杉浦宗仲と梅岩心学 : 「家内之定」の末文の分析
著者 植田 知子
雑誌名 經濟學論叢
巻 64
号 4
ページ 1376‑1358
発行年 2013‑03‑20
権利 同志社大學經濟學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013775
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶三九
︵一三七六︶ 【論説】
杉 浦 宗 仲 と 梅 岩 心 学 ︱﹁家内之定﹂の末文の分析︱
植 田 知 子
は じ め に
杉浦宗 そう仲 ちゅうは京都の商家杉浦三郎兵衛家の四代当主で︑名を利 としたか喬といい︑宗仲は法名である︵以下︑宗仲と記す︶︒
杉浦家には︑江戸期に作成された家法として三代杉浦三郎兵衛利 としのり軌︵法名︑宗夕︶による﹁定目﹂︵﹁先代之定﹂とも
呼ばれる︶と︑四代宗仲による﹁家内之定﹂﹁家業之定﹂がある︒なかでも﹁家内之定﹂﹁家業之定﹂は︑これを記した四代宗仲が熱心な心学信奉者であったことから心学関係商家の家訓として経済史・経営史の研究者から注目され︑これまでに岡光夫 ︵1︶・宮本又次 ︵2︶・藤田彰典 ︵3︶氏らによって史料として紹介され︑さらに宮本・藤田氏と︑宮本氏所蔵史料を用いた竹中靖一氏によって詳細な検討がなされている ︵4︶︒当然ながら各氏の検討の主眼は︑商家の経営理念に梅岩の教えがどのように取り込まれたかを解明するところにおかれている︒
その一方で︑宗仲の心学に関する研究 ︵5︶はきわめて少ない︒この一因は︑宗仲が他の門人のように表立っては教化活動を行わなかったことにもあると見られる︒本稿は︑これまであまり関心を向けられることのなかった宗仲の心学の
第六十四巻 第四号四〇
︵一三七五︶
特徴︑
︱
何を梅岩心学の本質と捉え︑その実践において重視したか︱
について︑﹁家内之定﹂の末文を分析することにより明らかにしようとするものである︒*以下︑本稿で引用する文献のうち︑﹃都鄙問答﹄﹃斉家論﹄﹃石田先生語録 上﹄は︑柴田実編︵一九五六年︶﹃石田梅岩全集﹄上巻︑社団法人石門
心学会により︑﹃石田先生語録 下﹄﹁石田先生語録 補遺﹂﹁石田先生事蹟﹂は︑同︵一九五七年︶﹃石田梅岩全集﹄下巻によった︒これらは︑引
用箇所の後に︑書名︵﹁問答﹂﹁語録﹂﹁語録補遺﹂﹁事蹟﹂などと略記︶と﹃全集﹄の上・下巻の別︑頁数を示した︒
一 杉浦宗仲について
はじめに杉浦家と杉浦宗仲について簡単に紹介しておこう︒
杉浦三郎兵衛家 ︵6︶︵屋号︑大黒屋︶は呉服太物小間物類を取扱った商家で︑創業 ︵7︶は寛文三年︵一六六三︶︒江戸期には京店を本店とし︑江戸に二店舗︵石町店・本所店︶︑それに岐阜と大坂にも出店をもつ大店であった ︵8︶︒
杉浦宗仲は三代利軌の嗣子として享保一八年︵一七三三︶八月二〇日に生れ︑幼名を三四郎といった︒父の三代利軌は延享元年︵一七四四︶九月一一日に四三歳の若さで亡くなったため︑三四郎はわずか一二歳で家督を相続する︒
宗仲の心学の修学歴は︑まだ三四郎と呼ばれていた数え年一一歳の時︑寛保三年︵一七四三︶の石田梅岩への入門 ︵9︶
に始まる︒そして翌延享元年︵一七四四︶九月二四日に梅岩が急逝した後は︑梅岩高弟の﹁富岡以直 ︵
す︑門全藤斎く自得晩 そお︵ 性知り入に門の 10︶
に従ふ﹂ 11︶︵
とんりなと人のそ︒だ積﹁を鑽研てし加参には温講生﹄ずれは疑に人﹃終厚し持を自厳謹﹂﹁実篤席の以岡富や読直 家とも降以てっなの人主宗家商︒るれ︑業仲道会のとちた友のは他ら傍む営をとさ 12︶
