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 第二節 教育システムと法による操舵      

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(1)

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶

赤 川   理

はじめに 第一章 ボーテの所説

 第一節 社会の問題を解決する手段としての学校教育

 第二節 教育システムと法による操舵      

  1 教育システムと教育プロセス

  2 教育システムの自己準拠性

  3 教育システムの法による操舵

   一 法治国原理に基づく要請

   二 教育システムの法による操舵の可能性と意味︵以上︑第四六巻第二号︶

   三 法的な操舵と教育プロセスの保護

   自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七ー一︶  六三

(2)

六四

    ω 条件プログラムと目的プログラム

    ② 目的プログラムー具体化の権限ー立法者を中心に

    ③ 教育目標の二つの⁝機能

  4 多元主義

 第三節国・親・子供の関係

  1 国の教育委託

   一 学校制度は国が営む

   二 民間化の否定と私立学校の役割       ︑

   三 公立学校制度の性能−財政負担者としての国

  2 親・子供との関係

   一 義務としての国の教育委託と親・子供の基本権との関係

   二 国の教育委託と変化した家族

 第四節 ボーテの議論の意義

第二章 デイットマンの所説

 第一節 学校の教育委託と教育尺度の問いの必要性

 第二節 自由な立憲国における学校の教育委託

  1 原理的な問いの提起

  2ロ q巨oqと日恩書巨oo

(3)

  3 自由な立憲国に教育委託は認められる

 第三節 基本法において教育はどのように取り扱われているか

  1 学校の教育委託は基本法上受け容れられている

  2 基本法の教育尺度

   一 基本権的に刻印づけられた尺度

   二 基本権以外の基本法上の尺度

 第四節 ラントにおける教育委託と教育目標

  ー ラント憲法上の準則

  2 立法者の任務

  3 ﹁現場﹂での教育委託と教育目標−教師の役割

 第五節 自由な立憲国に教育委託が認められるということの意義︵以上︑本号︶

第三章 ピエロートの所説

第四章 フーバーの所説

おわりに

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七ー一︶  六五

(4)

六六

第一章 ボーテの所説

第二節 教育システムと法による操舵

3 教育システムの法による操舵

三 法的な操舵と教育プロセスの保護

 これまでみてきたボーテの議論によれば︑法による操舵は可能である︒しかし︑そうだとしても︑法的操舵と教育

プロセスとの関係は︑いよいよ抜き差しならないものになる︒この問題を解決するために︑ボーテは︑﹁条件プログ

ラム﹂という概念と﹁目的プログラム﹂という概念とを導入する︒この二つの概念によって︑法的な操舵と教育プロ

セスの保護との調和をはかろうというのである︒

 ボーテが︑連邦憲法裁判所の判決についての議論につづけて︑﹁条件プログラム﹂と﹁目的プログラム﹂という概

念を導入する背後には︑もうひとつの別の考えがあるかもしれない︒これまでの議論は︑ボーテにとっては︑連邦憲

法裁判所の判決から出発した議論によって法的操舵が可能であることを論証した上で︑それを︑もう一度法治国原理

によって基礎づけた︑ということである︒しかし︑見方によっては︑法的操舵が要請されるという主張をしただけで︑

(5)

法的操舵が可能であることは未だに論証できていないようにも見える︒そのような疑念に応えるためにも︑現に存在

する規範の性質を説明する概念を導入し︑それによって︑法的操舵の可能性の論証を補強しようという考えがあるの

かもしれない︒      −

ω 条件プログラムと目的プログラム

 ボーテによれば︑教育目標は︑特別な種類の法的準則であって︑人格の理想的表象︑すなわち︑教育プロセスの結       ︵注1︶ 果として望まれるところの心理的気質︵O︷°︒bo°・巨o⇒︶の理想的表象である︒﹁この理想的表象の達成を目指して努力

することが︑教育者に法的に命じられるとすれば︑それは︑条件プログラム︵︸︵O⇒△﹄け﹂O﹃﹇co一b﹃OσO﹃知§︶による法的操

舵ではなくて︑少なくとも第一次的にはそうではなくて︑目的プログラム︵呵巨巴b﹃00q﹃聾﹃5R⇒︶による法的操舵を意味       ︵注2︶ する︒これは︑条件プログラムとは異なって︑実現の自由な余地を認める︒﹂︒つまり︑教育者に自由な余地をある程

度認める目的プログラムによる操舵であれば︑教育の本質をおかすことはない︑というのである︒しかも︑目的プロ

グラムは法規範なのであるから︑法的操舵が成立している︑というのである︒

︵注1︶ 昌合o色ロo臼P国区Φゴ已お8巨︺日σ︒戸5口日邑250︒°︒ヨ①留冨ぴ号﹃︒︒合巨Φ日洋Φ旨Φ﹂昌畠Φロ<2冒ω゜︒戸5σ︒°︒°︒.§け≦∂Q力昂目O古︒Q°

 oo⑦゜

︵注2︶ ロo夢PPPOこ゜︒◆心︒Φ゜ボーテの本報告に関する限り︑条件プログラムは︑ある条件があればある効果を生じさせる法規  範という意味で用いられ︑目的プログラムは︑期待される何らかの効果だけを定めている法規範という意味で用いられてい  る︒

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七−一︶  六七

(6)

六八

② 目的プログラムー具体化の権限−立法者を中心に

 しかし︑目的プログラムにも問題がないわけではない︒ボーテによれば︑目的プログラムは︑常に︑実現の権限︑        ︵注1︶ すなわち︑具体化の権限という手続問題を提起する︒ここで問題になるのは︑立法者である︒ボーテは︑次のように

