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雑誌名 東京家政大学研究紀要 1 人文社会科学

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20世紀英語文学を取巻く風土の変容とその力学 :  マーガレット・アトウッドを中心に

著者 伊藤 節, 窪田 憲子, 鷲見 八重子

雑誌名 東京家政大学研究紀要 1 人文社会科学

巻 44

ページ 1‑13

発行年 2004

出版者 東京家政大学

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009130/

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20世紀英語文学を取巻く風土の変容とその力学

     一マーガレット・アトウッドを中心に

伊藤 節,窪田 憲子,鷲見 八重子

     (平成15年10月2日受理)

Narrative Innovation and Cultural Rewriting in     Twentieth−century English Literature

        _focussing on Margaret Atwood

ITOH, Setsu KuBoTA, Noriko and SuMI, Yaeko

(Received on October 2,2003)

キーワード:物語ること,犠牲者,サヴァイヴァル Key words:story telling, victim, survival

1 はじめに

 本共同研究は「イギリス女性作家の半世紀」(勤草書 房全5巻シリーズ)を引き継ぐものとして企画された.

前シリーズでは,20世紀の思想,文化の書き換えに女性 作家たちが書くという行為を通じて果たしてきた役割と 経緯をまとめている.この視点で眺めた英語文学の20 世紀とは端的に言えば,社会の中で周縁化されマイナー であることを余儀なくされてきたものたちが人間の関係 を新たに再編成し,持続可能な社会を築くことに向けて それまでの沈黙を声に変えていった時代である.ジェン ダーという概念が生まれ,そのジェンダーを意味あるも のにしている世界像を浮上させ,可視化する理論構築が 進められていった.こうした中で,差別的法律,制度の みならず,差別を絶えず再生産する文化の仕組み,人間 の内面心理がクローズアップされてくる.ジェンダーの 文化とはすでにそれを告発するマイナーたるものの中で 内面化されているというやっかいなものである,問題は,

人間の意識無意識を形成し,その文化を再生産しっづ けているこれまでの宗教,思想,文学,言説の膨大なテ キストにあるということにもなる.言い換えれば,人間 の能力への絶大な信頼のもとに世界と人間にっいての認 識を研ぎ澄まし,経済,学術,芸術などあらゆる領域を 整備してきた世界の先導者とも言うべきヨーロッパの文

教養部

明,精神,すなわち近代社会の思考,あり方すべての問 い直しである.作家達は,近代文明が築いてきた,理性 的人間,普遍的平和,伝統的家族や恋愛といった「大き な物語」を壊しっっ,まったく新たな文化を生み出すこ とが求められるようになっていった.

 さらにまた,人種,階級,民族といった差異を考慮せ ず,「女性⊥「男性」という範疇のみで社会における抑 圧するもの/されるものとカテゴライズしていいのかと いう問題も浮上する.これは第二次大戦後ヨーロッパ各 国の植民地だった地域の解放と独立が急速に進み,この 地域内部から宗主国の文化的抑圧から離脱しようとする 動きが活発化することと必然的にからみあっていく.い わゆるカリブ海地域から生まれたクレオール文化,文学 が親ともいうべき先進文明社会および英米文学のキャノ

ンを批判し,揺り動かす動きも始まっていった.混血と いう意味を前面に掲げるクレオール文化は,その名のと おり様々な人種の人々が集合し,それぞれの風俗習慣が 融合して作られた文化である.これがヨーロッパ文明に おける純粋,優性,伝統の価値観を逆転させ,豊かな混 合,多様な複数性に彩られた価値観とともに,流動的な 複数からなるアイデンティという新しい主体の概念をエ ネルギッシュに押し出すようになった.

 こうした状況の中,20世紀の最後の10年,すなわち 1990年代,政治,経済,社会的に語られ出したいわゆる グローバル化現象は思わぬ方向性を提示することとなる.

グローバル化の両価性は既に指摘されているように,そ

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れは先進国の搾取の助長と言う意味や,覇権国家の権力,

すなわちアメリカ帝国主義の進行を助長するものとして 批判的な意味をも含む.だが他方において,グローバル 化という境界を超える越境行為は境界線そのものだけで なく,その両側に位置する固定陣営の不安定化を招くこ とから,この現象に積極的意味も与えられることになる.

固定的アイデンティティの交差する場である境界領域は,

それまでの階層秩序を揺るがし,解放への可能性を指し 示す場ともなりうる.境界とは性別や人種,集団と集団

といったところにあるだけでなく,個々の人間の内部に も存在する,被抑圧者の心にも差別するものが内在する のである.するものと,されるものの分界線はねじれ,

交差し,固定しない.この不可視の抑圧,差別の動態に 透徹した眼差しを向ける一段階として自己自身の内部の 他者と向き合うこと(ジキルとハイド的葛藤)が求めら れてくる1).

自分自身を境界のない十字路そのもの,相克を経験しっ づける戦場としてそれぞれが自由と自己責任のもとに,

自己というリアリティを脱構築していくことが課題とし て示されるようになった.それもいわゆるポストモダン 的思考の遊びとは別次元で,血肉を供えた人間としてそ の課題を背負っていくのである.小説はひとっの時代の 気分や精神を表現し,そこで生きる人間の意識の諸相を 映す装置というより,その精神,気分を破壊するような 戦いの場となっていく.

 こうした風景を極めて突出した形で提示しっづけてい る作家が,アメリカニズムに飲み込まれる危機を常に生 きているカナダの生んだイギリス系カナダ人マーガレッ ト・アトウッドである.本共同研究はその第一段階とし て,この作家の特異な文学風景の解読にあてられている.

2 マーガレット・アトウッド(1939〜 )  各種文学賞を数多く受賞し,かっ,毎年ノーベル文学 賞候補に上がりっづけるアトウッドはストーリーテラー

として抜群の才能をもち読者を魅了する.彼女の作品は,

語りの静謹さとは裏腹にそのすべてがゴシック的カラー で染め抜かれ,血なまぐさく,秘められた暗殺計画のメッ セージで満ちている.2000年にブッカー賞を受賞した作 品のタイトルは『盲目の暗殺者』(2000)である.その 後に続く11作目の長編『オリックスとクレイク』

(2003)では地球上の人類はほとんどが息絶えてしまっ ている.彼女の作品において一体誰が暗殺者で,また暗

殺されるのは誰であり,何であるのだろう.そしてそれ は何を語ろうとしているのであろうか.

 これを論ずる前にまずアトウッド自身の背景を少しの ぞいて見よう.1960年代に文学界に登場し,1985年に

『侍女の物語』(1985)で世界的に知られるようになった アトウッドの人生および文学の環境は20世紀の大きな 出来事,思想一第二次世界大戦,冷戦,ヴェトナム戦 争,公民権運動,フェミニズム運動,構造主義,脱構築,

ポストコロニアリズム,ポストモダニズムなど一に彩 られている.こうした政治的環境に鋭く反応しながら,

カナダの作家という地域性を明示しっつ,同時に国際的 作家として,彼女は人権,フェミニズム,反戦思想を基 盤に極めて政治的に創作活動に従事している.政治的と いうことは,『侍女の物語』の言葉を借りれば「人が他 者に何ができて,それでも無罪で済まされるか」2)とい う,抑圧,差別,暴力,人権問題に強い関心を示すとい う意味であり,事実彼女はアムネスティ・インタナショ ナル(政治犯救済のための国際委員会)の活動にも積極 的に関わっている.その文学は,セクシャル・ポリテッ クス,パワー・ポリテックス,マイノリティの復権,人 類のサヴァイヴァルをめぐって形成される.

