奈良教育大学学術リポジトリNEAR
書評 永池健二編『梁塵秘抄詳解 神分編』
著者 山岸 公基
雑誌名 奈良教育大学国文 : 研究と教育
巻 41
ページ 75‑80
発行年 2018‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10105/00013209
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書書評
永 池 健二 編﹃ 梁塵秘抄 詳解 神分 編﹄ 山岸 公基
本書
﹃梁塵秘
抄詳解
神 分編﹄は︑編 者の主催す
る遊女文化
研究会に
集 う一二
名のメンバーが︑﹃梁塵秘抄﹄巻第二︑四
句神歌のう
ち神分編二
四二〜二七六歌の 全三十 五首を分
担して担当
し︑天理図書 館蔵本の影
印を掲げ︑
翻刻︑校訂本文︑
先行諸 説の要点
を示したう
えで語釈と考
察を加えたものである︒
評者は従
来﹃梁塵
秘抄﹄を読
む 際は架 蔵の 志田延義氏校注﹁梁塵秘抄﹂
︵﹃
日 本 古 典 文 学 大 系
和 漢 朗 詠 集
・ 梁 塵 秘 73
抄﹄︶と秦恒平氏﹃梁塵秘抄信仰と愛欲
の歌謡﹄に
よってきた
︒本書の
評 者とし てあま りに貧弱
な蔵書だが
︑日本古代・
中世美術史
︵とりわけ
彫刻史︶を主要研
究分野とするもの
の国文学
を専門 とする者
でないこと
からこれで充 分という思
いもあり︑
全貌に触
れ てみよ うと思 う際は前
者︑アンソ
ロジー的に主 要な歌に接
する際は後
者を参照して︑院 政期の 美術・美
意識とそれ
を醸成した社
会を理解しようとしてきた︒
本書で 詳解の施
される神分
編三十 五 首 に ついては︑
秦氏が﹁
さほど面白いのは 多くあり
ません﹂
と述べるく
らいで
︑ 秦 氏の 著作の撰
抄に撰ばれ
るのは八首に過 ぎない︒
先行研究を
網羅的に
収集・
紹 介 してい る本書は
研究史の概
観にも便利だ が︑それは
本書にとっ
てあくま
で 副次的 な事柄 であり︑
一か月余り
を要して本書 を通読した
第一印象は
︑既知観をそここ
こで打破される小気味よい驚きであった︒
まず 校訂本文
自体が従来
の読み︵補注 等における
言及を含
む︶と異な
る のが︑
二六九 歌﹇難読
箇所﹁あつ
らひめくり﹂
を﹁阿律智
︵陰陽道の
方角禁忌
の 神︶日 巡り︵太白神︒金星の精
︶﹂
と 解する﹈
・
二七五歌︵﹁為度や衆生生々示現大明神﹂
を﹁為 度や衆生
故 示現大 明神﹂と解す る
︶・二 七 六 歌
︵﹁
海 路の海にぞ遊うたま ふ﹂を
﹁鹿蒜の
海にぞ遊う
たまふ﹂と解
する︶である︒殊に二六九歌で﹁あつら﹂
と読まれ
ていた語
彙を﹃簠簋
内伝﹄
に 所
見のある﹁阿律智神︵すなわち指神︶﹂と
みなすの
は新鮮だが
︑その妥
当性は 今 後 の研究 により検
証されてゆ
くであろう︒
ともあれ巻
第二の発見
以来百年
を 超え︑
佐佐木 信綱氏以
来の膨大な
註釈・研究の 蓄積がある
中にあって
なお新解が可能で
今様に追体験する院政期の視覚・聴覚・心性
- 2 -
あることは︑﹃梁塵秘抄﹄の奥深さを物語
るとともに
︑写本影印
による検討を可能 にする 本書の構
成︵さらに
遡れば本書成 立の母体と
なった遊女
文化研究会の研究 態度︶
の周到さ
にも多くを
負っている︒
語 釈・考察
には分担メ
ンバーの研究水 準と遊 女文化研究
会におけ
る切磋琢磨の さ まが窺え︑
全体とし
て歌の生み出され た時と場
を︑視覚
・聴覚など
の感覚 に ま で及 んで追体験
しようと
する志向が看取 される︒た
とえば二
六一歌で八
幡 へ参ろ うとす る者の﹁
