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フリードリヒ・ヘルダーリン (その2) テュービン ゲン時代

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フリードリヒ・ヘルダーリン (その2) テュービン ゲン時代

その他のタイトル Friedrich Holderlin [2]

著者 高尾 国男

雑誌名 独逸文学

巻 14

ページ A37‑A97

発行年 1969‑02‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00017902

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詩・︾国匡侭目蔭豆晨の国辱・で︑︾︑聾三巨己冠の異の冨号﹃ぐ騨閏ぐの翼の︾笏呂葛四員屋三日︒︒苦の葛四sの①口頭◎算ご且

弓胃昌︾⁝︽.と歌っているように︑苔蒸したテュービンゲン城の聾える小高い丘の麓︑その裾に沿うてネッカー河の

岸辺に逼る懸崖のほとりに︑その昔アウグスティン派の修道僧がその道場を建てた︒この僧院はまた一五三六年以

来ウルリヒ大公︵函の箇長己三s︶の命により︑領下の貧窮ではあるがしかし信仰の篤い子弟の教育機関として︑

学者並びに僧職につく人の教育に当てられた︒今日のテューピンゲン大学は︑この学院を母体として発展したもの

で︑一九三六年六月には学院創立四百年祭が催されている︒従ってこの古い歴史と伝統を誇る学院から輩出され

たドイツ精神史上特筆すべき人物は枚挙にいとまがない︒例えばかのガレリオ︵の四三go四三国︶と並び称せられ

る天文学者ケプラー負呂帝﹃︶などはその最も異色ある学者で︑その他神学者としてはベンゲル︵国の晨巴︶︑アン

ドレーエ︵鈩豆忌巴︑オイティンガー︵○妥晨閏︶︑シュレンプ︵︒言厨さ旨のg忌日耳︶等︑哲学者としてはヘル

ダーリンとともにテューピンゲンの三葉e愚乏gと呼ばれていたヘーゲル︵国侭里︶︑シェリング命冨罠晨︶

を始め﹃イエス伝﹄の著者シュトラウスe・軍.聾国二︶ブランク︵尻.o貢.型目鼻︶等︑美学者のフイシャー

︵蜀尉.弓戸三胃言︒︑詩人としてはうリッシュリーン︵甸凰駕三言︶︑メーリケ︵冨寄涛巴︑ハウフ︵国呂露︶等はそ

れぞれを代表している有名人である︒詩人へルダーリンもまた十八才の秋十月二十一日︵一七八八年︶僧職につく テュービンゲン時代

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運命のもとに︑神学教育の最後の仕上げを受けるためにこの学院に進んできた︒

ここで暫らくへルダーリン時代の学院の風習や精神に触れておこう︒同時代人の批判によると︑当時の院長シュ

ラー︵︒冨重国国卑.浮言弓①己は学生の思想の自由を妨げないばかりか︑寧ろそれを促進していたので︑学生

は好きなものを手当たり次第読むことができた︒ヴォルテール︵ぐ◎岸凰蔚︶を読んでいるところを押えられても少

しも恐れる理由はなかったということである︒かように精神上の自由ばかりではない・先きのデンケンドルフやマ

ウルブロンの僧院学校と違って学院内の訓練もまた自由であった︒それにもかかわらず学院内の生活は学生にとっ

ては必ずしも快適ではなかった︒建物は既に老朽に瀕しているし︑各所は損傷し︑各室とも不合理にできている︒

設備全体もまた不規則で︑便利︑明朗︑清潔等において欠けている点が多い︒思想の自由・訓練の自由は見られた

が︑まだ学院内の規則には学生の自由をしばしば制限している点もないではなかった︒例えば遠乗り︑スケート︑

武装︑舞踏︑喫煙等は固く禁ぜられていたのみならず︑学生の監督には補助教師︵学生と共同生活をし︑学問上並

びに道義上の助言者︶の外に助手もこれに当たったが︑彼等学生からは院長のスパイと見うれていた︒それ故︑ヘ

ルダーリンはこうした環境のもとで苦悩したことは当然である︒それは学院に来てから一年後即ち一七八九年の晩

秋の書簡にあらわれている︒﹁このような環境のもとでは身心ともに調子がわるくなるものですね︒いつも続く不

快︑拘束︑不健康な空気︑粗末な食事では︑自由な環境にあるときよりもはやく私の躯が弱くなることがお判りで

しょう︒私の気質をご存知でしょうが︑私の気質はこうした虐待や︑圧迫や侮蔑に堪えられないことははっきりし

ています︒これも気質というものですから︒﹂︵第六巻四十五頁︶

次に当時の詩人の風貌についても一寸描いてみよう︒ヘルダーリンの病歴を研究した医家ランゲ︵豆.冨巴・言.

F営需︶のいうところによると︑今日遣っている二︑三の詩人の肖像画に共通の特徴は︑沈鯵性であり︑哀歌的空

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想的であり︑優雅且つ柔和であると︒詩人の顔容についてはわれわれは何等の記述をもっていないが︑僅かに学院

当時の顔容を︑当時僅かに九オであったが︑後のボン大学の管理者となったレーフス

(R

eh

fu

B)

が次のように鮮や

かに描いている︒﹁不思議なことに︑あの音楽についてかの不幸なヘルダーリンより以外に︑私の記憶に残ってい

るものは一人もない︒彼は第一のバイオリンを弾き︑私は第一のソプラノ歌手として彼の傍らに位置をとった︒彼

の均整のとれた顔容︑彼の顔のやさしい表情︑彼の美しい体格︑彼の注意深い小ざっぱりとした衣服と︑彼の人柄

全体のうちにはっきりと現われているあの崇高さなどは︑常にわたくしの眼前に初彿としている︒手にバイオリン

をもち︑私が声を止めねばならぬときは︑いつも私にうなづくような表情をする彼は私の記憶に遣っている︒﹂こ

の短かい描写からわれわれは容易に︑曙のように朗らかに知の泉を現わしているような額︑その額からかきあげら

れた柔かいプロンド色の髪の毛︑固く結ばれてやや脹らみのある唇と︑乙女の頬を思わせるような柔かい線︑美し

い弓なりの眉毛のもとにほの光る雙眸などをもつ端麗楚々たる詩人を想像するであろう︒それ故黒染の衣に真白い

折り返しの襟をつけて静かに歩む彼のやさしい容貌からは︑心の堅さや︑心の慢りなどの片鱗をさえ想像すること

はできない︒寧ろ乙女らしい内気と︑内にかくされた感情の波は彼の人柄の全面において窺われるであろう︒され

ばこそ多くの寮友が詩人を見て︑﹁さながらアボロが広間をゆくようだ﹂と讃美したのも理であろう︒

僧院学校時代にはただ一人の親友をも寮友からは見出しえなかった彼も︑この学院に進むや二人の詩的才能のあ

る上級の学生に接触した︒即ちその一人はノイッファー

( L u d w i g N e u f f e r )

といって︑詩人よりは一年の年長者

であり︑既に一七八六年以来学院に学び︑一七八八年マギスターとなった人である︒ヘルダーリンはこの人と終生

心の友となり︑後年においても︑喜こびにつけ悲しみにつけ書簡をとりかわしている︒若し今日この書簡がなかっ

たとすれば︑われわれはヘルダーリンの精神生活の大半を見失なうことになったであろう︒ノイッファーは詩人に

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比して遥かに天賦の才は劣っているが︑厳粛な思想と︑詩の伝導者たらんとする点で本質的に詩人と相通じてい

