• 検索結果がありません。

文学に現れた土佐の風土と人間 : 中古篇 ; 3 : 「梁塵秘抄」の土佐の室戸に関する歌謡二篇

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "文学に現れた土佐の風土と人間 : 中古篇 ; 3 : 「梁塵秘抄」の土佐の室戸に関する歌謡二篇"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)3θ 2(I). 義. 文 学 に現 れ た 土 佐 の風 土 と 人 間 中古篇 国 ︱︱ ﹃梁塵秘抄 ﹄ の土佐 の室戸 に関する歌謡 二篇︱︱. 村.  日伝集十 巻 のうち、今 に残 っている のは歌集 巻 一の断 治承四年︶ 立 は 一 一八〇年 ︵ 前後と考えられ て いる。  歌集十巻、. しは この今様を愛し て、 ﹃ に大活 躍をす る後白河法皇 2 一二七︱ 一一九一 梁塵秘抄﹄ と いう歌謡集を編纂 した。 そ の成. 今様 風 現代風 の歌 の意 であ る。 この時代 は政 治上 では院政 の時代 であ るが、 そ の院政をと って源平抗 争 の間 に政 治的. 今様﹂ があ る。 十 一世紀後半 から約 二百年間 ほど、 日本 の広 い社会 層 にわた って愛誦され たと考 えられ る歌謡に ﹁. 第 一章   ﹁四方 の霊験所﹂ の ﹁とさ のむろふと﹂. 4巻 ・昭和3 南女子大学研究紀要 1 5 o3と に続 く も の であ る。. 5号 ・昭和3 甲 甲南国文2 中 古 篇 0 室 戸 津 寺 地蔵 菩 薩 霊 験 記 ・幡多 妹 兄 島 ︵ 中 古 篇 ︱ 三教 指 帰 ・土 佐 日記 ︵ ﹁ 5 o3と ﹁. 4号 ・昭和2 甲南国文2 文 学 に現 れ た土 佐 の風 土と 人間 ﹂ の﹁古代 篇 ︱ 石 上 乙麿 そ の他 ︵ 本 稿 は 、 筆者 執 筆 の ﹁ 5 o3と. 竹.

(2) 竹 村. (2)3θ ゴ. 義 一. 高知. 潮 助 麺. A図 関係地名参考図. 甲浦 淮喜浜. 句浦 戸. 宝戸岬 行当岬 羽根岬. 土 佐 湾. 足摺岬 佐 喜 浜 に至 る. 禍. !嘉 奈半利 に至ろ. 大久保 長野. 卍西寺. 稲石. 舟久保森. 脅奈良師 愛宕山. 汗津 =h. 行 当岬. △ 四十寺山 313m. i章 jll. 室津神性. 原 池. 85m 室津漁業無線局. 津目. B図. 5 号 線 国 遺 5. Jヒ. 室. △ 尾垂山. 紀貫之朝臣 泊舟之碑. 高岡港. 室戸地方略図 ピシャゴ磐. 百御 蔵 洞 ホテル. 浜. ニ ュ…むると. 申岡慎太郎鋼f2 室戸岬.

(3) 、 簡 と 巻 二、 口伝集 巻 一の断 簡 と 巻十 だ け であ る。 現存 本 だ け でも 法 文 歌 ・四句 神 歌 など 五百 六 十 六 首 の歌 謡 が 伝 え 。 ら れ て い る。 巻 二 の四句 神 歌 の中 に土 佐 の室 戸 を よ んだ も のが 二首 あ る ので、 それ を 紹介 し て考 え て見 た い. ま ず 三 一〇 番 の歌 を 見 る こと と す る。 霊 験 所 歌 六 首 の中 の第 四首 目 にあ る。 成 相 メ 0 し が   ば な の ゝと かぃ し  す るか のふ し のやま  はわ き の大 山   丹後 のな り あ ︲ 30 四方 の霊 験所 は   い のは り 間 生 室 讃 評 土佐 がど の道 場 こ そ き け の ひ と か  と さ のむ ろ ふと   さ ぬ. 底本は竹柏園旧蔵 ・現天理図書館蔵本︶に、明治書院発行 、佐 梁塵秘抄﹄ ︵ 右 は好学社発行、佐 々木信 綱編 ・原本 複製 ﹃. な る。古代 土佐 の東端部 の今 の室津川 の下流地域 に集落 が発達 し、 そ の河 □が室 のよう に山 に囲まれ た湾形を した の 。 で、 そ こが船着き場と なり 、室 のような津 から室津と いう地名 が発生 したと考 えられ る そし て ツと 卜は音 が通ず る 。 今昔 ので ム ロツを ム ロトとも い いそ の東南 に突き出した岬を 、 ﹁ム ロト ノサキ﹂ と い ったも のと推考 され る なお ﹃. 勤念 土州室  それ には ﹁ 七九七成立︶にお いてであ る。 ﹁土佐 の室戸 ﹂が文献 に現れる最初 は、空海 の ﹃三教指 帰﹄ ︵ 九二 室津辞呂﹂と載り、﹃延喜式神名帳﹄︵ 九一 五 成立︶には土佐国安芸 郡 の郷名とし て ﹁ 一  一方 ﹃和名 抄﹄ ︵ 戸崎﹂とあ る。 む ろ つ﹂ と記し てい 成立九二五頃︶には仮名 で ﹁ 七成立︶には神社名とし て、 ﹁室津神社﹂と出 ている。 ﹃土佐 日記﹄ ︵. 2. 。 る。まず ム ロフトの論議 の前 に ム ロトと いう呼称 の歴史 に ついてまとめ ておき た い. 梁塵秘抄﹄ その他を参考として振漢字 を施 したも のであ る。 々木信綱解説並校 ﹃ 広島大学内、中世文芸学会、 中 世文芸﹂ 3号︵ むろふと﹂ に ついては、山内洋 一郎氏 が ﹁ とさ のむろふと﹂ の ﹁ 右の ﹁ 1 第七 梁塵秘抄私見 四首﹂ で見解を発表され、筆者も拙著 ﹃土佐 日記 の地 理的研究 ・土佐国篇﹄ ︵ 昭和3 3年3月発行︶の ﹁ 5口 じ で卑見を述 べたと ころ であ 文学 に現れ た土佐 の風土と人間﹂ 中 古篇 ﹁三教指 帰﹂ 翁甲南国文﹂2 及び、﹁ 章室津0︶. 文学 に現れた土佐の風土 と人間. O(3) 3θ.

