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市有形文化財 書跡 いい の はちまんぐうれんちょうのさんならびにじょ 平成十六年四月二十八日 一巻 いわき市平字八幡小路 飯野八幡宮簾 帳 賛 并 序 飯野八幡宮 三二六 横 四七九九 江戸時代延宝六年 一六七八 縦 これは 磐城平藩内藤家家臣の川名勘助が葛山為篤に書き記 させた巻物である 川名は

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市指定有形文化財(書跡) いい はち まん ぐう しゃ     一巻 指   定   平成十六年四月二十八日 所在地   いわき市平字八幡小路 所有者   飯野八幡宮 江戸時代・延宝五年 (一六七七) 縦   三四・八㎝、全長   六五二・九㎝ 飯 野 八 幡 宮 射 具 記 は、 延 宝 五 年 ( 一 六 七 七 ) に 飯 野 八 幡 宮 の 例 祭に合わせ、磐城平藩・内藤義概の家臣である小島十郎左衛門 が 兵 法 の 故 実 に 則 っ た 射 具 ( 弓 術 の 用 具 ) 八 種 を 作 成 し 奉 納 す る に あ た り、 そ の 次 第 を 内 藤 家 の 儒 臣・ 葛 山 頤 篤 軒 ( 為 篤 ) に 記 述 させ、共に八幡宮へ納めたものである。 巻子装であり、表紙は牡丹唐草の金襴、紫の緒が付き、 題 だい 簽 せん は無い。見返しは金無地、軸題は金銅装、軸端は 魚 な 々 な 子 こ 地に蓮 華文が刻されるといった丁寧な装丁となっている。そして、天 地に金泥で界線を引いた鳥の子紙の本紙には、謹直な筆致で中 国の古典や日本の古伝を引きつつ、射具奉納の趣意を漢文調で 表し、 それに続いて小島を始めとして発起人、 資金の協力者 (い ず れ も 上 級 家 臣 と 思 わ れ る ) 合 わ せ て 七 十 九 名 の 姓 名 が 実 名 付 き で 連記されており、この奉納の厳粛さを示すように格調の高い一 巻となっている。 筆者の葛山為篤は、生没年等不明な点も多いが武田家の遺臣 と考えられ、内藤忠興、義概に仕えて磐城地方初の地誌『磐城 風 土 記 』 や 歌 集『 続 類 題 和 歌 集 』『 左 京 大 夫 義 泰 家 集 』 を 編 纂 するなど、文雅の才を大いに現した。本巻は、その為篤の書跡 であるのみならず、磐城平藩・内藤家時代の文化の豊かさを示 すものとして貴重なものであり、内藤家の上級家臣団を研究す る上でも重要な史料である。 なお、筆者である葛山為篤は、これまで「ためあつ」と通読 されてきたが、本巻の記名等により「いとく」と読まれるべき であることが判明した。

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市指定有形文化財(書跡) いい はち まん ぐう れん ちょう のさん ならびに じょ     一巻 指   定   平成十六年四月二十八日 所在地   いわき市平字八幡小路 所有者   飯野八幡宮 江戸時代・延宝六年 (一六七八) 縦   三二・六㎝、横   四七九・九㎝ これは、磐城平藩内藤家家臣の川名勘助が葛山為篤に書き記 させた巻物である。 川名は江戸詰を終えて役を退いたのを機に、朋輩数名と語ら い飯野八幡宮に奉納する 簾 れん 箔 はく を調製した。その後、この呼びか け に 漏 れ た 者 た ち の 強 い 要 望 で、 さ ら に 帳 ちょう 帷 い の 調 製 を 計 画 し 奉納した。川名は、この次第の記述を葛山為篤に依頼し、葛山 は そ の 意 を「 賛 并 序 」 と し て 延 宝 六 年 ( 一 六 七 八 ) 正 月 に 書 き 記 すとともに、奉納に携わった七〇名以上の家臣および藩に関わ る者たちの名前をも記した。 この「賛并序」によって、藩主や上級家臣が単独あるいは少 人数で行なう奉納とは異なる、七〇名以上の中級家臣らが衆力 を も っ て し た 奉 納 の 様 子 が わ か る。 ま た、 延 宝 二 年 ( 一 六 七 四 ) に 飯 野 八 幡 宮 は 藩 も 大 き く 関 わ っ て 大 改 修 を 行 な っ て い る が、 それに続いた家臣らの奉納の一環を知ることができる。 なお、簾箔とはすだれのことで、帳帷とはものを遮って見え なくする布のことである。 筆者名は資料中に「為篤軒葛山信聚」と記されている。磐城 平藩の儒学者で、 寛文十年 (一六七〇) 、藩主内藤忠興の時代に 『磐 城風土記』を 編 へん 纂 さん した人物である。 磐城平藩の中級家臣および藩に関わる者たちの名前が列記さ れていることも、ほかに類品を見ることがなく、内藤家時代の 藩政資料としても貴重なものである。