述べる︒﹁教育される者の人格の形成が問題であるのだから︑教育作用の内容と方向は︑教育される者の人格権にとっ

て︑そしてまた︑両親の教育権にとって︑本質的である︒それゆえに︑立法者は︑この作用の方向について︑内容的

な基本的決定を下さなければならない︒すなわち︑立法者は︑連邦憲法裁判所によれば︑﹃大まかな学習目標       ︵注2︶ ︵○﹃Oぴ一⑱日N一①一Φ︶﹄を確立しなければならない︒﹂︒つまり︑具体化の権限の中には︑大まかな具体化の権限がまずあ

り︑それは立法者に委ねられた権限である︑というのである︒

 立法者の権限は︑親や子供の基本権に基づくだけではない︒それは︑教育が機能するため︑また︑教育者のために

も役立つ︒立法者が﹁大まかな学習目標﹂を確立することによって︑教育というこの領域は︑その限りで行政規則に       ︵注3︶ よる決定から守られている︑とボーテは言う︒﹁法律化は︑文部官僚に対する教育の自由︵廿鍵臼但0αOOo戸ooOゴO﹃﹈呵﹃O巳口Φ目︶          ︵注4︶ の一定程度の保障である︒﹂︒教育者は︑行政の側にいるので︑当局のコントロールを受けやすい︒しかも︑当局の行

政規則によるコントロールは法的なものであるから︑教育システムとはコードを異にする︒そうだとすると︑行政当

局の教育者に対するコントロールが過度になれば︑教育プロセスが機能不全を起こしかねない︑というのである︒行

政当局のコントロールは︑法律に拘束づけられているはずだから︑立法者による法律化は︑行政当局のコントロール

から教育プロセスを守ることになる︑というのである︒もし︑教師に親や子供の基本権が委託されていると考えれ

(7)

ば︑このように言う必要はない︒教師は︑当局のコントロールを排除する必要がある場合には︑親や子供の基本権に

依拠すれば良いからである︒つまり︑ボーテの議論の背後には教師は︑親や子供の権利を委託されているのではない

という考えが存在する︑と思われる︒こうして︑教育者には︑もちろん具体化の権限︑余地があり︑また︑前述した

ように︑大まかな具体化の権限は立法者にあるのだが︑それと同時に︑立法者と教育者の間に行政当局がある︵行政

当局にも当然一定の余地があるーだから問題が生じうる︶ことが忘れられてはならない︑ということになる︒

 立法者の権限が教育を守るといっても︑それにはおのずと限界がある︒教育は法とは異なる原理に基づいて作動す

るものであるから︑保護にも限界があるはずである︒このことについて︑ボーテは︑﹁もちろん︑立法者が︑この任

務を事物適合的に果たそうとするならば︑立法者は︑その対象の事物法則性に注意を向けなければならない︒すなわ        ︵注5︶ ち︑とりわけ教育事象の法的操舵可能性の限界に注意を向けなければならない︒﹂と言う︒これにつづけて︑彼は︑        ︵注6︶ ﹁この︹教育︺事象は︑教育上の自由な余地を必要とする︒過剰な法的操舵は︑︹教育︺事象を麻痺させる︒﹂という︒

教育制度は︑それ自体に委ねられた自由な余地を必要とする︑というのである︒そして︑﹁それゆえ︑過度の規制は︑

正統な︑公共善によって要求される諸々の教育目標を達成するためにはふさわしくなく︑教育プロセスにかかわる者        ︵注7︶ たちの基本権上の地位の不当な侵害を意味する︒﹂と言う︒ここでは︑教育の本質という観点に加えて︑基本権とい

う観点が新たに問題にされている︒ボーテの議論からすれば︑基本権上の地位というのは親と子供のことで︑教師で

はないと理解するのが適切である︒先ほど述べたように︑教師には親や子供の基本権が委託されていないからであ

る︒そして︑過度の法的な規制をしてはならないことは︑立法者についてだけではなくて︑教育者に対する準線の引

︵注8︶       ︵注9︶       ︑ き手にも妥当する︑とされる︒これは︑教育の本質から︑また︑基本権から導かれたことなのであるから︑立法者に

   自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶      ︵都法四十七ー一︶  六九

(8)

七〇

も行政当局にも当てはまると思われる︒

 立法者は︑以上の制約以外にも︑﹁準則﹂の下にある︒憲法は︑立法者に義務を課し︑限界を立てるものであるか        ︵注10︶ ら︑憲法に服さなければならないことは当然である︒ボーテは︑さらに︑立法者は︑より上位の法秩序︵ヨーロッパ

共同体法︑国際法︶の準則に注意を向けなければならず︑これらの準則は︑法律の執行と解釈においても尊重されな          ︵注11︶ ければならない︑という︒

︵注1︶ 言︒富巴ロo書P国鼠①けピ50︒°︒①巨汀譜已己卑N声Φ巨お゜・日品゜︒Sぴ巳2°力合巳①戸日時Φ芦o巨合窪くΦ目゜︒°︒ピ50︒°︒°︒ひ§﹇≦日ω昆↑m♪必心︒9

︵注2︶ ロo書PPPOこω﹄Φ心 ︵注3︶ bdo日PPPOこ゜︒﹄O°       .