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶四一
︵三七四︶一 悖﹂ずら念に信ふ云 もと︵
見を誤を策商に常てしに敏る﹂機ず性天其︑﹁もてしと者営経︑た 13︶︵
と評されるものであった︒ 14︶
宗仲は梅岩の教えを自らの行動指針とし︑その教えを家内や周囲の人々にも及ぼしただけでなく︑奉公人教育の一環として大黒屋の奉公人にも心学を学ばせた︒﹁日記﹂ ︵
︒﹂﹁生終︑は﹂定業家定学之内家﹁るれら見と心之をとるあ学のもるえいもで実た結びけ続宗仲の 五一七八二︶宗仲に〇歳の時記した年︵二ほいれた明︑大黒屋に富岡以直を招かてさ心天︒いてせるけ学も導指の受 に人公奉︑よとるに﹃述は子斉家論﹄などの冊が授けらの記 15︶
二
﹁家内之定﹂の末文について
二・一
﹁家内之定﹂の作成時期と構成
のるれらえ考と ︵ ﹁れ成ることから︑その頃作さとれたもそ︑は﹂定之内あ日が天納められた箱の箱書に明八二年︵一七八二家正月︶
︒ 16︶
﹁月一七一一︶五に年出された﹁定﹂︵元家成内之定﹂の構は徳︑まず冒頭に正 ︵
るいてれらせ載が ︵ 制﹂覚之札御﹁たし写き書を︶条九全︵ 17︶
︵文全二二箇条︶・末・目附録︵全六箇条︶かり条成家︒その後に続く﹁内︑之定﹂の本体部分はら 18︶︵
︒速ここで繰り返ことはせず︑早す末こ文うよしとにる入に討検の たこし述上はられた︒るあでのもべ行先い研介でのるをてれさ紹究が文全ていおに述意﹁﹂が家内定之を作成した趣 て統に対しは日々の心び一屋よお人公奉のえ黒大はに目構そがれ仲宗︑は文末︒るいてさ︑記が目条足補のに録附条 ︑ 19︶
第六十四巻 第四号四二
︵一三七三︶
二・二
﹁家内之定﹂の末文
末文は二二箇条の条目の後ろに続けて次のように記されている ︵
︒ 20︶
右件の意 イ趣 シユは唯人〳〵身を脩 おさ︵ママ︶るを以て本 モトとす︑主人ハ主人乃あるへき様に身を脩め︑奉公人ハ奉公人のあるへき様に身を脩るを以て本 モトとすへし︒今日生ある者呼 コ吸 キウ存 ソンせさるハなし︑此気 イキは即 すなわち天地万物乃惣体となるもの也︒此気 イキ
の自然に親をしたひ︑子をあはれむの心生し︑君臣夫婦兄弟朋 ほうゆう友の交にいたるまて其所〳〵に於てかはりあれとも︑皆この気 イキの自然より生 しよする るもの也︒畢竟五倫の交といふも︑この気 イキの自然に生る心乃所を変 カへて行 おこなは ハる るヽ るものにて仁心是也︒かるか故に此気 イキの自然に反 はんするを私心におふはるヽといひ︑不仁にして道に違 タカふ者とす︒此道理をわきまふるを以て人を万物の霊 れいといふ︒しかれハ其本 モトを能く知て︑第一に孝を忘 わすれへからす︒孝の心を本として君 くん臣 しん夫婦兄弟朋友のうへにおよほすときハ身不義非道にいらさるへき也
宗仲は﹁右件﹂︑すなわち二二の条目を書き記した意趣を︑﹁身を脩るを以て本とす﹂べきことを教えるためと述べている︒
︒自のキーワード﹁気のが然言﹂あで葉るういと イキ 分はこの部略を省文してで読末︒るけ向を意注の手み宗︑は仲題際そ︒るめ進を歩とへの課心中の学教岩梅にちだた ﹂りな何心れこ︒同︵の上︶と︑﹁心﹂問題へとる如はな二述と︶頁六一上︑﹂論家斉︵﹁﹂べそと修としる主を身︑﹁てす あるんかいじ ﹁本梅よて天︑謂所に学大︑﹁は岩て以いつにとこういと﹂る脩をり子て︑以をる脩を身皆是に身庶壹で人まに至る なしよむさおみくるゆはいとひだいがつ