淀の渡りに
舟うけて
迎
へたまへ大
菩薩﹂との
呼びかけ
︑ 流れが 緩やか で眼前に
男山を望む
ことのできる 淀川の渡に
おいて救い
の舟で迎え︑浄土 への誘 いを願う
背後に︑石
清水八幡宮行 幸の際の︑
迎講や来迎
図に描き出された ような 阿弥陀来迎
の演出の
揺曳を見︑二 六 七歌﹁大梵
天王は
中の間にこそおは しませ
少将婆利
女の御前は
西の 間 に
こそおはしませ﹂を﹁︵祇園社︶本殿内内
陣の中の間
︑西の間
に祀られ
た神像 の す
ぐそばにいるような臨場感がある︒﹂と評
するのは︑
この志向性
の視覚的
側 面を典
型的に 示す︒い
っぽう二六
五歌では﹁金 の御嶽にあ
る巫女の打
つ鼓 打ち上げ打
ち下ろし面白や﹂の︑﹁打ち上げ﹂は徐々に早く激しく鼓を打つこと︑﹁打ち下ろし﹂
はゆっ くりとし
ずめていく
ことで︑鼓を 速 く打った
りゆっくり
打ったりすること を繰り 返すことと
︑聴覚の
具体に及んで
理解するところに新味がある︒﹁われらも参らばや﹂を﹁参詣したい﹂ではなく﹁鼓
を打 ち奉りたい
ものだ﹂
と解釈すること により︑聴
者の積極
的な関与の
姿 勢も顕
在化している︒
二七一歌
﹁宇治には
神おはす
中をば 菩薩お 前たち
橘小島のあ
だぬし
七宝
蓮華は鴛鴦剣﹂について︑﹁神﹂を宇治を
守護する地主神=宇治離宮社の神︑﹁菩薩
お前たち﹂
を宇治の聖
なる宗教空間の中 心平等 院鳳凰堂の
雲中供養
菩薩像や︑諸 菩 薩に扮して
舞う﹁菩
薩舞﹂ととらえ︑
とりわけ
﹁鴛鴦剣
﹂を中国語
でいう
﹁ 鴛 鴦剣
﹂の訓読
み︑雄剣︑
雌剣の雌雄一対 の霊剣をさ
すと解釈
して︑全
体とし て 平 等院を 中心とす
る宇治の宗
教空間︑より 具体的には
元永元年︵
一一一八
︶ に︑極
楽浄土 の楼閣を
象った鳳凰
堂を舞台に行 われた十種
供養を歌っ
た今様と解するの が︑早 くに崩御
された後冷
泉天皇への皇 后藤原寛子
の想いにま
で及んで︑目の覚
めるような鮮やかさである︒
ま た二七三
歌﹁住吉四
所のお前には 顔よき 女体ぞおは
します
男は誰ぞと尋
ぬれば松が崎なるすき男﹂においては︑
﹁顔よき
女体﹂を
︑住吉の社
前に鎮 座 す る和 歌の神で︑
身の光が
衣を通して輝く
ほど美しかった﹁衣通姫﹂︵紀伊国弱浦︑
すなわち和歌浦の玉津島社に祀られる︶︑
﹁すき男﹂
を︑衣通姫
を勧請し
神 として お仕え する︑殊
に和歌に深
く執着し精通 した住吉社
神主津守国
基︵勅撰集にも入 集し︑
白河院の
仙洞歌壇の
メンバーでも あった︶と
する新解が
示されている︒本
歌考察の︑住吉社近傍東大禅寺内に︑﹁玉
津 嶋社﹂と刻
まれた︑
津守国基が和歌浦 からもた
らした﹃
国基集﹄所
載の住 吉 堂 基壇 葛石の後
身とみられ
る和歌浦産青石 を見出すく
だりには
︑推理小
説の謎 が 解 けるよ うな爽快
さがある︒
ところで津守 国基本人を
前に歌い出
されるの
で なけれ
- 3 -
ば︑こ の今様は
陰口めくの
ではなかろう
か︒はじめて本歌に接した本人の表情や︑
一座の 興ずるさ
まを思い描
くことができ るところに
も︑この新
解の抗しがたい魅
力がある︒
二 四八歌﹁
関より東の
軍神 鹿島香取 諏訪の 宮 また比 良の明神
安房の洲滝 の 口や小
熱田 に八剣
伊勢には
多度の宮﹂・二四九歌﹁関より西なる軍神
一品 中山 安 芸なる厳島
備中なる吉 備津宮
播 磨に広峯
惣三所
淡 路 の石屋 には住 吉西宮﹂
は︑東日本
と西日本の軍 神の神名を
単に列挙す
る今様と
す る見解 が支配 的であっ
た︒本書で
はこの二首を 一対と捉え
︑その背景
