芸術学科第二回宮川寅雄記念講座 ヨーロッパとア ジアの交錯 : 私の仏教学への歩み
著者 ロベール ジャン=ノエル
雑誌名 東西南北
巻 1998
ページ 90‑101
発行年 1998‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003685/
ギリシア語で最初に﹁哲学者﹂﹇ピロソポス﹈という
言葉を作ったと伝えられているピュタゴラスが︑謙遜か
ら自分のことをソポス﹁賢者﹂﹇智恵を持つ者﹈と呼べ
なくて︑代わりに﹁智恵を愛する者﹂﹇ピロソポス﹈と
呼ぶにとどめたという伝説は︑日本でもよく知られた話
です︒つまり︑自分は決して智恵の持ち主ではないけれ
ども︑一生懸命それを求めているという気持ちを表した
わけです︒
それと同じく︑今日ここで私が仏教学者として紹介さ
れているのを聞きますと︑ピュタゴラスの謙遜とはまた
違いまして︑本当に恐縮し︑抑えがたい恥を感じてしま
います︒何故なら﹁学者﹂という語には︑﹁学ぶ者﹂︑
﹁勉強する者﹂という元々の語源にもかかわらず︑ある
程度自分の研究分野を把握している人物を指しているか ジャンⅡノエル・ロベール 私の仏教学への歩み 芸術学科第二回宮川寅雄紀念講座 ヨーロッパとアジアの交錯
フランス国立高等学院宗教学部教授
らです︒私がその理想からいまだ遠くにとどまっていて︑
どんなに初歩的な疑問と問題の中で迷っていることか︑
それが今日の話を聞いて下さる皆様には︑おのずと明ら
かになることと思います︒
遠い昔から今日に至るまで︑日本の学問を飾った歴代
の仏教学者たち︑あるいは一九世紀に仏教学の基礎を築
きはじめ︑・一五○年という時間をかけて仏教学をゼロか
ら他の専門分野と肩を並べる学問へと作り上げたヨーロ
ッパの学者たち︑特にビュルヌーフ︑シルヴァン・レヴ
ィ︑ラ・ヴァレーⅡプサン︑ラモットなどというフラン
ス語圏の碩学︵コンッェというドイツの仏教学者が彼ら
の業績を讃えて﹁フランス語は︑サンスクリット語︑中
国語︑チベット語に次いで大乗仏教の第四の言葉になっ
た﹂と書いたほどです︶と比べますと︑私が仏教学者と
一 一 一 一
呼ばれるのは︑本当に過分な名誉です︒
そこで古代のピュタゴラスに習いまして︑私は決して
仏教学者ではなく︑疑いもなく仏教学を愛している者で
ある︑そう強調したいと思います︒私はそろそろ四七歳
になりますが︑二○歳前後から二七年間にわたって︑仏
教にかかわる勉強をしない日が一日としてないといって
も過言でないほど︑それほどに仏教学を愛しています︒
その割には︑本格的な仏教学という最後の目的に達する
可能性が毎日のように遠ざかっていくことをますます痛
感しています︒こんな歳になっても優れた進歩の見込み
がありませんので︑永遠に﹁仏教学を愛する者﹂であり
つづけなければならないかもしれません.
