経營におけるVermassungをめぐる諸問題
− 人 事 管 理
・ 人 間 管 理
・ 労 使 関 係 川 −
崎 文 治
一序
二 フィッシャーにおける﹁人間管理﹂ の展開
≡ ド ラ ッ カ ー に お け る ﹁ 人 事 管 理 ﹂ の 破 産
四 結 . び
一序
元来Vermassungという概念は社会学的範疇に属しようが︑こゝではそれが荏営経済の構造に掴係する際惹起する所
の︑経営経済的問題と共に考えてみたいと思う︒両も更に限定するならば︑それが﹁大衆化﹂︑lと訳される際にも露皇
される様に︑とくに経営における人間関係−必ずしもいわゆる人間関係論を指さないーの側面に於て︑しかしその人間 虜係が労使という縦層的関係に於て考えられる際には本質的な意味合いに於て︑把握されるものである︒
T︶ 例えは義利重隆教授稿労務管理﹁総論﹂︵経営学講座第五巻︑薗松望︑昭≡︶四八買︒しかしわれわれは﹁大衆化﹂の文字よりも︑も少し広い意味を漸次指摘したい︒
さて経営経済の問題をその中に.於ける人間の関係に集めてみると︑凡そ次のグループに分けられよう︒
経営 にお ける Vc rm as su ng をめ ぐる 諸問 題
一七
経 営 と 経 済
八
組織的構成の問題 i 即ち経営経済に組入れられた人聞は︑単なる集団ではなくして︑特定の組織の一員として存
在する︒これは更に次の様に重畳する︒
1
組織的縦断関係これはいわゆる沙門
B
乱︒おき町主︒ロに相当するもので︑職制的権限責任の重畳関係を表わ
す︒これは又言葉を換えれば管理的組織ということもできよう︒
2
使用者組織と組合組織これはいわゆる労使関係的状犯をいうのではなくて l それは次に述べる様に兵次元侍
造を為すものである l 夫々使用者における経営権組織として商法上規定される所の経営者(側﹀組織と︑労働者
における労働法上の労働組合組織としての労働者(側﹀組織である︒
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自 生 的 人 間 関 係 レ ス リ ス パ
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Oガ lのいわゆる吉町
円自
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Oロを為すもので︑周知の通りの人間関係論
展開の場となり実体をなすものである︒之を非職制的組織と為すこともできよう︒但しこの際たの職制的組織が管
理的組織と換言された様に︑こ
Lでこの関係を非管理的組織と直ちに換言しえない点については史に以下本論に於
て触れられる管である︒
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経 営 労 使 関 係 こ れ は
I
の
2における使用者側︑労働者側犬々の組織が︑いわば静態的分析的に求められたのに
対して︑相関的動態的綜合的な関係として︑組織と組織との関係︑而もそれが夫々経営権と労働捺に裏づけられた
権力関係として︑すぐれて主体的関係であり︑更にはこれらの主体は対肘的関係存在であることをその本質とす
る︒その意味でこれは前二者とは次元を具にするものといわねばならない︒この点についても亦われわれは漸次本
文において︑強調したい︒
さて以上三つの基本的な人間の関係態様について一応分濁してみたのであるが︑われわれは更に之等の三様態を統
一的に把握しなければならない︒そしてそのための契機を︿
2B 22
ロ m に求めてみようとするわけであるが︑このこ
とは換言すれば以上の各グループにおいて︑︿
OH Bg mg m
の問題は如何に現われ︑終局的に統一的経営経済において
︿
2B2
2
誌はいかなる意味をもつかということの探求になるであろう︒
プ イ ッ
ジャーにおける﹁人間管理﹂の展開
︿
2B22ロ間の問題を合むところの経営における同有の人事管理ハ
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注
EZ目的
可丘
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一の生戒と発展については︑既に定式化されたといってもい土佐に鑓われてきたが︑その定式化の中にもわれわれはいく
つかの類型をみることができる︒今之を代表的にギドl・ブイッシヤl 及びピ I
タl・ドラッカーに就いてみよう︒
ドイツにおける経営労務論の古い権威であるギ FI ・フイッシヤlは︑最近の論考﹁経営における人事管理と人間管
理 ﹂
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る﹁人事管理﹂の﹁人間管理﹂への発展を求め︑その際のモメントとして旬︑
2B82ロm E
を措定しているのであるが︐
われわれも哲らくその論程を追ってみよう︒
彼によれば︑ドイツにおける﹁人事管理﹂はとくに第一次大戦後国家的要請によって強力に押し進められたという︒更
に近年になるとそれは﹁経営的労働配置や経営的社会政策﹂
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むとして﹁従栄員の組合せ︑住宅関係︑家族問題等﹂を顧慮しつ
L︑﹁雇用︑考課︑奨励︑配置転換︑解雇等﹂を行い︑
人事担当者は=﹀号
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の全課題を
U町停止︒ロの平面(水準﹀に迄高
めるに至っているにも拘らず人事管理は﹁働く人聞を︑経営における他のすべての機能︑即ち貯蔵︑購買︑販売或いは
製造等と同様に︑唯﹃管理﹄
(3 52
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﹀されるということを諾っている﹂という点は注意せねばならない︒即ち ‑ ‑