まず︑﹁気 イキ﹂という語に着目して考えてみたい︒宗仲は﹁気﹂に﹁イキ﹂という読み仮名を付けているが︑﹁イキ﹂
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶四三
︵三七二︶一 うたい説にどよの︑を﹂理﹁か点そのから見ていくことにしようや︒ で﹄用で﹂段ノ答問理性﹁の答た問鄙都﹃が岩梅は語ういとい﹁が﹁彿させる︒吸は︑梅岩呼呼を吸﹂を用いて﹁性﹂﹂彷 ウコキ
三 梅岩教学の根本
三・一 学問の目的
梅岩は自身の学問の目的を︑﹁人ノ之有 アル
レ道 ミチ也﹂︵﹁問答﹂上四頁︶︑﹁人ノ道ト云ハ五倫也﹂︵﹁語録﹂下二三三頁︶︑﹁教 ヲシヘノ道ハ人 ジンリン倫ヲ明カニスルノミ﹂︵﹁問答﹂上三六頁︶と述べている︒これは︑﹁人には道というものがあり︑それは人間社会における君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の基本的関係を正しく保つための五倫の道である︒五倫の道を人々が実行するよう教え導くことが学問の役割である﹂ということで︑梅岩が︑﹁五倫 リン五常 ジヤウノ道ヲ以テ︑我ヨリ以下ノ人ニ︑教ンコトヲ志 ココロザス﹂︵同︑上七頁︶とした理由もここにある︒
そして︑﹁人ヨリ禽 キンジウ獣草 ソウモク木マデ﹂すべてのものが﹁天ニ受 ウケ得 エテ以テ生ズル理﹂︵同︑上四頁︶であるところの﹁性﹂を知れば︑﹁五常 ジヤウ五倫 リンノ道ハ其中ニ備 ソナハ﹂︵同︑上五頁︶っている︒よって孟子は︑﹁性ヲ知 シルヲ先 サキトス︵まず自分の本性
を知れ︶﹂︵同︑上一一頁︶と教え︑﹁尽 ツクシテ
レ心 ココロヲ知 シルサハ
レ性 セイヲ則知レ ルト天ヲ︵心をきわめて本性を知れば天を知ることになる︶﹂︵同︑上 一一頁︶と説いた︒梅岩にとってこの言葉は︑﹁我 ワガ心ニ合 カナヒ疑 ウタガヒナキヲ以テ︑教 ヲシヘヲ立 タツルモト﹂︵同︑上一一頁︶としたのである︒
ここで問題となるのが︑﹁性﹂とは︑﹁心﹂とは何かということである︒
第六十四巻 第四号四四
︵一三七一︶
三・二
﹁性ヲ知ル﹂とは
︱
梅岩の﹁呼吸﹂﹁段く引を葉言の次はで﹂ノ性答問理性︑﹁てし関に﹂︒
孔子易 エキニ一陰 イン一陽 ヤウ之 ヲ謂 イフ
レ道ト︒継 ツグ
レ之 ヲ者 ノハ善也 ナリ︒成 ナス
レ之 ヲ者 ノハ性也 ナリトノ玉フ︒︵同︑上一〇〇頁︶
これは︑﹁天地は陰と陽との交互のあらわれであって︑それ以外の何ものでもない︒その陰と陽とが交互に発展してゆく形をどこまでも続けてやむ時のないところをさして善といい︑そうした善を完成するものが性である ︵
︒て呼吸に見立て次陽のように述べるを陰るのうことであ︒梅岩は︑天地 ﹂︑いと 21︶
呼 コ吸 キウハ天地ノ陰陽ニシテ︑汝ガ息ニハ非ズ︒因テ汝モ天地ノ陰陽ト一致 チニナラザレバ︑忽 タチマチニ死スルナリ︒陰陽ノ外ニ汝ガ命ナキコト明白ナリ︒吸 スフイキ息ハ陰ナリ︑吐 ハクイキ息ハ陽ナリ︒継 コレヲツグモノ之者ハ善ナリ︒身ノ動 ウゴクモ静 シヅカナルモ天地ノ陰陽ナリ︒易 エキト何ゾ替 カハルコトアラン︵同︑上一〇〇︱一〇一頁︶
梅岩は︑絶え間なく行なわれる呼吸作用を通して天と人との関係を説明するが︑梅岩のいう﹁呼吸﹂とは人の息そのものではない︒
人ノ寝 ネ入タル時ニテモ無 ム心 シンニシテ動 ウゴクハ呼 コ吸 キウノ息 イキナリ︒其呼吸ハ我 ワガ息ニハ非ズ︒天地ノ陰陽ガ我体 タイニ出入シ形 カタチノ動 ウゴ
