青
目
釈
『
中
論
』
に
お
け
る
戯
論
の
用 例
安 井 光 洋
0
,は じ め に戯論
(prapafica)という
語は大乗
仏 教の思想 に おい て極め て重 要な 位 置を占 め る 語 であ
り、 そ れ は 特 にNagarjuna
の 主 著Mzalamadhyamakaharikd
(MMK
)の帰 敬 偈で 用い ら れ てい るこ と で知 られ る。 こ の帰 敬 偈で はい わ ゆ る八不1)とい う形で縁 起が表現 されて お り、 さ らにその縁起 と は 「戯 論が寂 滅 して い る (prapafic。paSamarp )」 もの であ る と説か れてい る。この
MMK
に おけるprapafica
とい うサ ン ス ク リッ ト語
につ い て諸先学
に よ る現代
語 訳 を参
照 する と 「言 語 的多
元性
」 「こ とばの虚構
」(と も に 梶 山 [1969
])、 「想 定
さ れ た論 議」(三 枝 [1984
])、 「形而 上学的論 議」(中村[1980
])、 「言 語 的展 開」(立 川 [2007
])2)な どの 訳例 がある 。これ らの 訳 例によれ ば、 この 戯論 とい
う
語が こ とば と密接に関わ りの ある 単語 で あ ることが分か る。 そ して、MMK
におい てそ れは滅
せ られ るべ き も の で ある と説か れて い る の である。 この ことか ら、MMK
に とっ て 「戯
論の寂
滅」 とは、 中心テ ーマ で ある縁 起 を明ら か にするた めの重 要 な目的の ひ と つ であるとい えよう
。その た め、 当然 この 語 につ い て はすで に多 くの 先 行研 究が存 在す るの だが 、 その 明確 な語 義 あるい は用
法
につ い て は未だ明 らか になっ てい ない 点 も少な くない よう
に思 わ れる。 その理 由と して は、MMK
の 中で戯論
は そ れ ほ ど頻 繁に言 及 されてお らず
3) 、 さ ら にこの 語が どう
いう
意 味 を持つ もの であるの か という
こ とが主体
的に論 じられて い ない という
こ とが挙
げられる。そ もそ も、 こ の 戯 論 とい う語 自体 は
Nagarjuna
以前
に も古 くか ら様々 な 仏典におい て用い られ てい る もの であ り、 ニ カーヤ で はパ ー リ語のpapaica
(35
)智山 学報 第六十一輯 とい
う
形で広 く用 例が見 受 け られ る。 しか し、 こ のpapafica
もその原義
は 明 らか に なっ て お らず
、 訳例 も 「戯 論」 の 他に 「妄 想」 「障礙」 「障害」 など、 訳 者によっ て様々 である。 また、 この 「戯 論」 とい う漢訳につ い て も、 その淵 源が誰に よる もの であ る か定
か で は ない 。 た しか に 、「戯論
」 の他
にも 「虚偽」 「妄
想」 などの訳 例 は見られ るが 、や は りこ の 「戯論
」 という
訳 語の影響が多
くの 典 籍に強 く反 映され て お り、現 代におい て もprapafica
とい えば戯 論 と解 釈 するの が一般 的で ある。 少な くと も戯 「論」 と されて い る以 上、 先 述 した 現 代 語の 訳 例 と 同様
、 こ とば との 関係 性の 上で理 解 されてい る もの と考え られ る。以 上の ように、 中観 派の 典籍に 限らず、戯 論 とい う語の解 釈は
多
岐 に渡 っ てお り、 その正確
な意味
を規定す
るこ とは容易
で はない 。 しか し、 そこ で ひ とつ の 手 掛 か りとして、数 あ
るMMK
注釈 書
群の中
か らひ とつ の 注 釈書
を 選 び、 その 戯論の 用法、 用 例を考察 する こ とで、当該注釈書
における解釈
と してMMK
の戯 論 解 釈の 一例 を示 すこ とは可能
である と思わ れる。 よっ て 本稿に おい て はMMK
注 釈 書の 中で も比 較 的初 期の もの と考え られ てい る 注釈 書群 の中か ら 、 と りわ け特徴的 な戯論の 用例が見 受 けられ る青 目釈 『中論
』(r青 目註』)を中心に、 こ の注釈書
が戯論
をどの よう
に捉 え、 さらにそれ はMMK
を どの よ うに解 釈 した こ とに起 因するの か という
こ と につ い て考察
を試
み たい 。1
.MMK
第18
章にお け る戯論
MMK
で 用 い られ てい るprapafica
の訳 例 を先に挙 げ た が、 こ こ でpra
−pafica
という
サ ンス ク リッ トの 語 義につ い て改めて辞書
を確
認 する と、 まず
Monier
Williams
のASanskrit
−English
DictionarN
(Monier
>で は “expansion ,development
, manifestation , manifoldness ,diversity
, amplification ,prolixity
,diffuseness
, copiousness , apPearance ,phenomenon
,the
expansion
of
the
universe ,
the
visible world ,ludicrous
dialogue
,deceit
,trick
,fraud
, error ”4)と あ り、Buddhist
Hybrid
Sanslerit
Dictionary
(BHSD
)で は “spreading out ,青目釈 『中論』 に お ける戯 論の用 例 (安 井) enlargement , activity ,
frivolous
talk
,falsehood
,the
error offalse
statement ”5)な どの用例が挙 げられてい る。6)
こ れ らの 用 例を踏 ま える と
prapafica
は必 ず しもこ とば に まつ わ る 語義
ば か りを持つ もの で は な く、 本 来 的に は 「多
様 性 (manifoldness )」、 「拡張
(spreading out)」 な どを意味す
