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智山學報 第61 - 025安井 光洋「青目釈『中論』における戯論の用例」

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(1)

用 例

安  井   光  洋

 

0

,は じ め に

 

戯論

(prapafica)とい

大乗

仏 教の思想 に おい て極め て重 要な 位 置を占 め る 語 で

り、 そ れ は 特 に

Nagarjuna

の 主 著

Mzalamadhyamakaharikd

MMK

)の帰 敬 偈で 用い ら れ てい るこ と で られ る。 こ の帰 敬 偈で はい わ ゆ る八不1) う形縁 起現 され 、 さ ら縁起 と は 戯 論 滅 して い る (prapafic。paSamarp )」 もの であ る と説か れてい る。

 

この

MMK

に おける

prapafica

とい うサ ン ス ク リッ ト

につ い て

諸先学

に よ る現

語 訳 を

照 する と 「言 語 的

「こ とば

も に 梶 山

1969

])、 「

想 定

さ れ た論 議」(三 枝 [

1984

])、 「形而 上学的論 議」(中村[

1980

])、 「言 語 的展 開立 川

2007

2)な ど 例 が

 

これ らの 訳 例によれ ば、 この 戯論 とい

語が こ とば と密接に関わ りの ある 単語 で あ ることが分か る。 そ して、

MMK

におい てそ れは

せ られ るべ き も の で ある とか れて い る の である。 この ことか ら、

MMK

に とっ て 「

論の

滅」 とは、 中心テ ー 縁 起 を明ら か にするた めの重 要 な目的の ひ と つ であるとい

 

その た め、 当然 この 語 につ い て はすで に多 くの 先 行研 究が存 在す るの だが 、 その 明確 な語 義 あるい は用

につ い て は未だ明 らか になっ てい ない 点 も少な くない よ

に思 わ れる。 その理 由と して は、

MMK

の 中で

戯論

は そ れ ほ ど頻 繁に言 及 されてお ら

3) 、 さ ら にこの 語が ど

意 味 を持つ もの であるの か とい

とが主

られい とい

こ とが

げられる。

 

そ もそ も、 こ の 戯 論 とい う語 自体

Nagarjuna

に も古 くか ら様々 仏典におい て用い れ てい る もの であ り、 ニ カーヤ で はパ ー リ語の

papaica

      (

35

(2)

智山 学報 第六十一輯 とい

形で広 く用 例が見 受 け られ る。 しか し、 こ の

papafica

もその原

は 明 らか に なっ て お ら

、 訳例 も 「戯 論」 の 他に 「妄 想」 「障礙」 「障害」 など、 訳 者によっ て様々 である。   また、 この 「戯 論」 とい う漢訳につ い て も、 その淵 源が誰に よる もの であ る か

か で は ない 。 た しか に 、「

戯論

」 の

にも 「虚偽」 「

想」 などの訳 例 は見られ るが 、や は りこ の 「

戯論

」 とい

訳 語影響

の 典 籍に強 く反 映され て お り、現 代におい て も

prapafica

とい えば戯 論 と解 釈 すの が一般 的で ある。 少な くと も戯 「論」 と されて い る以 上、 先 述 した 現 代 語の 訳 例 と 同

、 こ とば との 関係 性の 上で理 解 されてい る もの と考え られ る。

 

以 上の ように、 中観 派の 典籍に 限らず、戯 論 とい う語の解 釈は

岐 に渡 っ てお り、 その正

意味

規定す

るこ とは

容易

で はない 。 しか し、 そこ で ひ とつ の 手 掛 か りとして、

数 あ

MMK

注釈 書

群の

か らひ とつ の 注 釈

を 選 び、 その 戯論の 用法、 用 例を考察 する こ とで、

当該注釈書

における

解釈

と して

MMK

の戯 論 解 釈の 一例 を示 すこ とは可

である と思わ れる。 よっ て 本稿に おい て は

MMK

注 釈 書の 中で も比 較 的初 期の の と考え られ てい る 注釈 書群 の中か ら 、 と りわ け特徴的 な戯論の 用例が見 受 けられ る青 目釈 『

』(r青 目註』)を中心に、 こ の注

釈書

戯論

をどの よ

に捉 え、 さらにそれ は

MMK

を どの よ うに解 釈 した こ とに起 因するの か とい

こ と につ い て

考察

み たい

 

1

MMK

18

章にお け る

戯論

 

MMK

で 用 い られ てい る

prapafica

の訳 例 を先に挙 げ た が、 こ こ で

pra

pafica

とい

ンス ク リッ トの 語 義につ い て改めて辞

認 する と、 ま

Monier

 

Williams

ASanskrit

English

 

DictionarN

Monier

>で は “expansion ,

development

, manifestation , manifoldness  

diversity

 amplification , 

prolixity

diffuseness

, copiousness  apPearance  

phenomenon

 

the

 

expansion

 

of

 the

universe  

the

 visible world , 

ludicrous

 

dialogue

 

deceit

 

trick

 

fraud

, error ”4)と あ り、

Buddhist

 

Hybrid

 

Sanslerit

 

Dictionary

BHSD

は “spreading  out

(3)

青目釈 『中論 に お ける戯 論の用 例 (安 井) enlargement , activity  

frivolous

 

talk

 

falsehood

 

the

 error  of 

false

 statement ”5)

な どの用例が挙 げられてい る。6)

 

こ れ らの 用 例を踏 ま える と

prapafica

は必 ず しもこ とば に まつ わ る 語

ば か りを持つ の で は な く、 本 来 的に は 「

様 性 (manifoldness )」、 「拡

(spreading  out な どを意

味す

あ るこ と が わ か る。 ま た 、前 述の 「言

語的多

」 や 「言 語 的展 開」 とい っ た現代 語 訳 もこ の ような意 味に基づ く こ とに よる もの で あろ

。 他

、 こ と ば との 関 係 性 を示 す 用 例 と して は

Monier

の “

ludicrous

 

dialogue

 