た︒即ち彼は崇高な本性を有し︑優雅にして気品ある感情に満ち︑幽鯵の気分を多分にもち︑ヘルダーリンと同じ

くギリシア精神に対して強い熱愛をいだき︑自然を愛し︑クロップシュトック︑シラー︑シューバルトを崇拝し︑

はやくから讃歌を歌っていた︒しかし神学をいとう点でも両者は共通していたが︑彼は遂にミューズの女神に奉仕

するのを止めて︑一八○三年シュツットガルトの孤児院教会の司祭となり︑一八一九年から一八三九年彼の死まで︑

ウルムで牧師としてその職責を果たしている︒しかし無数の著作は可成りの成功をおさめ︑特に一八○九年の変名

の田園詩﹃田園の一日﹄同旨目品四旦号日匿ご号︶は相当の名声を博し︑フォス︵ぐ民︶に献呈されている︒また

一八一五年のヴィルギール︵量侭sの翻訳も世間の注目をひいている︒

もう一人の寮友はマーゲナウ︵罰屋号届富農g四巳と呼ばれ︑一七六七年の誕生であるからヘルダーリンよりは

三才の年長者である︒彼もまた一七八六年以来学院に学び︑文学を通してノイッファーやヘルダーリンと交遊を結

んだが︑彼自身には欠けて︑しかも友人のみにある特性を羨むこともなく︑機知に富める快活にして健康な青年で

あった︒彼もまたノイッファーと同じように僧職につき︑一八四六年へルマリンゲンの牧師としてこの世を去って

いる︒﹁なお私は友人︑特にノイッファーとマーゲナウと出来るだけ満足に日を送っていることをあなたに断言す

ることができます︒われわれは勤勉に机に向かっています︒それもそうせざるを得ないという理由からではなく

て︑研究の歓びが日が立つにつれて日日いや増してくるからです︒そういう訳で︑われわれは外の誰とも同じよう

に虐待にさらされることが少ないのです︒われわれ三人はまた他の人達よりも広い研究の分野を前途にもっていま

す︒詩の女神の息子達が偏えに哲学と神学との祭壇で犠牲になると︑直ちに詩の女神は気むづかしい顔をしますか

ら︒﹂︵第六巻五十四頁︶と一七九○年の六月母に告げている︒この手紙から見ても判るように彼等の友情は詩神を

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通じて結ばれたものである︒︵この辺の事情を最も詳細に伝えているのはマーゲナウのご庸言ロの号国璽︽である︒第

六巻一三六頁︶そして遂にゲッティンゲンの﹃森の詩社﹄︵⑦α三長の回国言言且︶をまねて︑彼等は︒雪鈩屋①馬︲

日目邑の津の巨己の︽・という同盟を結び︑毎木曜日に開かれる会合をご崔匡曾昌四目目の冨需壷・といっていた︒彼等はこの

日には心ずビール若しくは葡萄酒を飲み︑その主なる行事は新作の詩の公開に続いて相互に詩の批評を行ない︑評

判のよい詩は彼等の﹃同人の書﹄︵切巨且①の言呂︶に転載され︑これ等の本はまた回覧され︑互いに批評された︒の

みならず集合の度毎にある特定のテーマが提出され︑それが会員の誰かによって講義風に論ぜられた︒またこうし

たテーマが詩題として指定されたこともしばしばあった︒例えば﹁友情﹂︵淳の匡己のo富津︶﹁愛﹂︵屋の言︶﹁孤独と

静寂﹂︵固旨の四日汽鼻巨呂聾匿の︶というが如きテーマである︒ヘルダーリンの詩に﹃友情の歌﹄︵国&号﹃辱の巨巨︲

のo富津弓窒︶﹃愛の歌﹄︵巨星号民屋の富弓宅︶﹃静寂に寄せて﹄︵陸邑昌の聾筐のご篭︶という題名の詩のある

のもその時の記念物で︑これ等の詩篇はいづれも﹃同人の書﹄に掲載されている︒この書は革表紙天金の豪華なも

ので︑今日なおシュツットガルトの図書館に蔵められているということである︒これ等の詩はいづれも先きに影

響されたクロップシュトック風の調子を殆んど喪失して︑今や極めて強くシラーの影響が全面的に現われてきてい

る︒即ちヘルダーリンのこれ等の三つの詩︑特に﹃静寂に寄せて﹄はその対象を殆んど論文風に取り扱っていると

いうことは上述の提起された詩題の問題と連関してくる︒換言すればこれ等の詩は詩人自身の体験とか個人的な思

想・感情を歌っているのではなくて︑単に思想的観想を歌っているにすぎない︒しかしこれ等の詩がその後急速に

発展してくる﹃人類の理想に捧げる讃歌﹄につづく源をなしているという点は注目されねばならない︒

彼等の友情は休暇の問にも親密な交渉でつづけられ︑互いに訪問を楽しみ︑詩的書簡をとりかわしている︒一七

九二年の﹃ノイッファーヘの招待﹄︵同三畳巨晨四口z①昌嚴らはその一つの例である︒また彼等の友情の具体的な

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例としてマーゲナウが後年筆をとったという﹃想い出﹄の中から︑特に感激に溢れているラムヴィルト︵臣日日︲

葛三︶の庭園における一場面を記しておこう︒﹁われわれは小綺麗な園亭に迎えられた︒ラインの葡萄酒にこと欠

かなかった︒われわれは歓喜の歌を次ぎ次ぎに一人のこさず歌った︒ポンスの大鉢のためにシラーの﹃歓喜の歌﹄

を歌わずにとっておいた︒私はその大鉢をとりにいった︒ノイッファーはすっかり眠りこんでしまい︑ヘルダーリ

ンは室の片隅に立って煙草を喫っていた︒大鉢は煙りを立てながら食卓の上に立っていた︒すると歌が始まる筈だ

ったが︑ヘルダーリンは︑先づパルナスの神泉で一切の罪を清めなければならないということを所望した︒庭園の

近くに所謂哲人の泉が流れていた︒それがヘルダーリンの所謂パルナスの神泉であった︒われわれは園を通ってそ

こへゆき︑顔や手を洗った︒ノイッファーはゆうゆうと威厳をもってやってきた︒﹁みそぎをしないものはシラー

のこの歌を歌ってはならない/︐﹂と︑ヘルダーリンがいった︒そこでわれわれは歌った︒︒b厨の$の匿の号日彊蔚ご

⑦の宮︽︽の句にきたとき︑ヘルダーリンの眼に大粒の涙が浮かんだ︒彼は感激に燃えて盃を窓から外に高くさしだ

し︑︾︾豆$$Q尉号目彊詰国の里豊︾と戸外に大声をあげて歌ったので︑その声はネッカーの渓谷にこだました︒﹂

︵第六巻一三八頁︶この歌の・ゞ号吊碧誌のの再︽︽とは勿論ヘルダーリンにとってはシラーを意味していたに相違な

・こうした友情を楽しみながらも︑詩人はまたルイーゼとの恋愛をも続けていた︒しかしマウルブロン時代には常

に詩人の精神を暗くし︑その肉体を病的にするほど熱情的に胸にだきしめていた愛人の像も︑相見る日の少なくな

ってからは︑次第にその影も淡くなっていった︒しかしルイーゼは只管に愛人にのみ愛を捧げ︑まことに一七八八

年の降誕祭後間もなくヘルダーリンに与えた書簡は︑つつましい心のうちにもまだ初恋に燃える情火を湛え︑堅い

愛の結合を立証している︒﹁ああ︑愛するフリッッさま/︐私はここに腰うちかけ︑おん身の殆んどすべての玉章は

,。

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私の前にあります︒これは私の唯一の楽しみで︑私がただ独りおりますことのできるときは︑こよなく心地よく︑

