国際金本位制成立の歴史的背景
ー金銀の市場比価と公定比価の矛盾をめぐって一
田口信夫
は じ め に
.
第I章 金鉱発見と金銀貨流通構造の変化 第1節 金鉱発見とその意義
第2節 アメリカにおける金銀貨流通構造の変化 第3節 フランスにおける金銀貨流通構造の変化と
ラテン通過同盟成立の背景 第Ⅱ章 ラテン通貨同盟と国際金本位制の成立
第1節 ラテン通貨同盟の性格と意義
第2節 ラテン通貨同盟の弱体化と国際金本位制の成立
は じ め に
1848年,1851年におけるカリフォルニア,オーストラリアの金鉱発見から 金銀榎本位同盟として知られるラテン通貨同盟が1874年に銀の無制限鋳造 を制限するまでの20数か年は,銀が本位貨幣としての座から駆逐される過程 であったと同時に,イギリスを中心とする国際金本位制が確立されていく過 程でもあった。わたしが本稿でとりあげるのは,この期問におけるアメリカ およびフランスを中心とするヨ.一口ツパの主要複本位国が,金銀発見を契機
° ° ° ° °
として複本位制から金本位制へ移行していく過程の展開であり,それも金銀
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° e ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
の市場比価と公定比価の対立という二元的価値尺度機能のもつ矛盾を軸にす
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
えた移行過程の展開である。
本稿を展開するに先だってまず,複本位制のもっている機能について簡単 にふれておきたいと思う。
(1)
複本位制の機能は一般に補正原理(compensatoryprinciple)と 称 さ れ る が,これは次のようなものであるo 即ち,複本位国が金銀の法定比価を定 め,金銀の自由で無制限の鋳造を行なうという条件の下で,銀が下落したら 金を売って銀を買い,金が下落したら銀を売って金を買うという操作によっ て金銀の市場比価を絶えず法定比価に一致せしめようとする作用の乙とであ るoただし,この金銀比価の安定化作用は,通貨当局の意識的な金銀市場へ の介入によるものではなく,金銀の市場比価と公定比価の不離を利用した投 機的操作一一造幣局における価値の下落した金属と高価な金属との交換ーー によってなされるo
上述したと乙ろから,複本位制が金本位制成立にとってし1かなる志義を有 していたかはおのずから明らかとなるであろう。それは,小野一一郎教授がす
(2)
でに指摘しておられるように,複本位制あるいはそれがもっている金銀比価 安定化作用が,イギリスを中心とする金本位制の波及をさまたげた一つの大 きな原因だったことであるO もし,複本位制のもつ金銀比価安定化作用によ って「金銀の価値比率すなわち金銀比価が,一定の恒常的安定比価に釘づけ しうるものであれば,金本位制度,銀本位制度あるいは複本位制度をとる
(3)
も,その結果は変らずJ,少なくとも,為替相場上の理由によって銀が廃位 されることはないであろう。事実, 1870年代前半まで金銀比価は,複本位制 の下に安定し,従ってまた,銀も廃位される乙とはなかったのである。
以上述べてきたことを視点にすえて,以下,どのようにして金銀比価の安 定がくずれ,国際金本位制が成立するに到ったのか述べていきたいと思う。
(注)
(1) 補正原理にかんする詳細は F. W. Kemmerer,Money, New York, 1935, pp.84‑88参照。
