明治3 1年〜大正6年 59人平均 大 正7年三〜昭和12年 7.0人 o 昭和13年〜昭和32年 7,0人 b・ 昭和3 3年‑昭和4 9年 7.7人 ク
しか し,最近 では7・7人平均 と言 って も転出する家 もあ って .多 い組 で12人 ,少 ない組 で
4人 の氏名が記 され ,各組 闇の人数的 な不均衡 が生 じている。
。 人数的 な不均衡が生 じて も,当組閣の人数調穀 はま った く行 な っていな い し .行 な う必要 も ない と貰 うのが人 々の意 妃であ る0人教の不均衡 によ って ,少数当組 【こ対す る負担 が増加す る の ではな いか と思 ったが .祭の際 な どの'B用 は ,各戸か ら事前 に御 神酒代 として軽 めてまわる の で ,金銭的 な負担 (こはあ まり鯛係 しない ようであ るOまた ,労働力の点で も,不足 の場 合に は.当組 に関係な く.親 しい者や近所の者が手 伝 うの で .この点 で も.負担 が増加 す る とい う ことはない よ うであ るc
o 本家の場 合 ,戸主 が死去 した場合 ,次 回か ら.その後継者 が代 わ って記減 されて いるので ,
L^ .t・
戸主 の死去 に よる .当組 の変 更 はなか ったよ うである Oまた
,
馳楽 では .分家 を新宅 と呼 ぶが , 新宅が できた場 合 .多 くは本家 の周 している当組 にはい るが ,たまに .自宅 に近 い当組 にはいった り,特 に親 しい者の当姐 lこはい ることもある。 このため ,同 じ親族 の ものが ,すべて同 じ 当組 とは限 らな くな っている。
。 明治20年代 か ら他の姓の者が記入 されているが .当組 ‑の参加 は .若宮神社 がER]楽全休の 氏神 様 であるためか .あま り延抗 な く行 なわれた よ うである。 しか し.他の姓の者 が梼本 にな ることはなか った ようである。これは ,肺炎 においては .山本 ‑族の先祖祭 も,栖本 の仕申 と な っているためか .あ るいは .やは り .他姓の者 として .急熱的 に外 され たかの どち らかであ ろ う。
以上が .「若宮称体展観帳 」の分析であるが .別図に ,地脈 と山木油専 一氏制作の 山,S 一族の 家系図 を照 らし合わせて制作 した .現在の師楽の当組 区分図 を成せてお く.
③ 当選 の仕JJ了
現在 では ,当屋 の意味 を知 ってい る人 は少 な く,「掛 こ,年中行 田の際の L臓 役の よ う(こ考 え られて いるO当匿の仕切 の内容 について も,詳 し く知 ってい る人 は少 な く, 10年ほ ど前か ら宙 かれてい る 「排塵行邸記録 」に記 され てい る仕41を「応の 目やす として .後は ,そのq:に よ って 臨機応変に ,仕 封をつけ加 えた り,省いた りす る形 とな っているようである.次 に
,
「紳尾行砺 記録 」の中か ら .5 1年度分 を1例 としてあげてお く。巨 亘 ] 舶 山本‑ 氏
10/ 2 7 巾盛 ほて ,由 し送 りを受け るo
12/ 3 1 お宮掃除 .国洗立て .注連飾 り,お眺物準備 .初詣での人達 の為 に .12時前神前 の'口;灯 を点灯 o
l / 10 十 日戎 O戎岡 の幕 を張 り
.
由比 須神社の職 を立てるO祝部 きん よりお礼 を聴 くO お供.2千円 。‑ 340‑
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附言
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1/ 】3 お目待 o'ML神酒代熊金ol戸当
り
2百円O餅 つ き.1/ 14 午後3時 よりお宮へ参拝 。/:1# .藻且のあえ もの準備.参拝者約10名o 祝部 さん より四方憾めのお礼を戦 く。お供 え.3千円。酒肴料 として千円.
1/ 1 5 年rl]iJ7時3 0分 より,'ql神酒 .餅等 .部落中へ配分 。 5/ 7 衝神酒代奨金 (春 祭 り)a l声当t)2百円 。
5/ 8 臓 は長盛神祉の ものを立 てる.
参拝者約】0名 o午後3時 より糸輿 d祝部 きんの助の故障の為 .孝志 きん‑依頼 。 娃酢 ,典子 .1袋宛 を参拝者へ配 り接待 。孝 志 さん‑謝礼. 3千円。
7/ 8 EZ祈祷.御神酒代集金 l戸当 2百H 。
7/ 9 お寺様へ史祈排の件 一依轍 (屯詰 1.
7/′10 夏祈祷。コ ミニ ュテ ィー′、ウスの拙虚 もあ り,役場 より来訪の由 .連絡 あ り。
8/ 4 8/ 5
きつね寿司 .シャコ.カレイ (貯過 ).生酢等準
W d ‑
, 60人分 O於倶釆部 O 掛軸 は .勇治 さん宅の ものを借用 。食皆 は婦人会 。お寺様 ,謝礼3千 円O 先祖祭 。御神酒代架 会,2百円。先祖宋 O町長 .臨席 あ りO町行政Eこ付いて .当区関係分説明あ り。生酢 .菓子袋分 配 O孝志 さん .謝礼 .2千円。お供 えの あっT:水門山木氏 (帝国化= )へお礼の為
‑3J3‑
訪問又弥礼状 を差出す .
8/ 13 法界様 の掃除 O午前中に終 わ るOお寺様の指示 ほて ,塔姿 を準備 。 (8 0年忌分 の 大 きな分 )0
8/ 16 法界祭 りの御神酒代奨 金. 1戸当 り2百円。
8/ 17 法 界祭 り。午後4時3 0分 .参 拝者約 15名 。生酢 ,菓 子袋 を子供達 へ も分配 。子 供達 の踊 りの奉納 あ t)Oお寺様 を本屋 宅に第 円 して接待 。お礼 (お供 え )3千円 . 10/20 17号台風 に よ り.被等 のお宮通 の土砂取除 き作業及拝毅 へ倒れた巨木 (松 )の取
除 き作業 に部落総出の協力 を仰 ぐ (道 ぶ しん と共lこ)0
10/21 午後 よ り,祷良各戸2名 にてお宮掃除 o主 として屋根修臥 並に ,桁 匪 さん外3名 の大工 きん運 に よる拝殿前 の柱の経理等実施 。
10/23 秋祭 り。祭典午後3時 よ りo今 回 も又 .祝部 さん .都合感 く.孝志 きんに依頼 。お 礼 3千円O生酢 ,菜手袋準備 ,参 拝者約20名 O子供遜行 燈の献灯に対 し,何か と の要荊 あ り (昨年実施の由 )。菓子袋 。
10′′25 正午 よ り.次期 当番の人達 への申送 り。雑木 ,尚志氏 。
この記録か らもわか るj:う【こ,現 在の当屋の仕事 は .非常 に多方面 にわた っているが .大 きく 分 け ると ,lfいたい次の6分 野に分煩 できるとい ってよいであ ろ う.それぞれ の分野 Eこついて , 簡単 な説明 と考察 を加 えてみたい 。
a) 祭典の T:めの準備 と世話
祭 熊の ための準備 としては ,まず .お宮や両 な どの掃除がある。これ は,各 当屋か らとは記 さ れてい ないので .当屋 の中 で都合のつ く者が何人 か出 て ,祷本 の指示 の もとに行 な っている と考 え られ る.ただ ,秋祭の場合 は .大 がか りなので .辞齢 戸2名 と指定 され ているO次 に .