そこでは﹁経営における人間を純粋に容体視して任用すること﹂ハ
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品 目 白 宮
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吉田
ω三岳)が行われるわけであり︑その限り真に近代的ということはできない︒今日では最早﹁経営に於て働いている人聞は主体 2 吾︺巾げるとして見られ且信額されねばならない﹂のである︒この労働者の主体化︑自主化をもたらすものこそ﹁人事管理
﹂の発展としての﹁人間管理﹂ハ豆
SEZ昆
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に他ならない︒それでは人間管理へのこの発展はいかにして行われる
であろうか︒そのモメントとしてこ与に︿
2E22巴阿の概念が登場する
02 v
フイッシヤーによれば﹁今日の人聞はその労働時間と自由時間に亘り︑︿
2BS
∞ g 間の危険にさらされている﹂
と
経色におけるく
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を め ぐ る 諮 問 題
ブL
経 営 と 経 済
二O
いう︒このことは当然彼の労働乃至自由活動領域に於ける何人的責任感の喪失︑働きとその歓び(旨
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室 内
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2 えるを減少させずには置かないのであるがしかもわれわれは人間の自主性︑主体性を回復する為には︑この
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の中に入ってこれを克服する他はない︒彼はこ
Lにその根凶としてこつのものを求める︒
その第一は﹁技術﹂である︒これは消究者の為の規格化された需要充足手段として︑必然的に大量生産と低価格政策
が要求される所から︑流れ作栄組織
( E E Z
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号 円 z
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F 2
るを賀らさざるをえない︒この為にはわれわれはアメリカにおける科学的管理法のフォードシステムにいおけ 5
る発展を回顧し︑ドイツ合理化運動に連る棋準化︑組立流れ作業の原理を想起すれば充分であろう︒換一一目すればこ
Lで
はわれわれはぐ
25 22
認の意義を︑
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∞Sg
FE mg m
ハ丑産﹀の中に︑その必然的帰結として見出すことになる︒
そこで本論に序説した過程を充たす為に︑われわれはこ
Lで技術のもつ
42 gg
認の意義について︑初めに考えた
g経営における人間関係様態の第
Iグループにおいてとくにそれが顕現される点を指摘しておかねばならない︒査し生産
過程に加入れられた人間に関する限りでの技術の問題は︑正しく組織的総断的構造に於て把握されるものであり︑即ち
職制的組織に怪胎するものといわねばならない︒唯その際職制の意味は︑生産過程にまつわりついた労働の組織的管理
体系を為す点もそれが終局的には労働者を客体視しぐ
25 28
ロする限り︑ドラッカーなどにみられる様な人事管理に
おける仕事組織の欠如宮︑とその本質を同じくすることを注意せねばならない︒われわれは之等の点をも少し精しくする
為に︑プリーブスにおける技術論を幸いに撰用することができる︒
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﹀即ち技術こそ広汎に経営における労働と協栄
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目︒るを規定するものであり︑労働者の排列と従属
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ロ ロ 巴 を 可 能 に す る も の で あ る ︒ 一 一 一 一 一 日 に し て い う な ら ば そ こ に 生 じ る も の こ そ は
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Lでわれわれは︑プリーブスに於けるこの技術的本質は︑経済的責任性宇佐三号
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︑ 経 営 経 済 に お け る 氏
︑ 王 々 義 達 成 へ の ル
l トとして考えられていること︑即ち技術のもつ弊害を︑
その過程の中から止揚することによって︑経営民主化の原理たらしめようとしていることを注目しなければならない︒
即ちフイッシヤーもいう様に︑経営経済における人間の職制的労働関係の整序換言すれば
40 5g gn
開からの回復は︑
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︒ 伯 仲 吋 o v g 開 o q a ハ 人 間 主 義 的 努 力 ﹀ g v で な け れ ば な ら な い が
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︒ = ( 社 会 的
・ 経 語 的 関 係 の 人 間 主 義 化 ) ( 6 u に 他 な ら ず ︑
その意味でもわれわれの初めにみた人間関係態様の