BHSD

の “

frivolous

 

talk

な どが あ

は漢 訳の 「戯 論」 とい

う字義

と も

応する。

 

また、

MMK

に お け る戯 論 につ い て注釈 書 を参 照 する と、 まず

MMK

注 釈 書 群の 中で に古い と さ れ る

Akutobhayd

ABh

)で は 「こ と ば を特 徴 と し た戯 論」7)とい

一節 が 見 られ 、

Bhaviveka

P7

4

PP

)で この

表現

用8) 。9)さらに

BuddhaPdilita

一鰡 !α 窺 α

4

α 勉盈α一vrttiで は 「そ こ では 『生 はそ れあ り 、 老死は これで ある 』 と ど

して

戯論

して語る の か。」10)とあ り、 そ して

Chandrakirti

1

rasannapaddi

PSP

prapafi

− ca を 「こ と ば(vac )」 と言い 換 えぜ なら戯 論 と はことばであ り、 諸々 の 意 味を展 開 (prapatlcayaty)するの で あるか ら」11)と述べ て い 。 以 上の よ

くの

MMK

注 釈 書は戯 論 をこ とば と関連付けて

解釈

してい る とい

で 共通 してい る。

 

そ れで は、 上記の よ

に解

さ れ るこ の

戯論

とい

語は

MMK

本 文の 中 では どの よ

で用 い ら れてい る の だろ

か。 こ の語が

MMK

にお い て そ れ ほ ど頻 繁に言 及 されてい い ことはすで に述べ た が、 その 中で も比較的 、 戯 論が 主体 的に扱わ れてい る箇 所 を

挙 げ

る と

れば

18

5

偈、

9

偈が適 当であると思 わ れ る。 なぜ な らこ の

2

偈で は戯 論が どの よ

なはた ら きを持つ もの か、 そ して その 戯 論が寂滅 する とは どうい うこ となの か とい っ た こ とが

じら れてい るか らで ある。

 

よっ て、 以下では その

2

偈につ い て考 察 する と同時に、 『

目註』が そ れ らの

2

偈に対 して どの よ

に注

してい るか を同 時に見て い 。12) (

37

(4)

智山学報 第

MMK

 

Chap

18

 v

5

]13)

karmakleSak

$ayati mok ah  

karmakle

§

a

 vikalpatah /

te

 

prapaficat

 

prapaficas

 

tu

 

SUnyataya

1 nirudhyate //

と煩 悩が尽 きる と

解 脱

が (ある)。

と煩

別か ら (起こ る)。

そ れ ら(の 別)は戯 論 か ら(起 こ る。 しか し

戯 論

空性

に お い て

止さ

れ る。

MMK

 

Chap

18

 v。

9

]14)

aparapratyaya 叩

Santam

 

prapaficair

 aprapaicitam

nirvikalpam  an且n且rtham  etat  

tattvasya

 

lak

aam //

る の で はな く、 寂静で 、 諸戯 論に よっ て戯 論さ れず、 分 別を

れ、

多義

で ない 。 これ が

実の特

である。 『青 目註

18

章 第

5

15)

  

業煩 惱滅 故

 

名 之 爲解 脱

   業煩惱非實 

入空

論 滅 諸煩

及業 滅 故。 名 心 得解 脱。 是 諸煩 惱 業。

皆從 憶想

分 別 生 無 有

。 諸 憶想 分 別

戲論

生。

得諸法實相畢竟

空。 諸

滅。 『

18

章 第

9

16)

  

自知不隨他

 

寂 滅 無戯 論

   

無 異 無 分別

 

是則

名實相

寂 滅相 故。 不爲 戲 論 所 戯 論。 戲 論有二 種。 一 者 愛 論。 二 者 見 論。 是 中無 此二戲 論。 二戲 論 無 故。 無憶 想 分 別。 無 別 異相。

 

まず 第

5

偈であるが、 こ こ で

Nagarjuna

煩悩

分 別

か ら起 こ り、 さ らにその

別は戯 論か ら起こ る と説 く。 そ して戯 論は空 性におい て滅 する とい

 

こ こ で い う分 別 と はサ ン ス クリッ ト語の vikalpa を指 す。 主 な意 味 と して

(5)

青 目釈 『中論 に お戯論の用例 (安井) は “alternatiQn , 

alternative

 variation  combination  variety  

diversity

 man −

ifoldness

, 

difference

 of 

perception

 

distinction

 

indecision

 

irresolution

, 

doubt

hesitation

”17 な どが あ り、梶山 [

1983

]では 「仏 教術 語 と して の カ ル パ に最 も近い 現代 語 を求めれば、 そ れ は 『

断』 であろ

。」18)と

る。

  判断

とは

複数

対 象

か ら

特定

の を選

択 す

る こ とであるか ら、 判 断が

立する に は常 に対 象が複 数である こ とが求め ら れ る。 「分別 (vikalpa )は

戯論

(prapafica)よ り起 こ る 」 とはす なわち、 こ と ば によっ て

様に 区 別 立 て さ れ た対 象 を 「これ は

A

、あれ は

B

」 と判 断する こ とを意味す る。 しか し、 その よ

に して 認識され る対 象の世

は こ と ば によっ て

き起こさ れ た 虚

なの である。

 

この につ い て 『

』 を

照する と、 まず偈 頌の 漢 訳が サン ス ク リッ ト語 と

若干

異なっ てお り、 サンス クリッ ト語で は 「業と煩 悩は分別 か ら起こ り、 そ れ ら(の分 別)は戯 論か ら起こる」 とある

分が漢 訳では見

けられな い 。 しか し、 これに関して は注釈に 「是の

悩 と

とは皆 な憶 想 分 別よ り生 じて実 有る こと無 し。 諸の 憶 想 分 別は皆な戯 論 よ り生

。」 とある こ と か ら、

r

青目

』 も 「

悩の

拠 と して分 別があ り、 さらに その 分 別の 根 拠 と して

戯論

がある」 と解釈 して い る こ とが わか る。 そ れ ゆえ、

解釈

とし ては サ ン ス ク リッ ト語の 内容とそ れほ ど相 違の

い もの で あると言える。

 