︵注4︶ロ︒日ppp℃°︒﹄Φ◆

︵注5︶bd︒書pppP°︒﹄Φ゜

︵注6︶bd︒葺pppρ゜︒°︒﹄Φ占べ゜ ︵注7︶ ロo日PPPρQ︒﹄べ

︵注8︶ 内容と言い回し︵ここ︵bσo昏PPPO°∨ω﹄や︶°では︑合o<円壁゜︒°︒2<§日合自巨Φ⇒という言い回しが用いられ︑別の箇

 所︵b︒o日PPPOこ゜︒﹄0°︶では︑OΦ白﹃声合庄巨Φ⇒<2冒゜︒°︒窪O窪ω合巨げ旨o寄巴Φつという言い回しが用いられている︶からして︑  行政当局であろう︒ ︵注9︶b︒︒夢pppOこ゜︒﹄s

︵注10︶ <箪 bdo夢PPPOこo力﹄べ

︵注11︶ ロo夢PPPρ゜力﹄や゜

③ 教育目標の二つの⁝機能

(9)

  ボーテによれば︑以上の考察から︑法的に定立された教育目標は︑二つの異なる機能を有することがあきらかにな

︵注1︶  る︒

 まず︑第一は︑﹁ネガティブな除外機能﹂である︒具体的には︑﹁特定の望ましくない教育目標︑たとえば国際的相        ︵注2︶ 互理解に反対する教育や︑あるいは︑人種的憎悪への教育は︑禁じられる︒﹂という機能である︒﹁そうした規範は︑

とにかく実戦の準備をされなければならないし︑そうした規範は︑直接に適用可能である︒この機能において︑目的

プログラムは︑条件プログラムになる︒禁じられた目標が追求されるときには︑教育者に対する諸々の制裁が講じら       ︵注3︶ れることができる︒﹂︒こうして︑ボーテによれば︑教育目標は︑ネガティブな除外機能において︑条件プログラムに

なる︒   しかし︑ボーテは︑教育目標を条件プログラムとすることに問題があることを認め︑次のような問いを提起する︒

 ﹁⁝すなわち︑そうだとして︑憲法の一般的な目標準則は︑この態様において︑条件プログラムへと再形成するのに

本当に適しているのかどうか︑という問いである︒一方では︑規範の不確定性が︑他方では︑制裁に対するおそれが︑

 教育プロセスのコミュニケーション的構造に︑まったく︑事物に反する負担を負わせることにもなりうるであろ

︵注4︶ う︒﹂︒憲法の教育目標は︑一般的な態様で定式化されることがきわめて多い︒そうすると︑規範が不明確であること

 が多いことになる︒不明確であることそれ自体も問題であるが︑不明確な規範によって︑制裁がなされるとすれば︑

 さらに問題は深刻である︑というのである︒

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七ー一︶  七一

(10)

七二

 ボーテのこのような論法は︑条件プログラムという概念と目的プログラムという概念とを導入した意義を損うこと

になると思われる︒この第一の機能に関するボーテの議論をみる限りでは︑果たすべき機能の側から︑条件プログラ

ム︑目的プログラムのどちらに該当するかが判断されることになる︒つまり︑ある規範について︑どのような機能を

果たすのかがまずはじめにわかって︑それから︑当該規範が︑条件プログラムであるのか︑それとも︑目的プログラ

ムであるのかがわかるのである︒機能がすでにわかっているのであれば︑それに名前をつけてみても︑単にラベルを

貼ったにすぎない︒こういうわけで︑ボーテの試みは︑少なくともこの点に関して︑成功しているとは言い難い︒

       ︵注5︶  第二は︑﹁ポジティブな︑指導的な機能﹂である︒ボーテは︑﹁教育目標は︑教育が︑その意味において行われるこ       ︵注6︶ とを達成すべきである︒この機能において︑規範は︑充足されることを求めて︑解釈されている︒﹂という︒教育目

標は︑教育がその本来的な意味において行われるように導く機能を有するというのである︒これは︑教育目標に向け

た教育が行われるということであるから︑われわれが普通に考える機能である︒

 ここで︑ボーテは︑教育制度が教育システムであることを指摘する︒﹁教育制度は︑法的操舵に直ちになじむわけ        ︵注7︶ ではないところの社会的自己準拠的サブシステムである︒﹂︒そして︑つづけてこう述べる︒﹁とりわけ︑もし︑法が︑

制裁という法に固有の貫徹手段を断念しなければならないとすれば︑その限りで︑教育制度という自己準拠的サブシ

ステムにおける法というシステム外的な操舵信号の受容の問題︑すなわち︑システムへの翻訳の必要性が︑提起され

る︒そのような翻訳は︑行われなければならないし︑法律上︑憲法上︑ヨーロッパ法上︑国際法上の諸々の教育目標        ︵注8︶ は︑教育者を︑実際に︑指導︑もしくは︑刺激を与えるべきである︒﹂︒ボーテが言ったのは︑次のようなことである︒

(11)

