熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ
著者 野村 幸正
発行年 2009‑12‑16
URL http://hdl.handle.net/10112/00020074
231
第
12章 動的過程
Ⅰ 聖と俗
1 伝 承
スキルの獲得︑活用︑伝承︑そして創出の関係を︑岩田︵二〇〇七︶はスキルの獲・活・伝・創サイクル︵第
7章参照︶と呼ぶ︒獲・活・伝・創サイクルは︑職種で分けられている近代の生
産現場では制度として成立するとしても︑伝統的にわざを重視する実践共同体では︑たとえば守・
破・離といわれるように︑同一人物が参加のあり方を変えてゆくため︑獲活伝創の境界は必然的
に曖昧になる︒獲得と活用︑活用と伝承︑伝承と創出等の境界は同一人物のうちで絶えず変動す
る︒当事者の視点からすれば︑つまり自らの行為を内部観測の視点で捉えれば︑たとえ重みづけ
に違いがあるにしても︑獲・活・伝・創は本来が一つのものであり︑必ずしも獲活伝創に区分で
きるものではない︒
また︑これらの違いは何を伝承するのかの違いでもある︒近代の生産現場では︑伝えるべきも
のは生産すべきものとの関連で明確であり︑生産システムの要求に沿った形で伝承されてゆく︒
232
彼︵女︶らの熟達行為はあくまでもその延長上にある︒近代の生産システムの下では︑伝えるべ
きものの多くは形式知としてあり︑またスキルを実体として捉えている︒一方︑伝統的な実践共
同体では事情は異なる︒そこでは︑自由に自らのわざを展開し︑かつそれを伝承することができ
るが︑必ずしも伝えるべきものが明示されている訳ではない︒それは人と人︑人とものとの関係
のなかに埋め込まれているようである︒伝えるべきものは暗黙知としてあり︑わざは関係として
ある︒ 次に︑誰に伝承するのかに関しても︑また伝承すべきものと深く関係している︒まず︑伝える
べきものが形式知としてあるならば︑それを伝えることはそれほど難しいことではない︒近代社
会では公教育がその役割を担い︑不特定多数の人たちに形式知を教授し︑それなりの成果を上げ
ている︒また︑形式知の範囲内であるかぎり︑熟達者から機械への代替も可能になり︑その最先
端の研究の一つが人工知能研究である︒これに対して︑伝えるべきものが関係としてあり︑しか
もそれが暗黙知としてあるならば︑それを伝えることは難しい︒そこでは形式知にすることなく︑
暗黙知をそのまま伝えなければならない︒それが熟達者から初心者への伝統的な伝承であり︑こ
れには徒弟制や正統的周辺参加論が密接にかかわる︒
伝承といえば︑芸道等の熟達者に見られる熟練のわざのそれが思い起こされるが︑最近では急
激な情報化のなかで︑以前とは違った形でわざに関する関心が高まっている︒たとえば︑もの造
りに関心を抱いている最先端の科学者たちが新しい知識を創造するために︑人間の知に着目し︑
233 第 12 章 動的過程
それを人工物に移転する︑つまり機械への代替化を目指している︒代替化は現代の伝承の一つの
形であろうが︑そのためには熟達者のもつわざの獲得と活用の過程を詳細に辿り︑それを分析︱
記述しなければならない︒それだけでなく︑それを機械に置換するためにはコード化しなければ
ならない︒分析︱記述に関してはすでに第七章で言及した通りであり︑ここでは後者のコード化
に言及する︒
コード化するためには︑まず分析︱記述された世界を何らかの形で体系化しなければならない︒
体系化するための手だての一つが︑たとえば内的過程のモデルの構築である︒モデルを構築する
ことで︑分析された知見は単に記述されただけのものよりも理解しやすくなり︑コード化も促進
される︒しかし︑そのモデルに基づいたコード化が直ちに機能するという保証はない︒それは︑
コード化以前の分析︱記述のあり方に問題があるからであり︑また分析︱記述とコード化を分け
ていること自体が問題なのである︒わざには暗黙知が深く関与しているのであろう︒たとえば︑
力量の違いから弟子に教えたやり方を師匠が行っているとは限らない︒多くの場合︑師匠は実際
にはその先を行っているはずであるが︑その多くは暗黙知としてあり︑分析︱記述の対象にはな
らない︒ところが︑コード化は弟子に教えたやり方を分析︱記述したものでしかない︒そのため︑
弟子はモデルと師匠の行為のあいだに生じる隙間を自ら埋めてゆかなければならない︒
隙間を埋めるためには︑師匠の視点から捉えられた分析︱記述にとどまるのではなく︑その奥
にある世界を捉えなければならない︒前者が形であるとすれば︑後者が型であろう︒型と形の違
234
いは必ずしも確固たるものではないが︑一般には形が固有の場で具現したものであるのに対して︑
型はその具現を可能にする深層の構造である︒とすれば︑隙間を埋めるためには形から得られた
知見に基づいて型を構想し︑それをコード化しなければならない︒また︑コード化される以前の
全体像をつねにもたないかぎり︑新たに構想し︑それをコード化することはできない︒現実には︑
いずれにしても難しいことから︑それらを機械に置換することもできなければ︑機械が利用でき
る訳でもない︒それができるのは人間のみである︒
これに加えて︑熟達行為が状況から支援され︑また制約を受けながら生成されている以上︑コ
ード化はその状況までも組み入れなければならないことになる︒しかも︑この支援と制約が社会
のあり方と無関係ではありえないとすると︑はたしてそれを状況として機械の知に組み入れるこ
とが可能であろうか︒支援と制約は場を共有してはじめて可能であるが︑機械への代替化という
アプローチはそれを前提にしている訳ではない︒
とすれば︑研究戦略としては必ずしも人間の知に学ぶというのではなく︑機械と人間とは別で
あることを前提にして︑機械独自の発想に基づいて熟達行為を再現するという戦略に立ち戻る必
要があるのではないか︒重要なことは行為の所産であって︑その行為そのものを生み出す内的過
程がおなじである必要はない︒原因ではなく結果を共有すれば︑たとえばスキルの科学は目的の
一端を達成することができる︒
そもそも︑生命活動の一環としてなされる熟達者の行為は︑機械の作動とは根底から異なって
235 第 12 章 動的過程
当然であり︑したがって機械への代替化を目指した際の行為とはおのずと違ったものになる︒人
間の知の本質を解明し︑それを機械に適用するという発想ではなく︑むしろその意味するところ
を機械独自の論理で具現することが求められる︒そのためには︑人間の行為の過程を機械がなぞ
るのではなく︑機械独自の発想があってしかるべきである︒大須賀︵二〇〇四︶は︑従来のロボ
ットの歩行は人間がその動き方をまえもってプログラムするというものであったが︑ロボットに
とって歩きやすい方法を採用すれば案外単純な制御則になると考えている︒これなどは機械独自
