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Japanese Psychological Review 2018, Vol. 61, No. 4, ) The role of language in emotion experience and perception: Theoretical review and devel

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(1)

かつて,人には生得的に幾つかの基本感情が備 わっており,それらは特定の状況下で自動的に生 起し,またそれによって引き起こされた表出から は自動的に対応する感情が解読されると考えられ てきた (e.g., Ekman, 1992, 1999;Izard, 1994;Shariff

& Tracy, 2011)。一方で近年,感情を個別のカテ ゴリーとして認識する際に,言語が役割を担って いると強調する立場も現れている (e.g., Lindquist, 2017;Lindquist, MacCormack, & Shablack, 2015;

Lindquist, Sapture, & Gendron, 2015)。この立場は,

感情を喜びや怒りといったカテゴリーで認識す るような,感情のカテゴリカルな経験及び知覚2) には,その個人の持つ感情語が機能していると 主張している。更に,こうした感情語や感情の概 念が機能していることを想定することによって,

emotion paradox という感情研究の問題点が解決

できることも指摘されている (Barrett, 2006b)。個 別の感情カテゴリーがどこまで生得的なもので,

どこからが社会的・言語的に形成されるものであ るかについては議論がなされており (Barrett et al., 2007;Izard, 2007;Panksepp, 2007;Russell, 2012,

2014),これら2つの立場が感情の異なる水準に

注目していると考えることの重要性も指摘されて いる (遠藤, 2013;Sauter, 2018;Scherer, 2009a)。

しかし,実際のところ感情の経験や知覚におい て,どのように言語が機能しているかは現在も議 論が行われている (Hoemann & Barrett, 2018)。そ のため,感情における言語の役割について検討し ようとする際に,どの水準に焦点を当てるべきな のか,議論や検証の軸を設定することが難しく なっている。本稿の第一の目的は,感情の経験及 び知覚における機序を概観したのち,言語の役割 についてその重要性を示す知見を検討すること で,どの水準においてどのように言語が機能して いるのか,理論的整理を試みることである。

また本稿の第二の目的は,感情における言語の 役割について,発達的見地から考察を加えること

感情の経験と知覚における言語の役割

―理論的整理と発達的検討―1) 池 田 慎之介

東京大学/日本学術振興会

The role of language in emotion experience and perception:

Theoretical review and developmental consideration

Shinnosuke IKEDA

The University of Tokyo/Japan Society for the Promotion of Science

In this paper, the role of language in emotion experience and emotion perception was investigated by reviewing the theory and evidence. By referring to the model of emergence and perception of emotion, the developmental stage at which language would influence these processes was indicated. The developmental perspective, which has rarely been focused on, was investigated by reviewing studies of infants and chil- dren. For emotion experience, our findings suggested that the inner conditions can be represented in two dimensions. For emotion perception, crude information such as information associated with “positive” or

“negative” can be decoded without language. However, categorical recognition of emotion in experience and perception may require language.

Key words: emotional experience, emotion perception, language, development キーワード:感情経験,感情知覚,言語,発達

1) 本研究はJSPS特別研究員奨励費(課題番号17J03631)

の助成を受けた。

2) 本稿では,感情を経験と知覚という2つの側面から検 討する。ここでは,経験とは自己の中に感情が生じ,また それを主観的に認識すること,知覚とは他者の感情を弁別 したり認識したりすることとする。

(2)

である。基本感情の生得性を主張する立場は,そ の証左として,乳児期から喜びや怒りといった個 別の表情を表出すること (Izard et al., 1995;Lewis,

2008)を挙げている。一方で言語の役割を重視す

る立場においては,発達に関する言及は少なく,

基本的には大人を対象とした研究が引用されて おり (Gendron et al., 2012;Lindquist et al., 2006;

Lindquist et al., 2014),いつごろから,どのように 言語が機能し始めるのかは述べられていない。言 語を持たない乳児期と言語を獲得した幼児期の感 情経験,感情知覚は地続きの物として語られるこ ともあるが (池田・針生, 2016),もし感情の経験 及び知覚に言語が機能しているのであれば,乳児 期におけるそれらと幼児期におけるそれらとで は,質が異なるはずである。近年,幼児の一般的 な言語発達が,種々の感情概念の個別化を促すこ とも示唆されているが (Nook et al., 2017),言語 発達が個別的な感情認識とどのように関連してい るのかについては,明らかになっていない。その ためこの観点から,乳児期の感情研究と幼児期の 感情研究を概観し,感情知覚及び感情経験の発達 における言語の役割について考察を加えたい。

1.感情カテゴリーの生得性に関する諸理論

初めに,感情のカテゴリーに関して,その生得 性を主張していた基本感情理論について概観した 後,言語の重要性を主張している立場について見 ていく。尚,基本感情理論についての詳しい説明 やその後の議論,批判については,遠藤(2000,

2013) を参照されたい。

1.1 基本感情理論

基本感情理論(Basic Emotion Theory) とは,簡 潔に言うと,人には生得的・普遍的に,幾つかの

「基本感情」のセットが備わっている,という考 え方である(Johnson-Laird & Oatley, 1992;Oatley

& Johnson-Laird, 1987)。ただし,幾つの基本感情 を想定するかは,研究者によって異なることも指 摘されている (Ortony & Turner, 1990)。ここで重 要なのは,基本感情の「基本」が何を意味するの か,ということである。Ekman (1999)は,基本 の意味するところとして,3つの項目を挙げてい る。1つ目は,1つ1つの基本感情が分離してい

ることであり,例えば恐れや怒り,嫌悪といった 基本感情は,行動的反応や生理指標などの基準で 異なるとしている。2つ目は,その感情が進化の 過程で生存のための課題に対処するために獲得さ れてきたということである。基本感情にはその適 応的機能が想定されており,進化の中で備わって きたと考えられている。そして3つ目は,それら が結合することで,より複雑な感情を説明する,

ということである。例えばうぬぼれ (smugness)

という感情は, 喜び (happiness) と軽蔑 (contempt)

という2つの基本感情のブレンドによって生じる としている。また,こうした基本感情どうしを区 別する特徴として,基本感情には普遍的な固有の シグナルや,生じるための普遍的な固有の先行状 況があること,或いは発達過程で普遍的に個別に 見られることなど, 11項目が挙げられている。更 には,こうした個別感情には,それぞれ個別の神 経回路が想定されることもあった(Izard, 1993)。

つまりこの立場では,喜びや怒りといった幾つ かの基本感情は,進化の過程で備わったものであ り,人はそれを生得的かつ普遍的に有し,かつそ の生起条件や生起された結果としての表出も元々 決まっているものとしていた。もっとも基本感情 理論においても,人が生得的な表出の仕方をその まま行っているわけではなく,文化や社会による 表示規則(display rules)によって,多少の微調整 は行っているものとしている (Ekman, 2003)。い ずれにせよこうした立場では,ある状況に面した 際,どのような感情が生起しどのような表出がな されるかは生得的・普遍的に決まっており,生起 した感情によって引き起こされた表出からは,自 動的かつ迅速に感情が解読されるとしている。