幸福に感ぜられます︒はやまことに十二時の時は打ちましたけれど︑まだ読み倦きることはございませぬ︒ああ︑

これが私のいちばん好きな読み物です︒おん身のなつかしきお文のため︑わらわは悩みに悩みまして︑いく夜か寝

もやらぬことがありました︒でもおん身のお文はとてもわらわにはなつかしいので︑世界中の宝と換えることもい

たしませぬ︒あなたが私のものであることは何と幸福なことでしょう︒そして復活祭までもまだそんなに永く︑ま

だそんなに永くお目にもかかれず︑私にとってすべてであるかたとそんなに永く離れているということは:⁝・とは

いえ︑おん身は私のもの︑いつまでも私のものであるという考えは本当ではありませぬか︒愛するフリッッさま︑

おん身は私に対して冷淡にはなりませぬ︒いいえ/決して︒おん身こそはいっまでも︑最近私を訪れて下さいまし

た折の愛するフリッッさまでいらっしゃいます︒私はおん身のなつかしいお言葉をすべて覚えています︒それは深

く私の胸に感銘いたしております︒おん身もまたこの幸ある悦びをまだ呼びもどすこともできましょう︒私もまた

この幸ある悦びを夢にみることのできる幸福をいく度も味わっています︒何物にも換えられない素晴らしい夢を⁝

⁝僧院に通ずる高いところに立っていらっしったことをいまだにご存じでしょう︒私がしばしばあなたにお目にか

かったとき︑私を慕うて両腕をさしだしていらっしったすぎ去った時をいまでもよく覚えていらっしゃるでしょ

う︒ああ/︑何という光景でしょう︒あなたの黒い僧服︑すべてはまた以前の通りです︒ああ︑それは一場の夢でし

た︒幸福のときは過ぎ去ってしまいました︒その代わりに苦悩がでて参りました︒こうしたすべてのこの嘆きはな

ぜでしょうか︒私のフリッッさまは実にまだ私のものです︒フリッッさまはここにいらっしったときと同じように

今でも心がわりいたしておりませぬ︒ああ︑フリッッさまは今でも私のものでございます︒何物もあなたから私を

引き離すようなことはさせませぬ︒不幸も︑運命もあなたから私をひき離すようなことはさせませぬ︒ただあなた

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だけを私からひき離してしまいます︒そしていぶせき伏屋はいかに見すぽらしくとも︑私にとっては王国の思いが

いたします︒ああ︑あなたとごいっしょなら荊鰊の道も︑薔薇の花で散きちらされた感もいたします︒⁝⁝愛する

フリッッさま︑しばしばお便り下さいませ︒私は次の飛脚日を楽しみにしています︒私のフリッッさまからの近事

を手にすることができねば︑それは永い苦熱の日です︒さらばご機嫌うるわしく︑心地よくお休み遊ぱせ/・はやま

ことに夜も更けぬれば︒⁝:.﹂︵第六巻二七七頁︶

何と予感に富んだ重厚な乙女の真情を披瀝した書簡であろう/・感激に満ちて過去の幸福を呼号し︑現在の幸福を

掴もうとして力のかぎり戦おうとしている︒そして未来の幸福を得んとしてまた心から祈ってもいる︒捕えようと

してもいまだに捕えられない愛人の心に︑単純に︑しかも無邪気に彼女の全身全霊が向けられている︒これに対し

ヘルダーリンは再会を期してこう答えている︒﹁僕は君の腕の中で僕を待っているすべての幸福を名づけることは

できない︒文字は正に文字だ︒だから僕は寧ろ君をして︑いかにこの期待が僕の心を高めているかを感じさせたい

のだ︒﹂︵第六巻四三頁︶またのこ書簡の言葉から見ると︑学院に入学して最初の休暇に友人ナストのとりなしで︑

レオンベルクで再会の快楽を味わい︑その帰途甘い哀愁の涙を流したことも窺われる︒﹁君はレオンベルクのあの

幸福な時をいまでも思い出すかlあのすべての幸福な時を︑あの燃えるような甘い愛情の時を:::僕がレォンベ

ルクで過ごした数日はあまりにすばらしかったので︑今でもしばしば夢に見るぐらいだ︒ああ︑お別れの時だけ

は/︑甘い哀愁が僕の全心に澱がれて︑帰る途すがらそれは僕の心から離れなかった︒一三ルティンゲンの周囲の山

が見え出し︑レオンベルクの郊外の森がだんだんと僕の背後に影を没したときだけ︑淋しい苦痛の涙が眼からたぎ

りでて︑僕は永い間向こうを向いて立っていなければならなかった︒﹂︵第六巻四四頁︑一七八九年初︶

そして同年冬の書簡では既に彼は結婚を夢みている︒﹁ああ/︑われわれが永久に結合して全くお互いのために生

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それにもかかわらず︑一七九○年三月頃の書簡には︑早くも婚約破棄の決意が牢として抜くべからざる力をもっ

て表現されている︒勿論この手紙より先きに︑彼は苦闘と彼等の関係を変更しようとする決意を述べた手紙もあっ

たが︑それは失なわれているし︑また彼を慰める返事をルイーゼは書いている︒しかも彼女は弓国昌碕の偶侭のに

対して同感を寄せているし︑彼に自由を与え︑必要あらば指輪と手紙を返してくれともいっていたとされる︒﹁僕

はここに指輪と手紙とを送り返す︒これを保存しておけ︑ルイーゼよ/︐少なくとも僕達が全く僕達のために生き

て︑未来についての考えがわれわれの心を曇らさず︑何等の心配もわれわれの愛を妨げなかったあの当時の幸福の

憶い出として保存しておけ︒神も照覧あれ/ルイーゼょ︒僕は胸襟をうち開いていなければならない︒僕が君にと

ってふさわしい地位を獲るまでは︑君と結婚することができないことは︑僕の動かすべからざる決意である︒しか

し僕のできうる限りのお願いは︑君が約束した言葉によってではなく︑ただ君の心の撰択によってのみ君を拘束す

るということです︒やさしい︑大事なルイーゼよ︑君は僕に今までしばしば確言したように︑他の男性を愛するこ

とを不可能と思うだろう︒lだがしかし君の心情を求めようとする愛すべき青年も少なくはないだろうし︑また

君に求婚をしようとする尊敬に値する男性も少なくはないだろう︒君が一人の立派な男性を選んだら︑僕は悦んで

君の幸福を念願するつもりだ︒そのとき初めて君は︑この気むづかしい︑不機嫌な︑病弱な友達とならば決して幸

福にはなりえなかったことが判るだろう︒僕は君に僕の弱点を告白しよう︒ね︑ルイーゼよ︑僕の心にひそむどう 活するときは︑それは何と幸福な日でなければならないかlルイーゼよ/そのとき僕は君にたよって何かえられるだろうか︑l君は僕の悲しい時に僕を陽気にしてくれるだろう︒僕が負わねばならない重荷を僕のために和らげてくれるだろう︒僕が侮辱されたときに︑世間の人々と僕を和解させてくれるだろう︒君は僕にとってすべてであろう︒﹂︵第六巻四九頁︶

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することもできないあの幽諺はl僕を潮笑しないでくれ給えI全部が全部とはいえないまでも︑十のうち八︑