の発想の一端であり︑近代の生産現場にふさわしい習熟︵獲得と活用︶と伝承のあり方である︒
2 聖と俗
わざの習熟は︑時には外界から支援され︑時には制約されながら進行するが︑その習熟は決し
て経済活動と無関係に成立するようなものではない︒そのため学ぶもの︑教えるもののいずれで
あっても︑その習熟と伝承を支援する資源の補給︑つまり兵站が不可欠である︵第
7章参照︶︒と
すれば︑仏像彫刻に熟達するためには︑それに必要なわざを習熟するだけでなく︑その習熟を支
援する兵站︑つまり経済的な支援を獲得することにも習熟しなければならない︒
兵站のあり方に関しては︑すべての行為が時間的制約の下で生成される以上︑必要な時に必要
な兵站が保証されないかぎり︑わざの習熟を続けることは難しい︒その保証があってこそ行為者
はわざに習熟できる︒事実︑人間あるいは機械のいずれであっても︑それを駆動するためには兵
236
站︑つまりエネルギーが不可欠である︒問題は兵站のあり方と︑その消費によるわざの習熟との
関係であり︑双方が無関係に存在するという見方もあれば︑互いに深く関連しあっているという
見方もある︒
まず︑前者の見方からすれば︑たとえば仏像彫刻のわざが実体としてあり︑それと無関係に必
要な資源を供給することになる︒また︑無関係であるがゆえに︑そのわざを直接教え︑あるいは
またそれを直接学ぶという中心化方略を採用する︒それは固有の場に生きる生身の人間のあり方
を捨象し︑その働きを抽象的に捉えたものである︒このことは機械でいっそう明白であり︑情報
のコード化と兵站とは互いに独立のものである︒
ところが︑実践共同体に参加した人たちを見ていると︑少なくとも仏像彫刻のわざに習熟する
場合では︑わざの習熟と兵站は︑いずれも行為者自身の働きを介したものである︒しかも︑双方
が互いに関係しあっていることも少なくない︒生活費を稼ぐための経験が︑深いところでは目指
しているわざの習熟に役立つことも決して珍しくない︒また︑作品が社会的に評価されることは
わざの習熟に極めて重要である︒わざの習熟と兵站が互いに関係する事態では︑たとえば徒弟制
のように︑脱中心化方略を採用しながら徒弟たちの習熟を促してゆく︒そこでの徒弟は仏像彫刻
のわざだけでなく︑さまざまなことを体験するが︑その体験を通して師匠の社会的評価や作品の
価値を認識し︑社会に開かれてゆくのである︒
熟達化の研究は︑本来が人間についての研究であり︑つねに包括的で全体的な社会構造のあり
237 第 12 章 動的過程
方を踏まえたものでなければならない︒にもかかわらず︑研究者がわざの習熟にのみ眼を向け︑
それを支える兵站の役割を過小に評価するのは︑完成された熟達者の姿を︑またその作品を理想
とみなすからである︒熟達化の過程を生の世界から切り離し︑熟達者の欲望や駆け引きといった
世俗のあり様を排除し︑熟達化の聖なる側面にのみ光を与えている︒同時に︑もう一方の兵站を
俗なる側面として︑その役割を正当には評価していない︒熟達化研究は︑その根底では︑現代社
会の基底にある合理性と深く結びついているにもかかわらず︑あたかもそれらと無関係であるか
のように捉えている節がある︒しかし︑熟達化は俗なる部分と決して無関係ではありえないよう
である︒ 現に︑多くの人はまぎれもなく俗なるものに動かされる︒また︑俗なるものをいっさい排除し
た実践共同体などはありえない︒排除という発想は身体をもたない純粋精神を思い起こさせる︒
実際には︑聖なるものと俗なるものとが渾然一体としたものであり︑それが本来の実践共同体の
あり方であり︑われわれ人間の姿でもある︒したがって︑作品も聖と俗のかかわりの所産であり︑
その評価は社会のあり方︑価値観と深く関係している︒早い話が︑作品の社会的評価が高ければ
それだけ高く売れる︒その作品の代価は熟達の兵站として機能し︑またもう一方の熟達の聖なる
側面を支援してゆく︒このこと自体にはなんら問題はないが︑社会圧のもとで︑やがて熟達の俗
なる側面が必要以上に強調されるようになり︑また聖なる側面が俗なるものによって新たに価値
づけられてゆく︒そのため︑俗なる次元上での競争が不当に加速されてゆくことは避けられない︒
238 やがて効率的にわざを発揮し︑その所産︵end product︶を世に出すことが目標となることも少
なくない︒
熟達化の聖なる側面と俗なる側面の区別は興味深いが︑多くは俗の側面に軸足を置きながら︑
聖なる部分を求め続けているのであろう︒ところが︑双方の境界はそれほど明確ではない︒重要
なことは︑俗なるものと聖なるものとの境界が絶えず変動する事実を認め︑その変化を適切に捉
え︑聖と俗のかかわりのなかにのみ真のわざが︑またそれらを介して具現した現実があることを
了解することである︒
ところが現実には︑熟達化は聖なるわざのみを追求すべきであるかのような論議が盛んである︒
それが︑たとえば効率的に所産を追求する定型的熟達者に比して︑適応的熟達者を過大に評価す
る傾向である︒そこでは適応的という言葉が必要以上に強調されているように思われる︒この背
景には︑わざの聖なる側面︑さらには普遍性への根強い志向があるのであろう︒しかし︑適応的
熟達者はあくまでも理想であり︑聖なるわざの最終的な目標でしかない︒制度が極端に変わった
り︑環境が急激に変わったりした際には︑そのわざを発揮できなくなることも充分にありうる︒
それを超えるのが適応的熟達者であろうが︑未だ誰もそのような熟達者に出会ったことがないの
ではないか︒これが正直なところであろう︒
では︑われわれはなぜに適応的という普遍性を求めるのであろうか︒そこには聖なるものを求
め続けてきたもののみが︑完成したわざを獲得しうるという幻想がある︒しかし一方では︑生き
239 第 12 章 動的過程
残り続けたものが適応的熟達者であるという現実も否定しえない︒適応的熟達者であり続けるた
めには︑理想に反して政治力や権謀術数が必要であり︑現実にそれらが渦巻いていることも少な
くない︒生き残り続けたものの多くは聖であることに﹁妥協﹂し︑俗としてのわざを社会に提供
し続けている︒しかし︑その妥協がなければいままで生き残ってこられなかったはずである︒人
が経済的支えとまったく無縁では生きていけないとすると︑熟達者といえども︑買い手の求める
作品を期日内に納めるという制約から逃れられるものではない︒これは︑聖なるわざを求め続け
ているものにとっては妥協以外のなにものでもない︒また︑それはなによりも自分が理想と思い
描くあり方との妥協であったはずである︒
世の中は適応的熟達者だけから成り立っている訳ではなく︑定型的熟達者︑さらには非熟達者
の存在が不可欠である︒非熟達者が作品を購入することで熟達者が消費する資源を提供している
からである︒この事実を認識し︑かつそれに対処しなければ︑兵站が補給されない事態に陥るこ