に︑東西に分かれ て対戦 する神相
撲の傀儡戯
を想定する︒
軍神として
必ず挙げら
れなければならな いはず の八幡神が
現れない
理由として︑
石清水八幡宮など京周辺の八幡の神前で︑
傀儡戯が
行われ今
様がうたわ
れた︵
し た がっ て八幡神
は神相撲に
出場しない︶可 能性を指摘
する︒石
清水八幡
宮で神 相 撲 の傀儡 戯が行わ
れた形跡を
確認できない とのこと︵
なお九州で
は福岡・
八 幡古表
神社及 び大分・
八幡古要神
社に現在も伝 えられてお
り︑これら
諸社ならびに石清 水八幡 宮の本社
でもある大
分・宇佐八幡 宮で神相撲
の傀儡戯が
行われたことは︑
傍証史 料もあり
確実視され
る︶だが︑単 な る神名列
挙から転じ
て︑相撲の呼び出 しのよ うな肉声を
感じさせ
るところが面
白い︒
ここ で国文学
を専門とし
ない評者のさ さやかな思
い付きを
申し述べる
こ とをお 許しい ただきた
い︒二七〇
歌﹁一品聖霊 吉備津宮
新宮本宮内
の宮 は や とさき
北や南の神客人艮御先はおそろしや﹂
は︑中国地
方を代表す
る古社岡山・吉備 津神社 を歌った
ものだが︑
本歌で本書も
含め従来﹁かみまらうと︵神客人︶﹂と読
まれていた語は﹁かとまらうと︵門客人︶﹂ではないだろうか︒
影印によ
れば﹁か
みまらうと
﹂ の仮名
﹁み
﹂は漢字
﹁三﹂の草
仮名で片仮名の
﹁ミ﹂に字形が近く︑﹁と﹂の誤写である
可能性 を考えて
よいように
思われる︒語
彙﹁門客人︵かどまろうど︶﹂は小学館﹃日
本国語 大辞典﹄
にも項目と
して挙がって
いる︵﹁かみまろうど﹂は無い︶︒﹃日本国
語大辞 典﹄の引
用例は貞享
二年︵一六八 五︶刊の﹃
本朝諸社一
覧﹄だが︑室町時 代初め
︑応永三
年︵一三九
六︶の用例が 彫 刻作例の
像内銘に見
られる︒それは吉 備津神 社と同様中
国地方所
在の古社︑岡 山
・木山神社
神門の阿
形・吽形二軀一対
の神像のうち阿形像の首䈂内面墨書銘で︑
﹁門客人二尊/工人四□小路/大仏︵師︶
定祐之作/
応永三年
/四月
日
﹂ と記さ れる﹇
斉藤孝﹁
美作二宮高
野神社門客人 神立像︱そ
のイコノロ
ジーを中
心 に︱﹂
︵﹃
美 術史﹄八九号︑一九七五年九月︶
︒
同氏﹁神門に祀られるいわゆる﹁随身像﹂
につい て
﹂︵
﹃ 柴 田実先生古稀記念
日本 文化史論叢
﹄︑
一 九七六年一月
︶︒
な お
︑ 斉藤氏 も﹁門客人
﹂を﹁か
どまろうど﹂
と訓んでいる﹈︒
木山神社
阿形像が
左手で弓を
握 り右手 で弦 を引いて
像の左に矢
を放つ勢いを示 し︑吽形像
が左腕を
片肌脱ぎ
にしな が ら 弓を下 し右手で
矢を下向き
に番えて弓構 えの様を示
すのは︑銘
記中に﹁
門 客人﹂
- 4 -
の尊名が記されないとはいえ応保二年︵一一六二︶厳成作在銘の岡山・高野神社﹁随
身﹂像
︵二軀一
対︶と図像
的に一致して おり︑斉藤
論文での提
唱のように同一尊 格︑ひ いては同
一尊名であ
る蓋然性が大
きい﹇元亨二年︵一三二二︶・同三年宗盛
作在銘 の愛媛・大
山祇神社
守門神像︵四 軀 二対︶のう
ち南方天
像像内の当初の銘 記に﹁守
門神﹂と
記され︑西
方天像 像 内 納入 の永禄一三
年︵一五
七〇︶修理銘札
に﹁門客人﹂︑西方天像像内の無年紀の墨
書に﹁
門客人﹂
・﹁
か とまらうと﹂と明記 されること
も︑中国・
瀬戸内地
方 の近し
さも相まって留意されよう﹈︒応保二年は
﹃梁塵秘抄
﹄口伝集巻
第十から編者後白 河院︵
一一二七
〜一一九二
︶が第二度の 熊野詣を行
うなど活発
な活動を行ってい た時期 であり︑吉
備津神社