そして、 上記の 内 容か らこの

頌に関して は羅 什に よっ て意 訳されてい る と考える こ とが で きる わ け だ が、 こ の vikalpa を 「分 別」 では な く 「実に非

(非実 )」 と意 訳 してい る

に関 して前 掲 梶 山[

1983

]で は次の よ

に述べ れてい る。 主観 ・客 観の分 岐 を

れぬ全一 な

直観

の世 界が、 分 岐 し、

様 化さ れ る 原 理 と な る もの 、それ を仏 教 者は分 別と呼ん だ。 人 問の思

こ そ が 、唯 一 な る実在世 界分化 す 、 す なわち、 そ れを誤

解 す

る原理 だ 、 と言 っ たの である。 直 観が真 実の 世 界で ある とすれ ば 、分 別は非 実なの で あ る。19) (

39

(6)

智 山学報 第六 十一輯

 

こ れに よっ て 、 こ の 「

非実

」 とい

う羅什

に よ る意訳 も、

別の 根 底には戯 論が持つ こ と ばの欺 く性

がある とい

MMK

の考え に 基づ い た もので あ る と分かる。   続い て 第

9

偈に は 「諸戯 論っ て 戯 論 されず (prapaficair aprapaficitam ) とある。 これは つ ま り、 戯 論は戯 論に よっ て起 こ る もの であ り、 その よ

に して起 こっ た戯 論 も ま た さ ら な る戯

を起こ

とい

係性

にある こ とを意 味 する。 敷 衍 して言 うな らば、 拡 が り、 展 開 したもの の背 景にはそれ まで に 無 限に拡が り、 展 開 して きた とい

プロ セス が

あ り

、 そ れ が さ ら に

た な拡 が り、 展 開を起こ してい くとい

こ とである。 あるい は戯 論には 「戯 論さ れ た もの 」 と 「戯論 する もの 」 とい

2

様相

があると も言 えるだろ

 

この よ

な戯 論の

につ い

Schmithausen

1987

]が 次の よ

に分 析してい る。

In

 my  opinion ... 

p (

r

apafica  

is

 

in

 

Buddhist

 

texts

 at 

least

 rather  another

instance

 of 

the

 

group

 of words  admitting  of 

being

 used  

both

 

in

 an

objective  and  a subjective  sense .20)

 

 

こ こ で は戯 論 に objective な側 面と、 subjective な側 面の

2

つ が ある とす る。 それ はつ ま り戯論に よっ て世界が虚

に区別 立て さ れて い る とい う意 味 で は objective で あ り、 それ に基づ い て誤っ た 判 断 を繰 り返 し、 そ してそ れ を世

と して展 開 させて い とい う意 味で は戯 論は subjective な機 能 を持つ とい

こ とで

る。

 

こ の よ

見解

を示 す

行研 究 は他に もある。 まず奥 住 [

1986

]で は 「筆 者 は、 こ こ で 、

prapafica

をこ と ばあるい は語である と 同時 に そ れの あるい は 心意 識の 原初 的 な微 細 なは た らきで ある と把 握 し ようと して い る。」21)と述べ られて い る。 つ ま り、 戯 論 をこと ば とい う形 を取っ て表 現さ れ た もの で ある と同 時に、 その

源に

意識

の は た ら

で も

る と

釈してい るの で ある。

(7)

青 目釈 『中論』 にる戯論の用 例

 

さらに丹

1981

]は先の

5

偈の説 も踏まえて 「

戯 論

と分

は、

先ず

口業 の レベ ル に言 語

最 も

面 的

戯 論

の層 と、 その

底に

た わ る分別の 層、 更に その 深層と して見 出さ れる分 別の根 拠 と しての 戯 論の 層 とい

三層の 関

か ら な る と

える こ とがで きる。」22)と して い る。 こ こ で は 先ほ どの subjective と objective とい

戯 論の 分類 と は や や異な り、

戯論

を 言 語 と して表現 され た もの とその 根 拠 と して分 け、 さ らにその 間に は分 別 (vikalpa )の が横た わっ てい る とする。

 

これに関 して 『

も戯論

2

に分 けて

解釈

してい るが、 その分

方法は上記の とは異 なっ てい る。 この 注釈によれ ば戯 論は愛論 と見 論の

2

に分 けら れ る とい

。 こ の よ

な分 類は先に挙 げた よ

な 他 の注 釈 書に は 見られない の で ある。

 

こ こ で 、 冒頭 に お い て ふ れ たパ ー

papaica

み る 、 パ ー

注釈

文献

で は

papafica

(tahha )、

diUhi

)、

(mana )の 三

として

説明

さ れてい

起さ れる。23)さ らに、 そ れ らの

ち上 記 『青 目註』 の 注 釈の よ

に愛 と 見 の

2

種か ら戯 論 (

papafica

)を説 明 し た もの と して は

Mahdniddesa

MNd

)にその 一例が見られ、

南伝 大

蔵 経では

の よ

に翻 訳 さ れてい る。 障礙 なる もの と は則 ち障礙な り。

こ れ に

〕(

愛障礙

な る

障礙 なる もの とあ り。24)

 

パ ー

papafica

に も様々 な訳 例が ある ことはすで に述べ た が、 ここ

で は 「障礙」 と訳 さ れてい 。 この

papafica

につ い て

Pali

English

 

Diction

ary (

PTSD

)を

照 する と “expansion , 

diffuseness

, manifoldness , obstacle , 

im

pediment

, 

illusion

 obsession

, 

hindrance

 

to

 spiritual 

progress

25 などの 用例 が

ら れ てお り、 上記の 「

礙」 と も

る。

他 方

、 サ ン ス ク リ ッ トの

prapaica

の ように こ と ば との 関係性を窺わ せ る ものは見

けら れ ない 。

 

こ の よう な

papafica

prapafica

の 異 同関 係につ い て雲 井 [

1997

]は 「原 始

41

(8)