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市指定有形文化財(書跡) はん にゃ みっ しん ぎょう ( 般 はん 若 にゃ 心 しん 経 ぎょう )    三巻 指   定   平成十七年四月二十七日 所在地   いわき市四倉町薬王寺字塙 所有者   薬 王 寺 中世 中世から近世にかけての薬王寺は、関東から東北にまたがる 地域において、真言宗新義派の談義所として隆盛をみた寺院で あった。京都の事相本寺である醍醐寺の僧侶たちが、中世から 近世初期にかけて度々訪れており、薬王寺を拠点として各地へ 布教していたため、薬王寺には京都から請来した教典が多く伝 えられたのである。そのような歴史的な流れを経て、この摩訶 般 若 波 羅 蜜 多 心 経 ( 般 若 心 経 ) 三 巻 が 薬 王 寺 に 存 在 し て い る も の と思われる。これらは漆塗りの木箱に収められ、保存の状態は 一部に破損があるものの、比較的良好であると言える。 軸装された一巻は、 藍で染めた紺紙に銀泥で罫線 (界) を引き、 厚い金字で鮮やかに経文が書写されている。もう一巻の軸装さ れた般若心経は、 黄 き 檗 はだ 染 ぞめ の 黄 こう 紙 し に墨で罫線を引き、墨で丁寧に 経文が写されている。軸木のない一巻も、同様に黄檗染の黄紙 に墨で罫線を引き、文字は墨で端正に書写され、経文の末尾に は功徳が付されている。これら三巻の般若心経は、中世に写さ れたものと考えられている。 天 文 九 年 ( 一 五 四 〇 ) 六 月 十 七 日 に 後 奈 良 天 皇 が 全 国 の 悪 疫 流 行 終 息 を 祈 念 す る た め 醍 醐 寺 の 三 宝 院 義 ぎ 堯 ぎょう に 祈 禱 せ し め た。 その際に、天皇は般若心経を自ら写して諸国一宮に奉納し、そ の う ち の 一 巻 が 醍 醐 寺 の 僧 侶 に よ っ て 薬 王 寺 に 贈 ら れ て お り、 それがこの紺紙金泥経である可能性が指摘されている。 軸装された巻の軸付紙には、薬王寺住僧であった正誉が寛文 三 年 ( 一 六 六 三 ) 二 月 七 日 に 般 若 心 経 の 軸 装 を 直 し た こ と が 記 さ れている 。

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市指定有形文化財(書跡) しょう ぼん しゃ きょう かがみ     一巻 指   定   平成十七年四月二十七日 所在地   いわき市四倉町薬王寺字塙 所有者   薬 王 寺 寛文三年 (一六六三) 手鑑とは、 筆跡鑑定のため経巻や歌集、手紙などを巻子本や 冊子本から一部を切り取って蒐集して厚手の台紙である帖に貼 ったもので、一定の方針のもとに編纂されたものをいう。おそ くとも室町時代の末から作られ、 豊臣政権の頃より盛んとなり、 江戸時代に入るとますます多く作られるようになった。 こ の 手 鑑 は、 薬 王 寺 十 六 世 の 堅 雄 ( 字 は 正 誉 ) が 寛 文 三 年 ( 一 六 六 三 ) に 古 筆 を 集 め 一 巻 に ま と め、 軸 装 に し た こ と が 奥 書 か ら 確認できる。聖武天皇、光明皇后と続く通常の手鑑の編纂と異 なり、 本手鑑は真言宗の宗祖弘法大師を初めに、 次に光明皇后、 藤 原 魚 うお 名 な と し、 薬 王 寺 の 事 相 本 山 に 当 た る 醍 醐 寺 の 開 山 聖 しょう 宝 ぼう と続いている。さらに薬王寺が属する新義真言宗の祖 覚 かく 鑁 ばん の筆 跡も見受けられる他に、平安時代の真言宗の 観 かん 賢 げん や、鎌倉時代 の 華 厳 宗 の 明 みょう 恵 え な ど の 高 僧 の 筆 跡 も み ら れ る。 以 上 の よ う な 真言宗の僧の古筆を主とした他に、江戸や京都より遠く離れた 磐城の薬王寺の僧自身によって作られたことが特徴として挙げ られる。 このような事例は県内では他に見られないと思われる。 この手鑑が作られ、伝えられた薬王寺は中世から近世にかけ て、新義真言宗の関東から東方に跨る地域での談議所として栄 えた寺院であり、京都の醍醐寺からも度々僧侶が訪れ、同寺を 中心に各地に布教している。これらの事から同寺には京都から の経典類が伝来し、そうした影響のもと手鑑が作成されたと思 われる。

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市指定有形文化財(典籍) にょ らい ぞう てん せき     一四一冊 指   定   平成七年四月二十八日 所在地   いわき市平山崎字矢ノ目 所有者   如 来 寺 如 来 寺 は 浄 土 宗 名 越 派 三 代・ 良 山 上 人 妙 観 ( 一 二 九 二 ~ 一 三 六 一 ) に よ っ て、 鎌 倉 末 期 な い し 南 北 朝 初 頭 に 開 山 さ れ た。 浄 土 宗名越派とは、浄土宗の開祖・法然上人の孫弟子にあたる良忠 上人の門弟・良弁上人尊観が開いた一派で、一念業成を基本と し、さらに尊観の門人良慶上人明心が、三心具不生を付け加え て教義とする派である。良山の磐城布教により東北・北関東に 広まり、北はアイヌ民族、南は琉球王国へと幅広く教線が伸び ていった。寺院数は五百ヶ寺を越え、如来寺はその派の原点の 寺院であった。 如 来 寺 に お い て 良 山 は 、 名 越 派 の 基 本 教 義 に 基 づ く 多 く の 著 作 を な し た 。『 浄 土 初 学 抄 題 額 集 』・ 『 開 題 考 文 抄 』・ 『 果 分 述 伝 集 』・ 『 果 分 考 文 抄 助 証 』・ 『 初 心 示 大 端 』・ 『 四 部 口 筆 』・ 『 選 擇 口 筆 』・ 『 開 題 考 文 抄 口 筆 』・ 『 阿 弥 陀 仏 十 抄 成 仏 事 』・ 『 明 中 抄 』・ 『 師 恩 報 謝 論 議 事 』・ 『 弥 陀 授 記 事 』 な ど が 主 な 著 作 で あ る 。 こ う し た 著 作 の ほ か 、 宗 祖 ・ 法 然 や 良 忠 ・ 良 弁 な ど の 先 師 の 著 作 を 加 え て 「 月 形 函 」 に 秘 蔵 さ れ て き た の が 如 来 寺 典 籍 の 基 本 で あ る 。 残念なことに著者の自筆本ではなく、すべて室町時代初頭か ら江戸時代初期に至る三百年間の写本である。 しかし、写本といっても内容はもちろんのこと、重要なのは その奥書である。例えば『開題考文抄』の場合「干時応永五年 戌 寅 一 三 九 八 ) 七 月 十 九 日 小 楢 葉 村 折 木 談 所 之 書、 筆 者 通 慶 覚 天 之 生 年 卅 五 才 」 と あ り 折 木 の 地 名 が 見 え る。 他 に、 文 明 十 年 ( 一 四 七 八 ) よ り 数 年 間 に 渡 り 多 数 の 書 を 写 本 し た 良 寿、 如 来 寺 の良懿・良璋、専称寺の良拾、圓通寺の良順、沖縄へ渡った良 定上人の自筆本もかなり多く、県内では他に見られない中世期 の写本群である。

