危険なことであり'それと同時に..津・農政7康
の特徴を正しく把握することが'藤堂藩の寛政改革吟兵の評価につなが︻るものと考えるのであるO
脚林茎「宝暦‑天明期の社会情勢」﹃百姓.t按の伝統﹄所収(新評論)
中井信彦﹃転換期幕藩斜の研究﹄
(午:.I‑'2'.,.)桝林基「近世におりる隊旗梶争砂諸盤態」
﹃百姓一致の伝統﹄所堪
(新評論)
陶林氏前掲論文
鋸大石慎三郎「農民綿争よりみた元禄・学保〜明和期について」
﹃歴史学研究﹄三八〇号所収
悌深谷克己﹃寛政期の藤堂藩﹄(三重県郷土資料刊行会)
1㌧T孜の展開
藤壁蕗の藩政改革の壷として実施することになった地割令(地均し)
主地均分令に対して、合法的な訴訟純争をもって寛政の一投は始まる
ことになるQ
「聖和なれは恐縮して願出る者もなく寄合のみして評議区々なる所に!ヽl/「▲′̲lヽ
志郎小倭郷九ケ村は大庄屋も同し事なれハ赦免之儀強‑願出ル」とある
ように・大庄屋を代表して願出たのである。この観出により、藩価はひとまず実施を見合わせたのであるが'この後すぐに準付姿勢をとって莱
施にふみきろうとしたCこのことによって、反対農民の聞争心をかきた
て,その決意を確固たるものにせしめ、村々不樽の空気は一触即発の感
を呈するに至り'ついに、
「廿六日幕方津城を去ツて五六里未申の方嘉郡小倭郷いづくともなく引り
皆等を苦し竹穆蒜鎌薫を煙にさし︼
て集合した。
一校勢は大き‑分けて'津城下を三方から包囲する形で準付して‑るO
南方へは・二心郡小倭郷の二隊が半田山に、西方へは'安濃郡の村々の 一隊が八町(八三に、北方へは、河内谷・加太の一隊が梅原・高野尾掬の農民を混じえて塔世橋に進入
L t
東方は海のため、酵城下は貴さしく四面楚歌の状態であった。
そして、ついに、藩僻は如判奉行の書母を一授僻に琴不することにな
ったが、表勢は財産の受哲入れを拒否し、なおも打ちこわしを艶吋'
その後ようやく承諾したC
田﹃岩立茨﹄
庸同右
榊,﹃津市史﹄等二巻、Fl石立茨﹄参考
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志
(図‑) ‑挟進路 予想図
.冒. 南. 方 ■歯 元 北 方
宮 ↓ 前 も
二■岩田町 .伊予町 . 八 田∫ ∴ 塔 世千 橋
↓
半 田〜tr .山 l=荒本村河琴集 合も. 亨,大部田村鶴 の前ヽl■〜Y
(義‑) ‑贋 の進路 (寛政^ 年 十二月 )
門・八対野村庄屋倉田金次等之由聞之」
と、指導者層を報告し、のち、彼らは'吟味後生犯として入牢させられ'
牢死あるいは獄門になった。
彼ら'地割対象村の村役人層は'育ちこわしの対象となった豪農村
役人層と比較して、かならずLも豪農経営を確固たるものにしてはいな
かった。
第1に窮乏化する農村の中のl構成員であったこと∵第二に'加重負
担にあえぐ農民とともに'封建権力と対喧していたことにより'没落へ
の危機を脱出すべ‑、封建権力にまっこうから対宜し、闘争する以外に
打開.の道はなかったのである0そこに'藩権力に寄生する豪農との大き
な格差が認められるわけである。
しかも'彼等在村の役人層は'寛政期以前からの初期的無雇人でもあ
った。郷士制度のもとで藩権力の外延に位置していた無足人は、農村痩
弊・家士財政窮乏とともに噺いに没落の途をたどり始めるO藩僻ではtpnHur:′ー
救済の方法を定めてはあったが、「不儀」なる者の続出で'没落がはな
三叫段の階級的内容
日大百姓・=庄屋・‑村役人層
伊賀者の﹃細密用船勤候細﹄において、
「小俵郷大庄屋池田佐助頭取之様及承候」と'池田佐助を指導者=頭敬
とし、また、
「大村大庄鼠池田佐助・谷軌村組合頭町井友之丞・川口村庄屋森惣左宿 はだしい場合にはその免許を没収した。しかし'寛政改革を轍に、
機構建て直しをはかるため'新規無雇人を取牲立てるのであるが、
足人は献上金など粧よって採用された'言わば蒋権力に癒着した豪農層
であった。
ここにみられるように、本来'純粋な意味での封建楓横に組されてい
た無足人が没落して、新たに権力に寄生する目的で権力と結び■ついた無
足人にとって代わるという状態からしても'在村の村役人層と'打ちこ
わしを受けた豪農層との経済的・階級的格差はいかんともし難いもので
あったことがわかるのである。
また,たとえ没落傾向にはあったとしても'封建権力の末端部'言い
かえれば、支配階級に属していた者が、反対闘争の主導をつとめたとい