る語で あ るこ と が わ か る。 ま た 、前 述の 「言語的多
元性
」 や 「言 語 的展 開」 とい っ た現代 語 訳 もこ の ような意 味に基づ く こ とに よる もの で あろう
。 他方
、 こ と ば との 関 係 性 を示 す 用 例 と して はMonier
の “ludicrous
dialogue
”、BHSD
の “frivolous
talk
”な どが あ り、 これは漢 訳の 「戯 論」 とい
う字義
と も対
応する。また、
MMK
に お け る戯 論 につ い て注釈 書 を参 照 する と、 まずMMK
注 釈 書 群の 中で 特に古い と さ れ るAkutobhayd
(ABh
)で は 「こ と ば を特 徴 と し た戯 論」7)という
一節 が 見 られ 、Bhaviveka
もP7
吻 砂 鯤4
吻 (PP
)で この表現
を借
用8)してい る 。9)さらにBuddhaPdilita
一鰡 !α 窺 α4
勿
α 勉盈α一vrttiで は 「そ こ で汝は 『生 はそ れであ り 、 老死は これで ある 』 と どう
して戯論
して語る の か。」10)とあ り、 そ してChandrakirti
は1
)rasannapaddi (PSP
)にお い てprapafi
− ca を 「こ と ば(vac )」 と言い 換 え、 厂なぜ なら戯 論 と はことばであ り、 諸々 の 意 味を展 開 (prapatlcayaty)するの で あるか ら」11)と述べ て い る。 以 上の よう
に多
くのMMK
注 釈 書は戯 論 をこ とば と関連付けて解釈
してい る という
点で 共通 してい る。そ れで は、 上記の よ
う
に解釈
さ れ るこ の戯論
という
語はMMK
本 文の 中 では どの よう
な形
で用 い ら れてい る の だろう
か。 こ の語がMMK
にお い て そ れ ほ ど頻 繁に言 及 されてい ない ことはすで に述べ た が、 その 中で も比較的 、 戯 論が 主体 的に扱わ れてい る箇 所 を挙 げ
る とす
れば第
18
章
の第
5
偈、第
9
偈が適 当であると思 わ れ る。 なぜ な らこ の2
偈で は戯 論が どの よう
なはた ら きを持つ もの か、 そ して その 戯 論が寂滅 する とは どうい うこ となの か とい っ た こ とが論
じら れてい るか らで ある。よっ て、 以下では その
2
偈につ い て考 察 する と同時に、 『青
目註』が そ れ らの2
偈に対 して どの よう
に注釈
を施
してい るか を同 時に見て い く。12) (37
)智山学報 第六十一輯
[
MMK
Chap
.18
v,5
]13)karmakleSak
$ayati mok $ahkarmakle
§a
vikalpatah /te
prapaficat
prapaficas
tu
SUnyataya
耳1 nirudhyate //業
と煩 悩が尽 きる と解 脱
が (ある)。業
と煩悩
は分
別か ら (起こ る)。そ れ ら(の 分別)は戯 論 か ら(起 こ る)。 しか し
戯 論
は空性
に お い て抑
止され る。
[
MMK
Chap
.18
v。9
]14)aparapratyaya 叩
Santam
prapaficair
aprapaicitam /nirvikalpam an且n且rtham etat
tattvasya
lak
$a阜am //他
に縁
る の で はな く、 寂静で 、 諸戯 論に よっ て戯 論さ れず、 分 別を離
れ、多義
で ない 。 これ が真
実の特質
である。 『青 目註』 第18
章 第5
偈15)業煩 惱滅 故
名 之 爲解 脱
業煩惱非實
入空戯
論 滅 諸煩惱
及業 滅 故。 名 心 得解 脱。 是 諸煩 惱 業。皆從 憶想
分 別 生 無 有實
。 諸 憶想 分 別皆
從戲論
生。得諸法實相畢竟
空。 諸戲
論則
滅。 『青目註』 第18
章 第9
偈16)自知不隨他
寂 滅 無戯 論
無 異 無 分別
是則
名實相
寂 滅相 故。 不爲 戲 論 所 戯 論。 戲 論有二 種。 一 者 愛 論。 二 者 見 論。 是 中無 此二戲 論。 二戲 論 無 故。 無憶 想 分 別。 無 別 異相。まず 第
5
偈であるが、 こ こ でNagarjuna
は業
と煩悩
は分 別
か ら起 こ り、 さ らにその分
別は戯 論か ら起こ る と説 く。 そ して戯 論は空 性におい て滅 する という
。こ こ で い う分 別 と はサ ン ス クリッ ト語の vikalpa を指 す。 主 な意 味 と して
青 目釈 『中論』 に おける戯論の用例 (安井) は “alternatiQn ,
alternative
. variation , combination , variety ,diversity
, man −ifoldness
,difference
ofperception
,distinction
,indecision
、irresolution
,
doubt
,hesitation
”17) な どが あ り、梶山 [1983
]では 「仏 教の術 語 と して の ヴィ カ ル パ に最 も近い 現代 語 を求めれば、 そ れ は 『判
断』 であろう
。」18)とす
る。判断
とは複数
の対 象
か ら特定
のも
の を選択 す
る こ とであるか ら、 判 断が成
立する に は常 に対 象が複 数である こ とが求め ら れ る。 「分別 (vikalpa )は戯論
(prapafica)よ り起 こ る 」 とはす なわち、 こ と ば によっ て多
様に 区 別 立 て さ れ た対 象 を 「これ はA
、あれ はB
」 と判 断する こ とを意味す る。 しか し、 その よう
に して 認識され る対 象の世界
は こ と ば によっ て引
き起こさ れ た 虚構
なの である。この 点につ い て 『
青
目註
』 を参
照する と、 まず偈 頌の 漢 訳が サン ス ク リッ ト語 と若干
異なっ てお り、 サンス クリッ ト語で は 「業と煩 悩は分別 か ら起こ り、 そ れ ら(の分 別)は戯 論か ら起こる」 とある部
分が漢 訳では見受
けられな い 。 しか し、 これに関して は注釈に 「是の諸
