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殉 教 の 「 キ リ ス ト 論 」

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殉 教 の 「 キ リ ス ト 論 」

田 行 雄

A ̀̀ChristoJogy"ofMartyrdom

Y uKIOM ocHIDA

じ め

19世紀 の自由主義神学が次の世代 に残 した歴史的批判的問題提起 を現代の教会 と神学のため に仕上 げよ うと試みたR.Bultmannは,第二次世界大戦後の神学界 に最 も大 きを影響 を与 えた 神学者の一人である。 その神学の伝統は,恐 らく彼 において1つの頂点 に到達 した。彼 の神学 は, その神学的立場への改宗者 を多 く作 っただけでを く,他の人々の出発点 ともなっている1)0 彼 によれば,「我々はイエスの生涯 について もその人 となりについても.ほとん ど何 も知 ること

がで きをい」とい う。「キ リス ト教の資料 はその よ うをことに関心 を持 ってこをかった し, その 上非常 に断片的であ り, しかも伝説 に覆 われて しまっているか らであ り,更 にイエスにつ いて の他の資料 は存在 していないからである」 とい うのである2)。 これが彼 の開拓 した様式史研究 によって得 たイェスに関す る結論の1つであった3)

従 って, この視点か ら描 く彼のイエス像 は,古来豊 かを imaginationを誘 って きたあのイエ ス像 に比べ ると,著 しくpoorである。 彼 によれば, イエスは決 して 「キ リス ト」ではな く, む しろ一人のユ ダヤ人であった。彼の宣教 もユ ダヤ教の枠内 に属 していた。但 しそれは,ユ ダ ヤの律法主義 に対す る偉大 を抗議 ではあった4)。 しか し, たとえそ うで あった として もイエ ス の宣教 は,新約聖書神学の前提 に属 しているのであって, この神学 自体 の一部 をのではをい。

原始教団のKerygmaと共 に初 めて神学的思惟 が, そ してまた新約聖書神学 が始 まるのである とい う5)

史的 イエス」 に対す る彼のこの驚 くほ ど冷淡 を無関心は,恐 らく一方で文書資料 の記述 を 過去 に実在 した出来事の不十分 を反映 とみ る歴史学的前提 に立 ちをが ら.他方で新約 テキス ト の場合 にはその両者の関係 をあいまいに放置 した ことによる6)。彼 はテキストと実在 との対応の 不正確 さの原因 を,「宣教す る者 が宣教 され る者 に怒った (又は,そ うをらざるを得 をかった)

点 に求め る7)。 そして,専 らこの 「宣教 され る老 」 としてケ リュグマの中に復 活 したイエス ・ キ リス トとの実存的 を対話 とい う点 にキ リス ト教信仰 を考 えてい く。 こうして,キ リス ト教信 仰 か ら切 り離 され, しかも歴史研究の客観性 ・実証性 とい うメスによって削 り取 られたテキス

トか ら構成 され る神 学のイエス像 は,次第 に貧相 をものに変 わって きたのである。

しか し,様式史学派の語 る新約 テキス トの特異 な性格 を考慮す るをらば. このテキス トの背 後 に‑人物の実在 を想定 して, その人間像 を措 こ うと試み るのは.決 してこのテキス トの事態 に即 した(sachlichを) ことではをいはずである。す をわち,我々のテキス トがそれ を生み出 した記者及 び彼 の属 していた教団の信仰 と思想 によって濃厚 に着色 されてい るならば, そのテ

(2)

キス トの背後 に実在 した何 か をそのテキス トを通 して理解 す るなどとい うことは, もはや不可 能 をことで あるはずである。それ故,テキス トが過去 の歴史的実在の正確 を記録 で をいそ らば, た とえどの よ うにや り繰 ろ うとも,史的 イエ ス (宣教す る老) の像 をど措 けよ うはずは 告いで あろ う。

従 って,我 々はキ リス ト教の独 自性 を 「宣教す る者」(イエス)が 「宣教 され る者」(キ リス ト) にされた とい う点 に見出す ことはで きない 8)。 む しろ我 々に確 認 で きることと言 えば,丁度 そ の反対 に 「宣教 され る老」 が 「宣教す る老」 としてテキス トの中に措 かれ, しか も我 々 には そ の よ うをテキス トしか存 在 していをい とい うことだけで あ る。宣教 され る信仰 のキ リス トを宣 教す る歴史 の イエ ス として措 いてい るテキス トだけが我 々の所有す る唯一 の資料 で あ る。最 も 厳密 には これだけが我 々に断言で きる客観的現状 をのであ る9)

テキス トの記述 か ら歴史的実在 を把握 し得 ない とい う事態 に直面 して,我 々の取 る方 向は大 きく2つ にをる。一方 は想像 力 を駆使 して実在 の世 界 を再構 築 してい く方向で あ り,他 方 は専 ら記述 された事柄 のみ をその記述 に従 って理 解 してい く方 向である。

前者 は,我 々 に与 えられてい るテキス トがすべ て想像 力 を介 して生み出 された もので あ り, その表現 にも想像 力が駆使 されてい るか ら, テキス トか ら喚起 され る我 々の想像 力 をテキス ト 自体 の想像 力 に向かわせ る必要 があると考 える。 そ してテキス トの向 こ う側 に広 が る歴史的実 在の世 界 をいつ も視野 に置 いて展望 す るよ うに心掛 けてい く。従 って,単 にテキス ト世 界へ の 問い に止 まることを く,テキス トか ら問 うことによって, テキス トの背景で あった歴史的実在 の世界 を明 らかにす ることを試み るのであ る10)。 しか し, この よ うを試 みの成功 には,想像 力 を駆使 し得 る豊 かな天 才が必要で あろ う。

後者 は, テキス トの背後 に歴史的実在 を探 求す ることを断念 して, テキス ト自体 を1個 の歴 史的実在 とみ を し,そこに展 開 されてい る人 間の 自己理解 を探 ることを考 える。しか しそれは, テキス トのみ を考 える方向 を取 るに して も,決 して単 を るテキス ト批判 で もテキス ト分析で も をい. む しろテキス ト自体 にどのよ うを人間の生 き方 (又 は死 に方) が現 われてい るか を探 り 出 して, その よ うを表現 を残 して きた人 々 と理解 し合 うことを求め るので あ るll)。従 って,それ はいつ も歴史学的理解ではを くて倫理学的理解 の方 向 を進 む。

