ある女性の死から生への眼差し
―女性に対する暴力の根絶を求めて祈る―
薄 井 篤 子
1. はじめに
2016 年 12 月 1 日、19 時 30 分から日本聖公会東京教区・聖アンデレ主 教座聖堂において、東京教区主教の大畑喜道区主教による司式のもと、「女 性に対する暴力の根絶を求めて祈る」として代祷と礼拝が行われた。静かな 聖堂の中で響く聖書朗読の内容は、「士師記」19 章 1–30 節、「側そ ば め女」とし て記録されている女性が夫や父によって暴力にさらされて生命を失っていっ た物語であった。続いて、聖アンデレ主教座聖堂主任司祭である笹森田鶴司 祭によって説教が行われた。我々参列者は聖書には記されていない女性の叫 び声に耳を傾け、思いを馳せ、想像することを求められた。その後、「悔い 改めて新しく生きるものと造りかえてほしい」との祈りが唱えられた。この
「新しく生きるもの」とはどういうものだろうか。聖書に残されているこの 女性の死は今を生きる私たちに何を伝えるのか。信徒ではない自分ではある が、幸運なことにこの礼拝に参列して説教を聞くことができた。この体験か ら、改めて聖公会を中心にキリスト教会における女性に対する暴力の根絶へ の取組をまとめ、今求められている新しいいのちを考えてみたい。
2. 女性に対する暴力と闘う
世界の女性と女児の 3 人に1人は、生涯に一度、身体的暴力あるいは 性暴力の被害を経験します。彼女たちのうち、何らかの助けを求める人 は 40%以下です。そのうち警察に助けを求めるのは、たったの 10%で す。2012 年に殺害された世界の女性の半分は、親密なパートナーある いは家族の手によって殺害されました。1)
これは、ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関 United Nations Entity for Gender Equality and the Empowerment of Women(UN Women) の HP にある「女性に対する暴力の撤廃に向けて」
の文章である。女性は世界中で差別と暴力を受けているという事実を伝えて いる。世界のどこにおいても、女性の賃金は低く、教育を受ける機会や意思 決定の場への参加の機会が少なく、力を奪われて貧困に苦しんでいる。そう した弱い立場の女性への暴力は、レイプや家庭内暴力 Domestic Violence
(DV)、戦争犯罪としての性暴力、また児童婚や女性器切除などの有害な伝 統的慣行などとして、さまざまな形で現れている。
女性への暴力、特に家族内暴力に関する関心が高まり、国際的社会的問 題として取り扱われるようになったのは、1975 年から始まった「国際婦人 の 10 年間」であった。1986 年の国連女性の地位委員会 United Nations Commission on the Status of Women(UNCSW)では、家庭内暴力が女 性に及ぼす影響の理解に焦点を当て、家庭内の暴力が普遍的な性格を持つ ことを指摘した。1993 年ウイーンで世界人権会議が開催され、女性の人権
(human rights of women)が明記された。国連女性の地位委員会で「女 性に対するあらゆる形態の暴力の撤廃に関する宣言(Declaration on the Elimination of All Forms of Violence against Women)」の草案を作成し、
1993 年末に総会で採択された。宣言では、「暴力とは家庭内もしくは地域 社会で起こり、国家によって容認されてきた身体的、性的、心理的暴力であ る」と明確な定義を行った。さらに世界の公然たるテーマとして取り上げら れたのは、1995 年の北京で開かれた第 4 回世界女性会議であった。それは
「起きる場所の公私を問わず,女性に肉体的,性的又は心理的な傷害若しく は苦しみをもたらす,若しくはもたらすおそれのある,ジェンダーに基づく いかなる暴力行為をも意味し,そのような行為をすると脅すこと,強制又は 自由の恣意的な剥奪をも含む。」(行動綱領第 4 章 戦略目標及び行動 D 女性に対する暴力 113)として、「女性に対する暴力」を幅広くとらえ、女 性及び少女に対するあらゆる形態の暴力を阻止し,撤廃することを宣言して いる。数多くの国々が家庭内暴力や性的虐待をはじめとする様々な形態の暴 力に反対する法制度を備えるようになり、日本においても 2001 年に「配偶 者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」法(2016 年には「配
偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」として改正)が制 定されるにいたった。
こうして数十年にわたる国連や市民社会の取り組みにより、ジェンダーに 基づく暴力の撤廃は、各国や国際的な課題の上位を占め、緊急の対策を必要 とする世界的な問題となってきた。しかし残念ながら、暴力防止のための取 り組みはまだ十分とは言えず、女性に対し暴力を振るったとしても、処罰さ れないままに終わる例も多い。女性の権利を侵害する暴力を防止するため、