の煩
悩 と業
とは皆 な憶 想 分 別よ り生 じて実 有る こと無 し。 諸の 憶 想 分 別は皆な戯 論 よ り生ず
。」 とある こ と か ら、r
青目註
』 も 「業
と煩
悩の根
拠 と して分 別があ り、 さらに その 分 別の 根 拠 と して戯論
がある」 と解釈 して い る こ とが わか る。 そ れ ゆえ、解釈
とし ては サ ン ス ク リッ ト語の 内容とそ れほ ど相 違の無
い もの で あると言える。そして、 上記の 内 容か らこの
偈
頌に関して は羅 什に よっ て意 訳されてい る と考える こ とが で きる わ け だ が、 こ の vikalpa を 「分 別」 では な く 「実に非ず
(非実 )」 と意 訳 してい る点
に関 して前 掲 梶 山[1983
]で は次の よう
に述べ ら れてい る。 主観 ・客 観の分 岐 を容
れぬ全一 な直観
の世 界が、 分 岐 し、多
様 化さ れ る 原 理 と な る もの 、それ を仏 教 者は分 別と呼ん だ。 人 問の思惟
こ そ が 、唯 一 な る実在の世 界を分化 する 、 す なわち、 そ れを誤解 す
る原理 だ 、 と言 っ たの である。 直 観が真 実の 世 界で ある とすれ ば 、分 別は非 実なの で あ る。19) (39
)智 山学報 第六 十一輯
こ れに よっ て 、 こ の 「
非実
」 という羅什
に よ る意訳 も、分
別の 根 底には戯 論が持つ こ と ばの欺 く性質
がある とい うMMK
の考え に 基づ い た もので あ る と分かる。 続い て 第9
偈に は 「諸戯 論によっ て 戯 論 されず (prapaficair aprapaficitam )」 とある。 これは つ ま り、 戯 論は戯 論に よっ て起 こ る もの であ り、 その よう
に して起 こっ た戯 論 も ま た さ ら な る戯論
を起こす
という
関係性
にある こ とを意 味 する。 敷 衍 して言 うな らば、 拡 が り、 展 開 したもの の背 景にはそれ まで に 無 限に拡が り、 展 開 して きた という
プロ セス があ り
、 そ れ が さ ら に新
た な拡 が り、 展 開を起こ してい くという
こ とである。 あるい は戯 論には 「戯 論さ れ た もの 」 と 「戯論 する もの 」 という
2
種
類の様相
があると も言 えるだろう
。この よ
う
な戯 論の在
り方
につ い て はSchmithausen
[1987
]が 次の よう
に分 析してい る。In
my opinion ...p (
r)
apaficais
,in
Buddhist
texts
atleast
, rather anotherinstance
ofthe
group
of words admitting ofbeing
usedboth
in
anobjective and a subjective sense .20)
・
こ こ で は戯 論 に objective な側 面と、 subjective な側 面の
2
つ が ある とす る。 それ はつ ま り戯論に よっ て世界が虚妄
に区別 立て さ れて い る とい う意 味 で は objective で あ り、 それ に基づ い て誤っ た 判 断 を繰 り返 し、 そ してそ れ を世界
と して展 開 させて い くとい う意 味で は戯 論は subjective な機 能 を持つ という
こ とであ
る。こ の よ
う
な見解
を示 す先
行研 究 は他に もある。 まず奥 住 [1986
]で は 「筆 者 は、 こ こ で 、prapafica
をこ と ばあるい は語である と 同時 に そ れの あるい は 心意 識の 原初 的 な微 細 なは た らきで ある と把 握 し ようと して い る。」21)と述べ られて い る。 つ ま り、 戯 論 をこと ば とい う形 を取っ て表 現さ れ た もの で ある と同 時に、 その根
源にあ
る意識
の は た らき
で もあ
る と解
釈してい るの で ある。青 目釈 『中論』 における戯論の用 例 (安井)
さらに丹
治
[1981
]は先の第
5
偈の説 も踏まえて 「戯 論
と分別
は、先ず
口業 の レベ ル に当たる言 語表
現という
最 も表
面 的な戯 論
の層 と、 その根
底に横
た わ る分別の 層、 更に その 深層と して見 出さ れる分 別の根 拠 と しての 戯 論の 層 という
三層の 関係
か ら な る と考
える こ とがで きる。」22)と して い る。 こ こ で は 先ほ どの subjective と objective という
戯 論の 分類 と は や や異な り、戯論
を 言 語 と して表現 され た もの とその 根 拠 と して分 け、 さ らにその 間に は分 別 (vikalpa )の 層が横た わっ てい る とする。これに関 して 『
青
目註
』も戯論
を2
種
に分 けて解釈
してい るが、 その分類
方法は上記の例 とは異 なっ てい る。 この 注釈によれ ば戯 論は愛論 と見 論の2
種
に分 けら れ る という
。 こ の よう
な分 類は先に挙 げた よう
な 他 の注 釈 書に は 見られない もの で ある。こ こ で 、 冒頭 に お い て ふ れ たパ ー リ
語
のpapaica
を顧み る と 、 パ ー リの注釈
文献
で はpapafica
が愛
(tahha )、見
(diUhi
)、慢
(mana )の 三種
煩悩
として説明
さ れてい る こ とが想
起さ れる。23)さ らに、 そ れ らのう
ち上 記 『青 目註』 の 注 釈の よう
に愛 と 見 の2
種か ら戯 論 (papafica
)を説 明 し た もの と して はMahdniddesa
(MNd
)にその 一例が見られ、南伝 大
蔵 経では次
の よう
に翻 訳 さ れてい る。 障礙 なる もの と は則 ち障礙な り。〔
こ れ に〕(
一)
愛障礙
な る もの と(
二)
見
障礙 なる もの とあ り。24)パ ー リ語の
papafica
に も様々 な訳 例が ある ことはすで に述べ た が、 ここで は 「障礙」 と訳 さ れてい る。 この