智山学 報第六十一輯 仏教で は通

礙、

妄想

の意

大乗

では重 要な

語の一つ で 、 その

代表

漢訳

語 として

戯論

(け う ん)が与 えられ る。 ニ カーヤ にお ける

papafica

を、 その ま ま戯 論 と訳 し て 適切か は問題な し と し ない 26)と慎 重で あ る。 ま た 、

MMK

の翻 訳で は

prapafica

を 「形 而上学 的 論 議」 と 訳 して い た 中村 元 も、 この

papahca

に関して は 「ひ ろ が る

想」27)と

なっ た 訳 をして お り、 「

原始仏教

に お

と、

後代

にお ける

展 と

を考慮

して訳 してみ たつ も りで ある」28)と注 記 してい る。

 

さらに、

PTSD

prapafica

pra

pahc

(t。 spread  out )に由来するの に対

して、

papafica

pada

と関 連 する語で 厂足 の

に ある もの 」 「歩 行 を妨 げ る もの 」 を 意 味 す る と してエ ィ モ ロ ジ カル な見地 か ら両者の違い を指摘 し て い る。29)

 

ま た、 上 記

MNd

の 愛 障礙、 見障礙の 原

は そ れ ぞ れ “

ta仙 apapaficasaIp

kha

”と ”

dittipapatiLcasamkha

”で あるが、 この ”

papaficasaipkha

”30)

う表

して

櫻 部

1991

]は

Suttanipdita

Sn

)の ”safifiatiidatia 

hi

 

papahcasam

kha

“3i)

samkha 意 味明瞭 は ない が 、 sarpkharp  

gac

chati が

to

 

be

 

termed

, 

to

 

be

 

put

 

into

 words の意に解せ られる ことか ら 理解

し得るか と思 う。」32)と したうえで 、 「こ この samkha は、 

papafica

(虚妄に区 別 立て して対象を と ら え るこ と)safifia(そ れ を 想 念 す るこ と)と並挙さ れて、 『そ れ を こ と ばに してい こ と』 とい う程意味に解 すべ き もの で は なか ろ

か と思

。」33)とい

う見解

が述べ られてい る。

 

さ らに、

Sn

の 同

箇所

につ い て

廣澤

2007

]では 「

名称

に もとつ い 戯 論によ る観 念が起 こ る」34)と翻 訳 されて お り、 こ こ で は saiia が 「

名称

」、 samkha が 「観 念」 と して理解さ れて い る。 そ して 同 論 は 「こ の よ

な初 期 仏教の 『戯 論』 の 意

をふ まえてお くと、 判 断が成立するこ とは 『

』 に よる

識の

が りで

、 そ れを 『

戯論

』 と

えてい る よ

である。」35)とす る。  

Sn

にまつ わ る上記の

2

例 を踏 まえると、 語 源 学 的には異なるル ー を持 つ との

指摘

もある

papafica

prapafica

で あるが、 仏 典にお ける用 例 を鑑み

(9)

       青 目釈 『中論 に お け る戯 論の用 例 安井 る と、 ことば に よっ て引 き起 こ され る

識のひろが り、 あるい はこ とば に よ っ て

表現

さ れた

意識

の ひろ が

とい

う意

味で は、

papafica

も またこ と ば との 関

係性

におい

さ れ 言 え

 

以上の

か ら、 『

』 における

論、 見 論 とい

戯 論の分 類が 必ず し も 『青 目註 に おる オ リ ジ ナル な もの で は な く、 そ れ はパ ー リ文献 も用 例が見 られ るもの であ り、 そこ で もこ と ば との関

が指摘 される もの で

る とい こ とが分か る。

 

そ れ で は こ の

と見 論と はい か なる意 味 を持つ の として 『

』 で 用い られて い るの か。 中村 元 『佛 教 語 大辞 典』 には愛

が 厂

事物

執着す

る 迷い か ら生 ずる不正の 言 論36)とあ り、 見 論が 「誤っ た見解に もとつ い て成 立 し てい る言 説。 愛 論に対

る」37)と ある。 ま た 、吉 蔵は 『中観 論 疏』 に お い の よ

に解

してい る。 又就 觀 法 品 明戲 論有二 。 一者 愛 論 。 謂

一 切

法有

心。 二 者 見論。 於 一 切 法 作 決定 解。 又 利根 者起 見

。 鈍

人起

愛論

。 又

在家

起愛

論。 出 家 人起

見論

。 又 天

愛論

外道起

見論。 又凡 夫 起 愛論。 二乘 起見 論。38)

 

これ ら を見る と、 まず迷惑に よっ て 対

へ 執 著

るこ とか ら引き起こ さ れ る の が愛 論で あ り、 そ して誤っ た見解や教 義 を

示 した り

信奉

した りする こ とが見論で ある と解釈 されてい る よ

る。 つ ま り 『

目註』 も戯 論に は、 こ とばに よっ て虚

多様化

さ れい る

界に

わ さ れて しま

戯 論 され る」 側 面 と、 そ れ がこ とばとい

形をもっ て 表わ される とい う 「戯 論 する」 側

2

つ があると理解 してお り、 前 者 を愛

後者

見論

とした もの と

えられ るの で ある。

2

.『 に お け る戯 論用 例 先ほ ど は戯 論に関する言 及 が 目立つ とい

こ とか ら

18

2

つ の偈 頌 を例に挙 げ

MMK

が 戯 論 をどの よ

明して い る か 、 そ してそれ がさら (

43

(10)

智山学報第六 十一輯 に 『

』 で は ど

解釈さ れい る かにつ い て考 察 した。

 

次に、 こ こ で は 『

』 にお

戯論

特徴 的

用例

っ かけと して

考察

い たい 。 その

特徴 的

な用 例 と は、

体に戯

が用い られ て い な い

場合

で も、

注釈部分

で 「

戯 論

」が用い られ てい るとい

うも

の で ある。 そ も そ も

注釈書

とは 、

当然

の こ とな が ら特 定のテ キス トの

容につ い て注 釈 者に よる解 説 が 述べ られ る もの であるか ら、 その 内容はテキ ス トの語 義解 釈が 中 心となる。 その ため 、 前 項 に挙 げた第