(4) )299. ァ ラ ダ 物 語﹄ 巻十 七 の第六話 ﹁ 地蔵菩薩値 だ 難自 郎多郵 躊 ︵一〇三二頃成立︶には、﹁ 土佐 ノ国 二室戸津 卜云 フ所有 り﹂ と いい ﹁ 室戸 の崎﹂と似た言 い方 をし ている。. ム ロツと ム ロトの問題 は、 この程度 にとどめ て ﹁ むろふと﹂ に ついて考 え てみた い。前記 の拙著 ﹃土佐 日記 の地 理. 的研究﹄ 貧 四四頁︶ 5号三︱四頁︶で述 べたように、﹃ 及び、前 記論文 ﹁三教指帰﹂ 翁甲南国文﹂2 狭衣物語﹄ ﹃梁塵秘抄﹄、 ﹁弘法 大師 の伝記類﹂など 、  一〇 五〇年ご ろ以降と考えられ る文献 には ﹁ む ろふと﹂ の用例 が多 く、漢字 では ﹁ 室生 戸﹂ ﹁ 室生門﹂、室戸崎 は ﹁室生崎﹂ ﹁ 室生戸崎﹂ ﹁ 室生門崎﹂ などと書 かれ ている。山内氏 がそ の用例 を挙げ ておられ. る ﹃ 本朝神仙伝﹄ の成立 は著者 大江匡房 の没した 一一一一年 に近 いころであると考えられ 翁群書解題﹂による︶ 、ま た 5頁及びその注 ︵ ﹃土佐国金 剛頂寺解案﹄ ︵ 本稿 2 7︶参照︶も 一〇 七〇年 であ って、  筆者 のいう 一〇 五〇年 以後 と いう推 定 に抵 触しな い。. これら の ﹁む ろふと﹂ ︵ 室生戸︶が室戸を指 し ている ことは間違 いな い。 では、どうして ﹁ 室生一 む ろ ふと﹂ ︵ こ と書 くよう にな ったか。鹿持雅 澄 が ﹃土佐 日記地 理弁﹄ に 弘法大師略頌 卜云 モノ ニ、神仙記 ヲ引 テ、土佐国室生戸山 ト ア ル ハイカ ヾナリ. 記 し ている。樫 は漢和辞書 には河柳とあ る。今 は これ以上解明を進 める ことは できな いが、記 し て後考 を侯 つ。ただ. 播磨 の国 の ﹁室津﹂ に つい て、吉 田東伍 の ﹃大 日本地名辞書﹄ を見 ると、 室津 は古 へ室原泊、又は樫生泊と云 ふ 、、 とあ る。 そし て ﹃風土記﹄ の ﹁ 浦上 里、室原泊者 、此泊防風如室 、故 因為名﹂を引用している。標生 に ついては、﹃ 本 朝文粋﹄ の ﹁ 善相公意見封事﹂ に、﹁ 山陽西海南海 三道、舟船海行之程、自樫生泊至韓泊 一日行 云 々﹄ と見 ゆ﹂と. のいずれも 、文献 にも見当 たら な いし、耳 に聞 いた こともな い。. と不審を表白 し ているとおり 、筆者 の知 る限り にお いて、土佐 では ﹁ むろふと﹂ と いう発音、﹁ 室生 戸﹂と いう表記. (イ. 義 一 竹 村.

(5) 。. 播 磨 の場 合 、 室 津 の こと を ム ロフと いう こと が、 土 佐 の室 戸 を 室 生 戸 と いう こと と 何 ら か の関 係 があ り そう に思わ 20. 00. 取 り 上 げ ら れ た 理由 であ ろ う 。 では 、 こ の室 戸 の霊 験 所 は 、 室 戸 のど こと 考 え る べき であ ろう か. れ. 奈良志津︶ か ら左 折 し て、 西 方 へ約 四 ・五 キ ロメー ト ル、 少 し湾 入 し て平 坦 な海 岸 が続 く 。 土 佐 日記 に ﹁な ら し づ﹂ ︵. 、 へ約 五 o五 キ ロメー ト ル、 二万 年 前 は海 底 だ った と いわ れ る台 地 状 の山 なみは海 に追 り 海 岸 には岩 礁 が続 く. 。 〇 メー ト ルの台 地状 を な し て、 東 西 から海 には さ ま れ 、海 岸 にけ わ しく 切り立 って いる 岬 突端 か ら 室 津 ま で北北西 。室津. を付 け根 と し て南 方 に突 出 し た、 南 北約 五 キ ロメー ト ル、 北 端 の室 津 か ら 三津 に至 る幅 約 二 ・五 キ ロメー ト ルの東 西 、 の線 を 底 辺 と す る鋭 い直 角 三 角 形 を室戸半 島 と いう 。 北 部 の尾 垂 山 で 二 三〇 メー ト ル 南 端 の東 寺 のあ る 辺 で約 一八. 思 わ れ ると 述 べ て いら れ る 。 、 こ こ で室 戸 地 方 の地 形 と 東 西 二寺 に つい て説 明 し てお く 。本 稿 掲 載 の地 図 に見 る よ う に 土佐 の国 の東 南 端 に室 津. 西寺︶ と の二寺 を 指 摘 す る にと ど め る のが良 いと 東寺︶と 限 定 し な い で、 西方 行 当 岬 の 台 地 にあ る 金 剛 頂寺 ︵ 最御崎寺 ︵. 。 山 内 氏 は前 記 論 文 で、 岬 の突 端 の台 地 上 にあ る. 0 の歌 に つい て見 よ う 。 撃並験所 歌 ﹂ と は、 霊 妙 な 効 験 のあ る寺 社 を よ んだ歌 の さ て本 論 に返 って、 ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ の︲ 3 78 9 ︲番 では 四方 ︱全 国各 地 の霊 験 あ ら た か な寺 あ る いは社 を いる 。 0 意 であ る。 0 3 30 30 3 の三首 は京 にあ る霊 験所 を よ ん で 0 、 2︲ 5 ︲は京 付 近 ・近 畿 の霊 験 所 を よ ん で いる 。 し た が って こ の︲番 は全 国 か ら ︲ ︲番 は 筑 紫 の霊 験 所 、 3 3 よ ん で いる 。 ︲ 3 3 、 ば 有 数 のも のを 選 り す ぐ って いる と いえよう 。 こ の場 合 他 は皆 山 嶽 宗教 の メ ッカ的 存 在 であ る のに 四国 か ら 二 つ選 、 。 れ 、 共 に海 辺 の山 であ る のは お も しろ い。特 に室 戸 は 辺 限 の地 であ る 弘法 大 師 の修 行 地 であ る こと が こ のよう に. 文学 に現れた土佐の風土 と人間. 298(5).

(6) と し て出 てく る奈 良 師 の浜 であ る。 平 等 津 と も 書 く 。 そ のな だ ら か な浜 の尽き る所 に、 行 当 崎 ︵ 標高 〓 一 〇 メートル︶. が 突 き 出 て い る 。 こ の岬 の突 端 か ら 北 東 約 一 ・五 キ ロメー ト ルの崎 山台 地 2 六八メート ル︶の上 に西 寺 があ る。 ︵ 旧安. 芸聾 九村、現室 戸市元地区︶室 戸 崎 の突 端 から 、 行 当 崎 の突 端 ま で、 直 線 で約 八キ ロメー ト ル、 海 岸 線 を たど る と 約 一 〇 キ ロメー ト ルであ る。. なお 室 戸 ザ キと 行 当 ザ キ の サ キ の漢字 は、 地 図 の類 も 戦 前 は す べて、 ﹁ 崎 ﹂ の字 を 用 い、 ム ロト ザ キ ・ギ ョウドー. 土佐西南端 の足摺崎も同じ︶と い った が、 戦 後 ほと ん ど が ﹁岬 ﹂ の字 を用 いる こと に なり 、 し た が って発音 も ム ロ ザ キ︵. ト ミ サキ ・ギ ョウ ド ウ ミ サ キ ︵アシズリヽ サキ︶ ヽ と いう 言 い方 が 多 く な ってき ている。 特 に室 戸 の場 合 は、 岬 に近 い津 ヽ. 呂村 が、 昭 和 四年 室 戸 岬 町 と 改 称 し てから 行 政 区 画名 と し て ム ロト ミ サキが出 現 し てか ら 、 そ の傾向 が強 く な ったと. 現在 は室戸市室戸岬町と い 3 。 筆者 所 持 の昭 和 九 年 発行 の和 楽 路屋 の分 県 地 図 、 ﹁ 思 われ る︵ 高 知 県 ﹂ で は、 右 の ﹁ 岬﹂ 崎 ﹂ であ る。 は す べて ﹁. 4. さ て こ こ で室 戸 の 二 つの岬 と 、 そ こにあ る 二 つの寺 の呼 称 ・由 来 等 に ついて説 明 し てお く 。 ま ず 、寺 に つい ては、. 室 戸 岬 の山 上 にあ る 四国 第 二十 四番 札 所 は 、 室 戸 山 最 御 崎 寺 と い い、 西 方 の二十 六 番 の金 剛 頂寺 と 対 応 し て、 俗 に東. ︵3 ︶. ⋮開基高 祖 弘法 大師。 日本 最初之草創。大同元丙戊年空海 帰朝之時。当麓行当崎硯之 浦着岸。則当山攀登草創。. 金剛頂寺 の開基 に ついては ﹃南 路志﹄所載 の ﹁ 寺 記﹂ に次 の如 くあ る。. て いる。. 八〇七︶に、 前 年 に唐 か ら 帰 朝 し た空 海 によ って開 基 さ れ 、 大 同 二年 ︵  嵯 峨天皇 以来 歴代 の勅 願 所 と な ったと 伝 えられ. 寺 と 称 し、   一般 に は 、も っぱ ら こ の方 が通 用 し て いる 。 訓読 の ヒガ シデ ラと音 読 のト ウジ の両方 が用 いら れ て いる。. )29/ (δ. 義 一 村 竹.