また暴力を受けている女性と少女が適切な保護/援助を受けられるようにす るために、いっそうの取り組みが必要である。そこで、国連では 2008 年に 潘基文国連事務総長によって、「女性に対する暴力撤廃キャンペーン UNiTE to End Violence Against Women Campaign」としてすべての政府、市民 社会、女性団体、男性、若者、民間セクター、メディア、国連システム全 体、そして個人の力を結集して、女性に対するあらゆる形態の暴力の撤廃 に取り組むための政策提言イニシアチブを立ち上げた。そして、毎年 11 月 25 日の「女性に対する暴力撤廃の国際デー」から 12 月 10 日「世界人権 デー」までを、“女性と少女に対するあらゆる暴力(性差別と結びついた主 に女性と少女に対する暴力)を撤廃する”16 日間と位置付けて、「ジェンダー 暴力と闘う 16 日間キャンペーン」として世界各国でさまざまなイベントや 活動が行われている2)。私が参加した礼拝もその一環であった。
3. 聖書の中の女性と暴力
さて、私が礼拝で聞いた残酷な物語は聖書の中で、またその解釈の営みに おいてどう位置づけられているのであろうか。聖書には、様々な物語が含ま れているが、時には残忍で衝撃的な描写がなされており、読み手がどのよう な意味があるのかと戸惑ってしまう、よってあまり教会でも取り上げられる ことがない話の1つがこの「士師記」19 章ではないであろうか。笹森司祭 でさえも「あまりにも残忍で恐ろしく、悲惨な物語ですから、できればもう 二度と教会では読んでは欲しくないと思われるような箇所です」と説教の中 で語ったほどである。
あるレビ人とユダのベツレヘムの女=側女が暮らしていたが、側女が父
の家へ帰ってしまったので、それを迎えに行き、その帰りにベニヤミン 族の領地にあるギブアという町に立ち寄って一夜を過ごす。2 人は誰か が家に泊めてくれるのを、町の広場で待っていた。そしてついに、1 人 の老人が迎え入れてくれた。しかし、「町のならず者」が老人の家を取 り囲み、レビ人を外に出せと要求してくる。レビ人と性交渉するためで ある。老人は代わりに自分の処女の娘と、レビ人の側女を差し出す提案 をする。その後、レビ人は自分の側女をつかんで外に押し出すと、彼ら は彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が差すころよう やく彼女を放した。朝になるころ、彼女は主人のいる家の入口までたど りつき、明るくなるまでそこに倒れていた。レビ人が朝起きて、旅を続 けようと戸を開け、外に出てみると、側女が倒れていたので、ロバに乗 せて自分の郷里に向かって旅立った。家に着くと、彼は刃物をとって 側女をつかみ、その体を 12 の部位に切り離し、イスラエルの各地域に 送った。それを見た者たちは言った。「イスラエル人がエジプトの地か ら上がってきた日から今日まで、こんなことは起こったこともなけれ ば、見たこともない。このことを心に留め、よく考えて語れ」(「士師記」
19:29)。
この、女性に加えられた暴行の物語、女性の従属的地位を是認するような 物語をどのように受け止めれば良いのだろうか。彼女には何の権利もなく、
聖書の中では沈黙している。それ故に、その哀れさ、悲惨さに胸が痛む。こ の物語は何を伝えるのであろうか。
この後、この夫はギブアの住民が極悪非道なことをした事実を全イスラエ ルに知らしめて、協議してほしいと訴えた。イスラエル諸部族の指導者たち は集結し、ベニヤミン族にならず者の引き渡しを求める。しかし拒絶され たため、ベニヤミン族に対する制裁戦争が勃発する。(「士師記」20:8–48)
夫の側女に対する暴行はならず者に劣らず酷い。この話の中で側女が体験し た、死に至らしめられた虐待は、彼が名誉を傷つけられた(財産を破壊され た)ことから戦争が勃発した原因として提起されているにすぎない。側女が 身代わりにされ、犠牲になったことは一言も触れられていない。
この物語を含め、聖書の中で女性が不幸になる物語は少なくない。同じ
「士師記」の中には、アンモン人と戦うエフタが、娘を戦勝感謝のいけにえ
として焼き尽くす捧げ者にする物語がある。また、先に挙げたベニヤミン族 との戦いには略奪の話が続く。ギレアドのヤベシュという町は戦う者を1人 も送ってこなかった。そのためギルアドのヤベシュの住民は、400 人の娘た ちを除いて全員殺される。400 人の娘たちは、生き残ったベニヤミン族の 男たちの妻として彼らに与えられた。それでも女性の人数が不十分だったた め、ベニヤミン族には、多くの女性を強制的に連れ去る許可が与えられる。
そこでも女性たちの声はなく、人権は無視されている。