﹁愛する者﹂という語は︑ヨーロッパの古典語である
ラテン語では﹁アマートル﹂といいますが︑その語がフ
ランス語を通じて︑英語の﹁アマチュア﹂として現代の
日本語にもなりました︒私はたぶんいつまでも仏教学を
愛する者としてのアマチュア︑すなわち素人のままに勉
強をつづけるしかありませんけれども︑素人のままでも
仏教思想とその思想を伝えるさまざまな言語の勉強に一
生を捧げることが可能であれば︑この上のない幸せであ
ろうと確信します︒
こんな素人の話を皆様に聞いていただいて︑いったい
何の役に立つのでしょうか︒今日の講演の副題を﹁私の
仏教学へ.の歩み﹂としたのも︑文字通りに理解していた
だき︑一生かけても成し遂げられない仏教学への道を歩
もうとしている私の例を︑一種の実物教育︵英語のケー
ス・スタディという言葉の方がふさわしいかもしれませ
んが︶として捉えていただきたいからです︒私の数え切
れぬ驍跨︑疑問︑失敗を皆様に知っていただき︑同じあ
やまちを繰り返さずに︑厳しい学問の上に築かれた本格
的な仏教学の道を歩む志を起こさせるという効果があり
ましたなら︑私の話も無意味ではないでしょう︒
私が仏教学への道を歩み始めたきっかけは︑子ども時
代から抱いている二つの関心に基づいていると思います︒
それは言語と宗教への関心です︒面白いことに︑私にと
ってこの二つの関心は切り離せない関係にあり︑非常に
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早い時から結びつけられておりました︒その原因の一つ
としては︑いま顧みますと︑やはりカトリックの教育に
あるのではないかと思います︒私の生まれた頃は︑九
○%のフランス人にとって︑カトリック教徒というのが
フランス人の別名というほどでしたので︑私も皆と同じ
く洗礼を受けさせられました︒私の名付け親︵代父︶は︑
戦争時代に父の上官であったフランス軍の大尉でした︒
その人は終戦の時︑浮世を見限り︑軍人とは違う方法で
自分の隣人を助けようと︑カトリック教会の神父になり
ました︒私には彼の影響が大きかったと思いますが︑そ
れをはっきりと描写するのはなかなか難しく︑ただ子ど
もであった私に特定の宗教的な雰囲気をもたらしてくれ
たということだけ︑ここで言っておきたいと思います︒
カトリック的な雰囲気の中で育てられた子どもにとっ
て︑一○歳から一五歳前後までの時期は決定的な過渡期
になります︒中学校に入る頃になると︑自分がこの世界
のなかで存在することの意味を説明してくれたカトリッ
クの教義が段々と信じ難くなります︒自分なりの世界観
が広がっていくとともに︑独立した考え方が発展してい
きますので︑少年や少女になった大部分の子どもが宗教
︵ここでは特にカトリックのことですが︶の甘美である
と同時に恐ろしい信条の要求に対して無関心になってし
まいます︒
私も︑皆と同じようにこの通過期を通りすぎました︒ ただ幸いなことに︑そうした疑問を抱く時期が︑私にと ってはとても重要な意味をもつ本を手に入れた時期と重 なったのです︒その本とは︑当時︵六○年代の初め︶新 刊として出版された﹃エルサレム・バイブル﹄のポケッ ト版でした︒このヘブライ聖書のフランス語訳は︑文体 的に優れていただけでなく︑エルサレムの聖書研究院で 活躍していた学僧たちによって︑非常に詳しい歴史的︑ 神学的︑さらには言語学的な注釈が加えられた学問レヴ ェルの高い出版物でした︒その﹃エルサレム・バイブル﹄ は︑私に聖典の新しい読み方を教えてくれました︒小学 校時代の教理問答の授業で習ったこととは違いまして︑ 聖書は神様の言葉として無条件に拝まなければならない 経典ではなく︑歴史的に研究できる一定の成立過程を経 たテクストとして︑かつては想像のできなかったほど新 鮮な姿に変身して見えたのです︒神様の言葉としての絶 対価値を失いかけていた聖書が︑まったく新しい種類の 知識を与えてくれる原典としての価値を帯びるようにな ったのです︒