ともあり︑その結果︑兵糧攻めにあうことにもなろう︒
3 正統的周辺参加
徒弟が学ぶものは個別事例であり︑多くの場合その学びのあり方が体系化されているというも
のでもない︒学ぶべきものはまえもって明示されているものではなく︑弟子が学びの場に参加す
るなかでおのずと立ち現れてくる︒伝承すべきものは形式知に加工できない何かであり︑社会的︑
240
文化的状況に埋め込まれている︒一般には暗黙知と呼ばれているものであり︑師匠がそれを取り
出して体系化している訳ではない︒そのため弟子に﹁何を・いつ・どのように﹂伝授すべきか︑
師匠自身が把握していないことも決して少なくない︒むしろ︑把握したくてもできないというの
が正直なところであろう︒
そのような理由から︑伝承において最も重要なことは参加のあり方であり︑学びの場を保証す
ることである︒そして︑その学びを保証しているのが実践共同体であり︑それは師匠をはじめと
して兄弟子や仲間から構成されている︒実践共同体のなかに身を委ねているかぎり︑新参者は彼
︵女︶らの行為を間近で観察することができる︒そのなかで︑時には能動的に︑時には受動的に関
与することを通して︑徒弟は自らの経験を真に意味あるものとしてゆく︒この意味で︑学びはあ
くまでも個々人の能動的な関与に依存し︑学ぶ側に重点が置かれている︒しかし︑徒弟はその学
びを意識的に捉えている訳ではない︒その多くは潜在学習によるものである︒
弟子は師匠の行為を全体視野から客観的に捉えるのではなく︑あくまでも自分の関心に合わせ
て局所視野で観察してゆく︒観察される事象は︑行為生成のモデルを構築するための観察ではな
く︑あくまでもいま・ここで自らが行為を生成してゆくのに必要な観察である︒この観察を通し
て︑弟子はそれぞれの行為の意味を︑自らが抱いている漠然としたモデル全体のなかに位置づけ︑
自らの学ぶべきものを徐々に見出してゆく︒そこには必ず何らかの選択があるが︑徒弟はその選
択によって立ち現れた世界を通して︑自らの立つ位置を︑またそれに伴う評価を認識しているは
241 第 12 章 動的過程
ずである︒これらの過程が学びのそれであり︑伝承ということになる︒この学びを一気に社会学
化したのが
︑ たとえばレイヴとウ
ェンガ
ー
︵ 一九九一
︶ のいう正統的周辺参加
︵
legitimate
peripheral participation︶である︒レイヴ︵一九九一︶は西アフリカの仕立職人の徒弟の学習過
程を研究し︑従来の徒弟的学習に関するエスノグラフィーの成果を大幅に取り入れ︑参加という
概念を軸にして新たな考えを提示している︒この考えは実践共同体における学習過程を︑従来と
はまったく違った新しい枠組みとして提示したものである︒
レイヴは︑西アフリカのヴァイ族とゴラ族の民俗学的な研究から仕立屋の教育過程を明らかに
している︵レイヴ︑一九九一︶︒仕立屋になるための儀式を経て親方に弟子入りし︑仕事を学んで
ゆく︒服の仕立ては裁断↓縫製↓仕上げの順に進行するが︑徒弟はこの過程を逆辿りするように
各段階の実践に参加してゆく︒徒弟は︑仕上げ段階のボタン付け︑あるいは裾上げといった︑服
の仕立てのうちの比較的簡単な作業にかかわってゆく︒簡単な衣類の仕立てができるようになる
と︑それよりも複雑な仕立ての︑たとえば縫製の段階に進み︑さらには裁断といった仕事にかか
わるようになる︒このように︑仕立ての過程を逆方向に辿ることで︑仕上げの課題を縫製との関
連で捉え︑また縫製を裁断との課題に関連づけて捉えることができる︒このことによって︑徒弟
は現在の課題をそれ以前の仕事に関係づけて遂行してゆく︒たとえボタン付けといった簡単な作
業であっても︑徒弟はそれに従事しながら︑そのそばで縫製あるいは裁断している兄弟子たちの
仕事を見ることができる︒このことが極めて重要なのである︒
242 徒弟はゆるやかな条件のもとで︑師匠︑兄弟子︑仲間あるいは新弟子たちによって構成された
実践共同体での活動に参加し︑ボタン付けといった周辺的な課題をこなしてゆく︒その過程で業
務を遂行するのに必要な技能を徐々に獲得している︒周辺的な課題であるとしても︑それは全体
の実践に直結しているという意味で正統的参加であり︑周辺的な作業であるという意味で周辺参
加である︒ただ︑その参加の形態はまえもって決められたものではなく︑ゆるやかな条件のもと
で実際の仕事の過程に参加してゆくなかで決定される︒やがて徒弟はより中心的な︑より高次の
技能を習得してゆく︒それが周辺参加から十全参加への移行であり︑この移行がすなわち学習と
いうことになる︒実践共同体という社会的︑文化的に構造化された世界に参加し︑実践活動に取
り組んでいる師匠︑兄弟子︑仲間︑新弟子と役割関係を新たに構築することが︑参加者にとって
の学習であり︑思考であり︑知ることである︒この意味で︑正統的周辺参加は状況に埋め込まれ
た学習そのものである︒
正統的周辺参加にとって重要なことは︑実践共同体において周辺参加から十全参加に移行して
ゆくことである︒徒弟たちの参加の形態は︑課題のもつ特殊性と参加する人びとが構成する状況
との関連でおのずと決まってくる︒事実︑実践共同体が歴史的︑社会的に埋め込まれている以上︑
参加の形態は社会的な要請に応える形で決定される︒また︑周辺参加から十全参加への移行に関
しても︑それは決して連続的なものとは限らない︒移行は段階的なものであり︑それに伴って師
匠︑兄弟子あるいは新弟子との関係も従来のそれとは違った形で展開する︒そのため︑たとえお
243 第 12 章 動的過程
なじ実践共同体であっても︑参加のあり方は以前とは違った状況に埋め込まれており︑質的に違
ったものとなる︒
いずれの参加であっても︑徒弟が課題をどれほどの拡がりのなかで捉えているかが重要である︒
実践共同体が︑たとえば仕立屋のそれであるとすると︑新弟子に与えられたボタン付けという課
題を︑彼︵女︶が全体の工程に的確に位置づけていなければならない︒実践共同体では︑たとえ
ボタン付けといえども︑つねに全体の工程のなかでの仕上がりを想定しながら課題を遂行してゆ
くことが求められる︒あるいはまた︑木取りをする宮大工ならば︑一方では︑その木の育った風
土や日当たり等を考慮し︑他方では建物さらには伽藍全体を想定しながら︑その木を用いる場所
を適切に決めてゆかなければならない︒
行為であるかぎり︑それはすべていま・ここでの行為であり︑時間︱空間軸に制約されている︒
にもかかわらず︑行為がその状況にふさわしいものであるためには︑その行為は制約を超えて拡
がりをもたなければならない︒しかし︑自らの行為を拡がりのなかに的確に捉えることは難しい︒
その難しさは︑たとえば拡がりの全体を見通す難しさであり︑あるいはまたこの難しさと関連し
て︑自己を世界との関係で捉えることの難しさである︒そして︑その難しさを突き詰めれば︑い