九までは︑満たされない功名心なのだ︒この功名心がいつか意のままになるならば︑すぐという訳にはゆくまい

が︑僕は全く明朗な︑嬉々とした︑幸福な人間になれるだろう︒そのときこそ君は︑なぜ僕が︑われわれの関係を

外面的に違った調子のものにしようと思って︑勿論唐突すぎる決意を懐くようになったのか︑その真の理由が判る

のだ︒僕は君を拘束しようとは思わない︒僕の永遠のあの念願がいつ実現するのか︑従っていつ僕が全く明朗に︑

嬉々として健康になりうるかが確かでないからである︒そしてこれが確かでない限り︑君は僕と全く幸福にはなれ

この書簡から察すると︑婚約破棄の理由として彼が考えていたことは︑彼の永遠の念願である詩神に奉仕する功

名心の実現の不安︑従ってこの婚約に対する何ともいいようのない圧迫感を伴なう不快である︒だが︑かかる自己

中心の理由で愛人を捨てうる愛は︑決して完全なものではないと難ずる人もあろう︒しかし当時のヘルダーリンの

神学研究を断念せんとする決意が熟してくればくるほど︑彼はこの婚約を姪桔のように感じ始めたと断言すること

もあながち失当ではあるまい︒というのは︑ルイーゼとの婚約を維持するためには︑できるだけ速やかに衣食の道

を講じなければならないし︑衣食の道を確かとうるためには当時の社会状勢から見ても︑僧職につくことが最も近

道であったからである︒従って彼もこの岐路に立って随分と思い悩んだことは前述の書簡からも十分察せられる︒

しかしこの僧職を呪う心が深まれば深まるほど︑彼の隻眸がいよいよ天上の詩神に向かい︑遂に彼はルイーゼとの

婚約を破棄せざるをえなくなったのであろう︒われわれはかかる恋の重荷を若きゲーテの場合にも知っている︒さ

ればこそ感情の点ではまだ十分克服されなかったヘルダーリンの心の底には︑恰も若いゲーテが過去の愛に対して

尽きぬ憧撮の征矢を向けていたように︑一旦見捨てた愛を涙をもって憶いおこしている︒ ないだろう︒⁝:些︵第六巻五一頁︶

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かつて心静かなりしとき憂いもなく

しづけき苔むす泉のほとりにうたたれし

シュテラの口吻を夢みたりI

ああ/われはいまなお苔むす泉の噴くほとりにうたたれし

ああ/われはいまなおシュテラの抱擁を夢にみぬ

︵﹃名誉に寄せて﹄︶

この書簡を受けとったルイーゼは別に愛人の決意を換えさせようと努力した形跡もない︒彼女は︑その後ほぼ二

年たって一七九一年の冬︑ルードヴィッヒ︵○・閃.F三三巴と婚約した︒詩はこのことを同年十二月の初め妹に

宛てた書簡の中で簡単に﹁僕の聞こえたところではマウルブロンのナスト嬢は︑彼女の死んだ義兄弟の弟と婚約し

た︒﹂︵第六巻七頁︶としるしている︒しかし母に対しては﹁あなたが知らせて下さいましたニュースのお蔭で︑あ

なたのご推定できる理由から︑私は大変安心いたしました︒古い恋は錆びません/私は何度も聞いたところでは︑

あの善良な娘はいつも私のことを忘れないでくれました︒l従ってもし私が二十一才の分別に従って行動しなか

ったならば︑恐らく私は再発に曝されたこともいく度かあったでしょう︒勿論私でも︑お知らせを聞いて暫らくの

問私のあわれな心臓がどきどきしたことを認めます︒しかしそんなことはこの場合にはどうでもいいのです︒つい

でに申しあげねばなりませんが︑私は決して求婚はすまいとこのところ久しくかたく決心しています︒あなたはこ

の点をとも角真面目にお受けとりになれます︒私の変てこな性格︑気まぐれ︑計画癖︑それに本当のことを申し上

げると︑私の功名心Iすべてこうした特徴は︑これを全く根絶するには危険を伴なうものですが︑私は静かな結

婚生活︑平和な牧師の職では幸福になれるなどとは望めないのです︒しかしそれは私の将来を変えることになるで

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しようよ︒﹂︵第六巻六八頁︶

彼のいう通り二十一才の分別盛りの青年として︑かなり落ちついた見識を叙べている︒これは一見嵐の過ぎ去っ

た後の静かな風景を思わせているが︑彼の心の底深く刻まれているものは︑彼の所謂功名心ともいうべき一途の︑

執勧な精神の高揚のみで︑静かな結婚生活や平和な牧師生活などは全然顧られていない︒

ヘルダーリンもまたゲーテのように胸にいだく恋の女神なくては︑自己の詩の焔を燃やすことのできない型の詩

人であった︒それ故マウルブロン時代にはこの聖像こそルイーゼであったが︑テューピンゲン時代にはそれはエリ

ーゼ・レープレット︵同房の房宮寓︶におきかえられた︒彼女の本名はマリー・エリーザベット︵冨胃房同房吾里ご

と呼ばれ︑一七八六年以来テューピンゲン大学神学部の教授兼大学管理官であったョ−ハン・フリードリッヒ

︵吉富ロ国司風呂国g︶の長女で︑一七七四年の生まれである︒また母方から見れば︑エリーゼは嗣円里塁胃異さ凰巴︐

鴇閏且誌である男爵フォン・ピューラー︵国胃目ぐ自国屋号○の孫娘であり︑シュツットガルトの匿月言邑︲

国扇島硫禺8﹃フォン・ホッホシュテッター︵ぐ目困月言篇言国︶の姪に当たり︑テューピンゲンの高名な学者シュ

トル︵塑呈︶やロイス︵罰の民︶教授の姻戚でもあった︒テューピンゲンで初めてへルダーリンに逢ったのは︑一七

九○年の秋のことで︑彼女はまだ十六才の乙女にすぎなかったが︑豊麗な肉体とあでやかな容姿の持主であったら

しい︒しかし彼女の性格は︑その弔辞の中でも讃められているように︑全く家庭愛に没頭して︑世俗の歓びなどは

念頭におかなかった︒それは彼女が神の摂理によって︑感能的なことなどに心を奪われることのないような境遇に

おかれていたからである︒そんな訳で彼等の恋愛も︑われわれに知られている限りでは︑はなはだ縢朧として両名

の間にとりかわされた愛の書簡なども今日一つも遣っていない︒彼等の関係を最も早く知り︑最も正確に伝えうる

境遇にあったシュワープGg弓筈︶ですら︑詩人のエリーゼに対する愛は報いられなかった筈はないが︑しかし

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乙女の両親はかような恋愛関係に反対していたから︑彼等の関係が非常に発展したとは思われないと述べている︒

われわれが彼等の関係を初めて知ることのできるのは︑当時シュツットガルトにいた友人ノイッファーの書簡︵一

七九○・一○・二四︶に対する返事の中である︒

この返事がいつ書かれたかは確証はむづかしいが︑従来はその年の十二月初め頃となっていたが︑十一月八日に

書かれたというのがベックなどの説である︒﹁僕は勿論そこで仕事をしていた訳ではないが︑ある競売の機会に彼

女に近づいた︒l最初はひややかな︑lそれから︑宥和的な眼眸︑lそれから会釈︑lそれから憶い出話し

やおわびなどl/両方からそういう風だった︒心に満足をおぼえて僕は立ち去った︒しかし少し冷静になってく

ると︑もとのように︑慎重居士をきめようと決心した︒そして今日まで僕の決心を忠実に守ってきた︒l即ち可

もなく不可もなくというところだ/別の機会に委曲をつくそう︒僕は永遠にストア学者に堕落してしまったのだ︒

それを僕はよく知っているのだ︒永遠の潮の干満︒⁝⁝﹂︵第六巻五六頁︶

この書簡に現われた︑どちらかといえば感激のない冷静な恋の報告と︑四年前にルイーゼに対して感じたときの

初恋の激情とは比較にならない︒これは相手の乙女の恋心の強弱︑マウルブロン時代との環境の相違にもよること

であるが︑寧ろ詩人が四年という歳月の間に︑人生の嵐に直面しても平常心を失なわない︑しかも心の干満に左右

されないストア哲学の道徳的理想を体得した結果と見るべきである︒しかしこの書簡に描かれている愛人との最初

の出会いから二︑三カ月の間に歌われた﹃わが恢復﹄︵富国月のg$匡信︶﹃リーダに寄せるメロディー﹄︵富里a耐

四国F己ら﹃リーダに寄せて﹄︵崔邑尉乱巴と呼ばれる所謂一群の﹃リーダ杼情詩﹄は︑ヘルダーリンの特性に基づ

く︑かの万有を抱括し︑宇宙的に規定された恋愛観から生まれたものである︒︵言○罵窓長評言号言巴含困三号甲

︸言巨呂函o冒空﹈・弓皇︼国竺号邑冒︲旨冨言9毛9.切届囮隠︶今まで悲歎にくれていた詩人が︑恋の歓喜にわれ

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(15)