初期 キ リス ト者 のテキス トか ら彼等 の イエ ス観 を探 り出す場合 にも事情 は同 じで あ る。最初 か ら 「イエ スは正真正銘の人 間(reiner Mensch)で あった」 とい う前提 に立 って121 「そのイ エスが ど うしてキ リス トにをったのか」 とい うよ うに考察 を進 め るのではを くて,何 の前提 も を く, テキス トをあ りの ままに眺め, そこか ら彼等 の考 えたイエス ・キ リス トとは何 か,人間 とは何 かを理解 し, そ うす ることで彼等 との相互理解 を深 めてい く13)

本小論 が 目指すの もこの第二の方向であ る。 しか し無論,テキス トに描 かれてい る様 々をキ リス ト像 を重 ね合 わせてい くと地上 で生活 したイエスの懐 しい姿 が立体 的 に浮 かび上 がって く る14)と考 えてい るわけではか )。む しろ本小 論 は,歴史学的探 求の行 き詰 ま りか らくる困惑の 中 にテキス ト理解 の倫理的意味 を探 り出 そ うとす る意図 をもって出発 す る。従 って それは,倫 理的理性 が歴史的理性 か ら明け渡 された座 席 に座 る資格 を持 ち得 るか どうかの 自己吟味 で もあ

る。

キ リス トに従 う倫理

キ リス ト教史上最初 の殉教者 はStephanosで ある。ユ ダヤ教徒 か ら石 で打 たれて殺 された。

その殉教錨 は使徒行伝第6‑ 7章 にある。 この彼 の最期 は, ルカの福音書 が伝 えるイエ スの そ 1 2 ‑

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れに著 しくよ く似 ている。第三福音 書 と使徒 行伝 が同一人 による著作 であるのは確 実 をこと であ り

1 5

1従 ってこ うした作為的類似性 は当然の ことであろ うが,しか しこの類似性 の うちに.

1つの典型的 をイエス理解 が示 されているとい うこともで きよ うO

まず,両者共,適 用 された法 に対 しては全 くの無罪であることが強調 され る。 イエスの場合 には ビラ ト自身がイエスの無罪の証言者 に変 えられ (ルカ23:4,14,15,22),ステパ ノの場 合 には 「偽 りの証人」 が立て られる (行伝6 :13)

次 に,死 に臨 んだステパ ノの言葉 もイエスのそれ とみごとに響 き合 う。

ステパ ノ 「主 イエスよ,私の霊 をお受 け下 さい」 (伝行7 :59) イエス 「父 よ,私 の霊 をみ手 にゆだねます」 (ルカ23:46)0 また,次の よ うにも言 う。

ステパ ノ 「主 よ, どうぞこの罪 を彼等 に負 わせ か 、で下 さい」 (行伝 7 :60)。

イエス 「父 よ,彼等 をおゆるし下 さい。彼等 は何 をしているのか分 か らず にいるのです」

(ルカ23:34)。

このよ うに,ステパ ノの叫ぶ言葉 はイエスの最期 の言葉の意識的 を反復である16)。無論,呼 び かける相 手がイエスの場合 には父 (棉)であ り,ステパ ノの場合 には主 (イエス) であるとい う相違 はある。 しか し,ステパ ノの殉教 がイエスの受難 と死の模倣 になってい るのは明 らかな ことである。

この主 イエスへの願い と祈 りの死 は, その後 の迫害時代 (教会の英雄時代)の殉教の1つの 典型 になる。F殉教者行伝』 の中にその痕跡 を見出す ことがで きる17)

例 えば,自らの霊 のための願いについてみ ると,MarcusAurelius帝時代 (又はDecius帝時 代 ?)の3人の殉教 を伝 える行伝 中にステパ ノの言葉 (7:59)がほ とん どその ままの形 で現 わ れる。Pamfilusが燃 えさかる火の中で天 を見上 げなが ら 「主 イエス ・キ リス トよ,私 の霊 をお 受 け取 り下 さい」 と叫 んで殉教す る18)。また,304年 の春頃 に起 きたSirmiumの司教Irenaeus の殉教 を伝 える行伝 中 にもこの願いの言葉の反響 を聞 くことがで きる。 この司教 は剣 によって 斬首 され るとき次の よ うに祈 る。「主 イエス ・キ リス トよ,‑‑天使達 があなたの しもべである イレナエ ウスの霊 を受け取 って下 さるために,願 わ くばあをたの諸天 が開かれます ように」19)

また,執 り成 しの祈 りについてみ ると, 2世紀の後半 に殉教 したPolykarposが, ピリピ人 に宛てた手紙 の中で, この祈 りを命 じてい る。「あをたがたはすべての聖 人達 のた め に祈 りな さい。更 に皇帝達,支配者達,諸侯 のために, しか しまたあをたがた を迫害 し憎 む者達のため にも, そして十字架の敵達のためにも祈 りなさい」 20)。この祈 りはまた,258年 に殉教 したカル タゴの司教Cyprianusの行伝 中にも現 われ る。 この司教は次のよ うに言 う。「私達 は,神 に,昼 も夜 も, あをたがたのために, そしてすべての人々のために, また皇帝達 自身の健康のために 祈 っています」21)0

初期 のキ リス ト者 にとって 「主 イエス ・キ リス トに従 うこと」は,彼等の最 も範例的 を生 き 方 (同時 に死 に方)の1つであった。彼等 にはイエスが 「信仰 の指導者であ り,またその完成者」

で もあったのである(ヘブル12:2)。イエス ・キ リス トは,初 めの者であ り,死人の中か ら最 初 に生 まれた者であ り,彼 自身 がまたそのか らだである教会 のか しらで もある (コロサ イ1:

18,黙示1 :5)。従 って,第一の者であ り (コロサイ1 :18),長子で もある (ロマ8 :29) 彼 に,我々は後 か ら生 まれた兄弟 として倣 わか すればを らないのである。

キ リス ト者の生 がイエスの 「模倣」であ り, イエスは彼等 の 「模範」であるとい う考 えは, この時代のテキス トの到 る処 に見出す ことがで きる22)。パ ウロは 「私 がキ リス トの模倣 者であ るよ うに,あをたがたは私の模倣者 に怒 りをさい」とコリン ト人の教会 に命 じ (Ⅰコリ11:1),

(4)

Ignatiosは 「イェス ・キ リス トの模倣者 にを りをさい。彼 がまた彼の父の模倣者であったよう に」 とフィラデルフ ィアの信徒 に勧 めている23)0