法は︑その固有の論理︵のうち少なくとも制裁︶を教育システムの中で貫き通すことができるわけではない︒︵制裁

という︶固有の貫徹手段を断念しなければならないのであれば︑法は︑機能しないおそれがある︒だから︑法は︑教

育システムのコードに変換されてはじめて︑教育システムの中で︵指導的な︶機能を果たすことができる︑というこ

とである︒       ︑

  つまり︑ボーテによれば︑法は教育システムのコードに翻訳されなければならない︒それでは︑翻訳を担当するの

 は誰か︒﹁この指導は︑目標が︑書かれたテキストからあきらかになる場合には︑まだ︑比較的単純である︒しかし︑

 基本法から導き出される教育目標がそうであるように︑目標が解釈からはじめて引き出されるならば︑教育制度にお

 けるこれらの目標の受容は︑教育者が︑憲法解釈者の共同体に加わっているとき︑また︑その限りでのみ生じ得

︵注9︶  る︒﹂︒教育者が憲法解釈者の共同体に連結されることによって翻訳される︑というのである︒これの意味するところ

 は必ずしも明確ではない︒しかし︑ボーテがつづけて次のように述べることからすれば︑行政に対する教師の自由な

余地が認められなければならない︑という趣旨であると思われる︒﹁ひとが︑このコミュニケーションの問題の解決

 に向けて︑文部官僚を︑適切な送受信機と見なすならば︑ひとは︑結局のところ︑再び︑批判されてしかるべき官僚

 の規制活動による教育の自由︵①﹃N一①ゴ①﹃一ω○ゴO﹃ 呵﹃O巳巨①一﹇︶の制約に行き着く︒諸々の法的な教育目標を教育者の世界へ

 翻訳することの中には︑﹃官僚によらないで﹄解決されるべきことが肝要であるところの本質的問題が存在する︒そ

 のための道は存在する︒たとえば︑憲法解釈者の共同体が︑まさに真剣にアンガジェしており︑引き続いてアンガジェ        ︵注10︶  すべきところの教師の継続的自己形成︵﹈に①ゴ﹃Φ﹃﹃O﹃けぴ巳巳已⇒oo︶の中に︒﹂︒

  ここで︑ボーテの議論における教師と行政の関係について振り返ろう︒憲法の象徴作用のところでは︑教師が行政

    自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七−一︶  七三

(12)

七四

に助けられる側面が指摘された︒立法者による法律化のところでは︑行政に対する教師の自由な余地が一定程度守ら

れなければならないことが述べられた︒そして︑ここでは︑教師みずからが直接に憲法解釈者の共同体に連結され

る︒以上のように︑ボーテの議論においては︑教師と行政との関係は︑複雑で︑多面的な構造になっている︒しかし︑

いずれにしても︑教師は行政の側にあるということが前提とされている︒ボーテの本報告においては︑教師が︑親や

生徒の基本権を委託されているわけではなくて︑行政の下にある︑ということが確認されるべきである︒

 ボーテは︑以上の議論に付け加える形で︑教育目標の正当化作用について︑次のように述べる︒﹁この指導的機能

と並んで︑教育目標は︑正当化作用を有する︒教育目標は︑教育内容を法的な攻撃から守ることができる︒これは︑        ︵注11︶ 教育者にとって︑憲法の諸々の教育目標をつかまえて︑これに依拠するように促しうるであろう︒﹂︒﹁指導的⁝機能と

並んで﹂というところから︑教育目標の正当化作用は︑指導的機能に付随する作用として捉えられていることが分か

る︒教師は︑みずからが教える内容について︑法的に問われた場合には︑教育目標に依拠して反論し︑みずからを正

当化することができる︑というのである︒

︵注1︶ 昌合③巴b︒o日P卑恩Φゴ巨田留巨ぱ認巨己国区Φ已お゜︒ヨ知O°︒冨げq零゜︒合巨Φ旨時o芦Φ一巨○ゴ①5<2冒c︒c︒巨σqω゜︒富餌け︸≦6︒︒品↑㎝玲︒︒﹄ぺ

︵注2︶ ロo夢PPPO°°力﹄S

︵注3︶b︒︒日PPPOこ゜︒﹄べ゜

︵注4︶ロ︒夢pppO°︒︒﹄べ

︵注5︶ロ︒夢pppP°︒﹄°︒°

︵注6︶ロ︒夢PPPρ°︒﹄°︒°

︵注7︶ ロo夢PPPO°o︒﹄Q︒°

(13)

︵注8︶ ロ︒日PPPO°c︒﹄°︒°

︵注9︶ud︒日PPPO°m﹄°︒°

︵注10︶ ロ︒夢PPPO°°︒﹄°︒°

︵注11︶ ロo夢PPPO°c︒﹄°︒°

4 多元主義

       ︵注1︶  ボーテは︑﹁多元主義的国家における教育目標﹂について︑特に一節を設けて論ずる︒ボーテは︑﹁教育目標を確立        ︵注2︶ する国家の権能の限界は︑多元主義の憲法原則の中にある⁝﹂という︒つまり︑多元主義を教育目標や教育の内容を        ︵注3︶ 定めるに当たっての国家の限界としている︒ボーテは︑ここで︑多元主義原理の内容として︑特定の価値が絶対化さ

れてはならないこと︑その結果︑多様な価値が追求されて良いことを考えている︒実際︑ボーテはこう言う︒﹁むろ

ん︑多元主義の規則は︑特定の価値を絶対化する描出を阻止する︒多元主義原理の禁止内容の固い核心は︑基本法に        ︵注4︶ よって留保なしに保障された良心の自由の中にある︒﹂︒

 しかし︑ボーテによれば︑多元主義の要請が意味するのは︑特定の価値の絶対化の禁止だけではない︒﹁多元主義        ︵注5︶ の要請は︑特定の重要な共同体の価値を教育目標へと高めることを禁じてはいない︒﹂︒﹁教育を特定の憲法目標に方

向づけることを阻止することが︑多元主義の要請の意義であるのではない︒世界観的中立性は︑価値中立性を意味し        ︵注6︶ ない︒価値問題における憲法上要求されたつつましくすることは︑価値相対主義を意味しない︒﹂︒そして︑ボーテ        ︵注7︶ は︑﹁寛容と他者の意見を尊重することを教えることの要請﹂が生じる︑と述べる︒それは︑具体的にはどういうご

   自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶      ︵都法四十七ー一︶  七五

(14)

七六

とであろうか︒

  まず︑ボーテは︑学説を取り上げる︒学校の教育目標に目を向けて︑多元主義の要請を基礎づけた試みとして︑エッ        ︵注8︶  ケハルト・シュタインの議論を︑彼は紹介する︒シュタインは︑子供の人格権︑すなわち︑基本法一条の人間の尊厳       ︵注9︶  の保障と結びついた二条一項に基づいていた︑とボーテは言う︒ボーテによれば︑シュタインは次のように述べた︒