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市指定有形文化財(典籍) えん 寿 じゅ ほう ろく     上・下二巻 指   定   平成七年四月二十八日 所在地   いわき市四倉町薬王寺字塙 所有者   薬 王 寺 延 寿 護 法 録 と は、 延 寿 山 教 王 院 薬 王 寺 と 称 す る 寺 の 中 ちゅう 興 こう 以 来の 住持達が真言密教の教えをまもり、いかにして広く伝えて いったかを記した歴史書である。したがって、題名そのものも 山号の延寿山の延寿であり、護法とは法を守ることである。そ の 法 と は 仕 方・ 方 法 で あ り、 薬 王 寺 ( 延 寿 山 ) の 真 言 密 教 の 教 え の仕方・方法を正しく守り伝えたかを書き留めるという意味で ある。 本 書 は 後 こう 叙 じょ に よ っ て 薬 王 寺 二 十 二 世 圓 胤 (?~ 一 七 四 一 ) に よ っ て 享 保 十 四 年 ( 一 七 二 九 ) に 稿 が 完 成 し た こ と が 知 ら れ る。 内 容はまず筆者の自序で始まり、巻上に薬王寺来由記第一として 徳一和尚が仁寿の初 (八五一~八五四) に八茎山に薬師如来を刻し た こ と に 始 ま る 由 来 を 記 し て い る。 中 興 列 祖 伝 を 第 二 と し て、 第一世・鏡祐法印伝から第十世・実宥僧正伝を記し、巻下に中 興 列 祖 伝 第 二 之 餘 と し て 第 十 一 世・ 祐 宣 僧 正 伝 よ り 第 二 十 一 世・廣眼法印までが記載されている。 延寿護法録の記載によって、これまで知られなかった東国に おける新義真言宗の布教の実態がわかる。中興第一世・鏡祐は 下 総 国 ( 千 葉 県 八 日 市 場 市 ) の 見 徳 寺 の 鏡 照 に 学 び、 師 の 命 に よ り 陸奥国への布教に旅立ち、ついに岩城隆忠の帰依をうけ薬王寺 を再建する。さらに、同寺を足場に歴代の住持が新義真言宗本 山根来寺、醍醐寺また高野山と、各流・各方の事相、教えの基 本たる教相を学んだことが明らかに記されている。ここで重要 なのは歴代の住持の研鑚ぶりが、師から弟子に与えた秘法の伝 授を証する印信をもとに証書を記されていることである。

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市指定有形文化財(典籍) ほう じゅ いん てん せき およ いん じん じょう     一、 七〇六点 指   定   平成二十一年四月二十七日 所在地   いわき市小川町西小川字上谷地 所有者   寶 聚 院 室町時代以降 現在、市内の寺院において最も多数を占めるのが真言宗智山 派であり、室町、戦国時代以降、岩城家の支持を受けた薬王寺 を始めとして、この寶聚院や恵日寺、円通寺、宝徳院を中心と して発展した。 寶聚院は、その開山が平安時代末期とも、鎌倉時代とも伝え ら れ 不 明 で あ る が、 永 正 元 年 ( 一 五 〇 四 ) か ら は 古 記 録 に よ っ て その存在が確認できる。薬王寺と同様、真言僧たちの修行、学 問の場である壇林寺院として戦国時代から発展、江戸時代には 棚倉分領の祈祷寺院としての役割を果たすなど、大きな勢力を 持つようになった。このため、当寺には室町時代末期からの写 本を含めた教義の研究、修行のための経典や典籍類、古文書類 など合わせて一、 七〇〇点余りが伝存している。 この中には、 師が秘法を伝授した証しとして弟子に与えた 「印 信 」 と 呼 ば れ る 文 書 が 含 ま れ て い る。 永 正 十 六 年 ( 一 五 一 九 ) の 宥 ゆう 鏡 きょう や 次 代・ 宥 ゆう 性 せい の 分 な ど、 戦 国 時 代 の 印 信 類 が ま と ま っ て 伝存されていることは、他に例を見ない。 また、典籍類においては、写本の奥書などからその典籍がど の よ う な 来 歴 を 経 て 当 寺 に も た ら さ れ た か を 知 る こ と が で き、 薬王寺に多数存在したであろう典籍類はもとより、本山にあた る根来寺や 智 ち 積 しゃく 院 いん で写されたものが含まれている。 薬王寺は兵火等により伝来の蔵書類の殆どを失っており、寶 聚院の典籍及び印信類は磐城 地方のみならず、関東地方の真言 僧 が ど の よ う な 事 相・ 教 相 を 学 ん だ か を 知 る 貴 重 な 資 料 で あ り、当地の文化の豊かさを示すものである。

