国民的歴史学運動における日本史像の再構築
岡山県・月の輪古墳発掘を手がかりに
小国 喜弘
はじめに
本稿は,1953年8月15日から12月31日にかけて行われた岡山県久米郡飯岡村
(現柵原町)の月の輪古墳発掘の取り組みを手がかりとして,国民的歴史学運 動が住民たちの歴史意識にもたらした影響を,国民の起源をめぐる日本史像の 書き換えとの関係において明らかにすることを目指したい。
1945年の大日本帝国敗戦を画期として,公定的な日本史像が大きく書き換え
られることになった。GHQにょる指令を受けて修身・地理と共に国史授業が
停止されることになり,文部省は国民が共通に拠り所としえる日本史像の再構
築を早急に迫られたのである。焦点の一っは記紀神話を教育内容から外した上
で,原始古代からの連続した歴史として日本国家の発達を描き出すという命題
をいかに実現するかにあった。ただしその課題の達成は容易ではなかった。家
永三郎によれば,当初文部省では豊田武が国史教科書の編纂にあたったが,豊
田は「考古学の研究の成果や支那の文献の記載による科学的な古代史を取り入
れながら,一方神話伝説の内容を相当に保存しようとして,その点を執拗に主
張したため,神話伝説を歴史教科書から完全に除去しようとする占領軍司令部
の方針と協調することができず」委員の交替を占領軍に命じられることになっ
た。豊田に代わって家永三郎が編纂を担当し同年10月に国民学校用の文部省著
作暫定教科書『くにのあゆみ』が完成する1。家永は「客観的史実とみなすこ
とのできない説話にっいての記事はことごとく削り去ることにした」と述懐し
ているが2,それでも中野重治が「国民と天皇との関係が全然正確に触れられ
ていない」とし,「それは最初の『国の初め』の説明から引き続いて」おり
2
「「『国の初め』にっいて,第一,神武天皇をもち出してきていることが絶対的 な虚偽である」と痛罵を浴びせたしたことに端的に見られるように3,その保 守的な性格が様々な識者の批判を浴びることになったのである4。
古代を描き出すために記紀神話に代わって新たに重視されることになったの は考古学の知見である。なかでも国家権力の萌芽的形態を示す史跡としての古 墳をいかに歴史の教育内容として記載するかは大きな課題となった。先の教科 書『くにのあゆみ』では「世の進むにしたがって人がなくなると(中略)りっ ぱな墓を」っくると階級社会の成立をぼやかして書いていた。その点について 井上清は「『世の進む』はただ時がたつのではない。階級社会が発展すること である」とした上で,「古墳はどれいとどれい主がいること」を表しているの であり,その問題を教科書が避けている点を批判していた5。考古学の知見は 天皇を象徴とする日本民族の連続的発展という戦後作られた新たな神話を揺る がす可能性を含んでおり,考古学の知見をどのような形でどの程度掲載するか
はその後も文部省にとって神経を使う問題であり続けたのである6。
そのような状況の中で1953年岡山県久米郡飯岡村で村人と考古学者の協働に よる月の輪古墳の発掘が行われている。標高310メートルの山頂に築かれた径 60メートル,高さ10メートルの古墳の発掘に5ケ月弱の発掘で延べ人数1万人 が協力し,古墳の外構部も含めた日本で初めての全面発掘が行われることになっ たのである。そこには村人の他に,近隣の多数の小学生・中学生・高校生,さ
らには差別に苦しめられていた部落の人々,そして戦時中日本に連れてこられ た朝鮮人の鉱山労働者の姿も見られた。
月の輪古墳の発掘運動にっいては,1953年の民主主義科学者協会関西総会で も大きく取り上げられ,国民的歴史学運動の最大の成果の一つと目されてき た7。ただしその全貌を明らかにしようとした研究は少なく,管見の限りにお いて最もまとまっているのは吉田晶の「月の輪古墳と現代歴史学」である。月 の輪古墳発掘30周年祭の記念講演の記録として作成されたこの論文の中で吉田 は,当時の時代背景を丁寧に跡づけっつ,月の輪古墳が「一九五三年段階での 民主的・自主的・科学的な一大学習運動」であったと述べている8。本研究は,
このような吉田の指摘に学びっつ,吉田の論文では焦点が当てられていなかっ
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た,月の輪古墳発掘運動を通して形成された村人たちの歴史認識の諸相を明ら かにすることを主な目的としている。そのような論題を立てたのは月の輪古墳 の発掘は既に述べたように在日朝鮮・中国人や被差別部落民の積極的な参加に
も支えられていたことから,これら日本におけるマイノリティの人々の参加を 含んだ歴史像構築の試みが定型的の日本史像との間にいかなる緊張関係を引き おこすことになったのか明らかにしたいがたあである。
そもそも「民族」という概念自体がいっから使われるようになったかは必ず しも明らかでないが少なくとも日本語では19世紀後半からとされており9,さ らにいえば,日本国民が日本民族のみによって構成される単一民族国家である と考えられるようになったのは戦後になってからのことであった1°。日本国憲 法発布の直前に在日朝鮮人は日本国民としての国籍を一方的に剥奪されていた。
さらにいえば,岡山地方という地理的歴史的環境からすれば,古代における大 陸との関係はきわめて強く大陸からの移住が多かったことと推測される。既に 戦前に出版された『吉備郡史』にも,「『日本民族』なる語は,近時広く学者・
政治家・教育家の間に用ひられて,暗黙の間にほぼその理会は出来て居る事と 思はれるが、」「其の起源に遡りて研究を重ねて見ると,其処には種々雑多の異 民族の,混清共棲の事実を否定する事が出来ぬ」こと,「『日本民族』は,我が 天孫民族以外に於いて,所謂毛人,衆夷なる,先住土着の諸民族を始めとし,