幡立
て ,#張 りであ るが .これは.前記の木簡 と共に ,前の当屋 か ら受 け継 いだ ものであ る。他 に も.秋祭の際に ,使用 され る太鼓があるが .これ らを .当屋 は相談の上 .祷本 がま とめて保管 した り, 当屋各戸に分 けて保管す るとい う.最後に .お供物 の準備 であるが .お酒 ,洗米 .餅な ど専用志
して供 える他 ,他の人か らのお供物の管理 も柚木 が行 な うよ うであるOこの項 目の仕市 は当座制 の本来の意味か ら考 えて も.最 も詰責か つ本質的な仕串 と̀言 えるであろ うo
b ) 御神酒代媒 金
的楽 では ,何か祭典 がある前 には .必 ず1戸 当 り2百円か3百円を奨 めて まわ る。 これを嫉 め るの も .当屋 の仕‑iiiであ る。この お金は いつ頃か ら集 め られているのか わか らないが .前述 した よ うに ,このお金 によ って ,当盛 に対す る金銭的負担 はほ とん どな くな っているoだか ら.小数 の当組 で もや ってい けるのである.たTfL .染 めTこ金の管理及 び種 々の支払 いは純本 の仕郡 とな ってい るようである。梼屋行申記 良 くこも.お金の ことが細 か く記 され ,次期 秘本 の よい参考 lこな ってい るよ うであ る。
C ) 生酢 や典子 .酒の準備 .分 配
‑一般 【こ.頭畳制 が残存 してい る所 では ,祭熊の後 で .面会 と言 われ る唖応 が行 なわれ ることが ある らしいが .師楽 で も.それ(こ類 す る もの として .祭典の後 ,簡単 lt̲L料理 を出す習班 が残 って
344
いた.大人 には ,お酒 と畦酢 .子供 には .薬子1袋 とい うのが普通 であ るが .誕祈祷 .先祖察 . 秋祭 な どの際 (こは ,これに シャコ.きつね寿 司 .さきいか等 が加 わ ることもあるO料理 の内容 が か な り簡略化 されてい るの も.当座への負担軽瓶 に役立 ってい る。そ うは言 って も.多 い時 には 60人分 もの料理 を用意 しなければな らないので.この仕事 も当屋 の重要 な仕事 とされてい るO
それは ,祷本 と当組 の区別につ いて .祭 の時 ,料理 の場所 を提供す るのが梼本 で ,料理 をそこで 作 るのが当組 . と答 え7二人 が いたことか らも推 利 で きる。
d ) 神宮 .僧侶 への依頼 .接待
日本民 俗学 零卿 こは
,
「神事の 中心 Tこる神主 の役 も頭屋が勤 める例 を生 じ.頭屋神主 とか年番 神主 とか呼 ばれ るよう̀こな り,神領 におけ る頭尾 の地 位が重 くな った。 」とあ るが .帥楽 では.その傾向は,全 くみ られなか った Oまた ,部商内には .神宮 も僧侶 もいないので .牛 窓か ら来 て も らう。 その際 の連絡及 び接 待 も.擁太 の役 目である。
e ) お宮 の管理
前記 したよ うに .師楽 には神官が いないの でお宮 の管理 も.当屋の仕串 となる。屋 根の修理 . 台風 で倒れた大木 の取 り除 き .台風 に よる土 砂の取 り除 き等 を .祷本 の指示 の下に .部 落総出 で 行 な っている。 もちろん .区長 も指揮 にあた ったであろ うが ,啓がお宮 の管理に関す る限 り,当 屋 は,かな りの発雷力 .影響力 を持 ってい る と言 えよう。
∫) 先 祖祭
姻帳分析 の際 ,述 べた よ う(こ.師炎 では .ほ とん どが山本 一族の ため .毎年8月5日に行 なわ れている先祖寮 の準備 や世話 も当屋 の仕邸 となる。場所 は,山本 一族の総本家 である本 屋 と決 ま
っているが .他 の祭興 と同 じよ うに ,抑酒代 の先 金 .生酢 や菓子の準備な どは当屋の仕事 とな る0 本来 ,神職 を助け る役 であった当屋が .ここ師発 では.仏部に関 して も,神野 と同様 に .当屋が 世話をする。 この ことは ,師楽の当屋 制 の持 切 手取性 と言 えj:う.
(む 頭渡 し
師楽 では.頑疫 しの ことを当屋渡 しと言 う。当良の任期 は.前任 の当屋 か ら当屋渡 しきれてか ら.次 の当屋 に当塵 醸 しす るまでの一年間 であるD当屋 渡 しは .Bt=宮神社の秋祭 が終 わ った直後 に行 なわれるため.当屋の仕事の ワン ‑サイクルは . 10
月
2 5日頃か ら次の年の10月
2 5日 頃までとな る。次の祷本 は ,本屋 や中屋 の当組 では ,転回必ず蕃家 である本屋 や中屋 が勤 めるが .他の当組 で は.総連家 に近 い ものか ら始 ま って ,古い新 宅 .次に 古い新宅 と順番に勤 め る。ただ し,これ も 限定 され た ものではな く.その年 に勤 めるはずの茅が .物い りや婚礼な どの理 由 で勤 めが難 しい 時は ,当組内で相談の うえ .順番 をか えることもあ る。しか し.その際 も,同 じ当組 内の山本姓 の ものが平等 に勤 めるように配慮 されて いる。
当 日は ,前任の雑木の家 に .次の当組 の人 々が招 かれ る.そして.前任の祷本 と次の梼本 が向 かいあ ってす わ り.定め られ た言串を貰 って .曲任 の禰本が .次の祷本 に.木箱 を渡 す。 この木 栢t,Eは .前述 の 「若宮卸 梼屋回帳 」やその他の記 録が納 め られてい る。後任 の耕本 は .それ を.
定 め られた言葉 を貰 って受 け とる。これが当屡渡 しである.また ,この際 (こ定 め られ た言葉 を言
‑345‑
うために,帥楽の人 々は, この行 事の ことを .「申 し送 りをす る
」.
「申 し送 りを受 ける 」と も 言 うo当崖 渡 しの ことを単に申 し送 りと言 う勘 合が あるの もこの ためである。当屋渡 しの行事 が 済んだ後 は .前任 の当屋 が出す店 で酒盛 りが行 なわれ るo師楽の当屋制 で ,他 の地方 で見 られ る 行 事の後の酒盛 りがみ られたのは,この場 合 のみであ った 。考 寺請
これまで師楽 における当崖制 について ,い ろい ろな面か らみ て きたが .ここで的楽 における現 在及び将来 の当星制 について ,若干の考 察 を加 えて .本文の結 びと したい と思 う。
現 在の帥薬 では ,先祖祭の項 でみて きたよ うに ,当屋は神 仏に関係 な く.宗教行 事 い っさいの 世話 をす る役 とな っている。本来 ,宙盤 の巾か ら神格 を助 ける役 として登 場 した当屋 では あるが . 師楽には神 官 も僧侶 も在住 していない こと もあい重 な って ,的楽の当塵は神社及 び寺 院に依頼 す
るのみにな っているO しか し.」投の部落flはさ らに神社 .寺 院 と隔絶 しているので .当盛が唯 一の橋 とな っているこ とも串実 である。この ことは ,師楽 の当屋制 の持 つ特異性の 一つであろ う。
また .別の特異性 としては ,先程 も述べ たよ うに.帥楽 の当毎削ま,神事 .仏事に関係 な く.い ずれ も同様 に準備 し.祭典 を行 な うことがあげ られ よ うO言 いか えれば .当段 が宗教 関係 い っさ いの執 こついて .世話役的役割を果 している と言 うことであ るoこの点 で .師楽の当帽 は .本釆 の頭屋の宗教的 な他面が消え ,事務的な面 が より強調 されて残 った ものであ ると‑jえよう0
品後 に .特異性 と言 えるか どうかわか らないが .師楽の人 々に とって .9年 ごとに当組, 6 0 余年に1回の祷本 を勤 めることは .名誉 にあたることをあげてお くCこれは ,本屋 ,中屋 の当姐
では .本家 ,中屋が 転回横木 を勤めていることに よ って示 されてい るO旗本 .当組 を勧める とい うことは ,師楽 に住む部満貝 の残務である と同時に .彼 らが部 落員 であることを示す ための権利 なのであるo
これ らの ことか ら考 えて .師楽 の当屋制 は連綿 と続 いて い くと思 われる。
帥楽は ,現在 ,変 わ りつつある。すいかや プリンスメ ロンを栽培 す る近郊股業への転化 ,コ ミ ニ ュテ ィー ′、ウスの完成 o最近 の帥・射 i新 しい15‑向へ と歩み出 している。この新 しい時代 の中 で . 当座制に も新 しい任顔 が与 えられ るの ではないlLJろ うかo
(永野
逸美 )
2 年中行 di
的楽 におけ る年中行 甲を山本万等‑ (81)さんの帝 を中心 に .で きるだけ詳 しく調べ .その後 に考察 を加 えてみ ようと思 う。尚 ,現在行 われていない ものには XをつけたO
1
月
1日2
日
初詣 氏神 の若宮蔽 .畑 の家の人が詣ったo・・朝祝 い "は ,家 々に よって 一様ではなか っ′二が .方# ‑ さん宅では.元旦は味噌汁の雑煮餅 .二 日は
し 上うゆ汁 ,三 日は .ぜんざい と決 ま っていた 。 舟の乗 り初め
半農半漁 で毘裳の生産物 ・肥料等 の運搬は .ほ とん ど舟 を使用 していた 。
‑346‑
2
3日
2月l
E
1 3月3日 4月8日5月5日
5
月 (旧 4月
7日( こ近
い日曜 日)
子供 は .この乗 り初 めに角方 としてついて行 くと,掃 ってか ら舟方貨 と云 うことでふた'んよ りは多 くの こづかい銭 が もらえたO
お神酒 を内苑様 にお供 え して.右舷 ・左舷の海に も注いで倍神社 にお供 えし.碇 づJ:Jを手lこlこざる形 1̲Jけ して これで乗 り初 めが終 る。
田畑の うち初 め
代表 して近 くの田畑 に蕪 を もって行 って凍結 してい るEFl畑 で もうつまね を してよい具合だ とい って蛭屯 を祝 った。
十 日戎 で漁祭 り
戎両 の
群
を張 り.敵比須紳tLの樽 を立 て るo酒盛 りを して楽 しむ。百姓のお正月
夜明 け前には闘牛 を小舎か らつれ出 して . "牛追 いだ して.やれ棒 ,や れ樺 "と叫 びなが ら牛 を走 らせた。 (万等 ‑さんの頃 に もや っていなか っ た )
やれ棒 団子 をつ く った ,
このE=ま堤体 E)で .若い衆 は集 って力 くらペの石か つ ぎをした り.腹押 し,腕押 し.角力 .マラソン,喰べ くらへ .舟 こぎ競争等 を し,娘 は ,髪 の結 い合い .丸解や島田などの髪結 いの稽古等 を して過 Cした。
お 目符
餅 つ き ●
左義長 ・注連飾 りのおはや し
午後3時か ら氏神様へ参
錘L J .