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市指定有形文化財(古文書) やく おう もん じょ     十五通 指   定   昭和六十二年三月三十一日 所在地   いわき市四倉町薬王寺字塙 所有者   薬 王 寺 室町時代・文安三年 (一四四六) この文書群は薬王寺に伝来する文書で、室町時代末期から江 戸時代初頭に至る数十通のうち、岩城氏の寄進状、禁制状、僧 正口宣案、新義真言宗法度及び掟書などの十五通である。 薬 王 寺 は 鎌 倉 時 代 の 永 仁 三 年 ( 一 二 九 五 ) 、 僧 禅 弁 が「 宝 寿 抄 」 と い う 真 言 宗 の 仏 典 を 口 述 し た こ と が 金 沢 文 庫 に 残 さ れ て お り、学問所として繁栄していたことがわかる。室町前期に一時 衰 退 し た が、 文 安 三 年 ( 一 四 四 六 ) 岩 城 隆 忠 が 祈 願 所 と し て 再 興 し、僧鏡祐を迎えて事実上開山された。以降歴代住持は、京の 醍醐寺、高野山、根来寺などで事相と教相を学んだ後、薬王寺 へ戻って僧正位を得た僧が相次ぎ、新義真言宗の東国唯一の壇 所として多くの門弟を輩出し、 当地方の真言宗の基礎を築いた。 薬 王 寺 文 書 の 中 で 最 も 古 い 岩 城 隆 忠 寄 進 状 ( 文 安 三 年 ) は、 隆 忠が八茎村を薬王寺に寄進して 「 我 われ 宿 すく 世 せ 之 の 大 たい 願 がん 既 すでにまんぞくしおもわんぬ 満 足 畢 」と、 磐城地方の統一を完了して、名実共に覇者となったことを宣言 した有名な文書である。これにより、中世岩城氏の台頭を確認 できる最も確実な史料となっている。 その他の文書は、一五六〇年から二〇年間の戦国時代のもの と、一六〇〇年から四〇年間に及ぶ江戸初期の二つのグループ に 分 け ら れ る。 前 者 に は、 岩 城 親 隆 寄 進 状 ( 永 禄 十 年 ) 、 源 氏 女 (親隆夫人) 寄進状 (天正四年) 、禁制状 (天正六年) 及び僧正口宣案 (天 正 八 年・ 永 禄 五 年 ) が あ り、 後 者 に は、 徳 川 幕 府 の 仏 教 政 策 を 知 る 上 で 貴 重 な 史 料 と な る 関 東 新 義 真 言 宗 諸 法 度 写 ( 慶 長 十 八 年 ) 、 新 義 真 言 宗 掟 書 ( 寛 永 九 年 ) 、 修 験 道 法 度 写 ( 慶 長 十 八 年 ) 及 び 恵 日 寺薬王寺公事覚 (寛永十九年) などがある。

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市指定有形文化財(古文書) もん じょ     四一四点 指   定   平成二十五年四月二十四日 所在地   いわき市平字六間門 所有者   個人 江戸時代後期 江戸時代の磐城平藩主・安藤家に仕えた武士真木家に伝わっ た一括の文書群で、総点数は四一四点である。 そ の 時 代 範 囲 は、 上 限 が 江 戸 時 代 前 期 の 明 めい 暦 れき 二 年 ( 一 六 五 六 ) か ら、 下 限 は 近 代 後 期 の 大 正 十 二 年 ( 一 九 二 三 ) ま で で、 約 二 七 〇年間にわたっている。 こ の 文 書 群 の 資 料 的 な 価 値 は、 慶 応 四 年 ( 一 八 六 八 ) の 戊 辰 戦 争 時 に お け る 平 藩 の 戦 闘 状 況 を 詳 し く 把 握 で き る こ と に 加 え て、平藩と明治政府側である総督府との間でなされた政治折衝 の一端を知ることもできる。総じて、いわきにおける戊辰戦争 を理解する上で重要な文書群であると評価し得る。 達書・任命状・辞令書なども数多く残されており、幕末から 明 治 期 に か け て の 真 木 徳 之 助 ( 光、 一 八 二 八 ~ 一 八 九 三 ) の 事 績 を 詳細に追うことができる。また、藩校の施政堂・ 佑 ゆう 賢 けん 堂 どう の蔵書 印のある典籍も多く含まれており、藩校研究に資するところが 大きいといえよう。さらには、徳之助が私塾を開いた時期の資 料もあり、教育史の資料としても貴重なものである。 徳之助は水竹・栖筠と号し、磐城平藩の儒者であった神林 復 ふく 所 しょ ( 一 七 九 五 ~ 一 八 八 〇 ) の 教 え を う け、 施 政 堂 の 助 教・ 助 教 頭 取 と な り、 嘉 永 三 年 ( 一 八 五 〇 ) に は 江 戸 に 出 て 経 史・ 医 学・ 軍 学 な ど を 修 め た。 文 久 二 年 ( 一 八 六 二 ) に は 御 お 徒 かち 目 め 付 つけ ・ 兵 学 師 範 な どに任ぜられ、 戊辰戦争期には平藩の軍事掛・周旋掛を務めた 。 明 治 二 年 ( 一 八 六 九 ) に は 平 藩 文 学 大 助 教 や 文 学・ 兵 学 教 授 に、 翌明治三年には平藩の 学 がっ 監 かん を歴任し、晩年には自宅で私塾を開 いて子弟に修身斉家の道を教授した。

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市指定有形文化財(古文書) しょ ぞう もん じょ     三三五点 指   定   平成二十六年五月一日 所在地   いわき市江名字南町 所有者   個人 この文書は、江名の近藤家に伝来する江戸時代から近代に渡 る文書群である。同家は江戸時代、江名の名主を務めていた。 江 戸 時 代 の 江 名 は、 初 め 磐 城 平 藩 領、 寛 文 十 年 ( 一 六 七 〇 ) か らは湯長谷藩領となる。 村高は五百十五石。 海運と漁業で栄え、 漁業はカツオ漁が盛んであり、獲れたカツオは鮮魚のほか塩鰹 や鰹節に加工され、加工品の多くは江戸に出荷されていた。そ のため、江名は江戸の小舟町にある鰹節問屋と経済的な繋がり や交流があった。海運でも湯長谷藩の年貢米の積出港として栄 えたため、湊の管理のため同藩の浜役所が置かれていた。 伊勢屋文書の内訳は、近世の文書は、名主の職務、浜方に関 するもの、海運関係、湯長谷藩申渡しといった公的な性格を持 つ文書群と、酒造に関する文書、鰹節取引といった私的な性格 を持つ文書群がある。さらに江名以外の地域との文化的、経済 的な関係を示す文書や手紙、湯長谷藩より引き継いだ典籍類な ど多岐にわたる。近代に入ると公的な性格を持つ文書より、私 的な性格の文書が多くなる。 これらの文書のなかでも浜方に関する文書には、漁船、乗組 員に関する取決め、 漁獲物の配分、 魚を扱う 五 い 十 さ 集 ば 商との対応、 藩の年貢米の積出し、船積み品に関わる問屋文書など、江名村 という海村特有の地域性を帯びた文書が見受けられ、これが本 文書の特性となっている。