う書は、領主制的位階編成の本質的撃」.艶るものであ‑・Uの
ことの歴史的意義は多大なものであることを合わせて考えておきたい0
Ⅲ「宗国史」第二巻(士兵条)八三〇頁参照
臼小農隷農階級
藩側が断行しようとした地割令に対し、
完困窮百姓とても物不人に田地貨ふハよけれとも下地難渋者なれハ農?/
具等の貯へなくこやし等の元手な‑却て難儀に乃ふ者あるよし聞ゆ」 1■1"■ーnu3ねふらし云渡し」たとしても・かかる領主的改革との衝突は不可避の辛 iZ5
実であった。
「身代も持高相応に暮し又は其空代に倹約を守り昼夜分ちなく強囲ふして身上仕出し」てきた申百姓の純粋なる要求が'まだ打ちこわしの
方法をとらず,村役人の主導のもとに合法的な開争として現われたので
あるoそれは、表の本質的な部分としてfP領主へのまっこうからの対
立であったことを意味するものであるO
Ⅲ「岩立茨」
佃同右
=聞同右
糾問右
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と反発の色を示し'また'第1彼らは、a/し
「塵塚をなして金銀の余計を準‑地を買入れ」るという、必死の生産
生活を営んでいた階層なのである。
現実の彼らの生活は、自然災害や権力からの圧迫などにより'経営維
持の困難からくる没落傾向は必至であったLtそれをなんとかして打開
しようとする強敵な生命力を発揮してもいた。従って、彼らは権力の行
使に対して,徹底的に非妥協的であったし、たとえ、
「いかやう具割渡すベシケ様の難有事を不承知成ハ不審しなら‑甘ミを 日貧農‑:・‑半プロ層
一七世紀後半からl八世紀にかけての'農村においての小農自立此・
貨幣経済の浸透という状態の中で,身分的には本百姓でありながら、経
済的田窮から,小作関係や雇用関係をもって生計をたててい‑農民が増川■huHH(
大していった。彼らは,言わば,本百姓体制解体過程の所産としての階
級であって・労働カー賃金の見返えりでもって存在していたのであるO
このような半プロ層に対しての地割令は'まさに'彼らのそうした響
働の瀕を奪い取ってしまうものであった。そして、すでに彼らは、小作
.雇用関係の中で敵対膚を兄い出しはじめていたことなどにより'姦
の最も過激な行動主体として力を発揮したのである.
Ⅲ深谷克己「寛政期の藤堂藩」
第二=r第二節‑・貧農・半プロレタ‑ア‑‑層の生成
伯都市貧民層
「‑⁝其後も弥乱妨いたし右の節は夜中の義百姓のみこ無之盗賊雲助PnHllE川■t̲t■1︼等の類も入込侯由にて‑‑」
「此虚に乗じて所々方々の溢れもの雲助乞食盗賊のるい皆貸笠を着し佃百姓に入交り心の優に横行して働きしと也」
以上のように、一段が打ちこわしの段階に入いって'都市貧民層‑盗
賊・雲助・乞食等が乱坊をはたらいた。(打ちこわしの段階に入いって
と言うより、彼ら都市貧民層が打ちこわしの主体であり'打ちこわし杏
1層助長したと言う方が良いかもしれないo)
彼らが百姓たちと同様の不満・要求をもって闘争に参加したとは考え
がたいが'土地を追われ'浮浪的要素をもち'町方秩序からも疎外され
た無権利の彼らが、一漢の乱入に乗じて、日頃の不満を一輝に爆発させ Ⅲ「槻木五郎左衛門差出百姓共強訴之節馬先収斗山作」﹃建市史﹄第{巻二五九真
価「岩立茨」
側原田伴彦「近世都市騒擾覚書」
﹃日本封建都市研究﹄所収
印エンゲルス﹃ドイツ農民戦争﹄伊藤新7訳匡民文庫版
四〇‑四二頁
三'1漢の要求対象
‖地割令(土地均分令)
寛政期以前からの本百姓体制の砲座という情況の中で'濃百姓化もん+・・だいに顕化してきていた。このような聴態に対し'海側はいきなり地割
令を出さず、まず田地の永代売買を禁じ'法的規制による土地移動の妨
止と、年貢負担者の確定を主眼とした策を取った。
藩価の意図=藩政改革担当者郡奉行茨木理兵衛の方針は、
の載れであった。そして、ただ無秩序に破壊的行為を行ったという理解
だけにとどまらず'都市平民層として'領主に対立するものとして受け周囲pとめたときに、都市騒擾の活力である平民的反対派としての歴史的意義
を認めなければならないのである。 ト鮎 である。その意味で轡bの行動は、百姓等とは異った'平民的要求 「下僚以革旧弊Ⅲ査田巻以正経界」
蕩 除 宿 債
以救貧民
というものであった。にもかかわらず'すでに進行していた土地移動は'
「先達而相調侯田畑屋整冗証之儀一通り迄吟味侯道々下達侯右之内二者
贋合達之証文も相見侯得ども今以相攻僕達も無詮事二俣二付昏迄之儀者