秦・漢・百済等海外帰化の諸民族をも合せて,打って一団となした強固なる複 合民族」であることがはっきりと記されていた11。
古代に遡ってみれば,かりにその時期に日本民族なるものが存在したとして もその他の民族との境界はきわめて曖昧なのである。日本民族の連続的な発展 史という戦前から戦後にかけて継承されることになった日本史像の定型が脱構 築される最大の可能性の一っは,少なくとも1950年代初頭においてはこの月の 輪の発掘運動において生じていたように思われるのである。
にもかかわらず,運動全体としてみれば,月の輪古墳発掘運動は下からのナ ショナリズムとして展開し,結果としては定型的な日本史像を補強することに なった。歴史意識の多様な展開はいかに押しとどめられることになったのか,
いかにしてその可能性は未発のままに終わることになったのかを,子どもたち
4
や大人たちの残した作文に則して検討してみることにしよう。そのために本稿 では,第一節において発掘運動の背景とその経過について簡単に整理した上で,
第二節において月の輪古墳発掘においていかなる古代史像が構築されたのかを
「日本人」を自認する参加者によって残された作文や手記を通して検討したい。
さらに第三節では被差別部落民や在日中国朝鮮人といった,「日本人」という 民族概念からは周縁化されたり排除されていた人々に焦点をあてて,その古代 史像を明らかにすることを目指している。
第一節 月の輪古墳発掘の背景と経過
(1)発掘運動の経緯
岡山県久米郡飯岡村は吉備高原に位置し,標高300〜400メートル程の山に囲 まれ,さらに吉野川・吉井川に挟まれた僅かな平野に位置している。1953年現 在で人口は726戸3510人,その内農業は311戸1799人であった。ただし専業農家
は71戸に過ぎず,残り240戸は非農家の415戸と共に大部分は柵原鉱山に通い,
「片上鉄道,役場,学校,農協に働き,職場なき人々や二三男は植林に砂防工 事にカマス工場に日々の糧を求あてい」だ2。その飯岡村を舞台として発掘が 開始されたのは1953年8月15日のことである。お盆休みであり,さらに敗戦記 念日でもあるこの日,月の輪古墳の発掘式が飯岡小学校講堂において開かれた。
そもそもの発端は,福本中学校の教諭中村一哉が中学生と共に古墳を発見した ことにあった。中学校長岩本貞一の招きで当時岡山大学医学部の助手近藤義郎
(現岡山大学名誉教授)が現地の確認調査に訪れた。「大きな古墳は大きな流域 平野を基盤に築かれたと考えていた」近藤は,山の頂に高さにして10メートル,
直径にして60メートルの盛り土によって築かれた円墳を目の前にして,地域最 大級の規模に改めて驚かされることとなった13。古墳はおよそ4世紀末から5 世紀初頭にかけて築造された円墳であり,美作地方最大級のものであった。近 藤が村を訪れたその日,彼を囲んで飯岡村文化財保護同好会が結成され,次の
3っの活動方針が定められることになったのである。
(一) 今までの御用学者の掠奪発掘に対して我々村民が団結して自分達の手で,
国民的歴史学運動における日本史像の再構築 5
自分達の自由な考えで発掘する。ゆがめられた歴史を正しい歴史え。神 がXりの歴史から人間の歴史え。支配者中心の歴史を民衆の歴史にとり もどし,生きた郷土の歴史,我々の郷土の歴史を探ってゆくこと。従っ て古代の歴史だけでなく原始社会から現代までの郷土史を探ってゆくこ
と。
(二)郷土史の研究が単に古い過去の事実を調べるのではなく一っ一っが現在 の生活にはね返り生きた指針となること,即ち教師や生徒にとって貴重 な社会科教育であり村人にとっても生きた社会科教育・歴史教育である こと。
(三) 自由で良心的な教育を押し進める村人達・教師・生徒一体となった運動 であること。
この方針は,「子供達を戦争の惨禍から守り平和で幸福な日本のにない手と して」生きる中で,「古い神がかり的なひとりよがりの地理歴史の復活に対し て正しい真実の歴史を紙の上だけでなく,郷土の社会の中で民衆の生活の足跡 の中から求めようと努力し」ようとする,いわば草の根からのナショナリズム の宣言を含んでいた。そしてその下からのナショナリズム運動が「村人達・教 師・生徒一体」となった「教育」的営為として行われようとした点において月 の輪発掘運動の特徴があった14。
従来の発掘が専門的研究者のみによって担われていたのに対し,月の輪古墳 では発掘が多くの参加者の手弁当によって行われている。村人たちの広範な参 加を得るために,各部落で幻灯会を開いたり,また青年会・婦人会などを通じ ての呼びかけが行われた。例えば飯岡村村長と教育委員長の連名において出さ れた「月の輪古墳発掘に関する協力方について」というビラによれば,「唐鍬 作業 約一六〇人歩(中学生,高校生,青年団,一般)」「竹ベラ作業
約七〇〇人歩(女子中学生,婦人会,女子青年団)」の奉仕活動,「高校生が土
曜・日曜に来援するので,出来れば土曜の晩一夜のみの分宿(二,三人宛)の
お世話」を村人に呼びかけている15。また村人の寄付も様々であった。月の輪
古墳発掘本部が定期的に発行した機関紙『月の輪ニュース』第6号によれば,
6
1953年11月の時点でカンパした人の総計は村内外あわせて300人に達し,現金1 万円を寄付した人から50円寄付した人,野菜や米,麦を寄付した人まで様々で
あった16。
特に8月中は夏休みであったこともあり,福本中学・備作高校・林野高校・和 気高校など近隣の中学・高校,さらに小学生の参加が多かった17。また,勝田 郡婦人協議会,勝田郡青年協議会,勝田郡教組英田郡教組など村外の大人た
ちも参加し,一日100人をこえる作業参加者を誇ることになった。当初の予定 では「発掘ははじめ最小必要限の外部施設と内部主体の予定であった」。しか