無論, イエスが 「模範」であるとい うのは (ヨハ ネ13:15,Ⅰペテロ2:21,IClemensXVI :17),単 にイエスがその個 々の生 き方 の一 つ 一 つ を模倣 した り反復 した りす るための手本や 見本であるとい う意味では射 、。 もし地上の イエスの生の諸結果 が手本や見本であるをらば, イエスは律法の領域 に属す ることに在ろ う。 しか しイエスが地上 に来たのは,古い律法 を廃 す るためではを く, それ を成就す るためである(マ タイ5 :17)。初期 のキ リス ト者 にとってイエ スは,新 しい律法 を与 える老ではなく,む しろ福音の基礎 ・信仰の内容 その ものであった。最 初 から 「キ リス ト」であったのである。従 って, ここで重要 なのは,地上のイエスの生 き方 を 一つ一つ模倣 した り反復 した りす ることではを く, イエス自身 をこれか らの人生行路 がその上

にのみ成立す るところの規範 ・法則(Nomos)として受け入 れることをので あ る。 イエス ・キ リス トは,決 して個 々の行為の手本や見本ではを くて,キリス ト者の生 そのものの原理 (Prin‑

cipium)であった24)

初期 の信徒 は主 イエス を自己の生の原理 として理解 した。 これは次のことを意味 す る。

第‑ に,主 イエスに従 うことは,個人の 自由意志 による選択の結果ではを く, イエスか らの 直接 の呼 びかけ (召命)の結果であるとい うことである。 イエスは特定の個人 に 「私 に従 って 乗 をさい」 と呼 びかける (マルコ1 :17, 2 :14)。その瞬間 に彼はもう選ばれている。従 って, イエスへの随従 は彼 の個人的能力や社会的地位 といったよ うな特殊 を前提 の もとで起 こるので はをい25)。イエスに従 うのは,「私達の救 い主であるイエス ・キ リス トによって命 じられている こと」だか らである26)。これがキ リス トに従 う倫理 の成立根 拠 であるo従 って, イエスの招 き は常 に無条件的である。何の根拠 もをく行 われ る。招 かれた者 も無条件的 に随従 してい く。 こ のよ うにイエスの招 きが絶対的であるのは.彼 にはそのよ うに振 る舞 う全権 があるとい う確信 が初期 の信徒 にあるか らである27)。ここに彼等のキリス ト論の1つの特質 を見 ることができる。

第二 に,主 イエスへの随従は.「生のあ りよ うその ものに根底的 に喰 い込 んで くるもの」であ り,単 に新 しい主 を認 めるものであるばか りでな く.同時 に新 しい人生への出発 をも求めるも のであるとい うことである28)。 イエスの この 「生の原理」 としての意味 を,パ ウロは次のよ う に明 らかにす る。「私 はこれから神 において生 きるために,律法 によって律法 に死 んだ。私 はキ リス トにおいて十字架 につ けられた」 (ガラ2 :19)。「もし私 達 がキ リス トと共 に死 んだのな ら,私達 はまた彼 と共 に生 きることを信 じる」 (ロマ6 :8)。「生 きているのは私 では射 、。キ リス トが私 の うちで生 きている」 (ガラ2 :20)。信徒 はキ リス トにおいて死 に,キ リス トと共 に生 きるのである29)。彼 と「等 しいかた ちをとって」(summorphos,ロマ8:29,ピリピ3:21), また 「等 しい もの と在って」 (homoi6ma,ロマ6:5. cf.Ignat.Trail. 9 :2)O

キ リス ト者 はその信仰 の故 に生 まれ変 わって新 しい人生 を歩む。キ リス トによる第二の誕生 である。従 って,信徒の真の父はキ リス トであ り,真の母 は彼への信仰 である30)。信 徒 は あ ら ゆ る都市や地方 に精神上の子供 をもつ 31)。このよ うに主 イエス ・キ リス トは新 生 を創 造す る原 理 であ り,従 って,彼 に従 うことは古い自己 に死 んで新 しい自己に生 まれ変 わることを意味 し

た (特 にロマ6章)。 ここに彼等のキ リス ト論の もう1つの特質 を見 ることがで きる。

イェスを自己の生の模範 として彼 に従 うことは,決 して個 々の行為の手本 としてイエスの生 の諸結果 をみ ることではをい。 もしイエスが単 に道徳上の模範で しかをかったをらば,当時の 非キ リス ト者 が誤解 したよ うに,信徒 の群 れは,古代の哲学派のよ うを 1つの学派 を形成 して いたことであろ う32)。しか し現 実 にイエスの招 きか ら出現 したのは,哲学者達や ラビ達の学派 ではを くて,「弟子の群 れ」(JGngerschaft)であった。原始教団が成立 したのである。従って,

‑ 4 ‑

(5)

イエスが弟子達の新生の原理 に在ったのは,彼 が人生上の教師や道徳上の模範であったか らで はをい。彼 において神 の意志 と神 の国 (支配)の事柄 が具現 されていると信 じられたか らであ る。事実, イエスへの随従は,信徒 の新生 と同時 に, イエスによる神 の支配へ の参加 とその宣 教 をも意味 した。信徒 はその人格(Person)において救 いをもた らすイエスと共 に神 の国の担 い手で もあったのである。 そしてそれ故 にこそイエスへの随従 は無条件的 を服従 であ り, また その随従 か らは,学派 (学説や理論の継承者達) ではを くて,ecclesia(召 し出 され た人々の 群 れ,教会) が出現 したのである33)

殉教 のキ リス ト論

新約 テキス トは,当時,イエスをめ ぐって様 々を理解 があったことを教 えている。 イエスは, ある者 には 「預言者」の一人であ り (マ タイ16:14,21:ll), ある者 には偉大 を 「教師」であ

り (ヨハ ネ 3 :2), ある者 には 「偽 り者」であ り (マ タイ27:63). そ してある者 には 「キ リ ス ト」であ り,その他様 々であった(Ⅰコ リ1 :12,3 :4,マ タイ11:19)。従 って ここか ら, キ リス ト教 とい うの も,イエスに関す る様 々を理解の中の 「1つのイエス理解」 として成立 し ていたことが知 られよ う。キ リス ト教的理解 は1つの立場 であって,決 して唯一のそれではを かった34)0