 特筆すべきことは,彼女のウィットに富み,かっ挑発 的語り口による作品の面白さ,表層のレベルでの理解し やすさと同時に,文学,政治,歴史的言及のみならずシ ンボル,パロディ,サタイアに満ち,多層的に重ねられ たそのテクストの難解さである.先に触れたように差別,

抑圧の問題はグローバル化や最先端テクノロジー,特に DNA研究などによってますます複雑に,不可視化され るようになり,それを表出するために作品スタイルは手 の込んだものにならざるを得ない.今日,100年前の優 生学や社会ダーウィニズムが姿を変えてひそやかに復活 し,今度は遺伝子のレベルでの差別化が問題となってき ている.これまで国民国家のレベルで考えられた優性な るもの(人種)も,人権や,セキュリティも,すべてグ ローバルマーケットの成功の指標でしかなくなっている.

差別,抑圧といった人権問題に抵抗する基盤をもはや善 き共同体という理想に求められなくなっている現実が目 の前にある.人類はまもなく沈む可能性のある一っの船 の中にあるともいえるのである.それはかってポール・

ヴァレリーが「精神の危機」で表現した船(現代社会)と

ランプ(船に乗り合わせた人間)の感傷的嘆きのレベル

を超えたものである.アトウッドはこの危機を極めて切

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実に認識する作家の一人として創作する.都合の悪い他 者を排斥する傾向の強まる現在,複数からなる混血のア イデンティティ,個々人の内部(無意識)の他者性を救 いの鍵とし,人の未来の方向性を複雑な経路で探ろうと するのである.アウシュビッもイメジされている『侍女 の物語』において,抑圧の極限を生きながら主人公は

「わたしとしては,この物語が苦痛に満ちていることを 申し訳なく思う.この物語が,十字砲火を受けた体のよ

うな,あるいは力ずくで細切れに引き裂かれた体のよう なバラバラの断片になっていることを残念に思う」3)と 弁解しながら,彼女は心の中のあなたに向けて淡々と語

り続け,十字路そのものであり,戦場であり,境界領域 そのものである主体(のようなもの)を提示し,既存の イデオロギーに占拠されない新しい語りを提示しようと するのである.

 すべての作家にいえることではあるが,アトウッドの 生い立ちもこのような彼女の文学風景を語る上で欠くこ

とのできないものである.アトウッドは中流階級のイギ リス系カナダ人として1939年生まれた.父親が昆虫学者 であったために子供時代は,家族(父,母,兄,彼女)

は父親に率いられオンタリオ奥地の森の中でテントやキャ ビンで生活する毎日であった.子どもたちが学校に行く ようになってからは学校のある期間トロントに定住し,

休みになるとまた森に入るという都市と森との往復生活 をするようになる.何にも煩わされることのない自然の 中で彼女は鋭い観察眼を養い,同時に膨大な本を読みふ けった.まるで天国のようでもあった暮らしはしかし彼 女が学校に入るようになって終わりを告げ,悲劇的局面 を迎えるのだ.その様子にっいては代表作の一つであり,

彼女自身の自伝ともみなされている『キャッツ・アイ』

(1988)に詳しい.

 この自伝的作品では,主人公エレインの8歳〜12歳の 生活が,1940〜1950年代のイギリスによる帝国主義支 配の影響を強力に引きずっていた自治領カナダという環 境を背景に陰湿で邪悪ないじめを前景化して描写されて いる.エレインを取り巻くそれまでの自然の環境では,

男女と言う区別を意識する必要もなく,兄とは対等に仲 間として遊んでいたし,父母にしても父が帽子をかぶっ ているという以外は外見から両者の区別をはっきりと読 み取ることはできなかった,

 そうしたエレインがトロントに移り住み,学校に行く ようになって,文化と言う洗礼をシャワーのごとく浴び

るようになる.その文化とは植民地的状況にあるカナダ が宗主国イギリスの家父長的文化をそのまま内面化した ものであった.学校ではイギリス国王夫妻の肖像画が大 切に飾られ,男女は厳格に区別され,女の子達は「女の 世界」という文化に閉じ込められる.彼女たちは「レディ らしさ」,すなわちレディの規範に合うように振舞うこ とが求められ,それが文化国家で生きる必要条件であっ た.教師達は地図上でピンクに塗られた,大英帝国の傘 下にある国々の名を子ども達に覚えさせ,そうでない国 ではいかに野蛮なことが行われているかを教え込む.ジェ ンダー・コードを外れることはその野蛮なことの最たる ものであり,女たちはみずからを牢獄の中に閉じ込め,

そこからはみ出る者たちの見張り役をっとめていたので

ある.

 それまで「文化」を知らずに生きてきたエレインにとっ て,それは実に違和感を覚える世界であり,彼女の振る 舞いは当然ぎこちないものとなる.またたく間に彼女は 友達になった3人の少女たちのいじめの対象とされてい

く.いじめはしかし,仲良しグループの中で野蛮な彼女 をレディに近づけるべく「改善」,「向上」のため親切心 からという名目でなされるのである.それまで同性の友 人を持たなかったエレインがその友人を失うことの恐怖 で,この親切という名のいじめを甘んじて受けるという 心理的構図と,そこに逃れようもなくはめ込まれていく 状況が悲惨さを伴って映し出される.子どもにとって友 だちとの関係は世界そのものに等しい.嘔吐,失神,手 の爪をしまいにそれがなくなるほど噛んだり,足の皮膚 をむいたり,という状況を迎えながらもいじめはエスカ レートし,失神することをもなじられた彼女はやがて,

いじめの頂点で失神しないまま意識をその場から遠のか せる方法まで身につける.いじめは昂じて殺人的なもの になる.地面に掘られた深い穴の中にゲームだからと入 れられたエレインは,ふたをされて放置される.極めっ けは冬の渓谷に橋の上から放り投げられた帽子を拾って くるように命じられた彼女が,凍る川水の中でおぼれか けることである.命じた友人は立ち去ってしまい,エレ インは夕闇の中で奇跡的に独力で這い上がり助かるので ある.ここでの文化的矯正という名のいじめのニュアン スとその陰湿さ,壮絶な描写は思わず息を飲ませるもの がある.

 この自伝的作品は8歳の体験を直接的に描く形式には

なっていない,成人して有名画家となったエレインが,

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50歳のときに回顧展を開くためにふるさとトロントに 戻り,自分の芸術家としての原点が自己の記憶の欠落部

(このいじめによってもたらされたトラウマ)にあるこ とを悟り,回顧展開催期間4日間,振り返って過去の生 を再構築していく中で浮上するものになっている.ここ で明らかになるのは,いじめの中心的存在であったコー デリアは,実は彼女自身その家庭にあって家父長的父親 の激しい暴力の対象になっていたことである.また子ど もたちのいじめに背後で共謀していたのはもう一人の少 女の母親スミス夫人であった.彼女は,自分自身「移民」,

「置換させられたもの」の劣等感不安,不満を抑圧し,

その裏返しとして異邦人エレインを敵視監視していた のである.ここでは宗主国イギリスをあがめる被支配国 カナダの複雑な精神性や,そのカナダ内部でさらに抑圧 される立場にあった女性たち自身がそこからはみ出よう とするものたちを互いに監視し,制裁を加えようとする 仕組みが明瞭に描き出される.この作品の構造的枠になっ ているエレインの回顧展は,彼女の再構築されるライフ・

ヒストリーの展開と巧妙に重ねられているのである.