1グループを包含した人間回復の意図をみることができるであろ
う︒かくてブリーブスにおける出EMgu‑02ロ開の課題は次の様に一一一日われることになる︒即ちそれは﹁経営における権
威 と 紀 律 の 緩 和 化 包 号 仰 を ロ r s n v g g ロ E E H E 但 ロ ロ ル ロ U N ‑ ‑ ‑
るであり︑経営の技術と組織に由来するところの強制の怒 和 ( 5 5 0 2 品 ︒
gNSロ 沼 田 ) で あ り ︑ 更 に は と く に 犬 経 営 に み ら れ る 生 活 諸 条 件 の 安 易 化 ( 間 同 庄 内 E 2 5 m
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であり︑故後に労働者間の︑叉労働者と下級・中級・上級者間の諸関係の改善qoHσ202
長 含 門 出 向 旧 日 各 g m n る で あ る ﹂
︒ そして今や重要なことは︑以上のことに対するE
吋
onFEw‑wの役割である︒即ちそれは問題を尖鋭化することも︑緩和
することも可能であり︑秩序と桂成とを堪え得るものにすることも叉堪え難いものにすることも可能である﹂︿
7)とされ
るに五ってブリーブスの技術概念は︑単なる生産技術ハテグニカル・スキル﹀を超えて︑社会的技術(ツシプル・スキ乙
にまで昇華する︒而も術後にみる様に︑この社会的人間関係領域に凶ることなく︑彼の場合はむしろ労使関係領域にま
で踏み入ってくる︒勿論そこでは技術概念は民主化概念に肩替りすることはあるとしても l そしてそこにプリーブスに
おける︿2ggg認の問題が潜む!この様に経営民主化の問題︑経営における出CES‑‑oHgmの達成を労使関係次元
までを包み込むことによって求めようとする考え方はフイッシヤlあたりと比べて前進的といわねばならないosvこの
ことは宍はフイッシヤlにおける︿052mg開の問題に関係する︒そこでわれわれはフイッシヤ 1 の人間関係論︑労使
関係論にできうる限り歩を運んでみよう︒
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紅色における︿日目22ぷをめぐる諮問題
経 蛍 と 経 治
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アイッシヤーにあっては例えば出立立与
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た︒これ程ではないにじても︑今日われわれの理解しうる筒囲でも本質的には進展していないのではないかと思われる︒以下
の 本 文 に 照 さ れ よ
︒ さ て フ イ ッ シ ヤ l に お け る
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問の根凶としての技術につついては﹁職務外的共同生活の金時代精神﹂
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コご去るの及ぼす仰人的イニシア一アィヴの制限︑不必要化︑而して=ぎロ
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(集団的思考と行動)へと人を迫やるものである︒こ斗に彼がいう様にこれは経営経済内部の個々人の職務
90 23
の 遂 行世界の外に行われるものとして︑即ち市民としての生活時間中に浸蝕されるものではあるが︑当然経営経済内部の社 会侍造に反映せざるをえない︒即ち回
2g rz zq m)
にも及ぶのである︒而もそこではたにみた様に画一的労働様式に於 け る 技 術 的
RBぐ
説 明
g四の行われる場所である︒かくてわれわれはフイァシヤlにおけるぐ
RES回gm
の全容を︑生
産技術傍迭における職制的人間判織の位旧作に︑いわば技術的利織的︿
2E22誌を見出すと共に︑経営職務外的市民生 活における︿
RB82
おによって︑実は側々の経営経済における人間が犬々性格的慣習的に之を身につけ︑結局は自己
の回
02 rz rg
にまでそれを持込むということができるであろう︒而してこの様に各何人によって持込まれた・いわば社
会 的
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︿
E2 22
開はむちにその社会性を吉町︒同自色︒認さ町注目︒ロに於て顕わにすると共に︑生産技術的待造関連のも
つ技術的
40 Hg mm
ロ四と結びついて︑経営経済内部の職制・非職制を問わず︑全面的︿
g2B
虫 色
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ロ として浸透すると
いうことになるであろう︒
さてそれでは当然に求められるそこからの回復の途はどうであるか︒それが先にプリーブスと対照した﹁人間主義的
努力﹂に他ならない︒それは即ち以上のぐ
22
22
兵を画一化︑非個性化︑創意喪失と規定しうることから直ちに導か
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の 探 求 開 発 ( 吉 田
5E三
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が﹁勤労の歓
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戸羽
ZZ 立と共に期待されると為し︑かくて﹁全経営過程﹂
2 U Q 3 5 乙 白 山
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町 ヴ 2 ) の 拡 張 発 展 を 所 期 す
るわけであるが︑われわれはそこまで直に飛躍的期待をかけずとも︑それにつづく所の彼のいわゆるぐ