papafica
につ い てPali
−English
Diction
−ary (
PTSD
)を参
照 する と “expansion ,diffuseness
, manifoldness , obstacle ,im
−
pediment
,illusion
, obsession,
hindrance
to
spiritualprogress
”25) などの 用例 が 挙
げ
ら れ てお り、 上記の 「障
礙」 と も対
応す
る。他 方
、 サ ン ス ク リ ッ トのprapaica
の ように こ と ば との 関係性を窺わ せ る ものは見受
けら れ ない 。こ の よう な
papafica
とprapafica
の 異 同関 係につ い て雲 井 [1997
]は 「原 始 (41
)智山学 報第六十一輯 仏教で は通
常
、障
礙、妄想
の意味
。大乗
仏教
では重 要な術
語の一つ で 、 その代表
的漢訳
語 として戯論
(け う ん)が与 えられ る。 ニ カーヤ にお けるpapafica
を、 その ま ま戯 論 と訳 し て 適切か は問題な し と し ない 」26)と慎 重で あ る。 ま た 、MMK
の翻 訳で はprapafica
を 「形 而上学 的 論 議」 と 訳 して い た 中村 元 も、 このpapahca
に関して は 「ひ ろ が る妄
想」27)と異
なっ た 訳 をして お り、 「原始仏教
に おけ
る原義
と、後代
にお ける発
展 とを考慮
して訳 してみ たつ も りで ある」28)と注 記 してい る。さらに、
PTSD
はprapafica
がpra
、ズ
pahc
(t。 spread out )に由来するの に対して、
papafica
はpada
と関 連 する語で 厂足 の前
に ある もの 」 「歩 行 を妨 げ る もの 」 を 意 味 す る と してエ テ ィ モ ロ ジ カル な見地 か ら両者の違い を指摘 し て い る。29)ま た、 上 記
MNd
の 愛 障礙、 見障礙の 原文
は そ れ ぞ れ “ta仙 apapaficasaIp
−kha
”と ”dittipapatiLcasamkha
”で あるが、 この ”papaficasaipkha
”30)という表
現
に関
して櫻 部
[1991
]はSuttanipdita
(
Sn
)の ”safifiatiidatiahi
papahcasam
−kha
“3i)という
一節を例に 「samkha の 意 味は明瞭で は ない が 、 sarpkharpgac
−chati が
to
be
termed
,to
be
put
into
words の意に解せ られる ことか ら、 理解し得るか と思 う。」32)と したうえで 、 「こ この samkha は、
papafica
(虚妄に区 別 立て して対象を と ら え るこ と)safifia(そ れ を 想 念 す るこ と)と並挙さ れて、 『そ れ を こ と ばに してい うこ と』 とい う程の 意味に解 すべ き もの で は なか ろう
か と思う
。」33)という見解
が述べ られてい る。さ らに、
Sn
の 同箇所
につ い て廣澤
[2007
]では 「じつ に名称
に もとつ い て 戯 論によ る観 念が起 こ る」34)と翻 訳 されて お り、 こ こ で は saiia が 「名称
」、 samkha が 「観 念」 と して理解さ れて い る。 そ して 同 論 は 「こ の よう
な初 期 仏教の 『戯 論』 の 意味
をふ まえてお くと、 判 断が成立するこ とは 『名
称』 に よる意
識の拡
が りであ
り、 そ れを 『戯論
』 と考
えてい る よう
である。」35)とす る。Sn
にまつ わ る上記の2
例 を踏 まえると、 語 源 学 的には異なるル ー ツ を持 つ との指摘
もあるpapafica
とprapafica
で あるが、 仏 典にお ける用 例 を鑑み青 目釈 『中論』 に お け る戯 論の用 例 (安井) る と、 ことば に よっ て引 き起 こ され る
意
識のひろが り、 あるい はこ とば に よ っ て表現
さ れた意識
の ひろ がり
という意
味で は、papafica
も またこ と ば との 関係性
におい て理解
さ れるべ きもの である と言 えよ う 。以上の
事
か ら、 『青
目註
』 における愛
論、 見 論 という
戯 論の分 類が 必ず し も 『青 目註』 に おける オ リ ジ ナル な もの で は な く、 そ れ はパ ー リ文献に も用 例が見 られ るもの であ り、 そこ で もこ と ば との関係
が指摘 される もの であ
る とい うこ とが分か る。そ れ で は こ の
愛
論 と見 論と はい か なる意 味 を持つ もの として 『青
目註
』 で 用い られて い るの か。 中村 元 『佛 教 語 大辞 典』 には愛論
が 厂事物
に執着す
る 迷い か ら生 ずる不正の 言 論」36)とあ り、 見 論が 「誤っ た見解に もとつ い て成 立 し てい る言 説。 愛 論に対す
る」37)と ある。 ま た 、吉 蔵は 『中観 論 疏』 に お い て以下の よう
に解釈
してい る。 又就 觀 法 品 明戲 論有二 。 一者 愛 論 。 謂於
一 切法有
取著
心。 二 者 見論。 於 一 切 法 作 決定 解。 又 利根 者起 見論
。 鈍根
人起愛論
。 又在家
人起愛
論。 出 家 人起見論
。 又 天魔
起愛論
。外道起
見論。 又凡 夫 起 愛論。 二乘 起見 論。38)これ ら を見る と、 まず迷惑に よっ て 対
象
へ 執 著す
るこ とか ら引き起こ さ れ る の が愛 論で あ り、 そ して誤っ た見解や教 義 を説
示 した り信奉
した りする こ とが見論で ある と解釈 されてい る よう
であ
る。 つ ま り 『青
目註』 も戯 論に は、 こ とばに よっ て虚妄
に多様化
さ れてい る世
界に惑
わ さ れて しまう
厂戯 論 され る」 側 面 と、 そ れ がこ とばという
形をもっ て 表わ される とい う 「戯 論 する」 側面
の2