18

章の

2

偈で は

MMK

の テ キス トに

prapahca

る か ら

注 釈部分

で も

戯 論

につ い て言 及 さ れ てい るの で

る。 しか し、 以下に

挙 げ

る例では

prapafica

に関する言 及が

MMK

に は

い の に 、 戯 論とい う語が注 釈 部分で使 用さ れてい るの である。 この ような例 は た とえば 『青 目註 類 似 性 指 摘 さ れ

ABh

BP

初 期

MMK

注 釈 書と言わ れ る注釈 書で はあ ま り見 受け られ ない 。

 

以 上の 理 由か ら、 そ れ らの 用例 に基づ い て、

MMK

prapafica

につ い て 言 及 されて い ない 偈 頌

して戯 論を用い て注釈 するこ とに よっ て どのよ

な解

り立つ 、 さ らにそ れはい か なる 「戯 論」 観 によ る もの で あるか

察 を試みたい

 

実 際に

MMK

prapafica

を 用 い てい ない 偈 頌 に、 『青 目註』 が 「戯 論」 を用い て

注釈

を してい る

箇所

は 以 下の

6

つ で

る。

 

4

5

偈39)

  

無 因 而有 色

 

事終不

   

故有智者 不

分別

中有

果 因 中

果。 此

事 尚

不可

得何

色。

是故言無

而有

色。 是

事終

不然。 是 故 有

者。 不應 分 別色。

別 名凡

。 以 無 明愛染

著 色。 然

以邪見生分別

戲論説

因中

果 無果

此 中

色 不可

。 是

故智

者 不 應 分 別。

  第

5

章第

8

偈40)

  淺智

見 諸

法 

有若

則不能

 

滅見

安 隱法

(11)

             青目釈 『中論』 に お け る 戯 論 の用 例 若 人 未得 道。 不 見 諸 法實 相。 愛 見 因縁 故 種種 戲 論。 見 法生 時謂 之爲 有。 取相 言有。 見

滅 時 謂 之爲 斷。

相言 無。 智者 見 諸

生 即 滅 無

。 見 諸

滅即 滅有 見。 是

於 一切 法雖 有 所見

如幻 如 夢。 乃至

漏 道 見 尚滅。 何 況籐 見。 是 故 若不 見滅 見安 隱法 者。 則 見 有見 無

  第

7

章第

17

41)

  

若法

衆縁

 即

滅性

   

生 生

時 

是二

倶寂

滅 衆縁

無 自性 故

寂 滅。

寂滅名爲無

。 此

無彼無相

斷言語道滅諸戯

論。 (中略) 汝 雖種 種因縁 欲 成生

。 皆是

戲論非寂滅相

  第

9

章第

12

42)

  

無 本

住 

今 後 亦復 無

  

以三世 無故

 

無有 無 分 別 思惟

求本 住。 於 眼

先 無。 今 後 亦無。 若三世 無。 即 是 無 生寂 滅不應 有 難。

無本 住。 云何 有 眼等。 如 是 問

論 則滅。

戲論

諸法則

 

10

章 第

16

偈43)

  

若 人説 有 我

 

諸法

異相

   當

知 如是 人

 不得佛法味

(中略)若 人 説 我相。

犢 子

部衆説

不得言

色 即 是 我。 不

得 言離

我。 我在 第五 不可

説藏

中。 如 薩

婆多部衆説

諸法各各相

是善是

善是無

記。 是

有漏無

有爲無爲等

別。 異 如 是

人。 不 得 諸 法寂 滅 相。 以佛 語作 種 種 戲 論

  第

15

章第

6

  

見有

 

見 自性他性

   

則 不 見

 

佛 法 眞

人深 著諸

。 必 求有 見。

破 自性 則 見他 性。 若 破 他 性則 見有。 若破 有 則 見 無。 若 破 無 則 迷惑。 若利根 著 心

薄者

滅 諸

見安

不 生四

       (

45

(12)

智 山学報 第六

戲論

則見佛法眞實 義

。 是

故説

。  これ らを見る と、 そ れ ぞ れ偈 頌の 内容に然 したる共 通 点は無 く、該 当箇所 もテ キ ス ト全 体に広 く散見 し て い る ため文 脈 と して の繋が りがあるわけで も ない 。 しか しな が ら、 その 内 容と して は以下 の

3

種に分類 する こ とがで きる。 a .

戯論

生 じる経 緯 を説 明 した もの →

 

 

b

.戯 論の寂 滅 につ い て説明 した もの

 

 

 

 

c.反 論 者の説を 「

あ る と批 判

の →

 

a.戯論 と分 別

 

川頁に考 察 してい く と、 まず a の

2

つ の 偈頌 で はあらゆる もの ご とに お い て

を論 じる立 場 を批判 してい る。 この よ

に 、

事物

有無

を是 認

る見

MMK

にお い て一

して批

される テーマ で ある。 これ につ い て

 

注釈で はい わ ゆる 因 中有 果 論と因 中無果

に矛

を 向 けて、 有や無 を分 別 (判 断)することを論 難 する。 そ し て、 その よ

な分 別か ら 厂因の 中 に 果 が ある/ない 」 とい う戯 論が 生 じる と解 釈 してい るの で あ る。

 

こ の

注釈

r

』 が戯 論を用い て説 明 してい るこ とにつ い て は、偈 頌 の 「分 別」 とい

う語

か ら 前 述の 「分 別は戯 論 よ り

こ る」 とい

MMK

18

5

偈に示さ れ る図

を連 想 した もの と推 察 されるが、 こ こで 一 の 疑 問が残る。

MMK

の説に

づ け ば

戯論

分別

拠で あるの に対 し、 こ こ で は無明 に よっ て執 著 し、 「分別、 戯 論 を生 ずる (生分別戯論)」 と説 明さ れ てい るの で あ る。 これ に 関 して は 「分 別が 生 じ て か ら、 戯 論が 生 じる 」 ある い は 「分 別