クハ天地浩 コウゼン然ノ気ナリ︒我ト天地ト渾 コンゼン然タル一物ナリト貫 クワントウ通スル所ヨリ︑人ノ性ハ善ナリト説 トキ玉フ︒自 シ然 ゼンニシテ易
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶四五
︵三七〇︶一 ︑頁三〇一上ヘ同︵リ合ニ︶ ナカ
人が寝ている間も無意識に繰り返される呼吸︒梅岩のいう﹁呼 コ吸 キウ﹂とは︑天地の陰陽が自分の身体に出入している﹁天地浩然ノ気︵天地の間に満ちている非常に盛んな精気︶﹂を指す︒そして︑﹁形 カタチノ動 ウゴク︵形あるものが動く︶﹂のはその作用を受けている証であり︑それによって自分自身と天地とが完全に一体となった状態︑それが﹁無心﹂︵同︑上一〇三頁︶であり︑﹁天地ノ心﹂︵同︑上一二五頁︶になった状態で︑孟子のいう﹁性善﹂にあたる︒さらに︑
天地ヲ人ノ上ニテイハヾ︑心ハ虚 キョニシテ天ナリ︒形ハフサガツテ地ナリ︒呼 コ吸 キウハ陰陽ナリ︒コレヲ継 ツグ者ハ善ナリ︒用ヲ為 ナス所ヲ主 ツカサドル体ハ性ナリ︒是ヲ以テ見ヨ︒人ハ全 ゼンタイ体一 イツ箇 コノ小 セウ天地ナリ︒︵同︑上一〇五頁︶
といい︑﹁呼吸﹂の﹁用ヲ為所ヲ主ル体︵作用の主体︶﹂が﹁性﹂であるから︑﹁性ヲ知ルヲ先トス﹂ということになる︒
三・三
﹁心ヲ知ル﹂とは
次に︑﹁心﹂とは何か︒
梅岩は三五︑六歳の頃まで︑﹁性を知れりと定めゐたまひしに︑何となく其性に疑ひおこり﹂︵﹁事蹟﹂下六一四頁︶︑﹁我ガ性ヲ知ラネバスマヌコト﹂︵﹁語録﹂下一五〇頁︶と思って方々を尋ね歩いた︒その時に出会った﹁隠遁の学者﹂︵小
栗了雲︶から︑﹁汝ハ心ヲ知 シレリト思 ヲモフラメド︑未 イマタ知 シラズ﹂︵﹁問答﹂上七頁︶という指摘を受け︑さらに︑﹁心ハ一身ノ主 アルジナリ﹂︵同︑ 上八頁︶という示唆を得る︒それから約一年半後︑梅岩は︑﹁堯 ゲウ舜 シユンノ道ハ孝 カウテイノミ弟而已﹂︵同︑上八頁︶という境地に到達し︑
第六十四巻 第四号四六
︵一三六九︶
﹁人ハ孝 カウテイチウシン悌忠信︑此外子 シ細 サイナキコトヲ会 エ得 トクシテ︑二十年来ノ疑 ウタガヒヲ解 ト﹂︵同︑上八頁︶いたという︒﹁孝弟﹂は﹁仁ヲ行フノ本﹂︵﹁語録補遺﹂下四三九頁︶であり︑梅岩はここに至って天の生成︑すなわち﹁仁﹂こそが﹁心﹂であるということを会得する︒そして︑
心ヲ知 シルヲ先 サキトスベシ︒心ヲ知レバ身ヲ慎 ツツシム︒身ヲ敬 ツツシムユヘニ礼ニ合 カナフ︒故ニ心安シ︒心安キハ是仁ナリ︒仁ハ天ノ一元 ゲン気 キナリ︒天ノ一元気ハ万物ヲ生ジ育 ヤシナフ︒此心ヲ得ルヲ学 ガク問ノ始トシ終 ヲハリトス︒︵﹁問答﹂上一一二頁︶
心を知ることは﹁仁﹂を養うことに繋がることを洞察する︒梅岩が︑﹁呼 コ吸 キウ存スル間 アイタハ︑心ヲ以テ性 セイヲ養 ヤシナフヲ我任 ニントスルコトナリ﹂︵同︑上一一二頁︶という強い決意に至るまでにはこのような道程があった︒
三・四 道徳的実践の必要性
では︑心を知ればそれで学問の目的は達成されたと言えるのか︒﹁心ヲ知トキハ︑直 ジキニ賢人ニテ候ヤ﹂︵﹁問答﹂上九
頁︶という問いに梅岩は︑﹁否 イナ︑身ニ行 ヲコナハザレハ賢人ニアラズ﹂︵同︑上九頁︶と答え︑﹁聖人ノ学 ガクモン問ハ行 ヲコナヒヲ本 モト﹂︵同︑上六頁︶とし︑心を知った後は次の段階としてその実践の必要性を説く︒
実践する際に心掛けるべき要点として︑少なくとも梅岩は次の二点をあげている︒
第一に︑﹁心ヲ知ル﹂といってもそこには私知と聖知の区別があること︒﹁私 シチ知トハ品 シナジナ品ノ了 リヤウ簡 ケンヲ加 クハユルユヘニ︑自然ノ知 チニアラズ﹂︵同︑上一一三頁︶とし︑それに対して聖知は︑﹁向ヒ視 ミル物ヲ則心ト為 ナシ玉フ︵相対するものの心を自分の心