こうした主張の裏付けとして,言語普遍的に表 情から感情が読み取られること (Ekman & Friesen,

1975;Izard, 1994)や,生まれつき目の見えない

人でも誇りや恥といった表出を行うこと (Tracy &

Matsumoto, 2008) が示されている。これらは,表

情が観察によって学習されたものではないことを 意味していると言えるだろう。更には,表情から 個別的に,自動的に感情が解読されることの証左 として,喜びや怒りといった表情のカテゴリカル な分類は非常に短時間でなされること (Tracy &

Robins, 2008)や,個々の表情や感情に特異的な

反応が見られること (Adams et al., 2003;Adams &

(3)

社会や文化の中で構成されるとする立場について 見ていく。尚ここでは,主に紹介するCore Affect Theory及びConceptual Act Modelと,それの前身 となる感情の円環モデルを総称して,心理学的構 成主義 (Psychological Constructionism) と呼ぶこと とする。

1.2.1 円環モデル

表情の普遍性を示すEkman and Friesen (1975)

等に対し,異議を唱えたのがJames A. Russellで あった。彼は,表情の普遍性を示唆するような言 語間比較研究をレビューし,その正答率がチャン スレベルを超えてはいるものの,そこに普遍性を 想定できるほど必ずしも高くはないことや,強制 選択による回答は消去法が使えることから感情認 識が過剰に評価されてしまう可能性を指摘した

(Russel, 1994, 1995)。更にRussellは,感情が2次 元上に付置されるという円環モデル (Circumplex Model)を唱えている(Russell, 1980)。ここでは,

様々な感情語の類似度や,表情の類似度を評定さ せると,それらが感情価と覚醒度という2つの次 元上に,円環の形に付置されることが示されてい る (Russell, 1980;Russell & Bullock, 1985, 1986)。

感情価とは,それがポジティブかネガティブかと いう次元であり,覚醒度とは,その感情が身体・

認知を喚起させる度合いであるとされている。こ うした2次元構造は,表情や感情語についての 評定だけではなく,主観的な感情経験について評 定させた際にも見られ (Russell & Carroll, 1999a, 1999b),また文化普遍的に見られることも報告さ れている(Russell, Lewicka, & Niit, 1989)。このモ デルによって,感情とは幾つかの個別的なものが 存在しているというよりは,むしろ2次元によっ てそれらが整理できる可能性が示唆された。

1.2.2 Core Affect Theory

前節の円環モデルは,感情が2次元上に付置さ れうることを示したものであり,人が2次元に 沿って感情を経験・知覚する可能性を示唆しては いるが,感情の生成メカニズムまでもが2次元に 依ることを強く主張するものではなかった。しか しその後,Russell (2003)は,こうした2次元が 人の神経生理学システム上に存在するものだとす る,Core Affect Theoryを提唱している。実際,脳 内にも感情価を評価する回路と覚醒度を評価する 回路が存在することが示唆されている (Anderson Kleck, 2003, 2005;Calvo, Avero, & Lundqvist, 2006;

Calvo & Nummenmaa, 2008;Gray, Ishii, & Ambady, 2011) が挙げられている。例えばAdams and Kleck

(2003)は,怒り表情と恐れ表情について,その 視線を操作することで,それらに対する反応の違 いを検討している。こちらを向いている怒り表情 は,その表出者がこちらに対して攻撃しかねない 脅威であると考えられる。一方で視線を逸らして いる恐れ表情は,その視線の先に脅威となる存在 があることを意味している。こういった表情は,

自分にとって脅威となりうる存在を示すシグナル であり,視線を逸らした怒り表情やこちらを向い ている恐れ表情に比べ,素早く検出できることが 適応的であると考えられるだろう。実際,Adams

and Kleck (2003) では,直視の怒り表情や逸視の

恐れ表情は素早く検出されることが示された。更 には,直視の怒り顔や逸視の恐れ顔は,逸視の怒 り顔や直視の恐れ顔とは扁桃体の反応量が異なる とされている (Adams et al., 2003)。これらは,怒 りや恐れといった表情が個別に持つ機能が,視線 情報とあわせて知覚されていることを示す証左と 言えるだろう。こうした知見を基に,表情から は,個別的な機能や意味合いが,迅速かつ普遍的 に読み取られると考えられてきた。

ただし基本感情理論に対しては,先述の通り研 究者によって想定する基本感情の数が異なること

(Ortony & Turner, 1990)の他,与えられた文脈に よって表情から異なる感情が読み取られること

(Kayyal, Widen, & Russell, 2015) や, 個別感情に対 応するような個別の神経回路が同定できないこと

(Pessoa, 2017) なども指摘されている。もし表情 から自動的に感情が解読されるのであれば,文脈 によって異なる感情が読み取られることはおかし いだろうし,また固有の神経学的基盤を想定して いる一方でそうした回路が同定できないのも問題 と言えるだろう。次に述べる心理学的構成主義 は,こうした知見も援用しつつ,個別的な感情が 生得的に備わっているとは考えない立場を提唱し ている。

1.2 心理学的構成主義

前節では,幾つかの基本感情が生得的に備わっ ているとする立場について概観した。本節では,

それとは対照的に,感情を所与のものとはせず,

(4)

Lindquist et al., 2015;Lindquist, Satpute, & Gendron, 2015)。例えばLindquist et al. (2014)は,意味性 認知症(semantic demetia)の患者を対象とした実 験を行っている。意味性認知症とは,脳の萎縮に よって概念的知識へとアクセスしづらくなるもの である。つまりこの患者は,言語の意味といった 記憶が上手く使えないことが特徴である。3名の 意味性認知症者に対し,喜び,怒り,悲しみ,恐 れ,嫌悪,中立の表情写真を複数枚ずつ提示し,

それらを意味のあるように(meaningful)自由に 分類するよう求めた。その結果3名のうち1名は,

ポジティブ,中立,ネガティブの3つに分類し,

残る2名も,ポジティブ,中立,ネガティブの山 が2つといった4つに分類していた。ポジティブ の山には喜び表情が,中立の山には中立表情が主 として含まれ,ネガティブの山には恐れ,怒り,

嫌悪,悲しみが区別されることなく含まれてい た。これらのことから,表情をポジティブかネガ ティブかに分類するためには言語が必要ないが,

ネガティブな表情を個別のカテゴリーに分類する ためには言語が必要であることが示唆される。更 に,意味飽和という現象を用いた研究も,表情を 個別のカテゴリーに分けて知覚する際に言語が機 能していることの証左とされている。意味飽和

(semantic satiation)とは,同じ単語に繰り返し接 触すると,その意味に一時的にアクセスしづら くなる現象である (Smith, 1984)。Lindquist et al.