し発掘には「連日七〇名から三〇〇名の教師・学生・青年・婦人・農民・労働 者が参加し,その数は日ましに予想をこえて増加した」のであり18,発掘期間 全体を通算するならば,手伝った人は延べ1万人に上ったとされる。多くの参 加者を得たこともあり,墳頂墓の発掘のみならず日本考古学史上はじあての墳 丘を含めた全面発掘が可能になった。発掘後は報告書の作成いとりかかり,考 古学者の指導のもと村人たちも参加してA4版420頁に及ぶ膨大な調査報告書
が完成することになったのである19。
(2)発掘の背景にあったもの
以上のように月の輪古墳の発掘運動が近隣住民の盛り上がりの下に展開され た背景には何があったのだろうか。当事者たちの回想を整理するならば以下の 三点にまとめられるように思われる。第一の「原動力・基盤」として当事者た ちに意識されているのは,戦前からの労働運動の体験を基盤にして展開された
「戦後の飯岡村の民主主義運動の積みかさね」であった。敗戦まもなく柵原鉱 山労働組合が結成され,また引揚者や知識人を中心にした飯岡村民主化同盟が 生まれ,民主的な診療所の設置運動,村議会と共に勝ち取った高率累進課税の 樹立,「納得のいく所得税」をめざしての集団陳情など民主化運動の蓄積があっ
た。共産党の支持基盤も強く,衆議院議員選挙における共産党の得票率を見る と,1947年には約27%,1949年には約39%,1952年には約20%,1953年には約
23%であった2°。
第二に,発掘の主唱者たちには,戦争をめぐる苦い思い出があった。発掘活
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動を強力に援助した石川泰輔は,軍医として過ごしたフィリピン戦線で「爆撃 で傷っいた同世代や年下の若者が家族の名を呼びながら,あるいは手を合わせ て何か拝みながら死ぬのをろくな薬も医療器具もなく見送ってきた」。後に彼 は自らの戦争体験と月の輪発掘とをっなげて「二度と間違った戦争をしてはい けない。そのために真実の歴史を知りたかった。日本が過去を反省し,生まれ 変わって針路を探るたあに必要な事業」だったと回想している。石川において
「月の輪発掘は平和と民主主義への道だった」という21。さらに村の教師として 発掘のリーダーの一人となった福本中学校の教頭重歳政雄は,戦時中に満州で 教師をし,現地の子どもたちの母語を奪ったことを悔いていたという22。同様 の事情は,発掘に携わった考古学者の側にも存在していた。発掘の総指揮をとっ た和島誠一は戦時中に中国大陸の発掘に携わった苦い体験を持っていた。和島 は当時を振り返り「山西省で人民に背を向けられている調査がいかに困難でみ
じめなものであるかを痛感させられ」,「侵略者の銃剣に守られる立場に身をお いたことは致命的」であったと述懐している23。
自らを戦争に駆り立てた背後に,大東亜戦争を肯定し皇国の持続的発展を正 当化する公定的な日本史像が潜んでいたのだとしたら,そして彼らが「聖戦」
だと信じてきたことが誤っていたのだとしたら,彼らは彼らの教えられた歴史 に裏切られたという共通の思いを持っていたのである。そのような苦い記憶が,
彼らをして再び戦争を繰り返すまいという思いの下に新たな日本史像の創造へ と向かわせる一因をなしていた。
第三に1940年代末からの教育の「逆コース」を指摘することができるだろう。
1951年には天野文部大臣が「静かなる愛国心」の必要性を説き,さらに国民実 践要領の大綱を発表,1952年には岡野文相により教育課程審議会に社会科の改 善にっいて諮問が行われ,1953年には文部省が教員の政治的中立性維持にっい て通達,さらに教育課程審議会の答申を受けて「社会科の改善にっいての方策」
を発表し,社会科の解体と特設教科としての道徳科の設置を決めた。より広く
政治に目を配るならば,1952年サンフランシスコ講和条約発効と前後して日米
安保条約も発行し,破壊活動防止法も公布されることになった。さらに発掘の
行われた1953年には日米相互防衛援助協定(MSA)を発表,池田・ロバート
8
ソン日米防衛会談も開始されている。
月の輪古墳発掘の母体となった飯岡村文化財保護同好会が結成されたのはま さに1953年のことであった。後に同会は「軍国調をおびてゆく逆コースの中で 平和な生活を念願しながら,毎日を生き」,「祖国が我々国民の意志に反して異 国の基地となってゆく姿に,不安と怒りをこめて村人は生きている」中で,
「戦争で一番にかり出される彼等青年は平和を心から願っており,そのために は日本を平和な独立国にしよう,そうすれば戦争は防げると考え」,「この信念 を歴史の歩みの中でたしかにしようと努めていた」ことを村人の協働による発 掘を志した原点であったと回想している24。
以上のような民主化闘争の伝統戦時下における植民地主義への反省,逆コー スへの危惧を背景として運動が展開されたことは,近隣住民が発掘活動に労働 力の提供者として参加するのではなく,知の創造主体として参加するという,
知の創造をめぐる新たな協働の可能性を模索することにっながったように思わ れる。そしてとりわけ,植民地主義への反省を媒介していたことは,在日朝鮮 人や被差別部落民といった日本におけるマイノリティの参加を積極化させ,こ れらマイノリティの人々との協力の下に新たな歴史像を構築するという可能性 を生じさせることになったのである。
(3)教育活動としての発掘
先に引用した宣言文にもはっきりとあらわれているように,月の輪古墳発掘 運動の特徴は,その発掘を一種の教育的営為として組織することにあった。必 ずしもはじめから意図されていたわけではなかったが,次のような多様な交流 の場が設けられた点に,その効果を見て取ることができるように思われる。相 互交流の場としては,昼休みの考古学講座,夜に各部落で開催された講演会や 他の発掘現場のスライド上映会があった。その他に毎日夜宿舎でその日の発掘 の様子を各分担から報告し今後の方針にっいて話し合う討論会が開かれていた し,さらには発掘本部で定期的に公刊した『月の輪ニュース』,福本中学校と 和気高校の生徒が共同で公刊した『歴史』といった機関紙(どちらも謄写刷り