とする︶﹂︵同︑上一一三頁︶ことである︒物にはそのあり方としての形があるが︑その﹁形ヲ直 ヂキニ心︵形がそのまま心︶﹂︵同︑
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶四七
︵三六八︶一 示るべきことを︑例をがしな求ら次のように述べるめ︑をこ上一一三頁︶と考えると知が聖知である︒そして聖︒
譬 タトヘバヨルネイリ夜寝入タルトキ︑寝 ネ掻 カキシ︑ヲボヘズ形 カタチヲ相 タスク︒是形直 ヂキニ心ナル所ナリ︒又孑 ホウフリムシ々水中ニ有テハ人ヲ不 ササ
レ螫 ズ︒蚊 カト変 ヘンジテ忽 タチマチニ人ヲ螫 サス︒コレ形 カタチニ由 ヨルノ心ナリ︵同︑上一一三頁︶︒
夜寝ている時に身体を掻き︑無意識に寝相を変えるのは︑形の変化がそのまま心の現れであり︑水中にいた時は人を刺さないボウフラが蚊となって人を刺すのも︑﹁形 カタチニ由 ヨルノ心︵形に応じた心︶﹂である︒そして︑すべての物はそれぞれの﹁形﹂を践む努力をしなければならない︒
形ヲ践トハ︑五倫ノ道ヲ明カニ行 ヲコナフヲ云︒形ヲ践 フンデ行フコト︑不 アタハザルハ能小人ナリ︒禽 チクルイ獣鳥 テウルイ類ハ私心ナシ︒反 カへツテ形ヲ践 フム︒皆 ミナ自然ノ理ナリ︒聖人ハ是ヲ知リ玉フ︒︵同︑上一一四頁︶
︒まけ受てしと心まめのそを﹂形﹁と︑﹁人きういとるあでべ形う行てっ従に﹂も ﹁のか︵心私︑﹁でとこう行にらな明を道の倫五はと﹂践ヲ独りよがい獣や鳥がその形形﹂に従うように︑﹂︶え考のり﹁ ムフ
第二は︑﹁物々此形替 カハルニ因テ法アリ︒其物ニ因テ法ハ替ルナリ﹂︵同︑上五六頁︶︑つまり︑物にはそれぞれの﹁形﹂によって従うべき﹁法︵行動規範︶﹂があるということで︑具体的に孔子が薪や牧草︑材木などを集める役を担当した際︑与えられた仕事に満足し︑職務に励んだことを例にとり︑﹁今日我身ノアル所則 スナハチ天命﹂︵同︑上三八頁︶と知り︑そして﹁我 ガ職 シヨク分 ブンヲ疎 ヲロソカ﹂︵同上︶にしなかった孔子を模範とするよう説く︒
第六十四巻 第四号四八
︵一三六七︶
聖人ノ行 ヲコナヒヲ見テ法 ハウヲ取 トルベシ︒︵中略︶ 如 カクノゴトキ是君子大徳ノ行 カウセキ跡ヲ見︑此 コレヲ法 ハウトシテ︑五 ゴ倫 リンノ道ヲ教 ヲシヘ︑天ノ命 メイゼル職 シヨク分 ブン
ヲ知 シラセ︑力 ツトメヲコナフ行トキハ︑身脩 ヲサマリテ家斉 トトノヒ︑国治 ヲサマリテ天下平 タイラカナリ︒︵同︑上四頁︶
要するに道徳的実践は聖人の行いを手本とし︑﹁私心﹂を退け︑﹁形ニ由ノ心﹂にしたがって︑﹁五倫の道﹂とそれぞれの﹁職分﹂において努め行うこととされた︒
四 宗仲における梅岩心学
四・一 梅岩の﹁呼 コ吸 キウ﹂と宗仲の﹁気 イキ﹂
ここまで梅岩教学の根本部分を見てきたが︑その上で改めて﹁家内之定﹂の末文を読み返してみると︑末文の趣旨は梅岩の教えに一致している︒そこで今一度注目されるのが﹁気 イキ﹂という語である︒
末文には︑﹁今日生ある者呼 コ吸 キウ存せさるハなし︑此気 イキは︵後略︶﹂とあり︑﹁気 イキ﹂は確かに呼吸を意味している︒では︑梅岩の﹁呼 コ吸 キウ﹂と宗仲の﹁気 イキ﹂の違いはどこにあるのだろうか︒まず梅岩の場合︑天地の陰陽を﹁呼 コ吸 キウ﹂に見立てて次の二点を表した︒
①
﹁天上一〇〇頁︶︑また︑地天は﹁万物の体︵すべての﹂答問︵﹁地ハ一陰一陽ナリ︵天地は陰陽から成っている︶﹂も タイ