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人 ' 問 ( 主 義 ) 化 と し て の ﹁ 経 営 共 同 体 ﹂ ( 回 目 ご 芯
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論
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た人間関連グループに総体的に関係づけることを試みねばならない︒
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時に又多少に拘らず相当の人間が︑心へ低は極めて多数の人間が一斉に職務を遂行し︑満足に生活する為に所得を求め且
つ獲得するところの仕事の場(と
E 5 5 5 )
でもある﹂と︒従って︑それは又一つの﹁有機体﹂
( O
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s ‑
目
55﹀ということ
もできるであろう︒唯しかしわれわれは党に詑
( 8 )
でもみた様に︑同三
2時代のドイツの有機体観から出てくる﹁運命
だ 同 体 ﹂ ( 引 の 広 島 5 2 m g 四 一 口 出
門
E52
の血縁を竺成することは忘れてはなるまい︒そのことを合みつつ更に眺めると︑この
)つ経営共同体﹂口的は挽.一目すれば﹁ひとりひとりの人聞を彼の仕事の場に於て人格的に尊敬すること﹂に他ならない
が︑その為には唯一つ︑労助者を﹁賃金要素﹂(円喜三井言︒或いは恐らくは煩わしい﹃矢先﹄(ミロロ
w o m g
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としてみ
るのではなくて︑各人が犬々の立任をもちつつ︑共通な経営任務及び経営給付を共に遂行するもの(百円三五一
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2 3
と混同されてはならない︒即ち前者にあっては︑各人は夫々一例性的な才能︑性絡をもち︑それらは夫々の素性︑教育︑
訓綜に基くものであって︑かくて﹁各々一人一人は︑経営給付の全枠内で︑全く独自の特定の位置(目立
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性﹂にあっては︑何等区別や等級づけすることなく唯同様の権利と義務ハロ日
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を認めるのみであ り︑まさに人間の人格価悩
( 2 5 E r F a t
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間的諸関係の形成﹂(口広白色色 E
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Z 町 長 g F N 5 5 m g ) 日︺である︒即ちこれまでわれわれはフイッシヤ
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て︑旧来の人事管理のもつ限界点を︿
2E22
おに求め︑それからの回復を人間管理の立場として求めてきたわけであ るが︑それは自ら︿
2saga
自体に内在する技術的本質と社会的本質の正当なる位置づけを通じて行われることにな り︑こ斗に真の平等性に基く経営共同体への要請となったのである︒而もその平等性に合まれる意味は︑各人の例性に 応じて伺性的職務に就くことによって人格性を求めることにあった︒こ
L
にわれわれは本稿に序説した人間関係態様の
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グループについて︑即ち職制・非職制椛造に百一る人間管理の意味を全面的︿
O H g g z a の克服として見出してきた わけである︒而してこの職制・非職制に亘る全面的人間関係の課題が︑結局フイッシヤ
l
における﹁人間管理﹂の課題 となるということができる︒そのことを最早要点的に整理しよう︒
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しかし更にブリーブスが次の様にいう時は︑同じ志向からにしても︑プイッシヤ l 以上の帰結を示唆しでい
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は印)に対処する原理を即断わすことになるがこの点については以下展開する極りであ
る ︒
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ω こ斗にわれわれは社会主義賃金論の基本原理としての平等主義を顧みると︑﹁マ九グス主義は︑平等ということを肉体的能
力やお判的能力の平等とはかんがえずに︑社会的な平等︑経話的な平等とかんがえる﹂(﹁経治学教科雪﹂第三分間︑七四一一具)
︑ と こ ろ か ら
︑ ﹁ 賃 金 均 等 化
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宮 ) ( 一 九 二
て︑幹部を流動させ︑労働生産性を低下させ︑計回を未遂行におわらせる﹂ 二八年の賃金率改
El川崎)は︑生産に大きな損害をあたえるものであっ 七
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・)ものとしてプチ・プル的平等主義(宮
5 1
‑ 5 5 m g u m m E E
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と し て ス タ ー リ ン の 詐 誌 を 蒙 り ︑ 一 九 = 二 年 後 半 期 に 再 び 賃 金 率 の 改 訂 が 始 ま っ た の で あ る ︒ ( ∞ 岳 巧 E )