B4で1〜2枚)でも意見の交換が活発に見られた。後に福本中学校の教諭中
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村一哉が「古墳発掘の事業は,一部の人に左右されているというまことらしい 悪宣伝をうちやぶっていき,ほんとうに自由に,みんながみんなの手でやって いこうとする広場をっくっていく。そんな立場にあった」と回想したように25,
そのような様々な集会は経験を交流する「広場」として機能することになった
のである。
そのような場で専門家と素人とが出会うなかで互いの既成観念が崩されていっ た。例えば考古学者は次のように当時の体験を振り返っている。外構部の発掘 を終わり内部主体の発掘に取りかかった10月16日,掘り上げると2っの粘土郭 がほぼ並行して置かれ,それに一人の山林労働者が何気ない疑問を投げかけた。
「万をもって数えるような人手を必要としたこの月の輪古墳は,いったい中央 粘土郭のあるじ(被葬者)が生きているうちにその権威によって築きあげたの か,それとも死んでからその家族の手で作られたのか」。しかし久永春男によ ればその重要な手がかりを提供する「中央粘土榔の場合,もはや丈夫および周 辺の盛土を失ってしまっている。ああ何という失敗だったのか」と「嘆息」さ せられることになった。それから急遽その疑問に応えるべく発掘の方針が変更 されることになったという26。それは専門家が素人の素朴な疑問に大いに反省 を迫られそれに学んだ瞬間であった。
子どもたちにとっては,考古学者が古墳時代を明らかにする姿を間近に見学 し,その作業の一端に参加するなかで,歴史を学ぶという営みは,書物を通し て単に既成の知識を吸収することではなくて,自らが手と足をっかって調べる
ことであると実感することになった。「しゃがんで 竹べらを動かして/私は 身体ごと 歴史を勉強する/それにしてもこんな高いところへ/えらかったろ
うな」と一人の中学生が書き記したように27,月の輪の発掘運動では,予め形 成された歴史像をいったん拒絶し,自らの身体感覚を通して新たな歴史像を形 成することが目指されていた。歴史学者井上光貞はその点にっいて「古墳(史 料としてもよい)をながめたり,解釈したりする,いわば『見る』立場にたっ 歴史学に対する一つの抗議」と評していたca。
発掘体験を通して歴史とは何かを考え直すことを迫られたのは子どもばかり
ではない。教師もまた同じだった。中学校教師という立場で参加した者も,社
会科を教えること,歴史を教えるという営みの中で自らがしてきたことは何だっ たのか,そして本来どうあるべきなのかを改めて問い直すことになったからで ある。福本中学校の中村一哉は,いかにして月の輪古墳での子ども達の体験を どのようにして掘り下げ発展させればいいのかと模索した時,まず自らの実践 そのものを反省する必要に迫られたという。中村によれば古墳の発掘を経験し た子ども達は,「具体的な事物の中に,何が真実であるかという問題意識を育 くみ,活々と瞳をひからせ」,「古墳で育てられた芽を教室の中にもち運」んで 来た。その中で中村は,教師が予め形成した概念を問題解決学習という形式の 中で「子供達に無理に共生し無意識の内にも圧力を加えていた」という「誤っ た行き方をはっきりと自覚」することになった。そのような気づきの中で中村 は「概念化され形式化された社会科の殻を破って生きた実践が絶対必要」との 思いから「具体的な身辺の事物を通して問題をみその中にひそむ真実をたずね あてようとする新しい郷土研究の歩み」を社会科の授業の中で始めていくこと
になった29。
以上のように極力多様な人々の参加を促し,市民と学者の経験とを出来るだ け対等な形で交流させる場を豊富に準備することを通して既成の概念を問い直 していこうとする志向は,「終わりに」で見るような月の輪古墳をめぐる新た な伝統を構成していくこととなるのである。
第二節 「民族の起源」をめぐる混乱と対立
ここでは発掘運動後に参加者の経験談を集めて刊行された月の輪古墳刊行会
『月の輪教室(増補)』(理論社,1978年)の記録を主な手がかりとして,参加 者たちが発掘活動を通していかなる歴史認識を獲得することになったのか,そ の一端を垣間見てみることとしたい。
(1)主流派日本人の感想、
『月の輪教室』には,一般参加者の感想として小学生・中学生・高校生・大 人の感想が掲載されている。まず小学生の感想から見てみたい。多くの子ども
にとって発掘を通して古代への思いを馳せるよりはむしろ作業自体の苦労や近
国民的歴史学運動における日本史像の再構築 II
藤義郎や和島誠一など考古学の研究者の発掘に向かうひたむきな姿が印象的で あったようだ。そのような感想文中に歴史に敢えて関係する記述を探すならば,
彼らの多くは古墳を作らされた「どれい」を自らの「祖先」として共感の対象 としっっも,同時に古墳の主にも思いを馳せていたことをうかがうことができ
る。
大昔の人は勢力を争い自分の勢力をさかんにするため高い所へ墓をこしら えたとか,ふき石も私達の祖先をどれいの様に使用して深い谷川から運ばせ たとかよく働いて下さったのだと思えば,何だか涙が出るのです。・…ごっ
こっした大きな石を運ぶのに何年何日かかったでしょう。一個の埴輪を作る のにも何回となく焼いて作り上げたのか知ら。私達の祖先の苦労も知らない で。古墳の主はやすらかにねむっている。私は色々先生のお話をききながら
自分勝手な考えばかりうかんで来る。自分は今頂上に立って思うぞんぶん大 気を呼吸しながら,豪族になったみたい。おかしなくすぐったい様な気持3°。