が 同 じる とい っ た解 釈が 可能で ある が 、 い ずれ に して も先に示 した 「

戯論

分別

・煩

とい

MMK

の 説と矛 盾 する

 

こ の よ

別と戯 論の 関係 性に つ い て 『青 目註』 で は

に も

22

15

45)の

に 「

憶 念

相 分 別 此 彼。」46)とあ り、 これ に基づ い て丹 治[

1981

]は 『青 目註』 にい て 「

戯論

別に他 な らない 47)と して、 『

(13)

青 目釈 『中』 における戯 論の用 例 (安井 ) 註』 に関しては

戯論

別 を同

な もの と して用い て い る とする。

 

しか しなが ら、 これにつ い ては

述の 「

戯論

する もの」 と 「戯 論さ れ た も の 」 とい

2

の側面か らの戯 論 解釈 に基づ ば、

MMK

で分 別の 根 拠 と し て示さ れて い るの が 「戯 論 さ れ た 、 つ ま りこ と ば に よる

多様化

で あ り、 それ が実 際に分 別とい う形 を成

わ さ れ るこ とが 「戯 論 す 露で ある と 『青 目註

解釈

て い る と

も考

えられる。

 

次に

 

で あるが この注 釈の 「

愛見

因縁

に、

々 に戯 論 す」 とい う 一 節 につ い

述の

18

章第

9

に 「戯

に二

あ り。 一 に は愛論、 二 には

見論

。」 とある こ とか ら、 こ こ で もこの

2

つ を意

して い る と考 え ら れ る。 つ ま り、 愛 論 に よ っ て虚 妄 に分 別 さ れ た 世界に執 著 して 「有で あ る 」 「無である」 とい っ た見 論 を起 こすこと が戯 論のは た らきで ある と

明 してい の で ある。

b

論の寂

 

続い

b

戯 論

」 につ い て で ある が、 そ もそ も 厂い か に して戯

を滅 するか」 とい

こ と に 関 して、

MMK

で は

述 の第

18

章 第

5

偈で 「戯 論は空 性に おい て滅

る」 と説 くのみであ り、具体 的に どの ようにすれ ば

戯 論

が滅 する の か とい

ことにつ い て は言 及 さ れ てい ない 。 しか し、 『

目註』 で は

 

に 「言 語の道 を断じ、

戯論

滅す

」 と

あ り

 

に 「是の如 く問 答すれ ば戯 論は

ち滅

」 と

るよ

に、 どの よ

にすれ ば戯 論が滅せ られ るか、 あるい は戯 論が滅 する と はど

こ となのか が論 じ られてい る。

 

まず

 

に よれ ば 「言語 道 を断 、 諸戯 論を滅 す」 とある こ と か ら、 こ と ば をきっ かけと して戯

が生 じ る と 『青目註が理解 してい る こ とが わ か る。

 

では

頌に 「

有無

の分 別」 とある こ とか ら、

 

の 例と 同様にこ こで も分 別 との 関係 性に基づい て

戯論

が適 用 されて い る

の と思わ れ る。

 

では有と無、

自性

他性

とい

4

を区別立て て 見て しま

こ とを

戯論

で ある と

る。

 

以 上 を見て み る と、 こ こ で戯 論 と言 わ れてい る もの は お もに有 自性 論 者な どのい わ ば

MMK

の 対 論 者た ちによ る説を

して い るこ とが わ か る。 その (

47

(14)

智山 学報 第六十一輯 意

で は先の

 

 

の 用 例につ い て も因中有 果や因 中無 果 などの 説を戯 論で あると見做 してい の だか ら、 こ れ と同様の 解 釈である とい える。

 

こ の よ

に対 論 者の 説を

戯論

る と

る 用

MMK

で も以 下の

2

に見 受 け られ る。 [

MMK

 

Chap

11

 v .

6

48)

yatra

 na  

prabhavanty

 ete  

parvaparasahakramah

prapailcayanti

 

tarp

 

jatim

 

taj

 

jaramarana

P

 ca  

kim

//

、 同時とい

これ らの 次 第が成 り立 たない 場

してその 生 と、 その 老死 を戯 論 する の か 。

MMK

 

Chap

22

 v

15

]49)

prapaficayanti

 

ye

 

buddha

prapahcatltam

 avyayam /

te

 

prapatlcahatah

 sarve  na  

paSyanti

 

tathagatam

//

戯論 を超越 してい て、 不 壊 なる仏 を戯 論 する者たちは すべ て戯 論に害さ れてい て如 来を

ない 。

 

こ こ で

味深い の は 、い れの偈 頌 も対 論 者の説 を戯 論である とい う場合 に は 「戯 論 する (

prapaficayanti

)」 と

詞 として用い てい る点である。 これ は

に示し た

戯 論

に 「

戯論 す

側 面 と、 「戯 論 される」 とい

が あるとい

う考

えに基づ けば

前者

わ した例である と言 える。 つ ま り、 こ こ で い 戯 論 する 」 とは、 有であるか無であるか とい っ た分 別を本来 的 には離れて い る もの を 「有で ある 」、 「無である 」 と対

化 して

じるこ とを 意

してい るの で る。 しか し、 その ように して こ とばに し て発せ られ た見

滅されるべ で ある と

MMK

は説 く。

 

そ して、 上に

げた 『青目註』 の 用 例は戯 論をその よ

に して用い よ

と する

性格

に強い 。 つ ま

、 『

』が

偈頌

で用い られて い ない のに戯

を用 い て 注釈 をするの は、 言

なれば対 論 者の説を

排斥

するた めの

常 套句

(15)

青目釈 『中論』 に お け る戯論の用 例 安 井) と して用い てい るの であ り、 その ような説に対して 中観 派の 立

か ら

論駁

い 、 「

く問

すれ ば、 戯 論は則 ち滅 す。 戯 論 が 滅 する が故に、 諸

は則ち空な り。」 と

MMK

の 空 を説 明 するひ とつ の 手

か りと して い る の で

る。 その意 味で は 『青 目註』 に お け る戯論 とその寂 滅は よ りプラ ク テ ィ カ ル で ある。

 

考察

して き た通 り、戯 論 (

prapafica

papafica

とい

う語

に は

複合 的

があ り、 その使 用 例や訳 例 も

岐に

っ てい る が 、主な

MMK

釈書

で は こ とば との 関係によっ て

解釈

されて い る

通 して い た。 そ して、 そ れ は特に 『青 目註 に おて は

対論者

と して

現さ れ た ことば を意 味する。 それ をよ り明確に

してい る のが次の c で ある。 c .