この事実 はキ リス ト教 その ものがイエス をめ ぐる1つの特殊 を理解の立場 であることを意味 す る。従 って,イエス を理解す る場合 に,必ず しもキ リス ト教的理解 にとらわれる必要 はを く, む しろそ うした特定の理解 か ら自己 を解放 した自由を Denkenだけが, よ りよ くキ リス ト教の 真理 に近づ くことがで きるとも言 えよ うo イエス理解 には,キ リス ト教 をも1つの特殊 を理解

とみを し得 るDenkenの自由 さが必要である。

従来,「イエスはキ リス トである」とい う理解 は,イエスに関す るほとん ど唯一の理解 として 全 く自明であった。 イエスをキ リス トと説 く立場 もそれに反対す る立場 も共 に 「イエスはキ リ ス ト」 とい う前提 の上 に立 って, これを肯定す るか否定す るかにおいて対立 していたにす ぎを い。 しか し, まさにその ことが問題である。 ここでは全 く自明 とも見 えていた伝統的理解 か ら 自己 を解放す る自由を思考が必要であるC 人間的行為の規範的原理 は, まさにそれが原理 であ る故 に,実存 の行為 を規定す る。 しか しその原理 自体 を思考す るDenkenは,常 に何 もの にも とらわれをい自由の うちで働 かか ナればをらをい。 そこに解釈学的倫理学の成立す る根拠 があ る。

さて, もし 「イエスはキ リス ト」 とい う理解 が,た とえ最 も強力なものであった として も, 決 して唯一の理解ではを くて,む しろ様 々を理解 の中の1つのそれであったにす ぎをいをらば, 次 には, このイエス理解 が全 く自明で もあるかの よ うに今 日のDenkenを規定す るまでに在っ た理 由は何 か,す をわち, このイエス理解 が他 を圧 し得たその独 自性 とは何 かが問われか すれ ば怒 らをいであろ う。

このイエス理解 が他 のそれと根本的に異 在ったのは, その理解の方向が完全 に逆 であったこ とによる。理解 は一般 には 「普通の人間」 が何者 かに在った とい う方向で進 め られる。例 えば, 平凡 を人間が偉大 を教師 になった,あるいは,正直 を人間が偽 り者 になった とい うよ うを方向 である。 しか し,キ リス ト者のイエス理解 は, これと丁度正反対の方向 を取 る。彼等 の場合, イエスがキ リス トにされたのではをいO宣教す る者 が宣教 される者 にされたので もをい。普通 の人間であった地上のイエスが旧約 に預言 されていたメシアとして理解 されたのではを くて, 最初 か ら旧約のメシアがイエス として地上 に現 われた もの として理解 されたのである35)

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キ リス トがイエ ス と して理解 されたのであって, その逆 ではをい。 この理解 の逆方向性 は, キ リス ト教倫理 を考 える場合,極 めて重要 をこ とである。 この よ うを逆方向の イエ ス理解 に立 って初 めて,信徒 はイエ スの生の諸結果 に従 うのではな くて,キ リス トであるイエ ス 自身 を自 己の生の原理 と して新 しく生 きかつ死ぬよ うにイエ スに従 うとい うキ リス ト教倫理 が成立 し得 たか らである。

もしキ リス ト者の倫理 がイエスの生の諸結果 (個 々の人間的行為) に倣 うことであったを ら ば,弟子 がその師以上の者 になることもあ り得 たであろ う(マ タイ10:24)。 しか しそ うは を ら をかった。事実は イエスに起 こったことが弟子達 に起 こるのではをい。 イエ スに起 こった事柄 であるが故 に,彼 に起 こったよ うに弟子達 にも起 こるのである。 そこに招 く者 と招 かれ る者 と の根 本 的 を相 違 が ある。招 く者 は生の原理 で あ り,招 かれ る者 はそれ を生 きる模倣 者 である (Iコ リ11:1)。この関係 は変 わることがない。招 く者 が招 かれ る者 に在ることも,その反対 も あ り得 をい。キ リス トであるイエスが招 くのであ るか ら。

この倫理 は初期 キ リス ト者の殉教観 か らも一層 明 らかにをろ う。キ リス トはイエス と して殉 教の原理 で もあった。殉教 はイエスに起 こったが故 に,彼 に起 こったよ うに弟子達 にも起 こる だろ うとい うのが,初期 の信徒 の確信 であ る。 ル カは福音書 を書 いて,弟子達 もイエ ス とい う この殉教 の原点 (Urmartyrium)に倣 うよ うに勧 めてい る36)

新約 テキス ト中,後 に 「殉教す る」とい う意味 をもつ よ うになった 「証言す る」(martyre6) とい う語 は,homologe6と共 に迫害 に関 して使用 されてい る場合 が多 い37)。この語 がいつ頃 か ら 「殉教す る」 を意味 す るよ うにをったかは不明で あるが,すで に90年代 にローマの クレメ ン スがコ リン トの信徒 に宛 てた手紙の中には, その どちらとも意味 の とれる用法 が現 われ る38) この意味 の二重性 は,キ リス トの信仰者 が本質的 にはキ リス トの証言者 であ り同時 に伝道者 で もあった ことによる39)。 「心で信 じる者は義 に入 れ られ,口で告 白す る者 は救 い に入 れ られ る」

(ロマ10:10)。 これが初期 のキ リス ト者の確信 で あった。そ して, キ リス トを証 言 す る伝道 は 当時 た とえ必然的 に殉教へ と導 くものではをかった と して も,無論,殉教の危険 を冒す もので はあったので ある

しか し, ここには, もっと本質的 には, イエ ス 自身 がボ ンテオ ・ビラ トの前で メ シアの王国 を告 白 し,十字架 にかかって殉教 した とい う理解 がある。パ ウロ (

?