何世紀にもわたって語られ、編纂され、伝えられ、解釈されてきた書物と して聖書を理解し、さらに、教会もまた、そのような聖書を通して男性と女 性の関係性を説いてきたことを考える時、女性としては聖書の権威を受け入 れるのか、拒絶するのか、選択を迫られることになる。または、そのなかか ら埋もれていた伝承を回復しようとするのか。その挑戦に取り組んだのが フィリス・トリブルの『恐怖のテキスト』(邦訳=『旧約聖書の悲しみの女 性たち』日本基督教団出版局、1994 年)であった。彼女は、「女性の視点 から語ること」をなにより求める3)。
「士師記」は「ヨシュア記」とともに、「創世記」から「列王記下」に至 る物語における「かなめ」をなしているという4)。「士師記」2 章 6 節から 16 章 31 節までは、イスラエルがヤハウェを忘れ、「背信」の行為をすると、
多民族から圧迫を受ける。それをきっかけにイスラエルは悔い改め、士師と 呼ばれる指導者がイスラエルを救い、ヤハウェ神への信仰に立ち戻って平 安が訪れるという物語が続く。しかし、序である 1 章から 2 章 5 節までと、
あとがきの 17 章から 21 章は後世に加筆されたものであるという。その目 的は、「イスラエルのモラルの低下と霊的な退廃」を描き、だからこそ「王 制をしくべきだ」というプロパガンダのためだという。19 章 1 節には「そ のころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを 行っていた」という文章があり、暴力が横行するのは王がいないからである と言っているかのようだ。終末の章、17–21 章はしばしば、単なる補遺と 見なされている。加筆されたのは、「ベニヤミン戦争」を記述することで士 師もいなければ救済者もいない、堕落した世界を浮かび上がらせたかったた めではないかと考えられている5)。その後、正義をもたらしたのは、サウル とダビデという王であり、「士師記」のエピソードはその序奏なのだ、と聖 書学では捉えられているという。
しかし、このように考えるのは、男性の視点に立っているからである、と トリブルは言う。その読み方では、男から女性が受けた虐待は全く見過ごさ れ、そこに神は助けに現れなかったことも読み落としてしまう。トリブル は、「物語を別の意図のもとに書き換えない、解釈をしない」ことを提案す る。女性が「側女」と表現されていることや、夫の元から父親のもとへ帰っ たとの記述から、女性の方に暴力を誘発する原因があったのではないか、と いった捉え方も否定する。これはこの世のありのままの描写であり、そこに は日常的な性暴力が描かれている。その恐怖自体を「書き換えや解釈」に よって無視をすることなく、その現実こそを見つめること、を彼女は提案す る。そして、犠牲者のためにこれらの物語を語り続けること。それは「嘆き 悲しみながら語ること」と言うのである。それは、男性たちがプライドを保 つために復讐を果した物語として語るのではなく、二度とこのような女性た ちへの暴力が起きないように何をするべきかをよく考えながら語ることなの である。
この側女の話をはじめとして聖書の中に描かれた女に対する暴力に対し て、渡邊さゆりさんはまさに「女たちの哀歌」というタイトルの文章の中で
「懊悩を伴わずに読むことができない」と書いている。そして「聖書の中で 女たちがひどい仕打ちを受けるのはなぜなのですか?との哀歌は、多くのキ リスト教会の中では〈雑音〉と処されてきたように思います」「教会では(死 からの新しいいのち)の賛歌ばかりで、(いのちから死)を歌う哀歌はノイ ズとされていないでしょうか」と訴えている6)。この〈雑音〉は教会の一体 性を妨げ、不調和を生み出してしまうだけのものなのか。
もう一つのトリブルの答えは、「これらの虐待された女たちの物語を、聖 書の言葉の光の中で解釈すること」というものである7)。「名もない士師記 の女は、イエスのように、自分の体を裂いて、多くの人に与えたのです。
……これらの女たちを理解するために聖書自身を用いることは、これまでの 物語に贖いの価値を与えることになるでしょう。わたしたちはこれらの女た ちを忘れませんし、それを新しい仕方で語りつぐのです-聖書に書かれてい るこの恐怖をはっきり認め、しかしそれを最後の言葉としないという方法 で」と彼女は求めている。しかし、女性の苦しみを十字架のイエスの苦しみ と同じように扱うことは、女性が社会で犠牲とされてきた状況を正当化し、
維持することになりはしないだろうか、という疑問が生じる。いや、「犠牲
を前提とした贖い」という考えにたたないためにこそ、「よく考えて」と「新 しい仕方で」とトリブルは念を押しているのだととらえるべきであろう。そ してトリブルが言うようにこれを最後の言葉としないためには、今の時代の 中で語り直し、語り続けることによって、暴力で失われたいのちを呼び起こ さねばならない。
4. 聖公会における暴力克服への取組
女性への暴力、ジェンダーに基づく暴力を根絶するための礼拝を持つに至 るまでの、聖公会での取組の歩みを見ていく。