(7) 一 “ 通称津寺︶ 空 海 の創建 津寺山︶の上 にあ る 二十 五番札 所 宝 殊 山 津 照寺 ︵ こ の東 西 二寺 の中 間 、室 津 川 河 口にあ る小 山 ︵. と 伝 え る。 み 肥 御 囁 れ の﹁ほ つ﹂は ﹁熟 つ砕 ・上枝 ﹂ のホ ツで、 ホ は 秀 ・穂 のホ で高 く突 き 出 て いる意 、 ツは連 体 助 詞 で、 この場. 、 ら 、 なお西寺 は 、 そ の所 在 地 に ついては前 に述 べた よ う に行 当 岬 の北方 台 地 にあ り 大 同 二年 空 海 の開 基 と 伝 え れ ぅ 音 で読む ことはな い︶。 定とも︶寺 と い い、東寺 に対 し て西 寺 と いう ︵ 竜 頭 山金旺 責 ︵ 。 室 ろと ︵ ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ の三 一〇 番 の歌 の中 の ﹁む ろ ふと ﹂ が ど こを さ す か の問題 に立 ち 返 る こと と す る まず ﹁む 室津 呼 戸︶がど こを さ す か の問 題 を ま と め てみ た い。室 津 川 の下 流 域 河 口港 のあ る集 落 に発 し た ﹁む ろ つ︵ と と いう. う に思 わ れ る 。 に し てら     み さ き   に し て ら は な 、 、 、 いう 。 行 当 岬 は 、 も と 行 当 崎 と書 き 、 ギ ョウド ウザ キと い い 行 堂崎 と も書 き 西 寺 の岬 西 寺 鼻 と も. と め ると次 の如 く な る。 、 、 崎 ・深崎とも︶、 東 寺 の崎 、 と い い津 呂 の崎 室 戸 岬 は 、 も と 室 戸 崎 と 書 き 、 ム ロトザ キと い い 別 の名 称 は 御 崎 T 一 、 雅 語的 に用 いら れ る よ 、 と も い った よ う であ る。 な お 最御崎 は寺 の名 前 に言 い 岬 の名 と し て使 う例 は 稀 な よ う で. 4番 の歌 に ﹁最 御 崎 ﹂ が出 てく る ので、 そ の際 さ ら に考 え てみ る こと と す る なお 8 3. 、 う。 で、高 知城 下 と 室 戸 岬 の間 に住 む 人 々︱ 筆 者 も そ の 一人 であ る︱ は 藩 政 時代 か ら ミ サキ と いう より も オ ハナと い 。 室 戸 岬 の呼 称 と表 記 に ついて、 ま. 記 ﹄ には単 に ﹁い つし か み さ き と いう と ころわ たら ん ⋮ ⋮﹂ と い って いる. 、 。 キと い っ を ホ ツミ サキ と 一般 の人 々が呼 ん で いたかと いう と 疑 義 があ る 室 戸 岬 の場 合 土 地 の人 は今 でも 単 に ミ サ 。紀 貫 之 も ﹃土佐 日 。 て ム ロトザ キと も ム ロト ミ サ キとも いわ な い ム ロト の人 は ム ロト の内 部 では ム ロト は付 け な い 。 お も し ろ い こと に室 戸 地方 以外 の土佐 人. 、 崎 こと は 接 頭 語 で敬 意 を 表 す と 考 え ら れ る。 し た が って ﹁最 御 崎 ﹂ は室 戸 岬 の別名 と考 え ら れ る が それ では室 戸 の. 、ミ 。 合 は鋭 く 突 き 出 た御 崎 の意 で室 戸崎 の こと を言 って いる のは 明 ら か であ る 御 崎 は海 中 に突 き 出 し た先 端 を い い. 文学 に現れた土佐の風土 と人間. (7) 29δ.

(8) (8)295 義 一 竹 村. 室一 称が ﹁ む ろと ︵ 月と と も 発 音 さ れ 、 特 に岬 の名 に用 いら れ ﹁ 室 戸 の崎 ﹂ と い い、 そ の地 域 は 岬 の突端 のみ でなく 、. そ の辺 一帯 から 室 戸 半 島 全 般 にも 用 いる よ う になり 、 さ ら に それ が広 域化 し て、 藩 政 時 代 の文 献 にも 、 年 代 不 詳 では あ. る が、 ﹁ 室 戸岬   東 寺 の岬也 又東 寺 よ り 西寺 の間 す べ て室 戸崎 と 云 と ぞ 翁皆山集﹂高知県立図書館版8所収 ﹃ 土佐名勝記﹄. 三四七頁︶。 ﹂と あ り 、 同 じ ﹃皆 山 集 ﹄ 8所 収 の ﹃東 遊 稿 ﹄ 2 八三四成立︶には、 ﹁ 四二 東 西 両寺 の間 は都 て室 戸 と申 候﹂ ︵ 〇頁︶と あ って、 ﹁ 室 戸 ﹂ の呼 称 の広 域 化 を物 語 って いる 。 5. こ こ で古代 の郷 制 の ﹁ 室 津 郷 ﹂ は 、 ど れ だけ の地 域 を さ し た か を 見 てみ た い。 ﹃和名 抄 ﹄ ︵ 風間書 房版刊本 による︶ に. は 土 佐 の国 の安 芸 郡 の部 に ﹁ 奈 半 ・室 津 ・安 田 ・丹 生 ・布 師 ・和食 ・黒鳥 ﹂ と いう 郷名 が出 て いる 。 これ を 地 形 上 か. ら 東 か ら 順 に並 べ直 す と 、 室 津 ・奈 半 ・安 田 の順 と な る 。 当時 人 の住 む集 落 がど の地 域 にど れ だ け 発 達 し て いたか詳. し い こと は分 か ら な いが、 東 北 方 は 室 津 地方 か ら 阿 波 の国 境 の現 在 の甲 の浦方 面 には別 の郷 は な い。 ま た西 方 は奈. 半 と 境 を 接 す る が 、 奈 半 ま で約 二〇 キ ロメー ト ルあ る か ら 、 そ の中 間 ま で室 津 郷 に属 す ると し て見 る に、 大変 な広 さ. に な る。 ﹃ 高知県史要﹄ ︵ 大正3 室 戸 ・津 呂 ﹂ の地 域 を 比 定 し、吉 田東 伍 の ﹃大 日本 地名 辞 書 ﹄ は、 ﹁ 室 1年︶は 現代 の ﹁. 戸 ・津 呂 ・吉 良 川 ・羽根 ﹂ の地 域 を 比 定 し て いる。 いず れ にし ても 、集 落 と し て の室 津 ︵ 藩政時代 の室津村︶より は、 は. る か に広 汎 な地 域 が室 津 郷 に属 し た にち が いな い。 そ れ は、 ほ ぼ ﹁ 東 寺 と西寺 の間 ﹂ の地 域 と 推定 さ れ る。 それ はま. た 天 正 の地 検帳 の ﹁ 東 寺 地 検帳 ﹂ か ら ﹁ 西 寺 地検 帳 ﹂ の地 域 と ほ ぼ 一致 す る。  一〇 七 〇 年 の西 寺 の寺 領 の四至 の西 限 羽根︶ は ﹁波 運 ︵ 中 山 ﹂ と あ る か ら 、 現 在 の羽根 ま で達 し て いる こと が知 ら れ る。. 近 世 の文 献 に ﹁室 戸 崎 ﹂ 及 び ﹁室 戸 ﹂ の広 域化 を 指 摘 し た記 事 が見 え る こと は、 さ き に見 た如 く であ る が、 室 戸と. いう 呼 称 が、広 汎 な地 域 を 指 す こと は相 当 古 い時 代 にも 行 わ れ て いた のでは な いか と 推 測 さ れ る。.

