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『同志社大學豫科學生會誌』『自由詩人』のころの鄭芝溶

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Academic year: 2021

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口頭発表当日の発表原稿については、シンポジウムに先立って、2014年6月半ばよりインターネットで公開している。http://hatano.

world.coocan.jp/kaken 2/kaken25-27index.htm

平成25年10月5日第64回朝鮮学会大会懇親会において、鄭芝溶の日本語詩を研究しているという方にお目にかかったことがある。本稿は 国会図書館で偶然目にした『自由詩人』収録の作品の重要性への認識から作業を始め、鄭芝溶と親交のあった児玉実用が関係した『同志社 大學豫科學生會誌』収録の作品までも確認した次第であるが、本稿を準備するなかで、この方が鄭芝溶の日本語詩で知られていないものが ある点や学生たちの雑誌に鄭芝溶が作品を若干載せているということについて言及されていたのではなかったかとの記憶につきあたった。

ついては、本格的な作品の検討はこの方の研究を待つことにし、本稿では筆者が知りえた範囲での作品一覧と本稿で必要と思われる、ごく 大枠での作品の言及にとどめたい。恐縮ながら、この方のお名前を失念してしまい、その作業の進展のほどは確認できない。あるいは筆者 が未調査の論文や口頭発表などの中に、すでにこの方の研究成果が出ている可能性も大いにある。お名前をここに記すことができないこと についてこの方にお詫び申し上げるとともに、情報をお伝えくださったことについてこの場を借りて感謝を申し上げたい。鄭芝溶の作品の うちまだ知られていなかったものについては、この方が先駆的に作業を始められていたものであることを強調しておきたい。ハンギョレ新 聞のインタビューにおいてもこの点については強調したうえで掲載していただいた経緯がある。

以下、同人誌名・作品名や詩の引用などにあたっては、可能な限り当時の表記に従うが、印刷の都合上、引用に支障がないと思われる範 囲でやむなく新字体などを用いている部分もある。

このときに言及した「風」(『毎日新報』, 1944.1.31)は筆者の錯誤により一覧表に入れてしまったが、鄭泰炳による訳詩であった。鄭芝 溶の詩を日本語に訳したものは多く、それはそれで別途検討の必要がある部分である。ここで訂正しておきたい。

1942年の『聲』誌の作品がこれに該当する。

ただし、日本語詩と朝鮮語詩を対照すると表現に違いが見られるものは多い。また、日本語作品でも詩を重複して発表した場合に改作さ れたものが多い。

1

1. はじめに

 筆者は平成26年7月5日(土)に新潟県立大学で開催 されたシンポジウム「植民地期朝鮮の文学・文化と日本 語の言説空間(2)」において「鄭芝溶と『自由詩人』」

というテーマで口頭発表を行ったことがある。その際、

これまで知られてこなかった鄭芝溶(1902 ~ 1950 ?)

の日本語作品を少なからずあらたに紹介し、京都に留 学した当時の鄭芝溶を取り巻いた交友関係や文学環境な どを中心に言及した。これに関して韓国のハンギョレ新 聞が平成26年7月28日に報道、さらに筆者が言及した作 品はすべて韓国で崔東鎬編『鄭芝溶全集1・2』(2015)

に収録され、また金東禧氏によって「정지용과 『自由詩 人』(鄭芝溶と『自由詩人』)」(2015)、 「정지용의 일본 어 시(鄭芝溶の日本語詩)」(2015)という論文に資料 的にまとめられるにいたった。

 こうした整理も重要であるが、とりわけ日本留学時代 の従来の鄭芝溶の理解において抜け落ちていたように思 われるのは同人活動への認識である。鄭芝溶は『街』同 人を経てその同人のうち詩を主として書くメンバーらに よってあらたに作られた『自由詩人』誌の同人となって いる。あわせて同時期に彼は『同志社大學豫科學生會誌』

にも詩を発表したのであった。本稿では、大枠として 京都時代の『近代風景』への投稿(1926.12-1928.2)に

至る以前のころ、すなわち1925年から1926年ころの時期 の鄭芝溶と同人との関係、あるいはこのころの詩の傾向 の大まかな理解をはかることを目標としたい。この部分 の理解は、鄭芝溶の習作の検討ともなりうるであろうし、

彼が決して日本詩壇に『近代風景』を通じて突如として 登壇した詩人であったわけでもないことを示すことにも なりうるものと思われる。

2.鄭芝溶の日本語詩 2-1 作品一覧

 鄭芝溶の日本語詩作品一覧については、拙稿「정지용 의 일본어 작품 일람(鄭芝溶の日本語作品一覧)」

(2015)で一覧を提示したことがある。したがって、さ きの紹介に重複してしまうこととなるが、若干の訂正 や、平成26年度のシンポジウムの段階では把握していな かった作品もあり、あえて再度、日本語作品一覧を提 示しておくことにする。以下、日本語詩を記し、あわせ て日本語詩に対応する朝鮮語詩を提示する。「×」印の ものは該当する朝鮮語詩が現在のところ見当たらないも のである。拙稿(2001)で作品一覧に入れることがで きなかった作品については○印をつけた。改作を含め日 本語作品で複数回発表しているものは(重)印、未見の ものには(未)印をつけた。未見であっても題名のみで

『同志社大學豫科學生會誌』『自由詩人』のころの鄭芝溶

熊  木     勉

(   )

(2)