 ﹁自由な発展を求める子供の権利は︑子供に︑﹃最も重要な精神的思潮の思想の︑均衡のとれた側面︑代表的な精選

物﹄を提供することを要求する︒その権利は︑三面的な見方の︑そして︑偏って選択された知識﹄の媒介を妨害す

︵注10︶  る︒﹂︒つまり︑一方的に特定の価値が教えられてはならないという禁止する側面があると同時に︑さまざまな思想が

 教えられなければならないという積極的な側面もある︑というのである︒

ボーテは︑視角を変えて︑領域に着目した議論もする︒

       ︵注11︶  まず︑彼は︑世界観と宗教の領域で多元主義の要請を基礎づけるものとして︑信教の自由︑基本法四条をあげる︒

ボーテによれば︑基本法四条は︑学校における教育上の形態づけの自由の本質的な限界である︒﹁しかし︑同時に︑        ︵注12︶ 宗教上の寛容の意味において︑積極的な準線︵↑①巨巨①︶でもある︒﹂︒つまり︑基本法四条は︑禁止的な限界でもあ

るが︑同時にポジティブな意義も有するというのである︒具体的には︑他者の信仰に寛容であるべきことが教えられ

なければならない︑というのであろう︒       ︵注13︶  次に︑ボーテは︑社会的︑政治的領域で多元主義の規則を基礎づけるものとして︑民主主義原理をあげる︒ボーテ

(15)

によれば︑民主主義原理は︑学校の何らかの自由な基盤と︑一方的な政治的教化からの生徒たちの自由を要求し︑並

びに︑言論の自由という基本権︑国家から自由な意見の形成を可能にすることを欲し︑そのことと︑生徒に一方的な       ︵注14︶ 政治的影響を与えることは︑調和しない︒﹁それらすべてから︑学校の客観的な義務としてのイデオロギーに関して

寛容であることが︑しかし︑イデオロギー的に寛容な学校を求める基本権も︑導き出されなければならない︒この所        ︵注15︶ 見の両親の権利に関する観点は︑︹基本法︺六条二項に依拠している︒﹂︒以上は︑一方的に特定の価値が教え込まれ

ることを禁止する側面である︒ボーテは︑ここで︑これ以上述べていない︒しかし︑彼の今までの議論からすると︑

民主主義原理からも︑他者の政治的な意見に対する寛容が教えられなければならないことになるものと思われる︒

︵注1︶ 巨○冨巴Cdo日P国区書已田゜︒知巳育躍巨己国﹃N匡50︒°︒日葛9書q2︒力合已o日ρ守Φ旨Φ巨合o⇒<零冒゜︒°︒巨田゜︒ω8ρ︹≦已︒力昂い㎝古︒力︒力゜

 トo⑩ーco一◆

︵注2︶ ロ○日PPPO°°力﹄Φ゜

︵注3︶ 別の限界としては︑基本権︑また︑教育の本質をあげることができる︒ ︵注4︶ロ︒貸pppO°︾ω゜ω﹂°         T

︵注5︶ロ︒昏PPPO°°︒°ωO

︵注6︶bd︒日pppO°°︒°︒°°︒o占p ︵注7︶ロ︒貸pppP°力﹄ド

︵注8︶ 切o夢PPPOこ乙︒﹄⑩゜

︵注9︶ヒd︒葺PPPP°︒﹄⑩゜

︵注10︶ ロo許PPPO°°◎﹄Φ゜

︵注11︶ ロo肝PPPOこ゜力゜ω⇔

︵注12︶ bdo日PPPOこ゜力゜°︒O

︵注13︶ ロo夢PPPOこ゜︒°ωρ ︵注14︶ロo書PPPP°︒°ωO

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七ー一︶  七七

(16)

七八

︵注15︶ 国o肝PPPOこ゜︒°°︒ρ以下︑特に注記しない限り︑︹︺の中は筆者が補った言葉である︒

第三節 国・親・子供の関係

1 国の教育委託

 ボーテは︑以上の議論において︑学校教育を社会の諸問題を解決するものとして位置づけ︑また︑解決されるべき

問題を明らかにした︒また︑教育は教育システムとして捉えられること︑教育システムは︑一定の限界はあるものの︑

法によって操舵されなければならないし︑操舵できることを主張した︒それでは︑学校教育を営むのは誰であろう

か︒ボーテによれば︑それは︑国である︵国と言っても︑連邦とラントとがある︒ボーテの議論では︑直接的に念頭

に置かれているのは︑ラントであると思われるが︑ラントも連邦によって支えられているので︑連邦のことも考えら

れていると思われる︒︶︒

一 学校制度は国が営む

 ボーテは︑以下のように言う︒﹁高性能の公立学校システムを提供する国の義務として理解された︑国の教育委託

は︑基本法七条一項と社会国家原理から導き出される︒学校は︑社会が機能するために国によって提供されるインフ

ラストラクチャーの構成要素である︒この機能は︑社会国家原理に基礎をおく︒七条と並んで︑そのほかの基本権の

観点が︑さらにつけ加わる︒国が学校を営むこと︵乙oOプ己一Φ庁ρ一叶O﹃F︶は︑人格の自由な発展を求める権利と︑養成の自

(17)

由︵一二条︶のための︑国の保護義務と援助義務の履行でもある︒諸ラント憲法の対応する諸々の規定は︑もうひと       ︵注1︶ つの︑場合によってはより明らかな基礎である︒﹂︒ボーテによれば︑国は高性能の公立学校システムを提供する義務

を負う︒この国の義務の根拠は︑基本法七条一項と社会国家原理である︒また︑この国の義務は︑基本法二条一項の        ︵注2︶ 人格の自由な発展を求める権利︑基本法一二条の養成の自由と対応し︑また︑ラント憲法の規定と対応するという︒