ま・ここの行為が拡散性課題でのそれであることにゆきつく︒拡散性課題では︑多くの情報が状
況を構成し︑しかもその情報は時々刻々と変化する︒それだけでなく拡散性課題では︑相異なる
解決の可能性を示唆する情報が同時に存在する︒そのためであろう︑拡散性課題では正答が一義
244
的に決められず︑それを求める手順をアルゴリズム化することができない︒
Ⅱ 何を獲得するのか
1 熟練のアイデンティティ
徒弟は実践共同体のなかにあって︑そこのメンバーであるということを自覚し︑やがて熟達者
にふさわしい役割を果たすようになる︒レイヴとウェンガー︵一九九一︶は︑それを熟練のアイ
デンティティと呼ぶ︒徒弟の学びとは型を身につけ︑熟練のアイデンティティを獲得することで
ある︒一般に︑正統的周辺参加のなかで伝承されるものは形ではなく型であるが︑徒弟がそこで
学ぶものはあくまでも個別の形であり︑型を直接学ぶ訳ではない︒徒弟が形の学びからその奥に
あるものを構想し︑それに基づいて実際に行為を生成して︑はじめて型は獲得される︒型はあく
までも個人的に習得されるが︑型の習得には安定した実践共同体や社会が不可欠である︒安定し
ていることを前提にして︑徒弟はそこに潜入し︑その過程で将来にわたって役立つ型を着実に身
につけてゆく︒
型を習得するためには︑熟達者の動きを内的︑外的に辿ることが求められるが︑それだけでは
不充分である︒その動きの深層にある構造にまで眼を向けなければならないが︑その道筋が実践
245 第 12 章 動的過程
共同体に埋め込まれているがゆえに︑逆にいくつかの問題を抱えることになる︒その一つは︑安
定した実践共同体を前提として型を習得することから生じる問題である︒そこでの型は当然真似
るべきものとしてあり︑しかもそれは自明のこととしてある︒このこと自体が直ちに問題という
訳ではないが︑そこでは習得すべき型が熟達化の枠組みとして働くことから︑その型に沿う形で
習得が進行する︒そのため︑明確な内省を伴うことは少ない︒しかし︑型に沿う行為は決して一
つに限定されるようなものではなく︑その他の行為からも習得されるはずである︒ところが実際
には︑その他の行為が関与する可能性は暗黙のうちに排除されている︒そのため︑たとえ実践共
同体内の固有領域には精通するとしても︑その領域を超えて他の領域にまで型を拡張することが
難しくなる︒確かに︑型の世界では守・破・離といわれるが︑現実には型を超えて自らの世界を
独自に展開できる人は少なく︑熟達者の多くが型を継承するにとどまっている︒それは熟達者を
支える社会が安定しているからである︒
いま一つは︑多様な組織形態からなる現代社会は︑社会全体として見れば︑本質的に不安定で
ある︒そのような社会のなかで熟達者となること自体が︑必ずしも生き残るための手だてとはな
らない厳しい現実がある︒かつては実践共同体において熟達の階梯を上ることが生き残る手だて
であったが︑しかし現在の不安定な社会では︑その実践共同体が存続するという保証はない︒と
しても︑その社会のなかで生き残るためには︑階梯を上り︑熟達化の道をたどらなければならな
いが︑他方では脱熟達化しなければならないという矛盾や葛藤に直面する︒
246 安定した社会と不安定な社会を前提にする熟達化のあり方は︑一見すれば別々のもののように
思われるが︑その区別はそれほど明確なものではない︒歴史的に見ても︑安定した社会はその深
層部に不安定な要素を内在している︒やがて不安定な要素が限界を超えると︑安定した社会は崩
壊し︑人びとは新たな秩序を求めることになる︒その際には︑明確な反省を伴った問題解決が求
められ︑そこで独自の解決策を見出したものが新たな社会や組織の中核になる︒流儀の開祖なり︑
教祖はこの類の人たちである︒しかし︑それを継承した人たちはルーティンワークをこなし︑微
細化された問題の解決に携わるに過ぎない︒このことが必然的に次の不安定な世界をもたらすの
である︒ 熟達化に伴う不安定さを克服するためには︑まず型を身につけ︑しかもそれを超えることであ
る︒それは単に守・破・離のレベルではない︒たとえ自ら独自の型を身につけたとしても︑それ
で充分という訳では決してない︒それを絶えず超えてゆかなければならない︒ただし超えるとい
っても︑その型は対象化されるようなものでもなければ︑また言語で記述されるようなものでも
ない︒実際には身体が覚え︑反応するとしか言いようのないものであり︑身体知︑暗黙知として
ある︒徒弟のすべきことは︑それらの知に基づいて︑そのつど自分の身体が納得するような作品
を作り上げることである︒
そのための道筋が︑たとえば東洋で重視する修行である︒修行とは心身を訓練するものであり︑
それによって悟りの知を獲得する方法であり︑通路なのである︒それは不断の努力を要するもの
247 第 12 章 動的過程
であり︑荘子のいう天理に至る道である︒修行の道は厳しく︑また長いものであり︑それだけに
修行者の求める心が肝心である︵野村︑一九九九︶︒その求める心といっても︑それ自体あるもの
ではなく︑具体的な状況にあってはじめて湧き起こる︒重要なことは︑意味が濃密につまった固
有の場に我が身を委ねることである︒委ねること自体が︑すなわち求める心の現れだろう︒固有
の場に身を委ねることは必要条件であるが︑それは十分条件ではない︒十分条件となるためには︑
自らの体験を意味ある経験にまで高めなければならない︒そのためには︑体験を超えて未知なる
世界を構想することが不可欠である︒しかし︑その構想は純粋に頭の働きというよりは︑むしろ
言語化される以前の生の体験の働きによるものである︒生の体験をそのつど状況を踏まえながら
言語に置き換えるなかで︑以前とは違った世界が立ち現れるのである︒それが未知なる構想の働
きである︒
2 二つの無心
経済的合理性を徹底的に追求する現代の社会にあっては︑所産よりも過程にこだわり︑そこに
深入りする熟達者は必ずしも社会に受け入れられるとは限らない︒作品に時間がかかりすぎる︑
高価になりすぎる等で社会の需要に合わないからである︒しかし一方では︑人びとは作品にこだ
わり︑経済的合理性を度外視した作品に惹かれることも珍しくない︒それが世にいう芸術作品で
ある︒仏像を見ていると︑それは完全に過程を重視した熟達の賜であり︑経済的合理性の枠外に
248
ある︒仏像が信仰の対象であることを考慮すれば︑それも納得できる︒信仰にまでゆかなくとも︑
人びとは過程を重視する生き方に深く共感し︑かえって所産を重視する生き方よりも高く評価す
ることもある︒人びとは過程に自分のあり方を重ね合わせ︑そこにある種の価値を見出すのであ
ろうか︒さらにいえば︑修行という言葉のもつ意味から推測するに︑そこに自己を豊に涵養して
ゆく手だてを︑また自己のあり方の原点を見出すのであろうか︒