 この回顧展は思わぬ事情でフェミニストたちが運営す るギャラリーで開かなければならなくなるのだが,その 時の彼女が感じる違和感は読者にとって不思議なものと して映る.アトウッドはジェンダー問題を軸に創作し,

女性同士のよき関係,連帯を望んでいる.にもかかわら ず心情的にそれにどうしてもなじめない微妙な感覚が,

原因ともいえるトラウマと共にここに描き出され,差別 や抑圧が一人の人間の一生の心情を支配してしまう問題 がクローズアップされている.

 これらはむろんフィクションとしての自伝であり,ア トウッド自身はこれぐらいの年齢の少女を主人公にした 小説がまったくないから書いたまでだとインタビューで 答えている.4)だがこの作は戦後のカナダの精神的植民 地意識差別の構造を内面化している精神風土,および そこで殺されかけた一少女の人生を克明に描写した貴重 な記録ともなっている.その少女はただひたすら自分と いうものの確信を消去してしまうトラウマという闇から はいあがろうと,まさにその苦闘の中で芸術家になって いったのである.部分的記憶喪失(ブラック・ホール)

は画家エレインの原点である.これはある意味でジェー一一 ムス・ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』を痛烈な皮 肉をこめて書き直したものともいえる.女性はこの社会 で現実的に生きるか死ぬかの問題をめぐって芸術家にな

る.エレインがいじめから抜け出したのは,死者の身体 が溶け出した水ともいわれる渓谷の半ば凍ったような川 水から寒さで麻痺した身体を必死で引き上げたときであ る,いじめの罠から自分を完全に救ったのは自力で生き 延びようとする意志だったのである.

 エレインの芸術と原点としての過去の体験は,アトウッ ドと創作の関係を示唆するものでもある.作品の主人公 たちは皆,みずからを救うために創造する者,芸術家に なっていくのである.

3 アトウッド文学の原点を語る三つの作品  ここでアトウッド文学を理解する上で鍵となる3っの 作品一①『サークル・ゲーム』(1966),②『サヴァイ ヴァル』(1972),③『闇の殺人ゲーム』(1983)にっい て触れてみたい.

 ①の『サークル・ゲーム』はカナダ総督文学賞を受賞 しアトウッドを文学界にデビューするきっかけとなった 詩集である.ここにおいてはカナダという北に位置する 過酷な風土にいかに自分の居場所を見出すかの問いが原 初的女性の声で語られている.この地に移民としてやっ てきたもの(カナダ人)は,たとえそこで生まれたもの であっても,移住者であり,「置換されたもの」である.

居場所探しはアイデンティティ探しともいいかえられる.

カナダの過酷な自然,風土はしかし語り手の女(たち)

にある神秘的力をも与えている.異邦人,流浪の民,旅 人,侵入者である女.詩はこの外部の自然と内部の精神

x

的探求の旅の途上の声である.厳しい旅は同時に彼女達 の精神力,気概を試すプロセスともなっている.

 ここに描出される原初的カナダの風景はアトウッド文 学すべてに共通したものである.それは理性では切り込 むことのできない不合理で,とてっもない危険とパワー を秘めた自然である.対比させられるのが,ここに移住 してきた人間たちの努力の結晶である都市である.彼ら はせっせと猛々しい自然の中に西洋文明という上掛けを 張っていった。それは『奇妙なもの一カナダ文学にお ける悪意ある北部』(1995)のなかで言及されるリノリ ウム張りの洞窟にもたとえられる.荒地を薄っぺらなリ ノリウムで,あっという間に安全な居場所に変えてしま うというわけである.西洋文明という薄っぺらな合理で,

簡便に自然をカバーするという無益な行為,表層の安全

を求めるという誤った指針に導かれ,ひとは自然豊かな

(6)

土地から切り離され,合理的秩序の支配する都市生活と いうリアルで目に見える限られた世界に浸され,麻痺し ていく.これは先の『キャッツ・アイ』のスミス夫人が

リノリウム張りの台所に西洋文明の守り手であるかのよ うに君臨し,娘たちのエレインに対するいじめに加担す ることで,自分自身の異邦人である意識,麻痺感覚をか ろうじて癒している光景を思い浮かばせるものである.

 このように『サークル・ゲーム』は荒々しいカナダの 自然を秩序と合理性の上張りをかけたいとする人間の願 望に潜む危険性を問う「声」である.上張りは薄っぺら で,閉塞的な構築物であり,懸命にその維持に努めても,

とてっもない強力な非合理がその脆弱な構造物を根底か らゆるがそうとしている.作っては壊され,作っては壊 されの繰り返しはちょうどゲームと同じで,遊びの中で はルールと秩序が課されても終わればすべてご破算となっ てしまう.

 一方自然は過酷で危険であるだけでなく解放的イメジ を伴い,それは旅の中でも最も困難な旅,自己自身の内 面の旅にと最終的に重ねられていく.「これがわたしの 写真である」という衝撃的な詩がその一つである.写真 は「わたし」が溺れ死んだ翌日に撮られたものであると いう.その声は,写真の中に自分を探せと挑発するよう に読者に呼びかける,斜面,家,湖,木々が写った写真 の真中,湖の表面に覆われて「わたし」は横たわってい る.はじめは見えないかもしれないが,じっと辛抱強く 見っづけると見えてくる.こうして表面に見えるものよ

り,見えないものに重要な意味が与えられていく.

 この写真(カメラ・アイ)や鏡映像といった視覚的 イメジはアトウッドの全作品に頻出する.対象を視覚的 な表層のレベルでのみ捉え記録する手段は,そのものの 本質を決して十分には伝えてくれず固定,凍結,偽造し てしまうとして,アトウッドはその創作において固定,

完結を避け,様々な解釈可能なテクストとして提示しよ うとするのである.

 ところでラカンがいうように人は主体である自己を鏡 像,他者に投影されたものとしてしかとらえることがで きない.自分自身,その意味を把握することは永遠に据 え置かれる.カナダという風土の中の自分の居場所探し の旅はこうして,外部の危険に満ちた旅よりさらに危険 な内部の旅に移っていく.未知なる自己の奥地を探り,

世界をいかに理解するかを探る旅に終わりはない.旅は,

究極の真実という幻想にかわって複数の,それも変容す

る真実を認識していく果てしのない旅となる.この詩の 声の主は,死んで自然と一体化してはじめて,都市の住 人よりはるかに生き生きとした声を発しているという皮 肉な光景を提示する.

 ②の『サヴァイヴァル』は副題を「カナダ文学のテー マ的案内書」としており,まだカナダ文学が初期の段階 にある頃,その特徴的テーマを特定するために書かれた ものである.この中でアトウッドはカナダ文学は土地,

風土が過酷であるということから主要テーマがサヴァイ ヴァルそのものであり,人も動物も犠牲者として扱われ ていると述べている.犠牲者の姿勢は一様ではなく四つ のタイプに分けられる.一つが犠牲者であることを否定 する姿勢,二っ目があきらめの姿勢,三っ目が犠牲者で あることを認め憤怒を覚える姿勢,四っ目が犠牲者の立 場から創造的に抜け出す姿勢である.この書の意味は,

カナダ文学の案内書というより,アトウッド文学を読む 上ではるかに役立っということである.