 こうして︑ボーテは︑基本法の規定に根拠を求めて︑学校を営むのは国であるべきことを強く主張する︒さらに︑

ボーテはこう言う︒﹁⁝学校制度の原則的国家性という憲法上の要請が存在するということが︑堅持されなければな       ︵注3︶ らない○学校制度におけるように︑人生の基本的な可能性が与えられるところでは︑まさに国家が必要とされる︒﹂︒       ︵注4︶︵注5︶ 学校制度を原則的に国が提供しなければならないことは︑﹁憲法上の要請﹂だというのである︒さらに︑彼は︑国が        ︵注6︶ 学校を営むことは︑ヨーロッパに共通の憲法の実際に合致しているとして︑他のヨーロッパ諸国のことをも引き合い

に出してみずからの主張を補強する︒

︵注1︶ 嵩合③巴ロo日P卑Nぽゴ⊆品゜︒些巨い日σ︒巨巳国﹃Nけ巨頃゜︒日品゜・冨ぴユ20︒合巨Φ旨旨Φ芦①巨合雪く2皆゜︒°︒巨樋゜︒c︒古8戸≦∂°︒完□O◎力c力゜

  一ベー一〇〇°

︵注2︶ ボーテはブランデンブルク憲法二九条二項と三〇条五項をあげている︒<ぴゴピロo日PPPO°呵ロ吟心︒°

︵注3︶ ロo日PPPO°uω﹂°︒° ︵注4︶ ボーテによれば︑国の教育委託は憲法に基づいて存在する︑ということは憲法解釈者たちに広くいきわたった一般常識

  である︒ロ○夢P知゜PPo力⑨︒︒◆ ︵注5︶ 国が学校を営むことを否定するベルマイアーのことを︑ボーテは︑﹁ある最近のややエキセントリックな批判者﹂︵ロo日P

 PPρo︒﹂°︒°︶と呼ぶ︒

︵注6︶bd︒日pppO°︒力﹂︒︒°

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七−一︶  七九

(18)

八〇

二 民間化の否定と私立学校の役割

      ︵注1︶  前述したように︑ボーテは︑﹁高性能の公立学校システム﹂の提供について語った︒学校システムの性能を高める

ことが問題であるのであれば︑民間化の提案がなされるのは自然なことであろう︒すなわち︑国に任せるよりは︑民

間化して︑競争によって性能を高めようという議論が提起されるはずである︒しかし︑ボーテは︑学校は国によって

営まれなければならないとして︑学校の民間化を否定する︒﹁⁝一般的な民間化の議論は︑それゆえに︑学校の領域

までおよんではならない︒私的な経営と競争による効率化は︑民間化の本質的中心思想のひとつであるが︑それは学         ︵注2︶ 校制度にはなじまない︒﹂︒

 こうして︑ボーテは︑学校の民間化を否定する︒それでは︑彼は︑私立学校の存在を認めないのだろうか︒そうで

はない︒﹁国の無責任な財政政策が︑公立学校の性能を次第に低下させない間は︑低下させないかどうかは現在のと

ころ残念ながらまったく自明でないのであるが︑私立学校は︑現在の補完的な︑また︑むしろ周辺的な役割を与えら

れる︒⁝私立学校の許可は︑歴史的には︑とりわけ︑教会の教育施設の存続を可能にしたのであり︑基本権の観点か        ︵注3︶ らは︑中立性を義務づけられた国の学校に対する︑世界観的に刻印づけられた代替物を可能にする︒﹂︒つまり︑ボー

テも私立学校を認める︒しかし︑私立学校が認められるのは︑民間化の観点からではない︒あくまで基本権の観点か

らである︒しかも︑私立学校に与えられるのは︑補完的・周辺的な役割にとどまる︑というのである︒

私立学校に補完的・周辺的な役割しか与えられないことには︑より深い意味︑しかもより現実に即した意味があ

(19)

る︒ボーテは︑上の議論につづけてこう言う︒﹁この基本権を促進する機能の中に︑私立学校の本来的正当化が横た

わっているが︑しかしまた︑私立学校が社会を分解する手段になるという危険も横たわっている︒いずれにせよ︑私

立学校は︑公立学校のクラスの中に︑﹃あまりにも多くの﹄トルコ人の子供たちがいるときに︑自分の子供たちを通        ︵注4︶ わせるところの代替肢になってはいけない︒﹂︒つまり︑私立学校が︑あくまで補完的・周辺的なものとして認められ

ることの裏側に︑そうでなければ社会が分解するという懸念まで︑ボーテは見て取る︒しかも︑その懸念は︑理論上

存在するにすぎないものではなく︑現に存するものであることが︑トルコ人の問題に触れる箇所で明らかにされる︒       ︵注5︶ こうして︑社会が分解しないためにも︑﹁国の﹂学校制度の広範囲にわたる努力が必要とされることになる︒ここで

重視されているのは︑共同体を維持するという観点である︒しかも︑共同体を維持する役割は教育を通して国が果た

さなければならない︒このことは︑学校や教育についての一般論と対応している︒また︑社会的危機現象︑﹁社会の内

的問題のところで述べたこととも対応している︒

︵注1︶ 旨合③巴ロo書P国﹃巴o庁∈お゜︒知巨げ躍巨△国﹃N匡5鵯旨品゜︒・普巳20︒合巨︒日﹁時①芦①巨畠①⇒<2賦゜︒°︒戸50︒°︒む・冨辞≦已c︒品↑㎝♪9一S

︵注2︶ ロo肝PPPP°力﹂Φ゜

︵注3︶ ロo書PPPOこo力﹂ρ

︵注4︶ロ︒夢PPPOこ゜︒﹂⑩゜ ︵注5︶誇ピロ︒dゴpppOこ︒︒﹄o

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶      ︵都法四十七−一︶  八一

(20)