先に挙げた国連女性の地位委員会(UNCSW)には国連に連なる組織や 民間 NGO 団体が参加しており、世界各地の聖公会教会の集まりであるア ングリカン・コミュニオンも NGO の一つとして参加している。アングリ カン・コミュニオンにはさらに聖公会中央協議会 Anglican Counsultative Council(ACC)という組織があり、1996 年、その中に世界聖公会女性ネッ トワーク The International Anglican Women's Network(IAWN)が誕生 した。2005 年第 13 回 ACC において「各各区(世界に 34 管区)に女性に 関する課題の担当者(女性デスク)を設置すること」「聖公会のすべての段 階の意思決定機関に、男女が平等に参与すること」という決議が採択され た。加えて、国連女性の地位委員会に各管区から代表を参加させるよう求 めたため、ネットワークは 2002 年以降、国連女性の地位委員会に代表を送 り、その年に挙げられる重点的な課題について世界の女性たちと取り組むべ き目標について共に考え、意見を表明してきている。当然ながら、この“女 性と少女に対するあらゆる暴力(性差別と結びついた主に女性と少女に対す る暴力)を撤廃する”16 日間キャンペーンにも参加しており、ジェンダー に起因する暴力を根絶するための取り組みをするよう各管区に求めている。
ACC は聖公会の女性たちが、言葉や文化の違いを超えて、誰でも世界の現 実に直接関わる機会を持つことで、各教会でジェンダー不平等の改善への努 力がなされるよう促しているのである。
日本聖公会では 2002 年に日本聖公会正義と平和委員会・ジェンダー委員 会が発足し、2005 年に名称を「正義と平和委員会・ジェンダープロジェク ト」と改称して活動している。機関誌『タリタ・クム』を発行し、会議を開
催しながら、教会におけるジェンダー問題を共有し、ネットワークづくりを 進めている8)。ACC の決議を受けて日本聖公会においても教会におけるジェ ンダー平等に向けての取組が一層進められることを願って、2006 年の第 56 定期総会の場で「女性デスク」の設置が決定された。
女性デスクは、以下の 3 点を任務として宣教主事のもとに置かれること になった。
1. 女性が社会と教会において十全にそれぞれの力を発揮し、神の宣教 に奉仕することができるように研修の機会を推進すること。特にす べての意思決定機関における女性の参加を高めることに努力するこ と。
2. 女性の諸団体の間に必要に応じた連絡・調整を行い、情報と課題の 共有に努めること
3. 国際的なネットワークと連絡・調整を行うこと
女性デスクもジェンダープロジェクトと連携しながら、このキャンペーン を実施しており、関連したテーマでの勉強会や講演会を開催している。加え て、2011 年より全教会に対して以下のような「代祷のお願い」を配ってい た。
今年も 11 月 25 日から 12 月 10 日までのこの「ジェンダー暴力と闘う 16 日間キャンペーン」のことをおぼえ、この期間中の礼拝時に、女性 と少女へのあらゆる形態の暴力が根絶されることを願って、下記のお祈 りを代祷に加えてくださいますよう、どうぞよろしくお願い申し上げま す。
「ジェンダー暴力と闘う 16 日間キャンペーン」の代祷
―心と身体が傷ついている人びとのために―
生きる力を与えてくださる神さま わたしたちの社会も
教会も多くの差別と暴力を黙認し 長い間受け入れてきました。
イエスはすべての人の尊厳を尊ばれ、いのちを回復されます。
心と身体が傷ついて苦しみ 痛みと怖れの中にいる人びと、
ことに女性と少女たちに、
声をあげる勇気を与えてください。
あなたの癒しによって
希望を見出すことができるように導いてください。
そしてわたしたちが 小さな声 声にならない声に耳を傾け 共に生きることができますように。
わたしたちと一緒に祈ってくださるイエスのみ名によって。
アーメン
(『わたしたちの祈り集―こころを神に』「女性」が教会を考える会・
東京/ 2016 年改訂版より)
それを受けて、今年ようやく初めてこの期間中に東京教区において「女性 に対する暴力の根絶を求めて祈る礼拝」が実行されるに至ったのであった。
「小さな一歩ですが、信仰共同体として女性たちへの暴力に反対していくた めには、わたしたちはまず、み言葉を聞き、共に祈りあうことから始めたい と願いました。また、今日のこの礼拝は、自分たちの祈りを深めるというこ とだけではなく、肉体的に、精神的に、霊的に、暴力を受けて苦しむ多くの 女性や少女たちへの教会としての連帯のしるしのひとつになればと願っての ことでした」と説教の初めに、その意図が語られた。
以上の取組を見ると、聖公会には世界の直面している課題に向き合い、聖 公会全体で取り組むという姿勢を強く有し実戦に努めていることがわかる。
とりわけその課題の中でも、ジェンダーに関わる課題として、女性に対する 暴力を克服すること、意思決定に女性の割合を増やすことを重視しており、