の北や南の神 門 にも門客人
︵かどま
ろうど︶神像が安 置されて
いた︑も
しくは像は
なくと も 神 域の 結界を守
る門客人神
が勧請されてい たのではな
いだろう
か︒そし
て門客 人 神 は︑下 に現れる
艮御先に準
じて︑吉備津 神社の主神
吉備津彦命
にとって
は
﹁御先
神﹂と 位置付け
られていた
と考えて大過 ないであろ
う︒なお畑
違いの評者に上記 の読み の変更を
提案する勇
気を与えてく れたのは︑
すべての歌
を写本影印から始 める本 書の編集
姿勢であっ
たことを特記
したい︒斉藤論文では高野神社﹁随身﹂︵=門客
人 神︶像の図
像︵像容
︶の背後に岡山県 美作地方
の固有信
仰をみてと
る︱斉 藤 氏 は同 像の面貌や
細身の身
体に﹁蛇神﹂の 示現を直観
し︑吉備
氏族の勢力
発 展が著 しいが 元来は出
雲系氏族の
世界であった 美作地方に
おける︑地
元民の神
の イメー ジの具 象化とみ
なす︱が︑
前提として吉 備津神社や
大山祇神社
をも射程に含めた 門客人 神信仰の
総合的解明
が不可欠であ ろう︒その
ためにも編
者が着目する﹁神 の 御 先
︵み さき
︶﹂
︵神の御
幸を 先導 す る
前駆神︶の全容の把捉が急務となる︒
柳田國男氏は夙に﹃石神問答﹄︵一九一〇年︶で﹁石神︵シャグジ︶﹂等とならん
で﹁御前︵
ミサキ︶
神﹂にも
言及し
︑ 晩
年には﹁みさき神考﹂︵一九五五年︶を著
して︑神の
遣わしめと
しての動
物 や︑非
業の死 を遂げて
祀り手もな
く祟りをなす 凶魂への尽
きせぬ関心
を示した︒柳田國 男研究 者として
も精力的な
活動を展開す る編者が﹃
梁塵秘抄﹄
の語彙﹁御先﹂に 着目す るのは必
然であり︑
そこからは国 文 学はもと
より︑国文
学の守備範囲のみ に留ま らない広範
で多岐に
わたる示唆を
得ることができる︒
四句神歌
のうち﹁
御先﹂が歌
わ れるの は︑
二七〇歌の
ほか二四
五歌﹁神の御先 の現ずるは
早尾よ 山長行事の
高 の御子 牛の 御子 王 城響かいた
うめる鬢頬結 ひの一童や
いちゐさ
り 八幡 に 松童善
神ここには荒夷﹂︑及び二五二歌﹁貴船
の内外座は
山尾よ川
尾よ奥深吸葛
白
石白鬚 白専女
黒尾の御先
は あはれ内 外座や﹂で
︑三首とも
秦氏の著作には取 り上げ られないが
︑一読し
て﹁さほど面 白 くない﹂と
評される
これらの歌に籠め られた願
意︵もし
くは︑畏れ
︶を︑
編 者 や遊 女文化研
究会のメン
バーは丹念に読
み解いてゆく︒二四五歌の早尾︑山長︵﹃耀
天記﹄
によれば
本地仏は勢
多伽=制
䆣迦
童子︶︑︵大︶行事︑高の御子︑牛の御子︑
- 5 -
一童︵﹃日吉山王権現知新記﹄によれば本
地仏は矜迦
羅=矜羯羅
童子︶は︑いずれ も日吉 山王信仰
の根本とな
る上七社の有 力な神では
なく格下の
神でありながら︑
悪神・
呪詛神と
しての霊威
を発動させた の である︒
また二五二
歌の山尾︑川尾︑
奥深︑
吸葛は︑本
社の貴布
禰︵=貴船︶
神 とならんで
︑一二世
紀後半〜一三世紀 初の﹃覚
禅鈔﹄六
字経法に﹁
呪咀神
﹂ と
位置付けられている︒これら﹁ミサキ神﹂
は︑院政期
の京中の
衆庶の心胆
を 寒から しめる 畏怖すべ
き霊神だっ
たことが輪郭
づけられてくる︒
真言 僧慧鏡が
正嘉二年︵
一二五八︶に 作ったとさ
れる﹃丑日
講式﹄には︑貴船 神をは じめ二五
二歌にあら
われる山尾︑
川尾︑白石
︑白鬚︑黒
尾が丑にまつわる 神とし て列挙され
︑丑の日
ごとに歩みを こ の霊社に運
び︑丑の
時ごとに誠をこの 神宮に致
すことが
促されてい
る︒こ こ で 貴船 と丑との