八二

三 公立学校制度の性能−財政負担者としての国

 こうして﹁公立﹂学校制度の存在の必要性を明らかにした上で︑ボーテは︑もう一度︑その﹁性能﹂を問題にして

こう述べる︒﹁ともかく公立学校制度が存在すれば︑基本法の教育委託が︑すでに満たされているというわけではな

い︒基本法の教育委託は︑むしろ︑﹃高性能の﹄学校制度へと向けられているのである︒このことから︑多くのラン        ︵注1︶ ト憲法によって承認されているように︑諸々の財政支出と︑諸々の助成の義務が生ずる︒﹂︒こうして︑ボーテは︑﹁性

能﹂を問題にすることによって︑国が学校を営むと言う場合︑その﹁国﹂は︑まずは︑財政の負担者としての役割を

意味していることを明らかにした︒

︵注1︶ 昌o冨巴℃︒○日P国区o巨編ψ︒翼﹃躍巨a目区o白田゜︒昌品゜︒﹇書q2◎力9巨Φ巨時o壁Φ詳巨合Φ⇒<2壁゜︒°︒巨σα゜・°・吟§≦∂o︒琵□0♪ω﹄O°

2 親・子供との関係

一 義務としての国の教育委託と親・子供の基本権との関係

 それでは︑国と親︑子供の関係はどうなるのか︒ボーテは言う︒﹁国の教育委託は︑ひとつの客観的な国の義務で

︵注1︶ ある︒﹂︒そして︑この義務に︑両親の︑もしくは︑子供の主観的権利が︑どこまで対応するかは︑あいかわらず争い

 ︵注2︶      ︵注3︶ があるものの︑限定的な範囲では主観的な権利が認められているとする︒ここでは︑国の義務に両親︑もしくは︑子

(21)

供の権利が対応している︒ここに教師は登場しない︒すなわち︑教師に親や子供の権利が委託される構成にはなって

いない︒

︵注1︶ 言o冨巴ロo日P国区書⊆品゜︒知暮蚕oq︹日q国区o巨o︒°︒∋③O°︒古菩O隅o力畠巳o↑∋曽Φ日Φ詳巨合︒5<2皆゜︒°︒已品゜︒°︒9鼻≦已o力島ピ㎝♪P心︒ρ

︵注2︶ ロo夢PPPOこ゜︒﹄O

︵注3︶ <箪 ロo昏PPPO°oQQ︒°心︒Oー心︒ピ.

二 国の教育委託と変化した家族

       ︵注ユ︶   ボーテは︑家族の構造の変化を指摘していた︒構造が変化した家族についてはどうであろうか︒﹁国の︵学校の︶

教育委託と両親の教育権︵国邑Φ巨編︒8合﹇︶が︑原則的に等価であることは︑伝統的な役割分担を伴う典型的な家

 族にとどまるものではない︒それゆえ︑今日︑子供たちが養育されうるところの家族︑もしくは︑家族に類似の共同

生活のさまざまな形式の多様性の上述のような発展は︑両親の教育権と国の学校高権が等価であり︑そうであるゆえ

 に︑それらが慎重に均衡されなければならないということについて︑何もあらためない︒そのことは︑国が学校教育

 に関して両親の選択した決定を尊重しなければならない︑それどころか︑可能にしなければならない︑ということも

意味する︒家族の中の教育の固有の領域へは︑国は︑基本法六条三項の狭い前提条件のもとでしか介入してはならな

︵注2︶  い︒﹂︒こうして︑ボーテによれば︑家族の構造が変化しても︑両親の教育はおかされてはならない︒

先に述べたように︑まずは財政の負担者としての側面を中心として︑学校制度は原則的に国によって担われること

  自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶      ︵都法四十七ー一︶  入三

(22)

八四

をボーテは強調した︒しかし︑国の役割は︑財政の負担者としての役割にとどまらない︒国は教育の内容の決定にも

かかわる︒こちらの役割の方が︑より深刻な問題を提起するはずである︒ボーテも︑教育尺度の内容を固定すること       ︵注3︶ は︑多元主義を実現するという要請や国家の世界観的な中立性にぶつかるように見えると述べている︒もちろん︑国

が教育の内容を決定しても︑私立学校が認められるのであるから︑その限りで︑多元主義の要請や国家の世界観的な

中立性に抵触しないとも思われる︒しかし︑私立学校はあくまで︑補完的な役割にとどめられていた︒また︑私立学

校が認められても︑その教育内容の決定に国が大きな影響を及ぼすことも考えられる︒そういうわけで︑親や子供の

自由や権利と︑学校制度を担う国との関係はやはり問題になる︒

 まず︑国が親を援助するという関係があり得る︒家族の力が弱くなり︑子供を教育することが困難である家族もあ

るからである︒﹁家族が︑子供の教育において︑諸々の困難に陥るということは︑こうした新しい発展に責任を負わ

せることができない︑あるいは︑いずれにしても︑こうした新しい発展だけに責任を負わせることができないところ

の現象である︒ここでは︑国は補助的に介入しなくてはならない︒とりわけ︑一人で子供を教育する親︵≧信巨①艮?        ︵注4︶ ゴ6⇒αΦ﹃︶の困難な運命を軽減するために介入しなくてはならない︒﹂︒つまり︑国が家庭を手助けしなければならな

い場合があるというのである︒

 また︑国がより積極的な役割を果たさなければならない関係もあり得る︒﹁子供が︑手本としての自分の両親に︑

放縦な自己実現を見れば見るほど︑それだけいっそう共同体の価値を伝達す惹ことは︑国の教育の任務となる︒この

ことは︑国が両親の教育計画を無視することではない︒そうではなくて︑国の学校制度に対する内容的な要求であ

(23)