特に︑今日の話と関連して強調したいのは︑﹃エルサ
レム・バイブル﹄のおかげで︑私は初めて宗教と言語の
あいだに存在している密接な関係を鋭く意識するように
なったことです︒具体的な例として︑こんなことを思い
出します︒
﹃旧約聖書﹄創世記の第二句には﹁地は混沌なりき﹂
− 蛇
という有名な言葉があります︒注釈を読みますと︑原文
のへプライ語では︿混沌﹀にあたる語が﹁トフー・ヴ
ァ・ボフー﹂であるということが分かりました︒ところ
が現代のフランス語には︑混乱状態を形容する語として
﹁s言︲g言﹂という言い方があります︒つまり︑聖書の
原文の冒頭に現れるへプライ語の一単語が︑そのまま日
常生活にも使える︑ごく当り前のフランス語になってい
るという事実を発見した時︑言葉で表現できないほどの
喜びと興燕を感じました︒私の信仰対象であったキリス
ト教が︑信者としての観点とは異なり︑歴史や言語学と
いう角度から近づこうとすると︑意味がなくなるどころ
か︑むしろあの当時の私にとっては︑より深くてより面
白い︑照明に浮き出すような存在となり︑かつてなかっ
た豊満な知識を得たと感じさせてくれました︒これこそ
仏教学をめざす以前に出会った宗教学への入口︑文化現
象を研究する学問としての宗教学の世界への私の第一歩
だったのかもしれません︒
聖書の言葉であるヘブライ語とギリシア語を勉強しは
じめた原因は︑そういうきっかけでしたが︑それと同時
にヨーロッパ文化圏以外の言語や文字にも興味をもちは
じめ︑オリエントと極東のさまざまな言語を無鉄砲に勉
強しだしました.ほとんど独学で︑決まった方法に従っ
て勉強しなかったため︑大した進歩はしませんでしたが︑
比較的によく進んだのは中国語の勉強でした︒ 中国語にひかれた原因は︑他ならぬ漢字という文字の 不思議な美しさに魅せられたからでした︒最初は︑東洋 のさまざまな宗教に興味を感じていたとは言えません︒ あるいは感じていたのかもしれませんが︑東洋文化の一 部分としての宗教に対する漠然たる好奇心にすぎません でした︒東洋の言葉を勉強しましても︑私の宗教上の問 題と疑惑は︑すべてキリスト教の枠を出ないものでした︒
私の覚えている限りでは︑仏教に出会ったのは︑東洋
の言葉を勉強しはじめてからかなり時間がたった後のこ
とです︒しかし︑その最初の出会いは幻︑または唇気楼
と呼んでもいいような物語との避遁でした︒いま顧みま
すと︑その体験は最近︵二︑三年前︶アメリカで出版さ
れた本に書かれているエピソードに非常によく似ている
気がします︒そのエピソードとは︑次のようなものです︒
アメリカではフロイト資料館の館長として有名なジェ
フリー・メーソン氏は︑フロイト思想に関する新しい資
料を公開し︑心理学の世界をはるかに超えてスキャンダ
ルに近い事件を起こしただけでなく︑自分の私生活やら
恋人との裁判沙汰やらのため︑新聞記者に追い回されて
いるような人ですが︑そのメーソン氏に﹃マイ・ファザ
ーズ・グル﹄︵父の恩師︶という題をもつ回想録があり
ます.メーソン氏は︑マスコミ界で広く知られるような
精神分析史の優れた学者とプレイボーイを兼ねるだけの
−
人物ではなく︑西洋では比類ないほどのサンスクリット
語学者でもあります︒彼のサンスクリット語への造詣の
深さは︑書き言葉と話し言葉の両面にまでわたっていま
す.彼のサンスクリット語会話がきわめて流暢なことは︑
インドの論理学者から直接に確かめる機会がありました
ので︑その点については疑いないと思います︒