 彼女の作品のすべては,いかに犠牲者であることから 脱出するか,にっいて語られているといえる,彼女が扱

う犠牲者とは誰か.単純な答えは,歴史的に声を奪われ てきたマイノリティたる女性である.ジェンダー問題を 人権問題の重要な一部と考えるアトウッドは,みずから が犠牲者であると気づいていない女性たちの問題をクロー ズアップする.だがそれのみならずこの問題は,男性を 含め犠牲者であることに露ほども気づいていないものた ち,地球上の人間の問題にまで敷術され,サヴァイヴァ ル問題が待ったなしの段階に来ていることを告げるもの となっている.アウシュヴィッツの強制収容所での大量 虐殺は,近代文明の育成してきた思想,倫理の価値をこ とごとく打ち砕くものであった.過去が現在を作り,現 在が未来を作ると考えるアトウッドは文明の再検討とい

う課題に極めて倫理的に立ち向かおうとしているのであ

る.

 ③の『闇の殺人ゲーム』はショートフィクションと銘 打たれているが,従来の短編とは異なり,詩的散文とで もいったアトウッド独自の創作ジャンルといえる.心地 よいリズムと不思議な雰囲気をもつ小品が並んでいる.

たとえば最初のものが「自伝」。世界一短い自伝である.

思い出の中のある風景が短く描写され,それから「ある

時,この岩の島に食べ残しの鹿の死体があった.それは

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まるで鉄みたいな,両手ですり合わせた錆が汗と混じり 合ったよう臭いがした.その臭いは,突如として風景が 溶解し,もはや風景であることを止め,何か別のものに なる地点なのだ」5)で終わる.自伝といえども「事実」

の記録ではなく,フィクションである.自分の過去が創 造的なものに転化し,自己が新しく再編成される劇的瞬 間を語るだけで自伝は十分ともいえる.

 「ぐっぐつ煮える」は男たちの料理へのこだわりを描 いている.権力問題は結局のところ強いものが被抑圧者 をこだわりを持って料理することである.セクシャル・

ポリテックスをカニバリズム,料理のメタファーで表現 するアトウッド流ゴシック風物語の読み取り法としてこ の小品も興味深いものがある.

 そして表題作である「闇の殺人ゲーム⊥闇の中で行わ れる殺人ゲームは,殺人犯だけ嘘をっくことになってい る.おまけに闇の中で殺人犯は見えない.このゲームが 示唆することは,恐怖の意味である.ホラー小説とミラー

(鏡像)小説は韻を踏んでいるように.恐怖とは自分の 中に内面化したものから生じる恐怖,真実を見ることへ の恐怖ともいえる.殺人犯は愛する人であったり,これ までのテクストの作家達ということもできよう.素敵な 人が現れれば人生は蜜月となるというロマン主義的迷妄 を植付け,また世界を善悪,白黒などで二分し,物事の マイナス面を抹殺すれば問題のすべてが解決するという これまでの思考を再生産する物語の作家達ともいえる.

『闇の殺人ゲーム』の作者アトウッドは,さらにそういっ た作家達とその物語をターゲットとした暗殺者になりす まし,犠牲者である読者,もしくは作品自身を救ってい るというわけである.ここに入れられているすべての作 品は従来のいわば昼光の中の物語の裏物語,ひねられた 物語であることがわかる.そこには先に触れたヴァレリー のランプを思わせる「偶然ひっくり返って壊れてしまう ランプも含まれている」6)ように,人類の危機的状況が ウィットに富む文体で示唆されている.そしてこのすべ てがアトウッド文学の凝縮形となっているのだ.

 アトウッドの作品の複雑にひねられた形式は,こうし た意味で伝統的文学ジャンルの価値低下をねらったもの であることがわかる.昼光のなかで目に見えるものばか りにとらわれ,巨大でおそろしい自然の中のリノリウム 張りの洞窟が安全であるという幻想を植え付けられた者

たちに「第3の目」で現実を見ることを勧めるのである.

この目についても,ここに入れられた小品の一っ「第3

の目にっいての手引き」で語られている.第3の目を使 いたいなら,他の2っの目は閉じなくてはならない.そ れは身体の目であり,カメラ・アイでは決してとららえ ることのできないものを読み取る目である.文明,理性 がすべてであり,野蛮なもの,異質な他者を駆逐すれば 世界は理想的なものになるという迷妄,幻想の中で暮ら している人々は,殺されてからやっと迷妄から解放され る.闇の殺人ゲームの作者は,その最もおそろしいこと の起こる前に,幻想そのものの殺人犯を引き受ける.こ のショートフィクションは,詩的で,最もウィットに富 む,アトウッドの作品のエキスともいうべき情報提供の 書でもあり,その究極的メッセージは最新作『オリック

スとクレイク』(2003)にっながっていく.

4 アトウッド文学の主題

 こうしてアトウッドは,犠牲者であるものが創造的手 段(芸術家になること)によっていかにサヴァイヴする かを物語り,同時に文化の再生産の仕組みを暴きながら 人間の中に内面化されている思考のパターンの組みなお しをはかる。それはラブロマンスなどの伝統的文学のジャ ンル破壊でもあり,また,これまで表面に現れない裏側 の物語を語ることでもある.見えている月を語るのでは なく,その裏側の闇,見ることができるものの背後に潜 むものを眼前に浮かび上がらせようとする試みである.

 この問題はアトウッドが常に意識しているフェミニズ ム文学の教祖的存在であるウルフの主張と照らし合わせ るとわかりやすい.20世紀前半ウノヒフがやろうとしてい たことは,マイナーであることを強要され,沈黙させら れてきた女性たちの声,その物語を聞かせることであっ た.男性の視点から,その社会的行為が綴られたそれま での文学作品の裏側に,常に影のように存在しつっ不可 視化されてきた女性の物語を浮かび上がらせることであ る.ウルフの歴史的意味は,そのような物語の基盤を意 識の深層,自己の中に無限に広がる未知の領域に置くこ とによって,それを浮上させうる方法を明示したことで ある.ウルフの自伝的要素が多く含まれている『灯台へ』

にはそうした新しい試みへの思索が結晶のように示され ている.

 アトウッドはこれを受けて,たとえば『侍女の物語』

の場合,それは性の奴隷とされてしまった主人公オブフ

レッドの物語であるばかりでなく,時代を旧約聖書まで

さかのぼり,発話を許されることのなかったハンドメイ

(8)

ドという奴隷の物語であることをも示唆している7).

『ボディリー・ハーム』(1981)は,従来女性が中心的役 割を担うことのなかったアクションに満ちたスリラー風 探偵小説の裏返し版であり,女性の眼差しで,内面の感 情や思索を中心にした語りで構成されるスリラーである.

それは単なる裏返しでもなく,ジェンダー・システムや,

人種,国際政治を単純化するそれまでの探偵小説を脱構 築したものともいえる,『キャッツ・アイ』にしても,

男性ではない若い女性がいかに自己表現できる勇気を持 ちえたかの『若き日の(女性)芸術家の肖像』である.

 裏の物語は単に浮上するというものではない.語り手 が,自己自身のライフ・ストーリー(それはライフ・ヒ ストリーでもある)を物語ることにより,自己と世界を 知覚,了解,認識し,内面化されている抑圧メカニズム を切り裂き,自己を樹立していくことで達成される.そ れは自分とは「何」であるかを求めるエンパワーメント の手段ともなる.