女性たちがその動きに関わるよう会全体に働きかけていることが注目され る。実際、『タリタ・クム』からは女性デスクやジェンダープロジェクトの 各メンバーが国際的な会合に参加し、そこで得た情報や課題を国内に持ち帰 り、共有しようと努めている様子が伝わってくる。
女性デスクが最も力を入れているもう一つの任務は、「1.すべての意思 決定機関における女性の参加を高めることに努力すること」である。2012 年の日本聖公会の宣教協議会では「この世に仕える教会の形成のためには、
様々な立場の人びとが、教会・教区・管区の意思決定機関へ平等に参画する ことが求められます。その一歩として、女性の比率が固まるよう働きかけ、
2022 年までに少なくとも 30%の参画を実現し、さらに青年層の参画も推進 します」という提言がなされた。これを受けて、女性デスクは「2022 年ま でに少なくとも 30%を女性に」をキャッチフレーズにして「202230 運動」
を展開、ポスターも作成している。
日本聖公会が女性の司祭の叙階を認めるにいたったのは 1998 年のことで あり、それ以降、すこしずつ聖職にも委員においても女性の数は増えてはい る。2008 年には女性司祭誕生 10 周年感謝礼拝が行われ、その後も 10 数人 が現職として活躍している。しかし、女性司祭の司式による礼拝を体験した ことがない教会員もまだ少なくない。教区によって差が大きく、比較的な大 規模な教区であっても教区代議員はすべて男性という教会もまだ多い。教区 の委員会活動においても財務や試験や養成といった活動内容の会に女性が入 ることはない。女性がさらに多様な教会活動に参画し、発言もし、意思決定 にも加わって行けば、性別での力関係も歪みは是正され、日常の関係に潜む 暴力性に敏感になっていくのではないか9)。
5. 「ゆるし」への問い直し
ここで、決して忘れてはならないのは、2001 年京都教区内で起こった司 祭による性的虐待とその最高裁への訴訟という事件が聖公会内部にもたらし た痛みであろう。性被害を受けたものの、当初は教会との間に解決を望んで いた被害者だったが、教区や委員会は加害者たる牧師の主張を受け入れたた め、裁判所に訴えるしかなかった。京都教区は被害者に二次被害を与えし まった自らの対応のまずさを協議し続け、ようやく 2005 年に教区主教が謝 罪をし、牧師の性的虐待について陳謝をした。この事件の反省から、京都 教区常置委員会はセクシャル・ハラスメント防止・相談委員会を発足させ た10)。そして先に挙げた、2006 年日本聖公会第 56 定期総会では、課題の 担当者の設置以外に、各教区にセクシャル・ハラスメント防止機関ならびに 相談窓口を設置するためのモデルを策定することが決議された。その結果、
現在はすべての教区に相談窓口が設置されている。2013 年には継続的に研 鑽を続けるためにブックレット『自分を愛するように―教会におけるハラス メントを防止するために―』が発行されている11)。
京都教区で起きた聖職者による性的虐待行為への反省、二度と起こらない
ようにという願いは、12 月 1 日の説教においてもはっきりと言及された。「そ して、私たちは認めねばなりません、教会も社会の一部であり、教会の中に もジェンダーに起因する暴力があることを。……それが故に、例えば日本聖 公会という小さな信仰共同体の中でも少女たちが聖職から性虐待を繰り返し 受け、女性や少女が聖職者や信徒にストーキングされ、いやがらせやレイプ をされても同意していたと言われ、泣き寝入りをしなくてはなりませんでし た。DV の被害者も加害者も、ほぼどの教会にもいたはずなのに、そのこと の多くが見過ごされてきたのです」と。この箇所は、加害者である牧師の主 張を受け入れ、被害者をさらに傷つけたことも含め、日常の中でいかに多く のことを見過ごしてきたかという、自分へ怒りが痛いほど伝わってきた。
京都教区の執事であり、京都教セクシャル・ハラスメント防止・相談委員 会委員でもある三木メイさんは「(被害者の)訴えはなぜ見過ごされたのか」
と問う中で、真相は不明ではあるが、訴えを全面否定して事実無根を主張す る牧師を支える構造的な問題点が教会の中にあったのではないか、と指摘し ている。そこに挙げられているのは、聖職者がセクハラをするはずがないと いう聖職への思い込み、および教会内にある権力関係である。「神の前に平 等と言いながらも、教会内や教区内の発言力、影響力、意思決定力は、聖職 が信徒よりも強く、男性が女性より強く、大人が子どもよりも強いという現 実がある。……深刻なハラスメントは、このような力の差があるところで発 生するのである。」12)こうした根深い性差別に起因した構造的、組織的な問 題点が重なり合うと、存在するにもかかわらず、私たちは見過ごしてしまう のである。