熟達化が経済的合理性を前提としているとしても︑その合理性はしょせん限られた期間内での
ものであり︑社会情勢が変われば当然違ったものになる︒決して無限の時間の幅を想定したもの
ではない︒そもそも︑合理性を前提とした熟達化は開かれた世界ではなく︑むしろ閉ざされた世
界を想定したものである︒しかし︑熟達化は本来開かれており︑時には予測を超えた事態が生じ
ることもある︒当然︑合理性を前提とした熟達の理論ではそれに対処できないこともある︒
いま︑開かれた世界での熟達化を問題とするのであれば︑未知なる世界を小賢しいモデル等で
予測するのではなく︑いま・ここで必要な行為をそのつど的確に遂行することで︑問題を解決す
るための新たな可能性を見出してゆかなければならない︒その可能性は俗なる熟達者ではなく︑
聖なる熟達者を目指すなかで獲得されるものである︒というのは︑聖なる熟達者はただひたすら
に課題に取り組んでいるに過ぎず︑そこではもはや目的と手段という区別はない︒そこでの行為
はいかなる制約をも受けず︑限りなく無心である︒だからこそ︑熟達者は自由に未来を析出して
ゆくことができる︒人びとが聖なる熟達者を重視するのは︑この熟達者のもつ潜在的な可能性を
249 第 12 章 動的過程
直観的に︑また経験的に察知しているからであろう︒
では︑無心とは何か︒何かに夢中になっている子どもたちを想定すればよい︒そこでの子ども
たちは︑﹁私が遊んでいる﹂という意識がないままにその場にとけ込んでいる︒まさに﹁私は鐘の
音を聞いている﹂以前の﹁鐘の音が聞こえる﹂の事態である︵第
8章参照︶︒これが無心の境地で
あり︑無心は場への潜入によるものである︒潜入は共感︑同調︑引き込み現象と呼ばれている働
きに近いものであり︑そこでは未だ明確な私はない︒私がないから対峙する世界もない︒興味深
いことに︑無心は子どもだけのものではない︒
子どもの無心に近い境地は︑長期に及ぶ修行を介して熟達の域に到達した人にも見られる︒そ
れは︑たとえば﹃弓と禅﹄︵ヘリゲル︑一九四八︶で言及されている︒阿波師範のもとで弓道の修
行を続けたヘリゲルは︑的を射ようとする意志を徹底的に否定される︒そして﹁私が放つのでは
なく︑それが放つ﹂境地に至ることを求められる︒それはまさしく術なき術であり︑無心の境地
である︒ としても︑双方には大きな違いがある︒前者は子どもなら誰もが経験することであり︑後者の
それはごく限られた人たちのみである︒では︑双方の違いは何か︒後者は︑長期に及ぶ修行を経
て自らの意志で無心の境地に入ったのに対して︑前者は意志によるものではない︒結果として無
心になっていたに過ぎない︒子どもは無心を支える根源的な知を獲得していないが︑熟達者はそ
れを獲得している︒その根源的なものが不二体であり︑ヘリゲルがいう﹁私が放つのではなく︑
250
それが放つ﹂を可能にする何かである︒不二体は︑その所在を何処どこと特定できないという意
味で無の場所にあり︑意識を超えた暗い深層にある︒無の場所での行為は︑単に意識に先行する
というだけでなく︑自由自在に如何ようにも展開する︵野村︑一九九九︶︒
無心の根底にある不二体は︑必ずしも既存の境界に沿う形で分化発展するのではなく︑むしろ
それらを超えておのずと立ち現れると考えるべきであろう︒その過程は必ずしも中枢の制御を必
要としないことから︑自己組織化したものとみなしてよい︒それが可能なのは行為者が開かれた
世界で︑しかもその世界に潜入している︑つまり熟達の聖なる側面に没頭しているからである︒
そこでは私がするのではなく︑それがするのである︒その行為は︑基本的には外界の秩序に沿い
ながらも︑そのつど自己組織化してゆくダイナミックなものである︒
3 ダイナミックな獲得
不二体のダイナミックな分化発展は優れた熟達者にのみ見られるものであり︑初心者には望め
ない代物である︒とすると︑初心者がわざを獲得してゆく過程と︑熟達した後のダイナミックな
わざの生成︵活用︑創出︶過程とを区別しなければならない︒しかし︑初心者と熟達者の境界が
それほど明確でないとすれば︑何処までが獲得で︑何処までが生成か︑これらを厳密に区別する
こともまた難しい︒確かに︑従来の実験心理学が学習試行とテスト試行︑記銘と再生とを区別す
るように︑獲得と生成を区別することもできる︒たとえば熟達化をマクロレベルで捉え︑獲得と
251 第 12 章 動的過程
生成を区別することは可能である︒としても︑その境界は曖昧であり︑基本的には連続的なもの
である︒獲得と生成が階梯内︑階梯間のいずれにおいても循環していることは否定しえない︒
生成が獲得を前提にしているとしても︑必ずしも生成が獲得の過程をそのまま繰り返すと考え
る必要はない︒それは通常の獲得過程を超えたものである︒獲得のそれを超えて行為を生成する
からこそ︑熟達者は以前と違ったレベルに到達しうるのである︒熟達化に伴って︑行為の単位が
大きくなることからも明らかなように︑獲得の過程は部分から全体へと進行する︒しかし生成と
なると︑その行為の全体がまずあり︑その全体を踏まえて行為が生成される︒獲得が後向きの処
理から成り立っているとすれば︑生成は前向きの処理である︒これらの区分はあくまでもマクロ
レベルのものであり︑マイクロレベルでみれば獲得と生成はもっと複雑に絡み合い︑容易に説明
できるようなものではない︒
マクロレベルで熟達化を捉えた際︑顕著に見られる特性として︑⑴自動化を推進する︑⑵処理
資源の的確な配分によって効率を図る︑⑶チャンキングのサイズを増やす︑等が挙げられる︒こ
れらはいずれも当初は意識的になされたが︑熟達化するにつれて必要な処理資源は確実に少なく
てすむ︒熟達者はこれによって生じた余裕の処理資源を必要な他の箇所に配分してゆく︒これら
は限りある処理資源を有効に利用するための手だてであり︑熟達してゆくにつれてその配分は的
確になり︑またその効率も良くなる︒熟達者は新しい課題とか︑注意を要する箇所に処理資源を
重点的に配分し︑統制的に処理するが︑それ以外を自動的に処理するように︑双方の処理を上手
252
く使い分けている︒
処理資源を的確に配分し︑これらの処理を使い分けることができるのは︑熟達者が課題の特性
を正確に見抜き︑それに要する処理資源の量をまえもって予測できるからである︒熟達者はその
力量に応じて課題を捉え直し︑理解した世界と生の世界のギャップを減少させ︑そこで何が問題
なのかがそのつど見出してゆく︒それだけでなく︑処理資源の配分が自動的になされることは︑
自分の理解した世界がそのまま正確に課題に特性を反映していることを意味する︒
としても︑これは熟達の聖︱俗なる部分に言及したに過ぎず︑兵站学︑妥協についての熟達︑
さらにこれと関連する情動の働きが除外されている︒それだけでなく熟達化の過程は直線的でも
なければ︑段階的でもない︒余剰の資源を個体の成長や環境の改変に用いるのではなく︑単に浪