 まさにアトウッドの作品の主題とは,そのような意味 で「語ること」そのものであるともいえるであろう.彼 女の小説のほとんどはプロットで推進されるドラマとい うより,ひたすら過去を振り返り,回想のナレーション で構成されることに注目したい.主人公の行為はすべて 過去のものであり,作品の中心軸は近いもの遠いものを ふくめて過去にっいての語りにある.歴史的殺人事件を 題材とした『アリアス・グレイス』(1996)などはその 最たるもので,殺人事件はずっと以前に起きていて,歴 史上殺人犯とされているグレイスがそれについて「彼女 の物語」を語るのである.『レディ・オラクル』(1976)

にしても別人になりすました女性作家が,自分の書くコ スチューム・ゴシックと実人生が区別がっかなくなった それまでのライフ・ストーリーをはじめてトータルに語 るのである.『侍女の物語』,『キャッッ・アイ』,『泥棒花 嫁』(1993),『盲目の暗殺者』もそうであるし,最近作の サイエンス・フィクション『オリックスとクレイク』も,

人類破滅の時点でそれまでの過去が振り返って語られる のである,革命や暴力,政治が前景化されアトウッドの 作品中最もアクションに満ちた『ボデュリー・ハーム』

にしても,これが語られる時点ではすべてが過去のもの となっている.

 ただし過去と現在という時の遠近法を極めて巧妙に操 作するアトウッドの技法によって,読者は読んでいる時 点ではそれが過去のことなのか現在のことなのかを特定

することができない.際立った例が『侍女の物語』で,

とらわれの身の侍女の独白として感情移入して読む読者 は最後においてはじめて,それが後にテープに吹き込ん だ侍女のナレーションであることを知り,かつ200年後 にそれを発見した人間が書き写したものであることがわ かるという仕組みである.『ボディリー・ハーム』も,

事件のあとに同じ牢獄に入れられた2人の女性が互いに,

自分のライフ・ストーリーを三人称現在で語り合った 物語である.ドラマ仕立てとはなりえない裏の物語とも いうべき心の内部世界を立体的に提示すると共に,時間 の経過の中でそれが変容する過程をも刻印するため,時 間を関数としたアトウッド流の小説構成法である.

 このように見てきたとき,わかりにくさゆえに論じら れることの最も少ない『ライフ・ビフォア・マン』

(1979)の意味も見えてくる.表向き19世紀のリアリズ ムの大家ジョージ・エリオットに敬意を表し,大作『ミ ドル・マーチ』にならって書いたと言いながら,実際に はこれはリアリズムの手法が人間の物語を伝えるのにい かに不適切なものであるかを意図的に示す作品となって いる.伝統的プロットに依存して展開するリアリズム小 説の裏をいくため,結婚の破綻とか,ロマンスの始まり とか,レイプなど,ことごとくのアクションがステージ の外で起きたものとなり,他の作品と同様ナレーション をプロットから完全に切り離し,登場人物の心の内部の ドラマのみに徹底して焦点を当てている.まさにウルフ がかって目指したように,人物の思考だけのドラマであ

る.

 ロイヤル・オンタリオ博物館が巧みにそのための装置 として取り入れられ,人物の心のドラマが当人の内部か らではなく,博物館の仕切られた恐竜陳列室の標本さな がらリアリズムの手法で外部から科学者の研究対象,サ ンプルのように眺められる滑稽な仕組みになっている.

その不適切な構造に適応するように,小部屋に閉じ込め られた人物たちは,自然や大きな生の流れから切り離さ れ,自己の不満だらけの不幸な人生をすべて他人のせい にする犠牲者としての思考を展開する,これがトロント という都市に繰り広げられている20世紀西洋文明社会 の生のありよう一「20世紀の『ミドルマーチ』」であ ることが克明に示されている.やがて人物たちはその不 幸な閉ざされた標本室から自力で抜け出し,大きな神話 的生の流れにつながっていこうとする.2年間というア

トウッド作品の中では最長のタイムスパンの中で,秋の

(9)

暗い死の雰囲気から始まり,最終では夏の豊かで生の実 りを思わせる光景が示されるのである.

5 物語ること

 作品の主人公たちにとってそれまでの自分を語ること は,わたしは何かを間う自己の探求であり,思考や懐疑 を通じて自己を反省的にとらえていこうとする行為とも いえる.『侍女の物語』の主人公オブフレッドは自分を

〔〕の空白と措定し,そのライフ・ストーリーを語る ことにより,自分を取り巻く世界,およびその世界と自 己との関係を理解し,そこに自己を構築し,力を回復し ていく.ここでアトウッドは主体を直接に措定するので はなく,反省的に,再起的に,文法的に捉えようとして いるのがわかる.書くわたしは,書かれた作品のわたし 自身ではない.オブフレッドは書かれたわたしという他 者を通じて自己を認識するのである.こうしてアトウッ ドの作品ではしばしば自己の認識は,自分が今どのよう なところにいるのかという居場所の認識として表される.

『ボディリ・ハーム』の一見不可解な出だしである「こ のようにしてわたしはここにやって来た」というセンテ ンスも,過去の経験の物語を経由し最終的に達成した主 人の自己認識を示すものといえるのである.

 また一方,自分にっいての物語は虚構であるともいい うる.アリアス・グレイスの語りに顕著なように,それ はうそであるかもしれない.体験として事実であっても,

過去の断片的記憶を全体として復元する際,そこには語 り手の想像や幻想が入りうる.しかし自分のライフ・ス

トーリーとは,それが自己にとって真実であるかどうか だけが問題なのである.自分の物語を語る中で,自己の 生き方におけるものの見方を得ることができるのであり,

また語ることによってそうした見方を抑圧しようとする ものに抵抗できる.

 オブフレッドは自分がとらえられている部屋を見回し ながら物思いにふけり,絵画の手法である遠近法(パー スペクティヴ)が必要であると繰り返す8).彼女は過去 の物語を語っていくにつれ,自分のものの見方(パース ペクティヴ)をっかみ,自信と勇気を持ってそれを主張

し,おのれを黙、らせるものに抵抗するようになる.犠牲 者である彼女が語ること,すなわち作家の役割を引き受 け,「侍女の物語」という作品を書くこと(語ること)が 名実共にサヴァイヴの手段となる.自己とは実体という より,物の見方(パースペクティヴ),体験の世界に対

する視野そのものともいえる.

 伝統的物語を裏側の視点から語ることは,同時にそれ まで隠されていた,「危険な知識」を表出することでも ある.20世紀末にアメリカに登場したとされる地上にお ける天国を目指した全体主義国家は,・それを支えている ファロセントリズムとは対極の,女性の視点で語られる 時,まったく違う姿を露呈する.男性の視点で書かれる ユートピア小説の裏をいく『侍女の物語』という未来小 説は,こうして伝統形式とその内容を鋭く批判するディ ストピア小説となるのである.実質的デビュー作となっ た『浮び上がる』(1972)は,伝統的父探しの物語を踏 襲しながらそれを壊し,女性の母探しの物語を「浮上」

させる.父探しの旅の女性版は,カナダの未知なる自然 と重なる,限りなく広がる自己の内面にもぐる旅となっ ている.

 物語を語ることは初期段階では発話のための言葉が見 っからず不可能であったりもする.またたとえば『レディ・

オラクル』にはめ込まれた物語のように,物語そのもの

(ゴシック・ロマンス)が自己を縛ってしまう落とし穴 となることもある.『盲目の暗殺者』のように,語るこ とで抑圧者を暗殺し,復讐を遂げながら,同時にその語 り手自身が盲目の暗殺者であったことを認識しなければ ならない辛い作業にもなりうる.

 いずれにしてもアトウッドにとって語ることは,自己 がエンパワーし,犠牲者である場から自力で抜け出す転 回点を意味するものになっている.それは,世界を幻想 を払った目で見ることと重なりうる.