そうした教会内の共同体が抱える男性中心的な体質的構造的な問題点も確 かに性暴力の発生と繰り返しにつながっているではあろうが、では女性司祭 や女性委員が増えさえすれば暴力被害がなくなるのか、被害者の支援に問題 がなくなるのであろうか? 他のほとんどの組織と共通した問題点とは別 に、「信仰」の共同体としてはその信仰上の理念をも問い直すことが求めら れるのではないだろうか。そうした神学的枠組みに関わる問題として、ドメ スティック・バイオレンスを受けた女性が避難後に長期滞在をする矯風会ス テップ・ハウス所長の松浦薫さんはこう答えている13)。
一番危ないのが「ゆるしなさい」といメッセージです。暴力はゆるさな
くていいし、むしろゆるしてはいけないのです。それからこれも危険だ と思うのは「祈りなさい」というメッセージですね。被害者の長い回復 の道のりの中で「ゆるし」や「祈り」が大切になってくる時期はもちろ んあるでしょう。でも、暴力を受けている女性が必死に相談してきてい る時に、現状をまったく変えない「ゆるせ」「祈れ」という言葉は危険 です。……その意味で牧師先生たちには「ゆるし、祈りましょう」とい う言葉をどこで使うのかには慎重であってほしいと思います。
説教においても「だからこそ、私たちは捨てねばなりません。暴力を振る われる方にも落ち度があるとか、それは教育的配慮であったとか、また聖書 はあるとあらゆる忍耐と赦しを求められているのだから、過去の事を水に流 すのがクリスチャンとしての選びだという誤った神話や聖書理解を」と言及 された。
「ゆるし」はまさに信仰上大きな問題であり、核心であろう。しかし、そ れは決して加害行為を見過ごすということではなく、「ゆるし」は被害者に 要求されるべきものではない。そして、もう 1 つの理念は「犠牲」である。
苦悩はどんなものでも意義があるとして、耐えることが霊的であると強調が 行われることがある。だが、苦しみを捧げることを尊ぶのは、決して暴力へ の適切な対応ではない。こうしたことをもっと確認する必要があるのではな いかという指摘は重要である。
とりわけキリスト者にとって「ゆるし」が持つ複雑さについては、すで に 2000 年に発表されたアン・マイルズの『ドメスティック・バイオレンス そのとき教会は』の第 5 章「ゆるしとはどういうことか」において徹底的 に論じられている14)。長年病院でチャプレンとして働いてきたマイルズ牧師 は、多くの被害者のインタビューを通して、ゆるしという信仰共同体が持つ 神学的枠組みに格闘している被害者の現実をまざまざと見せつけた。そし て、「多くの聖職者たちは、ドメスティック・バイオレンスの被害者たちが この問題と格闘する際の妨げとなっている」と厳しく指摘し、「彼女たちが この複雑な問題を自分自身の時間枠で、私たちの圧力から自由になって取り 組むことができるようにすることによって、被害者への愛と関心を表してい かねばならない」とまで言っている15)。「ドメスティック・バイオレンスに ついてすべての聖職者が知っておかねばならないこと」として、「適切な教
育の必要性」、「地域の様々な援助提供者たちとの連携」を強く訴える。
日本においても、教会と神学の問題を扱う月刊誌『福音と世界』におい て、2003 年 10 月にすでに連続特集「牧師という仕事」の第 8 回として「バ タラーとしての牧師」をテーマに据え、いくつかの論文を紹介している16)。 そこでも、「聖職者」をめぐる不均衡な力関係と性別意識が暴力の温床とな りがちであることが繰り返し指摘されてきているのである。
このように、暴力の克服を課題として掲げているのは、日本聖公会だけに とどまらない。関連する動きとして、キリスト教会の世界的なエキュメニカ ル組織である世界教会協議会 World Council of Churches(WCC)におけ る取組も簡単に指摘しておきたい。1948 年に設立した WCC は、イエス・
キリストへの共通の信仰をもち、唯一神(父・子・聖霊)の栄光を表わすた めに召された 345 のメンバーチャーチ17)により構成される世界的な団体で ある。1998 年ジンバブエのハラレで開かれた総会において WCC は「2001 年 か ら 10 年 間、 す べ て の 暴 力 を 克 服 す る 10 年 Decade to Overcome Violence(DOV)」プログラムを展開していくことを全会一致で決定した。
だが、その前の 1991 年から 2000 年までの 10 年間、WCC は「教会が女性 と連帯するエキュメニカルな 10 年(教会女性 10 年)」をすでに提唱してお り、教会と社会における女性との連帯に関しても先駆的な努力をし続けてい る。DOV プログラムにおいても、「鳩の翼にのって」と題して「ジェンダー 暴力と闘う 16 日間キャンペーン」を実施した。