つ があると理解 してお り、 前 者 を愛論
、後者
を見論
とした もの と考
えられ るの で ある。2
.『青目註』 に お け る戯 論の用 例 先ほ ど は戯 論に関する言 及 が 目立つ という
こ とか ら第
18
章
の2
つ の偈 頌 を例に挙 げMMK
が 戯 論 をどの よう
に説
明して い る か 、 そ してそれ がさら (43
)智山学報第六 十一輯 に 『
青
目註
』 で は どの よう
に解釈さ れてい る かにつ い て考 察 した。次に、 こ こ で は 『
青
目註
』 におけ
る戯論
の特徴 的
な用例
をき
っ かけと して考察
を行
い たい 。 その特徴 的
な用 例 と は、偈
頌自
体に戯論
が用い られ て い な い場合
で も、注釈部分
で 「戯 論
」が用い られ てい るというも
の で ある。 そ も そ も注釈書
とは 、当然
の こ とな が ら特 定のテ キス トの内
容につ い て注 釈 者に よる解 説 が 述べ られ る もの であるか ら、 その 内容はテキ ス トの語 義解 釈が 中 心となる。 その ため 、 前 項 に挙 げた第18
章の2
偈で はMMK
の テ キス トにprapahca
の語があ
る か ら注 釈部分
で も戯 論
につ い て言 及 さ れ てい るの であ
る。 しか し、 以下に挙 げ
る例ではprapafica
に関する言 及がMMK
に は無
い の に 、 戯 論とい う語が注 釈 部分で使 用さ れてい るの である。 この ような例 は た とえば 『青 目註』 との類 似 性が 指 摘 さ れ るABh
やBP
とい っ た初 期のMMK
注 釈 書と言わ れ る注釈 書で はあ ま り見 受け られ ない 。以 上の 理 由か ら、 そ れ らの 用例 に基づ い て、
MMK
でprapafica
につ い て 言 及 されて い ない 偈 頌に対
して戯 論を用い て注釈 するこ とに よっ て どのよう
な解釈
が成
り立つ か、 さ らにそ れはい か なる 「戯 論」 観 によ る もの で あるか考
察 を試みたい 。実 際に
MMK
がprapafica
を 用 い てい ない 偈 頌 に、 『青 目註』 が 「戯 論」 を用い て注釈
を してい る箇所
は 以 下の6
つ であ
る。第
4
章
第5
偈39)無 因 而有 色
是
事終不
然是
故有智者 不
應分別
色若
因中有
果 因 中無
果。 此事 尚
不可得何
況無
因有
色。是故言無
因而有
色。 是事終
不然。 是 故 有智
者。 不應 分 別色。分
別 名凡夫
。 以 無 明愛染貪
著 色。 然後
以邪見生分別戲論説
因中有
果 無果等
。今
此 中求
色 不可得
。 是故智
者 不 應 分 別。第
5
章第
8
偈40)淺智
見 諸法
若有若
無相
是則不能
見滅見
安 隱法
青目釈 『中論』 に お け る 戯 論 の用 例 (安井) 若 人 未得 道。 不 見 諸 法實 相。 愛 見 因縁 故 種種 戲 論。 見 法生 時謂 之爲 有。 取相 言有。 見
法
滅 時 謂 之爲 斷。取
相言 無。 智者 見 諸法
生 即 滅 無見
。 見 諸法
滅即 滅有 見。 是故
於 一切 法雖 有 所見 。皆
如幻 如 夢。 乃至無
漏 道 見 尚滅。 何 況籐 見。 是 故 若不 見滅 見安 隱法 者。 則 見 有見 無第
7
章第
17
偈
41)若法
衆縁
生即
是寂
滅性是
故
生 生時
是二倶寂
滅 衆縁所
生法
。無 自性 故
寂 滅。寂滅名爲無
。 此無彼無相
。斷言語道滅諸戯
論。 (中略) 汝 雖種 種因縁 欲 成生相
。 皆是戲論非寂滅相
。第
9
章第
12
偈
42)眼
等
無 本住
今 後 亦復 無以三世 無故
無有 無 分 別 思惟
推
求本 住。 於 眼等
先 無。 今 後 亦無。 若三世 無。 即 是 無 生寂 滅不應 有 難。若
無本 住。 云何 有 眼等。 如 是 問答
。戲
論 則滅。戲論
滅故
。諸法則
空第
10
章 第16
偈43)若 人説 有 我
諸法
各
異相當
知 如是 人不得佛法味
(中略)若 人 説 我相。如
犢 子部衆説
。不得言
色 即 是 我。 不得 言離
色是
我。 我在 第五 不可説藏
中。 如 薩婆多部衆説
。諸法各各相
。是善是
不善是無
記。 是有漏無
漏有爲無爲等
別。 異 如 是等
人。 不 得 諸 法寂 滅 相。 以佛 語作 種 種 戲 論第
15
章第
6
偈
蜘若
人見有
無見 自性他性
如
是
則 不 見佛 法 眞
實
義若
人深 著諸法
。 必 求有 見。若
破 自性 則 見他 性。 若 破 他 性則 見有。 若破 有 則 見 無。 若 破 無 則 迷惑。 若利根 著 心薄者
。知
滅 諸見安
隱故
。更
不 生四種
(45
)智 山学報 第六十一輯
戲論
。是
人則見佛法眞實 義
。 是故説
上偈
。 これ らを見る と、 そ れ ぞ れ偈 頌の 内容に然 したる共 通 点は無 く、該 当箇所 もテ キ ス ト全 体に広 く散見 し て い る ため文 脈 と して の繋が りがあるわけで も ない 。 しか しな が ら、 その 内 容と して は以下 の3
種に分類 する こ とがで きる。 a .戯論
の 生 じる経 緯 を説 明 した もの →、
b
.戯 論の寂 滅 につ い て説明 した もの→
、
、
c.反 論 者の説を 「戯
論
で あ る」 と批 判す
る もの →a.戯論 と分 別
川頁に考 察 してい く と、 まず a の
2
つ の 偈頌 で はあらゆる もの ご とに お い て有
や無
を論 じる立 場 を批判 してい る。 この よう
に 、事物
の有無
を是 認す
る見解
はMMK
にお い て一貫
して批判
される テーマ で ある。 これ につ い て特
にの 注釈で はい わ ゆる 因 中有 果 論と因 中無果
論
に矛先
を 向 けて、 有や無 を分 別 (判 断)することを論 難 する。 そ し て、 その よう
な分 別か ら 厂因の 中 に 果 が ある/ない 」 とい う戯 論が 生 じる と解 釈 してい るの で あ る。こ の
注釈
でr
青
目註
』 が戯 論を用い て説 明 してい るこ とにつ い て は、偈 頌 の 「分 別」 という語
か ら、 前 述の 「分 別は戯 論 よ り起