(2006)は,感情語と表情写真を用いることで,

表情からのカテゴリカルな感情知覚における言語 の役割を検討している。この実験では,怒りや喜 びといった感情語を3回か30回復唱させた後に,

表情写真を提示し,それが復唱した感情語と一致 しているかどうかを回答させた。この時,30回 復唱した試行では,意味飽和が生じることで一時 的にその感情語の意味にアクセスしづらくなって いると考えられる。結果,意味飽和が生じること で,表情の分類に遅れが生じることが明らかに なった。この結果から,表情からカテゴリカルに 感情を知覚する際には,感情語の意味が用いられ ていることが示唆された。このように,表情から のカテゴリカルな感情知覚には言語が機能してい ることが示されており (Gendron et al., 2012),表 情だけでなく,口調が感情を伝えるような音声か らの感情知覚にも,言語が機能することが示唆さ et al., 2003;Anderson & Sobel, 2003)。当初は扁桃

体 (amygdala) が覚醒度を,眼窩前頭皮質 (orbito-

frontal cortex)が感情価を反映していると考えら

れていたが,今ではそうした単独の部位が独立に 次元を表象しているのではなく (Hamann, 2012),

より複雑なネットワーク内で種々の感情が表象 されていることが,メタ分析からも指摘されてい る (Lindquist et al., 2016)。Core Affect Theoryでは,

こうした2次元に規定された神経生理学的状態を

Core Affectと呼び,これに対して,感情に関する

概念や状況に基づく解釈,或いは以前の経験に基 づくようなメタ経験が加わることによって,喜び や怒りといった特定の感情が経験されるとしてい る。このようにこの立場では,感情を個別的に認 識するためには,その感情に関する概念が必要で あることを強調している。

1.2.3 Conceptual Act Theory

Barrett (2006a)は更に,Core Affect Theoryを発 展させ,より概念の役割を重視する,Conceptual

Act Theoryを提唱した。この立場では,個々の感

情は生物学的基盤によって特定できるような自然 類(natural kind)ではなく,人が主観的に作り上 げている人工類(human kind)であるとしている。

またConceptual Act Theoryでは,言語による概念 的知識の役割を非常に重視している。Core Affect

Theoryでは,Core Affectがある状態になった後,

個人の持つ概念的知識などによってそれがカテ ゴリカルに認識されるとしていた。一方でCon- ceptual Act Theoryでは,ある刺激に対してCore

Affectの状態が変化した際,それと並行して,既

に持っている概念的知識に基づいて,その出来事 自体がカテゴリカルに知覚される (Conceptual Act)としている。そして,最終的にCore Affect とそのカテゴリカルな知覚が足し合わさること で,個別の感情が経験されるとしている (Moors, 2009)。

ここで,Core Affect Theoryにおいて重要なの

は, 自身のCore Affectの解釈だけでなく,刺激の

カテゴリカルな知覚においても,概念的知識,す なわち言語が機能していることである。Concep-

tual Act Theoryを推す立場は,様々な知見を基に,

カテゴリカルな感情の認識に言語が機能している ことを主張している (Barrett, Lindquist, & Gendron, 2007;Lindquist, 2017;Lindquist & Gendron, 2013;

(5)

では恐れについての概念が活性化している,とし ている。更にその後,気分誘導によって,不快か つ高活性状態に誘導された群と,ニュートラルの 状態に誘導された群を設定した。つまりここで,

3条件のプライミングについて2つの群を設定し たため,参加者は全部で6つの条件のどれか1つ に割り振られたことになる。彼らに対し,仮想的 な危険行為(例えば,頻繁に大量の酒を飲むこと や,ヘルメット無しでバイクに乗ること)をする かどうか回答させた。これらの項目は,世界に対 する恐れ (world-focused fear)を測定するもので あり,危険行為をしないと答えるほど,恐れを感 じやすいものとしている。その結果,不快かつ高 活性状態に気分誘導された群でかつ恐れのプライ ミングを受けていた参加者が,他の2つのプライ ミング条件や,或いはニュートラル状態に気分誘 導された3つの条件の参加者よりも,より危険行 為をしないと答えており,つまり恐れを感じやす くなっていたことが示唆された。また,恐れのプ ライミングを受けたが,その後ニュートラル状態 に気分誘導された参加者は,特に感情的なプライ ミングを受けず単に不快かつ高活性に気分誘導さ れた参加者と,同程度にしか恐れを感じていな かった。これらの結果から,参加者は,不快かつ 高活性というCore Affectの状態を,その時活性 化していた恐れの概念によって解釈することで,

自らも恐れを経験していたと言える。すなわち,

個別的な感情の経験には,Core Affectの状態に加 え,その感情に関する概念の活性化も影響してい ると考えられる。

Conceptual Act Theoryの主張では,感情を喜び

や恐れといったカテゴリーとして知覚するには,

それに対応する言語及び概念的知識が必要である としている。一方で基本感情理論を支持する知見 では,異なる言語圏においても,表情を同様に分 類していることが示されている。感情のカテゴリ カルな知覚には,言語が必要なのであろうか。次 節では,感情のカテゴリー化における言語の役割 について検討する。

2.感情のカテゴリー化における言語の役割

この説では,感情のカテゴリー化における言語 の役割について考察する。初めに,言語間比較研 れている(池田,2018a)。

またBarrett(2006b)は,こうした言語を用い

て表情をカテゴリカルに知覚するような,基本感 情理論が想定している生得的・自動的な解読では ない感情知覚が, emotion paradox という感情研 究における問題点を解決するとしている。我々 は日常的に,他者の表情を目にした際,それらを 喜びや怒りといったカテゴリーに,ごく自然と 分類している。また基本感情理論でも,基本感情 に対応する表情については,それを目にすると自 動的に感情が解読されるとしている (e.g., Izard, 2007;Shariff & Tracy, 2011)。つまり表情からの 感情知覚は,その生得的な対応関係に基づいて自 動的に行われているように思われる。しかし実際 は,表情の置かれた背景や文脈によって,そこか ら知覚される感情は異なり (Aviezer et al., 2008;

Barrett, Mesquita, & Gendron, 2011;Carroll &

Russell, 1996;Hassin, Aviezer, & Bentin, 2013), し かも文脈情報を無視するよう指示したとしても,

それらの影響を受けてしまう (Aviezer et al., 2011)。

このように,我々が日々表情から自然とカテゴリ カルに感情を知覚している一方で,それらの対応 を明確には定義できないことは,emotion paradox と呼ばれている (Barrett, 2006b)。こうした,文 脈の影響を受けつつ表情から感情が知覚されるこ とは,まさに,表情と解読される感情が一対一対 応しているわけではなく,その状況に鑑みて表情 を言語的に解釈している結果であると思われる。

加えて, Conceptual Act Theoryの立場では,感情 のカテゴリカルな知覚だけでなく,経験において

も, 概念化が影響すると主張している。Lindquist

and Barrett (2008) は,参加者に対し,2人の人物 が向かい合っている写真を見せた。この写真で は,1人の人物は相手に対し怒りを表出しており,

もう一方はその怒っている相手に対して恐れを表 出していた。そして参加者に対して,怒りを表出 している人について物語を考えてもらうか(怒り プライミング条件),恐れを表出している人につ いて物語を考えてもらうか(恐れプライミング条 件),或いは彼らがニューイングランドで見つ かった木について議論していると教示したうえ で,その内容を考えてもらうか(コントロール条 件)で条件分けをした。この時,怒りプライミン グ条件では怒りについて,恐れプライミング条件

(6)

情に対する自由ラベリングを用いた研究で,必ず しも表情が感情を表すような「表情」として知覚 されず, 何かしらの行動 (Kozak, Marsh, & Wegner,

2006)として認識されることを指摘している。例

えばGendron et al. (2014) は,米国人とナミビア に住むヒンバ族に対し,喜びや怒りといった複数 の表情写真を自由に分類させ,またその分類に対 してラベリングをするよう求めた。その結果,米 国人は感情ごとに分類し,また喜びや怒りといっ た感情語でそれらにラベリングした一方で,ヒ ンバ族は,何かを見ている (looking at something)

や笑っている (laughing)といった行動によって 分類,ラベリングしていた。またCrivelli et al.