祭典 をす る。参拝者 に生酢 ・お餅 ・お供 えの野菜等 をあげる。夜Il.芋肋 を駐 めて .軟や年寄 りの昔話 を した t)し て楽 しむ。正月 ・五月 ・九月の この 日は ,二 十五夜 とい って五月蕨 などを作 った。
小正月
段休 El.飢 R餅 をつ いて .推煮 ・赤飯 ・五月飯 を食べ る。
ひな祭 り ・桃の節眺
め〜 く〜行 中
この 日団子 を作 った。寺へ参 る.
瑞午 の節供
か しわ餅 ・弊 とし ようよ と護 を束ねて屋塀 をふ いて泥除 けを し.屋根 に 放 り上げた。
また牛のつの忙 し ェうぷ争篇 び .子供 には ちまきを した りしたoそれか ら.し上うぶを風 呂に入れ るO
春祭 り
午後3時 か ら祭典が行 われ る。神官 を呼び祈念 して も らい ,級 .酒盛 り
‑3.17‑
下旬
9日
7
月
13日∫‑‑15日
土用 の入 り
をす る。
麦 うらしのお大帥巡 り
1。戸組 ずつに組 み分 け れ て ,邑久郡 の 八十 八 カ所 のお大 師巌 盟境 を順 繰 りに納 め札 をもって巡礼 した 。
ろ くがつ して え (Lとひ )
この 日は焼餅 をす る。粉 を練 って培格 の流 し焼 きを した。
七夕
六 日夜に星祭 りを し,六 日早朝 ,稲の秦や里芋の葉 に潤 っている籍 を採 って来 て .この 白寓 で歪 をす り,五色 の短 冊lこ願 い事 や牽牛織女 を祝 ぐ歌 な ど
な
び いた.七夕団子 とい って七回団子 を食べて七回泳 いだ 。 kL祈 祷 ・虫送 り ・しろみて春 ・夏 ・秋 ・冬 四季 lこわ た って村 内安全の神田 を行 う村祈祷 の一つで . この夏祈祷 だけが 仏式 で行 われる。 これは 「しろみて 」の 日と決 ま ってい る。田植 が完了 す ると区長か ら
「 〇
〇日は しろみてで おやすみ です 」との 解 れが出 る。、Ll臼は .お寺に行 って祈 妨 して もらった村内安 全の ふだや虫 送 りの職 を もらって柿 り,午後十時頃か ら部落 の者が参拝 す るo孟 肺盆
先祖の御領 をお迎 えしての年間毘変 の3日間 .盈参 りが第 ‑番の勤 め 。 遠地 の もの もその ために帰郷す るO
中元の贈答 :背の咽答 は薄 く広 くで親戚 な どか な り蒔 くな って も先祖 への お供 え として干 うどん やそ うめんの三把か五把 。それに下駄 な どの履物 。 子供 Iこは .赤いGl緒 のついた草履 とか扇子 .また汚 くこ男の子 に は日輪職争 の絵 とか手 ぬ ぐい等 を肺 った o奉行人 な どには .女であるな ら浴衣 の‑秩 位 .男 には酒 の一杯 も庇舞 われたが ボーナス等 とい うものはなか った。
盆 の 十三 日には .半年分の商人のかけ とり.平 射 iつけ買い で盆 と盛れ には半年分の1‑71倍の将界 で忙 しか ったO夏 の餅は犬 も喰 わぬ と云いなが ら ,' お盆 には大塩餅 をついたo次の様 な笑 い話 も残 ってい る。
或 る餅好 きの人が .
「餅 もうまい と云 って もお盆 まで 」
「お盆 を過 ぎた ら欲 し くないか ?
」
「いやいや ,お盆 を過 ぎた ら又格別に うまい 」とか 。 桶野送 り
夜史けて鈴 を叩 きri.が ら.お供 えの西瓜 ,野菜 を手造 りのか このせ ,岐 阜提灯 を ともして海lこ流 した。
井戸 かい
帥柳 にあ る3つの共同井鼻 水 を (みだ して水神様 のお祭 。れ た 0
‑348‑
8
月
1日9
月
1日
9
月
9日'.八朔 団子 I'を作 っTこO
"奉行人 の追い出 しEB子 "な どと云 って .子守 りや作男 や女中の交替期 とされ たO雇入れの契約が .この 日を盛準 lこして .併 せて!51金 や期間 が定 め られ た。子守 り女 な ど世話人 があ って そこに申込 んでお くと子供 あが り の女 の子 を8人 も10人 も連れ て申 し込 みの家lこ配 っていT=。小豆島 や謀 岐方面の娘 が多く 1年切取 で駈 っT=
。
男 は牛 飼いに覆い ,共に賃金 はな く 食iPだけであ った。先祖 まつ り④
師楽の先祖 は .今 は合併 され T:が元鹿忍村小向か ら移住 して きTこo墓碑 lこは 「野望適温信
士
」俗名係拾郎 .卓保 十 四年七月六 日と刻 まれている。家 は元 .只吉宗 で鹿忍宝 光寺の蟹家 であ ったが,級 .年寄の西寺 (貞 光院 ) に変 り.更 に娼任教 に改宗 され .従 って .先祖祭 りも神式 で執行 される。
現在 も継承 されているのは .氏神様の お祭 りに準 じて前夜 .お梼家が村中 を遡 ってお神酒料 を鉱 める。村は半 日の総 休み とな り,一戸一人 は必 ず頻 り.子 供は全
n
.呑屋 てある万罪 ‑ さん宅lこ集 る。午後 四時頃か ら祭典に かか る。神官の祝 詞な どは塾の通 りで ,玉串 ・奉典 は神 官 につづいて .先祖の家 を継 ぐ当主 ,第十 三位の本屋 の良男 .区長 .氏子惣代 ,農家組 合惣代 .お 椀家の相木 .地元町議会故員等の頓序 で行 う。祭興が終 る と.参列者は行 列 (順 番 はない )を作 ってお墓詰 りをす る。お祷家 は帰 りを持 っていて , 子供 に‑人 々々お薬子 を一袋ず
つ
配 り.戸主 はそれか ら改 め て酒宴 lこうつ る。法界寮 り
ぉ大師様の仙 こ白然 石の扇平型の大 きな岩に 「法界
GJ
と刻 んで建 て ら れている石肝 がある。luJ時の頃か村lこ疫病 が流行 して次 々に伝染 し,容易 に治 らなか った。祈祷者を呼 んで村祈排 をして もらっT=時 に ,無縁 仏の崇 りであるか ら,その供養 をせ よ,その為 には .波止場の 西隅の辺 りに大 き な石が深 く埋 っているか らその石 を凧 り出 して これ を建 てて柁 れ とい うお 告 げが あ っT:ことか らその石碑 が建て られ た。 それ以後 ,あ とつ ぎのない 人 .海難
串故 で流れついて きた死人 な どの無縁 仏の供 益 をしてい るのである。子供達 の踊 りの奉納 を LT=りして供盛す る。
二百十 日の厄日
この 日天 気が よ く台軌の心配がない時 は "穏当休み "と称 して段休 o氏 神様‑お礼参 りをした。
"露 陥菊 の節供 "
野菊 をつん で きて.神 秘に赤飯 を添 えて供 えT=0
‑349‑
9月15日 10月15日
10月22, 23日 lこ近 い土 ・日曜
□
秋祭 りの 翌 日 1 1
月
12月 1日
大 晦 日
月見団子
花 くらべお墓に菊の花を担 ぎ上げ て花筒 一杯 に さした.
秋祭 り
土曜 日に氏神様 の掃除 を し,神社 ののぼ りを立 てる。
EI曜 日には午後3時 よ り祭典 をは じめる。
機屋 の申 し送 り,横島渡 し (後述 )
お米 の収穫凋鮭が完 了 LTこら "にはあげ ''(もみを干 していたの でその む しろをあげる ところか らこの名 が )を行 い .牡丹餅 を近所 や町の親 戚 に も配 って神棚 に も豊作 のお礼と して供 えた.