のの本体となる︶﹂︵同︑上一〇四頁︶とし︑天は生成する天地万物の根源であるということ︒
② 天地の陰陽によって︑すべてのものに﹁具体的個別性=﹃形﹄﹂ ︵
が与えられるということ︒ 22︶
梅岩は﹃都鄙問答﹄において︑しばしば事物を体︵本体︶と用︵作用︶で説明するが︑それで言えば①は気の本体︑
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶四九
︵三六六︶一 ううろなにとこ用いと作の気は②︒
これに対し宗仲の﹁気 イキ﹂は︑①﹁気﹂の一語で﹁天地万物乃惣体なるもの﹂=気の本体を表し︑②﹁イキ﹂という読み仮名を付して呼吸=気の作用を表したと考えられる︒つまり︑梅岩の﹁呼 コ吸 キウ﹂と宗仲の﹁気 イキ﹂の指し示す内容はほとんど同じと見てよい︒
では︑なぜ宗仲は﹁呼吸﹂ではなく﹁気 イキ﹂という語を用いたのであろうか︒この点に関して宗仲は﹁日記﹂に︑﹁先生︑
人を接得 ︵
万﹂し示とのもるなと体惣乃物地ふ天ハ気のこ︑に端発ふまたしな 23︶︵
︒という語︑以直によるものも考とえるれ思わ切適が方た てういた言葉だとい﹁︒そうすると気﹂とにっ語めなとで︑﹁気は即地万物乃惣体天る以も始のえ教直が︑はと﹂の キイ と先記している︒こ生とは富岡以直の 24︶
宗仲は梅岩没後︑斎藤全門や富岡以直に師事して心学の研鑽を積んだが︑この三師のうち師事した期間という点では以直がもっとも長い ︵
間を﹂者学篤の門当たし行修 ︵ た年八七十ていつに直以﹁は後し︑没川謙氏は宗仲について梅︒岩・全門に学び︑二師の石 25︶
如の﹂るえ見にくもの ︵ こ講席を開くたとはなかっ自ら︑斯ら介し︑さらに︑﹁終生道とに深い興味を繋ぎ乍紹 26︶
柳・甚だ少く僅かに鎌田の泓杉人浦宗仲など数子あるのみ﹂が ︵ 記程るれさ念に係世述べている︒また︑以直との関にと門後を名︑も人のつ直以︑﹁はていも 27︶
︒裏なかたことをっ付るものであるけ 示ととるす唆たをとこいてにも影︑以直から受けた達響が少なくし到摘がにこれらの指は宗仲学問的にもかなりの域 直継統学のい以を仲宗者承るの一人と位置付けてと︒︑ 28︶
以直の学問的傾向は︑﹁梅巖の所謂﹃形に由る心﹄に於いて性を把握したもので︑荘子の﹃萬物皆形ノ外ニ無レ心﹄と言つた境地を境地とした﹂ ︵
にノがれた﹁形ニ由心受︵それぞれの形け継とへとされる︒梅岩から以︑直そして宗仲 29チヨルタカ︶
応じた心︶﹂を重んじる姿勢は﹁家内之定﹂の末文にも窺うことができる︒﹁身を脩る﹂にも﹁主人ハ主人乃あるへき
第六十四巻 第四号五〇
︵一三六五︶
様に﹂︑﹁奉公人ハ奉公人のあるへき様に﹂と述べているのがその一例である︒
また︑宗仲は末文で﹁気 イキの自然﹂という言葉を繰り返すが︑これに相反するのが﹁私心におふはるヽ﹂状態で︑つまり﹁気 イキの自然﹂の﹁自然﹂とは︑﹁形ヲ直 ヂキニ心﹂とすることを意味したと考えられる︒宗仲は﹁五倫の交﹂も︑﹁気 イキ
の自然に生る心乃所を変へて行はるヽものにて仁心也﹂と述べているが︑これを梅岩の言い方に直せば︑
︱
天地の陰陽より生み出された万物がそれぞれの﹁形ヲ直 ヂキニ心﹂とし︑﹁形 カタチニ由 ヨルノ心﹂で実践する行為︑それが仁である︱
ということになろう︒このように末文の﹁気 イキ﹂や﹁気 イキの自然﹂という独特の用語は︑師梅岩の説を祖述した以直の言葉と考えられ︑宗仲が梅岩心学を理解するにあたって以直の及ぼした影響の大きさに思い至らされる︒