を忘れて︑今や心境の変化を来たし︑愛人のように満足し︑善良で︑偉大たらんとする溢れるばかりの悦びと︑崇

高な勇気とを感じていることと︑これ等の詩は告げている︒しかし愛人の実際の人柄のうちどれだけが︑果してこ

れ等の詩の中に生きているかは断言できない︒恐らくこのリーダ杼情詩もはやくも一七九一年の春とともにその響

きをやめている︒しかし彼等の関係は一七九三年秋の大学卒業までつづき︑一度は真剣に結婚のことも考えられた

らしいが︑両者の問にはいつも心の角逐と失望と苦悩の影がつきまとっていたことも争われない︒その原因は両者

の社会的身分の相違にあるというよりは︑寧ろ両者の本性の相違にあると見るべきであろう︒即ち初恋を捨てて間

もなく育ったこの第二の恋は︑第一の場合とは全然異なった原音の上に築かれている︒第二の恋の相手は︑先のル

イーゼのように詩人を渇仰し︑また空想に耽るような︑やさしい没我的な女性ではなかった︒それ故エリーゼに対

する愛は︑詩人が一七九二年︑九三年ノイッファーに宛てた書簡の中でしばしば訴えているような︑虚無感や無感する愛は︑詩人が一七九二年︑L

激を癒してくれる力は全くない︒

﹁愛人が僕を遠ざけても︑僕は相変らず愛人の甘いきずなの中に捉われている︒しかし僕は二週間或いはそれ以

上愛の欠乏に悩まざるをえなかった場合も︑それは立派に償われるのだ︒昨日はそうだった︒愛と友情とは︑われ

われがすべての目標を手に入れる両翼であることを僕は日日確信している︒﹂︵一七九一・二・二八︑第六巻七○

頁︶と愛の欠乏を訴えながらも︑なお強く愛と友情とを求めている詩人の姿がここに想像される︒またエリーゼが

弟を介して手紙を返してくれと申し込んだとき︑詩人は弟に︑三リーゼに求愛した唯一人の人間でなかった間︑

いかに僕は愛人の軽心と侮蔑とを耐え忍ばねばならなかったか﹂と後年に至って沈諺に回想している︒︵一七九八・

二・一二︑第六巻二六四頁︶また一七九九年十月︑エリーゼがヘルダーリンの友人君.淳.○の誌寓長と結婚した

ことを母から聞いたときの返事に︑﹁わたし達はお互い本当にうまがあわなかったのです︒お互いが熱をあげたと

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(16)

き初めてお互いに知り合うということは.こうした若いときの知り合いでは︑恐しいことです︒私はこうしたこと

をヴュルテムベルグ滞在の最後の時代に強く感じていましたけれど︑あなたお自身がご存知のように︑軽率にこれ

を断ち切らないようにと心に固く決めていました︒︵一七九九・九・四︑第六巻三六二頁︶と書いて当時の心の悩

みを回想している︒要するに当時の詩人は一度は恋の焔に燃え上がったかも知れないが︑既に一七九三年︑テュー

ピンゲンの最後の年に友人ノイッファーに宛てた二回の書簡︵一七九三年︑復活祭頃︑七月初旬︶で︑﹁君はその

間にもレープレットに会ったかね︑それとも話しをしたかね︑知らせてくれ﹂とか﹁僕の愛人はまだ低地の君達の

ところにいるようだ︒僕は本当にしばしばあの娘がいないので寂しくなる﹂という簡単な言葉から見ても︑かよう

に愛人に対して信頼も薄らぎ︑情熱も醒めた詩人は.既にテューピンゲンを去る時分には︑結婚などの考えもなく

なってしまっている︒彼はそのことを当時ノイッファーに明かしているし︑一七九五年一月十九日のイエーナ時代

の手紙でもこれを繰り返し︑更にこういっている︒﹁彼女を知らずに︑僕の理想を彼女にうち込んで︑僕の無価値

を悲しんだあの時代は幸福な時代だった︒﹂︵第六巻一五三頁︶といっている︒

その後イェーナから一三ルティンゲンに帰ってから︑友人ノイッファーに﹁君の知っているこの奇怪な関係にと

どめをさすように僕の心を動かしたあの事情︑即ちこの夏シュツットガルトで僕になされたあの提案は今度こそ僕

に安心を与えてくれるだろう︒僕がテューピンゲンに出した勿論正しい︑誠実な最後の手紙に対して何の返事もな

い︒そして僕が手紙を出したのは僕が低地に旅立つ二︑三日前のことだった︒神のお蔭で僕の心が解放されたら︑

有難いことだ/・﹂Q七九五・一○︑第六巻一八二頁︶と︑愛人との関係が断絶したことを喜こんでいる︒こう見

ると両人の書簡の往復は一七九五年の秋までつづいたと見てよい︒その後一七九九年の十月︑エリーゼは︑ヘルダ

ーリンと学院以来の知己であり︑当時ヴォルフェンハウゼン︵三○馬g冨易目︶の僧職に任ぜられたぱかりのオス

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(17)

ターターク︵雲.卑.○駕閏冨巴と結婚したことは前に叙べた通りである︒その後彼女は夫とともに同旨圃葛の言品g

や露呂と転々したが︑一八三九年九月二十四日︑アイヒでこの世を去った︒

エリーゼとの恋は必ずしもヘルダーリンが望んだように順調には進まなかったことは︑既に叙べた通りである︒

﹁学院の寮の暗い壁の間に坐って︑ひたすら心の歓びの貧しさを思いl﹂︵第六巻七五頁︶また︑﹁沼のような全

然歓びのない無感激の底に沈んで︑ほとんど毎夜昔の僧房に坐って︑その日のいろいろな不愉快な出来事を憶って

は︑その日の過ぎ去ったことを喜こんでいるl﹂︵第六巻八○頁︶と友人に語っている︒こういう心の空虚をい

だいて︑一七九二年の復活祭の休暇を利用してシュツットガルトに友人ノイッファーを訪ねたとき︑その仲間の中

に一人の女性を発見した︒その後テューピンゲンに帰寮して直ぐに書き送った手紙の中で初めてgのご丘の⑦$冨岸

︵優にやさしい人︶としてこの女性に触れている︒﹁君と優にやさしいあの人とは気分のあかるい時によく僕に現

われてくる︒だが親愛な客が必ずしも全く親切な亭主を見出すとは限らない︒僕は僕の希望とは何のかかわりもな

くなってしまったがこれは僕の希望通りなのだ︒僕のいうことを信じてくれ給え︒美しい花は君のためにも咲く︒

人生の歓びという花環のうちでいちばん美しい花は僕のためにはこの世では決して咲かない︒こんなに美しい人︑

こんなにすばらしい人をこの世で知りながら︑随分と自負心の強い心に︑彼女はお前にきめられているのではない

と云わざるをえないことは勿論痛ましいことだ︒しかし少しは喜こんでもよい位幸福なときに︑永遠の歓喜を望む

ことは愚かなことでもないし︑恩知らずのことでもない︒親愛なる兄弟よ/僕は勇気を失なってしまった︒だから

過大な希望をいだかないのがいいのだ︒⁝⁝君が男の友達や女の友達といっしょになっているとき︑テューピンゲ

ンのこの憐れな若者も君達のところにいられたら︑どんなに幸福か考えてみてくれ給え︒そして君のできるとき︑

君の好むとき︑宣しくといってくれ給え︒楽譜を書き写したら︑すぐに送る︒僕はそれに添えて本当におろかな手

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(18)