(2017)は,ニューギニアのトロブリアンド島の 人々に対し,喜びや怒りといった表情写真に対 し,自由にラベリングをさせた。その結果彼ら は,悲しみや怒り,嫌悪の表情に対し,社会的交 流を断とうとしている (feels like avoiding social

inter action)と見なし,また感情語によるラベリ

ングは少なかった。こうした知見から,西洋との 交流がない人々に対する過去の研究(e.g., Ekman

& Firesen, 1975;Izard, 1994) で,西洋と同じよう な感情カテゴリーによる分類が見られたのは,強 制選択という方法が用いられたためと考えられ る。つまり,言語的にラベルが与えられていれ ば,それに対応するであろう表情を選ぶことがで きるのだろうが,その表情から自発的に,西洋と 同じように感情を読み取ることは少ないのかもし れない。

このように,古典的な言語間比較研究(e.g., Ekman & Friesen, 1971)の結果が,その方法論的 な問題点によるものである可能性が示唆されてい る。しかし逆に言えば,Ekman and Friesen(1971)

などの古典的研究においても,表情や状況に対応 する感情語を示しておきさえすれば,たとえ自発 的にはそれらに沿ったラベリングを行わないとし ても,西洋と同様の分類ができてしまうのであ る。では,西洋とは異なる言語圏で,特定の表情 や状況に対応するような感情語を持たない場合 は,どのようにそれらを知覚,分類するのであろ うか。次節では,カテゴリカル知覚の研究を手掛 かりに,この問題について検討する。

究を取り上げ,近年為されている批判点について 検討する。次に,カテゴリカル知覚3)の研究を概 観し,カテゴリーを生成する際の言語の役割につ いて検討する。

2.1 言語間比較研究とその批判点

感情のカテゴリー及びそれに対応する表情の 普遍性は,西洋文化及び西洋人と関りを持つこと のないような人々を対象とした研究によって主張 されていた。例えばEkman and Friesen (1971) は,

ほとんど異文化との交流を持たないようなニュー ギニアのフォレ族に対し,喜びや悲しみといった 感情を引き起こしそうな例話を呈示し,それにふ さわしい表情写真を選択させた。その結果,喜び や怒り,悲しみ,嫌悪については,高い正答率 が見られた。同様にEkman, Soreson, and Friesen

(1969) は,米国やブラジル, 日本, ニューギニア といった様々な文化圏で,表情写真を呈示しそれ にふさわしい感情語を選択させるという課題を 行った。その結果,この研究においても文化を超 えて高い正答率が見られた。こうした知見を基 に,幾つかの感情やそれに対応する表情には,普 遍性があると考えられていた(Ekman, 1993)。

しかし,前節でも述べたように,こうした研究 で用いられていた手法は,主に強制選択によるも のであり,こうした手法に対する批判も寄せられ ている (Russell, 1994, 1995)。実際,強制選択を 用いた実験では,実際は存在しないような,つま り参加者が事前に知りえなかった表情について も,消去法を用いることで,あたかもそれが既知 の表情であったかのように回答できてしまうこ とが示されている (Nelson et al., 2018;Nelson &

Russell, 2016)。こうした強制選択を用いた過去 の研究は制約が強かったとし,その後の様々な 言語間比較研究をレビューした研究(Gendron, Crivelli, & Barrett, 2018)では,その後行われた表 3) ここまで述べてきた「カテゴリカルな知覚」とは,表 情や音声,或いは自身の経験した感情が,喜びや怒り,悲 しみといった個別の感情カテゴリーとして知覚されること である。一方でこれ以降用いる「カテゴリカル知覚(cate- gorical perception)」とは,例えば喜び表情と怒り表情を合 成し,なだらかに変化するような画像群を作成した際,そ の曖昧な表情も,途中までは喜び表情,途中からは怒り表 情というように,境界の曖昧な刺激群に対してその境界が 設定され,そこを境に異なるカテゴリーとして知覚される ことを意味する。

(7)

かに言語が機能しているようである。ではこうし たカテゴリカル知覚は,我々が喜びや怒りなどの 表情を異なる感情語で呼び分けるために生じるの だろうか。Conceptual Act Theoryに則るのであれ ば,カテゴリカルな感情の知覚は言語によって生 じるため,ある表情を言語的に呼び分けないので あれば,それらはカテゴリーとして区別されない と言えるかもしれない。この点について検討した のが, Sauter, LeGuen, and Haun (2011) である。こ の研究では,怒りと嫌悪を呼び分けないような言 語を持つ,ユカテコマヤ族を対象に,怒りと嫌悪 の表情写真を合成して作成した刺激群を呈示し,

それらに対してカテゴリカル知覚が生じるか調べ ている。ここでは,言語的には呼び分けない怒り と嫌悪以外にも,呼び分ける怒りと悲しみ,嫌悪 と悲しみの合成写真も用いて検討した。その結 果,いずれの合成刺激群においても,ユカテコマ ヤ族は,3つの感情を呼び分けるドイツ人と同様 にカテゴリカル知覚を見せたのである。この結果 から彼女らは,表情に対するカテゴリカル知覚に は,必ずしもそれらを呼び分けるような言語は必 要ないと述べている。

カテゴリカル知覚において言語の役割を示した 研究がある一方で,このように言語的に呼び分け ずともカテゴリカル知覚が生じうることも明らか になっている。これらの知見はどのように整理す るべきなのだろうか。次節では,色に対するカテ ゴリカル知覚研究を参考として,言語を必要とし ないカテゴリカル知覚と,言語によってその境界 が調整されうるカテゴリカル知覚が存在する可能 性を検討する。

2.3 カテゴリカル知覚における言語の役割

Conceptual Act Theoryや,言語の役割を示した

カテゴリカル知覚研究からは,表情をカテゴリカ ルに知覚するために,それらを呼び分けるような 言語や概念の存在が重要であるとされていた。一 方でSauter et al. (2011)では,2つの感情を言語 的に呼び分けることが無くても,それらに対して カテゴリカル知覚が生じることが示されている。

では,表情を幾つかのカテゴリーに分けて認識す るためには,それを呼び分ける言語が必要なので あろうか。ここで,カテゴリカル知覚における言 語の役割を考えるために,色のカテゴリカル知覚 2.2 カテゴリカル知覚研究からの示唆

カテゴリカル知覚とは,連続的に変わる刺激 に対し,そのどこかに境界が設定され,異なるカ テゴリーとして知覚されることである(Fugate, 2013;Laukka, 2005)。例えばFujimura et al. (2012)