他学

派へ 論 難

 

こ こ で は実 際に犢 子 部 と薩婆

多 部

(説一切 有部 )とい

う特 定

の 部 派

が挙 げ られ た

えで その

用さ れてい る。 そ して、 そ れは何 物 も本 来 的には

滅 してい るとい

こと を知らない 者たちによっ て説か れ た もの で あ り、 そ れ が と りもな おさず戯 論である と述べ られい るの で ある。

 

ま た、 こ の注 釈には 厂仏 語を以て 種々 の 戯 論 を作す」 とあ る。 こ れ は た と え仏教の教 理に基づ い て示さ れ た こ とばであっ て も、それ が有 無 などの 虚

な分 別に基づい て論じられ た もの であれ ば

論である と 『青 目註 解 釈 されてい る ことを意

する。

 

以上 の

か らや は り 『

目註 い て戯 論は対 論者の

を論

難す

の キ ーワー ド、 あるい は対 論 者の 誤 っ た見

の代

詞と して用い ら れてい る こ とが

か る。

 

こ の よ

に 『青 目註戯 論 を特 徴 的に 用 背 景に は 、 こ の

戯 論寂 滅

MMK

と し

重 要

た と

可 能 性 え ら れる。 そ れ を示

根拠

と し

25

最 後以下 の ように締め くくられて い る。 (

49

(16)

智山学報 第六 十一 從 因縁 品

。 分 別

推求諸法

有亦無

無亦無

有無

非有非

無亦 無。 是

法實

相。

亦名如法性實

涅槃

是故如來無時無處

説涅槃定

相。 是 故 説 諸 有所 得 皆 息。 戲 論皆 滅5°)

 

以 上の

か ら、 『青 目

』 が

MMK

の 主 要な 思想は第

1

章か ら第

25

章 ま での に説か れてい る と

解釈

して い る こ とは明 ら か で あ り、 その 中で も特に 重 要 な 目的が 「戯 論

寂滅

」 で

る と

解釈

し てい た と推

さ れる。

 

その た め、 誤 っ た見 解 を示 す 虚

なこ と ばに

して は、 それ を

MMK

の 思想に基づ い て

排斥

するこ とが注 釈 書の 目的であ り、 『青 目註』 は戯 論 とい う語を用い るこ とに よっ てそ れ を試 みて い るの である。

 

3

結    

 

以上、 特徴 的 な用例が見 受 けられる こ と をきっ かけと して 『

』 に お

戯論

につ い て

考察

を重 ねて きた。 そ して 、 その 中で 『

』が

他学派

との 「想 定 問

う文脈

に おい て、 相 手の 説 を 「戯 論である 」 と

じる ことで戯 論の寂 滅を 主張 し、

MMK

の空 や縁起の 思想 を

き明か そ

と試み てい ることが分かっ た。

 

しか し な が ら、 『

』 は訳 者で ある羅 什 に よっ て大 幅に加 筆 さ れて い る こ とがその序

指摘

さ れてい る。51)そ の ため、 上記の 記 述が注 釈 者で あ る青 目に よ る ものなのか、 それ とも

羅什

に よ る

加筆

なの か が

かで は ない 。 また、

MMK

の 思 想 とこ と ばの 関係につ い て は戯 論 だ けで はな く、 世 俗 諦

loka

−samvrti −satya )や仮 名 (prajfiapti)な ど との比較 も

えた

考察

め られ る

が、 そ れ らの 問 題につ い て は今 後の課題 と したい 。

1

) anirodham (不滅)、 anutpadam (不生)、 anucchedam (不断)、 aSaSvatam (不 常)、

 

anekartham (不 一義)、 ananartham (不 異 義)、 anagamam (不 来)、 anirgamam

(17)

青目釈 『中論』 に戯 論例 (安井 )

2

それぞれ梶 山 [

1969

]p .

47

、 三枝[

1984

]p .

85

、 中村[

1980

p

320

、 立 川 [

2007

p

28

3

) 帰敬偈の他に

MMK

prapafica

につ い て言 及 されて い る の は第

11

章 第

6

偈、   第

18

章第

5

偈およ び第

9

偈、 第

22

章第

15

偈、第

25

章第

24

偈の

5

偈である。

4

 Monier

 p .

681c

5

) 

BHSD

 p .

380

6

) し か し、

BHSD

の こ の項 目に は まず “

Prapafica

(_

is

 a word  which  

in

 

Pali

 and

  BHS  is very  hard to definea carefU1  and  searching  stUdy  of the 

Pali

 

is

 

heeded

, and

  

has

 not 

been

 Inade . 

Northern

 

translations

 are unusually  

bewildering

”(

BHSD

 p .

  

380

)と説 明さ れてお り、さ ら に 以 下に挙げ ら れて い る同語の訳例のい につ

  い ては、チベ spros  pa を参照 したもの と してさ れて い る。

7

 

mngon  par 

brjod

 pa’

i

 mtshan  nyid  

kyi

 spros  pa (

D

72al

 

P

83b7

8

PP

に は

ABh

との 間 に多くの パ ラレル が存在 する が、そ れ が

ABh

か らの 引用

   である と は明記 されずに文 中に組み込 まれてい る。

9

) 

D

190a4

, 

P

237b3

10

  de

 

la

 

khyod

 skye  

ba

 ni 

de

 yin rga  shi ni 

de

 yin zhes  ci

i

 

phyir

 spros  

par

 

byed

 cing

  rjod 

par

 

byed

D

212b1

 

P

240a1

2

11

 

prapafico 

hi

 vak  prapaficayaty arthan (

LVP

1903

13

p

3731

9

12

目註』 の

18

章 は まず 冒頭い て全部で

12

ある偈 頌をすべ て列挙 して か   ら、順に注 釈を述べ る とい う構成に なっ てい る。 そのた め、実 際に偈頌 と そ れに    対する 注釈と は繋がっ て記 載さ れて い るわけで は ない 。 こ こ で は便宜上 、偈頌の     直後に該 当する注釈 部分を記載し た。

13

) 

de

 

Jong

1977

]P .