紙を書くだろう︒彼女はどっちみち僕のことを︑おくつかつかいなどとは考えなかったかもしれない︒僕はいつも

とても無骨な態度をとっていたのだ︒僕はお別れのときお伴をするのをすっかり忘れてしまったことを思いだす

と︑これはしまったなと思うがね︒しかし前にもいったように︑僕は子供じみた希望にはかかわりはないから︑彼

女がこの病詩人のことを大声で笑っても︑そんなことは悲しいとも思わない︒しかしそれには彼女のたましいはや

わらかすぎて︑善良なのだ︒神かけて︑僕は永遠に彼女を尊敬するだろう︒彼女の人柄ににじみでるあの高い気品

と静かな態度はここらあたりの娘とはかなりの対照をなしている︒︹第六巻七五頁七六頁︶

この手紙の中でただ&の宮屋の⑦①の冨岸と書いてあるだけで︑どこの何という女性か︑この女性については何も

書いていない︒まして︑年令も︑どういう身分の女性かそれも皆目わからない︒しかし不思議なことには︑この名

も知れぬ女性についての書簡の表現を観察すると︑その少し前までは全く知らなかった筈の女性を表現する言葉と

してはまことに含蓄の多い︑精彩に富んだ描写である︒ことに現在の愛人エリーゼについて叙べている言葉と比較

した場合その感が深い︒それはこの名も知らぬ女性は︑手紙の中ではっきりいっているように︑詩人にとって︑エ

リーゼのもたない多くのものをもっていたろうし︑そのためには﹁人生の歓びという花環のうちでいちばん美しい

花を﹂失ないつつあった詩人の心を痛く捉えたからであろう︒この女性は︑その人柄ににじみでている宮屋︵優

にやさしい︶のgg︵美しい︶言﹃藍呂︵すばらしい︶の自浄︵ものやわらかな︶ぬ三︵善良な︶&里︵気品の高い︶

の三一︵ものごしの静かな︶というような形容詞で︑その外形と内面とがいいつくされうるような女性であることは

想像される︒もう一ついいうることは︑この女性は当時地域的詩人として名をなしていたノイッファーを中心とし

て集まっていた恐らく若い世代の人達の一人であったろうから︑文学とか音楽︑その他芸術に関心の深い女性では

なかったろうか︒﹁楽譜を書き写したらすぐ送る﹂という書簡の言葉からもそれは察せられる︒しかしヘルダーリ

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(19)

その年の夏の休暇にもヘルダーリンはシュツットガルトでその女性に会っている︒その後秋の休暇の始まる前に

彼はノイッファーに手紙を書いている中で﹁僕は君の手紙をいつもどんなに頚を長くして待っているか君には信ぜ

られないのだ︒それは何といってもまた一つの歓びだろう︒こういう状態では︑僕が決心していたようにたまさか

にあのやさしい︑美しい人を憶うというようなことは僕にとってむづかしいことは想像できるだろう︒僕は彼女に

全くそっと友情だけをお願いしたのだ︒それ以上の事を僕は望むことはできない︒﹂︵第六巻八一頁︶と書き︑最後

ひとことふたことに.言二言でも︑できるだけ彼女について知らせてくれ/・﹂と書いている︒この手紙から察すると︑先きの手紙

では高嶺の花のように一時はこの女性を諦めたものの︑矢張りテュービンゲンにおける酔生夢死の︑無為の生活に

耐え切れない詩人は︑この女性を忘れきれなかったと見るのが至当ではないかと思う︒

忘れようとしても忘れきれない︑諦めようとしても諦めきれないこの女性に対する詩人の哀切極まりない熱情を

こめて綴っている書簡を読む毎に︑不思議に思えるのは︑第一の恋人ルイーゼに対してはまだ稚拙とはいいながら

もシュテラ杼情詩の幾篇かを遣し︑第二の愛人エリーゼに対しては︑所謂リーダ杼情詩の一群を遣しているのに︑

この名もなき︑やさしい女性に対してはただ一篇の恋愛の杼情詩さえも遣していないことである︒当時は﹃自由に

捧げる讃歌﹄や﹃豪胆に捧げる讃歌﹄などの所謂讃歌群に熱中していた時代かもしれないが︑これほどに思いつめ

た麗人に対して杼情の詩魂は既に消え去ってしまったのであろうか︒しかし必ずしもそうとは思われない︒われわ ンは一方この女性に強くたましいを奪われながらも︑他方では﹁子供じみた希望とはかかわりはなどとか﹁彼女はお前にきめられていないのだ﹂とか甚だ消極的な態度をとり︑あまつさえ︑この女性に対して騎士的な態度はさておき︑病詩人の甚だ無骨な態度をとっているのは︑従来のヘルダーリンの態度から見て︑まことに不可解である︒

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れは一七九三年の夏には既に書き上がっていた﹃ウール・ヒュペーリオン﹄︹国民函壱の凰目︶をここで想起する必

要がある︒勿論この作は紛失して今は読むよしもなく︑従ってその内容を詳細に知る手段を全く失なっている︒しか

しその後二年︑即ち一七九四年シラーas室の﹃︶の主宰している﹃新ターリア﹄︵zの晨局弓冨言︶の第四巻で発

表した所謂﹃ヒュ・ヘーリオン断片﹄︵卑猛目の員ぐ○国国吾の風呂︶はこの原作の再生に違いない︒従って︑この﹁断

片﹂の中に出てくる女主人公メリーテ︵三里言︶の面影には︑どことなくシュツットガルトの名も知らぬ乙女の面

影が漂っているように感ぜられるのは︑既に原作﹃ヒュペーリオン﹄の中に︑この名も知らぬ女性を詩化して︑永

遠の像として遺そうという意図があったのではなかろうか︒﹁彼女はやさしく︑聖なる姿で私の面前に現われた︒

愛の尼僧にもたとえられよう︒光と匂いから織りなされたように霊的に柔和に彼女は私の前に立っていた︒彼女の

大きな︑霊感を受けた眼は︑神の尊厳を具えながらも静けさとこの世ならぬいつくしみにみち溢れた微笑を湛えて

いた︒朝焼けの光につつまれた雲のように︑春風にふかれて︑金色の髪の毛は彼女の額のまわりに波うっていた︒﹂

更にこのメリーテは完成作﹃ヒュペーリオン﹄においてはディオティーマとなって現われている︒ヘルダーリン.は

先きの手紙の中で︑この名も知らぬ女性の人柄を﹁高い気品と静かな態度﹂という二つの簡単な言葉で表現してい

るが︑この表現にこそ︑ヴィンケルマン︵三宮鼻の言目ロ︶がギリシャ芸術の特性を図式化して﹁気品ある簡素と

静かな偉大﹂という言葉でいいつくされている古典的人間像の理想の姿が描かれているのではないか︒即ちシュツ

ットガルトの影のような名も知らぬ女性の特性ともいうべき﹁気品と静けさ﹂の中に︑詩人は完成作﹃ヒュ︒ヘーリ

オン﹄のディオティーマの特性を暗示しているのではないか︒

ヘルダーリンは恋愛において詩的霊感を昂めると同時に︑詩界の先輩を通じて自己発展の素材を得んと努力する

ことも忘れなかった︒一七八九年の復活祭の休暇の終り頃︑シュツットガルトにノイッファーを訪れたとき︑彼の

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(21)