(2) 小野一一郎「国際金融一貨幣制度の国際的関連を中心としてJ, IT'信用理論大 系』第2部,制度第,日本評論社, 1963, 332頁。
(3) 同書, 332頁。
第1章 金鉱発見と金銀貨流通構造の変化
第 1節 金 鉱 発 見 と そ の 意 義
マルクスおよびエンゲノレスは, 1850年 (1ー 2月)の「評論Jにおいて,
カリ‑ブオJレニアの金鉱発見が以後の世界にもたらすであろう事の重大性にか んしj次のように述べているo
r
乙こで生起したもっとも重要な,二月革命 よりもさらに重要な事実は,カリフオノレニアの金鉱の発見であるo それから 18カ月になるゃならずの現在すでに,この発見がアメリカの発見そのものよ(1) りもはるかに大がかりな結果をもたらすことが予見される」と。
マルクスおよびエンゲノレスがここで予見しているのは,金鉱発見がもっと も強情な野蛮民族をすら世界貿易に,文明に引き入れ,従来まではロンドン およびリヴアプーノレであった世界貿易の大中心地は,今やニューヨーク,サ ンフランシスコ,サン・ファン・デ・ニカラグア,レオン,チャグレスおよ びパナマとなり,太平洋は当時,大西洋が果していた役割一一世界交通の大 水路の役割一ーを果すこととなり,大西洋は当時,地中海が果していた内海
(2) のごとき役割に没落するであろうという乙とである。
このようにマルクスおよびエンゲノレスは,カリフオノレニアの金鉱発見を世 界の貿易が一つの新しい方向を取るという点において強調しているのである が,このことはその後の経過からいえば,オーストラリアの金鉱発見ととも に,イギリスを中心とする国際金本位制が成立する上での物理的基盤を与え たという点においても主要な意義をもっていた。
カリフオノレニアとオーストラリアの金が,国際金本位制成立のために貢献 したことにかんし, ミハレフスキーは次のように述べている
r
ブラジノレの 金がイギリスにおける金本位制実施の基礎を置いたものとすれば, ドイツ及 び(事実上)フランスが金本位制に移行し得たのは,アメリカ及びオースト ラリアの金鉱のお蔭であった。肝腎なことは,これ等の諸国が多量の金を与 えた(1850年から1875年までの世界産金高は, 4,000トンであった)というこ とだけではなく,これ等諸国に鉱石からの金の採取が発展し,それがガッチ りした基盤の上に立つに至ったということである。世界経済への金の供給はヨリ規則正しい性質を帯びるようになり,もはや,偶然的に発見され,忽ち (3)
取り尽くされてしまう砂金に余り依存しなくなったのであるJ0
乙こで,ミハレフスキーはこつの金鉱発見によって金本位制へ移行した国 として, ドイツとフランスだけをとりあげているが,これらの国のほかに重 要な国としてアメリカをつけ加える必要がある。というのは,後述するよう に,アメリカもフランスと同じく,複本位制のもつ補正原理を通して大量の 新産金を吸収し,金本位制移行のための物理的布石をしく乙とができたから であるO
ところで, ミハレフスキーが述べているように,カリフオノレニアとオース トラリアの金がこれらの国に対して金本位制移行のための基盤を与えたとす れば,両鉱の規模がいったいどれくらいのものであったのか知る必要があ (4) るoまず,両鉱が発見される以前, 1840年代に産金高が世界第一位となった ロシアと比較して述べたい。
第l表は, 1821‑50年における ロシアの産金高と世界の産金高を 比較したものであるo との表によ れば,ロシアは1840年代に世界新 産金の約43パーセントを供給して いたのがわかる。なかでも,東シ ベリアからの産金はその過半数を
エフ・ミハレフスキー『貨幣商品として の金』白楊社, 1938, 79‑80頁と].L.