하타노 세츠코(2011:552)の学籍簿参照。一方、二松学舎大学の芹川哲世前教授より、鄭芝溶は1923年4月16日同志社専門学校神学部に入 学し、その後、家庭の事情により予科に移ったとの情報をうかがったことがある(平成27年7月5日の面談による)。第一次資料を筆者が直接確認してい ないので、まずは参考として触れておくにとどめたい。予科入学が中途半端な5月3日という点もこれで整合性はとれるわけで、事実の 可能性が高い。それにしても、同志社大学を6月30日に卒業したというのはやや奇異ではある。하타노 세츠코(2011:647)に写り込んだ 鄭芝溶と同学年の卒業生と思われる者の卒業日は1929年3月21日である。通常であれば3月の卒業ということになるのであろう。既存の研究でも 3月卒業というのが通例となっているものの、6月の卒業については同志社大学の学籍簿で確認でき、誤りはないはずである。可能性とし ては、成績表の卒業論文の欄に点数が二つあり、一つは60点、もう一つは77点と付け加えて書かれており、2で割った大体の平均点であ る69点が卒業論文の点数になっているところから見て、あるいは卒業論文で「仮卒業」のような形になり、再提出を求められたのかもし れない。口頭試問のことを考えると点数が二つあることに違和感はないが、卒業論文の点数の記載のみが既定の欄を枠外にまではみ出 して別途、複数の点数が記されているのはやや不自然ではある。正確なところは分からない。ちなみに、これについての考察は사나다 히로코(2002:174)でもなされている。사나다 히로코は鄭芝溶が宗教(天主教)に没頭していたためという説を踏襲している。宗教への没 頭とそれに伴う卒業論文の遅れというのは矛盾するものではなく、両方ともにありえた可能性があることであろう。

1925年

新羅の柘榴,『街』, 1925.3 柘榴, 『朝鮮之光』, 1927.3 まひる,『街』, 1925.7(重) ×

草の上,『街』, 1925.7 ×

○カフツエー・フランス, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1925.11(重)카페ー・프란스,『學潮』,1926.6

○車窓より,『同志社大學豫科學生會誌』, 1925.11 汽車,『東方評論』, 1932.7

○いしころ, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1925.11 조약돌,『東方評論』, 1932.7

○仁川港の或る追憶, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1925.11(重)슬픈印像畵, 『學潮』,1926.6

○シグナルの燈り, 『自由詩人』1925.12 ×

○はちゆう類動物(一九二五・六月・朝鮮線汽車中にて。), 『自由詩人』1925.12 爬虫類動物,『學潮』, 1926.6

○なつぱむし, 『自由詩人』1925.12 ×

○扉ドアーの前, 『自由詩人』1925.12 ×

○雨に濡れて, 『自由詩人』1925.12 ×

○恐ろしき落日, 『自由詩人』1925.12 ×     

○暗い戶口の前, 『自由詩人』1925.12 ×     

○詩・犬・同人(散文), 『自由詩人』1925.12 ×

1926年

○遠いレール, 『自由詩人』1926.2(重)(未) [×?] 

○歸り路, 『自由詩人』1926.2(重)(未) [×?] 

○眼, 『自由詩人』1926.2(未) [?]  

○まつかな機関車, 『自由詩人』1926.2(重)(未) 샛밝안機關車, 『朝鮮之光』, 1927.2か?]

○橋の上, 『自由詩人』1926.2(重)(未) [×?] 

○幌馬車, 『自由詩人』1926.2(重)(未) [幌馬車, 『朝鮮之光』, 1927.2か?]

○山もりのむすめさとのおとこ, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.2 산엣 색씨 들녁 사내, 『文藝時代』1926.11

○公孫樹, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.2 ×

○夜半, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.2(重) ×

○雪, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.2(重) ×

○耳, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.2(重) ×

○チャップリンのまね, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.2 ×

○ステッキ, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.2 ×

○螺旋形の街路, 『自由詩人』1926.3(未) [×?]

○笛, 『自由詩人』1926.3(重)(未) 피리, 『詩文學』, 1930.5か?]

判断して重複しているものと考えられるものにさしあた り(重)印をつけたが、今後確認が必要である。

 なお、参考までに記しておくと、鄭芝溶は1923年5月

3日同志社大学予科入学、1926年4月1日同志社大学予 科修了英文科入学、1929年6月30日同卒業である

(3)

詳しくは後述するが、「海邊」は三つに詩が分かれており、最初と最後の部分は『近代風景』ではそれぞれ別作品となっている。中間部分は「海 邊」でのみ確認できる。

『全同志社』は『同志社大學豫科學生會誌三周年記念』号である。

3

○酒場の夕日, 『自由詩人』1926.3(重)(未) 저녁해ㅅ살, 『詩文學』, 1930.5か?]

○窓に曇る息, 『自由詩人』1926.4(重) ×

○散彈のやうな卓テーブルスピーチ上演說-亡國・頹廃・激情のスケツチ-, 『自由詩人』1926.4 ×

<せんちめんたるなひとりしやべり(散文以下三篇)>

○停車場, 『自由詩人』1926.4 ×

○退屈さと黒眼鏡, 『自由詩人』1926.4 ×

○日本の布團は重い, 『自由詩人』1926.4 ×

[○朴濟瓚「雨の夕暮れ(朝鮮の詩)」[鄭芝溶翻訳] , 『自由詩人』1926.4 ×

○初春の朝, 『自由詩人』1926.5(重)(未) 이른 봄 아츰, 『新民』, 1927.2

○原稿紙上の夜行列車(京釜線の汽車にて)(散文), 『自由詩人』1926.5(未)×

○雨蛙, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.6 ×

○海邊8, 『同志社大學豫科學生會誌』, 1926.6(重)  바다, 『朝鮮之光』, 1927.2

○窓に曇る息, 『全同志社』, 1926.11(重) ×

○橋の上, 『全同志社』, 1926.11(重) ×

○眞紅な機關車, 『全同志社』, 1926.11(重) 샛밝안機關車, 『朝鮮之光』,1927.2

○幌馬車, 『全同志社』, 1926.11(重) 幌馬車, 『朝鮮之光』, 1927.2 かっふえ・ふらんす, 『近代風景』, 1926.12(重) 카페ー・프란스, 『学潮』, 1926.6