は︑﹁墓の中のシューバルトについて恐ろしい伝説が当地では広がっている︒

多分君は知っているだろうから︑知 らせてくれ︒﹂︵第六巻八一頁︶と︑シュツットガルトにいるノイッファーに手紙を出している︒その返事は勿論な い︒しかしその伝説は埋葬に関係のあることで︑当時の伝説によると︑この不幸な詩人は生埋めになったので︑地 下の咆り声に気づいて墓掘りが埋葬後の夕方︑棺を再び掘り出してそれを開けて見た︒するとその棺の中にシュー バルトは爪で血だらけにひっかかれたまま︑腹這いになって︑こと切れていたというのである︒

更にノイッファーはシューバルトの他に︑当時シュツットガルトで官房弁護士の職についていたシュトイトリー

シュワーベン詩人団

( S c h w a b i s c h e r D i c h t e r k r e i s )

の長老︑情熱の政治的詩人シューバルト

( F r . D a n i e l   S c h u b a r t

 

1733

  , 1 79 1)

i

kいの早平加安り埠安芸をもった︒もっともヘルダーリンはマウルブロン時代に手紙

の上での交際はあった︒これより先きにこの詩人は︑暴君を︑カール・オイゲン大公を非難した理由で︑

H

年から八七年の十年の間︑ホーエンアスベルグの配所に流嫡の身となっていた不幸な詩人であった︒

前︑この若い詩人が︑今は年更けて往年の意気を失なったこの老詩人を訪れた場面は︑当時母に宛てた書簡に描か れている︒﹁私がシューバルトのところに伺って︑父のようなやさしい心で親切に歓待されたことはすべてご存知 でしよう︒詩人はまたいろいろ私の両親のことを尋ねてくれましたし︑詩人というものはしばしば莫大な経費がい るものだが︑私もそれに対して適当に補助が得られるかと私に質問しました︒ーー←てして私がはいと答えると︑で きる限り神に感謝するようにと心をこめて私にすすめてくれましたので︑私はすっかり感激してしまいました︒こ ういう人の友達となることは︱つの歓びでしよう︒午前中いっぱい私は詩人のところで過ごしてしまいました︒﹂

ヘルダーリン

︵第六巻四五頁︶しかしこの著名な老詩人の価値多い知遇もヘルダーリンにとって永くはつづかなかった︒それ 一七九一年十月十日にこの詩人はこの世を旅立ってしまったからである︒その後約一年経って︑

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ン︵のo詳言匡卑.野営巳言弓認山己虫をヘルダーリンに紹介している︒彼は世俗の職につきながらも︑文芸へ

の偉大な奉仕者シラーともまた関係の浅くない人であった︒即ち︑それは︑シラーに対する文学者の反目を解決す

るにあたって︑一七八一年に彼は同情ある詩﹃死の誤報が伝わったとき︑シラーに寄せて﹄︵鈩国淫三房﹃︾巳の里月

毎厨&①z肖冨門貢ぐ目器言の白目○号の勗呂呈目言胃・︶を書いて公然とその反目を調停したことがあったからで

ある︒また彼自身小杼情詩集の著者であり︑一七八二八七まで出版し︑その後一七九二年に再刊した﹃詩華集﹄

の編者であったヘルダーリンにとっても︑種々の年刊詩集︑例えば﹃シュワーベン詩華集﹄as急ぎ厨の言里巨︲

目の己のの巴﹃シュワーベン年刊詩集﹄as葛琴胃言禺冨巨の①自四言色目g︺﹃詩華集﹄︵吾の房呂の里巨目①己ののの︶の

編纂者として意義深いものがあった︒就中︑一七九二年版の﹃シュワーベン年刊詩集﹄には﹃ミューズに捧げる讃

歌﹄を載せ︑一七九三年版の﹃詩華集﹄には︑﹃人類に捧げる讃歌﹄﹃美に捧げる讃歌﹄﹃友情に捧げる讃歌﹄﹃青春

の守護神に捧げる讃歌﹄﹃自由に捧げる讃歌﹄﹃愛に捧げる讃歌﹄﹃シュヴィーッ洲﹄等の所謂讃歌群を載せてい

る︒シューバルトの場合と同じように︑矢張りノイッファーの仲介によって︑一七八九年の復活祭の休暇に︑ヘル

ダーリンは初めてシユトイトリーンの客となり︑その後テューピンゲンに彼を迎えたとき︑ノイッファーに﹃まこ

とに素晴らしい人﹄︹の言弓筈三s富里甘言局三四自己︵第六巻四七頁︶と讃めたたえている︒詩人が人生の岐路

に立ったとき︑詩の女神に奉仕するように奨めたのもこのシユトイトリーンであった︒

かように彼は﹁シュワーベンのミューズに任える司祭﹂e言呂国舟話壗号局のg弓筈厨の富国冨巨のg︶としてシュ

ーバルトの生前は勿論︑また彼の死後もヴュルテンベルグ州の才能ある若い世代の人達の刺戟者となり︑故国シュ

ワーベンの疾風怒涛の文学を古典主義へと導いていった功労者でもあった︒彼はまたヘルダーリンの真像をよく認

め︑その上彼の一身上の世話までも心よく引き受けた︒ヘルダーリンにとって︑生涯の運命を決するほどの重大な

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(23)

個人的な出会いの一つであったシラーとの会遁︵一七九三年九月︶も︑このシユトイトリーンによってとりなされ

たのであるし︑またマティソン︵冨呉号厨○国︶に引き合わせたのも彼であった︒なおヘルダーリンがこの先輩と真

に心の友となりえたのは︑彼等がともに古代ギリシアに対して熱狂的な愛情を懐いていたためであった︒それなれ

ばこそヘルダーリンは︑その哀歌﹃ギリシア﹄︵の国の99匿口eを︑この友に捧げて︑本領を見失なった︑おくれ

てこの世に生まれてきたギリシア人として友を讃美している︒

ああ/.かのよりよい時代に生まれていたら

君の愛情ある心臓は︑あんなに喜こんで歓喜の涙を流した

民族のために︑あんなに兄弟のように︑激しく

あだには鼓動しなかっただろうに/

まあ待ち給え/神々しいものを牢獄から引きはなす

時が必ずやってくる/

死ね/高貴な精神よ/君はこの世で

仇に君の本領をさがしているのだ︒

﹃ギリシア﹄第九聯

所謂官房弁護士という世俗的な業務を司りながら︑広範な文壇活動を営み︑しかも多方面な教養と火花のような

熱烈な生命を保持していたこの凡俗ならざる人は︑そのためにまた痛ましい人生の末路を辿ったのである︒シュー

バルトの死後︵一七九一年十月︺︑彼の主宰していたクローニック名言o画弄︶の継承者となり︑政治的に急進的

な特徴を入れたので︑一七九三年の秋革命のの貝画曝として︑国外へ追放された︒しかし彼はブライスガウ︵国璽の︲

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彊巳のラール︵巨言︶で政治記者として再出発しようとしたが︑この最後の企図もまた水泡に帰し︑困窮と絶望