費して訳の分からない無駄な行為に使ってしまうことも少なくない︒熟達の聖なる側面でしばし
ば見られる現象であるが︑時にはそれが予想さえしなかった結果をもたらすこともある︒
毘沙門天像
桂造 総高二尺五寸︵平成二〇年作︶
昭和の大仏師との誉れ高い松久宗琳作の毘沙門天像を模刻したものである︒インド神話では財宝の神であるが︑わが国では上杉謙信が武神として信仰していたことで有名である︒
その雰囲気はガンダーラからギリシャを彷彿とさせるものであるが︑残念ながら私の力の及ばない世界である︒力強さを出すためには彫り手の優しさが︑静かさを醸し出すためには強さが求められるように思われる︒
255
第
13章 学びにおける拘束の意味
Ⅰ 学ぼうとする意志
1 ﹁教えない﹂教育
いずれの時代︑いずれの文化であっても︑それぞれにふさわしい教育があってよい︒近代社会
では学校教育が︑また伝統社会では徒弟教育が幅を効かせている︒徒弟教育は︑実践共同体にお
ける教える者︱学ぶ者の双方向的な関係を重視したものであり︑またわかることとできることを
不可分のものとして捉えている︒徒弟が学ぶことはいつも具体的で︑個別事例のことではあるが︑
その学びを介して仕事の背景にあるわざを身につけている︒わざの核心は容易に言語化されるよ
うなものではなく︑また極めて伝えにくいものであるが︑徒弟はそれを確実に学んでゆく︒
実践共同体に身を置く徒弟は︑一方ではその場に厳しく制約されながらも︑他方ではその制約
を克服することで︑それを支援に変えてゆく︒なかでも優れた徒弟は︑支援と制約の下で個別の
体験をそのつど意味づけし︑その体験を普遍的経験にまで高めてゆく︒これら一連の過程は︑徒
弟自身が能動的に学ぶものであり︑他者から教えられるようなものではない︒師匠の方も︑また
256
徒弟に教えることが難しいということを熟知しているからこそ︑それをあえて﹁教えない﹂ので
ある︒徒弟教育が﹁教えない﹂教育と呼ばれるのはこのためである︒一方︑学校教育は近代の知
のあり方と密接につながり︑そこで教授されることの多くは状況から切り離された︑極めて抽象
化された知識である︒近代社会では︑その種の知識を子どもたちの頭に注入することが教育であ
り︑またそれが教師の使命であるという考えが根強くある︒この意味で︑学校教育は注入主義︑
個体能力主義的な学習観の上に成り立っているといってよい︒
そもそも︑双方の教育に優劣がある訳ではない︒教え︱学ぶ過程には︑それぞれの教育の本質
が深くかかわり︑本来ならば相補的なものなのである︒ただ︑学校教育はその教授のあり方から
して︑本質的には教えられることしか教えない教育である︒それだけでなく︑教えるべきことが
学ぶものとは無関係に設定されることから︑必然的に過剰教育に結びつく可能性を内在している︒
しかも︑状況から切り離されたそれらの知識は︑学ぶものの関心や能力とは無関係に一方向的に
与えられることから︑子どもたちは学びを実感として捉えることができず︑また学ぶことの意味
を見出すことも難しい︒これが学力低下や学級崩壊等︑現在の教育の病理現象を生み出している
一因ではないか︒
﹁教えない﹂教育は決して師匠や教師の役割を否定するものではない︒むしろ﹁教えない﹂教育
を実践しうるだけの力量を彼︵女︶らに求めるものであり︑本来が厳しい教育でもある︒その根
底には﹁教えない﹂のではなく﹁教えられない﹂との強い思いがある︒いかに力量のある教師で
257 第 13 章 学びにおける拘束の意味
あっても︑どうしても﹁教えられない﹂ことがある︒この事実を謙虚に受け入れたうえで︑子ど
もたちの学びを保証することこそ教育にかかわるものの責務ではないか︒﹁教えられる﹂範囲内で
﹁教える﹂ことは易しいが︑それでは﹁教えられる﹂ことのみを教え︑﹁教えられない﹂ことを放
置することになりかねない︒
では︑一体誰が﹁教えない﹂と言い切るのか︒それは︑たとえば弟子や徒弟を育てている伝統
芸道の師匠であり︑あるいは職人の親方である︒公教育に携わる教師には口が裂けてもいえない
代物である︒師匠からすれば︑真に伝えるべきものは暗黙知︑身体知としてあり︑それを直接弟
子たちに伝えることはできない︒彼︵女︶らはこのことを自らの経験で︑さらには身体で熟知し
ているからこそ︑弟子自らが学ぶことをなによりも重視する︒師匠は弟子たちに仕事の場に参加
させ︑技を見させ︑聞かせ︑それらを真似させる︒真似や模倣は︑わざの基底にある型の習得に
不可欠なものである︒としても︑そこでの学びは固有の場所や時間に厳しく拘束され︑しかも学
ぶべきことが場に埋め込まれている︒その場は︑多くの場合︑選択の余地がほとんど与えられて
いない理不尽なものであり︑徒弟はこの状況の下で学んでゆく︒考えてみれば︑この拘束とか理
不尽さこそが徒弟教育の本質の部分である︒ところが現代では︑学びを場所や時間の拘束から解
放し︑さらには選択の自由を保証することこそ望ましい教育のあり方とみなし︑その方向に移行
している︒はたしてこの移行は推奨されるべきもので︑拘束や理不尽さは根底から否定されるべ
きものであろうか︒
258 近代社会にあっては︑拘束や理不尽さを擁護する立場は決して受け入れられないが︑少なくと
も学びの場では︑何らかの拘束や理不尽さは必要不可欠ではないか︒進化のなかで獲得された生
理的早産の意味もこれに関連している︒優れた認識器官をもっているにもかかわらず︑自らは移
動することのできない乳児は︑生まれ落ちた世界を学びの場にする以外に生き残るための手だて
をもたない︒おなじことは実践共同体に参入した徒弟にも当てはまる︒弟子たちは拘束や理不尽
さが渦巻くなかで︑ただひたすら学ぶ︒当初は外面を真似るにとどまっていた者が︑やがてはそ
の内面を推し量って真似るようになる︒真似ることが学びにつながるのは︑学ぶ者が能動的に取
り組むからである︒極めて独創性が高い作品も︑実は模倣を介して身につけたものを自由に組み
替えたものであることも少なくない︒とすると︑模倣は決して過小に評価されるべきではない︒
また︑﹁教えない﹂教育は決して正面から動機づけを狙ったものではないが︑﹁学びたい﹂気持
ちや能力に合わせて︑それぞれに的確な課題を配置することに結果としてつながってゆく︒この
過程は発達の最近接領域といった考えを思い起こさせるが︑それを可能にしているのが拘束であ
り︑理不尽さであろう︒
2 何を教え ︱ 伝えるべきか
﹁教える﹂教育では︑学ぶべきものが場所や時間の拘束から解放されており︑普遍性をもつ法
則︑理論としてある︒では︑﹁教えられない﹂徒弟は一体何を身につけるのであろうか︒もちろ
259 第 13 章 学びにおける拘束の意味
ん︑﹁教えない﹂教育が法則や理論の役割を否定している訳ではない︒必要に応じて﹁教える﹂よ
うである︒その場合でも︑法則は与えられるものではなく︑徒弟自らが拘束と理不尽さの下で具