四・二
﹁仁﹂と﹁孝﹂
最後に︑宗仲は﹁仁﹂と﹁孝﹂を強調して末文を締め括っているが︑この点についても見ておきたい︒
梅岩は人間の本質としての﹁心﹂の重要性を説き︑道徳的実践においては聖人の行いを﹁法︵行動規範︶﹂とすべきとしたが︑その一方で︑﹁心﹂は﹁性情ヲ兼﹂︵﹁語録﹂上五二八頁︶ね備えたものであるため︑人は﹁七情 ジヤウニ蔽 ヲヲヒ昧 クラマサレ﹂︵﹁問答﹂上一一三頁︶︑あるいは﹁人 ジンヨク欲ニ掩 ヲヲハレ﹂︵同︑上一二五頁︶て﹁無心﹂を見失う危険性があることを認識していた︒これを克服するには︑﹁心﹂を他からの影響を受けない存在として絶対化する必要があり︑梅岩はそれを︑﹁人間の本
源的な血縁的愛=﹃孝﹄︑さらにはその全体化としての﹃仁﹄に求めていった ︵
前道︵﹂已而弟孝ハノ舜堯︒﹁るあでの﹂ 30︶
出︶とし︑﹁孝弟ハ仁ヲ行フノ本﹂︵﹁語録補遺﹂下四三九頁︶であり︑そして︑﹁仁ハ私心ナキヲ云﹂︵﹁語録﹂下二九二頁︶とされる︒宗仲が︑﹁五倫の交といふも︑この気の自然に生る心乃所を変へて行はるヽものにて仁心是也﹂︑あるいは︑
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶五一
︵三六四︶一 ﹂はのたし調強をる孝﹁こあで徳道践実る︑なのたるれらえ考とのもいよづ基にえ考の岩梅うす︒ 仁夫おにへうの友朋弟兄婦臣ほ君てしと本を心の孝﹁よす︑﹁へを根本思想とと﹂也きるとさらいに道非義不身ハき﹂
お わ り に
ここまでの検討から︑末文は梅岩心学を学んだ宗仲が︑その道徳的実践にあたっての基本姿勢を明示したものといえよう︒その基本姿勢とは﹁形 カタチニ由 ヨルノ心﹂の重視で︑これは梅岩教学の本質が以直から宗仲へと継承されたことを示している︒
江戸期の商家の家訓・店則類には心学の教えを取り入れたものが少なくない︒けれども︑周知のように梅岩心学はその門下により学風を異にしたから︑それらの家訓類を記した人物が誰に師事し︑影響を受けたかによって梅岩心学に対する理解やその具体的実践はかなり異なったものになったと考えられる︒
逆井氏は︑﹁梅岩の教学原理をその実践道徳論に具体化する媒介論理としての﹃形ニ由ル ︵ママ︶心﹄が後継者たる堵庵の﹃本心の学﹄ではまったく欠落し︑そこでは心の自己運動化および血縁関係重視にもとづく﹃我なし﹄となり︑﹃職分﹄
実践はもっぱら﹃和合﹄を尊重する﹁家業道﹂実践に落ちついた﹂ ︵
近学︵門全藤斎︱家三係関︑心たま︒るいてし析分と 31︶
江屋仁兵衛家︶・杉浦宗仲︵杉浦三郎兵衛家︶・由良一定 ︵
︶似︵由良七兵衛家性︱の家法の類 32︶︵
う言本心﹂とい手葉にが見えること﹁法らをるいてし摘指響家影の庵堵島のか ︵ 家良由︑も氏中竹たし目着に 33︶
︒ 34︶
本稿の検討では︑宗仲が富岡以直に師事し ︵
問仲の徴特の学心の宗端はれこ︑しだた︒一をれ後学の他の直以︑は今示︒いなぎ過にたしたら認がとこたし承継め 由学で質本のよ教岩梅りるにとあノ﹁形ニた心﹂を重視する姿勢をこ 35︶
第六十四巻 第四号五二
︵一三六三︶
的傾向を注意深く観察するとともに︑宗仲が受け継いだ﹁形ニ由ノ心﹂が大黒屋の経営や奉公人管理の面でどのように実践されたのか︑その具体的検証が課題とされる︒
註︵1︶岡光夫︵一九六七︶﹁京都商人杉浦家の家則﹂﹃経済学論叢﹄︵同志社大学︶第一六巻第二号︒
︵2︶宮本又次︵一九七九︶﹁第三章 杉浦三郎兵衛家の家法について﹂﹃近世日本経営史論考﹄東洋文化社︑所収︒