のあまり︑一七九六年九月十七日︑シュトラースブルグ附近のライン河に身を投じて死んだ︒

ヘルダーリンはまた学院時代の最後に︑シユトイトリーンを介して詩人マッティソン︵津・ぐ目冨四言冨の○国蜀臼︲

畠窒︶とも交遊を始めている︒この詩人は所謂感傷派︑古典主義の杼情詩人で︑当時カール・ヴィクトール・フォ

ン・ボンステッテン︵尻幽邑三陣日ぐo自国目冒騨①耳g︶の友として一七八七年から一七九四年にかけて︑南仏特に

リオン︵ごCeスイスを経て旅の途上にあった︒一七九三年六月二十一日︑スイスからシュツットガルトに到着︑

シユトイトリーンやノイッファーを伴って学院にヘルダーリンを訪れたのは同月の二十七日のことであった︒その

日の午後へルダーリンは﹃豪胆に捧げる讃歌﹄を彼等の面前で朗読した︒感極まったマッティソンは︑この天才あ

る詩人を抱擁した︒ヘルダーリンもいたく感激したのであろう︒その直後ノイッファーに与えた書簡の中で﹁忘れ

られぬ午後﹂︵第六巻八八頁︶としるしているし︑ついで九月︑弟に宛てた﹁僕は人類を愛す﹂と叙べているあの

有名な書簡の冒頭で︑﹁新しい知己をえた僕の歓びに君は関心を持たれるであろうことは推察ができた︒﹂と書いて

いるこの新しい知己とは︑この年の九月の末に初めて会ったシラーを指しているのでなくて︑勿論マッティソンと

の知己を指しているのである︒その後九年の間︑ヘルダーリンとマッティソンとの関係はどうなったか︑われわれ

はこれを知る資料を全然もたない︒しかし一八○二年の夏︑傷心の身を支えながら︑ボルドーから故国へと急いだ

ヘルダーリンが︑マッティソンを訪れたという伝説めいた話は︑今ここにその真偽を確証する術もない︒

学院在学の最初の二年間は規則に従って哲学の講義を聴いた︒しかし一七九○年の夏︑彼は自己の欲求から︑ギ

リシア精神に対して深い理解と感激とをもっていた助教師コンッ︵属幽堅弔宣言壱○目園弓亀屋雪︶のオイリピデ

ス︵同日冒号巴の悲劇に関する講筵にも侍した︒コンッは古代ギリシア精神の讃美者で︑既に一七八五年﹃ギリ

I

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シァ点描﹃as言閏亀目幽吊⑦風月言己目eを始め︑その他古代ギリシアの作品に関する種々の研究を発表し

ている新進のギリシア学者である︒同時に彼は当初の新興ドイツ文学に対しても深い感興をいだき︑シラーとはロ

ルヒ以来の竹馬の友であり︑既に戯曲﹃シュワーベンのコンラーディン﹄︹尻目﹃昌冒さ国の呂葛号目︶を発表して

いる作家でもある︒同時に言語学者でもあり︑哲学者でもあると同時にまた多くの古代文献の翻訳家でもあった︒

彼は精神の世界をその棲家とし︑卑俗の世界に反擁する天真燗慢な人柄であり︑その上心のやさしい︑素朴な性情

の持主であったので︑多くの人々に愛され︑人気があった︒こういう人であったので︑傾倒すべき良師をもたなか

ったヘルダーリンにとってはまさに﹁世界第一の人﹂a日富里の三目口さ旨旦閏言鼻︶︵一七九○年十一月︑妹

に宛てた書簡︒第六巻五七頁︶に違いなかった︒従って彼がコンッに対して激しい魅力を感じ︑この人の感化によ

ってヘラスに対する愛を深めたことは疑う余地がない︒特にマウルブロン時代にギリシア語とギリシア文学に対し

て強い傾心をいだいていた彼が︑ここに良師をえて益々深くギリシア精神の基底をなす所謂人間主義の根本思想を

自ら体験し︑それを究めんとしたのは当然の道程であろう︒

コンッの上述の著書﹃ギリシア点描﹄にみられる表現︑I私はこれを読む機会に恵まれていないが︑l﹁私

の最も心ひかれるのは東方の世界の素敵な美か︑それともそれにもましてしばしば私の心を引きつけるものは︑あ

の美しいイオニアの空のもと︑あの快い島々や︑チテエレァの母となった国士の人間の力の偉大な端初である︒な

ぜならば︑この国は美の国であり︑美の全般的な偉大な祭壇であったからである︒l私はギリシアをいっている

のだ︒﹂は︑その観方︑表現の方法は勿論︑その文章の抑揚に至るまで︑ヘルダーリンの﹃ヒュペーリオン﹄と哀

歌﹃ギリシア﹄への橋渡しをなしていると︑ミヘルが叙べているが︑︵﹃ヘルダーリンの生涯﹄五五頁︶この見解は

なるほどと思われる︒

60

(26)

さてドイツにおけるギリシア精神の復興は︑先づ﹃古代芸術史﹄︵⑦$・罠の言①号尉尻目留号の鈩言壗冨目の弓霞︶

の著者︑ヴィンケルマンによってその開拓の第一歩は進められた︒彼はドイツ神秘主義より出発し︑キリスト教的精

神を一般人間的なものによって打破し︑根元的純粋性を有するギリシア精神を再興し︑これによって近代精神史上に

一時期を画した偉大な芸術史家である・彼のいうところによれば︑身体的なものが全然霊化し︑感興的なものが完

全に蘇生するとき︑換言すれば観念と感興的現象︑主観性と客観的表現︑統一と多様性とが完全に一致調和すると

き︑初めて物質を超越して精神︑心霊が最高のものに止揚される︒しかもその調和は感興的な自然の美には現われ

ないで︑理想の美の世界︑即ち人間精神の創造力によって支配される芸術の世界に現われる︒かような理想の美を

ただ古代ギリシア人のみが現わし︑ついでイタリア文芸復興の巨匠ラファエル︵詞呉毎匹匡認と認eミケランジェ

ロ︵言の言置晨のざ匡計︲園霞︶等が古代ギリシア芸術に忠実に追従したとき︑初めてこの理想の美を表現しえたの

である︒かく精神的なものと︑感興的なものとの均整︑一致︑調和が古代ギリシア人の芸術に表現されていたがた

めに︑鑑賞者の心に強く響くものは︑崇高な超現世的な神的な静謡︵詞晨の︶というかの偉大な特徴である︒即ち

ギリシア芸術の一般的に秀でた特徴は︑﹁高貴な簡素と静かな偉大﹂︵の己の同旨昏岸巨己の三庁のa汚︶とである︒

そしてその特徴を文学において表現し︑ドイツ古典主義の栄光のもとに全人類の精神界を永久に支配した偉人は︑

ゲーテとシラーとであった︒即ちこの二大詩人は︑古代ギリシアの世界に深く沈潜して︑一はギリシア的美とキリ

スト教的優雅とを調和せる﹃イフィゲーニエ﹄︵言三鳴昌の︶を創造し︑他は埋もれた過去のギリシアに対する憧慢

を﹃ギリシアの神々﹄a茸詰﹃の国のgのロ冨己の︶の世界に馳せた︒そして理論家としてのコンッはヴィンケルマン

の﹃古代芸術史﹄に動かされて︑ギリシア及び哲学一般︑美学︑文学に関する著書﹃ギリシア点描﹄と﹃哲学︑趣

味及び文学に関する諸論文﹄S異墨需窒民弔言さg冒蔚.︒$9日四呉巨且伊言国富吊弓霊︶とを書いている︒

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