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さてフイッシヤ l
において経営的人間管却の重要な課題としての﹁経営における人間諸関係の整序﹂
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の為にこ
Lに問つの組織的可能性の途が求められる︒
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協働者の教育
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経営における協働者の訓掠と発展
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上級者と下級者との聞の心迎的正常関係ハ江口官三
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﹄ 戸 之等についてわれわれは第
1 第
2が例性の叫噂舟主ということを︑それぞれの適職に於て見出し︑そこに人格を完成させる
という意味での平等主義を目指すものとして現併しうると共に品︑第
3
に於てその心別的側面からいわゆる﹁感情の論
却﹂に幾い社会的人山関係の世界を刑判きうるし︑同時にそれが職制の上下に於て求められるという全経営関連での人間 設序を見ることができるであろう︒問題は最後の
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同28
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に持越される
c即ちこ与にいう﹁人間的諸関 係﹂は既にいわゆる﹁人間関係九州﹂の指向するものとはその概念規模に於て相当に呉るものがあることを示している が︑そしてその限り後でドラッカーに見られる桜な﹁人間関係論﹂の限界即ち動機づけの放任︑職務の軽視︑経済的側
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紅 色 に お け る ︿ 目
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をめぐる諮問題
二五
経 営 と 経 済
一 一 六 而 の 欠
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と い っ た も の は み ら れ な い
︒ む し ろ 犬 々 教 育 と 訓 棟
︑ 職 制 と 適 職
︑ 経 済 的 利 益 の 強 調 と い っ た 点 か ら
︑ 之 等 の 限 界 を 克 服
︑ し て い る と も い う こ と が で き る で あ ろ う
︒ と こ ろ が そ の 様 に 解 す る 限 り 故 早 そ れ は
﹁人間関係命﹂の枠を拡げることにならざるをえないことは先に触れた通りであるが︑こ・与に最後の第
4項目に
至って︑その枠は一見に拡げられる j というより次芯を異にする趣きの出てくることに注なしなければならない︒即ち
第
3項目まではいわば経営的職制をめぐる関係であったものが︑こ斗では超職制的に l
それは決して非職的に︑即ち 吉 町
︒ ﹃ 自 己 に で は な
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要請されるからである︒蓋し彼のいう様に
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‑ 一吉田高に於ては︑問中に﹁正当な
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四(賃金だ払)﹂や﹁何等かの形の何同町 g
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間(成果分与)﹂に首らず︑児に﹁従業者を精神的且思想
的に︑夫々仰人的な仕事の領域に生じるすべてのことに関心をもたせること﹂が主要なのであり︑﹁それによって各人
は同時に自分自分の仰なによって自分の仕引を谷易にし︑且所得を高める可能性を宏たすしことができるのである︒従
ってそれは﹁既にでき上った事実として導入されるのではなくて︑新しい生産手続乃至作栄千続合同ロ何回九四三雪ロ
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乙 で あ り ︑ 新 し い 組 織 方 法 ハ ロ 四
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ロ)﹂ということになるであろう︒
rさて以上フイッシヤ I における
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四の内容について考えるに︑彼はむしろ初めの開三宮
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よりも︑例性的職務における創立と興味の白由という意味が強い様である︒このことは最後に彼
がこの様な﹁利害参加﹂の資らすものとして︑﹁協働者の思考と経営の運命や利害ハ
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品 目
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の実現を確信する点︑史に又この第
4項目によって人間関係が確立され︑第
1項をアルファとしこれをオメガとする環