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市指定有形文化財(考古資料) いた いし     二基 指   定   昭和四十三年十二月二十七日 所在地   いわき市平下平窪字諸荷 所有者   諸 荷 区 南北朝時代・延文六年 (一三六一) 板石塔婆は、板碑ともいわれる中世の供養塔である。市内で は、玉造川流域の薬王寺付近を中心に集中して分布する。自然 石の上部に二条線を刻み、 種 しゅ 子 じ と銘文を刻む独特な型式である。 また、この大小二基の板碑は、埼玉県秩父地方からのみ産出さ れ る 緑 りょく 泥 でい 片 へん 岩 がん で 制 作 さ れ て お り、 県 内 で も 類 例 が 少 な く 貴 重 である。 阿弥陀三尊を種子で表現したこの板碑は、死者の臨終に際し て阿弥陀如来が、観音・勢至の二菩薩を従えて十万億土の西方 浄上から雲に乗って 来 らい 迎 ごう し、往生者を迎摂する情景を梵字で象 徴的に表現したものである。 大きい方は、高さ七五㎝、幅三二㎝、厚さ二・五㎝、頭部を 三角に造り、二条線と額縁を刻み、 蓮 れん 華 げ 坐 ざ のつく円相内に阿弥 陀 如 来、 観 音 菩 薩、 勢 至 菩 薩 の 種 子 ( 梵 字 ) を 刻 み、 延 文 六 年 辛 丑年 (一三六一) 二月十日の銘文がある。 一方、小さい方は高さ五 二㎝と小さく、金剛界大日如来をあ らわす種子を刻む。金剛界大日如来は仏教思想の中心で、あら ゆる仏の中心であり、宇宙の存在を表わす。中世仏教文化の思 想的背景を種子で表現しようとしている遺品である。

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市指定有形文化財(考古資料) ふん だい ぎょく るい     六六顆 指   定   昭和四十三年十二月二十七日 所在地   いわき市平神谷作字細谷 所有者   個人 古墳時代 (六世紀) 明治三十九年五月八日、所有者が自宅敷地の拡張工事中に神 殿古墳中の一基に属する石棺を発見し、その中から一体の人骨 と直刀三振とともに多くの 頚 くび 飾 かざ りを得た。頚飾りはヒスイ・メ ノウ・水晶・碧玉、ガラスから構成される玉類で、被葬者が生 前使用したものと考えられる。指定となっている玉類は、その 時 出 土 し た も の 以 外 に 一、 二 の 混 入 品 を 含 む ら し い が、 数 量 は 以下のとおりである。 ヒスイ・メノウ製 勾 まが 玉 たま    一九個 水晶製 切 きり 子 こ 玉 だま         一個 碧 へき 玉 ぎょく 製 せい 管 くだ 玉 たま        一〇個 ガラス製 臼 うす 玉 だま        一九個 ガラス製小玉        一七個 こ れ ら の 玉 類 を 出 土 し た 神 殿 古 墳 は、 神 谷 作 古 墳 群 の 一 支 群 で あ り、 埴 輪 男 子 胡 坐 像 ( 国 指 定 ) を 出 土 し た 神 谷 作 一 〇 一 号 墳 に近い。 これらの神谷作古墳群は、 海岸砂丘の 浜 ひん 堤 てい 残 ざん 丘 きゅう 上に営 まれた特色があり、 そのため、 墳丘の形状は全く明らかでない。 玉類を出土したこの神殿古墳は、現在の 汀 てい 線 せん より約八〇〇m の位置にあり、発見当時の様子を総合すると、石棺は凝灰質砂 岩の刳り抜き石棺で、内部の四壁は全面に朱が塗られていたと 思われる。現在、 石棺は破壊され、その上にこれら石棺を土台 とした氏神の小社がまつられている。 所有者宅の南西側には、これら玉類出土の石棺とは別な凝灰 質砂岩製の箱式棺が露出しており、北側にも埴輪を伴う箱式棺 ( 神 谷 作 二 〇 一 号 墳 ) が あ っ た。 い ず れ も 六 世 紀 代 の 古 墳 と 思 わ れ る。