(9) ﹁端裏︶土佐 国室生戸官符又 金剛頂寺 案﹂に、端裏書 及び書出しに ﹁ 七月 八 日付 の ︵ 解 ﹁ 山内氏 は延久 二年 貧 〇七〇︶  とある のを室戸を室生戸とも 当時呼 ん で いた例として挙 申ロー日 ﹄  土佐国室生 戸金剛頂寺別当三綱等解口=国 ﹂、 ー 室一 こ の広域使用 の実 例となる。 げ ておられる。 これ では、金剛頂寺 の所在地を室生戸とし ている ので、室生戸︵. 4の ﹁ ︲ むろふと﹂は金 この用例 は ﹃ 梁塵秘抄﹄成立より約百年前 のこと になるが、山内氏 の言われるよう に、 この3. お よ び 濁 点 を 施 し たも の であ る。 右 の文中 で意 味 の通 じ にく い部 分 に つい て、種 々の解 釈 があ る. つみ さ き 、 こむ か う 上 と の つれ なご ろ、 、 、 右 は佐 々木 ・好 学 社 の影 印 版 に、佐 々木 。明 治書 院 版 そ の他 を 参 考 と し て、 問題点 は 仮名 のま ま にし て 振 漢字 。 そ の部 分 を 次 に挙. 御 崎     金   剛   浄 土. 厨 佐 8 4とさ のふなぢ はお そろしや、むろ つがおきなる天 はしま せか いはは、た てさきやさき のうちくら□みくり やのほ 3. 第 一三早  と さ の ふ な ぢ は お そ ろ し や. 端付近 こそふさわ し い。. から やや遠く、室 戸岬山上よりは広 い台地 にある金剛頂寺 よりも、地 の果 てに山と海 と が鋭く接する室戸岬 の南.  海岸  筆者 が前稿翁文学に現れた土佐の風土と人間﹂中古篇 ﹁三教指帰し で述 べたよう に、 から我 々が受 け る印象 は、. 法性 の室戸と い へど我 が住めば有為 の波風 立 たぬ 日ぞなき﹂ 教指 帰﹄ の室戸修行 の描写及び ﹁ なかろうか。T 一. ただ空海 の若 き 日の厳 し い修行 の場とな ったのは、 やはり ﹁みくろど﹂ のある最御崎 の環境 が ふさわ し いのでは. ずれ劣ら ぬ名刹 で、当時 霊験所としてその名声は都 にま で聞 こえ ていたであろう。. 剛頂寺 をも含む室戸と解 し て、 この場合 は、室戸崎山上 の最御崎寺 に限らな いのが良 いと考 えられ る。 この両寺 は い. 文学 に現れた土佐の風土 と人間. (9) 29イ.

(10) げ る。 一  ︵ む ろ つがお き ︶ な る 天 は 一一   し ま せ が いは は た て 〓一   さ き や さき のう ち く ら □ 一に つい て の各書 の意 見. 1  ︵ 室 津 が沖 ︶ な ら では ︵ 佐 々木 ・好学社、小西 o朝 日全書 、荒井 ・評釈、新間 ・小学館︶ 室 津 が沖 ︶ な る 天 は Tい田 ・大系︶ 2  ︵ 二 に つい て の各 書 の意 見 1  島 勢 が岩 は 立 て ︵ 佐 々木 ・好学社︶ 小西 ・朝 日全書、荒井 ・評釈、新間 ・小学館︶ 2  し ま せ が岩 は 立 て ︵ 3  島 勢 か岩 は 、 立 て 釜心田 ・大系︶ 三 に つい て の各 書 の意 見. 1  佐 喜 や崎 の浦 々や ︵ 佐 々木 ・好学社、小西 ・全書、荒井 o評釈×タダ シ荒井 ・評釈⋮ロ ハソノ ママ︶ 2  崎 や、 佐 喜 の浦 く ら □ 釜心田 ・大系︶ 3  佐 喜 や佐 喜 の浦 々□ ︵ 新間 ・小学館︶. これ ら に つい て考 え て見 た い。 ま ず 一に つい ては、志 田 ・大 系 以外 は ﹁ 室 津 が沖 なら では﹂ と し て いる。新 間 ・小. ○ 沖 な ら では し ま せ が岩 は 立 て= ﹁し ま せ﹂ は よく 判 ら な いが、 ﹁ 島 勢 ﹂ ではあ るま いか 。 島 の如 き 形 を し て居. 荒 井 ・評 釈 は ﹁語 解 ﹂ の項 で次 の如 く 述 べて いる。. 学 館 の通 釈 では、 ﹁ 室 津 の沖 を 通 ら なく ては だ め な ので。 ﹂ と 解 釈 し て いる。. θ)293 (ゴ. 義 一 村 竹.

(11) 文学 に現れた土佐の風土 と人間. 292(ゴ ゴ). る岩 か と 思 は れ る。 吉 田博 士 の地名 辞 書 の室 戸崎 の条 に ﹁低 潮 の時 は崎 端 に波 浪 岩 を見 る。 然 れ ど も 距岩 六鎚 以. 沖 なら では島 勢 が岩 は 立 て﹂ と 言 ふ地 勢 に応 じ て居 る故 であ る 。 それ にし 外 は水 深 く 安 全 なり ﹂ と あ る。之 が ﹁ ても ﹁こそ﹂ の係 助 詞 が な く て、 ﹁立 て﹂ と 已然 形 で結 ん で ゐ る所 も 疑 間 であ る。. 千 潮 の時 は 岬 の突 端 は岩 礁 が露 出 し て、 波 が 激 す 一 う意 味 は 、 ﹁ 一 口 右 の文 中 で、 荒 井 氏 が引 用 し て いる ﹃地 名 辞 書 ﹄の一. 。 る の で、 岸 の近 く は危 険 であ る 。 しか し 六 鎚 ︵三 一一メート ル︶以 上 離 れ ると 水 が 深 く安 全 であ る ﹂ と いう のであ ろ 、 う 。 室 戸 岬 の実 状 は、 岬 の突 端 は岩 礁 が連 なり 、 潮 流 が急 であ って、 岸 の近 く は危 険 で 現在 でも 船 は 五〇 〇 メー ト. 。 ルか ら 一キ ロメー ト ルぐ ら い沖 を 通 る のが普 通 であ る。千 潮 の時 は岩 が 露 出 す る の で 一層危 険 だ と い って いる. 勢﹂を こ の解 釈 なら意 味 が通 る 。次 に これ に関 連 す る 二 の ﹁しま せ が いは は た て﹂ に つい て考 え る に、 ﹁せ﹂ に ﹁ 島 の如 き 形 を し て 島 勢 が岩 ﹂ が 、筆者 には ﹁ 島 勢 ﹂ と いう 用 例 が他 にあ るか ど う か 。 ﹁ 当 てる意 見 が多 い。 し か し ﹁. 島 瀬 ﹂ と と れ な い であ ろう か。 ﹁島 ﹂ と い っても いる岩 ﹂ と 解 す る こと が でき る か、 ど う か分 かり にく い。 これ は ﹁. 室 戸 岬 の海 岸 には島 ら し い 島 は な い。 土 佐 の東 海 岸 ︱︱ 高 知 の浦 戸 か ら 阿 波 国 境 の甲 の 浦 ま で の間 は単 調 な海 岸 線. で、 室 戸 ・行 当 ・羽根 等 の岬 は あ るが 、 島 ら し いも の のな い のが特 徴 であ る。室 戸 岬 の海 岸 には、 釣 人 が利 用 す る 孤. 立 し た岩 が わ ず か にあ るぐ ら い であ る が 、 こ こ では そ の程度 の小 さ い岩 島 を 言 って いると 解 し て、 そ の島 の瀬 に な っ. て潮 流 の急 な所 を いう と 解 す る こと が でき は し な いか。 たと えば 、 瀬 戸 内 海 で宇 野高 松間 を 国鉄 の連 絡 船 で渡 ると 、.   そ の宇 野 寄 左側︶に長 さ 三百 メー ト ルぐ ら い の細 長 い島 が あ る が 、 上 り 便 で高 松 か ら宇 野 へ着 く 少 し手 前 の方 の西 側 ︵. り のは な は 潮 の満 ち千 の時 な ど 、潮 流 は激 し い瀬 を なし て波 立 って いる のを よ く 見 か け る。 そし て、 そ のよ う な島 の. 瀬 のと ころ に岩 が立 って いる と 考 えら れ な いであ ろう か。 ﹁し ま せ が岩 は立 て﹂ は語法 的 にも無 理 が あ って難 解 であ る 。 後 考 に候 つ。. な お 志 田 ・大 系本 の ﹁ 室 津 が 沖 な る天 は島 勢 か岩 は、 立 て﹂ は 、 通 釈 が な い の で全 体 の意 味 を ど う と る か分 か り か.