の中に第
2項第 y 項が包み込まれてこ
Lに﹁人間的日珂﹂体系が完結するとなす点にも・明らかなところであろう︒われわ
れはしかし己の思想的な体系の意味を十全的に乏入れうるであろうか︒われわれはむしろ彼によって強調されたかった
ところの前半の渡来︑即ち開
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即ち切角人間の平等性を強調しながらそれが依然として従属的労使関係の枠内に凶められた為に︑実に権限と責任の点
における協働者の平等性を要求することができなかった点はないであろうか︒﹁精神的統ごということは﹁人間の精神﹂
が﹁人間の本質的部分﹂を為せば為すだけ超職制的本質に迫るものであり︑そのことは職制関係を超え︑それを載せる
﹁労使関係﹂に於て初めて所期されるものでなければならない︒この﹁労使関係﹂に於ける﹁平等性﹂の上にこそ︑正
しい側一性的職務組織として︑仕事と人間の職制が実現されるというべきである︒そのことが若返乃至軽視される限り︑
︿
2
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Z 兵からの真の回復は望みえないであろう︒これはフイッシヤーがその論考の最後に於て﹁経営的人間管理の
目的﹂として︑﹁経営内のすべての例人の客観的役割合三目
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問 ︒ = ろ は 彼 の 主 体 的 安 住 守 口
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宣 言g E 4 5 兵 5 )
に転換されね・ばならない﹂ざとい
tA︑又﹁経営における正当な人間管理はすべての協働者について︑その仕事の中に︑
主 体
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口 ご
﹀としての人間を見出し︑且人格として活動せしめるものである﹂ 白
Zと結ぶ際に見出される回忌す宮として a u
の人間関係の本伎を現わすことになるであろう︒換言すれば﹁主体的責任﹂関係に裏づけられた﹁客観的役割﹂の関係
こそが︑全一的経営経済内人間関係の態様であるといわねばならない︒唯しかしわれわれの懸命な要請にも拘らず︑フ
イッシヤ I 自身の次の一一一日葉は︑之等の期待を一挙に一復す応のものを秘めている@即ち初めに彼が﹁人事管理﹂の発展を
述べて︑人事業務
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の全諒題を
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巴︒ロの水準にまで高め︑且つそれは特殊の
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によって担当される程だといいながら︑このことを﹁人事相一当者
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る﹂(?と併釈したことは︑労使関係から出てくる経営協議会というル l トに対抗して︑経営管理
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伝 ) と し て
gの日常的職制而で人主担当者乃至労務公団者を評価したものであり︑その限りわれわれの懸念も迎山なきことではなか
ったといわねばならない︒かくてわれわれは遂にフイッシヤ l における﹁人主管理﹂から﹁人間管理﹂への発展も︑或
いは平等性に基く精神的統一としての﹁経営共同体﹂も︑・所詮は労使関係的次元に迄は到達しないことを諦視すべきで
あ ろ う ︒ 同 以 上 の こ と を 次 の 一 一 一 同 誌 が 要 約 し よ う も 巴 三 回 目
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﹁ 労 務 管 理 ﹂ 総 論
︑ 前 掲 ︑ 一 四 一 具 参 照
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経 営 と 経 済
二八
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ド ラ ッ カ ー に お け る
﹁ 人 間 管 理
﹂ の 破 産
次 に ド ラ ッ カ ー は そ の ﹁ 管 現 の 実 際 ﹂ ハ ロ 宮 ︑ ﹁
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第二十一章﹁人事管理の破産?﹂(出
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となっているが︑正椛には︑そして本源的には︑その前の
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S2 pzロヱという方︑がふさわしい)についてのこ形態として司 R ∞
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そのどちらも事業経営上附加的なものと考えられつ
Lも︑組めて多彩な活動を示している点を次の様に考祭する︒
今日一般に﹁人事管理﹂と呼ばれる労働者政策は︑第一次世界大戦における急激な軍需産栄における労働者の微茶︑
訓絞︑報償の必要を充たすものとして生成したものであるが︑その本伎は今日に至るまで殆んど発展していない︒それ
テヲ三ツク
は依然として♂相互に内的な脈絡のない︑附加的な八技術﹀の寄せ集めにすぎない﹂︒即ちそれが担当する活動分野は
といえば︑平凡な事務労働