''八 日待 ち "
この 日は,こんに ゃくを食べ て脱の中の紗 をお ろす . 亥の子のけん し ,亥の子団子 .寒の入 りの油揚 げ
お と朔 日で一日は股休 だ った。
餅 つき ,しめ孤 づ くり,すすは らい.また ,馬 日揮の枝 をか まどで燃 した。
(伐 り立 ての生の青い柴 がぱ ちぱ ちと燃 えたその昔が "ぜ に合 せ に金 ''と聞 こえることか らは適 をかついだ。
ヤクサ トリ
晩 に .いわ しに竹のfllをさして玄鵬 につけてお く。
年中行執 ま.私 た ちの生活の リズムを形成 し.それが生産 の節 であ った りす る。 それは .地域 に よ って も,生産活動の倭現 によ って も.また行 撃を担 う人間鵬旅の あ 1)方 に よって もその行 事 内容 。種源 .性格 ・意義 な ど皆興 って くるo
師楽 におけ る年中行 串 の種類 ・内容 は上にみ rこ通 りであるが .生活の変化 に よって行 われな く な った ものや ,簡易化 された ものが多 くな った。
‑つには .錦粘掛 こ塩田ができたこと.
もともと半農 半漁の村 であったのだが ,漁が で きな くな ったために .専業及 び兼菜 良家へ と転 化 してゆか ざるを得 な くな った。 これに よ って粗開床の行塀 は ,ほ とん ど行 われな くな り,十 日 戎 が残 るのみ とな った。
また ,塩 田によ り井戸の水 がでな くな ったo井戸は .使 い水や1工】ん ばの水の
干
ばつ時 に使 った りして重要な役 割 を もっていたのだが 。二つには ,生 活の変化 が あげ られよ う.
1) 19 7 5年股業セ ンサスに よれば ,総 段家数5 6戸の うち,専菜段家18戸 .凍芙出家38 戸 と.
兼
業 農家数 が増 えたo従 って,村全体 が同周期 で動いているとし七 た傾向がやや少 な くな り.個 々の生活の多忙化 とい う傾向が大 きくな った。.
‑ 350‑
2)生宿の合理化 3)食前の高級化
祭 りの楽 しみの一つには ,この 日だけは ごちそ うが食べ られ るとい うことが含まれ るの だが , 食生活の変化 によ りごちそ うになれ た とで も言 えよ う。
これ らの生酒 の変化 によ り.消失 LTr行革 もあれば ,簡易化 され た行啓 もあ る.
しか し,これ らの変化 は ,今 日のめま ぐるしい生前の変化 において は仕方 ない ことではあるま いか .その反面 ,年中行 鰐を存続 せ しめる要 因はLnTであ ろうかO
‑つには ,帥楽 が同族媒 団 であ ること。
これは
,
前章 で も述べてい るが, I9 7 8年現在 .山本姓 6 4戸 .坂 口姓3戸 ,若 林姓 (神宮 ) 1戸 .太田姓 1戸 .村君姓1戸の山本 姓の同族 でで きた部痛 であるため ,村内の卵 も分 か り.村内の結びつ き も他村 に比べ て強 い.従 って行項が や りやすいばか りでな く,その まま同族間の つ きあい とな るのであ る。
二つには ,土地柄が あげ られ よ う。
師楽 は ,牛窓 か ら峠 を一つ越 え た所 にあ る小部落 であ るがため ,今 まで他 姓の ものがほ とん ど 入 って来 なか った。
そ して敢後 に,梼匡制が あげ られ よう。 ‑
これは ,次に詳 しく考察 してい くのだが .この輪番制 の枯匿に よ って.すべての年中行 革 ・同 族祭両の準備 ・世話役が担 当 され るの であるo職者制 であるか ら.一個人の押 しつけではないか ら.皆平等 にその年中行 事 ・同族祭両 に幽 わ って くるの であ るOそ して,この師楽 においては , 年中行事 を門跡 こ行 っているのは この祐匪制 に よるのではないか と思われるの である。
(名越 俊 明 )
第 4 節
師 楽 の 自治組織自己の袋 田意思 を自主的 (こ形成 し.柴 部内の射 創苅孫 を自律的 に処理 す る機能 を もつ組 織休 . または ,その組抱 Oこれは .近代 におり る.自由 自治 .地 方 自治 な どの観念 の発達 .権力 の梁中 に対 す る分 散 とい う.民主化 の観点か ら.特 lこ性 目さtlLて いる.
村落 においては .それぞれの社 会袋 6]を累日 させ .伝統的 な炎 同作糞 や .新旧 の年間行 事 を催 している もの を更 に統合す るもの として ,村港 自治粗鞄があるO
的楽の 自治組 軌 ま.師楽 コ ミユニテ ィ推進 協議会 lこよ って,避 旨 されている O 「協法会 」の 目 的及 び殻 匿は ,区民の融和 をはか り.コ ミュニテ ィ づくりを恐匪的 に推進 し,区の繁栄 と住民福 祉の増進 をはかるためであるOこの目的 な達 成す るT:め
i こr
協議 会 」では ,以下の こ とを審親 し . 調整 す る。(1)師楽 区の コ ミュニテ ィづ くり推進計画 に関すること.(2)その他 目的運成 に必要 な串項
。
「協議 会 」の組線 は ,若干人の委Elに J:って偶成 されてい るO蚕 良は ,区役艮及 び各種団体 役且弛び【こ.これ ら役員の推 せんす る者 である。協La会 には.別に ,相聞お よび相談役 を思 くこ とがで きるよ う【こな ってい るO蚕良の 中か ら,会長 l名 .副会長若干 名の役員 を互選 す ることに な っている。会長は .協議会の会務 を総括す る 。副会長 は .会長 を補 佐 し.会長 に申故 のあ ると一351
‑
さは ,その肋 を代行 す るよ うにな っているO役員 の任期 は1年 とし,毎年4月 lFlか ら翌年3 月3 1日までである。役 員の重任 は妨 げ られず .また.役 員は任期満了後 で も.後任者 の決 まる までは,その任務 を行 な うことにな ってい るO協議会には .更 に専門委員会 を毘 くことがで き, その蚕良 は.会長 が任命 す るO専門委艮会は.会長 の命 を受 けて,協貌会の所草野項 に関 し.専 門的 な立場 か ら調丘 研究 す る ことにな ってい る。
各種 団体 の内容 を列挙 してみ ると,消 防田 .老 人 クラブ,出荷組合 ,婦人会,PTA,交通安 全協会な どが あ り.その他 に ,区後員 ,衛EE委員 ,愛 育委員 .農協 幹事 な どの蚕良 もい る。
老人 ク ラブは,その役員数 が6名 で ,会見 は60才以上の男女 に よって構成 され て. 68名余 りか らな っている。毎 月15日を定例 会の 日とし.臨時会 も若干開 かれ るよ うである。内容 は . 種 々の行革 を通 して,互 いの親睦 を深 めるとと もに .師楽 の区 としての単位の中での連得意知 を 強 めるよ うにな っている。消 防団 は,その役良 が2名 で ,組員が13名 か らな ってい る。区内の 火災時 における消火活動は もちろんの こと,区民 に対 して .消火軌 消火栓 の使用 の しかたを指 導 した りしてい るC師楽 には, 6箇所 に消火器 を設置 している。海月1日と1 5日の2回に,潤 火機械器具 の点検 と手入れ をおこない .区内の各 家庭に も火災予防 を呼びかけてい る.婦人会 は, 役良 を6名怒 き.会員 は6 3名か ら成 ってい る。これには ,殿協婦人部 .生活改善 ク ラブが含 ま
れ てい るC主 な行惑 は,年 1回定例総会 を開 き .臨時会を2‑ 3回設 け ,役 員会 を別途に月1回 開 き,そこで僅 々の意 見を交換 し合い,行革予定 を立案 した りする。婦人会 としては ,公 共料金 (例 水道料金 )の敏雄 串載 手続 きを行 ない .婦人部 としては ,生活用品 .日用 品な どの共同予 約購入 と配分 を受 け もつ。生酒改善 クラブとしては ,区内の各家庭 の家族趣 味管理 を指導 ,呼 び かけて ,岡山投薬改良普及所援助指導の もとに.料理講習 会を闘 いた りす る。他 に.教養講座 ( 月3回 )として .生花 .編物 .美容 .力付 な どの講習 を行 な ってい る。また .コ ミ1ニテ ィハ ウ スの清掃 を月1回行 な う。f'TAは ,役員 を3名 置 き.小学校父兄64名 .中学 校父兄21名の 会員がいるo主な行撃は ,社会奉仕活動 を基底 に .神社 ,区内道の酒掃 を転 日曜 日 Cとに行 な うO また .年金保険 な どの公 共料金致粂事務手続 きを受 け もっている。区内の下水溝の将滞 .薬剤散 布 (7.8,9月 )な ども行 な うoPTAには .育成会があ り,子供の甫成 と父 兄 との交流を密 に している。また.教 師 と父兄 との話 し合いの脇 を設 け.教育 に対 す る意 見の交流 と認熟 を深 め るよ うに しているo育成会 と同 じよ うな行牡tを行 なっている ものに母子 クラブがあ り,特 に幼 児 の朕 についての話 し合いな どもあるO