Laughlin, The history of Birneta‑ llisrn in the United States. New 占め, ミハレフスキーによれば York,1968, p.283より作成。
/(5) 1840年代には,東シベリアは世界産金の23‑24パーセントを供給してけた。
当時,ロシアを世界第一位の産金国たらしめたのは実にこの束部シベリアに ほかならなかったという乙とができるであろう。
乙の1840年代まで世界産金高のトップを占めたロシアの金鉱と,カリ フオノレニア・オーストラリア両鉱の規模を比較してみよう。第2表は1851年 から1896年までの各国別の年平均産金高を示したものであるo 乙の表による と,カリフオjレニア,オーストラリアの両鉱は, 1850年代には世界産金高の 実に約80パーセントを占めるにいたり, 1840年代に世界第一位をほ乙ってい
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1493年から1875年 までの世界の年
年 次
l z t
有力1 2 7
予ト│ロ νァ1 1 5 9
ピ│アフリカ│他の諸国l
合 計1851‑55 88.8 69.6 24.7 16.2 199.3 1856‑60 77.1 82.4 26.6 15.6 201. 7 1861‑65 66.7 77.6 24.0 16.7 185.0 1866‑70 76.0 73.5 30.1 15.4 195.0 1871‑75 59.5 63.1 33.4 17.9 173.9 1876‑80 63.9 45.3 40.1 23.1 172.4 1881‑85 48.1 43.5 35.6 11.7 16.0 154.9 1886‑90 52.3 44.8 32.3 9.1 30.3 165.8 1896 49.4 45.7 31.8 9.8 14.8 22.8 173.3 (1) 50年代のアメリカ合衆国の産金高は,事実上,カリフオ
jレニアの産金高と一致する。
エフ・ミハレフスキー『前掲書~ , 125頁。
平均産金高を表した第3表によって示してみようD 一見して1851年以後,急 第3表年平均世界産金高 激に世界の産金高が増加しているのが わかるが,ラフリンによれば,両鉱発 見以後における1851年から1875年の25 年聞に生産された金の総額は
3,317,625,000ドノレで, これは1493年 から1850年までの357年間に生産され た金の総額3,314,553,000ドルに匹敵
(6) するものであった。
以上述べてきたと乙ろから,カリフ オJレニアとオーストラリアの金鉱発見 が世界の産金史において画期的なでき 事であったことは明らかになったと思
うが,乙のような莫大な金生産が可能 になったのは,両鉱の規模もさること ながら,一つには両鉱の合金率がきわ めて高かったことと,一つには採金技 術の発達によって労働の生産性が向上 年 次 |重量単(k位~) I何制(単100位ドj〉レ
1493‑1520 5,800 4,045.5 1521‑1544 7,160 4,994.0 1545‑1560 8,510 5,935.5 1561‑1580 6,840 4,770.7 1581‑1600 7,380 5,147.5 1601‑1620 8,520 5,942.7 1621‑1640 8,300 5,789.2 1641‑1660 8,770 6,117.0 1661‑1680 9,260 6,458.7 1681‑1700 10,765
1701‑1720 12,820 8,942.0 1721‑1740 19,080 13,308.2 1741‑1760 24,610 17,165.5 1761‑1780 20,705 14,441. 7 I
1781‑1800 17,790 12,408.5 1801‑1810 17,778 12,400.0 1811‑1820 11,445 7,938.0 1821‑1830 14,216 9,915.7 1831‑1840 20,289 14,151. 5 1841‑1850 54,759 38,194.2 1851‑1855 199,388 139,077.0 1856‑1860 201,750 140,724.7 1861‑1865 185,057 129,081.5 1866‑1870 195,026 136,034.7 1871‑1875 173,904 121,301. 7 I
J. L. Laughlin,op. cit. ,pp. 283, 285の表より作成
したためであるO