作者の公文小学校六年の岡田美恵子は祖先の「どれい」への強い同情を示す と同時に被埋葬者である「豪族」にも共感を示している。すなわち「和島先生 の説明」を聞いた女児は,古墳は「豪族」の権力顕示のために「どれい」の犠 牲の下に造営されたものであったことを理解した。「私達の祖先の苦労」を思 うとき彼女は「何だか涙が出る」と憤りを見せる。.しかし一方で墳頂部に立っ た恵美子は今度は「豪族になったみたい」な「くすぐったさ」を隠せなかった。
とはいえそれを学校の作文にはっきりと書き付けることには遠慮があったのだ ろうか。「和島先生の説明」と反する,いわば「自分勝手な考え」としてため
らいがちに表明されたに過ぎなかったのである。
中学生においても,奴隷への共感か古墳の「主」に対する共感かどちらか が表明された。たとえば中学二年の山本朝子は,
この古墳を造るのに
何万人の ひとが汗を流しただろう
どんな労苦にたえて造っただろうか 古人のその努力を しのびながら 汗の手に竹べらを にぎりしあ ふき石の周囲の土を かきわけた
と猛暑の中の古墳発掘の苦労を古代に使役された人々の苦労に重ねてみせ た31。それに対して
古墳の中にねむれる人よ あなたの名前はなんと言う。
あなたの生きていた時代の, この郷土の様子を聞かせてくれ。
と,むしろ被埋葬者に関心を向ける生徒も存在していた32。
高校生においても,奴隷に共感するのか,はたまた古墳の被埋葬者に共感を 示すのか,ある感情の揺れを読みとることができる。例えば和気高校一年生だっ
た山田保久美は次のような詩を作った。
私はただ無言のまま歩いた
ここを登るみんなよりも古墳を作るために働かされた人の方がまだえら かったろう
● ● ● ●
古墳の主よ,あなたは何故こんな山に古墳を作ったの?
古墳の主は何も語らないea
以上のような小学生から高校生に至るまでの「共感」の対象をめぐる揺れを
詳細に記してみたのは,そのような揺れの一端が以下にみるような当時の歴史
学における英雄時代論争を基本的には反映するものであったことを示すと同時
に,実は丁寧に検討するならば,その論争内容とも微妙にずれていたというこ
とをも指摘してみたかったからである。まず英雄時代論争にっいてその概略を
国民的歴史学運動における日本史像の再構築 13
ここに紹介しておくことにしよう。
(2)歴史学における英雄時代論争
国民的歴史学運動の主唱者であった石母田正は,1948年に英雄時代論と呼ば れる古代史の新たな理論仮説を提示し,「民族の歴史の生成期としての古代の 叙事詩」として古事記を取り上げ,その登場人物を「支配する世界といきいき した統一と連関をたもっている」英雄が割拠する時代として3〜5世紀の日本 を位置づけようとした。戦前の公式的な日本史像が万世一系の天皇という単一 化された英雄を民族の祖として位置づけたのに対して,石母田は複数の並立す る英雄を古代に再発見すると同時に,その民族の祖である英雄たちを葬り去っ た圧政者として天皇を対置しようとしたのであるM。この新たな学説は,藤間 生大が1951年の歴史学研究会の大会報告で取り上げて以来歴史学者の関心を集
めることとなった。藤間によれば,石母田の提起は「日本における英雄叙事詩 が天皇制の厭迫によって,十分な開花をすることがさまたげられたことを知っ て,心からの憤りを感じながらも,僅かにのこることができた,わが民族の遺 産のすばらしさに,心のほのめきを感ずることができる」点にその意義があっ
た35。
以上のような英雄時代論に対して「民族」という概念が近代に入って形成さ れたことを重視し,超歴史的な概念として石母田らが「民族」を使用する点に 批判を浴びせかけたのが羽仁五郎らの人民闘争史観であった。石母田らが社会 構成史を重視したのに対して,彼らは歴史を勤労生産者と搾取者の階級闘争と
して捉えるべきだと主張した。その一人鈴木良一は,石母田の歴史観が「人民 の歴史に果す役割の過小評価」を含み,結果として「人民戦線または民族戦線
というものはその指導勢力いかんによっては全体主義にはしる危険」があるこ とを理解し損なっていること,従って「反動勢力に逆用されやすい」可能性を はらむことを批判していび。また北山茂夫は,「民族の心」(『改造』,第34巻 第12号,1953年10月)において石母田の「古代貴族の英雄時代」を取り上げ,
石母田の議論が天皇制礼賛の文脈で1930年代に執筆された高木市之助の「日本
文学における叙事詩時代」に無批判に依拠していることを指摘した上で,「古
14
代天皇制の初期から確立への諸段階を,矛盾においてとらえず,高木の流儀の ように,手のこんだかたちで,浪漫化すること」になっていると批判した。北 山は「英雄時代論が,古いものの批判に役立っよりも,かえって,それをアイ マイにさせ,民族主義を鼓舞することによって,反動を利するところがある」
との危惧を率直に表明したのである37。石母田らと鈴木らの対立の背後に所感 派と国際派といわれる日本共産党内の対立が潜んでいたことはっとに知られて
いる駝
ただしこの二っの見解は一見すると対立しているが,実は日本史を連続的な 発展史として捉える点においては枠組みを共有していたといえるだろう,その 点からすれば,実は戦前の皇国史観以来の日本史学の定型的な日本史像の残津 をここに読みとることも可能であった。
改めて考えてみるならば専門的な研究者の中で,このような定型的な日本史 像を脱構築し得るもっとも近い位置に居たのは学問分野からするならば考古学 者ではなかったろうか。月の輪古墳の発掘運動の総指揮をとった和島誠一はす でに戦前から新石器時代に漢の文化が楽浪(平壌付近)・南鮮を経由して日本 にもたらされたことを認あていたし,戦後の研究では「弥生式文化以来,わが 民族の形成は圧倒的な中国・朝鮮の文化の輸入と,その受容のうえに進められ
た」のであり「自生的文化によって支えられなかった」ことをはっきりと述べ ていた㌦しかしにもかかわらずあくまでも「輸入」されたのは「人」ではな