6 語り手,芸術家になること

 ライフ・ストーリーを語るという自己を全体として体 験する作業によって,力とエネルギーを得て犠牲者の立 場から脱し,生き延びるというのがアトウッドの全作品 に共通するモチーフであることは既に述べた.これはカ ナダ文学のモチーフが犠牲者である,というアトウッド の認識にっながるものである.この犠牲者たちが生き延 びるために獲得していく力とは,社会,政治的な場から 与えられる九権力とはまったく別次元のものであるこ

とは確認しておく必要がある.

 セクシャル・ポリテックスとそこから生じる犠牲者に

っいて物語る「青ひげ」はアトウッドにとって最も興味

あるおとぎ話の一っである.アトウッドの作品にはもと

もと物語りの元型ともいうべき神話やおとぎ話,童話な

(10)

ど様々なインターテクストが組み込まれているのだが,

中でも重要なのがこの「青ひげ」の1バージョンであるグ リムの「泥棒花婿」である.夫の裏切りと殺人,カニバリ ズムといった結婚制度に潜む秘密を察知し,その危機を 自力で克服する若い娘の物語である.ここには「サヴァ イヴァル」のモチーフが端的に示されている.夫となる 男の怪しさに気づく花嫁は,結婚式の宴の席で客達をも てなすために夢の物語として若い女たちが殺され身体が 切断される物語を語り,実際の切り取られた指を証拠品 として示すことにより,自分自身がその犠牲者の一人と なることから救われるのである,社会の中で抑圧され

(比喩的に死と結婚したものとして表される)9),麻痺状 態(比喩的に手足を切断されたものとして表される)で 生きる犠牲者たちは,自分自身のそれまでの物語を語る こと一回想すること(ここで思い出すrememberは,

切断された手足の統合re−memberとかけられている)一 一でサヴァイヴする.それはしばしばシェエラザード像 として語られることもある.残忍,邪悪なサルタンの妻 は毎夜アラビア夜話(アラビアンナイト)を王に話して 命拾いをするのである10).このシェエラザード像が明 瞭に示されているのは,自分の話によって牢獄から抜け 出す『侍女の物語』と『アリアス・グレイス』である.

 犠牲者となる危機的状況で,悪しき者が誰であるかを 名指し,告発する声を発し,自身を救うという物語はア トウッド作品の中に形を変えて繰り返しあらわれる.

『侍女の物語』のように身体的にも危険な状況が明示さ れる場合もあるが,たいていは社会的因習,セクシャル・

ポリテックスなどから犠牲者の症状は顕在化しないため,

自分が犠牲者であることを否定したり,あるいはまった く気づかない.そこで現実の死もしくは精神的な死を回 避するサヴァイヴァルの戦略として,内省,想像力,自 己を表現する声,アートが必須のものとなる.

 短編も含あ初期の作品の主人公達は,自分たちの生に 何か違和感を覚えながら,それを表現する声すなわち言 葉が見っからない.漠たる不満に対して,それを分析し て語る言語がない.しかし少しずつ勇気をかき集め,自 己の物語を語りだすことによって,対象を理解し,社会 と自身の内面の抑圧システムに抵抗できるようになる.

こうした犠牲者達の物語の語り方,すなわちアトウッド の作品の初期からの展開は,彼女を取り巻く社会的動き とぴったり呼応するものとなっている.

 1960年代はフェミニストたちが自分たちの経験とそ

の抑圧的状況を理論分析し,名づけ,定義し,行動を起 こしていった時代である.こうした動きのメルクマール ともいうべき書がベティ・フリーダムの『女性の神秘』

(邦題『新しLi・女性の創造』)(1963)である.戦後確立 された覇権国家アメリカの未曾有の経済的繁栄を背景に 性別役割の構造が揺り戻しにあい強化されるなかで出さ れたこの書は,女性にとっての人生モデルおよび秩序に 抵抗する第一声であった.さらに,セックスのように極 あてプライベートな問題とされ不可視のままに置かれて いた領域にも権力関係が作用していることをセクシャル・

ポリテックスと名づけて指摘し,性差別というものの総 体的変革を訴えたのがケイト・ミレットの『生の政治学』

(1970)である.

 アトウッドの第1作『食べられる女』(1969)と第2作

『浮び上がる』(1972)では主人公達の犠牲者であるとの 思いや不安は言語ではなく,もっぱらシンボルを通じて 伝えられる.『食べられる女』が書かれたのは出版年代

とは異なり1955年のことであり,性の力関係,家父長的 抑圧を明晰に言語化できなかった頃である.ここでは伝 統的求愛,結婚物語の枠組みの中で,ステレオタイプの 受動的女性マリアンの,未来の夫が自分を殺そうとして いるという分析できない不安感をゴシック・ロマンスの 雰囲気を借りて前景化している.市場調査の仕事をし,

消費者の漠たる心理をコマーシャルの一般言語に翻訳し ていく仕事をやっていながら,彼女は自分の心理に関し ては言語化できず,代わりに拒食症というかたちで自己 の身体を通じて抑圧を語る,婚約者の支配的態度が増大 するにっれ,彼女の拒食は昂じていき,マリアンは自分 が小さく縮んでいくと感じる.これが自分を食物と一体 化させる幻想を生み,少しずっ食べられてしまいになく なってしまうという不安感を引き起こす.不安の意味を 言語で表現できず,自己イメジであるケーキを作り,そ れをフィアンセではなく自分自身が食べるという演出で とりあえず不安解消が達成されるという段階で第1作は 終わっている.第2作の『浮び上がる』は『性の政治学』

の2年後に出されているが,ここでも名前のない女性が,

言語ではなくシンボルを通じ,内部に潜るという儀式で かろうじてサヴァイヴする方向性が示されている.『レ ディ・オラクル』にしても,語る声を獲得したとはいえ,

その声の力は彼女をかろうじて抑圧の世界から逃避させ

るところにと留まっている.以上の3作が3部作となっ

ているのは,表現がその初期的段階にあるという意味で

(11)

ある.

 次の3部作(『ライフ・ビフォア・マン』,『ボディリー・

ハーム』,『侍女の物語』)からは問題が明瞭となり,当 時のフェミニズムの社会,政治批判を反映し,政治体制 や人権問題が前景化され,舞台のスケールは大きくなる.

すなわち青ひげは初期の作品のように単に悪魔性を秘め た愛人ではなくなり,腐敗した社会,その体制を支える 政治家,独裁政治家などにとって代わる.マイナーであ る女主人公たちは,その運命を男性の権力者に握られて いる.しかしその脅しにもかかわらず,彼女たちは社会 悪の目撃者となることを決意し,語り始め,まさにその

ことによって自分自身を回復していく.『ボディリー・

ハーム』の主人公レイニーは自分を取り巻く暴力,腐敗,

虐待,そして旅する先のカリブ海の島での貧困,政治騒 動等に不思議なほど盲目で,犠牲者である地位にしがみ っいているように描かれる.だが,語るものになる変身 の劇的転回点は同じ牢獄に入れられたローラが残虐な暴 力で死にかけるときである.アトウッド流に言えば,彼 女は死と結婚した花嫁であり,身体を切断され生きる感 覚を失い,麻痺した人間である.そのレーニーが激しい 暴力を受けるローラの状況を目の当たりにして彼女の手 を握り,傷をなめてやることで衝撃的に生の感覚を取り 戻す.ローラの状況を他人のものではなく自分自身の現 実であることを理解し,生きて帰国したとき,この体験 を報道しようと堅く決意するのである.

 『侍女の物語』ではさらに物語る行為は明瞭化する.