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市指定有形文化財(考古資料) せい どう せい すず ぎょう よう     一枚 指   定   平成元年三月二十五日 所在地   いわき市平字高月 所有者   個人 古墳時代 (六世紀) 長さ   四㎝、幅   一三㎝、鈴径   四・七㎝ 杏葉は装飾馬具の一種で、 胸 むな 懸 がい や 尻 しり 繋 がい などに 垂 すい 下 か して使用さ れる。鈴がついていることから鈴杏葉の名で呼ばれ、古墳時代 の六世紀ごろ盛んに用いられた。全国的に類品はそう多くはな く、関東地方を中心に、近畿地方にかけて出土している。市内 の中田横穴 (国指定) からは優品が出土している。 この鈴杏葉は飯野八幡宮の宮司が明治初年ころ入手したもの と 伝 え ら れ、 大 須 賀 筠 軒 の 刊 本『 磐 城 史 料 』 ( 明 治 四 十 五 年 ) の 中に「駅路鈴・飯野氏蔵」として掲載されている。しかし、市 内の古墳等からの出土品かどうかは不明である。 青銅製の鋳造品で逆三角形の 剣 けん 菱 びし 形の各角に一箇ずつ鈴がつ く形態で、鈴の中に小礫の珠が入っていて、振るとにぶい音が する。 鈴の表面には隆線による円圈内に 珠 しゅ 文 もん が鋳出されており、 とくに左鈴の頂点にある珠文は大きく乳首状となる。右と下の 鈴にも同様の珠文が施されたらしいが、鋳型のくずれにより不 明瞭である。背面には文様はない。また、剣菱体の表面の偏平 な円圈内は、二条の隆線で十字に四分割され、やはり全体に珠 文が配されている。交差する二条の隆線中央部の珠文は大きめ である。 剣菱体の上部には、垂下するための皮帯を通す 立 たち 聞 ぎき と言われ る方形の穴が開いている。 珠文と隆線と円圈による文様構成は、この鈴杏葉の制作 年代 の特徴を表わし、中田横穴出土の鈴杏葉と同じ形式的な特徴か ら、六世紀の遺品と推定される。

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市指定有形文化財(考古資料) ふん だい たく     三口 指   定   平成十四年三月三十 日 所在地   いわき市平上高久字八ツ梅 所有者   個人 古墳時代後期 古墳時代後期の葬礼などに用いられた馬を装飾する馬具の一 種である。 鞍 くら ・ 鐙 あぶみ ・ 面 おも 繋 がい ・ 尻 しり 繋 がい ・ 胸 むな 繋 がい の う ち、 胸 繋 に 用 い ら れ、 馬 の 胸に三個一組で革帯などを用いて垂下され、釣鐘状を呈するこ とから馬鐸の名で呼ばれ、六世紀頃盛んに用いられた。 三個ともに青銅の鋳造品で同じ鋳型から造られており、片面 だけに装飾紋様がある。形態は偏平中空で両側に大きく裾開き の釣鐘状を呈する。 鐸 身 に 大 き な 鈕 ( 立 聞 ) が あ り、 方 形 の 孔 が 付 く。 鈕 の 付 け 根 に 小 さ な 孔 ( 舞 孔 ) が あ り、 音 を 出 す た め の 舌 を 垂 下 す る 装 置 が あるが、舌は付いていない。 紋様は二条の細い平行突線の十文字に、斜めに八分割した中 に珠紋を充填する。ちょうど、イギリスの国旗を思わせる紋様 である。珠紋の付き方に異動が観られるが、鋳型の段階で珠文 の一点一点を修整したものと思われる。 極 め て 保 存 状 態 も 良 く、 出 土 地 点 が 埴 輪 男 子 胡 坐 像 ( 国 指 定 ) の出土地点に極めて近づくことから、神谷作一〇一号墳の主体 部に関わる遺物の可能性が高いものと考えられている。

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市指定有形文化財(歴史資料) たいら じょう     一舗 指   定   昭和四十三年十二月二十七日 所在地   いわき市平字古鍛冶町 所有者   個人 江戸時代 (十八世紀) 縦   三・八五m、横   四・九一m 本図には城内の建造物・石垣・内堀などは一切描かれておら ず、 わずかに城郭に連なる城門や櫓のみがうかがえる。 侍屋敷・ 寺町・足軽町・職人町・商人町など城下の町割りが克明に記載 され、人名も書き込まれている。道路には道幅とともに、木戸 の位置も示されており、屋敷地にはそれぞれ間口・奥行の寸法 が精細に記されている。 作成年代は記されていないが、図中の人名を『内藤候平藩史 料』 (昭和三十七年・平市教育委員会刊) に収める事項によって検証 す る と、 次 の 事 柄 が 知 ら れ る。 享 保 十 九 年 ( 一 七 三 四 ) 十 二 月 七 日、 高 月 御 袋 様 揚 土 屋 敷 御 普 請 出 来 御 移 わた 徙 まし と あ る。 こ れ は 内 藤 政 栄 ( 露 ろ 沾 せん ) 没 後、 藩 主・ 政 樹 の 母 が 高 月 屋 敷 か ら 揚 土 の 屋 敷 に移ったことを示しており、地図をみると、揚土の一画に御袋 様 御 屋 鋪 が 確 認 で き る。 さ ら に、 元 文 元 年 ( 一 七 三 六 ) 五 月 に は、 穂 鷹 吉 兵 衛 は 定 じょう 府 ふ ( 江 戸 詰 め ) を 命 ぜ ら れ る。 地 図 の 揚 土 長 坂 に 面した屋敷には、穂鷹吉兵衛の名がある。以上のことから、こ の地図の作成年代は享保十九年十二月以降元文元年五月以前と なり、享保二十年ごろと推定することができる。 この地図は本来、磐城平城に備えられたものであったが、内 藤家から井上家を経て安藤家に移管され、明治四年の廃藩のあ と安藤家所有となった。最後の磐城平藩主・ 信 のぶ 勇 たけ のあと安藤家 を次いだ信正の第八子信守から、所有者の家に贈られた。この ことを示す明治四十年八月一日の書状が残っている。