さて︑その回想録で︑メーソン氏は自分の子ども時代
のことを思い起こしています︒彼の家族は︑祖父の時代
から宝石の貿易で大変な金持ちになりました︒お父さん
は家業を継ぎましたが︑一方で神秘主義やオカルトに深
い興味を持ち︑カリフォルニアにむらがる無数の風変わ
りな人物に引かれるような性格の人でした︒なかでもイ
ンドのヨーガや神秘哲学について大衆的な本を次々と書
き︑その世界ではなかなかの権威者であったあるオカル
ト作家を︑長年にわたって家に住まわせたりしていまし
た︒賢者ぶったずる賢い男が億万長者の家で居候してい
たものですから︑当然その家の子どもたちに対して家庭
教師に似た役割を果たすようになりました︒一番親しく
なったのが︑この家の次男であったジェフリーです︒
ジェフリーは毎日のように︑夢中になってその不思議
なお爺さんの口から︑自分が金星や火星に住んでいた頃
の思い出話やら︑古代エジプトのファラオの朝廷で大司
祭を務めていた前世のことなどを聞かされました︒そう
して成長したジェフリー少年は︑お父さんのお金で﹁金 星人の﹂お爺さんを連れ︑夢の国インドで大巡礼を行な いました︒インド各地の賢者︑ヨーガの修行者︑さまざ まな行者で少しでも名のある者がいると聞けば︑そのも とへ教えを求めに行きました︒一五︑六歳でありながら 大きく神秘主義に傾いていたジェフリー少年にとって︑ このうえなく楽しい生活だったにちがいありません︒
自分の関心に正直で熱心だったジェフリーがインド学
に真面目に向きあい︑高等学校を卒業して︑すぐさまサ
ンスクリット語の本格的な勉強に着手したのも︑そのグ
ルのもたらした影響の当然の結果だったかもしれません︒
しかし勉強が進めば進むほど︑居候の教師の口から聞い
ていた教えがなにもかもデタラメだったことにようやく
気がつきました.そのうえ︑そのお爺さんがサンスクリ
ット語の一語もまともに知らないという悲しい事実も悟
ってしまいました︒幻滅と恨みと憤慨が極まりまして︑
もう自分にとってはペテン師の居候にすぎない老人と縁
を絶つことになりました.
ジェフリー・メーソン氏はこの回想録を書いた時︑す
でに四○歳を超えていました.成熟した学者の観点から
自分の子ども時代の不思議な経験を顧みて評価しようと
した後書きでは︑消極的に判断することを避けて︑むし
ろ自分の経験の希有なことを悟って︑偽物のグルに対す
る一種の和解の気持ちを表しています︒幻の上に生まれ
た彼のインドへの熱情が︑本格的なインド学を学び取る
−
きっかけになったわけです︒
スケールがずいぶん違いますが︑決して億万長者の息
子ではない私も︑仏教に引かれた最初の動機は︑一種の
文学的な幻でした︒一九六五年の夏︑父の故郷で夏休み
を過ごしていた一五歳の私は︑フランスの東部地方の小
さな町で︑奇蹟的にも︑じつに不思議な本を手に入れま
した︒この本の著者がロブザン・ランパと名乗るチベッ
ト人の偉いお坊さんであるということは︑裏表紙の宣伝
文句から知りました︒その本の題は﹃第三の目﹄という
ものでしたが︑内容はと言いますと︑まことしやかに書
かれたチベット人の思い出話という形の︑奇想天外であ
りながら独特の純粋さをたたえた物語でした︒主人公が
どのようにして両目の真ん中に木のくさびを打ち入れて
﹁第三の目﹂を開き︑そのおかげで超人的な力の持ち主
になり︑過去︑未来︑現在のすべてを見通せる神僧にな
ったかという過程をこまごまと描写していました︒のみ
ならず︑何百年も前に現れたチベットの古い予言を引用
して︵チベット語の原文までイラストに出ていました︶︑
自分がブッダの教えを西洋に普及させる使命を負託され
たことまで打ち明けていました︒
夏休みが終わってパリに帰ると︑英語の専門書店を歩