書くこと,読むことを厳格に禁止するギレアデ共和国に おいて,物語を語ることは反逆的行為である.にもかか わらずオブフレッドは語ることは自分にとって救いにっ ながることを察知する.当初それは自分の過去の友人,

家族などの大切な記憶を失わないようにするための手段 であったが,次第に過去の経験を全体的に捉え,自分が 何であるかを構築する目的に変質していく.女性が人権 を根こそぎ奪われ,その機能にしたがい色別の制服を着 せられ生かされているギレアデの凄まじい光景を物語る

『侍女の物語』にはスウィフトの「最終的提案」11)の言葉 がエピグラフとして使われているが,ここにはさらにナ チスによるユダヤ人絶滅政策の「最終的解決」としての アウシュヴィッッ強制収容所内部光景も重ねられている.

 収容所の内部はさらなる差別,偏見,対立の縮図でも あり,囚人達は赤色は政治犯,黄色は亡命者,緑は刑事 犯,ピンクは同性愛者などと色分けされ,相互の対立に

よって自主管理システムが成立している12).被差別者が 冷酷な差別者となる様子はそのまま『侍女の物語』に映

し出されている.この世界でかろうじて生き延びるには,

非人間的システムに荷担しなければならないという痛ま しくも微妙なニュアンスもここには含まれている.とす れば生き延びたものが語る悲惨な歴史的事実はどこまで 正確でありうるのか.さらにまた大きな問題は,大量の 人間の移送,収容,絶滅が,ドイツという現代社会シス テムの中で能率的に遂行されていき,多数の「善良な人々」

がそれを知らなかったし,知ろうとしなかったという事 実である.こういった諸々の気の滅入るような問題意識 を込めて,アトウッドはオブフレッドに遅々として進ま ない物語を「ためらいながら」語らせる.彼女が現実に 生き延びたかどうかは作品の中ではっきりとは語られな い.いずれにしても犠牲者である彼女のライフ・ストー リーは,善き人間としての無責任さを自覚させる手段に もなっていることをっけ加えなければならない,毎朝夫 を「お仕事大変なのね」13)と言って送り出す収容所の管 理者の善良なる妻のおそろしい無責任さと,善き人間の それは大差ないということである.

 オブフレッドのライフ・ストーリーは諸々の反省を込 めて構築され,そこに彼女のパースペクティヴが生まれ,

抑圧するものからの解放の可能性を示すものとなってい る.それは個人的解放のレベルに留まらず,ギレアデの 公的記録とは正反対の告発文書となり,他の諸国へと流 布し,全体主義国家の崩壊へとっながっていくことが暗 示される.

 ところで興味深いのは,オブフレッドが一旦語り出す や,それは彼女にとってそれ自体目的であるかのような 壮大なプロジェクトとなっていくことである.つまり彼 女はとらわれた弱気の犠牲者として受動的に無垢な態度 で物語を語るのではなく,語ることに伴う巧妙な技法を 編み出していき,次第に芸術家,作家となっていくこと である,

 この傾向は後期の作晶に顕在化していく.語り手は単 なる語り手ではなく,プロフェッショナルな芸術家,

『闇の中の殺人』で示唆されるトリックスターとなって

いくのである.トリックスターはおとぎ話では,話を聞

くものを興じさせ,教訓を与え,かっ,だます.これに

よっておとぎ話の解釈は多様に広がり,作品の一面的解

釈を禁じる役目を果たす.『キャッツ・アイ』において

も,子ども時代のいじめの張本人たちへのパロディ的絵

(12)

画を通じた復讐の展開は極めて手の込んだものとなって いる.『アリアス・グレイス』の主人公グレース・マー クスなどはその語りの巧みさで,自分の無実をしかるべ き人たちに確信させ,牢獄から釈放されるという実績を 得る.彼女はキルト作りの名人で,作品の各章のタイト ルはこのキルトの名称であるのだが,天国の風景をあら わしたキルトの片隅に蛇が配置されていることは,彼女 の話の虚構性をもにおわせ,語り手グレースのトリック スターとしての側面が強調されている.

 中でも『泥棒花嫁』の前面に出てこない主人公ジーニ アはこのトリックスターの完壁版ともいえよう.この作 品は民族人種ともに最も多様なカナダの都市の一っで あるトロントを舞台にして,登場人物のすべてが自分の 過去にっいての話を互いにするだけで構成される.彼女 たちはそれぞれ不幸な過去から脱するため,次々と名前 を変え,新しいアイデンティティで新しいライフ・ストー リーを作り上げて語る.なかでもズィーニアはいかなる 局面でも自分の物語をでっち上げる名人である.彼女は 作品には一度も現れず,その物語は3人の主たる登場人 物の語りを通じて伝えられる.彼女はヨーvッパの戦争 孤児で運命に翻弄されたかわいそうな犠牲者であり,他 の3人にとって典型的異邦人,よそ者である.ところが ズィーニアはそのライフ・ストーリーを巧みに語り,聞 き手の全面的同情を引くしたたか者でもある.女性たち は,一見無力で哀れなズィーニアの話にだまされ,救い の手を差し伸べるうち,その彼女から自分たちの愛人ま で奪われてしまう.ズィーニアはたしかに謎めいた悪女 である.しかし彼女の悪行にっいて報じる3人の女性の 心の深層風景は,告発の対象であるズィーニアの物語を そのまま投影したものであることが露呈される.結局の ところこの物語は,ポストコロニアルなカナダという場 で犠牲者として生きる女性の存在,アイデンティティの 不安を描いたものであることがわかる.ヨーロッパへ憧 れながらカナダで移民として,異邦人として,他者とし 生きる彼女たちの劣等感は,多様な他者を包括しなけれ ばならないカナダ人のアイデンティティの問題とっなが るものである.三人の女性たちのズィーニアに対する非 難は,期せずして自分たち自身の抱える劣等感,自己分 裂の表明ともなっている.語ることにより,それぞれが 幻想から目覚め,自分たち自身が犠牲者であったことに 気がっいていくというその変質こそがこの作品の最大の ポイントとなっている.彼女たちはズィーニアという他

者,移民,亡命者,異邦人を自分たち自身と認め,複数 からなるカナダ人としてのアイデンティティを承認し,

それに自信を持っことで,初めてヨーロッパ中心主義,

植民地の精神性から脱することができるようになる.ズィー ニアが死に,その灰が撒かれる儀式はすなわち彼女たち の再生の儀式でもある.彼女たちの心を脅かす幽霊(犠 牲者という劣等感)であった哀れな女,悪女ズィーニア

は見事なトリックスターといえるのである.

 この点においては『アリアス・グレース』のグレース はジーニアと酷似している.アトウッドの作品において,

比喩的な意味でとらわれの身になっている女性たちと違 い,グレースは文字通り殺人罪で牢獄に入れられている.

しかし彼女は一見無力でありながら,巧妙な物語を展開 することで現実にその牢獄から見事に抜け出してみせる

トリックスターなのである.

 ブッカー賞を受賞した『盲目の暗殺者』は,犠牲者ア イリスの著作となっている.彼女はこの物語で語られる 出来事を記録できる唯一生き残った人間である.迫り来 る老いを自覚し,記憶の戦場で記憶の風化に抵抗してい る.「時」という記憶の「暗殺者」と闘いながら,ライフ・

ヒストリーを書くことで自分を裏切ったものを暗殺して いくのである.書くことは告発することだけを意味しな い.そこでは自己の盲目性の責任をも問われるのである.