)は, 「私 はす べ ての も の を生 か して下 さる神 と, ボ ンテオ ・ビラ トの面前 で良 いあか しを告 白 した イエス ・キ リス ト との前 で40ま あをた に命 じます」 とテモテ宛 てに書 いた (Ⅰテモテ6'.13)。 これは2項 目定式 による信仰告 白の最古の型の1つであるが,迫害 の際の それは明 らかに証言 して殉教 す るキ リ ス トにつ いて語 っていたのである41)。事 実 ,初 期 の信 徒 にとっては, イエス 自身 が天父 の真意 を証 した 「忠 実 な証 人」 (homartyshopistos)で あ り (黙 示1 :5),信 仰 の殉 教 者 で あっ た。

無論,殉教 その ものは,ユ ダヤ教 とキ リス ト教 の信仰史 を貫 いた共通の運 命経験 で あ る。従 ってイエ スの死 もその殉教史 の流 れの中で理解 された (マ タイ23:29‑37)。 しか し彼の死 は, 単 に数 多い殉教 の中の1つ として理解 されたわけではをい。 もしそ うであった 怒 らば,彼 の死 は単純 に預 言者の一人の死 にす ぎなかったで あろ う。 イェスの死 は,初期 の信徒 にとって,単 に殉教 で あったばか りで を く, む しろその原点 で あ り原理 で もあった。従 って彼等 は,「信仰上 の弟子達 の受難 と死 」 を,「キ リス トの模倣 として,つ ま り,比倫的 にはすべ ての改宗 者の洗礼 において演 じられて きた ところの, あのキ リス トと一緒 の死 と埋葬 を具体的 に文字 どお りに実 現 す るもの と して, また主 自身 が彼 の忠 実 を随従者 の人格の うちで受難 してい るとさえ言 われ 得 たほ ど親密 をキ リス トとの人格的結合 を成就 す るもの として」解釈 したのであ る42)Oこの「殉

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教 のキ リス ト論」は,特 に迫害時代のキ リス ト教史 を貫 いている。

殉教者 は, キ リス トと共 にキ リス トと同 じよ うに苦 しむ覚悟 ので きた者 であ るばか りで を く 同時 にキ リス ト自身 が彼 において彼 と共 に苦 しむよ うを, そ うい う信仰者 で もあった。従 って この人格的結合 は,後 の聖体 の秘蹟 において体験 され るよ うを一種の存在論的 を交 わ りである。

しか も常 に殉 教 の主 体 はキ リス トであ り,殉 教 者 はその時 々においてキ リス トにあ る参 与 老 (aparticipantin Christ)に怒るだけである43)。 個 々の殉教 においてイエ スの受難 が今 その 場 にあ り,今迫害 されてい るイエス自身 が殉教者 に働 きかけ るのである44)。まず,パ ウロの回心 の場 面 (行伝9 :4‑ 6)をみ よ う。 ダマス コ途上 のパ ウロに呼 びかけたイエ スの声 は 「サ ウ ロよ,をぜ私 を迫害 す るのか」であ り,「をぜ私 の弟子達 を迫害す るのか」 とは決 して尋 ねてい をい。更 にパ ウロの問いに対す る答 えも 「私 はあをたが迫害 しているイエスだ」 で ある。 また 2世紀後半 に殉教 したPolykarposの死 を伝 える殉教録 の中で も,主 キ リス トが殉教 の場 に臨 在 して,殉教者達 と共 に語 ってい るとい う信仰 が展 開 されている45)

殉教 の苦 しみ をキ リス トが殉教者達 と共 に苦 しむ。 む しろキ リス トが殉教す る。殉教 にあっ ては常 にキ リス トが主体 である。『殉教者行伝』では,キ リス トの受難 と殉教 が緊密 に結 びつ け られて,キ リス トが殉教者の うちで受難 す るとい う信仰 が梓 に多 く現 われ るO 「あをたが見 る ことので きか ゝ者 が私 の うちで受難 しています」46)。「(Sanctos)において受難 していたキ リ ス トは大 きを栄 光 を成 就 した」47)。「(殉 教 者達 は)キ リス トとい う芳 香 をにおわせていた」 48)

「キ リス トが (殉教者達 に), きらめ く恩寵 と怒 り間近 を殉教 によって光 り輝いていた」49)。 「キ リス トが彼等 (殉教者達) の表情 や様子 の うちで輝 き出 した」50)

従 って殉教者 は, キ リス トの苦 しみにあず かればあずかるほ ど喜ぶ。 それは,キ リス トの栄 光 が現 われ る際 に喜 びにあふ れ るためで ある (Ⅰペテロ4 :13)。 このよ うに 「殉教 のキ リス ト 論」 は殉教倫理 がそこにおいて成 り立つ ところの根拠 であ り,原理 である51)。 イエスは決 して

「キ リス トに在った」のではな くて, そもそもの最初 か ら信徒 の生 と死 の原理 として 「キ リス トであ る」ので ある。他 のイエス理解 とは異 をるこのキ リス ト論の逆方向性 を認識 す ることが, キ リス ト教倫理 の理解 には最 も大切 なことをのである。

執 り成 しの倫理

信徒 が殉教 の際 に行 うべ き最 も大切 が テ為 の1つは,すで に見たよ うに,迫害す る者のため に執 り成す ことであった。 イエ スは この執 り成 しの原理 として も理解 された (ルカ23:34,行 7 :60)。彼 自身 が彼の教 会 に対 して敵 や迫 害 者のため に執 り成 しの祈 りを行 うよ うに命 じ

る (マ タイ5 :44,ルカ6 :28)。この命令 は教会 に繰 り返 して強調 され る(Ⅰコ リ4 :12,ロマ 12:14)。そしてつ いには,諸民族 や全世界のための執 り成 しの祈 りにまでなる(Ⅰテモテ2:1)0 無論 この祈 りは,新約 テキス ト以外 の資料 か ら聞 くこともで きる52)。自己の霊 と迫 害 者 のため に執 り成す 「弁護者 の原型」 とい うのが,初期 の教会 が想 い措 いたイエ ス像 の 1つで あった53) 従 って, この執 り成 しの倫理 の根底 にも 「殉教 のキ リス ト論」がある。 イエ スが今行 ってい る 執 り成 しに,殉教者 は祈 ることによって参加 してい くのである。

執 り成 しの倫理 は この世 と信徒 との関係 を規定す る。彼等 によれば,滅亡すべ きこの世 が今 をおその存続 を許 されてい るのは,信徒 がこの世 を神 とキ リス トに執 り成 してい るか らであ る とい う。「Diogn8tosへ の手紙」の著者は, 「キ リス ト者 は牢 獄 におけるよ うにこの世 の中 に閉 じ込 め られてい るが, しか し彼等 自身 が この世 を支 えている」 と確信 していた54)。また2世 紀 後半のAristidesも, この世 は今 をお信徒 の切 をる祈 りによってのみ存続 してい るとい うこと

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に対 して全 く何 の疑 い も抱 いていか 、55)。Tertullianusもまた,キ リス ト者 が地上 に出現 して 以来,彼等 の純潔 と祈 りによって一切 の公共的惨禍 や国民的不幸 が次第 に減少 しつつ あると考 えてい 6)