日本キリスト教協議会 National Christian Council in Japan(NCC)に おいても、女性委員会がこうした世界の動きに連動して情報交換や討議を行 い、女性の人権に関わる問題に関心を払い、共働を進めてきた18)。その活動 の一つに「世界祈祷日」がある。世界祈祷日は、1887 年アメリカの長老派 の女性たちが移民その他圧迫されている人々を覚えて祈る日として始めたも ので、やがて教派をこえて世界中に広まり、日本でも 1932 年以来 1945 年 を除いて守られてきた。世界祈祷日は、毎年レントの第一金曜日に 170 の 国と地域で、日本では約 250 ケ所で、式文の翻訳、準備と実施、奉献、報 告まですべて女性委員会の責任で行われている。世界祈祷日の各地の集会で ささげられた献金は、世界祈祷日国際委員会を通して式文作成国の女性たち の活動のため、また国内外の女性たちの働きのために用いられる。国内で は、先に挙げた女性の家「HELP」や「ステップ・ハウス」の活動や、聖公
会のハラスメント防止のためのブックレット作成に助成されている19)。
6. おわりに―「よく考えて、語る」を継続する
性暴力、ドメスティック・バイオレンスなど、女性への暴力を克服するた めの取組は、教会活動への女性の参画とともに、エキュメニカルな動きや、
聖公会のように国際的な組織においては、最大の課題として位置づけられて きた。各種の委員会も地道に取り組んできた。聖書解読にしてもトリブルが 提唱してからもう 20 年以上の時間がたっている。しかし、個々の教会や日 常生活の中の関係においては、必ずしも問題が共有されているとは思えな い。明確に変化が起っているようには思えないのである。
本論では聖公会などのキリスト教界の取組と現状を見た訳であるが、企業 であれ、学校であれ、もちろん家族内においても、暴力の問題は加害者と被 害者といった当事者だけの問題ではなく、それを取り巻く人々の意識や責任 に関わる問題でもある。そうした視点にたって様々な啓発活動や対策が行わ れてはいるものの、残念ながら日常的な思考や行動を変えるには、相当な時 間が必要であると思わざるをえない。
その中で、教会が特にこうした問題を無視するわけにはいかないのは、教 会が目指す共同体のイメージに深く関わるからである。12 月 1 日の礼拝の 説教は「わたしたちは、実践しなければなりません。主イエス様の示してく ださった自由で平等な共同体の関係の積み重ねこそが、教会や社会の新しい 常識を形成し、性別を超えて、すべての人を解放していく希望をもって歩ん でいくことを」という言葉で最後は結ばれた。自由で平等な共同体とは、ど のような教会であろうか?「すべての人に与えられている尊厳を心から尊ぶ 場となり、痛んでいる人々のために喜び仕える教会」(第 57 定期総会女性 デスク報告より)であろうか20)。見過ごされそうになるいのちを語り続ける 力は、対等なパートナーシップを持って働く共同体を生み出す力であり、新 たな生き方をもたらす力でもある。これから私がするべきことは、ひどい仕 打ちを受けて死んでいった女性のことを忘れず、語り続けること。それがこ の夜に私が説教から得たメッセージであった。
注
1) UN Women は、2010 年 7 月の国連総会決議により設立された。これにより、国 連加盟国はジェンダー平等と女性のエンパワーメントに関する組織の目標への歴史 的な一歩を踏み出したと言える。http://japan.unwomen.org/ja/about-us/about- un-women# sthash.eor6Mkm0.dpuf
2) UN Women 日本事務所 女性に対する暴力の撤廃に向けて http://japan.un women.org/ja/news-and-events/in-focus/end-violence-against-women
3) フィリス・トリブル 2002、119 頁。
4) ダナ・ノウラン・フューエル 1998、124 頁。
5) 水野隆一 2010、150 頁。
6) 渡邊さゆりさんは日本バプテスト神学校教務主任(当時)。
7) フィリス・トリブル 2002、120 頁。
8) 機関誌『タリタ・クム』は年 3 ~4回発行。タイトルについては以下のように説 明している。「「少女よ、起きなさい」 という意味のアラム語です。会堂長ヤイロの 願いにこたえて出かけて行き、死にかかっている幼い娘の手をとって、イエスさま が言われた言葉です。(マルコ 5:41)今までジェンダーのために充分に発揮する ことができなかった女性たちのさまざまな潜在的能力や感性や行動力が、神さまの 祝福によって主の栄光をあらわすために、より生き生きと用いられますようにとい う祈りと願いをこめて名付けました。」
9) 日本聖公会女性に関する課題の担当者からの資料によれば、2015 年度各教区会選 出常置委員の男女比は男性:女性= 52:14、2004–2013 年における各教区会代議 員における女性の人数は 103 名から 118 名に増加したものの、男性 521 名(2012 年)に比べればまだまだ目標には遠く低い状況が続いている。
10) 聖公会京都教区ハラスメント防止委員会の HP は http://nskk.org/kyoto/stop hara ssment/