1927年

海,『近代風景』, 1927.1(重) 바다, 『朝鮮之光』, 1927.2 海,『近代風景』, 1927.2(重) ×

海,『近代風景』, 1927.2(重) 바다, 『朝鮮之光』, 1927.2 みなし子の夢, 『近代風景』, 1927.2 ×

悲しき印像畫, 『近代風景』, 1927.3(重) 슬픈印像畵, 『學潮』, 1926.6 金ぼたんの哀唱, 『近代風景』, 1927.3 船醉, 『學潮』, 1927.6 湖面, 『近代風景』, 1927.3 湖面, 『朝鮮之光』, 1927.2 雪, 『近代風景』, 1927.3(重) ×

手紙一つ, 『近代風景』, 1927.3 (散文) ×

幌馬車, 『近代風景』, 1927.4(重) 幌馬車, 『朝鮮之光』, 1927.2 初春の朝, 『近代風景』, 1927.4(重) 이른 봄 아츰, 『新民』, 1927.2 春三月の作文, 『近代風景』, 1927.4(散文) ×

甲板の上, 『近代風景』, 1927.6(重) 甲板우, 『文藝時代』, 1927.1 まひる, 『近代風景』, 1927.7(重) ×

遠いレール, 『近代風景』, 1927.7(重) × 夜半, 『近代風景』, 1927.7(重) × 耳, 『近代風景』, 1927.7(重) × 歸り路, 『近代風景』, 1927.7(重) × 郷愁の靑馬車, 『近代風景』, 1927.10 ×

笛, 『近代風景』, 1927.10(重) 피리, 『詩文學』, 1930.5 酒場の夕日, 『近代風景』, 1927.10(重) 저녁해ㅅ살, 『詩文學』, 1930.5 眞紅な機關車, 『近代風景』, 1927.12(重) 샛밝안機關車, 『朝鮮之光』, 1927.2 橋の上, 『近代風景』, 1927.12(重) ×

1928年

旅の朝, 『近代風景』, 1928 2 ×

馬1, 『同志社文學』1928.10 , 『朝鮮之光』, 1927.9

(   )

(4)

10 『聲』は日本天主公教出版社から刊行されていた雑誌で、鄭芝溶が詩を寄せた1942年9月号は朝鮮の天主教を特集として扱った号であった。

しかし、ここで鄭芝溶の名で発表されている3編の日本語詩は、鄭芝溶の1920年代の言語用法とは明らかに異なり、鄭芝溶の自らの訳とし ては若干の違和感がある。鄭芝溶の名前で発表されている以上、彼の作品とすべきであろうが、翻訳者の存在の可能性を考慮して慎重を期 す必要はあることであろう。

11 鄭芝溶の日本語作品については鴻農映二(1988)および김학동編『鄭芝溶全集1.2』(1988:2版)で紹介され、박경수(2000[李修京訳:2005])、

拙稿(1992・2001)、斉藤真理子(2000)、사나다 히로코(2002[同氏博士論文、吉川凪(2007)名で刊行された単行本もおおむね内容を同じくする])

などで検討が試みられたことがある。

12 『同志社文學』掲載作品については김학동編(1988)収録、『街』『空腹祭』については호테이 토시히로(1996)で紹介されている。

13 シンポジウムの発表原稿ですでに明確に示したように、『自由詩人』と鄭芝溶の関係についてはいち早く天野隆一(1976[外村彰編:

2013再録]:35)に鄭芝溶の名が見え、佐々木靖章(2005:105)が同誌の成果を整理している。また、外村彰(2013:785)も鄭芝溶の名 に触れている。

14 筆者が確認したのは『自由詩人』全5号のうち、第1号と第4号だけであるが、佐々木靖章氏が「『自由詩人』『京都詩人』目次と解題」(2005)

で同誌全目次を整理されており、鄭芝溶の詩や散文の題名は確認できる。佐々木靖章氏の功績についてはシンポジウムですでに言及し、筆 者がハンギョレ新聞とのインタビューでもっとも強調した部分でもある。

15 この数字には未見の作品は含めていない。未見の詩で題名が他作品と重複しないものとしてほかに詩1編、散文1編がある。また、『同 志社大學豫科學生會誌』と『自由詩人』の両誌に掲載され他では確認できない詩が1編(「窓に曇る息」)ある。

16 『空腹祭』に掲載された「かっふえ・ふらんす」は『近代風景』掲載分と一致するのでここでは引用しない。『空腹祭』は同志社大学の後 輩たちの文芸誌で、鄭芝溶が作品を提供した形であろう。

 鄭芝溶が北原白秋主宰の『近代風景』に詩を投稿、掲 載され、その後、同誌で20数編の詩と2編の散文を発表 していることについてはよく知られている11。このほか すでに指摘されてきたように『街』『同志社文學』『空腹祭』

でも詩を発表した12。平成26年、シンポジウムで筆者が 明らかにしたのは『同志社大學豫科學生會誌』と『自由 詩人』掲載分の作品である13。鄭芝溶は『同志社大學豫 科學生會誌』に17編の詩を寄せており、『自由詩人』に は19編の詩と3編の散文、1編の翻訳詩を寄せている(未 見の作品を含む14)。『同志社大學豫科學生會誌』に掲載 された詩のうち、ほかに日本語で重複して作品を掲載し ているもの、および朝鮮語による発表があるものを除い た詩、すなわち他誌に掲載されていない同誌でのみ確認 できる詩は4編、『自由詩人』では同7編、散文が3編 である15

 鄭芝溶の作品群において、すでに知られている作品も 含め日本語詩が一定数存在することもさることながら、

日本語詩でも朝鮮語詩でも重複する詩が見当たらない作 品が上記の2誌で詩11編、散文3編存在すること、重複 する作品においても改作や朝鮮語詩との比較において確 認を要する部分があることなど、今後、鄭芝溶の日本語 詩のさらなる検討が必要であるように思われる。

2-2 改作・異同・新しく知られた日本語詩

 鄭芝溶が『同志社大學豫科學生會誌』と『自由詩人』

に発表した作品を念頭に、この時期の詩の傾向の大まか な理解をはかるとすれば、まず、すぐに意識されるのは、

詩の改作の問題、朝鮮語詩との異同の問題ということな どになろう。あわせて日本語でのみ確認できる詩の検討 も、特徴的な作品については確認が必要であるものと思 われる。さしあたり、この三つの部分について見ておく ことにしたい。