50

14

  

ibid

. p ,

52

15

 

T

30p

23c

, p .

24c

16

) 

ibi

1

. 

p

24a

 p .

25b

17

) 

Monier

 p .

955b

18

) 梶山[

1983

p

306

19

) 

ibid

20

 

Schmithausen

1987

p

523

21

) 奥住 [

1986

p

10

22

) 丹 治 [

1981

p

31

23

 

Cf

中村 [

1984

p

394

、櫻部[

1991

p

111

、雲井 [

1997

]pp .

561

562

24

) 南伝 大蔵経

Vol

43

 

p

141

”papafica yeva papartcasamkha  ta! Lhapapaficasarpkha

(18)

智 山 学 報 第 六 十一輯  

dittipapaficasa

kha

”(

MNd

. 

p

344

) )   )   )   )   )

5678

( 》 9 白

2222

30

) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) )

123456789012345

333333333444444

ラ  

@

@

  堰 @@       だ 890 4 ム

4

DPTSD

 

D412

雲井[1997

p

560

中村[.

198

np

117ibid

. 

pp

261

− 262PTSD  p.412“[in  its P. meaning  uncertain  

whether

 identical  with Sk.

prapaica

(pra+

pafic

 to spread  

out

meaning

“expansion , diffuseness , manifolde

ess

”;

cp

Papaficeti

papafica

 3)more likely , as 

suggested

  by  

etym

.&meaning  o

@Lat.  im− ped −iment −um , 

connected

 

with

 pada, thus  

perhaps

 originally  “pa−pad− ya

i

. 

e

. 

whatis

 

in

 front 

of

(i.  e. 

in

 

the

 way  of)the 

feet

as

 

an

 

stacle

)]冒 PTSDでは“

papafica

sankha

とv・う項目で‘ ’sign  

or

 

characteristic

 o

@obsession

” (p.412 )とあ

Sn

. 

P

.170

N

部[

1991

p

.1

ibid

, p .

11

廣澤[2007]

p

65

ibid

.  

p

65

中村元『 佛教語大辞典』縮刷版 東京書籍、1981 年)

D17ibid

 

D324T

,42

C12b

−cT .

p

6c

・dibi

D

 

p

.8aibi

D

 

p

.10cibid . p

14b

bid

. pp

15c

16a

     ’ ibid. 

p

.20a こ こでは 偈 頌の 中で も

prapaf

a

の 語が用 い れている ため、先に げた 例に は含まない。

T

.30p.31a 丹治[198

Rp

31de

 

ng

1977

P

(19)

青 目釈 『中論 に お戯論用例 (安井

51

) 

ibid

. p .

1a

略号お よ び使用 テ キス ト

ABh

Mabl

αmadhyamaka −v.rtti−akutobhaya , 

D

. 

No

3829

, 

P

. 

No

5229

BHSD

Buddhist

う7認

Sansferit

 

Grammar

 and  DictionaiO, 

by

 

Franklin

 

Edgerton

    

Volume

 

I

工:

Dictionary

, 

Delhi

1953

BP

Buddhapdilita

−mablanzadhyamaka −vrtti 

D

. 

No

3842

 

P

. 

No

5242

D

.;sDe  

dge

 edition

MMK

Mrkiam

α

dhyamahahariha

see 

de

 

Jong

1977

MNd

Mahdiniddesa

 

PARTS

 

1

 

AND

1

, 

Edited

 

by

 

Louis

 

de

 

la

 

Val6e

 

Poussin

 and  

E

. 

J

   

Thomas

, 

The

 

Pali

 

Text

 

Society

 

London

1978

MQnier

:・

4

 

Sanskrit

English

 

Z

万c々oπy, 

Etymologically

 and  

Philologically

Arranged

    

With

 

Special

 

Reference

 to 

Cognate

 

Indo

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Sir

 

Monier

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Williams

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PratihaPradiPa

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No

3853

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5353

PSP

Prasannapada

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春 秋 社

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1969

1983

:「分別 とい うこ と 」 r中観と 空』梶山雄一著 作集 第四巻 所 収

 

春 秋社

 

pp . 

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1984

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1991

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文栄 堂書 店

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(初 出    『パ ー学 仏教 文化 学

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川武蔵

1980

:「言 語活 動の止 滅と空 性一プ ラパ ンチャ につ い て一」 『仏教 学』

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2007

:『空の実践』 ブッディス ト・セ オロ

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 講談社

1981

:「無 我と実在一中論 第十八 章の 注釈 史 的考察 (二)」

 

『南都 仏教』 第

47

 pp

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中村元

1980

;『龍樹』 講談社 学術 文庫

1982

:『仏 弟子の告 白 テーラガーター』 岩波 文庫

1984

:『ブッ ダの こ と ば ス ッ タニ パ ータ』 岩 波文庫 ・澤隆 之

2007

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Val6e

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1913

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(madhyamikasUtras )

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召 呶 吻 観 α α 〃2c 

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Commentaire

 

de

 

Candraleirti

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Buddhica

 

IV

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St

       

Petersbourg

Schmithausen

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1987

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(21)

      青目釈 『中 論』 における戯論の用 例 井)

   

InternatiQnal

 

Institute

 

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Buddhist

 

Studies

, 

Tokyo

〈キーワー ド〉青目、戯 論、 prapafica

参照

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