ミハレフスキーによれば, 1850年代前半におけるカリフオノレニア,オース トラリア,束シベリアの平均合金率は普通の諸地方の平均合金率の5倍にも および,束シベリアが産金高において世界第一位を占めていた1840年代の平
(7)
均合金率と比較しても,最低2.2倍も高った。乙の乙とは, 1850年代前半に おいて, 1840年代の技術がそのまま用いられたとして,労働生産性が2.2倍 向上したこと,従って今までと同じ労働時間で2.2倍もの生産が可能になっ たことを意味するO
(8)
このような合金率の高さに加えて,採金技術の発達は,さらに労働生産性 を高め,産金高を急激に増大させていった。特に, 1852年,カリフオノレニア において用いられ,以後大々的な普及をみるに至った水圧法は画期的なもの であり,砂金地からの金の採取に際してもうれつに生産を高めた。
今,労働者l人に1日4ドJレを支払うとして 1立 方 ヤ ー ド (1立方ヤー ドの砂の重量は約1トン半)の砂利を処理するのに要する賀用を算定すると
(9) 次のようになるO
鉢による場合 20ドル 吊下げ揺監による場合 5ドノレ ロング・トムによる場合
水圧法による場合
1 ドノレ 5セント
従って,水圧法の利用によって労働生産性がいかに高かったかはこのこと によって明らかとなるであろう。
1860年代に入ると,砂金はほとんど掘り尽くされ,砂金地からの金の採取 はほとんど行われなくなるが,それに代って今度は,金鉱石からの金の採取
( 1 日 が,しかも資本主義的な生産方法で行なわれるようになった。
鉱石からの金の採取は,砂金地からのそれとちがって莫大な基礎資本が必 要であり,乙の事業にははじめから資本主義的な生産方法が入りこまざるを 得なかったのである。このことによって,金の供給は冒険的なあるいは偶然的 なものから「ヨリ規則正しいJ,しかも Iガッチリした基礎」の上に立つ ようになったのであるo
これらカリフオノレニア,オーストラリアの新産金は,銀に対する金の相対 価格を引下げ,複本位制のもつ,いわゆる補正原理のメカニズムを通して,
複本位国,特にアメリカとフランスに大部分吸収された。
乙れらの新産金が,アメリカとフランスの金銀貨流通構造にどのような影 響を与えたか,以下,金鉱発見前との対比においてみてわきたい。
(注)
(1) マルクス=エンゲノレス『マノレクス・エンゲソレス全集j](第7巻〉大月書居, 1961, 226頁。
(2) 同書, 227頁。
(3) エフ・ミハレフスキー『貨幣商品としての金』白鴎社, 1938, 139頁。 (4) 向者, 79頁。
(5) 同書, 92頁。
(6) J. L. Laughlin, The History of Bimetallism in the United States, New York, 1968, pp.1l5‑16.
(7) エフ・ミハレフスキー,前掲書, 126‑27頁。
(8) カリフオルニア,オーストラリア段階の採金技術にかんする詳細は,ミハレフ スキー,同書, 107ー37頁参照。
(9) 同書, 115頁。 (10) 同書 129頁。
第2節 アメリカにおける金銀貨流通構造の変化
アメリカの複本位制は, 1792年4月の「造幣局の設立および合衆国鋳貨の 規制にかんする法J(An Act establishing a Mint, and regulating the Coins of the United States)の制定に始まり,同法第9条によって鋳造さ る べ き 金 銀 貨 の 種 類 お よ び 量 目 , 金 銀 貨 の 交 換 比 率 は 次 の よ う に 決 定 さ れ た。
(1) 金銀貨の程類
金 貨 一 一lイーグノレ金貨, をイーグソレ金貨, 士イークゃル金貨
銀貨一一ー1ドjレ銀貨, 50セント銀貨, 25セント銀貸, 10セント銀貨 5
セント銀貨 (2) 金銀貨の量目
lイーグル金貨の純金の量目は247.5グレイン 1ドル銀貨の純銀の量 目は371.25グレインで,他の金貨,銀貨の量目もそれに準ずる。
(3) 金銀貨の交換比率
1イークツレ金貨は10ドJレ銀貨に相当するO
以上が1792年の貨幣法の金銀貨にかんする規定の主な内容であるが,これ 371.25 らの規定により,金銀の法定比価は以下のように算定されるO 一一一一〉く10
247.5
=15,即ち 1対15がアメリカの複本位制で採用された公定の金銀比価であ った。言いかえれば, 1792年の貨幣法は,比価がl対15になるように金銀貨 の量目を決定したのであるO それは,当時の市場比価がほぼ乙の水準にあっ
(1)
7こからであった一一一第4表参照。
第4表市場比価 1787‑1850
年17度87│比14価921年18度03│比 価 │ 年18度19│比15価3311年18度35│比15.