こ る」 という
MMK
第18
章
第5
偈に示さ れ る図式
を連 想 した もの と推 察 されるが、 こ こで 一 つ の 疑 問が残る。MMK
の説に基
づ け ば戯論
は分別
の根
拠で あるの に対 し、 こ こ で は無明 に よっ て執 著 し、 「分別、 戯 論 を生 ずる (生分別戯論)」 と説 明さ れ てい るの で あ る。 これ に 関 して は 「分 別が 生 じ て か ら、 戯 論が 生 じる 」 ある い は 「分 別と戯論
が 同時に生 じる」 とい っ た解 釈が 可能で ある が 、 い ずれ に して も先に示 した 「戯論
→分別
→業
・煩悩
」 という
MMK
の 説と矛 盾 する。こ の よ
う
な分
別と戯 論の 関係 性に つ い て 『青 目註』 で は他
に も第
22
章
第15
偈
45)の 注釈
に 「戲
論名
憶 念取
相 分 別 此 彼。」46)とあ り、 これ に基づ い て丹 治[1981
]は 『青 目註』 におい て 「戯論
は分
別に他 な らない 」47)と して、 『青
目青 目釈 『中論』 における戯 論の用 例 (安井 ) 註』 に関しては
戯論
と分
別 を同義
な もの と して用い て い る とする。しか しなが ら、 これにつ い ては
先
述の 「戯論
する もの」 と 「戯 論さ れ た も の 」 という
2
種
の側面か らの戯 論 解釈 に基づ けば、MMK
で分 別の 根 拠 と し て示さ れて い るの が 「戯 論 さ れ たもの」 、 つ ま りこ と ば に よる多様化
で あ り、 それ が実 際に分 別とい う形 を成 して表
わ さ れ るこ とが 「戯 論 する もの」 の発 露で ある と 『青 目註』が解釈
して い る とも考
えられる。次に
で あるが この注 釈の 「
愛見
の 因縁の故
に、種
々 に戯 論 す」 とい う 一 節 につ い て は、前
述の第
18
章第
9
偈
に 「戯論
に二種
あ り。 一 に は愛論、 二 には見論
なり
。」 とある こ とか ら、 こ こ で もこの2
つ を意味
して い る と考 え ら れ る。 つ ま り、 愛 論 に よ っ て虚 妄 に分 別 さ れ た 世界に執 著 して 「有で あ る 」 「無である」 とい っ た見 論 を起 こすこと が戯 論のは た らきで ある と説
明 してい るの で ある。b
.戯
論の寂滅
続い て
b
の 「戯 論
の寂
滅」 につ い て で ある が、 そ もそ も 厂い か に して戯論
を滅 するか」 という
こ と に 関 して、MMK
で は前
述 の第18
章 第5
偈で 「戯 論は空 性に おい て滅す
る」 と説 くのみであ り、具体 的に どの ようにすれ ば戯 論
が滅 する の か という
ことにつ い て は言 及 さ れ てい ない 。 しか し、 『青
目註』 で はに 「言 語の道 を断じ、
戯論
を滅す
」 とあ り
、に 「是の如 く問 答すれ ば戯 論は
則
ち滅す
」 とあ
るよう
に、 どの よう
にすれ ば戯 論が滅せ られ るか、 あるい は戯 論が滅 する と はどう
いう
こ となのか が論 じ られてい る。まず
に よれ ば 「言語の 道 を断 じ 、 諸戯 論を滅 す」 とある こ と か ら、 こ と ば をきっ かけと して戯
論
が生 じ る と 『青目註』が理解 してい る こ とが わ か る。では
偈
頌に 「有無
の分 別」 とある こ とか ら、の 例と 同様にこ こで も分 別 との 関係 性に基づい て
戯論
が適 用 されて い るも
の と思わ れ る。では有と無、
自性
と他性
という
4
種
を区別立て て 見て しまう
こ とを戯論
で ある とす
る。以 上 を見て み る と、 こ こ で戯 論 と言 わ れてい る もの は お もに有 自性 論 者な どのい わ ば
MMK
の 対 論 者た ちによ る説を指
して い るこ とが わ か る。 その (47
)智山 学報 第六十一輯 意
味
で は先の、
の 用 例につ い て も因中有 果や因 中無 果 などの 説を戯 論で あると見做 してい るの だか ら、 こ れ と同様の 解 釈である とい える。
こ の よ
う
に対 論 者の 説を戯論
であ
る とす
る 用法
はMMK
本文
の 中で も以 下の2
偈に見 受 け られ る。 [MMK
Chap
.11
v .6
]
48)yatra
naprabhavanty
eteparvaparasahakramah
/prapailcayanti
tarp
jatim
taj
jaramarana
エP
cakim
//前
、後
、 同時という
これ らの 次 第が成 り立 たない 場合
にど
う
してその 生 と、 その 老死 を戯 論 する の か 。[
MMK
Chap
.22
v.15
]49)prapaficayanti
ye
buddha
卑prapahcatltam
avyayam /te
prapatlcahatah
sarve napaSyanti
tathagatam
//戯論 を超越 してい て、 不 壊 なる仏 を戯 論 する者たちは すべ て戯 論に害さ れてい て如 来を
見
ない 。こ こ で
興
味深い の は 、い ずれの偈 頌 も対 論 者の説 を戯 論である とい う場合 に は 「戯 論 する (prapaficayanti
)」 と動
詞 として用い てい る点である。 これ は先
に示し た戯 論
に 「戯論 す
る」 という
側 面 と、 「戯 論 される」 という
側面
が あるという考
えに基づ けば、前者
の方
を表
わ した例である と言 える。 つ ま り、 こ こ で い う 「戯 論 する 」 とは、 有であるか無であるか とい っ た分 別を本来 的 には離れて い る もの を 「有で ある 」、 「無である 」 と対象
化 して論
じるこ とを 意味
してい るの で ある。 しか し、 その ように して こ とばに し て発せ られ た見解
も寂
滅されるべ きで ある とMMK
は説 く。そ して、 上に
挙
げた 『青目註』 の 用 例は戯 論をその よう
に して用い よう
と する性格
が特