は,喜びと恐れといった2種類の異なる表情を合 成し,なだらかに変化するような9枚の画像群を 作成した。そうした表情写真について,2択で表 情の示す感情を回答させたところ,ある画像を 境に選択が2極化することが示された。このよう に我々は,なだらかに変化する連続的な刺激につ いても,どこかでその境界を設定し,2つの異な るカテゴリーとして知覚するとされている。更 に,こうしたカテゴリカル知覚が,言語や概念に よって影響を受けていることも示唆されている。

Roberson and Davidoff(2000)は,表情写真につ いてカテゴリカル知覚が生じるかどうかを調べる 際,画面に呈示された単語を声に出して読むこと で,言語的に干渉する条件を設定している。その 結果,言語的に干渉すると,カテゴリカル知覚が 生じなくなる(カテゴリーを跨いだ刺激について 弁別可能性が下がる)ことが示された。つまり,

曖昧な表情についてそれらを異なるカテゴリーの ものとして知覚するためには,それらを呼び分け るような言語の役割が重要である可能性がある。

またFugate, Gouzoules, and Barrett(2010)はチン パンジーの表情写真を合成して連続的に変化す る刺激群を作成し,それらに対してカテゴリカル 知覚が生じるかを検討した。その結果,あらかじ めチンパンジーの表情について言語的なラベル を与えると,カテゴリカル知覚が生じやすくなる ことが示された。更にMcCullough and Emmorey

(2009)は,健聴者と聾者に対し,感情を表すよ うな表情と,手話において副詞的に用いられる言 語的な表情を用い,それぞれに対しカテゴリカル 知覚が生じるかを検討している。その結果,言語 的な表情に対しては健聴者も聾者もカテゴリカル 知覚が生じた一方,感情的な表情に対しては,聾 者は健聴者とは異なる反応パターンを見せた。こ の結果から,感情を表すような表情に対してカテ ゴリカル知覚が生じるには,言語経験が必要であ る可能性が指摘されている。

これらの知見に鑑みると,感情を表すような表 情に対してカテゴリカル知覚が生じる際には,確

(8)

ような8枚のカラーチップから3枚を網羅的に取 り出し,その56個の組み合わせについて,真ん 中の色が左右どちらに近いかを問う課題を,英語 話者とメキシコのタラフマラ語話者に実施した。

タラフマラ語では,青と緑を言語的に区別しない のである。A, B, Cのセットについて,真ん中の BをAとCどちらにより近いと回答したかを調 べたところ,英語話者は同じ緑と呼ぶAにより 近いと回答し,タラフマラ語話者は,色相間距離 としてはより短いCに近いと回答していた。つ まり,英語話者は同じ単語で呼ぶかどうかで言語 的に境界を設定していた一方で,タラフマラ語話 者は,物理的な色相間距離によって判断していた ことになる。

つまりこれらの知見からは,例え言語で呼び分 けることが無くとも,焦点色については知覚的に 区別することができ,更に非焦点色については,

言語によってその境界線が設定される可能性が示 唆される。これは,表情のカテゴリカル知覚にお いても同じことが言えるのではないだろうか。怒 りと嫌悪(Sauter et al., 2011)といった,(どのよ うにラベリングされるか,或いはそもそもラベリ ングされるか否か自体はその言語圏に依るが)あ る程度普遍的に観察される,言わば「焦点表情」

については,それを呼び分けることがなくともカ テゴリカルに知覚できるのかもしれない。Scherer

(2009b) は,ある特定の状態に頻繁に陥るために,

結果的に多く経験されるmodal emotionの存在を 指摘しているが,これは言わば「焦点感情」とも 考えられ,「焦点表情」につながるものなのかも しれない。一方で,例えば文化圏によって同じ 喜びや怒りといった表情でも微妙に異なること が指摘されているが(Elfenbein & Ambady, 2002, 2003;Elfenbein et al., 2007;Marsh, Elfenbein, &

Ambady, 2003),焦点表情間のどこに表情の境界 を設定するか,或いはそのカテゴリー間でどの表 情をプロトタイプとするかについては,言語圏・

文化圏によって異なってくるのかもしれない。

3.感情の経験と知覚における言語の役割

ここまで,基本感情理論と心理学的構成主義に ついて概観したのち,それらを支持する知見につ いて整理してきた。その結果,表情や感情につい について言語間で比較を行った研究を参照し,示

唆を得たい。色についても,本来連続体としてあ る波長スペクトラムが,幾つかの色としてカテゴ リカルに知覚されるのは,それを言語的に呼び分 けるためとする考えもあり (Özgen, 2004;Özgen

& Davies, 2002),Barrett (2006b)は,表情が言語 によって呼び分けられているのも,それと同様で ある可能性を指摘している。

ニューギニアのダニ族は色に関する単語を明る い (mola)と暗い (mili)の2つしか持たないこと に注目し,彼らを対象として色がカテゴリカルに 知覚されるかが検討された(Heider, 1972;Heider

& Olivier, 1972)。Heider (1972) は,ダニ族の人々 に対し,様々な色のカラーチップを見せ,再認課 題を行った。もし色の区別がついていないのであ れば,記憶が混同してしまうはずである。しかし 彼らは焦点色4)について,正確に記憶し,弁別す ることができていた。更に,焦点色と非焦点色に ついて恣意的に名前を付け,色と名前の対応付け を記憶できるかを検討したところ,焦点色につい た名前を非焦点色についた名前よりも正しく覚え られていた。これらは,元々複数の色を呼び分け ることがなくとも,特に焦点色については,それ らを区別して知覚することができることを示して いる。では,言語は色のカテゴリカル知覚に影響 を及ぼしていないのだろうか。その点について,

Kay and Kempton (1984)の研究から示唆を得る

ことができる。この研究では,明暗2種類の青と 緑について,それらの間を3分割することで,8 種類のカラーチップを作成している。仮に明るい

緑をA,明るい青をDとしたときに,その中間

にBとCというチップを作成したことになる。

ここで,Bはやや青よりの緑であり,Cはやや緑 よりの青ということになる。ここで重要なのは,

英語圏ではAとBを緑,CとDを青と呼ぶよう に,言語的な境界がBとCの間にある一方,A とBの色相間距離は,BとCやCとDの間の距 離の1.27倍離れているということである。この

4) 色は様々な言語圏で様々に呼び分けられているが,そ れらの言語圏でもある程度共通して用いられる色彩語が

(段階的に) 存在し,またその指示対象とされる色もある程 度共通していることが指摘されている (Berlin & Kay, 1969 Kay et al., 2011;Regier, Kay, & Cook, 2005)。ここで, ある程 度普遍的に知覚され呼び分けられている色を, 焦点色 (focal color) と呼ぶ。

(9)

る2次元空間であり,そこに個別性は仮定されな い。一方で,このScherer (2009a)の3層と同様 に,感情を3層で整理しようとしたSauter (2018)

は,異なる見解を述べている。ここでは,感情処 理を,下位から順に,知覚的水準,概念的水準,

言語的水準の3水準に分け,別々に説明する必要 があることを指摘している。その上で,概念は存 在するがそれに該当する言語は存在しないような 感情はある一方,概念が存在しないが言語は存在 するような感情を想定することは難しいとしてい る。そしてその例として,英語話者は元々シャー デンフロイデ5)にあたる感情語を持ち合わせてい なかったが,知覚及び概念としてはそれを認識し ていたため,シャーデンフロイデという感情語と 出会ったときに,それで自らの概念を言語化する ことができるようになったと述べている。では,