 鄭芝溶が日本滞在中に書いた日本語詩の中でこれまで もっとも注目されてきたのは「かっふえ・ふらんす」(『近 代風景』1926.12)ではなかろうか。この詩については、

今回、『同志社大學豫科學生會誌』での掲載が確認でき たので、この詩のその後の変遷をまずは確認しておこう。

若干長くなるが、この詩が発表された5回のうち『空腹 祭』掲載分を除く16、4回の掲載について全文を引用す ることとする。

 

馬2, 『同志社文學』1928.10 2, (『鄭芝溶詩集』1935.詩文學社 収録)

1929年

かっふえ・ふらんす, 『空腹祭』, 1929.9(重) 카페ー・프란스, 『學潮』, 1926.6

1942年10

勝利者金アンドレア, 『聲』, 1942. 9 勝利者金안드레아, 『가톨릭청년』16호, 1934.9 不死鳥, 『聲』, 1942.9 不死鳥, 『가톨릭청년』10, 1934.3

臨終, 『聲』, 1942.9 臨終, 『가톨릭청년』4, 1933.9

(5)

5

(1)『同志社大學豫科學生會誌』(1925.11)

カフツエー・フランス    (一)

異國種の棕梠の下に 斜に立てられた街燈。

カフツエー・フランスに行かう。

こいつはルパシカ。

も一人のやつはボヘミヤン・ネクタイ。

ひよろ〵 〳

痩せたやつがまつ先きに立つ。

夜雨は蛇の目のやう細い ペイブメント

石に び泣く燈あかりの散ひ か り

カフツエー・フランスに行かう。

こいつの頭はいびつの林檎。

も一人のやつの心臓は蟲ばんだ薔薇。

野良犬のやうに濡れたやつが飛んで行く。

   (二)

『おゝ鸚パロツト鵡さん! グツドイヴニング!』

『グツドイヴニング!』

― 親おやかた 御氣げん如何です? ―

チ ウ リ ツ プ金香嬢さんは

今晩も更紗のカーテンの下で お休みですね。

私は子爵の息子でも何んでもない 手が餘り白すぎて哀しい。

私は國も家もない

大理石のテーブルにすられる頬が悲しい。

おゝ 異國種の仔犬よ つま先きをなめてお呉れよ。

つま先きをなめてお呉れよ。

(2)『學潮』(1926.6)

카페-・프란스    A

옴겨다 심은 棕梠나무 미테 빗두루 슨 장명등。

카페4 4-

・프란쓰4 4 4 에 가자。

이 놈은 루파스카

4 4 4 4

한놈은 보헤미안4 4 4 4 네ㄱ타이。

적 마른놈이 압장을 섯다。

밤ㅅ비는 배ㅁ눈 처럼 가는데 페이브메ㄴ트4 4 4 4 4 4 에 흐늑이는 불빗。

카페

4 4

-

・프란쓰

4 4 4

에 가자。

이 놈의 머리는 갓익은 능금。

한놈의 心臟은 벌레먹은 薔微。

제비 처름 저진 놈이 뛰여간다。

   B

「오- 파로트(鸚鵡) 서방! 굿 이부닝!」

이 부 닝!

-이 친구。 엇더 하시오?- 추립브(金香)아가씨 는 이밤 에도

更紗 커4-

4 미테서 조시는 구려。

나 는 子爵의아들 도 아무것도 아니란다。

남달니 손 이 희여서 슯흐구나。

나 는 나라도 집도 업단다。

大理石 테이블

4 4 4

에 닷는 내 ㅁ이 슯흐구나。

오오。異國種 강아지 야 내 발을 할터다오。

내 발을 할터다오。

(3)『近代風景』(1926.12)

かっふえ・ふらんす

“おお 鸚ぱろつと鵡さん!グツド・イヴニング!”

“グツド・イヴニング!”

― 親おやかた御氣げん如何です? ― ちゆうりつぷ金香嬢さんは

今晩も更紗のかあてんの下で お休みですね。

私は子爵の息子でも何でもない。

手があんまり白すぎて哀しい。

私は國も家もない。

大理石のていぶるにすられる頬が悲しい。

(   )

(6)

おお異國種の仔犬よ

つまさきをなめてお呉れよ。

つまさきをなめてお呉れよ。

(4)『鄭芝溶詩集』(1935.10)

카 ・ 란스

옴겨다 심은 棕櫚나무 밑에 빗두루 슨 장명등、

카 ・ 란쓰에 가쟈。

이놈은 루비쉬카

또 한놈은 보헤미안 넥타이 뻣적 마른 놈이 압장을 섰다。

밤비는 뱀눈 처럼 가는데 페이브멘트에 흐늙이는 불빗 카 ・ 란쓰에 가쟈。

이 놈의 머리는 빗두른 능금 또 한놈의 心臟은 벌레 먹은 薔微 제비 처럼 젖은 놈이 뛰여 간다。

   ※

「오오 패롵(鸚鵡) 서방! 꾿 이브닝!」

「꾿 이브닝!」(이 친구 어떠하시오?)

鬱金香 아가씨는 이밤에도 更紗 커-틴 밑에서 조시는구료!

나는 子爵의 아들도 아모것도 아니란다。

남달리 손이 히여서 슬프구나!

나는 나라도 집도 없단다

大理石 테이블에 닷는 내뺌이 슬프구나!