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市指定有形文化財(歴史資料) てん めい きん     一基 指   定   昭和四十八年六月三十日 所在地   いわき市小川町上小川字植ノ内 所有者   常 慶 寺 江戸時代・天明六年 (一七八六) 高さ   二・二五m 正面幅   八三㎝、横幅   五六㎝ この碑は天明二年以降の大飢饉の際、幕領小名浜代官・蔭山 外記のとった措置に対する報恩感謝のために、上小川村の草野 四 郎 兵 衛 が 施 主 と な り、 京 都 の 智 積 院 ( 現 在、 真 言 宗 智 山 派 の 総 本 山) の僧に 撰 せん 文 ぶん を依頼し、 石工は中伊那 (信州) の茂八があたった。 石材は桜御影石 (花崗岩) である。 碑文の概要を記すと「報恩のため光明真言を誦持し、よって 文 を 致 す。 こ れ 天 明 癸 卯 ( 三 年 ) の 歳、 天 下 大 飢 饉 な り。 六 月、 諸国に灰をふらし、積りて分より尺に至る。地動くことしばし ばなり。 七月浅間山崩れ、 土石燃え流れ、 その余殃数十里に及び、 民 物 大 半 死 せ り。 ( 中 略 ) こ こ に 於 い て 貧 者 は 飢 え 耕 さ ざ る 者 先 ず 死 す。 甲 辰 ( 天 明 四 年 ) 春 に 至 り、 た と え 千 金 を 用 ひ る も 五 穀 のこれを求むべきものなし。富者は飢え、貧者は先ず死す。牛 馬 を 剌 し 犬 鶏 を 殺 す。 ( 中 略 ) 流 民 火 を 放 ち 窮 党 蔵 を こ わ す。 財 器はぬすまず米穀をこれ競う。あるいは家を棄て妻を捨つ。あ るいは幼を負い老を携え東西に馳散し昼夜に彷徨す。餓死者の 屍野に満ち倒死累々たり。群賊来りて衣を剥ぎ鳥獣集まりて屍 を争う。悲しいかな生きて鬼となり死せずして獄に入る。笑語 聞えずてい叫街に湧く」とその惨状を語り、つぎに「ここにわ が郡吏蔭山外記あり恵にして民を愛す。この塗炭を見言なき能 わず、 もって大樹 (将軍) 幕下に啓す。幕下欽明仁政飛走に及ぶ。 すなわち命を奉じ家宰中村邦淑、堀越春芳両士を使わし悉く貢 税 を 止 め、 か つ 蔵 穀 を 賜 い 遠 く 舟 車 し、 府 中 ( 江 戸 ) に も と め こ れを移さんことをこう (後略) 」とその功績を讃えて いる。

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市指定有形文化財(歴史資料) かみ おけ うり くま くら じん じゃ さん がく     一面 指   定   昭和五十二年五月四日 所在地   いわき市川前町上桶売字宮下 所有者   熊倉神社 江戸時代・天保十四年 (一八四三) 高さ   三七㎝、横幅   六〇㎝ この算額は杉の一枚板で、上部は屋根形になっている。天保 十 四 年 ( 一 八 四 三 ) に、 上 神 谷 村 ( 平 上 神 谷 ) の 須 藤 源 重 に よ っ て、 上桶売の 法 ほう 陵 りょう 権 ごん 現 げん (熊倉神社) に奉納されたものである。 奉納 今如図有大円、径五寸、只云、外円径大円径倍ニ、股八寸ニ シテ、問空円径幾何 答曰、空円径三寸有□ 今如図有容勾股弦円、 只云、 勾弦和四寸八分、 股弦和五寸四分、 問得円径幾何 答曰、円径一寸二分 術ニ日、勾弦和股弦和相乗倍ノ為、実平方ニ開之得、玄和和以 減勾玄玄和得、股又股弦和ノ内減股得、玄以術円径合問 天保十四癸卯歳八月吉良辰 磐城郡上神谷邑 願主 須藤源重 (花押) 以 上 の よ う に、 こ の 算 額 は「 三 平 方 の 定 理 」 を 主 体 と し て、 問題を提示している。 こ の よ う な 算 額 が 神 社・ 仏 閣 に 掲 げ ら れ る よ う に な っ た の は、寛文年間 (一六六一~七二) のころからで、福島県内では寛政 年 間 ( 一 七 八 九 ~ 一 八 〇 〇 ) に 一 九 面、 天 保 年 間 ( 一 八 三 〇 ~ 四 三 ) に は二三面が掲げられたことが知られているが、現存しているも のは極めて少ない。

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市指定有形文化財(歴史資料) こし もん じょ     四巻 (附)   木造役小角像     高さ   四二・五㎝ 木造薬師如来立像   高さ   五〇・〇㎝ 指   定   昭和五十七年三月二十六日 所在地   いわき市東田町一丁目 所有者   個人 室町時代~江戸時代 越田和文書は大宝院・越田和家に伝来する文書群で、 巻 かん 子 す 装 そう 四 巻 か ら な り、 中 世 磐 城 の 修 しゅ 験 げん 宗 しゅう 本 山 派 に 属 す る 寺 院 の 熊 野 参 詣 先 せん 達 だつ 職 しょく 、 惣 そう 年 ねん 行 ぎょう 事 じ 職 しょく の 性 格 と 活 動 の 実 態 を 知 る 上 で き わめて重要な史料である。 磐 城 の 修 験 宗 の 本 山 派 は、 上 平 光 明 寺 ( 磐 城 郡 ) 、 大 宝 院 ( 磐 前 郡 ) 、 浄 月 院 ( 菊 田 郡 ) 及 び 来 泉 寺 ( 楢 葉 郡 ) で あ り、 郡 内 山 伏 を 霞 かすみ として支配しながら深く民衆と結びつき、熊野参詣などの先達 職として活躍していた。しかし、当山派・羽黒派などとの霞の 領有権をめぐり紛争が絶えなかった。 文 禄 四 年 ( 一 五 九 五 ) の 太 閤 検 地 以 降 は、 複 雑 な 郡 界 が 夏 井 川 で区切られた結果、同派寺院との論争が拡大した。越田和文書 は、 そ の 間 に お け る 歴 史 的 事 情 を よ く 物 語 っ て い る。 さ ら に、 慶 長 七 年 ( 一 六 〇 二 ) 鳥 居 忠 政 の 新 政 治 体 制 が 確 立 す る と、 霞 論 争は再熱し大論争となった。 聖 護 院 書 状 ( 永 禄 七 年 ) は 本 山 派 の 中 心 寺 院 と の 係 わ り を 示 し、 山 城 卿・ 民 部 卿 奉 書 ( 天 文 十 六・ 二 十 年 ) は、 郡 内 の 惣 年 行 事 と 熊 野の先達の証文である。若王寺・上遠野隆秀・小川刑部大輔書 状 は、 山 城 ( 上 平 光 明 寺 山 城 守 ) と 越 田 和 霞 相 論 の と き の 中 心 的 証 拠文書で、慶長期の鳥居氏家臣との係わりを表わしている。 こ の 文 書 群 に は 上 平 文 書 ( 市 指 定 ) 同 様、 長 期 化 し た 霞 の 領 有 権争いを有利に進めるため、多くの偽文書が作られたという大 きな特徴がある。しかし、偽文書出現には多くの歴史的背景が あり、かえって貴重な歴史資料となっている。