体的な課題に取り組み︑体得してゆくものである︒それは理不尽さを克服し︑納得のゆく形で習
得した法則であり︑あくまでもそれぞれの人のうちに暗黙知としてある︒しかも︑その暗黙知は
不変のものではなく︑実践共同体のなかで徒弟の占める位置や立場の違いによって質的に変化す
る︒熟達の度合いによっても︑暗黙知の働きが量︑質ともに違ってくる︒
場所や時間に拘束された学びは︑かつて実践共同体がもつ機能に保証されていたが︑近代社会
は︑もはやその種の共同体を時代遅れのものとして切り捨て︑それに代わる社会︱生産システム
を構築している︒新たなシステムには新たな知識観に基づいた教育が不可欠であると考えたとし
ても不思議ではない︒それが近代公教育であり︑﹁教える﹂教育である︒とすれば︑近代社会にお
ける﹁教えない﹂教育の存在理由とは何か︒もはやその役割を終えているのではないか︑との見
方があることも否定しえない︒しかし一方では︑すべてを﹁教えよう﹂とする昨今の教育のあり
方そのものを︑根底から問い直すべきであるとの見方もある︒それは拘束や理不尽さのもつ意味
を新たな視点から捉え直し︑しかるべき評価を与えようとするものである︒それだけでなく︑課
題によっては﹁教える﹂部分が主となり︑﹁教えられない﹂部分が従となる︒また︑その逆も当然
ありうる︒現実には︑熟達化の階梯を上るにつれて﹁教えられない﹂部分は確実に増大する︒教
育に携わるものは︑これらの違いを踏まえて的確に対処すべきである︒まさしく師匠や教師の力
260
量が問われるところであり︑人の働きがなによりも求められる︒
われわれがなすべきことは︑﹁教えない﹂教育のもとで進められているその内実︵良い悪いを含
めて︶を正確に知ることであり︑自らの身体で体験し︑人の働きを身につけることである︒まず
﹁教えない﹂教育の内実に関しては︑本来なら実践共同体のなかでの学びを介して理解すべきこと
であるが︑近代社会にあってはもはやそれを期待できる状態ではなく︑現実には何らかの形で﹁教
える﹂ことにならざるをえない︒しかし︑教えても﹁教えられる﹂ものではない︒それだけでな
く︑たとえある程度まで内実を理解したとしても︑それを固有の場で体験する機会は少ない︒現
代にあっては︑もはやかつての実践共同体は伝統的な芸道社会や職人の世界に限られている︒そ
れ以外では︑実際に生き生きと体験しうる場を見出すことは難しい︒しかし︑この難しさを克服
しうるような提言があってこそ︑現在における﹁教えない﹂教育の意義があるというものである︒
確かに︑現在において固有の場に身を置くことは難しい︒また︑たとえ運良くそのような場に
身を置いたとしても︑人の働きを直ちに涵養できる訳でもない︒体験は︑それがどのようなもの
であったとしても︑涵養するための必要条件であっても十分条件であるとは限らない︒あくまで
も︑体験する人に依存している︒現に︑ちょっとした体験であったとしても︑それを介して豊か
に人の働きを涵養する人もいる︒
著者のインドでの体験からいえば︑インドに滞在する期間が長ければ長いほど︑インドに関す
る知識は確実に増え︑かつ正確なものになる︒しかし︑その種の知識はインドを理解するための
261 第 13 章 学びにおける拘束の意味
必要条件であっても十分条件ではない︒インドの真の姿を知るとは︑固有の体験を超えて︑その
深部にある何かを理解することである︒その何かは体験者が未だ知らないものであり︑体験者自
身がそれを構想することで立ち現れるものである︒とすれば︑構想力こそが十分条件であり︑そ
れは体験者そのもののうちにある︒要は︑その構想力を養うことであり︑古の人はそれを求めて
修行に打ち込んできたのである︒徒弟制での学びを古来より修行として捉えてきたのはこのため
である︒ では︑修行と呼ばれる体験の内実とは何か︒筆者の考えるところでは︑場所や時間に拘束され
ながらも︑真摯に自分の身体と向き合うことである︒そのためには︑まず固有の場に身を委ね︑
そこに一体化することが求められる︒一体化の体験とは何かに没頭することであり︑そこでは未
だ明確な私もなければ︑私に対峙する世界もない︒この自他分離以前の経験が西田幾多郎のいう
純粋経験に相当する︵第
11章参照︶︒われわれはそれによって自由にして活発な状態に身を委ね︑
その喜びを身体で感じ取る︒これはやがて行為を介して世界と︑それに対峙する私とに分化する︒
重要なことは︑純粋経験が分化するたびに以前とは違った自分に︑世界に出会うことである︒こ
の出会いの繰り返しが未知を構想する力を︑人の働きを確実に涵養してゆく︒ただ︑純粋経験は
自らがひたすらに求めるものであり︑教えられて体験しうるようなものではない︒
262
Ⅱ 関係性の科学
1 人の働き
われわれは固有の場に支援され︑また制約されるなかで行為し︑同時に固有の場を再構築して
いる︒それが新たな認識を︑また行為を規定してゆく︒これらの過程のほとんどは明示化される
ものではなく︑また理論を介して捉えられるようなものでもない︒それは︑いま・ここの身体が
捉えたとしか言いようのないものである︒身体の捉えた世界は︑行為と認識のかかわりの所産と
してあり︑時々刻々変化してゆく︒そのかかわりは身体に染みついた経験や考え方︑さらには理
論と無関係ではないが︑身体はそれらを超えて世界を新たに認識してゆく︒だからこそ︑そのか
かわりが新たな展開を見せるのである︒その根底には︑探索的行為と認知︑そしてその認知に基
づいた行為がある︒初心者は認知︑さらには理論に基づいて行為を生成してゆくが︑熟達者にな
るほど行為に占める探索部分が増大する︒探索的行為にあわせて世界を認識し︑それに基づいて
即興的に行為を生成するからこそ熟達者なのである︒その認識には身体の動きが必要であるがた
めに︑その認識が制約されるが︑しかし一方では︑その制約を克服することで熟達者は自らの身
体の働きを加速させ︑世界を認識してゆく︒
このように︑熟達化とは︑身体から生じる制約を超えて世界を認識することであり︑さらにそ
263 第 13 章 学びにおける拘束の意味
の制約を克服することである︒制約を身体において克服しているからこそ︑その行為が対象に対
して適応的でありうる︒そこでは認識と身体の一体性が認められる︒たとえば︑わざの世界で重
視される修行とは︑要は認識と身体の一体化を目指したものであろう︒そこで求められているの
は︑知識でもなければ理論でもなく︑あくまでも個々の熟達者のうちにあって︑しかも外在化で
きないものである︒それが本書でいう人の働きである︒それは﹁ものを見る眼﹂であり︑﹁立ち向
かう姿勢﹂と﹁学ぶ姿勢﹂からなる︒前者が同化であり︑後者が調節である︒
⑴ ものを見る眼
人は︑熟達化のそれぞれの段階にふさわしい形でその世界を再構成してゆく︒これによって世