오오、異國種강아지야 내발을 빨어다오。

내발을 빨어다오。

 以上、4回の掲載でもっとも大きな違いは、カフェに 向かう自身と友人らの姿を描いた前半部と、カフェで自 らの心情を描いた後半部のうち、『近代風景』掲載の詩 が前半部を省略している点であろう。ほかに、綴り字や 分かち書きの違いなどは除き、注目できそうな変化を一 覧にしてみると次の通りである。

掲載誌 ①題名 ②前半部 ③後半部 ④区切り記号

同志社大學豫科學

(1925.11)[日本語]生會誌

カフツエー・フランス いびつの林檎 チ ウ リ ツ プ金 香 嬢 さん / カーテン/テーブル

/つま先き

(一)(二)

野良犬のやうに濡 れたやつが飛んで 行く。

學潮(1926.6)

[朝鮮語]

카페 -・프란스 페이브메ㄴ트4 4 4 4 4 4에 흐 늑이는 불빛

갓익은 능금 이부닝?」(活字大・

太字)/―이 친구 엇더하시오? / 발을 할터다오

A B

제비 처름 저짖 놈 이 뛰여간다 .

(1926.12)近代風景

[日本語]

かっふえ・ふらんす なし ち う り つ ぷ金香嬢さん/か

あてん/ていぶる / つまさき

なし

鄭芝溶詩集

(1935.10)

[朝鮮語]

카 ・ 란스 페이브멘트에 늙이 는 불빛

빗두른 능금 「꾿 이부닝?」(太 ゴシック体)/

이 친구 어떠 하시 ?) /내 발을 빨 어다오

제비 처럼 젖은 놈 이 뛰여 간다 .

(7)

17 詩に2回同様の間違いがある。

18 もちろん、『鄭芝溶詩集』で濃音の表記の現代語との違いや造語、意図的な綴り字の変化や分かち書きの工夫などは多くみられるが、少 なくともこの題名の表記法はいささか異質である。ただし、散文では、わずかだが、こうした激音表記が存在する。

19 主に흐느끼다と흐늘거리다の両方の意味を含む語として理解されている(たとえば유종호(1995[2014])など)が、いずれにしても意図的な造 語であるとすれば、意味をそれなりに広くとらえる必要があることであろう。

20 仲間を朝鮮人留学生とする意見もある。例えば최원식(2001[2012]:190)など。

21 彼は「雨に濡れて」で雨に濡れてぶるぶると震える姿を描いている。

22 対応関係としては、ルパシカを着用した人物が頭がいびつの林檎とされた友人であり、ボヘミアンネクタイをした人物は心臓の蟲ばんだ 薔薇(デカダンを指す?)とされた友人、まっさきに立つひょろひょろに痩せた人物が、野良犬のように濡れた者ということになるのであ ろう。ひょろひょろ痩せた人物と野良犬との組み合わせは必ずしもしっくりと来ないので、朝鮮語詩で燕に変えたのかもしれない。

 題名の表記(上記一覧表①)については、日本語では、

『同志社大學豫科學生會誌』の「カフツエー・フランス(下 線は筆者による)」は鄭芝溶の誤解であろうか17。『近代 風景』ではひらがなを用いることで、モダンな印象を与 えるとともに柔らかなイメージを醸し出す視覚的な効果 を狙っているように見える。朝鮮語では、『學潮』のほ うが『鄭芝溶詩集』よりもむしろ通常の綴りの感がある。

『鄭芝溶詩集』は何らかの意図を題名に反映させた可能 性があるのかもしれない。1935年ということを考えると、

新しい、というよりはわざと風変わりな表記を用い、多 少古い感じを与えることで、かえってモダンなイメージ を喚起させようとしたということなのかもしれない18  前半部(同上②)での異同はどうだろうか。「흐늑이는 から「흐늙이는」への変化が特異であるが、鄭芝溶が意 図的にそうしたのか、単なる誤植なのかは分からない。

造語をしばしば用いている鄭芝溶であるだけに、意図的 な表記である可能性が高そうである。これについては、

사나다 히로코(2002:116)が指摘したように「이것으 로 연상되는 말은 흔들린다, 흐너지다, 흐느끼다, 흐느적 거리다, 흐늘거리다 등이며 모두 다 불길함과 불안정함을 암시하는 말이다」という理解が妥当であろう19。ただし、

日本語詩を見るとこの部分は「咽び泣く」であり、この 行が「敷ペイブメント石に び泣く燈あかりの散ひ か り光」とかなり凝った表現に なっていることは、日本語詩においても鄭芝溶の言葉の こだわりがうかがえる部分として注目しておきたい。

 一方、「갓익은 능금」から「빗두른 능금」への変化 については、これまで若干の議論が存在してきた。しか し、現在のところ鄭芝溶がもっとも早くに発表した形で ある『同志社大學豫科學生會誌』では「いびつな林檎」

とされているのが確認できるわけである。この意味する ところは、当時の学生たちの思想傾向や、赤い林檎の色 から考えて社会主義と何らかの関係があることは間違い ないものと思われる。それがいびつであるということは、

単純に読めば、何らかの主義について歪んだ理解をして いるということになろうか。鄭芝溶はおそらく当初それ を未熟なものとして「갓익은 능금」としたが、のちに 意図的誤謬としての色彩の濃い「빗두른 능금」にわざ と変えたのではなかろうか。

 それにしても、カフェに向かった彼らが鄭芝溶の友人 であるとすれば、何たる皮肉であろう。あるいはこの詩

を友人である当人たちも読んだはずである。何たる疎外 感であろう。ちなみに、佐々木靖章(2005:106)は、『自 由詩人』の中心人物であった児玉実さねちかの直話として同人 たちが「コマドリ喫茶室」をもっともよく使っていたと 記している。ほかにも、佐々木(同:106)は『自由詩人』

に掲載された広告に甘泉堂、リリオ、柏屋茶寮という喫 茶店の名が見えるとする。プランタン(寺町二條下ル東 側)の広告も見える。フランス風という点では、『自由 詩人』の広告に見られるコマドリ喫茶室あるいはプラン タンともにフランス風を意識した店であった(図1、図 2参照)。