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市指定有形文化財(歴史資料) ぶん ろく ねん りん じょう むら けん ちょう     一帖 (附)   元禄十五年林城村新田水帳     一帖 指   定   昭和六十年三月二十九日 所在地   いわき市小名浜林城字大門 所有者   林 城 区 安土桃山時代・文禄四年 (一五九五) 文禄検地帳   縦三六㎝、横二四㎝ 蓋紙共二二枚 天 正 十 年 ( 一 五 八 二 ) 、 豊 臣 秀 吉 は 本 能 寺 の 変 の 後、 支 配 地 を 掌握するために検地を行った。いわゆる太閤検地である。磐城 地方では秀吉の奥州仕置以降になる。 林城村検地帳の表紙には、次の様に記してある。 「文禄四年十月十三日 奥州岩城岩崎之郡林城村御検地帳 高野九右衛門尉」 こ の 記 述 に よ っ て、 林 城 村 の 検 地 は 文 禄 四 年 ( 一 五 九 五 ) 十 月 以前に終了していたと推定され、常陸の佐竹氏家臣の高野九右 衛門尉が関与して、石田三成の指揮のもとに実施されたことが わかる。 この検地実施の歴史的背景には次の様な経過があった。 天 正 十 八 年 ( 一 五 九 〇 ) 、 岩 城 常 隆 が 相 州 星 ほし 谷 のや ( 神 奈 川 県 座 間 市 ) で没したことにより、岩城氏は後継者を失った。岩城氏の家督 相 続 は、 常 陸 の 佐 竹 義 重 の 三 男 能 化 丸 ( 当 時 八 歳、 後 の 貞 隆 ) を 岩 城家の養子として入嗣することで決着した。これ により、磐城 の実質的支配権は佐竹家に移り、能化丸の後見人として佐竹又 七郎義憲が磐城を支配した。したがって、この検地は佐竹義重 と石田三成の権力のもとに行われたのである。また、この検地 を元に、翌文禄五年 (慶長元年) に家臣の村替を行った。 この検地帳は、当地域で最も古い検地帳である。

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市指定有形文化財(歴史資料) うわ だいら もん じょ     一八通 (附)   三通 指   定   昭和六十三年三月二十五日 所在地   いわき市平字揚土 所有者   個人 室町時代 (十六世紀) 上平文書は、小川町 二 ふた ツ つ 箭 や 権現別当光明寺住持であった上平 家に伝来する修験道年中行事職に関する文書群である。室町時 代末期の岩城氏に関するもの、江戸時代初期の鳥居氏家臣に関 するもの、 修 しゅ 験 げん 宗 しゅう のライバルであった越田和家に関するもの、 光明寺開山・縁起類などから成る総数一八通、 附 つけたり 三通の一紙 文書である。 磐 城 地 方 の 中 世 末 期 に は、 上 平 光 明 寺 ( 磐 城 郡 ) 、 越 田 和 大 宝 院 ( 磐 前 郡 ) 、 植 田 浄 月 院 ( 菊 田 郡 ) 及 び 宮 林 来 泉 寺 ( 楢 葉 郡 ) の 四 ヶ 寺 が、 修 験 宗 本 山 派 の 寺 院 と し て、 各 郡 内 に 霞 かすみ の 領 有 権 を 主 張して広く活動していた。 寛 文 七 年 ( 一 六 六 七 年 ) の『 上 平 光 明 寺 開 山 覚 』 ( 内 藤 家 平 藩 役 所 提 出 文 書 ) に よ る と、 光 明 寺 は 治 安 三 年 ( 一 〇 二 三 ) 清 賢 法 印 が 開 山し、熊野光明寺善生院と称した。岩城の大先達で二 ツ箭権現 を国峯とする登山修験が目的で、五穀豊穣、大漁満足、商売繁 昌を利益とし、湯殿権現と同体で民衆に広く信仰されていた。 岩 城 隆 忠 避 伏 写 ( 文 安 三 年 ) 、 岩 城 親 隆 ( 虎 山 ) 判 物 写 ( 文 明 五 年 ) 、 岩 城 常 隆 ( 可 山 ) ・ 岩 城 常 隆 ( 鏡 山 ) 判 物 写 書 状 に 混 じ っ て 直 筆 書 状 で な い 岩 城 由 隆 判 物 ( 永 正 八 年 ) な ど の よ う な 偽 文 書 も あ る。 当 時 の 歴 史 の 背 景 を 知 る 上 で き わ め て 有 効 な 証 拠 文 書 と な り、 特に越田和大宝院とは長期にわたって山伏支配の領有権をめぐ って争ったので、論争に勝訴するために偽文書が作られるとい う事実があった。中世末期から江戸初期における修験宗活動の 実 態 を 解 明 す る 上 で 重 要 で あ る。 越 田 和 文 書 ( 市 指 定 ) と と も に 修験宗関係文書として双璧をなしている。

参照

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十条冨士塚 附 石造物 有形民俗文化財 ― 平成3年11月11日 浮間村黒田家文書 有形文化財 古 文 書 平成4年3月11日 瀧野川村芦川家文書 有形文化財 古

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

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