出荷組 合は.師楽区内の全良家 を対象 に した ものであ り,役員1 5名 をmtllいてい るO農薬経 営 全般 について ,共同 出荷 .資材共同購入 .共同耕作 な どを行 ない .弼習会 を設 けて ,全体 の農業 水準 の均等化 を計 っている。
区内の環境範僻 ,下水溝軽僻 な どの環境衛生 に姻 しては .衛生委員が うけ もっている。区の行 政 と併行 して .それ ぞれの立場 に於てボ ランテ ィア活動の推 進 ,住民福祉の充実 な どを計 るのは , 民生蚕臥 愛 育委 員が受け もっているo専門 委只会【こは, コ ミュニテ ィハ ウス管理委 民会 とコミ
‑ニ テ ィ′、ウ ス運営企画委員会 があ り.ハウス管理委 員会 は .委員10名か ら成 り.区長 .副区 長 .相談役 の他 .老人会 .婦人 会 ,大略会 ,消防団 ,PYAか ら各 1名が構成す る。ハ ウス運営
‑ 352 ‑
委員会は.委員5名か ら成 り,区長 .副区長 .相談役 で構成 されてい る。この他 .大 正元年か ら 昭和5年 の間の生 まれの男子27名か らなる大 喝会 とい うものがあるC役員 は4名 で .年 間に4
‑ 5回の話 し合い .懇親会の場 を設 け .交流 と親陸 を深 めている。
師楽 にお ける各種団体 .委良 は .その位冠的には .並 列であ って .特定 の団休が ,上位 を占 め , その扱 い も他 とは違 うとい うことはない。 したが って .おのおのが対等の立場 で自治租税 を構成 しているのであ る。
区長 は,区の長 として .これ ら務田休 をま とめているわけであ るが .それは .名目上であ って , 実際 には,区の象徴的な存在 であるか もしれri・い 。区長 は .ふつ う,協蕃会で推 せん され て決 ま
るのであるが .それが段 々 と慣習化 して きて .つ いlこは .輪番制 の ような形 とな ってい る。区長 の仕j掛 ま.区内全般の運営の仕事の相談 ,あ るいは .諸琴 の伝達堺項 が あるが ,主 には申務的 な 伝塵 の役割 をはた してい るようであ る. この ことは .区長の選 出の しかたが そ うな って きたよ う に .自治組 織の運営 も形式的 な ものにな って きてい ることを示 すであろ う. しか し.師楽 では , 前述 した協法 会の規約 の よ うに .自治規約 がある。こ11は .公会堂的機 能 を もっ コ ミュニテ ィハ ウスの建設 と同時 Iこ作 られ た ものである。区長の巌 も大切な役割 は ,区民 の人の和 をはか ること であ るが ,それは.単に区長 が心かけたTごけでは .容易 に実現 しない であ ろう。自治組抱 として . 組 株を運営 す る上に自治規約 が あることは .相互間の連帯窟熟 を保 ち,互 いの告任 と信頼 を求 め
る うえで大 きな意味があ るだ ろう。
(佐 々木 寛 )
第 6 章 近代地方 自治の成立 と展開
第
1 節
行 政 の沿革 と区域 の変遷地方自治の近代化はまず廃帝耶鼎 に よ って始 ま り,次 々と中央か ら地方 自治の展開 が図 られる O この さまざまな地方 自治政帝 の展開に対応 しなが ら牛窓町 が どの ように沿 革 してい ったか ,その 足跡を辿 ってみ よう。
現在 の牛窓町 は ,昭和2 9年 1
0月
1日に牛窓町 ,鹿忍町 ,長鮒 の 5ケ町村 が合 併 したもの であ り,この節 では廃藩 匿県 か ら昭和2 9年 の合併 までの5ケ町村 の沿革 につ いて述 べる ことと す る O図6 ‑ 1‑ 1
‑ 35 5‑
1 億瀦 匠県
版椿奉迎に よ り全国 が牧村の菅 抱下 に配 かれたが ,知新の菅槻区は 旧領時代の ままであ り ,こ の封班段橋 を改め ,近代国家の箱庭 を催.江するために明治4年 ,廃鰭 監県 が行 われた 。これによ
って倍が崩 され県が虚位 されたが .当跡 ま単に常の呼称 を廃 して県 と呼称 したのみに とどま った 。 これに よ り,牛
窓
町 を構成する旧5ケ町村 はすべて岡山県 に屈す るこ とにな った 。 (明治4年 7月 14日) 当時年寄町 は次の ような町村 に よって捕成 されていた O当時の町村名
岡山県 (12郡, 9 1町 7 1 7街村 ) 坦久那 (7 9野村 )
鹿忍村 ,牛窓村,奥津村 ,小紬村 ,大浦新 田
2 大小区制の実施
腐庸 旺県 当時の村落は ,旧箱府 時代そのままであ り,その大 きさ ・横手卸ままち立ちであ り町村 を単位 とした統 一的な行 政は困難 であ った oこのため明治4年戸簡法 が制定 され従来の町村 の
区
域 とは別の行政区Ifhjとして数簡町村 をも って 「区 」が画 され ,各区に区長 ・副区長が置かれた 。 これに よ り,年番村 (明治4年牛窓村 と大浦新田が合併 して牛窓村 となる )
第 14区7番 小区 鹿忍村 第1 4区6番 小区 輿沖村 第1 4区5番 Ij唱二 小財 寸 第 15区5番 小区
に画 されることにな った 。(明治4年 1 1
月
1 2日 )3 全 盛所の設匠
明治 7年 的山県 内に16倍所 の会 題所 を設WJlL ,これ らの大区 小区 を管轄 し .大区に区長 ・副 区長 ,小区に戸長 ・副戸長 ,各村 に保良が旺かれ ,会議所 を中心 として行政が行われる ようにな
った 。
これに よ り,年寄村 第4番会 訊所 鹿忍村 ly
異字 各 村 / /
小津村 第5番会a所
に屑す る ことにな った Oなお ,第4番会為所は 邑久耶神崎村 に ,第5番会議所は 邑久郡 土師村 に それぞれLEかれた 。
明治 初期に行 われた町村合併では分散 していた町村 を徐 々に まとめていき近代的な町村の育成 が 目指 された 。
‑ 356 ‑
(或 る‑ 1‑ 1 )
新村名 旧 村 名 施 行 年 月 日 邑久郡 /T=番 付 牛窓村 .大輔新田 明拾 4年 不 詳
4 区務所戸長役場の設田
明治10年 1 1月18日県 内の各会 議所及び,l区可事所 を魔 Lt:し,また同時に これ らのJl‡務所 に尼 かれていた区長 ・戸戊 .保艮 ・用 長等 を廉 し ,新 たに区務所及び戸長役場 を開 設 し,区各所 に区長 1人 ,戸長役掛 こ戸長2人 ,また各町村 にdg戸良が荘かれた Q
これに よ り,牛窓村
鹿忍村 )軒 5区帯所 第4戸艮役場 長浜村
/ y
第5戸 侵役場
第5区務所は尾張村に .弟 4戸長役場は咋番付に .軒 5戸嬉 役場は本荘村 にそれぞれ芯かれた 。
5 都 区町村編成法の公布 と乗施
郡区町村嗣成 法は ,同時に制定 された冊県会規則 ・地方税 規則 と共 に ,地 方行 政制度 上の三大 新法 と称せ られ ,明治時代における地方制度に 由m的進展 をもた らしたものである 。この郡 区町 村編成 法は ,府 県 内の行政区画 を郡 ・区 ・町村の三段階に分け ,明治初年 以来 の地 方制度 の欠陥
‑すなわち .地方行政の末端搬抱 として大区 ・小Ltを設 置 し ,従来 の町村 としての性格 を全 く喪 失せ しめるものであ った 。‑を是正 し ,従来の大区 ・小区を魔 止 して府県 と町村 の間 に 郎 及 び 区 (現在 の市 を指す )を旺き ,町村 を再び行政上の基礎的単位 として復活 させた 。
郡区町村編成法 の公卿 こ伴い ,岡山県 では明治 IT年 9月2 0日甲第 1 10号 「区画攻更郡区 役所位閃」をも って従来 の区画を廃 し ,各部 の名称 ・郎区役所の位 尼を定める布達 を行 い ,年番 村 ・頗忍村 ・長浜村 は邑久郡 に属 し ,各村 に戸良が 田かれた 。戸長はは じめ公選 に よるものであ
「たが ,声名の公選制度 が政府 の意志 を充分反映で きないために官選 とな った 。また ,戸長役場 の管酪地域についても大改 正が行 われ .迎合 声長役堪 制度 が実施 された 。これに よ り年寄村 .鹿 忍村 ・長尉 寸は次のよ うにな った 。
(袈 6‑ 1‑ 2 )
那 名 称 戸長役場虻田且区域
邑 久 郡 1 11 2部部 鹿年 忍寄 村村 鹿年 忍 村寄 村 1 5 # 長 浜 村 長 浜 村