(12) 2)29ゴ (ゴ. 義 一 竹 村. ねるが、底本 の ﹁なる﹂ の ﹁る﹂を ﹁ ら﹂と せず ﹁る﹂ のままとり、補注を見 ると ﹁天﹂を ﹁て﹂と いう仮名 ととら. ず ﹁ 天﹂と いう漢字 とと って いる、と解される。 この ﹁ 沖 なる天﹂ はどうも分 からな い。 2. 次 に 三 の ﹁さ き やさ き のう ち く ら □ ﹂ に つい て であ るが 、  ま ず ﹁さ き﹂ に つい て見 よう 。 ﹁ 崎 ﹂ と いう さき ﹂ は ﹁ 普 通名 詞 と 取 る か 、 室 戸 岬 北 方 の海 岸 にあ る、  か なり 大 き い集 落 の ﹁ 佐 喜 ノ浜 ﹂ の ﹁ 佐 喜﹂ と 取 る か 。 ﹁ 佐 喜 ノ浜 ﹂ 佐 喜 ﹂ は 、 藩 政 時 代 の文 書 に は ﹁ の ﹁ 崎 ﹂ ﹁佐 貴 ﹂ ﹁左貴 ﹂ な ど と 書 いたも のも あ る。 こ の サキ の語 源 は分 か ら な い. 岬︶・先 ﹂ の意 であ ろう と 考 え ら れ る 。 地 形 はさ し て突 出 は し て いな いが佐 喜 ノ 崎︵ が、 ﹁ 浜 川 の河 口 に は 港 が あ る 。. 両 者 と も 地名 の ﹁ 佐 喜﹂ と と る のと 、   一方 を 普 通 名 詞 の ﹁ 崎 ﹂ と と る のと 両 説 が あ る。 固有 名 詞 の ﹁ 佐 喜 ﹂ にも 、 普. 通名 詞 の ﹁ 崎 ﹂ の意 味 は含 ま れ て いる ので、 心 理的 には そ の連 想 が加 わ る であ ろう 。特 に、表意 文 字 であ る漢 字 を使 わ な い で、 か な で表 現 す る場 合 は 、 そ の心 理作 用 は強 いであ ろう 。. な お ﹁佐 喜﹂ と いう 地名 に つい ては、 前 出 の延久 二年 2 0七〇︶七 月 八 日付 ﹁ 金 剛 頂寺 解 案 ﹂ に よ ると 同寺 の四至. 5頁及び注 ︵7︶参照︶これ によ って ﹁サキ ︵ の中 に ﹁北 限 二 佐 貴 河 こ と あ る。 ︵ 5 ﹂ と いう 地名 は、 ﹃梁 塵 秘抄 ﹄ 成 立 佐一 2. を 一 一八〇 年 ご ろと 考 え ると 、 それ より 百 年 ぐ ら い前 から存 在 し て い る こと が知 ら れ る。 ま た ﹃南 路 志 ﹄ 所 載 の最 御 。 崎 寺 の四至 の項 にも ﹁北 限 左 貴 境 焼 尾 ノ峯 ﹂ と あ る ︵ ﹁ 文教協会版上 一一 九頁︶. ま た ﹁う ら く ら □ ﹂ は、 ﹁浦 々や﹂ ︵ 佐 々木 ・小西 ・新井︶ ﹁ 浦 々□ ﹂ ︵ 新間︶は 、 ﹁く ら﹂ を ﹁う ら ︵ 浦と と し て いるが 、. 志 田 ・大 系 本 は ﹁浦 く ら □ ﹂ と し て、 ﹁ 補 注 ﹂ で ﹁く ら □ ﹂ は ﹁蔵 戸 か ﹂と い って いる。 ﹁ 蔵 戸﹂ と いう 地 名 は 、室 津. の室 津 川 流 域 、 河 日から 約 ニ キ ロメー ト ルの上 流 に ﹁領家 ﹂ の東 北 東 にあ る小 集 落 の名 であ る。 し か し海 岸 か ら か な り 入 り 込 ん で い る ので、 こ の場 合 に は ふさ わ し く な い。.

(13) 文学 に現れた土佐の風土と人間. 3. 。 荒井 ・評釈 は ﹁ 金 剛浄 土 に連 って居 る. ﹁み く ろど ﹂ と いう 空 海 ゆか り の洞窟 が あ る。場 所 は室 戸 岬 の南 端 、中 岡 慎 太 郎 の銅 像 のあ る所 から.  伊 勢 神 宮 の神 領 が あ った形 跡 も な い。 た だ あ る。室 戸 の場 合 は、他 に ﹁み くり や﹂ と いう 地名 は残 って いな いし 、 、 北 北 東 に曲 る.  辞書 類 や注 釈書 も 、 ② の神 領︱ 皇 室 ・神 社 な ど の私 領 の意 味 を 強 調 し て いる 傾向 が ・新選古語辞典と の意 であ る が 、. 中田祝男 ・小学館 って、神 餓を 調 理 す る建 物 。特 に伊勢 神 宮 のを いう 。 ② 神 社 の所 領 で、 神 餓 の料 を 貢 進 す る土 地 。 ︵. ① 神 社 の境 内 にあ みくりと と いう のは、 ﹁ 思 わ れ る。 こ こ の ﹁み く り や﹂ は これ ま で難 解 と さ れ て いる。 ﹁み く り や ︵. 御 厨 の最 御 崎 ﹂ で、最 御 崎 は 岬名 と し て、 同時 に寺 の名 にかけ て い って いる と さ て ﹁み く り や のほ つみ さ き ﹂ は ﹁. 第 二 章   み く り や の ほ つみ さ き. ﹂ と 述 べて いる。 意 を か け てゐ ると 思 は れ る 。. あ る。 室 戸 岬 か ら 行 当 岬 ま で、 絶 えず 波 が続 い て いると い ったも の であ ろう. 、余 波 ﹂ の転 で、 ﹁つれ なご ろ﹂ は ﹁ 連 な って寄 せ る余 波 ﹂ の意 で 名残︶ ﹁つれ なご ろ﹂ の ﹁なご ろ﹂ は 、 ﹁なご り ︵. 布 教 し た霊場 、 聖 地 と考 え て、 金 剛浄 土 と言 った のであ ろう 。. 、 の上 、室 戸 岬 の西 方 にあ る大 師 の開 いた寺 を 、金 剛 頂寺 と いう こと か ら 東 方 の最 御 崎 寺 と の間 の地 を 大 師 が修 行 し. 密教 的 世 界 を 金 剛 金 剛浄 土 ﹂ の意 で、 ﹁ 次 に ﹁こむ か う 上 と の つれ な ころ﹂ に つい て見 よ う 。 ﹁こむ かう 上 と ﹂ は ﹁  そ 小西 ・全圭じ と いわ れ る が 、 と 胎 蔵 に分 け る が 、 弘法 大 師 は潅 頂名 を 遍 照金 剛 と いはれ、 金 剛界 に ゆ か り が 深 い﹂ ︵. 29θ (13).