 この時期のカフェは、喫茶店的な要素も残す文化的な 空間であると同時に、文化人たちが好んで集う場所でも あった。女給のサービスを中心とするような店も存在し たが、『同志社大學豫科學生會誌』に鄭芝溶がこの詩を 発表した1925年の時期、京都においては、店にもよる であろうがおおむねまだ退廃的な感はそれほど強くは なかったように思われる。カフェ・フランスという店の 実在の如何は分からない。いずれにもせよ、1925年から 1926年ころは鄭芝溶にとっては『同志社大學豫科學生會 誌』と、同人誌『自由詩人』の時代であったと言える。

カフェに向かった仲間たちは、おそらく『自由詩人』に 集った同人たちであった可能性が高いのではなかろう か。かりに同胞であれば、彼はまた違った詩の書き方を したのではなかったろうか20

 また、この前半部の最終行を見ると、「野良犬のやう に濡れたやつが飛んで行く」という部分の「野良犬」が、

朝鮮語では「제비(燕)」になっていることに気づく。

推測の域を出るものではないが、これは鄭芝溶自身を映 し出している可能性はないだろうか。自虐性をところど ころに見せるこの時期の彼の詩を考える時に、「野良犬」

と自らを卑下することは充分にありえたようにも思われ 21。朝鮮語詩で「野良犬」ではなく、雨を避け急いで カフェに駆け込む燕のような姿に書き換えたのは、惨め な自らを投影させるのをやめ、別の友人の姿に置きかえ たことに伴う変化であったのかもしれない。正確なとこ ろは分からない。しかし、「野良犬」と「燕」はあまり に印象が異なる。あるいは、単純に友人を描きつつ「野 良犬」という表現よりは、より軽薄な印象をこの人物に あてようとしたのかもしれない22

(   )7

(8)

23 表現として『學潮』では「이 부 닝!」となっており、『鄭芝溶詩集』では「꾿 이브닝!」となっている違いもある。

24 あくまで既存の詩に対する破壊的な形式に対してのことであり、ダダイズムの精神が反映されたかとなると話は異なってくる。その意味 で、朝鮮のダダイストは高漢容や一時期の林和などにほぼ限られると言ってよいのかもしれない。京都時代の鄭芝溶もその精神に「感染」

した面があったように感じられる。

25 一方で、권영민(2004:251)のように異論も存在し、見解が一致しているわけではない。

26 カフェで常連客を「鸚鵡」に例えて呼んだことは、簾想渉の小説「万歳前」にもうかがえることが、권영민(2004:251)で指摘されている。

 後半部(同③)の、

1) 「おお 鸚ぱろつと鵡さん!グツド・イヴニング!」

2) 「グツド・イヴニング!」

3) ― 親おやかた御氣げん如何です? ―

『近代風景』版を部分引用(番号は筆者による)

の部分では、『近代風景』で、ルビが従来カタカナであっ たものをひらがなにしたり、単語の後ろに間隔を置いて いた部分をなくすなどのごくわずかの違いがあるのみ で、さほどの異同はない。しかしこの部分は朝鮮語詩に なると、ダダの影響であろうか、一部、突如として活字 に変化が加えられることとなる。2)は『學潮』では活 字が大きく文字も太い。『鄭芝溶詩集』では太ゴシック 体である23。ダダイズムは日本で1920年代前半から中ご ろまで多く試みられているので、『學潮』(京都學友會発 行)の時期には、まだ朝鮮語詩としては新しい表現とい う意識があったのかもしれない。

 なお、朝鮮にダダイズムが移入されたのは1924年ごろ で、以降、ダダイズムの影響を受けた詩が少なからず試 みられた24。鄭芝溶のこうした表現は、部分的ではあれ、

その先駆けの一部ということになるのではないか。また、

東京を中心に大きく拡大したダダイズムを京都にあった 鄭芝溶が受け入れつつも、日本語詩では比較的落ち着い た雰囲気を志向し、一方で朝鮮語詩では新たな表現とし て活字の大きさに変化を加えるなどの試みをした「使い 分け」は、鄭芝溶が日本詩壇、朝鮮詩壇をそれぞれに意 識した表現技法であったと言えるのかもしれない。

 一方で、後半部の始まりの対話の部分は極めて難解で ある。上記引用の1)・2)・3)の発話者が誰であるか は決して単純ではない。「鸚ぱろつと鵡さん!」は文字通り鸚鵡 への呼びかけ、朝鮮語詩で活字に変化を加え「꾿 이브 닝!」(『鄭芝溶詩集』)としたことについては鸚鵡の声を このように表したとする解釈が多い25。しかし、「패롵

(鸚鵡) 서방!」(『鄭芝溶詩集』)という呼び方に若干の違 和感がなくはない。鸚鵡におどけて「서방!」と呼ぶこ ともありえないことではないが、続く「鬱金香 아가씨」

との表現から見ても、特定の人物の特徴をとらえて呼ん でいる可能性も排除はできないように思われる。店の人 や友人、あるいは鄭芝溶自身までも含めて、誰かの特徴 を鸚鵡に例えた可能性26、「꾿 이브닝!」が鸚鵡に限らず 話者の発音の仕方や声の大きさまでを含めた表記の可能 性、さらには日本語詩では「―親おやかた御氣げん如何です?