町村 は郡 区町村編成法に よ り行政区 画 としての地 位が与 え られ ,住民の 自主独立の団体 と して の地位 が蕗められ ,自治体 としての性格 を有 していた 0
「J
‑35・7‑
6 市制町村制の施行 と町村 合併
明治2 1年4月 1 7日 ,わが国 における近代的地方 自治制度 の確立 を目ざす市制町村制が公布 された 。市制町村 制は明治維新以来の強い中央輿権制 を改めて隣保団結の旧tElを尊遺 し ,市町村 に 自治権 を与 え ,人民 をして地方 自治に参加 させ るとい う健全な地方 自治の発達 を図 るものであ った 。即 ち ,市制町村 制の制定の理由に 「本制 ノ趣旨 ‑自治及 分権 ノ原則 ヲ実施 It'/ トスルニ在 り」 といい .「自治区 ‑法人 トシテ財産 ヲ所有 シ之 ヲ授受売.只 シ他人 卜契約 ヲ括 ヒ権利 ヲ得義務 ヲ負 ヒ又其区域内 /、自ラ独立 シテ之 ヲ統治 スルモノナ リ」 と表現 している o
この ような地 方 自治制度 としての市制町村制 を実施す るに先立 って ,その基解 をつ くる とい う 意味 において全国 にわたる大 観損 な町村合併 が行 われた o市制町村制 は公布か ら施行 までの間 に 1年間の準備期間 がおかれ ,合併 は従来の合併 の よ うに串に経常節約 に よる住民負担の軽減 を図 る とい う消極的な合併 のみでな く ,江戸時 代か らの 自然発生的弱小町村 を合 併 して全国 的な町村 の再編成を行い, もって新制産の施行 に強 力 な地 方 自治団体 を作る とい う構想 の もとに実施 され たO明治20年3月に至 り「町村郡市区画標準薬 」ができあが り, この標準案 に基づいて各府県 の町村合併の見込みを内申 させてそれぞれの考 え方で合併の可能範 艶 を調査 した 。その結果 ,覗 治2 1年 6月15日に町村合併に関する 内務大臣訓令が発せ られる と同時に具体的 な合併処分 を 規定 した町村郡市 由感準が示 されて強力な町村合併が推進 される こととな った O
市制はお よそ人 口2万5千以上 の市符地 であ って都 と相対 して独花 自治 を営 む資力のあ る地 に 施行することを原則 とし,町村制 に伴 う町村合併は,町村が財政的に独立 自治 OL)運営に堪 えるか どうか に毛点がおかれ,お よそ3百戸か ら5百戸 までを感準 として, また,町村の習竹及び志向 を十分 尊重 し, 努めて地形民帖に沿 う配慮が なされ なが ら,町村合併 を実施 し,町村教は約5分 の1に減少 し†こ。
岡 山県 におい ては ,各部 区長 を招果 して ,市制 ・町村制 を実施す るため .各町村 の財政 ・経済
・地形 ・民情及 び旧tH等 について調香 した うえ ,独 立 自治の資力の有無 ,合併 の必要性 の有無及 びその理由につ いて内申 す るように桁示 し ,これ らの調査に盛づ いて新市町村区域画定 案 を作成 し ,さまざまな検討調鮭 を行 い ,町村合併 計画を作成 し ,明治22年 6月1日市制 ・町村制 が施 行 された 。
当時の'‑F窓村 ・鹿超村 ・長浜村 における新町村編成理 由は次 の通 りである 。① (表占‑ 1 ‑ 5 )
町 村 名 新 町 村 編 成 理 由
鹿 忍 村 本村 ′、人 口数 多地盤 広大又随 テ資力充分ナ レ‑将来独 立 自治 ニ差支 ヘナキ ヲ倍 ス
年 寄 村 同 上
長 浜 村 本村 ‑地車戸数梢 多数 ナ リトスルモ己住 ノ事 実 ニ基 キ将来 ノfl力 ヲ検 スル ニ多少不充分 ノ感 ナ千 二非 ス ト碓 モ他 二合併 スへキ村 モナ ク交通及 民情 二 於 テモ合併 ソ得 へ キモ ノナキニ ヨ T)地形 上独 立 ノ己 ムヲ得 サルモ ノナ リ尚
ー358‑
鹿忍村 ・牛穿村 ・長浜村 の 5村 とも従来 の区域 をその まま継続 し ,行政区 廟の変革はない o市制 町村制の施行 当時 の 5村 の規模は次 の ようである 。⑧
(表
占‑ 11 4 )町村 名 閃 く剃
加
軌 宅地畝)
山榊別 席研削 豊他孟 軌 ^ 口UJ 戸数¢司 村 貿冊 鹿忍村 88.2占 171.T5 17.72 21d.47 5.51 占5.62 2.ム24 ム1占 857 牛窓村 55.29 142.07 19.占7 204.84 0.44 29.25 5.70占 754 1,158参考 までに町村合併の結果は次のよ うである 。従来の 1区6 8町 (r剛山区 を除 く )1,占 9 1村 は, 6 5町1,2 40村 が減少 して1市 5町4 5 1付 とな った oその うち28村は従来の区域 をそ のまま とし ,うち55村が新たに町村 組合を,n疎 ,Lて2つの町村組合 が凝生 した0
7 市制町村 制以後の沿革
市制町村制 以後 も町村 合併は戟 多 くの合併 ・分離が行われたが ,大勢 としては町村 の規模は拡 大 され ,町村数は減少 してい ったo岡 山県における町村合併状況は 一市制町村制 の実施 直後か ら の10年間は大合併 後の鮭理畑 とみ られ ,合併が 蚊 も活発化 したのは明治5 2年 か ら4 1年 にい たる10年 間 であ った O(江 1 ) その後明治 4 1年 か ら大正12年4月郡制廃 止に ともない町 村 の自治格は ます ます拡蛸 され ,自治能力の ‑IEZの強化が必要 とな り,再び町村 の規模の適正化 が図 られ ,町村合併が再び活発化 された oこの中に あ って牛窓村 は明治2 9年2月2 6日町 制 を 施行 し,牛窓町 とな った 。次 いで ,大正15年4月1日慮忍村 が町制 を施行 し,鹿忍町 とな った 。 良浜村では ,明治5 6年1月岡山市西 田町 軌 山若三郎が長浜湾干拓 を計画 し ,明治4 0年2月1
5日県知 事の許可 を得 て ,同年 4月1 2日
過
て し ,救国にわたる台姐 ,そして丘菜者の死亡によ り工加 は難行 したが ,大正 8年 11月2 7日大 事堀眉汐 止の二E事が完成 し,これに よ って大正 1 5年5月1日 ,この長浜油埋立地
1.04kJの痴 人が行われた 。 (図6‑ 1‑ 1参願 )5ケ町村の歴代の町村 長は次のinりである
Q③
(衷 ムー 1‑ 5 )牛 窓 町 (明治2 9年2月2AEl 町 制施行 )
初代 横 山 義 酢 明HEn.2 2. 7 .2 7‑明治2 4. 5 .2 4 2‑ 5代 ・岡 江 秀 明 明治2 4. 5 .2 5‑ 明治5 6. 8. 7 占〜 9代 香 川 第 ‑ 明治まムt 9 . 5‑大 正 8 . 5. 1占 10 .1 1代 相 沢 研二郎 大TE d. 10. 2‑大正 14 . 10. 1 12‑ 14代 小 備 広 神 大正ー5. 5. 18‑昭和 10 . ll.5 0 15‑ 17代 商 的 促 成 同和1 1. 8. 1‑昭和2 1 . ll.5 0 18代 万 煩 実 太 昭和2 2. 4. 5‑昭和28. 5.5 0
‑359‑
鹿 忍 町 (大 正 1
5年
4月
1日 町制施行 )初〜 5代 馬 場 保太郎 明治2 2
.
7 .2 7‑明治55.
4‑
8 4代 額 田 梅 次 明拾 5 4.
2 . 19‑明治5 4.
8 . 1占 5代 菊 山 ,Lf. 吹 明治5 4.
9 . 15‑明治5占.
9 .2 0 ム〜 9代 馬 場 保太郎 明治58,
4.
7‑大正 9 .占
.2 7 10 .11代 鶴 野 庵 治 大正10.
1 . 14‑昭和5.
4 . 18 12代 尾 上 米 拾 昭和 5.
9 . 8‑昭和 7 . 9.
7 15代 為 房 榊 太郎 昭和
7 . 12.
1‑昭和 1 1. ll
. 5 0 14 .15代 寺 尾 寅 太 昭和 12. 占.
7‑ 昭和1 7.
5 .5 1 1占代 長 尾 広 太郎 昭和17 . 10 .2 5‑昭和 19 . 10 . 10 17代 為 房 寛 大 昭和 19 . ll.
2‑昭和2 1. ll
. 12長 浜 村
初代 繁 見 虎 蔵 明治2 2
.
7.2 7‑明治2 5 . 10 ‑5 0 2代 小 杯 三津造 明治2 5 . ll
. l l‑ 明治2 7.
5 . 2 7 5代 山 本 吾 平 明治2 7.
4.
4‑明治2 7. 占
.2 5 4代 林 業商機 明治2 7.
7 . 7‑明治5 1 . 7 . 占 5‑ 9代 木 村 薯八郎 明治5 1.
7 . 7‑大正 7.
7.
a 10‑ 1占代 小 林 寿 太 大正 7.
7 . 15‑ 昭和2 0.
2.