殉教者 は彼 を辱 め るこの世 のために苦 しみ,彼 を追 い出す人々のために死 ぬ。 しか しその世 界 もや がて信徒 の虐殺の数 が満 ちて終末 に達 す るだろ う。すべての殉 教がその恐 るべ き終末 を この世 にもた らす ことに寄与 してい る (Ⅰテサ ロ1 :5, ピ リピ1 :28,Ⅰペテロ4 :17)。従 って殉教者 の死 は, 災厄の終結 を求め る叫 びであ り. その叫 びは,迫害者 とこの世 の罪のため に執 り成 しを祈 ることにおいてその頂点 に達 す るのである57)。この世 の罪 のため に祈 りつつ, この世 に終 末 をもた らす ことに仕 える。 そこにこの執 り成 しの倫理 の超現世的,反歴史的 射 生 格 がある。

園 よ り殉 教者の血 の戦 いは彼 自身のための ものでは ない。 自己の救 いに対す る憂慮 は,キ リ ス トへ の信仰 によってすで に取 り去 られてい る。従 って彼 は 自己の任務 に,す なわ ちキ リス ト を通 して神 か ら委 ね られた この世 で神 に仕 えるとい う任務 に全 力 を傾 けか すれば な らか 、58) この任務 こそ, この世 のために執 り成す ことであった。 それ故 にこそ, この執 り成 しの倫理 は キ リス ト教倫理 の頂点 に置 かれたのである。

信徒 はす で に救 われてい るのだか ら自己の救 いに関 しては心配す る必要 がない。 この信仰 をたま 典型的 に語 るのはパ ウロである。「キ リス ト・イエ スにある生命のみ霊 の法則」が罪 と死 の法則 か らキ リス ト者 を解放 した (ロマ8 :1‑ 2)。「アダムにあってすべての人 が死 んでい るの と 同 じよ うに, キ リス トにあってすべ ての人 が生 か されてい る」 (Iコ リ15'.22)。「あ をた が た はみ をキ リス ト ・イエスにある信仰 によって神 の子 であ り」 (ガ ラ3 :26),「キ リス トの か ら だ」で ある(Ⅰコ リ12:27)。 しか し, その救 い もまだ完成 されてはいをい。 それは主 キ リス ト の来臨 の時 に完 成 され るだろ う。「私 がすで にそれ を得 た とか,すで に完全 を者 に在ってい ると かい うのでは をい」 (ピリピ3 :12)。 しか し 「あをたがたの うちに良 いわ ざを始 め られたかた が,キ リス ト ・イエ スの 日までにそれ を完成 して下 さるだろ う」 (1 :6)。 「私 達 の卑 しい か らだ を, ご自身の栄光 のか らだ と同 じかた ちに変 えて下 さるだろ う」 (3 :21)。しかも「夜 はふ け, 日が近 づいてい る」 (ロマ13:12)。 だか ら 「目をさま していをさい」(Ⅰコリ16:13)59)0

しか し, この救 いの信仰 は,迫害 と殉教 が激化す るにつ れて次第 にその意味 内容 を変 えてい く。殉教 が この救 い を成就す るもの として理解 されて くるのであ る。多分Trajanus帝時代 に ローマで殉教 したア ンテオケのIgnatios司教 によると,信徒 は殉教 において初 めてキ リス トの 其の弟子 に在るとい う。「この世 か らもはや私 のか らだが見 えをく在る時 に,私 は真 にイエス ・ キ リス トの弟子 に在るだろ う」60)。「イエ ス ・キ リス トを通 して彼 の受難 にあず か るため に進 ん で死 を選 ば か すれば,キ リス トの生命 が我 々の内 に宿 ることは射 、」 か らであ る61)。従 って殉 教 は,消滅 では を くて成就 であ り完成である。 かつてキ リス トへ の随従 は,場合 によると殉教 にさえ至 り得 るもの と考 えられていた。 しか しもはや殉教 はキ リス トの模倣 に踏み出 した者 に 課せ られ ることもあ り得 る辛い個人的 を試練 ではをい。む しろ殉教 は,キ リス トとの一体化へ の必然的 を道 である。 このキ リス トとの一体化 は彼 の受難 と殉教 との一体化 を通 じて初 めて完 全 な仕方で起 こる。殉教 こそが完全 にキ リス トに従 うことで あ り,救 いの完成で あ る。 こ うし て殉 教 の苦 しみ は救 い としての特 質 を獲 得 す ることに在った。殉 教 それ 自体 が1つ の 秘義 (Mysterium)に在ったのである62)

キ リス ト信仰 は, その救 いの完成 として必然的 に殉教 に至 らなければを らをい。 この殉教 に 対す る過 度の要 求は, しか し,殉教者 をや がて信仰 の英雄 に変 えてい く。事実,や がて この厳 しい自発的積極的 な殉教 は,ただ非凡 を信仰 の天才のみが極 限の状況下 にあって よ く完遂 し得

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る特殊 な事柄 に在ったのであるoそれと共 に一般 の信徒 は.彼等の模範 に対 して単 に尊敬の念 ばか りでな く,崇拝 の念 をもって も応 えることに在る。固 よりそれは,弱 さの故 に信仰 を完成 し得 をいみ じめをこの 自分 をキ リス トに執 り成 して くれることを願 っての崇拝 である。一般信 徒 は殉教者 を仰 ぎ見て,彼 か ら恩寵 を授 け られ る側 にまわったのである63)。執 り成 す者 は, そ れ を依頼 され る者 に在った。やがて殉教者は,神 とキ リス トの前で信徒 を執 り成す地位 にある 老 (その愛の故 に信徒の償罪の不足 を満た し得 る老) として崇拝 され,祈 られ るよ うになる。

殉教者宗教 (Mrtyrreligion)の成立である64)

殉教者崇拝 の成立は,キ リス トが遠 く高所 に離 れ去 って,信徒 との間 に越 え得 をい距離 が生 じたことを意味 す る。 かつて神 がそ うであった。親 しくその民 に語 りかけていた神 が,人間の 犯 した度重 をる罪の故 に,無限 に遠 い高所 に退 いた時,神 と人間 との間 を執 り成す仲保者 とし てのメシア (その故 にこそ神 であ り人で もあるキ リス ト)の出現 が要請 されたのである。 しか し今, そのキ リス トも神 として人間か ら遠 い高所 に去 った。事実, イグナテ イオスの場合,キ リス トとい う名は基本的 には 「神 」と同 じ意味 であ り,両語は相互 に交換 可 能 で ある。「神 イ エス ・キ リス ト」 とい う表現す ら用い られる65)。しかも彼は,殉 教 の死 をしば しば 「神 に到 る こと」 (theou epituchein)として語 る66)。「神 の受難 の模倣 者」 (mim昌t6s tou pathous tou theou)に在ることが彼の望 みであった67)