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﹀などに於てバラバラにその都度対処されるに過ぎない︒換一一一目すれば人事部門の業務内容
を︑通例の様に保安
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・年金制度
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・ 提 案 制 度 ( ∞ 叩
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冊子 三百 三
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︑ そ こ に は ﹁ 必 要 と さ れ る
技能の類似性も︑作業過程における結びつきも認められない﹂のであって︑凡そ﹁職能の重要性は︑それを構成する諸
活動の数によってではなく︑その質 l つまり仰々の活動の性質と事業に対する影響の心へきさーによってきめられる﹂限
り︑その伎の姿では殆んど価値を発如しないといわねばならぬ︒この従来の人事部門に於けるバラバラな性格は次の様
な職能を忘れるか︑或いは怠図しない点で念々決定的である︒その一つは人事管迎とは抑々経営における人的要素の管
理であるべきだが︑その際最も重要な人的要素としての経営者ハ己主兵司)去の管理には無縁であること︒そのこには他・
方 経 営 的 人 事 管 理
(E H即 日 豆 町
nZZロ 完
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j ︺開﹀に於て最も重要なこつの分野会﹀
‑仕 事 の 組 織 化 と 働 く 人 間 の 組 織 化
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を意図しないという点がこれである︒
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∞戸現代経営研究会訳﹁現代の経
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e昭三一﹀続篇第二部第三章二一八五以下︒但し邦訳は米国版ハ同
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忠)に基い
ておるところから若干の統一を要すると忠われる︒例えば本文掲題にしても︑論旨は E に邦訳の泊り﹁人事管理の反省﹂には
違いないが︑独語版にいうち
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に つ い て は 山 一 一 か 問 題 が あ る ︒ と い う の は こ
Lでの論議は﹁人事管理﹂について
のものであり︑その意味でこれはむしろすぐ後に出てくる
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の発展として考える規定とは相蔽わぬものがある︒
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(幻)経営者への具常なる霊点はドラッカーの素志であり又本書を貫くものであるが︑それは経営機龍担当者であるという機能上
の宣点として考えらるべきものであるが︑そうすればこふに同じく人的要素をなす労働者のもつ機能との比重が問題となって
くる︒而しでそれは次註に関係する︒
( 幻 ) こ
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に同じく最上級を用いられた人事管理領域について︑それはヘ辺)における最高意義をもっ経営者の管理ということとい
かなる関係に立つものであるうか︒こふに一応の解釈としでは︑その様な意義を担う最高責任者として取るべき人事政策上の
長主要部門ということであろう︒即ち前者の長高性は経営機能(担当者)としてのそれであり︑後者における最高性は担当者を
一広陥れて理解される限りでの管理目的世界におけるそれであるといわねばならない︒而も既に触れた様に︑この最重要部門
担当者は叉最重要要素たる経営者ということになるのである︒ところでわれわれはこの段な解釈が許される為には︑その様な
管理目的世界の価値構成の基準が︑
Eに経蛍者を最高としなければならない目的系列に於て︑即ち資本主義経営経済における
利潤追求目的の位百づけによって︑既に管理分野の重要度が測られていることを思わねばならない︒換言すれば E に経営者を
至上要素とする原理が同様に管理分野の意義を規定するという連続性があるのである︒しかしこふにわれわれは﹁仕事の組織
化と倒く人間の組織化﹂というそれ自体純粋に解釈しうる管理目標を︑直ちに経営者概念に結びつける前に︑それ自体として
経蛍におけるく
25
82
品をめぐる諸問題
二 九
経 営 と 経 済
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もつ抱対的意義を考うべきであろう︒而る後にその絶対性を宍現しうる為にいかなる担当者とその組織が必要であるかという ことを求むべきであって︑更に換言すれば︑仕事と労働者の組織化が利潤日原に仕えるのか︑経営者が組織化に仕えるのか何 け れ か に よ っ て 根 本 的 な 開 き の 出 て ぐ る 点 を 弁 別 す べ き で あ ろ う ︒ ︐
{幻)これを生産管理と労務管理への分化発展として把握する時︑とくに蕊利教授の諸著に精しい︒ハ例えば﹁経営労務管理﹂第
一章・﹁経色管理総論﹂第八章・﹁工場管理﹂第二章第三軍)︒向拙著﹁賃銀諭﹂(昭コ一
O関 宮 口 院 ) に 於 て は 労 問 価 値 論 と
労働現象学の立場から必然的に道かれる点を強調しでおいた(とくに前篇﹁針務原論﹂参照)︒