に強い 。 つ まり
、 『青
目註
』が偈頌
で用い られて い ない のに戯論
を用 い て 注釈 をするの は、 言う
なれば対 論 者の説を排斥
するた めの常 套句
青目釈 『中論』 に お け る戯論の用 例 (安 井) と して用い てい るの であ り、 その ような説に対して 中観 派の 立
場
か ら論駁
を行
い 、 「是
の如
く問答
すれ ば、 戯 論は則 ち滅 す。 戯 論 が 滅 する が故に、 諸法
は則ち空な り。」 とMMK
の 空 を説 明 するひ とつ の 手掛
か りと して い る の であ
る。 その意 味で は 『青 目註』 に お け る戯論 とその寂 滅は よ りプラ ク テ ィ カ ル で ある。先
に考察
して き た通 り、戯 論 (prapafica
/papafica)
という語
に は複合 的
な意
味
があ り、 その使 用 例や訳 例 も多
岐に渡
っ てい る が 、主なMMK
注釈書
で は こ とば との 関係によっ て解釈
されて い る点
で共
通 して い た。 そ して、 そ れ は特に 『青 目註』 に おい て は対論者
の 説 と して表
現さ れ た ことば を意 味する。 それ をよ り明確に表
してい る のが次の c で ある。 c .他学
派へ の論 難こ こ で は実 際に犢 子 部 と薩婆
多 部
(説一切 有部 )という特 定
の 部 派名
が挙 げ られ たう
えで その説
が引
用さ れてい る。 そ して、 そ れは何 物 も本 来 的には寂
滅 してい るという
こと を知らない 者たちによっ て説か れ た もの で あ り、 そ れ が と りもな おさず戯 論である と述べ られてい るの で ある。ま た、 こ の注 釈には 厂仏 語を以て 種々 の 戯 論 を作す」 とあ る。 こ れ は た と え仏教の教 理に基づ い て示さ れ た こ とばであっ て も、それ が有 無 などの 虚
妄
な分 別に基づい て論じられ た もの であれ ば戯
論である と 『青 目註』 で は解 釈 されてい る ことを意味
する。以上 の
事
か らや は り 『青
目註』 におい て戯 論は対 論者の説
を論難す
る際
の キ ーワー ド、 あるい は対 論 者の 誤 っ た見解
の代名
詞と して用い ら れてい る こ とが分
か る。こ の よ
う
に 『青 目註』が戯 論 を特 徴 的に 用 い る背 景に は 、 こ の 注釈
書が 「戯 論の寂 滅」 をMMK
の 目的と して特
に重 要視
して い た という
可 能 性が考 え ら れる。 そ れ を示す
一つ の根拠
と して第
25
章
の最 後は以下 の ように締め くくられて い る。 (49
)智山学報 第六 十一輯 從 因縁 品
來
。 分 別推求諸法
。有亦無
。無亦無
。有無
亦無
。非有非
無亦 無。 是名
諸法實
相。亦名如法性實
際涅槃
。是故如來無時無處
。爲
人説涅槃定
相。 是 故 説 諸 有所 得 皆 息。 戲 論皆 滅5°)以 上の
事
か ら、 『青 目註
』 がMMK
の 主 要な 思想は第1
章か ら第25
章 ま での 中に説か れてい る と解釈
して い る こ とは明 ら か で あ り、 その 中で も特に 重 要 な 目的が 「戯 論の寂滅
」 であ
る と解釈
し てい た と推察
さ れる。その た め、 誤 っ た見 解 を示 す 虚
妄
なこ と ばに対
して は、 それ をMMK
の 思想に基づ い て排斥
するこ とが注 釈 書の 目的であ り、 『青 目註』 は戯 論 とい う語を用い るこ とに よっ てそ れ を試 みて い るの である。3
.結
語以上、 特徴 的 な用例が見 受 けられる こ と をきっ かけと して 『
青
目註
』 に おけ
る戯論
につ い て考察
を重 ねて きた。 そ して 、 その 中で 『青
目註
』が他学派
との 「想 定 問答
」 という文脈
に おい て、 相 手の 説 を 「戯 論である 」 と断
じる ことで戯 論の寂 滅を 主張 し、MMK
の空 や縁起の 思想 を説
き明か そう
と試み てい ることが分かっ た。しか し な が ら、 『
青
目註
』 は訳 者で ある羅 什 に よっ て大 幅に加 筆 さ れて い る こ とがその序文
で指摘
さ れてい る。51)そ の ため、 上記の 記 述が注 釈 者で あ る青 目に よ る ものなのか、 それ とも羅什
に よ る加筆
なの か が定
かで は ない 。 また、MMK
の 思 想 とこ と ばの 関係につ い て は戯 論 だ けで はな く、 世 俗 諦(
loka
−samvrti −satya )や仮 名 (prajfiapti)な ど との比較 も交
えた考察
が求
め られ るが、 そ れ らの 問 題につ い て は今 後の課題 と したい 。
注
1
) anirodham (不滅)、 anutpadam (不生)、 anucchedam (不断)、 aSaSvatam (不 常)、anekartham (不 一義)、 ananartham (不 異 義)、 anagamam (不 来)、 anirgamam
青目釈 『中論』 における戯 論の用例 (安井 )
2
) それぞれ梶 山 [1969
]p .47
、 三枝[1984
]p .85
、 中村[1980
]p
,320
、 立 川 [2007
]p
.28
3
) 帰敬偈の他にMMK
でprapafica
につ い て言 及 されて い る の は第11
章 第6
偈、 第18
章第5
偈およ び第9
偈、 第22
章第15
偈、第25
章第24
偈の5
偈である。4
)Monier
p .681c
5
)BHSD
p .380
6
) し か し、BHSD
の こ の項 目に は まず “Prapafica
(_)is
a word whichin
Pali
andBHS is very hard to define;a carefU1 and searching stUdy of the
Pali
is
heeded
, and
has
notbeen
Inade .Northern
translations
are unusuallybewildering
”(BHSD
p .