(14) イ)289 (ゴ. 義 一 竹 村. 国 道 五十 五 号 線 に そ って海 岸 を 進 む こと 約 一キ ロメー ト ルの左 側 、 き り 立 った山 の麓 のち ょう ど東 寺 の東 下 に当 た る. 辺 に、 少 し 国 道 か ら 引 っ込 んだ所 に か なり 深 い洞窟 が 二 つあ る。 山 に向 って右 側 のを 神 明 窟 、 左 側 のを ﹁ 御 厨 人窟 ﹂. と か い て、 土 地 の人 は 、 古 来 ﹁み く ろ ど ﹂ と 言 って いる が 、 約 二十 年 ほど前 、高 知 県 が ﹁ 御 蔵 洞﹂ と いう 立 て札 を た て た。. 。句点 は筆者 。 文教協会版、上 一 ﹃南 路志 ﹄ の最 御 崎 寺 関 係 の記 事 の中 に次 のよ う な記 述 が あ る ︵ 一 一 〇頁︶. ○ 御 厨 人窟 五社 権 現 宝 殿   正保 よ り 慶 安 二至 忠 義 公 御 再 興 。 五社 共 切 石 を 以御 造 立 。 伝 云。 往 古此 窟 内 二毒 蛇 住 し. て往 来 之 人畜 損 害 近 里憫之 弘法 大 師 求 聞 持 修 練 之 時 欲成 障 碍 則加 持 力 を 以毒 蛇 退出 し て其 跡 へ愛 満 五社 権 現 勧 請 0︶ ︵ 1. 也 。 本 地 愛 染 明 王 則 秘 密 之 三昧 地 也 。 次 に ﹃土 佐 州 郡志 ﹄ の ﹁ 安 芸 郡︱ 室 戸 山 明 星 院 最 御 崎 寺 ﹂ の項 にも 次 の如 く あ る。. 観 音 窟 東 北 二 町余 一 御 厨 人窟 ︱ 在 二 伝 云 古窟 中 有 皇母蛇 聖 F人弘法 逐 レ之安 二 置権 現 及明 星之 像 一 ま た ﹃皆 山集 ﹄ にも 、 次 のよ う に出 て いる。. 又東 に岩 窟 有 り 高 さ壱 丈 又 は 弐 或 は 三丈 弘 さ 二間 三間 又 は 五間十 間 奥 へ入事 拾 七間 巨 石 を 以 五社 を 建 愛 満 権 現 と 一 ム. これ ら は、前 の ﹃南 路 志 ﹄ の記 述 を 裏 付 け ると 同時 に、 そ の洞窟 の規 模 を 示 し て いる。. これ ら の こと に つい ては、故 久 保 田博 氏 が、 ﹁土 佐 史 談 ﹂ 一〇 三号 ︵ 昭和3 梁 塵 秘抄 の ﹃み く り や﹄ 4 o3︶に掲 載 し た ﹁ に就 て﹂ と いう 論 文 で書 い てお ら れ る 。. な お ﹃南 路 志 ﹄ の最 御 崎 寺 の項 の寺 記 の中 に次 のよ う な記 述 が あ る ︵ 文教協会版、上 一一 九︱ 三〇頁︶。句点 は筆 者 。. 此 地有 巌 堀 。  西 青 山 峨 々嵐 調 常 楽 之 声 。  東 蒼 海 漫 二波 唱我 浄 之 音 。  北 則 号御 厨 人窟 。 霊神 鎮 護持 此 池 。南 則 通. 補 陀落 山 。 行 者 常 得 渡 。彼 山 窟 内 亦 有 本 尊 。西 城 光 明 国 如 意 輪 薦 瑚 聖像 也 。 或 上 宮太 子念 誦積 功 。 或 後 優 婆 塞 修.

(15) 文学 に現れた土 佐 の風土 と人間. 288(15). 行 累 徳 加 之 。 弘法 大 師 練 行 之 時者 。 明 星 降 臨 道 場 。 天 人 影 向 巌 扉 。 其 奇 瑞新 而 子 今 現在 勝 地 雖 多 。未 聞 加 是 霊 験 奇 特 地 役 因弦 叡 信 之 余 去 。. これ は前 に佐 喜 ノ浜 の項 で最 御 崎寺 の四至 に つい て述 べた 時 引 用 し た部 分 の少 し あ と に つづ く記 事 であ る が 、 嘉 元. ○ の 日付 が あ る。 右 の四 つの資 料 に記 さ れ た ﹁ 〇工 御 厨 人窟 ﹂ が 、 現 在 の ﹁みく ろ ど﹂ であ る こと は確 か で 四 年 2 〓一 あ る。. こ の洞 窟 の呼 称 に つい て、 久 保 田氏 の前 記 論 文 に記 す と ころ によ れば 、次 の如 く であ る。. 恐らくも っと古くからと考︶ 4りれる︱筆者︶土 地 の者 は 、 ﹁み く ろど﹂ と 呼 ん で い 少 な く と も 百 数 十 年 ぐ ら い前 か ら ︵. た o お そら く ﹁み く ら ど ﹂ と も 呼 んで いたと 思 わ れ る。 と ころ が 昭和 三十 三年 ご ろ 、高 知 県 が こ の洞窟 の前 に標 示 板. 御 蔵 洞 ﹂ と書 き ﹁み く ら ど う ﹂ と 振 り 仮名 を付 け たと いう 。 観 光 関係 でも ﹁み く ら どう ﹂ ﹁み く を 立 て て、 これ に ﹁ ろ ど う ﹂ と も 書 い て いる 。 ⋮ ⋮. 愛染 明 王 一 忠 御 蔵 堂︱ 置 二 な お 久 保 田氏 によ ると、 高 知 県 が ﹁御 蔵 洞 ﹂ と書 いた 理由 に つい て、 ﹃土 佐 州 郡志 ﹄ に ﹁. 御 蔵 洞﹂ と し た ので は 御 蔵 堂 のあ る洞﹂ の意 で、 少 し 略 し て ﹁ 土佐藩 二代藩主山内忠義︶ 建 レ之 ﹂ の記 録 に よ って、 ﹁ 義︵. な か ろう か と いう の であ る。 筆 者 も お そら く それ に加 う る に、 土 地 の人 が ﹁み く ろ ど ﹂、 あ る いは時 には ﹁み く ら ど﹂ 御 蔵 洞 ﹂ にし てし ま った のでは な いかと 思 わ れ る 。 と も 呼 ん で いる こと な ど か ら 、 ﹁. 御 厨 人窟 ﹂ と いう名 が生 ま れ た の さ て、 こ の向 か って左 側 の大 き い方 の洞 窟 に、 ど う し て藩 政 時 代 の記 録 にあ る ﹁ で あ ろ う か 。 久 保 田氏 の推 測 を 要 約す ると 次 の如 く に な る。. 若 き 日 の空海 が 阿 波 の大 滝 嶽 か ら、 こ の室 戸 の崎 に来 て勤念 し た時 、 こ の洞 窟 を 住 所 と し て自 炊 し て いた の で、 そ. 御 厨 人窟 ﹂ と 呼 び 、 そ れ が ミク リ ヤト ム ロー ミク リ ヤトー の人︱ 空 海 を 尊 敬 し て ﹁ 御 厨 人﹂と 言 い、 こ の洞窟 を ﹁ ミ ク リ ャトー ミ ク ラドー ミク ロドと 変 化 し たと 考 え る。.