界はそのつど意味と価値をもった場となる︒分かりやすくいえば︑ものを見る眼を涵養すること
で行為の生成が可能になり︑その所産として環境の再構築が新たに生じるということであろう︒
そして︑この新たな環境が熟達の場として機能し︑さらに人びとを支援してゆく︒ものを見る眼
とは︑要するに獲得された身体︑生ける身体の働きとしてあり︑反省意識を超えて世界の本質を
正確に認識する能力である︒その根底には暗黙知が深く関与している︒それらは︑ことの善し悪
し︑美的感覚︑材質の見分け︑感受性︑直感力︑テイスト︵taste ︶等である︒たとえば優れたソ
ムリエは︑ワインを口に含んだ瞬間にその産地︑年代︑種類︑香り︑料理︑さらには客の好み等々
に想いを巡らし︑瞬時にうまいか︑まずいかを判断する︒それがテイストである︒ソムリエが自
264
らの人生で獲得したすべてをそこに表出している︒それを可能にするものが鍛えられた﹁ものを
見る眼︵舌︶﹂である︒
⑵ 立ち向かう姿勢
立ち向かう姿勢とは︑たとえば求める心︑能動性︑目標の設定等である︒われわれは何かを契
機にして熟達化してゆくが︑その原動力は上手くいかなかった際に生じる後悔や憎しみ等の情動
ではないか︒﹁あの時〇〇していたら﹂︑﹁あの時〇〇が邪魔をしなければ﹂等々の反実仮想︑愚
痴︑恨み言は︑いずれも制約を受けて上手くいかなかった次元上にあり︑何が制約していたのか
を容易に認識する契機である︒同時に︑それは情動を伴った記憶を構成することになる︒逆に︑
制約がなくて上手くいったとしても︑そこでの体験はなんら情動を伴わず︑新たな認識をもたら
さない︒新たな認識が伴わない以上︑身体の制約もない︒結局︑身体を再構築できないことにな
る︒とすれば︑強烈に不快な情動や邪心がないと熟達することは難しいとさえいえる︒巷では︑
若いものには﹁苦労させよ﹂︑﹁手出しはするな﹂というが︑的を射た言葉ではないか︒徒弟教育
はその実践ではないかとも思われる︒﹁立ち向かう姿勢﹂とは︑要は情動の大きさから量れるもの
なのである︒この有無が適応的熟達者と定型的熟達者の違いをもたらす要因の一つである︒
265 第 13 章 学びにおける拘束の意味
⑶ 学ぶ姿勢
学ぶ姿勢とは︑たとえば関係の的確な把握︑そしてそれに基づいた学びの場の構築︑支援の獲
得等である︒わざを発揮するためには︑縄張り︑環境︑ホームグラウンド︑地の利が不可欠であ
る︒立ち向かう姿勢が︑自らのあり方に環境を合わせようとする同化のプロセスであれば︑学ぶ
姿勢はわざを獲得するために自らを環境に調節させてゆくプロセスである︒調節のプロセスとは︑
要は自己の他者に対する関係のあり方を﹁学ぶ姿勢﹂という言葉で表現し︑その重要性を指摘し
たものである︒具体的には︑たとえば関係の的確な把握︑それに基づいた学びの場の構築︑支援
の獲得等である︒これを獲得する姿勢が学ぶ姿勢であり︑いかに他者から資源を得るかというこ
とにもつながる︒そして︑これら三者の関係としては︑学ぶ姿勢と立ち向かう姿勢の総合として
のものを見る眼であろう︒その眼とは︑最終的には境界を設定する眼であり︑結節体=自己の表
出としてある︒
2 ﹁私﹂の真実
熟達すると︑おのずとなすべきことがアフォードされるようになる︒たとえば︑彫るべきとこ
ろが自然に立ち現れ︑仏師はそれに導かれるように彫ってゆく︒彫るべきところを彫るためには︑
それにふさわしい環境を能動的に構築しなければならない︒それがイナクトされた環境である︒
要は︑彫り進めている過程で生じる違和感に基づいて構築されたものである︵第
9章参照︶︒で
266
は︑なぜに違和感を覚えるのか︒それはたとえ三分の出来であっても︑そこには三分の完成され
た姿があり︑その全体像から逸脱した箇所は違和感として捉えられるからである︒完成された姿
は図面通りであるとしても︑彫っている最中はつねに違和感を伴ったものである︒たとえ図面が
あるとしても︑実際に彫っている作品は設計図とは似ても似つかぬものであり︑図面を超えて彫
らなければならないからである︒そのためには︑連続と中断が交互するなかで立ち現れる違和感
を的確に見極め︑それを修正してゆく力量が仏師に求められる︒この力量こそ熟達の神髄であり︑
即興性や創造性につながる︒実際には︑違和感を修正するという行為を繰り返すなかで︑やがて
心に描く仏像が姿を見せてくる︒その過程は︑ある部分は顕在知に依拠しながらも︑他の多くは
暗黙知の︑実際にはその現れとしての彫るという行為の働きである︒
かつての熟達研究は︑このような特性をもつ熟達の本質を個別に分解し︑たとえば自動的処理
とかチャンキングといった観点からのみ取り上げ︑しかも固有の場を捨象してきたが︑はたして
熟達の本質を解明できるのであろうか︒この疑問に真正面から取り組んだのが︑たとえば生田︵一
九八七︶である︒彼女は自らの日本舞踊の経験を踏まえて︑また人間の認識という観点から︑伝
統芸能でのわざの獲得と伝承を取り上げたものである︒そこでの学びは固有の場であってはじめ
て成立する︒
場とは︑清水︵二〇〇一︶によれば︑私と分離できない場所的世界である︒そこでは︑実践共
同体での師匠︑兄弟子等との関係のあり方︑道具の組み込み︑素材の見極め︑そして彫るという
267 第 13 章 学びにおける拘束の意味
行為等を含むすべての動的な関係である︒したがって︑そこでの彫るという行為の主体もまたそ
の場に埋め込まれている︒たとえば仏像彫刻では︑まず︑彫ってみたいという心があり︑彫ると
いう行為がある︒その心は彫るという行為によってそのつど質的に違ったものになる︒それだけ
でなく︑彫る行為がその心を生み出すのである︒重要なことは︑まず彫るという行為であり︑そ
の行為が考えるのである︒
考えるとは︑一般には︑概念を駆使した抽象的な思考と思われるが︑実際には具体的な行為を
伴ったものである︒この時︑身体とは別に心がある訳ではない︒その心は身体をもたない心では
なく︑また一方の身体は解剖学的な身体ではなく︑経験を介して獲得された生ける身体である︒
それは見えない身体でもある︒メルロポンティらの身体図式を想定すれば︑それは単に体とは呼
べないものであり︑すでに心と相当する部分をもつといってよい︒
たとえば︑著名なマラソンランナーである宗茂氏は︑かつてインタビューで︑練習では徹底的
に身体をいじめ︑何枚もの青写真を頭に描かせ︑本番は考えたことを頭から身体に下ろして︑身
体が自然に走ってくれるようにさせてゆくと話していた︒これなども一種の荒修行に似たもので
あり︑身体と心の不可分性を示唆するものである︒この場合︑練習で獲得されたものが身体のレ
ベルを超えて頭と一体化しているはずである︒練習と本番という言葉の違いがあるにしても︑基
本的には一体化とその分化である︒一体化は身体にあるのでもなければ︑心にあるのでもない︒
すでに皮膚の境界を超えた場にある︒