もともと原始教会の人々は,主 イエスがいつで もどこで も事 ある毎 に新 しく出現 して救 いの わざを実現 して くれ ると確信 していた。パ ウロはダマスコ途上で主 イエスが直接彼 に呼びかけ る声 を聞いて回心 した (行伝9 :3‑ 7)。 アナニヤ には主 が幻 の中に現 われて親 しく語 りか けた (9 :10)。 しか し,そのキ リス トも今 は神 の もとに去 って神 と共 にある。神 キ リス ト と人間 との間 には越 え難 い探測 が出来た。 こ うして今度はキ リス トと人間 との間の仲保者 が求 め られて くる。 そ して殉教者の英雄的 を死は, この要求 を満たす格好の素材であった。今,人 々は,キ リス トに祈 る代 わ りに,キ リス トへの執 り成 しを求めて殉教者 に祈 る。キ リス トはい わば殉教者の父 (柿) にをったのである。かつて神 がキ リス トの父であったよ うに。

しか し, この 「殉教のキ リス ト論」 も,キ リス ト教 がローマ帝国から公認 されて,迫害 と殉 教 とい う大枠が取 り外 された時, もう一度大 きを変化 を受けることに在る。

結論に代 えて

キ リス ト教の公認 によって迫害 と殉教 とい う基本枠が外 され,権力から外的 に強制 され る死 とい う問題 が消 え去 った時, 「殉教のキ リス ト論」 が受けた変化は大 きかった。

かつて, イエスへの随従は,彼 か らの召命の結果であった。従 って, この随従 に個人的 を決 断は重要 を役割 を果た していをい。倫理的行為の方向決定 には個人の選択的決断が重要であろ う。 しか しここで問題 をのは,倫理的行為ではをくて,信仰 による随従である(マタイ8:22)0 イエスに呼 び出 されることは彼 か ら選び出 されることであ り同時 に彼 に従 うことで もある。 こ こではすべてが神 によって予定 されている運命であ り,個人的決断は問題 に怒 らか ゝ68)。信徒 にはイエス と運命 を共有 し,彼の受難 を分 け合 うことが求め られていたのであって,決 して単 に彼の教 えた隣人愛 などの接や彼の示 した種 々の生 き方 に従 うことが求め られていたわけでは をかった。

しか し公認後 は, もはやイエスの受難 と殉教 が自己の運命である生 き方 ・死 に方 を, 自己の 生の原理 とす ることはで きをかった. その結果, イエスに従 う倫 理 は彼 の個 々の行為 の形 態 (謙譲,清貧,独身 など)を模倣す る方向 を取 ってい く。かつてはイエスの生の終 わ り方 に従 っ

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ていた殉教者 が,今度はイエスの特定の生活規範 に従 う禁欲者 に変 わったのであ る。 「殉 教 者 宗教 としてのキ リス ト教」は,やがて 「禁欲老宗教 としてのキ リス ト教」へ と変貌す る。

かつてキ リス トへ の随従 は, その まま救 いの事実 として救 済論的 を生 き方 を意味 した。 しか し今, それはイエ スの定 めた生活規範 を基準 にす る倫理的 を生 き方 である。信徒 の人生 に問 わ れるのは, イエ ス をキ リス トとして (自己の生 の原理 として)新生 を生 きてい るか否 かでは を くて, イエスの個 々の教 えや その生の諸結果 に合致 してい るか否 かである。

もともと弟子達 の信仰 がイエスの個別的 を行為や その様式 に固執す ることはをかった。 イエ ス 自身 に従 っていたか らである.無論,彼等 がその随従 をつ くり出 したのではをい。 キ リス ト が彼等 を随従へ と呼 び出 したので ある。信徒 はすべ て を受 け取 り,すべ て を受 け入 れ るだけで あった69)。 しか し今 ,キ リス トへ の随従 は,地上 の イエスの外的 な生活様式 を可能 を限 り忠実 に模倣 す ることと在った。やがてその模倣 は, イエスの個 々の行為 の形態 にまで狭め られ,更 にこの世 か らの隠棲 や消極的禁欲 とい う意味 にまで解釈 されてい く70)0

中世 に在ると,主 イエスに従 う倫理 は,地上 の イエ スの無私 ・清貧 の生活 を模倣 して,財産 欲や名誉欲 か ら逃 れ る厳 格 なキ リス ト教的生活様式 を意味 す るまでに変化 し,や がて禁欲者 に よる修道院や乞食教 団が成立す る。 ここでは信徒 の生 が どこまでよ くイエ スの生 の諸結果 に合 致 してい るか とい うことが,信仰生活の真否 を判定す る基準 で ある。原初 の随従理解 が捨 て去

られて,信仰 の業績 中心主義 が宗教倫理 の原理 に在ったので ある71)

本来 キ リス ト教倫理 は,決 して哲学的 を当為 の倫理 ではをい.普遍妥当的 な当為の原理 では を くて, 1個 の人格 (persona)が問題 で あるか らで あ る。 しか し今,「イエ スの清貧 に見倣 う べ し,彼 の独身 を模倣 すべ し」 と説 かれ る。 そ して, どこまで忠実 にイエ スの生 の諸結果 を 実践 したか とい うことが,彼 の信仰 の真否 を決定す る72)。キ リス ト教 倫 理 は信 徒 の生 の諸結 果 によってその生 の価値 を計 る業績 中心の当為倫理 に在ったのである。

この業績 中心主義 の倫理 は,従来 のイエ ス理解 を変 えて,新 しいイエ ス像 を生 み出す。高潔 を倫理 を説 き,敬虞 にして愛すべ き道徳 の教師 とい うイエス像 である。 かつてイエスは信徒 の 生の (更 にその生 の終 え方す らの)原理 であった。今 イエ スは人生の導師 として信徒 の生 き方 の手本 で あ る。 ここでは地上のイエ スの生の諸形態 が,す をわち歴史 のイエスの個 々の生 き方 が求め られ る。信徒 の生 きる手本 を歴史 の中 に示 した地上の イエスの生 き方 が求め られ る。 こ うしてイエ スはキ リス トとい う救済論的性格 を稀薄化 されて,倫理的 を教師 にまで人間化 され る。最 も理想的 を人間 として。 イエ スは今,倫理 的 を生活規 範 その ものである。地上 のイエ ス は律法 に在った。 これが業績 中心主義の イエス像 である。