(16) 6)287. それ も 一つの解 釈 であ ろ う が 、空 海 は 思 索 と 修 行 に専 念 し て いた はず であ る。 そう いう 人物 ︱ 毒 蛇 を 追 い払 ったと. いう のが 、 十 九 歳 の空 海 な のか 、唐 か ら 帰 って東寺 や西 寺 を 開 基 し た ころ の空 海 ︱ 弘法 大 師 な のか は分 から ぬが 、 そ う いう 人物 を 、自 炊 す る 人 と 認識 し 規 定 す る のは不自 然 では な か ろう か。. 筆 者 は 別 の角度 か ら 考 え てみ た い。 ﹃南 路 志 ﹄ の中 に前 に掲 載 し た ﹁ 御 厨 人窟 五社 権 現宝 殿﹂ と いう 記事 の次 にさ ら に、 ﹁ 神 明 窟 ﹂ と いう 洞 窟 を 挙 げ て、 左 のよ う に記 し て いる 。 ○ 神 明 窟 天 照皇 太 神 宮御 宝 殿   土 日弘 法 於 此 窟 内 修 練 時 為 当 山 守 護 勧請 な り 。 ﹃土 佐 州 郡志 ﹄ にも 次 のよ う に、 ほ ぼ同 じ 記 載 が あ る。 神 明 窟  在 二 御 厨 人窟 北 馬昔 日大 師 勤 行 之 処 。 後 勧 ≧市大 神 宮﹁ 久 保 田氏 は こ の二 つの文 を 載 せ て、次 のよ う に言 わ れ る 。. これ によ って之 を 総 合 す ると 、神 明 窟 は 洞 窟 も 浅 く 、 入 □も 亦 大 き くし て 日中 は光 線 も よ く 取 り 入 れ ら れ て明 る. く 、 修 練 の時 大 師 は 読 経 其 の他 の修 業 に多 く使 用 さ れ 、 御 厨 人窟 は中 は 深 く 広 大 であ る が 、 入 □が狭 いた め に暗. く て炊 事 な ど を せ ら れ る折 に、使 用 さ れ たも のと解 す る事 も 、 あ ながち 不自 然 では な いと 思 わ れ る。. な る ほ ど こ の二 つの洞 窟 の形 状 、構 造 か ら 、 それ ぞれ に適 し た利 用法 を し て いる と いう解 釈 は穏 当 と 言 う こと が で. そう 考 え れ ば ﹁人﹂ 抜 き で、 神 餓 調 理所 と いう 意 味 が、 直 接 的 です っき りし てく る 。 語 義 の上 か ら は弘法 大 師 と は直. な か ろ う か 。 あ る いは 、 古 来 土 地 の人 々 の間 に伝 わ って いる ﹁み く ろど﹂と いう 語 は、 ﹁ 御 厨 洞﹂ の略 かも し れ な い。. そし て そ の語 の原 義 通 り 、 伊 勢 神 宮︱ 天 照 皇 太 神 宮 へ供 え る神 撰 を つく る人 の い る 洞窟 と解 す る のが 、 より 妥 当 では. に目 を 移 そう 。 こ こに は ﹃南 路志 ﹄ 等 にも あ る よう に天 照皇 太 神 宮を 祭 ってあ る の であ る。 ﹁ 御 厨 人窟 ﹂ は文 字 通 り 、. る。 ﹁み く り や﹂ は神 餓を 調 理 す る所 を 言 い、 特 に伊 勢 神 宮 のを いう と いう点 であ る。 そし て右 側 の ﹁ 神 明窟 ﹂ の方. き よ う 。 し か し 、 こ こ で筆 者 は、 さ き に ﹁み く り や のほ つみ さ き ﹂ の項 の最 初 に述 べた ﹁み くり や﹂ の語 義 を 想 起 す. (ゴ. 義 一 竹 村.

(17) 文学 に現れた土佐 の風土 と人間. 286(17). 。し かし、 ﹁ 御 あるいは ﹁ 御 厨 人窟 ﹂ ︵. 、 接 の関係 は な い こと に な る。 こ の洞窟 及び中 に祭 ら れ て いる神 社 の由 来 等 に つい ては 今 は ﹃南 路志 ﹄ 等 に拠 る ほか  当 山 守 護 のた め勧請 し た こと に な って いる。 し た が って、事 実 は な い。 ﹃ 南 路 志 ﹄ に は大 師 が こ の窟内 で修 練 の時 、 と し ては 、 大 師 が そ の神 撰を 調 理 し たかも し れ な い。 恐 ら く自 炊 も し た であ ろう.  自 炊 す る 人と いう 弘 法 への土 地 の人 々の認識 ︱ 敬意 を 含 厨洞しな る語 の成 立 の素 因 は 、神 明 窟 の伊勢 神 宮 に あ って、 んだ︱ に は な い、 と考 え る べき であ ろう。. さ て ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ の ﹁み く り や のほ つみさ き ﹂ であ る が 、 こ のみ く り や﹂ は ﹁み く り や 洞 ﹂ の こと を指 す と しか考.   この こ と の間 の 一千 年 の空 白 を 埋 め るも のと し て、 と ﹃南 路 志 ﹄ 盆 八 一一 八〇〇年ごろ︶ え ら れ な い。 弘 法 大 師 の時 代 ︵ 一 一八〇 年 ご ろ の ﹃梁 塵 秘 抄 ﹄ の歌 を設定 す る こと が でき る の では な か ろう か。. 最 御 崎 ﹂ で、 さき に ム ロト ザ キ の呼 称 の項 で述 べたと ころ であ る が、 そ の時 にも 指 摘 し た なお ﹁ほ つみ さ き﹂ は ﹁. よ う に、 土 地 の人 々は ホ ツミ サ キと呼 ぶ こと は ほと んど な い。 ホ ツミ サキ は 一般 に寺 の名 前 のよ う に考 え ら れ て いる. 節 があ る 。 し た が って こ の場 合 も 室 戸崎 を指 す と と も に、 そ こにあ る霊場 最御 崎 寺 を 意 味 し て いると解 す べき であ ろ い つ。. 8 4番 の歌 は、 次 のよ う に読 む のが 、 穏 当 では な か ろう か。 さ て、 こ の 3. 土佐 の船 路 は  恐 ろし や  室 津 が沖 なら では  島 せ が岩 は 立 て  佐 喜 や佐 喜 の  浦 々□   御 厨 の最 御 崎   金 剛浄 土 の連 余 波. 室 津 の沖 にあ る天 ︱ 空 ﹂ では意 味 が通 り にく い。 ﹁島 せ が岩 は 立 て﹂ の ﹁立 右 の中 の ﹁む ろ つが お き な る 天 ﹂ は、 ﹁. 立 て﹂ の活 用 形 が、 ﹁こそ﹂ の係 助 詞 が なく て ﹁立 て﹂ と 已然 形 で結 ん で いる所 て﹂ は、 荒 井 ・評 釈 の言 う よ う に、 ﹁.