つながりに
ついて︑牛を阿 弥陀の権跡
︑大威徳
明王の使
者とす る と
ともに︑﹁薬師如来の眷属︑招杜羅大将の
応化なり︒
彼の大将は
︑即ち不
動 尊の等
流身な り︒彼の
明王は︑ま
た貴布禰の御 本身なり︒
故に丑の日
︑丑の時を以て縁 日縁時 と為すも
のか﹂と︑
院政期に広範 に流布した
神仏習合・
本地垂迹説を用い て︑十 二神将中
の招杜羅大
将が実は貴船 の 本地不動
明王の等流
身であるとみなし
ていることは看過できない︒
十 二神将は薬
師如来の
分身であるとと もに眷属
で︑いわ
ば薬師如来
の﹁ミ サ キ 神﹂
であり︑日
吉山王社
の山長︑一童の
本地とされる制䆣迦童子︑矜羯羅童子も︑
不動明王の分身かつ眷属で不動明王の﹁ミ
サキ神﹂と
みてよい︒
日吉山王
社
︑貴船 神の御 先神の本
地がすべて
このような仏 教の﹁ミサ
キ神﹂に当
る尊格に限られる わけで はないが
︑上記の等
値関係を考慮 に入れるこ
とにより︑
院政期やそれ以降 の神像
・仏像の図
像を考察
する際の新た
な視座が得られる︒
高野神社
・木山神
社門客人神
像 のうち 阿形 像が︑左
手で弓を握
り右手で弦を引 いて像の左
に矢を放
つ勢いを
示すの は
︑ 高野神 社像と同
じ平安時代
後期︵一一〜
一二世紀︶
の作である
奈良・東
大 寺十二
神将立 像のうち
未神像と︑
吽形像が弓を 下し右手で
矢を下向き
に番えて弓構えの 様を示 すのは︑
康和五年︵
一一〇三︶円 勢・長円作
の京都・仁
和寺薬師如来坐像 台座側 面十二神
将像のうち
右中央像や︑
鎌 倉時代初
期建久年間
︵一一九〇〜一一 九九︶
の作とみら
れる神奈
川・曹源寺十 二 神将立像の
うち伝申
神像︵実は未神像
か︶と体勢が一致している︒
また
︑鎌倉時
代前期以降
京都・浄瑠璃 寺旧蔵十二
神将立像
﹇安貞二年
︵ 一二二 八︶頃 か﹈のう
ち午神像の
ように︑左手 で地に棒を
突き右肘を
左手にも
た せて頬
伺を突く像容の十二神将像が出現するが︑
このポーズ
は制
䆣
迦童 子像図像の転用で ある こと が指 摘さ れる
﹇ 山 本 勉
・ 浅 見 龍 介﹁室生寺金堂十二神将像考﹂︵﹃MUSEUM﹄ 五七一 号
︑ 二
〇
〇 一年四月
︶﹈
︒ 十 二神将 の ような多数
尊像に像
容の変化を求めて 行われた
とみなさ
れがちなこ
の種の 転 用 の背 後に︑十
二神将も制
䆣
迦童子も仏教 界の﹁ミサ
キ神﹂と
して同列
にとら え る 院政期 の人々の
心性を見て
とることも可 能かと評者
が考えるよ
うになっ
た のも︑
- 6 -
本書に接した余慶である︒
前代まで
に既に造立
され信仰を集めて いた薬 師如来像
に附属して
十二神将像を 造立するこ
とが︑院政
期から鎌倉時代に
かけて盛んに行われた︒また平安時代前・
中 期には独
尊作例しか
遺らない不動明王
像に︑平安時代後期とりわけ院政期以降︑
制䆣
迦・矜羯
羅の二童
子を脇侍として造 立する例
が増加し
た︒このよ
うな仏 像 造 立に おける大局
的現象の
背後にも︑仏教 の﹁ミサキ
神﹂とし
ての十二神
将
︑ 制
䆣
迦・矜 羯羅童子
といった尊
格への信仰と 畏怖の高ま
りがはたら
いていた
と みなせ ないだ ろうか︒
編者の言葉
をお借りする こととなる
が︑国文学
︑神道史学︑宗教
史学の研究者だけでなく︑院政期の美術︑
そして広く
文化や社会
︑民衆の信仰世界 に興味 と関心を抱
く多くの
方々に︑本書
の腰を据えての閲読をお薦めしたい︒
︹A 判
・三八九
頁・八木書
店・二
〇 一 5
七年八月刊︺
︵本学美術教育講座教授・日本東洋美術史︶