ある状態を的確に表現する感情語を持たずとも,

それを知覚,或いは概念としては捉えることがで きるのだろうか。その点について考えるために,

特定の感情語を持たない部族を対象とした研究か ら示唆を得る。

そもそも幾つの感情語を持つか自体,その言語 によって異なっている(Russell, 1991)。例えば英 語圏では,(実際に使われているのはその10分の 1以下だとしても)2000以上の感情語があるが

(Wallace & Carson, 1973),オセアニアにあるミク ロネシアのIfaluk語では58語しかなく,しかも その幾つかは英語圏での典型的な感情語とは異な るという (Lutz, 1982)。このように,言語圏に よって存在する感情語が異なることは非常に興味 深いが,その中でもLevy (1973, 1984)によるタ ヒチ人の報告は重要であろう。タヒチ語では,悲 しみ (sadness)にあたるような感情語及び概念が 存在しないという。Levy (1984) は,悲しみを感 じているように思われるタヒチ人が,自身の状態 について pe’a pe’a という,病気や疲労などを 表す言葉を用いていたことを報告している。また

Levy (1973)は,妻や息子と別居した男のことを

報告している。Levy (1973)は,その男が悲しん でいると解釈したため,別居がその状態の原因だ ろうと考えたが,男は自身の状態を pe’a pe’a て,その個別性や普遍性を支持する知見もあれば

(e.g., Adams & Kleck, 2003;Sauter et al., 2011),

言語や概念の役割を示すような知見もあった

(e.g., Gendron et al., 2012;Lindquist & Barret, 2008)。以下では,注目している感情の次元が 異なる (遠藤,2013;Sauter, 2018)という指摘に 則ったうえで,どの次元では言語を必要とせず,

またどの次元では言語が機能しているのかを,感 情の経験と知覚に分けて整理したい

3.1 感情の経験における言語の役割

本節では,感情の経験において,どの次元で言 語が影響するのかについて検討する。感情の生起 及び経験については,Scherer (2009a) が多層モデ ルを提唱している。Scherer (2009a) は,内的な感 情がどう意識されるかについて,3層のベン図で 表している。最も下位の層は,無意識的な反射と 制御(unconscious reflection and regulation) であり,

認知的評価,生理的変化,運動表出,行為傾向な どの構成要素と関わっている。この層は,純粋な 反射 (sheer reflection) や,中枢神経系でモニター された構成要素の変化の表象などから成るらし い。それと部分的に重なる中間の層は,意識的な 表象と制御 (conscious representation and regulation)

であり,下位の層が統合され,意識に上ってきた ものである。この層が,一般的に主観的情感

(feeling)と呼ばれるもの (遠藤, 1996),或いは 哲学者がクオリアと呼ぶものだとされている。最 上位の層は,感情経験の言語化とコミュニケー ション (verbalization and communication of emotion

experience)であり,それは意識的に経験された

中間の層を,部分的に言語化したものであるとさ れている。ここでは,言語や感情カテゴリーの枠 に当てはめて中間の層を言語化するために,意識 的経験の全てを捉えることは難しいであろうこと が指摘されている。この説明になぞらえるのであ れ ば,Core Affect Theoryで い う と こ ろ のCore

Affectの状態とは中間の層を指し,それを言語や

概念を用いることで,最上位の層である個別的な 感情へと至る,ということであろう。

ただしここで,言語が用いられる以前の中間の 層に,どこまでの個別性が設定できるかは,もう 少し議論が必要である。Core Affect Theoryに則る のであれば,中間の層は,感情価と覚醒度から成

5) シャーデンフロイデ(schadenfreude)とは,ドイツ語 であり,他者の不幸に際した時に経験されるポジティブな 感情とされている(van Dijk et al., 2006;van Dijk, 2005)。

(10)

Affectにおける感情価と覚醒度による2次元空間 と対応していると考えられるかもしれない。そし て最上位である,言語化された感情経験の層が,

Core Affectを概念化したことによって生じた感情

と対応するのかもしれない。すなわち,例えば自 らの身体状態を高活性かつ不快であると意識し ても (意識的表象),その時にどのような概念で 解釈されるかによって,そこで意識的に経験さ れる感情が異なる (感情経験の言語化)のだろう

(Lindquist & Barrett, 2008)。

3.2 感情の知覚における言語の役割

本節では,感情の知覚において,どの次元で言 語が影響するのかを検討する。感情の知覚におけ る多層性については,Dricu and Frühholz(2016)

が多段階モデルを提唱している。ここでは,感情 知覚に関わる脳部位を検討した研究をメタ分析 し,4つのステージを想定している。ステージ1 では,視覚的・聴覚的手掛かりから,感情情報が 抽出されるとしている。そしてステージ2では,

ステージ1で抽出された情報が統合され,そこか ら基本的な意図が推測されるとしている。更にス テージ3では,その情報をワーキングメモリに保 持しつつ,自己の視点を抑制し,感情カテゴリー に関する意味的表象へとアクセスし,適切なもの が選択される。最後のステージ4では,その他者 の心的状態の推測が行われ,処理が最終化される としている。

このモデルに則るのであれば,2つ目のステー ジにおける基本的な意図の推測までは,言語を必 要としないと考えられる。一方で3つ目のステー ジでは,感情カテゴリーに関する意味的表象にア クセスしているため,これはまさに,Conceptual

Act Theoryで言うところの,言語による刺激の概

念化(Conceptual Act)にあたるだろう。

だとすれば,言語を必要としないような,ス

テージ2(基本的な意図の推測)では,どのよう

な情報が読み取られているのであろうか。もしか したらここで既に,喜び,悲しみ,怒り,恐れと いったような基本情動理論が想定する個別的な情 報も読み取られているかもしれない。この点にお いては,Jack, Garrod, and Schyns (2014) が示唆に 富む。この研究では,表情からの感情知覚プロセ スをモデリングし,接近/回避といった大まかな として解釈したため,別居がその原因だとは考え

なかったという。このように,自らの内的・身体 的状態をどのような言語や概念によって解釈する かによって,その原因の認識すら異なるのかもし れない。

このように,「実際に生じている状態」を,「何 物として認識するか」には,文化や言語の影響が あると言えるだろう (Tsai, Knutson, & Fung, 2006)。

ここで重要なのは,経験した内的・身体的状態 を,感情として認識するかどうか,ということで ある。例えばSauter (2018)のシャーデンフロイ デの例に関して言えば,それはドイツ語圏では感 情語として扱われているのかもしれないが,日本 語では「他人の不幸は蜜の味」という慣用句がそ れに当てはまるかもしれない。味覚を感情語とし て捉えるべきかどうかについては様々な立場が あるが (Bretherton & Beeghly, 1982;Taumoepeau &