380
)と説 明さ れてお り、さ ら に 以 下に挙げ ら れて い る同語の訳例のい くつ かについ ては、チベ ッ ト語の spros pa を参照 したもの と して示さ れて い る。
7
)mngon par
brjod
pa’i
mtshan nyidkyi
spros pa (D
.72al
P
.83b7
)8
)PP
に はABh
との 間 に多くの パ ラレル が存在 する が、そ れ がABh
か らの 引用である と は明記 されずに文 中に組み込 まれてい る。
9
)D
,190a4
,P
.237b3
10
)de
la
khyod
skyeba
nide
yin rga shi nide
yin zhes ci’i
phyir
sprospar
byed
cingrjod
par
byed
(D
,212b1
,P
.240a1
−2
)11
)prapafico
hi
vak prapaficayaty arthan (LVP
[1903
−13
]p
.3731
.9
)12
) 『青 目註』 の 第18
章 は まず 冒頭におい て全部で12
ある偈 頌をすべ て列挙 して か ら、順に注 釈を述べ る とい う構成に なっ てい る。 そのた め、実 際に偈頌 と そ れに 対する 注釈と は繋がっ て記 載さ れて い るわけで は ない 。 こ こ で は便宜上 、偈頌の 直後に該 当する注釈 部分を記載し た。13
)de
Jong
[1977
]P .50
14
)ibid
. p ,52
15
)T
.30p
,23c
, p .24c
16
)ibi
(1
.p
.24a
p .25b
17
)Monier
p .955b
18
) 梶山[1983
]p
.306
19
)ibid
.20
)Schmithausen
[1987
]p
.523
21
) 奥住 [1986
]p
.10
22
) 丹 治 [1981
]p
.31
23
)Cf
中村 [1984
]p
,394
、櫻部[1991
]p
.111
、雲井 [1997
]pp .561
−562
24
) 南伝 大蔵経Vol
.43
p
.141
”papafica yeva papartcasamkha ta! Lhapapaficasarpkha智 山 学 報 第 六 十一輯
dittipapaficasa
卑kha
”(MNd
.p
.344
) ) ) ) ) )5678
( 》 9 白2222
30
) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) )123456789012345
333333333444444
ラ@
ラ@
堰 @@ だ 890 4 ム4
尸DPTSD
D412
雲井[1997p
.560
中村[.198
np
.117ibid
.pp
261
− 262PTSD p.412“[in its P. meaning uncertainwhether
identical with Sk.prapaica
(pra+pafic
to spreadout
;meaning
“expansion , diffuseness , manifoldeess
”;cp
.Papaficeti
&papafica
3)more likely , assuggested
byetym
.&meaning o@Lat. im− ped −iment −um ,
connected
with
pada, thusperhaps
originally “pa−pad− yai
.e
.whatis
in
frontof
(i. e.in
the
way of)thefeet
(as
an
stacle
)]冒冒 PTSDでは“papafica
−sankha
”とv・う項目で‘ ’signor
characteristic
o@obsession
” (p.412 )とあ 。Sn
.P
.170N
部[1991
]p
.1ibid
, p .11
廣澤[2007]p
65
ibid
.p
,65
中村元『 佛教語大辞典』縮刷版 東京書籍、1981 年)D17ibid
.D324T
,42C12b
−cT .p
.6c
・dibiD
p
.8aibiD
p
.10cibid . p.14b
bid
. pp.15c
16a
’ ibid.p
.20a こ こでは 偈 頌の 中で もprapaf
a
の 語が用 い れている ため、先に げた 例に は含まない。T
.30p.31a 丹治[198Rp
.31de
ng
[1977
]P
青 目釈 『中論』 に おける戯論の用例 (安井)
51
)ibid
. p .1a
略号お よ び使用 テ キス ト
ABh
;Mabl
αmadhyamaka −v.rtti−akutobhaya ,D
.No
,3829
,P
.No
,5229
BHSD
:Buddhist
理ソう7認Sansferit
Grammar
and DictionaiO,by
Franklin
Edgerton
Volume
I
工:Dictionary
,Delhi
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−mablanzadhyamaka −vrtti,D
.No
,3842
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D
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αdhyamahahariha
→ seede
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:「papafica 考」『増補 版
佛 教語の研究』所収
文栄 堂書 店
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Commentaire
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青目釈 『中 論』 における戯論の用 例 (安井)
InternatiQnal
Institute
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Buddhist
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,Tokyo
〈キーワー ド〉青目、戯 論、 prapafica