さてそれではこの様な限界に﹁人事管理﹂が腕時したのはどういうわけであろうか︒それをドラッカーは﹁人事管理
の不妊性の原因﹂公
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として一二つのものをか
Lげている︒第一はそれが
﹁人聞は本来働ぐ意志をもっていない﹂と仮定していること︑従って労働はそこでは一一位の懲罰であり︑労働者の満足
は仕事以外のところで求められることになる︒かくて仕事の組織と労働者の組織は統一原四をもたない︒第二には﹁労 働者とその仕事の管理﹂を担当するものが︑ライン部門の経営者ハ
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目的問︒ではなくて主としてスタッフ部門の専門家
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ろであったことにあり︑このことは﹁スタッフ概念に由来する混乱の古典的見本﹂をさへなす九五最後に︑人 E
事管理では︑その任務は﹁消火栄務﹂ハヲ gS
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15
ちに布りとされ︑﹁もつばら平穏円滑な生産を妨げる事故やトラ
ブルの処理をすることだと考えられ﹂たことにある︒これは一見に﹁消火﹂が﹁防火﹂
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色 長
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向十分ではない︒査し﹁労働者の管理と仕事の管四﹂(丘町司
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﹀ の 任 務 は ︑ 一 史 Z
に積極的に﹁長所や調和令戸帥
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るに焦点を合わせるものでなければならない﹂からである︒
かくて人事管理のもつ限界を明らかにした上で︑その限界をいわば押しやるものとして︑いわゆる﹁人間関係論﹂
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口己︒口出﹀が登場する(語︑︒即ち働く人間の立志にせよ可担当者としての経営者にせよ︑ある統一的な見地に Z
立つことは明らかである︒しかし乍ら︑それも︑第一には
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( 白発的動機づけ)の誤信︑従っ
て﹁積極的意欲﹂な︒岳
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印官邸{広)論の欠如︒第ごには︑この﹁積極的意欲﹂というものはあくまで仕事や職務
においてハ
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考えらるべきものであるに拘らず︑焦点はむしろ﹁人間と人間との関係(会
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﹀や︑﹃インフォーマル・グループ﹄即ち自発的結びつき﹂念日目
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﹂に置かれたこと︑﹁その結果︑個々の労働者の態度や行動や能率は︑その同僚との間柄できま るものと考えられ﹂て︑﹁労働者とその仕事の分析﹂は後退してしまったこと︒最後にそして究極的には︑人間関係論
における経済的側面ハこれは利潤と賃金の問題に集約されよう)(空理解の看温という一二つの欠陥から︑それが従前の人
事管理に包まれていた誤った概念を打破ることには成功したとしても︑向その限界を突破して新しい概念を樹立するに は至らなかったといわねばならない︒
(包)われわれはこ斗に先のフイッシヤ
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とその位置を想い合わせよう︒
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(お)こ斗でこの重要な側面についてみると︑彼によれば活来
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し︑市して﹁全体としてその内部経治目的のために
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事に対する賃金及び給料として
i処分しうるものは︑市場経詰に於てその製品の代価とし主獲得されるものによってきめられ
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﹀という対立的な見解とならざるをえない︒これ
Oらの資本主義経治経済的本質に根ざす問題の解決は︑たとえ祝野に入ったとしても︑人間関係論の任務とはなりえない︒そこ
で当然問題は労使関係の拐に移されねばならないが︑その問題は更に本文で追究する通りである︒向討仰における賃金とコス
ト の 対 抗 関 係 を み よ ︒ 以上われわれはドラ
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の意味する人事管迎の生成と発展を些か詳しく跡づけたが︑こ
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で反省すべきことは︑後
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