Ruffman, 2006),日本ではその感覚が明確に感情 として扱われてこなかった可能性もあるだろう。

つまり,Levy (1973) に鑑みるのであれば,家族 との別居によって生じるCore Affectの状態は米 国人とタヒチ人で同様かもしれないが,米国人は

sadness という言語及び概念を持っていたため,

それを感情と解釈し,その原因を先行する状況に 帰属したが,タヒチ人は自らの持つ pe’a pe’a という概念によって解釈したために,それを感情 とは認識せず,またその原因も先行する状況には 帰属しなかったのであろう。

であるとするならば,Scherer (2009a) における 中間の層は,必ずしもSauter (2018)における概 念的水準とは等しくないだろう。Sauter (2018)

は,シャーデンフロイデの例を出して,言語化さ れなくとも概念としては存在する感情がありうる ことを指摘していたが,それが必ずしも「感情」

として概念化されていたかはわからない。むし ろ,それを「感情」として認識するためには,そ う定義するような言語及び概念が必要となる可能 性がある。

ここまでの議論を踏まえて,感情の経験におい てどの次元で言語が影響してくるのかをまとめた い。Scherer (2009a) に則るなら,ある出来事に対 する無意識的な反射及び制御や,意識的表象及び 制御の層においては,言語は影響しえないと考え られる。この意識的表象及び制御の層は,Core

(11)

感情の経験について,前言語期である乳児期と,

言語を獲得した幼児期に分けて検討する。次に,

感情の知覚において,乳児期と幼児期に分けて検 討する。

4.1 感情の経験における言語の役割の発達的検討 3.1では,感情の経験において,無意識的な反 射と制御及び意識的な表象と制御の段階において は,言語を必要としない可能性を述べてきた。以 下の節ではそれを基に,乳児期ではこういった感 情の経験が見られるか,及び幼児期では感情経験 の言語報告がどのように見られるようになるかを 検討する。

4.1.1 乳児期における感情の経験

乳児に対して,今どんな感情を感じているか,

或いは感じてはいないかを言語報告させることは もちろんできない。一方で,内的な感情とは異 なった表出をするような感情表出の調整は,主と して幼児期頃から可能になるため(Camras et al.,

1998;池田, 2018b),乳児期の表出は,内的な状

態がある程度そのまま反映されていると考えるこ ともできるだろう。よって,乳児がどのような表 出を行うかが手掛かりとしつつ,乳児期の感情経 験について考える。

さて生まれたばかりの新生児も,大人と同様の 表情を示すのだろうか。新生児期においても,喜 びや悲しみといった大人の表情を模倣すること は示されているが(Field et al., 1983;Field et al.,

1982), これはあくまで模倣であり, 内的に同様の

感情が生じているとは言えないだろう。Rosenstein

and Oster (1988)は,生後2時間の新生児に,甘

い味や苦い味など様々な味をなめさせ,その表情 を観察している。その結果,甘い味をなめた時に はリラックスしたような表情を,苦い味や酸っぱ い味をなめた時には不快そうな表情を見せたとい う。つまり生まれつき,快不快を感じることはで きると言えるだろう。更に4〜5か月児を対象と し,様々なフラストレーションを感じるよう仕向 けた研究(Sullivan & Lewis, 2003)では,自らの 行動に結果が随伴しないようなとき,悲しみでは なく怒りの表情を見せることが多かったとしてい る。これは,この時期の乳児が全般的にネガティ ブな感情を経験しているわけではなく,その状 況によって異なるフラストレーションを感じてい 情報が知覚される段階と,文脈などを参照しなが

ら基本6感情といったカテゴリーへと分類する段 階の2つ存在する可能性を指摘した。これを踏ま えると,接近や回避といった情報は,言語を問わ ず普遍的に知覚されるのかもしれない。実際,ス テージ2を担う後部上側頭溝は,表情や視線の変 化情報といった動的な情報を処理するとされて いる (Haxby, Hoffman, & Gobbini, 2000, 2002)。ま た,意味性認知症の患者であっても,表情をポジ ティブとネガティブに分けられてはいたこと

(Lindquist et al., 2014),また言語間比較研究でも 表情がポジティブかネガティブか混同されること は少ないこと (Gendron et al., 2018)を踏まえる と,ポジティブかネガティブかといった情報は,

言語に依らず知覚されるのかもしれない。

3.3 感情の経験と知覚における言語の役割の まとめ

ここまで,感情の経験と知覚において,どのよ うに言語が影響するかを検討してきた。経験にお いても知覚においても,言語が一切影響しない,

或いは,全てが言語によって担われるというよう なことはなく,ある水準までにおいては言語を必 要とせず,それ以降においては言語が影響するよ うな処理になっていることが示唆された。

先述の通り,二次元空間上で感情を個別的に表 象できるようになっていく発達過程において,感 情語に限らない一般的な言語発達が影響している 可能性が示唆されている(Nook et al., 2017)。た だし,個別的に感情を認識するために,どのよう に言語が機能しているのかについては,未だ明ら かではない。次節では,言語を持たない乳児期及 び言語を獲得しつつある幼児期の研究を対象と し,乳児がどのように感情を経験及び知覚をして いるのか,また言語を獲得することによって,幼 児がどのように経験及び知覚をしているのか,考 察する。

4.感情の経験と知覚における

言語の役割の発達的検討

本節では,感情の経験と知覚における言語の役 割について,乳児期及び幼児期を対象とした研究 を概観することで,発達的に検討する。初めに,

(12)

す言葉が使われ始めていることが報告されてい る。また2, 3歳児とその母親を対象に, 家庭での ごっこ遊び場面や本読み場面での会話を観察した 研究(園田・無藤, 1996)でも,子どもたちは自 己の感情を言葉で報告しているという。同様に,

家庭における幼児ときょうだいや母親との会話を 観察した研究(Dunn, Bretherton, & Munn, 1987)

でも,2歳頃までに自分の感じた感情を報告する ようになることも示されている。そしてその後 も,3歳頃から5歳頃まで,きょうだいや養育者,

友人との会話において,自身の感情が語られるよ うになっていくことが報告されている (Brown, Donelan-McCall, Dunn, 1996;Dunn, Brown, &

Beardsall, 1991;Hughes & Dunn, 1998)。このよう に子どもたちは,ごく幼い時から,他者とかかわ る中で,獲得した感情語を用いて自らの感情を言 葉で表現し始める。

更に,自由観察だけでなく,インタビューにお いても子どもたちが自らの経験した感情をどの ように語るか,検討されている。例えば久保

(2009)では,年少児,年中児,年長児に対して,

発表会がどうであったかを尋ねたインタビューを 紹介している。その結果,年少児は「楽しかっ た」という単一の感情のみを語り,一方で年中児 は「楽しかった」「嬉しい気持ち」と,似たよう な意味を示す感情を報告した。更に年長児では,

「面白かった」「どきどき」「緊張してた」といっ たような,様々な感情を経験したことを報告し た。同様に岩田(2009)も,6歳児が母親と会話 をする中で,ドッジボールで負けてしまった経験 について,「悔しかったけど,楽しかった」と複 数の感情を経験したことを報告している。無論,

このような傾向を,年少児などの年齢について一 般化することはできないが,これらは,幼児期を 通して子どもたちが感情語及びその概念を獲得し ていく中で(浜名・針生, 2015;Ridgeway et al.