この作の最も巧妙なトリックは,犠牲を強いた犯人をテ クスト上で暗殺するはずの物語が,実は自分自身が最愛 の妹の盲目の暗殺者であったことを露呈しなければなら ない痛恨の物語にもなっていることである.しかし盲目,

裏切り,犠牲,沈黙をキーワードとするこの作品におい

て,主人公であり著者でもあるアイリスが夫リチャード

の裏切りを知り,盲目から洞察力の人に変身してからの

そのパワーと行動力は目を見張るものがある.夫の家を

出て,先祖伝来の家財を売ることで,抜け目ないビジネ

スをやり彼女は自立する.家財を磨き上げる家庭の天使

は,それを売り払ってしまうことで従属的存在から行動

する主体に変わっていく.しかし夫の悪行を物語ること

で彼は死ぬが(ショックによる事故死,または自殺がほ

のめかされている),アイリスは決して犠牲者から抑圧

者へと変わったわけではない.二項対立から解放される

道,すなわち第三の自力でサヴァイヴする道を見出すの

である.彼女の作品はそのメッセージを伝えるべく,彼

女の孫娘,未来の世代へ捧げられているのである.

(13)

7 まとめ

 以上見てきたようにアトウッドは差別,犠牲者,サヴァ イヴァルをめぐりジェンダー問題を前景化しながら創作 している。ゴシク・ロマンスというジャンルを意図的に 採用し,かっそれを破壊しようとするのも,このジャン ルがステレオタイプ化された性別役割を基盤に,秘密と 開示の複雑な語りから成り立っ物語であり,その空想世 界にコミットする女性自身の内面の問題一性的に傷 っきやすいという名目で家庭という閉所に無力な状態で 閉じ込められる彼女たちの不安感一と直接にっながっ ているため,犠牲者自身が自己の深層心理を理解し克服 する物語に有用であるからである.前項で述べたように アトウッドは犠牲者,被差別者の問題を,差別をするも のとの二項対立的関係ではとらえず,そのもの自身の内 部の力という第三の救済法を思考している.グリムの

「ラプンッエル」のように閉所にこもりながら,救いの 主であると同時に人殺しであるかもしれない王子をただ 待ち続ける心理構造を打ち砕こうとするのである.

 この第三の道はアトウッドが第一作から描きっづけて いるダブル,ツウィンの問題とっながり,それが彼女の 究極の命題ともなっている.複数の多様なアイデンティ ティを国民性とするカナダという地に足を据え創作する アトウッドは,西洋の伝統的自我中心的存在論を否定す る.彼女は自己の内部の,自覚する自己とは正反対の他 者を排除せずに意識しっづけ,それに対して責任を持と うと努める.犠牲者の生き延びる方策は,人間個々人の 厳しい倫理的姿勢に求められているのである.『キャッ ツ・アイ』や『アリアス・グレイス』に顕著に認められ るように,自己と他者の位置は逆転したり,あるいは自 己が他者の人質になっていたりするほどである.グリム の「手のない娘」をインターテクストとして構成された

『ボディリー・ハーム』では,この現代社会の犠牲者と して,比喩的な意味で手を切断された娘として登場する 主人公レイニーが,他者一暴力で死にかけている同性 の友一に初あて共感を込めた手を差し伸べた時,彼女 は失っていた手を回復し,犠牲者である状況から立ち上 がるという象徴的場面が描かれている.このようにアト ウッドは自己と自己内部の他者の葛藤を調和的に包括す るような物語を構築しながら自己を解釈し,作り出され た物語を解釈して自分を理解する,という個々人の気の 遠くなるような循環的行為を通じて,新たな文化の規範

のようなものを創出しようとしているといえよう.

 最新作の『オリックスとクレイク』は,サイエンス・

フィクションの形をとり,人類絶滅というショッキング な未来の視点から人類のサヴァイヴァルの問題が語られ る.この作のエピグラフの一っとして「安全はないのだ ろうか.世界のあり方を心で学ぶことはできないのか」

13)というウルフの『灯台へ』の一節が引用されている のは示唆的といえよう.まさに西洋文明を中心としたこ の世界の危機は待ったなしとアトウッドは考えている.

陰欝な未来の光景はすでに『侍女の物語』で描かれてい る.白人はすでに絶え,地球は汚染され,かろうじて生 存できるヌナビットの地で,それまでマイノリティとさ れてきた人々によって侍女のテクストをめぐる学会が開 かれている。そこでの恐るべき光景とは,人類が滅びか けていてもなお同じ差別的文化の再生産がおこなわれて いるということである.『闇の殺人ゲーム』が警告する ように,人類は絶滅してからようやく盲目から洞察力を 持っものに変身するのかもしれない,という恐ろしいメッ セージの込められた物語がカナダから英語文学として発 信され続けているのである.

1)自己の中の他者(ジキル)について,Margaret   Atwood, Nego tia ting with thθDead_A writer   on Writing(Cambridge:Cambridge University   Press,2002)の2章で論じられている.

2)Margaret Atwood, The Handmaid s Tale(1985:

  London:Vintage,1996) p.85.

3) Ibid., p.279.

4) Earl G. Ingersoll ed., Margaret A twood−一一Con−

  versa tions(Ontario, A Firefly Book,1990)

  p,237.

5)Margaret Atwood, Murder in the Dark   (London:Virago Press,1994)p.9−10.

6) Ibid., P.49.

7)

8)

9)

『侍女の物語』には3つのエピグラフがついており,

その最初のものが旧約聖書の『創世記』第31章1−

3節であり,代理母となるハンドメイドとオブフレッ ドの重ねあわせが示唆されている.

ThθHandmaid s Tale. P.31.

ここでの死は,悪魔的男性(夫)や不毛な文化や

制度を比喩的に言い表したものである.

(14)

10) Karen F. Stein, Margaret A twood Revisitθd   (New York:Twayne Publishers,1999)p.45.

11)『侍女の物語』の2っ目のエピグラフがスウィフト   の有名な提言である。いわゆるアイルランドの困窮   に一向に救いの手を差し伸べないイギリスの態度   に業を煮やし,それでは飢えたアイルランドの子   どもたちの肉を缶詰にしてイギリス人に食べても   らおう,という彼の皮肉を込あた最終提言である.

12)アウシュビッの強制収容所の問題にっいては『20   世紀の定義』岩波書店 2000に負っている.

13) The Ha1コd1ηaゴd 5 TaleL p.155

14)Virginia Woolf, To the Light刀加5θ(1927:

  1.ondon, Hogarth Press,1977)

付記

本稿は、平成13年度に始まるプロジェクト研究「20世 紀英語文学を取り巻く風土の変容とその力学の研究一 フェミニズムとポストコロニアリズムの視点から」の報 告である。

Summary

Narrative Innovation and Cultural Rewriting in Twentieth−century English Literature       −focusing on Margaret Atwood

   Placing her in twentieth−cen加ry English and Canadian social, historical and literary context,

this essay attempts to study Margaret Atwood s writings, which question, challenge, and dismpt

the conventions of both literary tradition and social stmctures as well as Western philosophies.

参照

関連したドキュメント

 筆者はこれらの中にハウの『幼稚園唱歌』に関係するも のがあるのではないかと考え,上記の4冊を入手し照合を 行った.すると,スミスの “Songs for Little Children” 14)

 80年代以降,百貨店や古い体質の専門店から,20才

た,従来の教科書では日本社会の特徴を,柳田国男流の

 イソップ寓話はもともと子ども向きに作られた話では

訴訟手続きの代理,適切なしっけなどが定められ,義務

 「ヨーロッパにとって歴史的に重要となったリスボン

 上記に挙げた資料はBeoωulf一作品からのものであ るが,他の古英詩作品にあたれば更に多くの

 いくっかの点が確認できた。1点目は、これまでのテーマワークは意識を深めるのに有効で