き回って︑まだフランス語に翻訳されていないロブザ
ン・ランパの作品を手当り次第に買いました︒そこで︑
チベットについて書かれたますます摩訶不思議な事実を 読みました︒ダライⅡラマの住んでいたボタラ宮殿の下 の洞窟には人類以前に存在していた巨人のミイラが保存 されているとか︑伝統医学を勉強している学僧の神秘的 な記憶術など︑数え切れないほどの感嘆と驚きがページ をめくればめくるだけ︑次々と出てきました︒
無我夢中になった私は︑今度は東洋学の専門書店へ走
って行きまして︑チベット語の文典をあわてて買いまし
た︒幸いにもそのとき手にしたのは︑薄っぺらな小冊子
の形をした文典でしたが︑これが古典チベット語︑特に
仏教経典のチベット語を覚えるためにはもっとも効果的
な早道でした︒この文典は︑マルセル・ラルーという女
性学者の書いた﹃チベット語の実用教科書﹄でした.純
粋なチベット語を紹介するより︑むしろサンスクリット
語経典の翻訳語として用いられた仏典チベット語に重点
を置いていました︒それを覚えようとしていると︵二︑
三年のあいだはたいして進歩しませんでしたが︶︑ここ
で学んだチベット語の背後にある仏教が︑もちろん﹃第
三の目﹄で発見した超自然の教えとは非常に違っていた
とはいえ︑尽きることのない興味をもたらしてくれまし
た︒それと同時に︑あの自称ラマの作品を少しずつ疑わ
しく感ずるようになりましたが︑それでも何となく一種
の未練を感じまして︑ランパの本を捨て去るのはなかな
か難しかったのです︒
私の見方を決定的に一変させたのは︑そのころ通いは
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じめた中国語の校外講座で知りあったお爺さんでした︒
学校の帰り︑そのお爺さんと一緒に駅まで歩きながら話
をする習慣ができました︒そんなとき︑たまたま私が頭
一杯に詰め込んでいたあのラマのことを口にした途端︑
そのお爺さんは吹き出しました︒そして﹁ランパはチベ
ット人なんかではない︒イギリス人の水道屋にすぎない
ぞ﹂と︑ぶっきらぼうに言い放ちました︒私はなぜ︑そ
の経歴さえよく知らない老人から聞いた言葉をそのまま
信じたのでしょうか︒今から思いますと︑本当は自分で
分かっていたにもかかわらず︑愛読していた著者が偽物
だと認めるほどの自信がなかったことが理由なのではな
いかと思います︒第三者からその判断を聞くのは︑一種
のカタルシスに似たような効果をもたらしたとも言える
でしょう︒もちろん幻滅は感じましたが︑同時に︑あの
大風呂敷の神僧の話と︑もっとさっぱりしたうルー女史
の本のあいだにぼんやりと感じていた矛盾から解放され
たような気持ちでした︒それはジェフリー・メーソン氏
の経験に似て︑幻から生まれた仏教への関心でした︒し
かし︑その後しばらく︑オカルトめいた東洋学の本から
はなるべく遠ざかるように努めました︒
六七年に高校を卒業しましてから︑長年の夢を実現し
て︑東洋語学校にすぐ登録しました︒そこでようやく私
の憧れの的だった東洋の言語の勉強に耽ることができま した︒二年生の時︑私の仏教との本当の出会いがありま した︒その出会いのお陰で︑仏教学をどう学んでいくべ きかと見当が付くようになりました︒その仏教との出会 いは︑一人の人物に象徴されました︒それは︑私の恩師 ベルナール・フランク博士でした︒あの当時︑博士が教 鞭を執っておられたのは︑フランス国立科学研究院の第 四部﹁歴史と文献学﹂でした︒その学院の授業は︑週に 一回行なわれるゼミの形を取っていました︒
博士のゼミは﹁日本の古典文化﹂でして︑そこで丸三
ためのりえことば
年をかけて︑平安時代の源為憲が編んだ﹃三賓絵詞﹄と
いう説話集を読みましたが︑その説話集を中心にして平