9 17代 神 宝 燥 太 昭和2 0.
2 . 12‑昭和2 1. ll
. 2 5 18代 岡 部 市 有 昭和2 1 . ll
.2 占〜昭和2 2.
4.
4 19 .2 0代 野 口 佐瀞 太 昭和2 2.
4.
5‑昭和2 9 .9
.5 0 各町村 の合併 前の 規模 は 次 の通 りである 。(表
8‑ 1 ‑ 6 )年 寄 町 鹿 忍 町 ・泣 顔 村
戸 数 1.4 75世 相 74 2世 帯 4 5 1世 相 占.占 7 9一人 5,5 92 人 2,5 4 7人
区 面 槌 9.1平 方粁 8.1平 方粁 6.5平 方 粁
鹿 西 51 5.2 粁 2.5 粁
南 北 5.0 粁 5.1 粁 4,0 粁
也 宅田
地
畑 2.5平 方粁0.5 /I 2.8平 方 粁0.2〃
2.0平 方粁0.1〃
目 山 林 1.9 〃 1.5 〃 0,5
/ y
‑ 360 ‑
(昭 和25年国勢調査 ) 8 職 後 の地 方 自治法
戦後 ,町村 規膜 の適TE化が叫 ばれ る よ うに な り 一節和 2 2年 地 方 自治 法が 改正 され ,地 方 自治 の 内容は 両胡的に 充実 し
,
「自治 の塊 化」
「財政 力の拡充 」 を図 るため ,町 村 合 併が 促進 され て い った 。これ に よ り ,昭和2 9年 10月1日牛 者町 ・魔忍町 ・良浜村 の5ケ町村 が合 併 し ,現 在 の牛窓町 が発 足 した。(三垣良子 )
参考 資料( ∋ 剛
=県 市町村 合 併話 (総 鮎 )② 〃
(丑 岡 山郡治R!(上 )
第 2
節 地 方 行 政 と財 政 1 明治 ・大正期明 治 ・大正期の牛 窓 ,鹿忍 ,長浜 の財 政
ここでは ,旧牛窓町 役助 お よび 旧鹿忍町 役 場に保存 され て いた執事録 を も とに ,それぞれ の明 治 ・大 LE期 における財政の状況 をみ てみ たい 。
(1)牛窓町 (明治2 9年町 制 施行 ) ̀
明治期の.記録 では ,明拾 5占年 よ りも前 の ものは見 つか らな か った 。明治 5 7年 の 「歳 入出相 好惣計衷 」に よる と ,決 抑 まつぎの とお F)であ った 亡.
去 る 21 1 (決 算 単 位 :円 )
使 用 料 及 手 数 料 2 9
雑 収 入 55
前 年 度 繰 越 金 4
県 税 補 助 金 15 占
寄 付 金 ‑
交 付 金 155
基 本 財 産 受 入 金 1.70
0
町 税税 55,4 1,4 177
役 場 禦 5,4 8 1
全 曲 貿 18
土
木 費 ‑教 育 PZ 1.8 9 1
衛 生 蟹 19
救 助 甥 ‑
瞥 催 貿 15
勧 薬 焚 1
町 公 al 出 8 0 2
雑 支 出 2 0 5
並 木 財 産 費 4 2 7
予 備 貿 ‑
経
簡
判 合計
占,680役 場 坪 1 2 4
衛 生 .22 6 4 8
臨 時 便 合 計 7 7 5
大正 朋では ,大正2年 か ら1 1年 までの 記録 が ある 。歳 入では 「財産 ヨ リ生 スル収 入」 「雇 用 料手 数料
」
r交付金」
「軸 筋金l
「県税 補助金」
「寄付金」
「繰越金J
「触 収 入」
「町 税」
「奨励金 」 ,歳出では 「役 場
懲 」
「会 議費」
「上木費」
「小学校群J
「幼 稚風貿 」
「女学校焚 」
「伝 奴病 予防' BJ
「隔 離病舎貿 」
「基 地貿 j
「勧薬 諸費」
「救助費」
「瞥僻地 」
「財産㌍ 」
「課税 及 負担」
「地 方改良や 」
「観 支 出」
「予 備焚
」 (以上 .経常 部 ),
「役場資 」
「土木費」「
な位此
「補 助
L L 2 」
「基 本 財産造成i 2 」 「 植林 世 」
「伝 取柄 予防賛 」
「雑 支出 」等 (以 上 ,舷 暗 部 )と , 内訳は 多項 目に わた ってい る 。大 正2年 か ら1 1年 までの歳 入 ・歳出 の合計 顎 の一兎 は 次 の よ う であ る 。表占‑ 2‑ 2 (決罪 単 位 :円 )
大 正 歳 入 合 計 歳 出 合 計 経 常 部 合 計 臨 時 部 合 計 2 1占,19 5 14,4 9 8 7,占 41 6,8 5 7
5 14,2 0 7 14,010 7.4 5 0 6,5 8 0
4 14ー10 5 15,占 8 5 7,5 4 0 ムー:3 4 2 5 14,2 0 0 15,2 2 4 8,5 9 4 4,8 5 0
占 15,8 4 0 15.4 8 5 8,4 7 9 5,o o d
7 21,d 7 2 2 0.914 15,141 5,7 7 2 8 5 7.15 4 2 8,8 9 9 17,515 ll.5 8 5 9 4 9.2 占 9 4 5,5 占 5 2 5,8 0 2 19.7 8 5 10 4 占.4 6 5 5 9,4 8 8 5 2.14 0 7,5 4 9 l l 5 0.5 18 4 2,910 5 7;7 7 7 5,15 5
表 をみ る と ,大正7年 を現 に して ,合 計緬は上 昇傾 向を示 してい る 。大正7年 をみ てみ る と , 歳入では
.
「寄付金 」が 前年 1 6 4円 か ら8 0占円 に,
「納付金 」が4 1占円 か ら8 45円 に,
歳 出では
,
「小 学校焚
」が4,5 0 9円か ら5,5 4 9円に 「勧業 諸費」 が58円 か ら5 0 4円 .「
救 助班 」が5 7円 か ら2 5 1円 に ,それぞ れ 酌 加 してい るの が 目だっ .また ,歳 出で 「役場 班 」 が大止 6年 の2,9 5 8円 が大 正7年 には, 5.5 8 7円 に ,そ して4.5 占5円 (同 8年 ),占,1 2
2円 (斥1]9年 ),8・589円 (Er‑JIO年 ) ,9,12 9円 (同1 1年 )と州加 してい るの も目だ っ O (2) 鹿忍村 (明治2 2年 村 制施行 ,大 正15年 町 制 施行 )
1362‑
応 も古い記録 と しては ,明 治52年 の予抑 こ関 す るものがあ る O
表 6‑ 2 ‑ 5 (ラ.許 単位 :円 )
歳 入 歳 出
使 用 料 1 5 役 場
班
1,0 2 4雑 収 入 12 4 会 議 貿 14
前 年 度 繰 越 金 ‑ 上 木 費 1 5 2
地 方 税 補 助 金
‑
教 育 費 6 8 6交 件 金 2 0 麻 生 eE 8 0
村 税 2,7 7 5 救 助 摺 6
村 In ‑
℡
備軟
9 1勧 業 費 2 5
諸 税 及 負 担 5 5 7
村 基 本 財 産 280
揮 偉 部 合 計 2,9 12
土 木
坪
‑衛 生 摂 2 0
随 時 部 合 計 2 0
故人 の 「雑 収 入」 をみ る と
,
「円小学校授某科 1 2 0.0 0 0 占銭× 2 0 0人」 ,歳 出の 「教 育銀
」には,r
TJ日額給料 月搾 14円1人, 1 0円1人, 8円1人」 とい う記鉛 が あるが興味深い。
大正 期 では歳 入 ・歳出合 計は次 の とお りで あるl。.