この イエ ス理解 に関す る限 り, カ トリシズ ムに反対 したプロテスタン ト自由主義神 学 の場合 にも事情 は同 じで あ る。歴史的批判的方法 を駆使 して聖書批判 を行 った 自由主義神 学 も,結局

人生 の教師」 とい うイエス像 を打 ち破 ることは をかった。 む しろ一層鮮 明 にこの像 を磨 き上 げた といって よい。 それは,彼等 が歴史的批判的方法 によってテキス トの背後 にあった実在世 界 を明 らか にで きるとい う歴史学的前提 に対 して全 く無反省であった ことによる。従 って彼等 もまたカ トリシズム と共 に,彼等 の想 い描 くほ ど高潔 な道徳 の教師 が,一体 をぜ十字架上 に刑 死 しか ナれば を らをかったのか とい う問題 を解 くことに失敗 したので ある。

歴史 的批半拍勺方法 の徹底化 によ り新 しい研究方法 として登場 した様式史研究 もまた, この十 字架上 の秘義 の解 明 に失敗 した。事実, をぜ実存論的神 学の想 い措 くよ うを, あの終末時 に先 立 って我 々の実存 に自己理解 を呼 びかけ るケ リュグマのキ リス トのほ うが,敬虞 で高潔 を道徳 を説 く人生の教師 よ りも一層十字架 にふ さわしいの 3)。その理 由 を我 々は知 らか )のである74) 実存論的神 学 の措 くイエス像 は もはや 「人生の教師」です らをい。 それは,歴史 学的 に実証 が

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不能 を一切 の事柄 を剥 ぎ取 られて,す っか り痩 せ細 った1個 の人間であるO この よ うをイエ ス 像 は,道幅 が丁度 タイヤの幅 だけあれば 自転車 に乗 って行 け ると考 えるよ うを人 々の想 い措 く イエス像 で あ るにす ぎない。彼等の イエ スは, もはやキ リス トで な く,人生 の教師 で もを く, わずかに弟子達 によってキ リス トとみを された イエ ス,「宣教 され る者」とみ をされた 「宣教す る者」 であ る。 イエ スは正真正銘の 「ただの人」 に怒った。

従来の イエ ス研究 が,初期 の信徒 を新 しい未来の生へ と突 き動 か していた生の原理 とい うイ エ ス像 を見失 って きたのは, テキス トの背後 に歴史的実在 を思 い,テキス ト批判 によって その 実在 にまで到達 で きると考 える歴史学的前提 を無反省 に受 け入 れて きた ことによる75)。しかし, キ リス ト教 古代 のテキス トは, その よ うを歴 史学的方法 によって何 か を明 らかに して くれ るよ

うな, そ うい う性格 をもったテキス トではをい。 テキス トのキ リス ト ・イエ ス像 は,決 して「宣 教す る者 が宣教 され る者 に在った」 を どとは教 えていをい。反対 に,宣教 され る者 が,宣教す る者 として措 かれてい るにす ぎをい。史的 イエ スがキ リス トとされたのではを くて,先在のキ リス トがイエ ス として描 かれているので ある。 この信仰 の働 きの逆方向性 を理解 しか 1怒らば, キ リス ト教倫理 の研究 は, その最 も基本的 を理解 を欠 くことに怒ろ う。

イエ スの意義 は,彼 の過去の諸行為 を認識 す ることにあるのではを くて, その未来 を待望 す ることにあ る(ロマ5 :1‑ 5, 8 :18‑25)。 イェ スにつ いての歴史的認識 をどれほ ど深 めよ うとも,決 して その ことによってイエスがキ リス トに在るわけではか ゝ76)。イエ ス は,歴 史 的 研究 の対象以上 の ものであ り,聖書 の中 に我 々 を招 き入 れ ることによって世 界の完成 に生 きる 存 在 をので あ る。

無論,歴史 学的 にみれば,決 して この よ うなイエ スが過去 に実在 していた わけでは をい。 た だ初期 のキ リス ト者 の うちに,彼等 がその中 において生 きかつ死 ぬ ことので きる原理 として実 在 していた にす ぎをい。 しか しその ことが彼等 には まさに決定的 をことであった。 そ して現代 のイエ ス理解 にとって も同様 に決定的 をことをので ある。た とえ今 日の歴史学的思惟 が どれほ ど厳 格 に否認 しよ うとも,倫理学的 にみれば, キ リス ト者の生 と死 の原理 として実在 した 「 イエス」のほ うこそ,現代の神学的思惟 が想 い描 く貧相 を史的 イエスよ りも, は るかに実在的 である77)。キ リス ト信 徒 の生 死 の原理 とい うイエス (この唯一のイエス) を理解 す るためには 何 よ りもまず この新 しい 「実在論」 に目を聞かか ナればを らをい。 目をさえ ぎられていて, こ のイエ ス を認 め ることがで きなかった2人の弟子 も,やがてイエスの ことば とわ ざによって,

「目が開かれて, それがイエスであ ることが分 かった」のである (ルカ24:31)

(1984. 8.18.)

(1) NormanPerrin ;ThePromiseofBultmann,FortressPress,Philadelphia,1979,p.8‑

9.

(2) RudolfBultmann;Jesus,SiebensternTaschenbuchVerlag,MtinchenundHamburg,19652, S.10.

(3) DieGeschichtedersynoptischenTradition1921年に,Jesus1926年に初版が出た。

(4) RudolfBultmann;DasUrchristentum im RahmenderAntikenReligionen,Artemis‑Ver‑

1ag,ZGrich,1949,S.78. Vergl. RudolfBultmann ;GlaubenundVerstehenI,J.C.B.

Mohr(PaulSiebeck)TGbingen,1972,S.265.

(5) RudolfBultmann;TheologiedesNeuenTestaments,J.C.B.Mohr(PaulSiebeck)TGbin‑

gen,19686,S.1‑ 2.歴史のイエスと信仰のキ リス トとを厳 しく区別 して両者の関係 を問 う

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