11) 『自分を愛するように 教会におけるハラスメントを防止するために』の第1頁に は、日本聖公会ハラスメント防止宣言が掲載されている。日本聖公会第 59(定期)
総会決議第 12 号「すべての人は、神の似姿として命を与えられたかけがえのない 存在です。その一人ひとりの尊厳は、誰からも侵害されたり傷つけられたりするこ とがあってはなりません。日本聖公会は、人の尊厳を侵害したり傷つけたりするあ らゆるハラスメントを許さず、その防止に取り組むことを宣言します。2012 年 5 月」。
12) 三木メイ 2006、53 頁。この事件についての経緯については、京都教区の HP、
http://www.nskk.org/kyoto/houkoku/houkoku-8.html に詳しい。
13) 松浦薫 2016、41 頁。
14) アン・マイルズ 2005、169–202 頁。
15) 同上、200 頁。
16) 『福音と世界「特集=聖書と暴力、そして世界」』2016 年 3 月、新教出版社。
17) 正教会、聖公会、バプテスト教会、ルター派教会、メソジスト教会、改革派教会、
合同教会、復古カトリック教会、聖トマス教会、メノー派教会、友会徒教会、会衆 派教会、使徒教会が含まれる。また、ローマ・カトリック教会との公式的な働きに おける関係や、まだ構成員ではない福音派やペンテコステ派教会との新たに発生し た関係もある。
18) NCC には、日本基督教団、日本バプテスト連盟、日本バプテスト同盟、在日大 韓基督教会、日本聖公会、日本福音ルーテル教会の 6 教団と、YWCA や矯風会な ど 8 団体が正式加盟。他にも 19 の准加盟教団、団体があり、苦しみにある人々と の「いのちの痛み」の共感を目指し、一致、平和、人権、国際協力などを掲げて、
様 々 な 活 動 を し て い る。http://ncc-j.org/modules/pico4/index.php? content_
id=3
19) 世界祈祷日については http://cloister171.blog.fc2.com/ を参照。聖公会の女性デ スクは基本的にボランティア活動であるため、こうした活動基金によって取組を進 めている。
20) 木川田道子、吉谷かおるによる「女性に関する課題の担当者報告」(2014 年 5 月
~ 2015 年 4 月)。
参考文献
笹森田鶴 2016:「女性に対する暴力の根絶を求めて祈る 礼拝説教全文」日本聖公会 東京教区時報『コミュ二オン』第 34 号(通巻 1269 号)2016 年 12 月 14 日、日 本聖公会東京教区広報委員会、4–6 頁。
鈴木佳秀 2009:『旧約聖書の女性たち』教文館。
関谷直人 2007:『「健康な教会」をめざして―その診断と処方』越川弘英編『現代の 教会を考えるブックレット1』キリスト新聞社。
フィリス・トリブル 2002:『フェミニスト視点による聖書読解入門』(絹川久子・森 真弓・湯浅裕子・河野信子訳)新教出版社。
西原廉太 2015:「〈講演記録〉エキュメニカル運動の現在と将来―世界教会協議会
(WCC)第 10 回総会―」『ヨーロッパ文化史研究』16 号、東北学院大学、1–26 頁。
日本キリスト教協議会(NCC)編 2010:『すべての暴力を克服する 10 年 祈りつ
つ行動するための手引き』。
日本聖公会女性に関する課題の担当者、ハラスメント防止教材づくりのための協働チー ム編集 2013:『自分を愛するように 教会におけるハラスメントを防止するため に』日本聖公会管区事務所、日本キリスト教協議会(NCC)発行。
藤掛明/小渕朝子/村上純子編著 2014:『牧会相談の実際 カウンセラーと共に考え る』あめんどう選書。
ダナ・ノウラン・フユーエル 1996:「士師記」(加藤明子 小野功生 鈴木元子訳)C.A.
ニューサム、S. H.リンジ編『女たちの聖書注解 女性の視点で読む旧約・新約・
外典の世界』新教出版社、124–142 頁。
アン・マイルズ 2005:『ドメスティック・バイオレンス そのとき教会は』(関谷直 人訳)日本キリスト教団出版局。
松浦薫 2016:「女性への暴力、その現状と支援―矯風会ステップ・ハウス・松浦薫さ んに聞く―」『福音と世界 特集=聖書と暴力、そして世界』2016 年 3 月号、新 教出版社、37-41 頁。
三木メイ 2006:「牧師の性的虐待事件を考える―日本聖公会京都教区における一次加 害と二次加害の事例から」『福音と世界』2016 年 11 月号、新教出版社、46–53 頁。
水野隆一 2010:「複数の声、複数の視点:人権という観点から聖書を読む」『神学研 究』57 号、関西学院大学、139–150 頁。
森真弓 2002:「怒りを押し殺されて―バタード・ウーマンと戦争と平和」『北星学園 大学社会福祉学部北星論集』39 号、55–68 頁。
渡邊さゆり 2016:「女たちの哀歌」『福音と世界 特集=聖書と暴力、そして世界』
2016 年 3 月号、新教出版社、19–24 頁。