―」が朝鮮語詩では「이 친구 어떠 하시오?」となって いる部分の読み方も単純ではなさそうである。おそらく、

話者をどう仮定するかによって複数の解釈が可能となる ことであろう。問題提起にとどめざるを得ない。

 また、日本語詩で、『同志社大學豫科學生會誌』では

「カーテン/テーブル/つま先き」という表現を用いた ものが、『近代風景』では「かあてん/ていぶる/つま さき」とひらがなになっている点も目につく。「鸚鵡」

のルビも前者では「パロツト」、後者では「ぱろつと」

である。『近代風景』への投稿にあたって、言葉をさら に洗練させ、モダンかつ視覚的効果を高めて、詩の完成 度を上げた印象を受ける。『近代風景』への投稿で、詩 の前半部が完全に削除されているのも特徴的である。言 葉を可能な限り節制すべく、背景となる空間を一か所に 絞ったと言えるのであろう。『鄭芝溶詩集』ではあらた めて前半部を生かしているが、これは詩の流れをやはり 分かりやすくするための再処置であったと言えるのでは ないか。

 ところで、「異國種の棕梠の下に/斜に立てられた街 燈」や「おゝ 異國種の仔犬よ/つま先をなめてお呉れ よ」といった「異國種」という詩語には鄭芝溶の何らか の思いが反映されているように感じられてならない。朝 鮮語詩では前者はこの言葉は意訳されるが、後者は日本 語詩、朝鮮語詩、両方ともに「異國種」そのままに使わ れている。「異國種」という言葉に、詩人の内面に染み 入るある種の同類意識のようなものがあったのではない か。それは単なる南蛮趣味やモダンへの志向ではない、

話者が受けていた日本の都市や仲間たちからの疎外感、

あるいは孤独といった類に通底するものであったように 思われる。

 これとも通じるが、「내 발을 할터다오」と「내 발을 빨어다오」の違いもごく小さい変化であるが、後者のほ うが異国に生きる哀しみと慰めをより肉感的に表したも ののように感じられる。

 この詩には「國も家もない」者としての孤独感と疎外 感があり、親しいはずの友人とも必ずしも通じ合えず、

異国種の犬に慰めを受ける、自虐的な感情が映し出され ている。日本語詩、朝鮮語詩、それぞれに言葉の選択を 慎重に行い、繊細に組み立てられた詩という印象である。

 一覧表には前半部と後半部を区切る番号の書き方を④ として羅列したが、これはさほど深い意味があるとも思 えない。詩の前半部と後半部の提示の仕方をどうするか という点でその時その時で、鄭芝溶が判断した記号であ

(9)

ろう。しいて言えば、(一)(二)では前後の連続性が強く、

それがA・Bとなり、さらには前半部が削除され、最終 的には「※」となる流れを見ると、前半部と後半部の連 続性と詩としての独立性にかかわる面があるということ は言えるのかもしれないが、大きな問題ではなかろう。

 同じく、『同志社大學豫科學生會誌』に発表された詩 が『近代風景』に掲載され、帰国後に朝鮮語詩として

『鄭芝溶詩集』に収録されているものに、「海邊」があ る。この詩は詩の構成の変遷という点で興味深いもので ある。『朝鮮之光』64号(1927.2)の「바다」もあわせ て引用しておくことにする。

(1)『同志社大學豫科學生會誌』(1926.6)

海邊

こちらをむいてくるひとは なんとなくなつかしさうなひと。

わかりさうなすがたのひと。

だんだんまちかくなると まるつきりみもしらぬひと。

ぼくはよそつぽをむいてすなをまく。

   ○

なにか忘れられぬものもあるだらうか。

忘れられぬやうなことはほんの少しもない。

ほんにつめたい砂のやうなこゝろだよ。

はまかぜしほかぜにさらされて とんぢまつたよ。とんぢまつたよ。

ほんに少しの砂つぶのこゝろも。

   ○

しめつぽい浪のねをせおつて一人で歸る。

どこかで何物かゞ泣きくづれるやうなけはひ。

ふりむけば遠い燈臺が ぱち ぱちと瞬く。

鷗が ぎい ぎい 雨を呼んで斜すぢちがひに飛ぶ。

泣きくづれてゐるものは燈臺でも鷗でもない。

どこかに落された小い悲しいものゝ一つ。

(2)『近代風景』(1927.2)

こちらをむいてくるひとは なんとなくなつかしさうなひと。

わかりさうなすがたのひと。

だんだんまぢかくなると まるつきりみもしらぬひと。

ぼくはそつぽをむいてすなをまく。

 海

しめつぽい浪のねをせおつて一人で歸る。

どこかで何物かが泣きくづれるやうなけはひ。

ふりむけば遠い燈臺が ぱち ぱち と瞬く。

鷗が ぎい ぎい 雨を呼んで斜すぢかひに飛ぶ。

泣きくづれてゐるものは燈臺でも鷗でもない。

どこかに落された小さい悲しいもののひとつ。

(3)『朝鮮之光』64号(1927.2)

바다

오・오・오・오・오・소리치며 달녀가니 오・오・오・오・오・연달어서 몰아온다。

간밤에 잠설푸시 먼-ㄴ 뇌성이 울더니 오늘아츰 바다는 포도비츠로 부푸러젓다。

철석・처얼석・철석・처얼석・철석・처얼석 제비날아들듯 물결 새이새이로 춤을추어    ○

한백년 진흙속에 숨엇다 나온드시 긔치럼 녀프로 기여가 보노니

머-ㄴ푸른 한울미트로 가이업는 모래밧。

   ○

외로운 마음이 한종일 두고 바다 를 불러-

바다 우로 밤이 걸어온다。

   ○

후주근한 물결소리 등에지고 홀로 돌아가노니 어데선지 그 누구 씰어저 우름 우는듯 한기척、

돌아서서 보니 먼 燈臺가 작 작 박이고 갈메기 루룩 루룩 비를불으며 날어간다。

우름우는 이는 燈臺도 아니고 갈메기도 아니고 어덴지 홀로 어진 이름도모를 스러움이 하나。

― 一九二六・六月・京都 ―

(4)『鄭芝溶詩集』(1935.10)

바다

(   )9

(10)

27 『近代風景』(1927.1)「海」は次の通り。「0-0-0-0-0 といつてかかると/0-0-0-0-0 とよつてくる。// ゆうべ微まどろみ睡のうち初はつかみなり を聴いた。/けさは海が葡萄いろにふくらんでゐる。// ざぶ ざぶ ざぶ ざぶ ざぶ/浪の間に間に僕は燕のやうに踊る。/★/蟹を まねてよこさまに匍ひ歩く。// はてしなき靑空の下/いちめんに砂が晴れてゐる。」