1
価:
1788 1 14,65 11 1804 1 J ト15.45111820 1 15.62 1 11 836 1 15.72 1789 14.75 1805 15.79 1821 15.95 1837 15.83 1790 15.04 1806 15.52 1822 15.80 1838 15.85 1791 15.05 1807 15.43 1823 15.84 1839 1792 15.17 1808 16.08 1824 15.82 1840 1793 15.00 1809 15.96 1825 15. 70 1841 15.70 1794 15.37 1810 15. 77 1826 15.76 1842 15.87 1795 15.55 1811 15.53 1827 15.74 1843 15.93 1796 15.65 1812 16.11 1828 1844 15.85 1797 15.41 1813 16.25 1829 1845 15.92 1798 15.59 1814 15.04 1830 15.82 1846 15.90 1799 15.74 1815 15.26 1831 15.72 1847 15.80 1800 15.68 1816 15.28 1832 15.73 1848 15.85 1801 15.46 1817 15.11 1833 15.93 1849 15.78 1802 15.26 1818 15.35 1834 15.73 1850 15.70 W.A.Shaw, The history of Currency 1252 to 1894, 2nd
アメリカはこ のように法定比 価を市場比価に 基づいて設立す ることによって 金銀貨の同時併 用をはかり,も って通貨不足を 解消することを もくろんでいた
(2) のであるo
しかし,乙の ような意図にも かかわらず,金 ed. New York, 1967, pp.158‑59. 銀比価は第4表 にみられるように,複本位制採用後まもなく,金に対する銀の相対価格の下 落によって上昇していった。このため,市場比価と公定比価は大きくヨJE離
し,金銀の投機的操作を通して,法定比価によって過少評価された金はアメ リカから流出し,代って過大評価された銀がアメリカへ流入してきたのであ るo
このような状態は, 1834年にアメリカが法定比価を変更するまで続いた。
それは,乙の年までアメリカの法定比価が市場比価を下回っていたからであ っfこo
われわれは,上記のような金流出,銀流入によって, 1793年から1833年ま でのアメリカの通貨の流通状態がどのような様相を呈していたのかを第5表 の金銀貨鋳造量をみる乙とによって明らかにすることができるO
第5表合衆国の金銀貨鋳造量 一見して銀貨の鋳造量が金貨 (※単位1,000ドノレ)
年 度 ! 金 │ 銀 11年 度 │ 金 │ 銀 1793‑5 71 370 3 17
1796 77 77 1816
. . .
28 1797 128 14 1817. . .
607 1798 205 330 1818 242 1,070 1799 213 423 1819 258 1,140 1800 317 224 1820 1,319 501 1801 422 74 1821 189 825 1802 423 58 1822 88 805 1803 258 87 1823 72 895 1804 258 100 1824 93 1,752 1805 170 149 1825 156 1,564 1806 324 471 1826 92 2,002 1807 437 597 1827 131 2,869 1808 284 684 1828 140 1,575 1809 169 707 1829 295 1,994 1810 501 638 1830 643 2,495 1811 497 608 1831 714 3,175 1812 290 814 1832 798 2,579 1813 477 620 1833 978 2,759 1814 77 561の鋳造量を上回っているのがわ かるが,それでも1814年頃まで 金貨の鋳造量が比較的多かった のは 1つにはナポレオン戦争 中 貿 易 収 支 が 黒 字 で あ っ た の と 1つには海外からの投資が
(3)
あったからであるo もし,乙の ような特殊な条件がなかったと すれば, 1814年前においても金 貨の鋳造量はかなり減少してい たはずであった。
1821年以後,金貨の鋳造量が 著しく減少しているのは,主要 には,この年から始ったイギリ スの正貨免換再開に原因があっ た。当時,合衆国銀行ボルティモ W. A. Shaw, op. cit. ,pp. 265‑66.