1985;Taumoepeau & Ruffman, 2008),次第に自ら の内的・身体的状態について解釈しラベリングで きるようになっていく過程を表しているのかもし れない。

ここで,自らの感情について,複数の異なる感 情語を用いて説明していることは非常に興味深 い。こうした混合感情(mixed emotion)につい ては,幼児期から児童期にかけて,経験しうるこ る可能性を示している。つまりこの時,乳児は内

的にも異なる状態にあるのかもしれない。更に Izard et al. (1995)は,2か月半から9か月までの 乳児を対象に,母親とやりとりをしている際の表 情を分析している。その際,母親が様々な表出を するのに合わせ,乳児も次第に,喜びや興味,悲 しみといった様々な表情を見せるようになったこ とを報告している。こういった知見から,乳児期 を通して次第に感情が分化していく可能性が指摘 されている(Lewis, 2008)。

ただしLewis (2008) は, 6か月時点で既に,一 次的感情(primary emotions) として,喜びや驚き,

悲しみ,嫌悪,怒り,恐れなどが個別的に生じる としているが,本稿の議論を踏まえるのであれ ば,ここにこれほどの個別性が想定される必然性 はないだろう。言語を持たないこの時期の乳児に 経験されうるのは,感情価と覚醒度からなる二次 元空間上のCore Affectである可能性がある。もっ とも,ある特定の状態に頻繁に陥りやすいため,

結果的にその状態を多く経験し,それに対応する 表出が多く見られる (modal emotion)ということ もあるだろう (Scherer, 2009b)。乳児期における これらの表出は,そういったmodal emotionを反 映しているのかもしれない。個別の感情としてそ れらを主観的に経験するのは,それに対応する感 情語及び概念を獲得してから,ということになる だろう。ただし,聞いてその意味を理解するだけ であれば,SadやAngerといった感情語は2歳頃 の子どもでも6割程度が獲得していることも示さ れている (Ridgeway, Waters, & Kuzcal, 1985)。こ の時期の子どもたちは,それらのネガティブ感情 を異なるものとして主観的に区別して経験してい る可能性もあるだろう。

4.1.2 幼児期における感情の経験

どのような時にどのような感情を経験するか,

ということの理解については児童期まで発達し続 けるが (Harris, Olthof, & Terwogt, 1981),幼児期 になると,自らの感情経験について,言語的に報 告できるようになる (久保, 2016)。幼稚園や保育 園といった社会的な場では,子どもたちは様々な 感情を経験するだろうが (Prosen & Vitulić, 2017),

保育園の朝の自由遊びを観察した研究 (松永・斉 藤・荻野, 1996) では,1歳児クラスでも,「いや

(やだ)」や「怖い」などのネガティブな感情を表

(13)

エーションは決して多くはないが,感情語を獲得 していくにつれ,ある感情を複数の言葉で言い換 えたり,或いは混合感情を経験したと報告したり するようになっていくことが示唆された。

このように,幼児期に感情語を獲得すること

で, 自らのCore Affectについて,様々な解釈が可

能になっていく可能性が示唆された。次節では,

自らの経験ではなく,他者の表出から感情を読み 取る際に,どのように言語が機能しているのか,

発達的に検討する。

4.2 感情の知覚における言語の役割の発達的検討 本節では,3.2での議論になぞらえて,言語を 持たない乳児期と言語を獲得しつつある幼児期に ついて,それぞれの感情知覚がどのようなもので あるかを概観する。

4.2.1 乳児期における感情の知覚

乳児期においては,感情の経験同様,呈示した 刺激がどのような感情を表すかについて,言語報 告を求めるわけにはいかない。そのため乳児期に は,表情等を呈示した際の注視時間や身体反応を 基に検討がなされてきた。

表情の弁別に関しては,新生児でも可能なこと が明らかにとなっている (Farroni et al., 2007;Field et al., 1983;Field et al., 1982)。Farroni et al. (2007)

は,新生児が恐れ表情と中立の表情では注視時間 に偏りが見られない一方で,恐れ表情と喜び表情 では喜び表情の方を選好することから,生後数日 の経験で表情について学習した可能性を指摘して いる。更に,喜びや怒りの表情写真を使った実験 などから,3か月頃から異なる感情を表す表情を 弁別することができるも示されている (Barrera &

Maurer, 1981;Young-Browne, Rosenfeld, & Horowitz,

1977)。ただしこうした研究では,表情刺激に

同一のモデルを使用しているため,それらを感情 を表す表情として知覚し区別したのか,単なる構 造上の違いで区別していたのかはわからない

(Nelson & Dolgin, 1985;山口, 2000)と言えるだ ろう。そうした限界を超えるため,複数人の表情 からカテゴリカルに感情を読み取れるかを検討し た研究もなされている (Caron, Caron, & Myers, 1982;Kaneshige & Haryu, 2015;Kestenbaum &

Nelson, 1990;Ruba et al., 2017)。例えばKaneshige and Haryu (2015) は,4か月児に対し,3人の女性 とが理解されたり,或いは自らも経験したと報告

したりするようになるとされている (Donaldson &

Westerman, 1986;久保, 1999;Larsen, To, & Fireman, 2007;Smith, Glass, & Fireman, 2015;Zajdel et al., 2013)。こうした混合感情を経験したと報告する ことはつまり,個別の感情についてそれらがどの ような時に生じ,どのような主観的情感を伴うも のかを,概念として理解しているということを意 味するだろう。何故なら,複数の感情が混合して 感じられたことを報告するためには,まずその 個々の感情についてそれがどのようなものか理解 していなくてはならないためである。またRussell

and Paris (1994)は,誇りや恥といった比較的複

雑な感情については,それがポジティブかネガ ティブかといった感情価の理解が先にあり,その 後,そういった感情が生じる状況について説明で きるようになることを示している。そしてこのこ とから,感情の概念はすぐに理解されるわけでは なく,初めはそれを感情価の次元でとらえ,次第 に原因となる状況などを含めた包括的な理解が進 むと主張している。これも,感情の概念を獲得す ることによって,どのような時にそれを経験する かが説明できるようになっていくことの傍証と言 えるだろう。

4.1.3 発達的見地から見た感情の経験における言 語の役割

ここまで,乳児期と幼児期において,どのよう に感情が経験されるかを検討してきた。そして,

Scherer (2009a) による感情の生起,経験のモデル

を参照して,新生児期から快不快といった大まか な状態が見られること,そして1歳以前の乳児期 を通して,様々な感情を経験するようになってい くことを確認した。ただし,ここで乳児が喜びや 怒りといった基本感情に対応する表情を見せたか らといって,乳児が個別的に感情を経験している わけではなく,それはあくまでmodal emotion的 に経験されているにすぎない可能性を指摘した。

そして幼児期になると,いよいよ,個別の感情 語を獲得することで,個々の感情を経験,更には 言語的に報告できるようになっていくことが確認 された。幼児期の早い段階から,親しい他者とか かわる中で自らの感情を報告するようになってい くと言える。まだ感情語の語彙も少ないころは,

自らの感情経験について語る際にも,そのバリ

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