袈 6‑ 2‑ 4 (決許 単 位 :円 )
大 正 歳 入 合 計 織 tLJ.合 計 経 常 部 合 計 臨 時 部 合 計
5 9,5 5 1 9,1 0 ム 6,6 4 5 2,4 8 5
4 9.5 5 8 9.9 0
1
8,5 8 7 2,8 7 95 9.4 2 8 9,Ll2 8 8,8 7 8 2,7 5 5
1 2 2 4ー8 8 4 2 2,6 9一 1 8,5 5 0 8,5 8 5 15 2 2.9 0 7 2 2,1 0 さ 17,6 0 8 4,4 9 5
歳入 での 「村 税」 が .7.0 6 0円 (大 正5年 )か ら16,2 6 1円 (大 正15年 ),歳 出面での
「教 育普」 が, 5,5 1 1円 (同年 )か ら9,1 48円 (同年 )と増加 しているのが 目だ つ 。 (3) 長廃村 (明治2 2年村制施行 )
屋 浜村 では .明治 30年以降の記録 が攻 1ている D
;LnL631
表
6
‑ 2‑ 5(決弊 単位 . ・円 )
明 治 歳 入 合 計 歳 出 合 計 経 常 部 合 計 臨 時 部 合 計5 0 1.5 15 1.2 0 1 ‑ ‑
5 1 1,15 6 9 0 4 ‑ ‑
5 2 1,7 9 0 9 95 ‑ ‑
5 5 2,6 2 1 2,6 14 1,2 2 4 1.590
5 4 4.4 5 5 4.5 占 1 ‑ ‑
5 5 2,9 79 2,6 9 0 ‑ ‑
4 2 5,6 0 8 5.04 0 ‑ ‑
4 5 5,1 15 2,4 8 8 2,45 8 5 0
44 7,0 09 6,5 0 7 2,54 7 5,9 d D
盤 をみる と ,明治5 4年 の合計怒Iが特に増加 しているが ,この年 には学校 を建 てた らしく ,歳 出に 「校舎鯉#'L守2.29 6(門 )」 とあ る 。そ して ,その賢金 には 「部 費補助金」 (1,560円 ) があてがわれた らしい 。
また .明治4 4年 をみ ると ,歳出に 「教事物 田瓦茸 九捨坪 一棟 建築鎖 5,8 4 0 (円
)
」 と あ り ,これ には 「村 公仏 2,4 0D円」
「笥村 金645円 (前年2 5D円 )」等 が使 われた ら しい O次に ,大正期における歳入 ・歳出合計はつぎのとお りで ある。
表占‑ 2一 占
(決許 単位 :円 )
大 正 歳 入 合 計 歳 出 合 計 経 常 部 合 計 臨 時 部 合 計 5 6,178 5,6 6 5 5,2 12 1.5 70
4 5,5 5 0 4,7 0 5 5,5 8 2 1,12 5
5 4.85 0 4,8 5 2 4.0 78 7 7 4
12 17,48 8 16.0 75 12,09 2 5,9 8 1 15 20.8 9 5 19.7 占 5 15,2 7 7 6,48 8
以上 ,概略的な考察であるが ,明治 ・大正期の財政状況 の一端 を示 した o
(山本明雄 )
2 昭和 初期 か ら合併前の町 財政 (1)昭和初期
大正末期か ら昭和 の初期はわが国 の政党政治が位も華かに展開 され ,民 主 主義思潮
が
高揚 した 時代でもあ った 。この ような時代 の風潮 を反映 して ,住民に対 する福祉行政 を担 当する地方財政 は大幅な伸び を示 し ,昭和5年度 には地方財政の規模は ,国 庫 財政の規模 を上回 るに至 った 。昭 和 初期における地 方財政上の垣 も大 きなで きごとは ,土地に かかる税 負超 の軽減 と地 方財源の充‑364‑
実 を目的 とする地租及び営菜 収益税 の地 方 ‑の移 怨問題である 。この両税 の地方移譲 の問題 は , 大正年間 か らすでにFMは され ていたが ,昭和 5年 田中棚 削こよ ってその大網 が決定 された o(こ) の大網 の骨子は ,新 たに地 方財源 となるべき他 称 ま市町村 税 と し ,営業掛 ま府県 税 とす るこ と , 地租 の課税腰準 を賃培価格 とし,営某税の課税節率 を純益 とす ること等 である 。) しか し,この 要綱に基づ いて立案 された税制盤 理案は両税移設後の国庫財政の減収 をいかにするか とい う点で , 反対意見が強 く実現 しなか った 。
19 2 9年 ,7 メ.)カにnLを発 した経済不況の波は ,日本に も押 しよせ ,税収入 の不振 な どの ため地方団体の財政は苦 しく窮迫 した oこのよ うな腿村 ・漁村 の財政窮乏 を救済す るために ,秩 源委譲 ではな く直接国雄金 を交付 する方法 が検討 された 。しか し ,これも実現 に いた らなか った 。 こ うしている うちに ,ますます脚 寸漁村 の財政はひ っ迫 してい った Oついに政府 は ,昭和 1 1年 度 よ り ,応急的に財政窮 乏の著 しい町村 に対 し,2.0 00万 円の臨時町村 財政祁給金 を支出す る こととした 。この臨時町村 財政補給金 は ,町村 のみ を対象 とする ものであ り .財政窮乏 し町村税 の負姐過 毘なる町村 ,その他財政貧困な町村に対 して交付 され ,使途 につい ては原則 として過重 なる税負担 の軽減に当てることとな っていた。年宮 ・鹿忍の両町 とも ,この臨時 の補給金 を受 け た とい う記録はみ えな い。
この臨時町村財政 捕給金 は ,昭和 12年度には名称 を臨時地 方財政補給金 と改め られ ,交付対 象も地方団休全般に拡げ られ ,金額 も1位円に増敬 された 。この制度 は ,その後金額 を増額 され なが ら昭和1 4年度 まで続け られた 。この鹿時地 方財政補給金 は ,牛窟町 ,鹿忍町 でもみ る こと ができる 。
表6‑ 2‑ 7 牛忍町 .鹿眉町 両町 における臨時地方財政補給金
牛 懲 町 割 合 鹿 忍 町 割 合
昭和 12年度 祁 給 金 8,154.80fI]) ll.9
0 9
4,52800円) 10.4圃 歳入総衝 68,795.95 45,55&.51昭和 15年度 補 賠 金蔵人総領 71ー0.315,.SDI.00B2 14.5 /
. ‑.‑
昭和 14年度 祁 給 金 9.7占?.00 9.8 5,516.00 18.1 牛等町快
刀 : 樹扱
鹿 港
町議事録 昭和12年度,15年度 よ り作成 上の表 にみ られるように ,柿給金は歳 入総顎 の約18‑ 15%を占めている 。(2) 昭和15年の税制改正
日華事 変以来 ,観局の拡大に応 じて ,国税収入を増加す るため ,政府 は昭和 15年 中央地 方を 通ず る画期的な税制改革を断行 した 。その際 .政府 はflliも伸張力 のある所得税 と法人税の所得課 税 を国が独 占する とい う建 前で ,地方税制に次のよ うな改革 を加 えた 。
① 地 方税体系 を ,国の地租 ・家屋税及び営業税の附加税 を中軸 とする物税 本位に改 める 0
‑365 ‑
②国で徴収す る地租 ・潔屋税及 び営業税の 一部 を ,徴収地道府県 に還付 す る還附税制度 を設 ける 。
③新たに ,市町村 の独立税 と して11了町村税 を設 ける 。
④HTT得税 ・法人税 ・入場税及び遊興飲食税 の一部を配付税 と して ,道府蚊 と市町村 ‑配付 す る
。
この税制改正 を実際 に表に よって表 わ してみた いと思 う 。 表6‑ 218
昭 和
1 4 年 度昭 和
1 5 年 度歳 入 項 目 金 簡 円) 割合 傍)
歳
入 項 目 金 額 fI]) 割合 傍財 産 ヨルJJiスル収入 2.299.14 2.8 .町 税 22.779.20 22.7 使 用 料 及 び手数 料 10.181,50 12.6 10.占52.80 10,8 交 付 金 5.778.15 4.7 4,696.41 4.7 国 雄 捕 給 金 9.769.00 12.0 a,206.44 8.2 国 印 下 渡 金 5,078.24 占,5 1,245.55 1.2 国 雄 補 助 金 1,022.51 1.5 地 方 分 与 税 10.166.00 10.2 県 補 助 金 7.214.06 89 財産 ヨリ生 スル収入 2,608.86 2.6
寄 付 金 2.942.24 5,占 使 用 料 及 び手 数料 2117155.1.405.,705.,58占942.552...2781986450 22.151751.,4..4507 町 税 27.595.21 55.9
交
付 金そ の 他 ll.251.55 1ま 9 蛇国寄そ 醸補付補の 助助 金金金
他
計
80.929.40 loo,0 計 loo,057.43 100.0 これ は ,牛窓町 の 14年度 と15年度 の歳入項 目の比較である 。まず 目につ くことは ,税 収入の 体 系が変化 していることである 。町 税は ,
①同税附加税 ‑ 地租附加税 ,営業税附加税 ,家屋附 加税 など 。
L21恥税附加税 ・・・自動車税附 加税 ,岨柾税附 加税 ,段別税附加税 ,船舶 税附加税 な どO
③独
立
税 ・・.市町村 民臥 自伽 巨税 .荷虚税 ,扇風機税 .犬税 な どOに よ って ,構成 され ている 。
また .地 方分 与税は .還付税 と配付税 か らなるが ,還付税は道府県 に分与 された ものなので ,こ こでは市町村 に分 J=jされた配付税 について述 べる .配付 晩は ,国税 の一定割合の箱 を道府県及 び 市町村 に分与す るものであ り,その 一半は潔税力に逆比例 的に ,一半は 財政相要に比例的に分与 されたもので ある 。牛怒町 ・此忍町 にお ける地 方分年税 とい うのは ,配付税 であることは凝 いな い
。
改Zrl後の歳入を見てみ ると ,改革 抑 こ比較的大きな割合 を占 めていた国 雄補給金 や国 雄下汲金 が な くな ったが ・それに代わ って国 税附加税や地 方分 与税 な どが大 きな ウ lイ トを占めている 。
‑366‑