安時代の他の説話︑特に﹃今昔物語﹄に関係する説話の
抜粋をいくつも読み︑研究の範囲は漢訳仏典の出典にま
で広がることが多かったのです︒それだけでなく︑フラ
ンク博士は仏教用語の意味などを説明する時は︑かなら
ずサンスクリット語の語源までさかのぼり︑仏教以外の
インド宗教と哲学における使用例も調べておられました︒
フランク博士は︑日本学についてはフランスにおける
日本学の創立者シャルル・アグノエール氏の弟子であり︑
中国語については中国・チベット仏教史の大家ボール・
ドゥミエヴィル氏の弟子であり︑またサンスクリット語
文法の碩学ルイ・ルヌー氏の弟子でもあられました︒ル
ヌー氏は︑フランスのみならず全ヨーロッパから見ても︑
もっとも完全なサンスクリット文典を編纂した方です︒
− %
このようにフランク博士は広く東洋を学んでおられまし
たが︑ご自身としては日本学者という意識しかありませ
んでした︒けれども︑博士の主な研究分野であった平安
時代の文化と広い意味の図像学︵特に世界でも唯一とい
ふだ
える﹁お札﹂の研究︶は︑彼自身にとって仏教の研究と
は切り離せない学問でした︒つまり仏教を中心としてい
た平安時代の文化︑文学︑思想︑図像を理解するために
は︑インド︑中国の仏教と文学も顧みる必要があるとい
う原則をおもちで︑講義中に言葉で表現されることがな
くても︑私たち学生には先生の研究方法を見ていれば分
かることでした︒
フランク先生に蒙った一番ありがたい教えを一言でま
とめようとすれば︑それは仏教研究における統一的な観
点︑見方であった︑そう言っていいと思います︒インド
に生まれ︑中国で独特な発展を果たし︑高麗を通じてよ
うやく日本に伝わった仏教という宗教的・文化的な現象
は︑最終的に日本文化の中に結晶しているという意識で
した︒その結晶の中には︑インド・中国・高麗という三
国の文化だけでなく︑日本本来の言葉︑文化︑信仰も収
められました︒博士の方法に学んで︑私はやっと仏教に
対する関心と言語に対する興味を統一して勉強を進める
中心的な立場を見つけることができました︒
フランク先生は︑非常に苦しい病気の果てに︑一九九
六年一○月一五日に亡くなられました︒先生の人間とし て︑学者としての優れた業績については︑また別の機会
車
に︑より詳しく述べることにします︒先に︑ヨーロッパ
における仏教学の大先輩たちの名前を挙げましたが︑彼
らにとっての仏教学とはインド学の一部にすぎませんで
した︒それはサンスクリット語とパーリ語の勉強ではじ
まるものでした︒たとえばラモット氏の卒業論文は︑
﹃バガヴァッド・ギーター﹄に関する研究でした︒まず
サンスクリット語などインドの言語を把握してからチベ
ット語や漢文の勉強にたずさわる決まりでしたが︑チベ
ット語や中国語に求めていたのは︑チベット語経典や漢
訳経典の基礎となっていたインド諸語の原文を復元する
道具としてだけでした︒チベット人や中国人の学僧の書
いた︑独創的なインド思想の本流からほど遠い注釈と論
文にはあまり興味がなかったという事実を認めなければ
なりません︒ドゥミエヴィル氏とラモット氏のように日
本語を習った学者もいましたが︑それも現代日本の仏教
学者による研究を読むためだけのものでした︒
シルヴァン・レヴィ氏について弟子たちが書いた回想
録には︑こうした初期の学者たちの照度をありありと描
写する場面があります︒レヴィ氏がチベット語の文章を
読んでいた時︑目前にあるテクストの文章を指でさしな
がら︑口ではサンスクリット語の原文に直して読んでい
たというのです︒言葉を変えて言いますと︑この偉大な
インド学者にとって︑チベット語は透明なものでした︒ *一九九六年一○月一八日 に東京・恵比寿の日仏学院で おこなわれたロペール氏の鴛 演︵和光大学公開繊座︶が︑ ベルナール・フランク博士の 業績紹介と追悼にあてられた︒