く「文化」であると捉えることを通して,和島ら考古学者もまた日本史像の定 型の中に自らの研究を位置づけていたのである。
(3)実感としての逸脱と古説上での回帰
この二っの史論に依拠した説明は月の輪古墳に則して様々な研究者によって 発掘参加者らになされていた。古代史学者の渡辺義通が久永春男に語ったとこ
ろによれば,「月の輪古墳の被葬者の性格を説明するのに,ひとりは,周辺の 村々の共同体の最高指導者で治水事業や戦争を指揮した英雄であって,村人は
こぞって自ら労働奉仕に来て,各村々が眺めわたせるこの山の峰に,その英雄
の墓として月の輪古墳を作りあげたと説明し,他のひとりは,月の輪の被葬者
国民的歴史学運動における日本史像の再構築 15
は部民制を基礎とした豪族であって,権力を用いて多くの人々を動員して,そ の権威を誇示するためにこの古墳を築いたと説明し」,「大きなくい違いがあ」っ
たというω。
ただし英雄時代論と人民闘争史観とを発掘参加者らが同じウェートで受け取っ ていた訳では必ずしもなかったようである。歴史学者井上光貞が月の輪古墳の 手記を読んで「子供達の詩や作文をみると」,古墳築造に駆り出された村人を
「奴隷ときめつけているようである」と述べているように41,どちらかというと 古代の村人を「奴隷」と見なし,その末商として自らを位置づけようとするも
のが多かった42。
とはいえ子どもたちの感想を改めて読み直すならば,「民族」や「日本人」
という言葉自体がほとんど使われていないことに気づかされる。英雄時代論も 人民闘争史観も共に,日本民族または日本人民の歴史的発展を描き出そうとす
る点で共通していたのに対し,子どもたち,とくに小学生・中学生の作文にお いて古墳時代の人々はあくまでも,「古墳の主」や「人々」として記される場 合が多く,自らの「祖先」として語ろうとしたとしても,それを「日本民族」
あるいは「日本人民」の祖として語ろうとした形跡は見当らなかった。当時中 学生だった岡本明朗の回想談よれば身近に同年輩の在日朝鮮人も多数いるなか
で「人々」「祖先」といった言葉使いを作文中でしていたとしても今日考える ように必ずしも日本民族の祖先として単一化して捉えていたわけではなく,在 日の人々をも含み込むような言葉としてぼんやりイメージしていたという。古 墳の時代に生きていた人々と現代の子どもたちはどう考えても時の隔たりがあっ た。和気高校二年の角南圭子は古墳を見学したときの母子の会話を次のように 再現している。
お母さん,私は月の輪古墳を見てこんな事を考えるのですよ。千五百年前 古墳が作られた当時は,賑やかに祭礼が行われたことでしょう。又,その人 に恩恵を受けている人,仲良くしていた人達は,高い所をも厭わずお参りに 行った事でしょう。それが,十年たち,五十年たち百年とたっうちに,次第
とお参りの人も少なくなり,時代のうっりかわりによって,古墳の人に対す
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る尊敬の念も薄らぎ,随分長い間,誰にも気づかれないで,そのままその場 所にじっと埋もれているなんて,私たちこんなに動いているのに変ね。それ に何だか淋しい気がするわ。…
この後母子の会話は,母が娘に対して路傍の石も「地球が生まれたその日か ら」何千年もそこにいたのかもしれないと娘に眩き,それを受けて娘がそれに 比べれば「古墳時代は最近」だということになり「古墳が身近に感じられ」る
と返しているca。月の輪古墳は発掘作業以前は忘れ去られた小さな山に過ぎな かったのであり,この女学生にしても「地球が生まれた日」との比較において ようやく古墳時代に親近感を感じることができたような,それほどの時の隔た
りを感じていたということになるだろう。
そのような中で「民族の歴史」と古墳の歴史を重ねて語る作文を残したのは 主として大人たちであった。例えば飯岡村婦人会波賀貞女は次のように述べて
いる。
発掘の意義を正しく理解された婦人会員は,度重ってお願いする炊事当番 や,発掘現場の作業や,資金物資のカンパ等に進んで協力して下さるし,時々 開かれる夏季大学或いは幻灯会にも出席して下さって,その協力の中から民 族の歴史とか,郷土の文化とか,国の成り立ちとか,其の他のあらゆる事を,
自分の眼と手と頭を通して,まざまざと学び取ったわけである姐。
波賀は「民族の歴史」を体を通して学びとったことをその発掘の意義として 述べている。ただしこの文章は恐らくは婦人会を代表する立場から書かれたも のであり,実感に基づき書かれたというよりもやや社交辞令を交えた紋切り型 の字句を含むものとなっている。紋切り型といえば美備郷土文化の会もその活 動報告の中で「今や内部の発掘の終る日も近い。しかしこの郷土・…私達の村 にある祖先の人々の足跡は尽きない。郷土の永い歴史を探る第一歩が踏み出さ れただけだ。私達はその第二の歩みを次の調査に踏み出しつっ,郷土の歴史,
民族の歴史を流れの中で発展の中で正しく捉えっづけるであろう」と述べてい
る45。
国民的歴史学運動における日本史像の再構築 17
以上のホうに運動を正式に担うような立場の人ほど「民族の歴史」にっいて 積極的に語っているという事実は,一般参加者にとって「民族」が必ずしも実 感的に理解されるものではなく,頭の中でのみ理解し得るような抽象化された 概念に止まったことを改めて示唆しているように思われる。想像上の概念だか らこそ「自分の眼と手と頭を通して」はじめて獲得されることになったのであ ろう。古墳発掘の現場は抽象的な概念操作により長けた大人にとって「民族の 歴史」が教化される場だったのである。先にも引用した岡本明朗の回想によれ
ば,発掘する主体は「日本民族」というよりも「民衆」という概念において参 加者たちが捉えていたと考えるほうが自然であるという。さらにいえば,その