28 このような詩として、ほかに「雪」などがあげられる。

29 ごく断片的ではあるが、拙稿(2001)でも日本語詩と朝鮮語詩の表現の傾向の違いについて触れたことがある。

30 未見の作品は含んでいない。改作の如何を問わず重複分は1編として計算。「海邉」は『近代風景』で「海」として2編に分けられるが 1編とする。「せんちめんたるなひとりしやべり」は散文1編とする。これを前提に、朝鮮語詩なしで日本語詩だけが存在する鄭芝溶の詩 をあげると、「まひる」「草の上」「シグナルの燈り」「なつぱむし」「扉ドアーの前」「雨に濡れて」「恐ろしき落日」「暗い戶口の前」「公孫樹」「夜半」「雪」

「耳」「チャップリンのまね」「ステッキ」「窓に曇る息」「散彈のやうな卓テーブルスピーチー上演說-亡國・頹廃・激情のスケッチ-」「雨蛙」「海邊」「橋の上」「み なし子の夢」「遠いレール」「歸り路」「郷愁の靑馬車」「旅の朝」があり、散文としては、「詩・犬・同人」「せんちめんたるなひとりしやべ り(停車場、退屈さと黒眼鏡、日本の布團は重い)」「手紙一つ」「春三月の作文」があるということになる。既存の研究で知られている『近 代風景』『街』収録の作品もここに含めた。

후주근한 물결소리 등에 지고 홀로 돌아가노니 어데선지 그누구 씨러저 울음 우는듯한 기척、

돌아 서서 보니 먼 燈臺가 반짝 반짝 깜박이고 갈메기떼 끼루룩 끼루룩 비를 부르며 날어간다。

울음 우는 이는 燈臺도 아니고 갈메기도 아니고 어덴지 홀로 떠러진 이름 모를 스러움이 하나。

 最初の『同志社大學豫科學生會誌』における「海邊」

では、三つの場面が描写されているのに対し、『近代風景』

では「海」という題名のもと、「海邊」の一番目の部分 と三番目の部分がそれぞれ独立した詩として扱われ、並 べて掲載されている。構成としては、「海」という題名 のもと、行を下げてさらに「海」という詩を提示してい ることから、完全に独立した詩として扱っているという よりは、連作のような印象である(図3.図4参照)。

この作品はさらに「海邊」の三番目の部分のみを採用し て、『鄭芝溶詩集』では、海の連作の一つとして「바다4」

となっている。「海邊」の一番目の部分と二番目の部分 は朝鮮語では詩集に収録されていない。

 なお、いささか複雑なのは『朝鮮之光』の「바다」で ある。1926年6月に京都で書かれたと記されているが、

4つのパラグラフに分けられ、一・二番目は『近代風景』

(1927.1)掲載の「海」27の朝鮮語版であり、三番目は該 当する日本語詩が見当たらず、四番目が「しめつぽい浪 のねを」の詩にあたる部分である。「바다」は、それぞ れ『鄭芝溶詩集』に収録するにあたり「바다1」바다2」

「바다3」「바다4」として、独立した詩として扱われる こととなる。『近代風景』の「海」と『朝鮮之光』の「바 」はそれぞれ1927年2月に掲載されており、ほぼ同じ ころに詩を送ったものと推測されるが、詩のありようは 両者が大きく異なるわけである。

 ともあれ、「かっふえ・ふらんす」もそうであったよ うに、『近代風景』に作品を送るにあたって、鄭芝溶は 相当な神経を使ったように見えるが、全体として詩が散 漫にならぬように焦点を絞り、作品の完成度を上げてい る感を強く受ける28。鄭芝溶は詩を一旦書きあげれば完 成とするタイプではなく、繰り返し手を加えながら何度

も同じ詩を発表する傾向があった。小さな改作である場 合がほとんどであるが、それでも言葉に対するこだわり が極めて強いタイプの詩人であったことは間違いない。

これは日本語詩に限るものではなく、もちろん朝鮮語詩 でも同様なのである。そして、その取り組みの方向性が、

両言語の詩においてかなり異なるようにも感じられるの である29

 ほかにも印象的に思われる詩について少し触れておく ことにする。まず、詩の題名として注目できるのは、『近 代風景』掲載の「悲しき印像畫」がもともと『同志社大 學豫科學生會誌』では「仁川港の或る追憶」という題名 であったことが確認できる。「悲しき印像畫」は具体的 な地名を明示しないことで異国情緒をさらに高める効果 を狙ったものであったのだろうか。詩の背景となる場所 がこれまで不明であっただけに、今回これが明らかに なったことは一つの参考にはなるであろう。仁川港とい う地名が明らかになることで、その風景は具体像を持っ て読むものにイメージを喚起させる。

 ちなみに、朝鮮語詩である「슬픈 印像畵」(『學潮』

1926.6)ではダダ的な色彩が日本語詩よりもさらに濃厚 である。同じく、「はちゆう類動物(一九二五・六月・

朝鮮線汽車内にて)」(『自由詩人』1925.12)は、朝鮮語 では「爬虫類動物」(『學潮』1926.6)として発表されたが、

この作品もダダイズムの影響が濃厚である。この詩は単 に活字の変化にとどまらずダダ的な文明への視線や反逆 性までも一定程度引き継いだ側面があるようにも見える 点で注目する必要がありそうである。ともあれ、この時 期の作品は実験的な要素は朝鮮語詩のほうがより果敢な 傾向があり、繊細かつ柔らかな表現が多く見える『近代 風景』への投稿とはその点、正反対とも言えるのかもし れない。

 ここで、鄭芝溶の詩作品のうち、日本語作品だけが存 在するものについて確認しておくことにしたい。これに 該当する作品は、筆者の知る限り、『近代風景』『同志社 大學豫科學生會誌』『街』『自由詩人』で合計24編、散文 4編が存在する30。これらについては当然ながら綿密な 検討が今後必要となることであろう。さしあたり、ここ では今回の調査によって明らかにできた詩のうち、特徴 的な印象を受ける2作品のみ見ておくことにしたい。

参照

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