9 ←
肝心だったのは︑その透明な言葉の奥に見えるサンスク
リット語でした.この不思議な同時通訳とも呼べるチベ
ット語テクストの読み方は︑インド学者の典型的な立場
を明らかにすると思います︒なおレヴィ氏については︑
ほかにも面白い有名な話があります︒第一次世界大戦が
はじまった頃︑チベット政府がイギリスの外交筋を通じ
て︑フランス政府あてにチベット語で書かれた書簡を送
りました︒当時のフランスでは︑チベット語を読める人
はごく少数しかいませんでしたが︑まずフランスの最高
の教育機関で教授を勤めているレヴィ氏に翻訳が依頼さ
れました︒あいにくサンスクリット語の翻訳語としての
チベット語については名人の域にあったレヴィ氏も︑チ
ベット人自身の書く純粋なチベット語は苦手でした.挙
句の果て︑翻訳にとまどって何もできなかったそうです︒
その書簡は結局どうなったか︑私は全然わかりません︒
それと同様に︑﹃倶舎論﹄や﹃成唯識論﹄を漢文から
フランス語に翻訳したラ・ヴァレーⅡプサンや﹃大智度
論﹄︑﹃維摩経﹄などの画期的なフランス語訳を完成した
ラモットも︑漢訳仏典以外の中国語をあまり読んだこと
がないといっても言い過ぎではないと思います︒特に
ラ・ヴァレーⅡプサンの場合︑その翻訳にわずかでも誤
りがあるとすれば︑その大部分は普通の文学的な漢文を
十分に知らなかったという原因から起きました︒ここで
挙げた二︑三人の碩学の例から︑ヨーロッパの仏教学者 の特異な姿勢が十分に伺われると思います︒
私は︑フランク博士の影響の元で︑その観点を逆さま
にしました︒つまり︑仏教東流の終点ともいえる日本か
ら仏教を調べることにしました︒インド︑中国︑高麗の
伝統が日本の領土に結晶されて︑現代の東洋ではおそら
く比類のない宝物として保存され︑大陸では独立する宗
派の形を失ってしまった天台宗︑真言宗︑法相宗などな
どの区別を現代まで守ってきた日本仏教こそ︑まさしく
研究対象に値するのではないかと深く感じました︒チベ
ットを除けば︑六世紀の中期から現代まで絶え間なく存
在しつづけた仏教伝統は︑確かに日本だけという事実か
ら考えますと︑もっと広く研究されないのは不思議なこ
とです︒
このアプローチの具体的な例を挙げるため︑私の修士
論文について一言触れたいと思います.いま述べました
ような観点をつかまえたとき︑日本と関係する仏教テク
ストで︑なるべく短く︑素人の私でも一年間で研究し︑
翻訳もできる小論がないかと﹃大正新脩大蔵経﹄のペー
ジをめくって見たところ︑まったく偶然に︑その第四六
巻に︑これぞという文献に行き当たりました︒一○世紀
高麗の学僧・諦観の編纂になる﹃天台四教儀﹄という題
をもつ︑六ページほどしかない天台教理の入門書でした.
さっそく﹃仏書解説辞典﹄を調べますと︑﹃諦観録﹄と
も呼ばれるこの本の注釈書の表題だけで数ページを満た
− − − − %
しています︒もう少し歴史的な背景を見てゆくと︑まる
で私の理想が実現したという気がしました︒かの諦観と
いう高麗の僧侶が︑中国の呉越王の要請に応じてしたた
めたこの入門書は︑数世紀たってから日本に伝来され︑
日本天台宗では︑現在まで熱心に研究されています︒つ
まり中国︑高麗︑日本という漢字文化圏の三大国は︵ベ
トナムについては現在まだ不案内ですが︶この﹃天台四
教儀﹄によって非常に象徴的に統一されているという気
がしました︒
その修士論文は︑私の仏教学への歩みが具体化された
第一歩でした︒それから大した進歩があるとはいえませ
んが︑ここで二四年間を飛び越えまして︑今年の夏によ
うやく完成した最近の仕事に言及したいと思います︒そ
クマーラジーヴァ