「民衆」の中には在日朝鮮人をも含むものと捉えていたはずだと岡本は述べる。
岡本によれば,岡山という地は古代から朝鮮半島から京都へと文化が移入され る中継地であり,朝鮮族を名乗る住民も少なくなく,岡山に住む者にとって朝 鮮との関係は近しいものであったという。もし岡本のいうような感覚が一般の 発掘参加者に広く共有されていたとしたならば,参加者たちが「民族」という 語を紋切り型の表現の中でしか用いなかったのは,様々な異質な文化,そして
それを担う多様な人々の歴史として古墳時代を直感的に見なしていた可能性を 示唆してもいる。しかし残された記録を見る限りにおいてそのような歴史像が 文字として描かれることはなかったのである。
第三節 周縁・外部からの日本史像の再構築
発掘活動には,日本人の範疇に入れられながらもその周縁において差別の対 象にさらされてきた被差別部落民と,戦前には日本人の範疇に入れられながら 戦後植民地人としての立場から解放される一方で今度は日本国籍を選択の余地
なく一方的に剥奪されることになった在日朝鮮人,在日中国人も参加していた。
付け加えれば在日朝鮮人の中には,強制連行で柵原銅山に連れて来られた者も
存在していたca。今日からみれば,定型的な日本史象の描き直しを主張しえる
位置に彼らはいたはずである。その彼らは月の輪古墳発掘を通じて,そこにい
かなる歴史を垣間見ようとしたのだろうか。以下で検討してみたい。
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(1)周縁化された日本人からの抗議
まず被差別部落民の発言を見てみよう。私見の限りにおいて,発掘に直接参 加した被差別部落民本人がその感想を記したものを発見することはできなかっ
た。ただし発掘を指導した和島誠一が発掘の思い出を語った中に次のような興 味深いエピソードが紹介されている。すなわち和島は部落解放委員会の英田郡・
勝田郡の幹部研修会で月の輪古墳にっいて話をした際に,月の輪古墳の時代に 支配被支配関係が初めて成立したことを説明し,「部落外の一般貧農層と協力 して,国民全体の生活がゆたかになり,貧乏をなくするための運動がおこなわ れることもぜひ必要」であると説き聞かせようとしたのだという。すると部落 民からは「そのわしらと同様な,あるいはわしらよりも貧乏な一一一maの農民たち
が,頭からわしらを軽蔑して交際を断っているのですよ。具体的にどうして提 携できるのです!」と逆に「質問され」,和島は「瞬間,骨身にこたえ」たと 後に記している。和島によれば「この日常体験に根ざしたぬきさしならぬ感情 にこたえきれる用意が私にはなかった」のであり,「知識と概念と安住して論 理のみを展開してゆく自分のコトバの無力さが,白日に曝された」と感じられ たという47。このエピソードは容易に「提携」などなしえないような亀裂が一 般農民との間に存在すると部落の人々が感じていたことをうかがわせる。和島 にこのように訴えた人が古墳の発掘に果たして参加していたのか,仮に参加し ていたとして発掘を通していかなる古代史像を垣間見ようとしていたかは不明 である。しかしあくまで一っの思考実験の段階に止まるとはいえ,日々差別の 対象に晒されるなかで「日本民族」とされる人々の中に潜む亀裂や反目に敏感 な彼等だからこそ,古墳時代の奴隷とされる人々の多様性にも鋭敏になりえる 可能性もありえただろう。そのことにより例えば大陸や半島と日本における錯 綜した文化・政治状況を描き出すことを通して,従来考えられてきたような
「正しい日本民族」の起源などどこにもいないのだということを明るみに出す こと,単一の「民族の歴史」を語る作法そのものが民族の求心性を創出するた めに周縁化される人々を作りだし,現実の差別を正当化する言説として機能す るのだということを告発する方策もありえただろう。
しかし現実に部落解放運動の主流がとったのはその逆の論法であった。例え
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ば発掘に参加した部落解放岡山県連合会は『解放新聞』岡山県版の中で「月の 輪古墳」の映画製作に参加した理由を次のように発表している。彼らによれば 部落差別はこれまでの日本史の理解の間違いにより生じていた。すなわち「部 落問題の起源」について「日本民族と人種がちがうから」「賎しい職業に従事 しておったから」「仏教の殺生戒に反する職業に従事していたから」といった 様々な説があるが,それらは「すべてまちがい」であった。「正しい日本歴史 から部落の歴史を眺めますとこの発掘の記録映画が示すとほり,征服者と被征 服者との関係がおこりでありまして,支配者と支配される者との階級と階級対 立が生じたとき(古代ドレイ制社会)人間に貴賎が生じ,身分差別が生じた」
のである。よって「人権はすべて平等に尊重されなければならないと云う事」
を「家庭の一人,一人に徹底せしむる他に,愛する祖国日本を完全に独立させ 世界の仲間に入り得る道はない」とし,「月の輪古墳記録映画を通じて正しい 郷土の歴史,正しい日本民族の歴史的見地から部落問題の認識を改めて戴き,
日本民主化の一助ともなればと考え」て映画製作への参加を決意したことを述 べていたng。ここで部落解放岡山県連合会は,被差別部落民に対する差別の不 当性を日本史の理解の錯誤に求め,「正しい日本民族の歴史」を描き直すこと を通して,差別からの解放を模索しようとしていた。それは差別を歴史的に根 拠づけられ正当化されてきた被差別部落の人たちからすれば現実的な闘い方の 一つではあった。周縁の民として,日本人への同化による平等の実現を願うに あたり,被征服者の最下層に自らを位置づけることは改めて日本民族内部に自