※引用者注, 1,000ドノレ未満の数字は省略。 ア支庖の支配人であったジョン
・ホワイトの財務長官,インガム(S.D.lngham)宛ての書簡(1829.11.16.付) によれば, 1821年以降におけるアメリカからの金流出はイギリスの通貨改革
、(正貨完投再開)によるものであり,そのために需要された金はおそらく (4)
2,000万ポンドを下らなかったO
イングランド銀行とすれば,金取引先として,アメリカがロンドン市場よ りも,またフランスよりもより好ましい相手国だったはずであるo な ぜ な らば, 1821年以後の市場比価は第4表にみられるようにアメリカの法定比価 よりも高く,フランスの法定比価も当時 1対15.5で,これもアメリカの法 定比価よりも高ったから,イングランド銀行はロンドン市場からよりも,ま たフランスからよりも少ない銀でアメリカから金を購入することができたか
らである。
たとえば, 1821年にイングランド銀行が,ロンドン市場とフランスから金 を買おうとすれば,金1I乙対して銀をそれぞれ15.95と15.5を支払わなけれ ばならないが,アメリカからであれば,銀を15支 払 う だ け で よ か っ た 。 即 ち,言いかえるならば,アメリカはイギリスの正貨免換再聞に際して,もっ とも安い金の供給地の役割を果したのであるo1821年以後,アメリカからイ ギリスへ向けて2,000万ポンドという巨額の金が流出したのは, まさに乙の ような理由があったからにほかならなかった。
さらに,アメリカの金はイギリスばかりでなく,フランスへも流出してい (5)
たふ o それは,当時のフランスの法定比価が既述のように l対15.5で,アメ リカの法定比価 (1対15)よりも金に有利に設定されていたからであるO 当 時,フランスも法定比価により金が市場比価よりも過少に評価されており 一一第4表参照一一,金流出の状態にあったから,アメリカからの金流入 は,フランスにおける金貨の減少をその限りにおいて緩和することができた という乙とができるであろうo
ちなみに, 1'193年から1833年までの両国の金貨の鋳造総額を示せば,アメ リカのそれがわずか1,180万ドノレにすぎなかったのに対し, フランスのそれ
(6) は2億ドノレ,即ち,アメリカの金貨鋳造総額の17倍以上であった。
しかし,アメリカの法定比価がフランスのそれよりも金に不利に設定され ていたという乙とは,逆にいえば,アメリカの法定比価がフランスのそれよ りも銀に有利に設定されていたということ,即ち,銀の「価格」を維持する
上において,アメリカの複本位制が果した役割の方が,フランスのそれが果 した役割よりも大きかったという乙とである。乙の点にかんし,新庄博氏は 11785年以来金銀比価をl対15.5に法定し,銀がで落すれば金を売って銀を 買い,金が下落すれば銀を売って金を買う操作を行ない,自ら防波堤とな って市場比価を法定比価によってリードせんとしたものはフランスにほかな
(.7)
らなかった。」としているが,しかし,この見解は, 1794年から1850年まで の銀下落の時期一一第4表参照一ーのうち1794一一1833年までの40年間(乙 の期聞におけるアメリカの法定比価はl対15)に限っていえば,アメリカ複 本位制の金銀比価安定化能力を軽視するものであろうD 事実は,以上述べて きたと乙とからも明らかなように,乙の40年聞に限っていえば,アメリカの 複本位制の方が銀の「価格」を安定させる上において,フランスのそれよりも 大きかったのであるo このよう芯意味において,もし,金銀比価の安定が
「金本位制の普及を妨げた一つの主な理由であったJ (小野一一郎教授,前 出引用より)とすれば,アメリカの複本位制が金銀比価の安定化のために果 した役割は軽視さるべきではないし,また過少評価さるべきでもないだろ つ。
ところで,このような状態にあったアメリカの金銀貨流通構造は, 1834年 および1837年の法定比価の変更によって新らたな局面をむかえる乙ととなっ 7こo
1834年6月;
r
合衆国の金貨および他の諸要綱にかんする法J (An Act concerning the gold coins of the United, States, and for other purposes)によって,金貨の量目は247.5グレインから232グレインに,即ち(8) 6.7パーセント引き下げられ, 法定比価は次のように変更された。
371.25
一一一一一‑X10=16.002,
232
この法定比価はさらに1837年1月