︵3︶藤田彰典︵一九八四︶﹁京都の商家杉浦大黒屋の家訓︵上︶﹂﹃京都文化短期大学紀要﹄創刊号︒
︵4︶宮本前掲書﹁第三章﹂︑藤田彰典︵一九九一︶﹁京都商人杉浦家の家法と経営﹂﹃京都文化短期大学紀要﹄第一六号︑竹中靖一︵一九七二︹一九六二
初版︺︶﹁附録Ⅱ 心学関係者の家法について﹂﹃石門心学の経済思想﹄︵増補版︶ミネルヴァ書房︑所収︒
︵5︶杉浦宗仲の心学について述べたものには︑岩内誠一︵一九三四︶﹃教育家としての石田梅岩﹄立命館出版部︑二八二︱二八四頁︑石川謙︵一九三八︶
﹃石門心学史の研究﹄岩波書店︑二〇八︑二二〇頁︑渡辺徹︵一九四〇︶﹃鎌田鵬の研究﹄中興館︑二七〇︱二七一頁︒などがあげられる︒また︑柴
田実︵一九六七︶﹃心学﹄至文堂︑﹁附録一 心学道統図﹂では︑杉浦宗仲を梅岩直門として図中に記している︒
︵6︶大黒屋の初代内海清兵衛義清は︑杉浦八右衛門︵道伯︶の娘美喜との結婚後︑杉浦姓に改姓︒そして︑二代目以降杉浦家当主は代々三郎兵衛を
名乗る︒渡辺前掲書で﹁宗仲は杉浦家の三代﹂︵二七一頁︶としているのはこのような事情によるものである︒
︵7︶﹁杉浦家代々由緒書﹂によると︑内海清兵衛義清は幼少時に在所の江州高島郡太田村から京に出て豪商富山氏に奉公し︑寛文三年三三歳の時に
創業した︒︵藤田彰典︵一九八八︶﹁京都商人大黒屋杉浦家の出自と系譜﹂﹃京都文化短期大学紀要﹄第九号︑七五︱七六頁︶︒なお︑由緒書には﹁寛
文八年九月︑江戸日本橋本石町四丁目の地に出店し継続営業す﹂︵同︑七五頁︶とある︒
杉浦宗仲と梅岩心学︵植田知子︶五三
︵三六二︶一 譜へ家別
︱
幹系の部経営経るの任営委お江戸から平成﹂﹃同志社商学け黒にて︵8︶明治以降の大黒屋についは屋︑植田知子︵二〇一二︶﹁杉浦大﹄第六三巻第五号︑を参照されたい︒
︵9︶﹁杉浦宗仲小伝及遺墨﹂︵一九三二︶﹃雲泉荘山誌 巻之三 石門心学関係図書及資料﹄発行兼編輯杉浦三郎兵衛︑所収︑八三頁︒ただし︑この
時の宗仲は︑﹁僅かに素読の親授を受けたのみで︑心学の修養は改めて高弟中の誰かについて完成しなければならなかった﹂︵石川前掲書﹃石門心
学史の研究﹄二〇八頁︶とされる︒
︵
10 衣は衣棚通三條にあって代々法商︑︵屋号︑十一屋︶を業とした︒家し︶︶富岡以直︵一七一七〜一七八七は称通称伝兵衛︑後忠介︵忠助︶と梅
岩に入門したのは元文五年︵一七四〇︶か︑寛保元年︵一七四一︶とされる︒梅岩没後は講席を開いて師の教えを伝えた︵岩内前掲書︑二四二︱
二四三頁︶︒
︵
11三号を近江屋といった︒三〇〜八︑歳の頃梅岩に入門し︑やがて見屋し︶︶斎藤全門︵一七〇〇〜一七六一は号字を二介︑通称仁兵衛︑北山と性
開悟する︒梅岩を尊信して万事助力を惜しまず︑時には梅岩の代講も務めた︒梅岩没後門人等は全門を同門の長老として師の代りとし︑その講義
を受けたという︵岩内前掲書︑二二五︱二二六頁︶︒
︵
12伝頁三八﹂墨遺及小︶仲宗浦杉﹁掲前︒
︵
13︶同前︑八三および八四頁︒
︵
14︶同前︑八三頁︒
︵
15は記﹄︒本文中で﹁代日記﹂と略記日歴︶資京都府立総合料家館所蔵﹃杉浦︒
︵
16家掲︑藤田彰典﹁京都商人杉浦の︑家法と経営﹂二〇頁の註9参照前び︶浦前掲︑藤田彰典﹁京都の商家杉大よ黒屋の家訓︵上︶﹂一五一頁︒お︒
︵
17岩都町触集成﹄第一巻︑波︶﹃書店︑一八四︱一八五頁京刷︶九京都町触研究会編︵一九四一年第二刷︒一九八三年第︒
︵
18七明だが︑心学者中沢道二︵一二は五〜一八〇三︶はこの﹁定﹂の不て︶﹁五家内之定﹂の冒頭に正徳元年月いの﹁定﹂が掲げられた意図につう