(18) 8)285. も 疑 間 であ る が 、 ﹁立 って い て﹂ と 解 す る こと にし てお く 。 ﹁ 島 せ が岩 ﹂ は前 述 のよ う に ﹁ 島 瀬 の岩 ﹂ と と り た い。 そ. し て こ こは 、 ﹁室 津 の岬 で は沖 を 通 ら な く ては、 海 岸 近 く は島 の瀬 に岩 が立 って い て﹂ の意 と な ろ う か 。 それ にし て. も ﹁ 室 津 が沖 ︱ 室 津 の沖 で な く て は ﹂ が す わ り が 悪 い。 ﹁ 沖 な る 天 は﹂ で解 釈 す る方 法 が つか な いと いう点 に ついて も なお考 究 を 要 す る。. ﹁さ き や さ き のう ち く ら﹂ は ﹁さ き や さき のう ら う ら ﹂ と と ると し て、 こ の二 つの ﹁さ き ﹂ に ﹁ 崎﹂と ﹁ 佐 喜﹂ の. いず れを あ て る か に つい て諸 注 釈 は意 見 が 三 つに分 か れ て いる。 ﹁佐 喜 や佐 喜 の浦 々﹂ と 、  固有 名 詞 の ﹁ 佐 喜﹂ の繰. り 返 し と 見 てよ い の では あ るま いか 。 佐 喜 だ け にと ると 、 浦 々と 複 数 な のが気 にな る が 、 佐 喜 の浜 は か なり 広 い地 域. な の で、 そ の浦 々と いち お う 解 し てお く 。 以 上 のよ う に考 え て通 釈 し てみると次 のよ う に な ろう 。. 土佐 への海 路 の船 旅 は 恐 ろ し い こと よ 。室 津 岬 を 回 る のに は 、 沖 を 通ら なく ては 、 島 の瀬 の岩 は け わ し く そび え. 立 って い る 。 阿 波 の方 か ら ゆ く 船 路 の右手 に は 佐 喜 の浜 の浦 が続 き 、御 厨洞 のあ る室 戸 の岬 を 回 ると向 こう の岬. 行当岬︶と の間 の湾 は 、 高 い波 は な いが、 岬 ︵ ︵ 室戸岬︶の激 し い波 の余波 が 一面 に波 頭 を そ ろ え て西 の方 へ打 ち寄. せ て いる よ 。 室 戸 岬 の山 上 に は弘法 大 師 開 基 の最 御 崎 寺 が あ り 、 西 方行 当岬 の北 方 台 地 に は 、 同 じ く 大 師 の開 い た金 剛 頂 寺 が あ り 、 そ のあ た り 一帯 は 、大 師 に ゆ かり 深 い霊場 であ る。. 室 戸 岬 の海 の難 所 た る こと は 、 十 世 紀 に紀 貫 之 が体 験 し 、十 七 世 紀 の初 め 土佐 に入 った藩 主 山内 一豊 、 そ の子 忠 義. た ち が痛 切 に味 わ ったと ころ であ る 。 いや つい四十 年 ほど前 国鉄 土 讃 線 が全 通す るま で、 筆者 たち 土佐 人 は上方 に行 く に は 必ず オ ハナ で船 酔 いに悩 ま さ れ たも のであ る 。. 古 来 土佐 は南 陳僻 遠 の島 国 で、 ﹁天 さ か る ひ な﹂ 理還き 土 佐 路 ﹂ と 万 葉 によま れ た地 の果 て であ る。 罪を 得 た いか に. 多 く の都 人 た ち が 波 荒 き 八重 の潮 路 を 、 扁 舟 に身 を 任 せ て幾 夜 の波 枕 を 重 ね た こと であ ろ う か 。 土 佐 への船 路 の恐し. (ゴ. 義 一 村 竹.

(19) 文学 に現れた土佐 の風土 と人間 9) (ゴ. 28イ. さ を 、 八 百 年 前 の こ の歌 謡 は い み じ く も 印 象 深 く 歌 い上 げ て い る こと で あ る 。 ○次 の項 の囲1 9は本書 の側 ページ の9行目 であ る こと を示す。以下同じ。. 注 ︵1︶ 側1 9   一一八〇年前後   この年 は中央 の歴史 では源頼朝挙兵 の年 であり 、翌 々年 ︵ 寿永 元年︶ には土佐 の歴史 では、. 6号、昭 甲南国文﹂ 2 頼朝 の弟 の希 義 が長 岡郡年越山 で平家方 に討 たれ る。本稿 の続 編、中世 編0 ﹁ 源希義物 語﹂ の項 ︵ ﹁ 4 5 o3︶参 照。 ︵2︶ Ш1 3  一 並験所歌六首 実数 は九首 。¨. 4年 翻刻版 ﹃南路志﹂闘国 7   ﹃南路志﹄武藤致和編 ﹃南路志﹄ 一二〇巻 、  一八 一三成立。高知県文教協会 、昭和 3 ︵3︶ 圏1 1 篇上 巻 によ る。以下同じ。. 4﹂拙稿 ﹁文学 に現れ た土佐 の風土 と人間﹂︱中古篇0 の ﹁ 室戸津 津寺︶  ﹁甲南女子大学 研究紀 要 1 ︵4︶ 囲1 1  津 照寺 ︵ 寺地蔵菩薩 霊験記﹂参照。. ︵5︶ 囲1 3   ﹃皆山集﹄ 松 野尾章行編、 土佐国史料類纂 一一六巻。高 知県立図書館蔵 。 同図書館 より翻刻版刊行。﹃皆山 集﹄ 巻 8 ︵ 昭和 9 4 o3︶。 5 に 年 い お 終り 、慶長 三年 ︵一六〇 三︶完 了した長宗 七 り 同 ち 帳 五 ︵ 五 八 ︶ 始 ま 十 う 検   天 十 年 八 の 地 正 一 ︵6︶ 囲1 1   正 天 0年 3月 ま でで完了。 2年 3月 より 同 4 我部検地 の記録 。全 三六 八冊が現存す る。高 知県立 図書館 より醜刻 版を刊行 。昭和 3 安芸 郡上﹂ 全十 九巻 。同書 ﹁. ﹃平安遺文﹄ 一〇 四七︶。 東寺百合文書﹂延久 二年 ︵一〇七〇︶七月 八 日付 ︵ ︵7︶ 間1 1  金剛頂寺解案   ﹁  一鍵は 一八五   一海里は 一八五二 メート ルであ るから 、 3 の訳語 、  十 分 の 一海里。 ︵8︶ 囲1 1  上 ハ鍵 鍵 はケーブ ル ︵ 8げ︼ ・ニ メート ルであり 、六鍵は 一一一一メート ルとな る。. ︵9︶ ロ1 3  弘法大師と金剛と の関係 に ついて  弘法 大師 の草創と伝えられる、土佐 の国幡多 の足摺岬 にあ る四国八十 八カ. 所第 二十 八番札所 は金剛福寺と いう。 九禄末期 に山内氏 の儒者緒方宗哲 が編述し たと推定 され る藩政中期 の土佐七郡 の郷村 の歴史 ︵0 1︶ 帥1 9   ﹃土佐州郡志﹄ 一 ・地 理 ・統 計資料集 。.

(20)

参照

関連したドキュメント

in vivo では RIF は NTCP をほとんど阻害していないと考えられ、血漿中 DHEAS 濃度上 昇の原因にはならないと考えられた。血漿中 DHEAS 濃度の上昇が RIF による OATP

を軌道にのせることができた。最後の2年間 では,本学が他大学に比して遅々としていた

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

脱型時期などの違いが強度発現に大きな差を及ぼすと

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