らを回収しようとしていたことを意味している。そのことにより,被差別部落 民たちの発掘への参加は,日本民族の連続した発達史という定型を周縁からよ
り補強する方向に寄与することになったのである。
(2)外部からの異議申し立て
発掘には在日朝鮮人・在日中国人も参加していた。飯岡村には,鉱山労働者
として多数の朝鮮人労働者が移住していた。ただしその正確な数は柵原町史編
纂委員会『柵原町史』(1987年)にもそして同町の鉱山資料館にも,さらには
同和鉱業の社史『同和鉱業90年の歩み』(1974年)にも記載されておらず,い
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わば戦後において消された歴史となっている。ちなみに戦後の朝鮮人をめぐる 政治情勢は複雑であった。在日朝鮮人にとって戦後は祖国が植民地支配から解 放され民族の自立と自存を目指した闘争が前進した歴史であると同時に日本国 政府による新たな抑圧が開始された歴史でもあった。おもだったところだけを 指摘しても,朝鮮人は1945年10月にいち早く在日朝鮮人連盟(朝連)を結成し,
1946年4月には各地に朝鮮学校を建設,さらに同年10月には在日朝鮮居留民団
(後の大韓民国居留民団)を結成,民族の自立の回復を求あての闘争は着々と 進んでいった。しかし同時に民主主義化された日本において,朝鮮人に対する 政府の抑圧は改あて強化されていく。政治的な側面についていえば,1945年に は衆議院議員付則において在日朝鮮人の選挙権及び被選挙権が停止され,1947 年5月には外国人登録令が施行,さらに1952年サンフランシスコ講和条約の発 効と同時に朝鮮人は日本国籍を一方的に剥奪されることになった。さらに在日 朝鮮人連盟も1949年に団体等規制令によって解散を命じられている。教育面に おいても1948年3月には朝鮮人学校閉鎖令が出され,4月に起きた阪神教育闘 争では2千人以上が検挙され,1名が死亡することになった。飯岡村でも朝鮮 人学校が閉鎖されていた。
そのような中で朝鮮人たちは発掘に何を見たのだろうか。ただし残念なこと に一般参加者として発掘に携わった朝鮮人自身の手記は残されておらず,また 飯岡村にもはや一人も朝鮮人が居住していない2002年現在において聞き取りも できなかった。我々が今日知り得るのは,あくまでも日本人側から見た朝鮮人 像である。在日朝鮮人の発掘参加に対してとりわけて好意的な態度を示したの は近藤義郎であり,彼は「発掘中私たちを非常に感激させたこと」として次の ような「殆ど知られていない」エピソードを紹介している。
発掘も半ばすぎて,内部主体もすっかり露呈されたころ,年より・女・子 供を交えた約三十名ほどの朝鮮人が古墳を訪れたのです。附近の村々に貧し いくらしを送っている人々です。彼等は口々に私たちにこう言いました。…・
日本人が私たち朝鮮人を軽蔑したり,からかったり,劣った民族だと考えた
りするのは,日本人が自分の本当の歴史を知らないことが大きく働いている
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のです。日本人は長い間,神の子孫だと思っていたから,隣りの国の人間を 平気で劣等扱いして恥じないのです。日本の人たちが自分たちの力で正しい 歴史を調べようとするこの発掘は私たち朝鮮人にとっても人ごとではありま せん。日本人が正しい事実に基いた日本の歴史を知れば,朝鮮人と本当に手 をとりあって仲よくすることができるはずです。だから私たちはこの発掘に 参加し,日本人と一しょに勉強するためにきたのです。
彼等はこう言って,その内の屈強な男たちは「力仕事なら何でもするよ」
といって墳頂のトレンチに鍬を振り上げ,女・子供・年よりは日本の生徒や 村人に交って竹べらをにぎりました。彼等の悠々とした姿,逞しい顔は,民 族の誇りに輝いておりました49。
ここで近藤義郎に語りかけた一人の朝鮮人の言う日本人の「本当の歴史」
「正しい歴史」とは何を指していたのだろうか。翻って当時の知的言説の状況 を考えてみよう。例えば,江上波夫が騎馬民族説を打ち出したのは1947年のこ
とであった。江上の学説は北アジアの騎馬民族が朝鮮を経由して日本に来住し 先住民を征服して王朝を建てたとする説であり,和島誠一によれば学界に与え
たインパクトは大きく,また「戦前だったら,江上教授の学園追放ぐらいでは すまされない大事件となった」ような衝撃的内容だった5°。そのような知的状 況を背景とするならば,戦前の日鮮同祖論が日本と朝鮮の祖先の共通性を言い っっも日本民族の朝鮮民族に対する優位性を正当化する言説として機能してい たのに対して,先の朝鮮人がいう日本人の「本当の歴史」とは,朝鮮民族の日 本民族に対する優位性を根拠づけるような言説としてイメージされていた可能
性すらある51。
近藤の文章の中で紹介される朝鮮人はあくまでも「朝鮮人と本当に手をとり あって仲よくすることができるはず」「日本人と一しょに勉強するため」といっ た友好性に満ち,さらに「民族の誇りに輝いて」いる,いわば日本人よりも劣 位に現実には置かれているが日本人との対等なっきあいを求ある朝鮮人であり,
その発掘への協力は,日本人が「自分の本当の歴史」を知るための一種の手伝
いとして意味づけられていた。 製作された記録映画「月の輪古墳」にもチマ
チョゴリを着て発掘に参加する在日朝鮮人の姿が映し出されていた。
その映画を見た中学生の一人は次のような感想文を寄せている。
朝鮮の人が竹べらをうこかしている所,日本には冷い目で見られ,馬鹿に されながらも,歴史を正しく学びたいと思う心が,よく表現されている。…
日本の古墳を,朝鮮の人が掘ってくれている。この人達のあくまで正しい 歴史を学びたいと思っている心がよくわかる。この人達には,いっかは幸福 がくるだろう。私達は世界の人と手を取り合い,はげまし合って進まなくて
は52。