︵注5︶  る︒﹂︒共同体の存立の基盤にかかわる価値については︑国が教育の内容に介入しなければならない場合があるという

 のである︒

  しかし︑国は︑家庭の中に全面的に介入することはできない︒﹁学校は︑家庭の安息の代用をすることはできな

︵注6︶  い︒﹂︒家庭には︑学校が取って代わることのできない役割があるというのである︒こうして︑家庭の自律を認めるこ

 とによって︑国と親との間には調和が保たれるというのであろう︒

︵注1︶<担 巨○富︒﹂ロ︒日P国﹃Nけゴ巨鵯③巨﹃譜∈己国邑︒ξ゜・旨品゜︒富ぴ△2︒力合已︒巨守Φ旨Φ巨合①ロ<2冒゜・°︒巨o︒°︒°︒S餌戸≦已゜︒島↑

 切︽o力゜一bo°   り ︵注2︶b︒︒夢PPPPω﹄﹂°

︵注3︶b︒︒夢四PPPω゜°︒° ︵注4︶ロ︒夢PPPP°力﹄P

︵注5︶巳d︒夢PPPP°︒﹂㎝゜ ︵注6︶ロ︒夢PPPP°︒﹂㎝゜

第四節 ボーテの議論の意義

 ボーテは︑本報告の結論部において︑もう一度システム論に関連づけながら︑次のように述べる︒﹁教育制度に対

する法的準則の操舵能力と社会システムに対する教育システムの操舵能力は︑限界づけられている︒しかし︑それ

は︑教育システムが︑社会の発展に関連していないということ︑憲法の企図とその他の法の企図が︑教育システムに

関連していないということを意味しているのではない︒憲法の企図とその他の法の企図は︑たしかに︑社会の大きな

   自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶      ︵都法四十七ー一︶  八五

(24)

入六

傾向をくつがえすことはできない︒しかし︑憲法の企図とその他の法の企図は︑精確な操舵をなしとげることができ

る︒憲法による教育制度の方向づけと︑教育による社会の方向づけは︑この社会におけるコンセンサスが連続的に発        ︵注1︶ 展するプロセスの部分である︒﹂︒教育において国がその果たすべき役割を果たし︑しかも︑両親の教育権とのバラン

スをとるためには︑法による精確な操舵が必要だというのである︒また︑法による操舵と教育システムとの調和を図

ることも必要だというのであろう︒

 このように︑ボーテは︑システム論を基盤にしているけれども︑システムのはたらきに任せておけば︑社会の諸問

題が解決すると考えているわけではない︒法による操舵がなされてはじめてシステムが機能すると考えているのであ

る︒そして︑システムが機能してはじめて︑社会の諸問題が解決されるというのである︒法による操舵において中心       ︵注2︶ 的な役割を果たすのは︑国である︒ボーテは︑教育システムが法的操舵になじまないことを指摘していたが︑それは︑

法的操舵が不要であるという主張に行き着くものではなくて︑かえって︑法的操舵の必要性︑そこにおける国家の役

割の重要性を踏まえた指摘だったのである︒

︵注1︶ 巨合知巴ロo夢P国区Φけ已お゜︒③巨ゴ躍已己国﹃N﹂Φ已編ω日品ω富ぴ●2︒︒合巳Φ51 守Φ芦Φ﹂註合05<2皆゜︒°︒已品゜︒°︒富ρ戸ノ︶θQ力品↑O♪oQ°

 ︽心︒°この箇所からも︑システム論がボーテの報告を支えていることが確認できる︒

︵注2︶ ロo夢PPPO°°Q﹄○︒

(25)

第二章 ディットマンの所説

第一節 学校の教育委託と教育尺度の問いの必要性

   ディットマンは︑自由な立憲国についての次のような印象を述べることから議論を始める︒﹁自由な立憲国にはー        ︵注1︶︵注2︶   そのように見えるのだがー﹃教育への勇気︵呂巨N巨国区Φゴ已ρoq︶﹄が欠けている︒﹂︒ディットマンのこの印象は︑単

  なる思いつきではない︒彼はつづけてこう言う︒﹁この印象は︑たとえば︑強まりつつある︑暴力を行使する用意の

  あることや︑政治的過激主義への傾向のような︑社会の誤った方向への発展の中に︑教育の︵国区9巨o︒︶危機を確

  認し︑また︑この関連において︑まさに︑学校の教育が不足していること︵国区Φ巨白oq°︒qΦ昔﹂8︶さえも指摘すると

.  ころの教育者︵勺匿諾OoqΦ⇒︶と教育政策家︵ロ匡巳巨o︒°︒bo巨声Φ日︶の批判的な現状調査のあとを追っていくならば︑お

       ︵注3︶   のずと胸にわいてくる︒﹂︒つまり︑はじめに掲げたディットマンの印象には根拠がある︑というのである︒

 こうした教育者や教育政策家の主張は︑デイットマンの紹介によれば︑おおよそ次のようである︒解放を目指す教

育︑また︑学問に偏った教育ではなくて︑諸々の基本価値を強力に伝達すること︑並びに︑性格教育と気質教育を目

指すことが︑もう一度︑学校の任務とされなければならない︒また︑学校は︑生徒たちの私的な利益のために仕える

だけではなく︑同時に︑公的な利益にも役立たなければならない︒とりわけ︑婚姻︑家族︑国家のような諸制度との

結びつきを育成しなければならない︒これらの基本的態度を伝達することが︑一九六〇年代と七〇年代の教育政策の

   自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶      ︵都法四十七−一︶  八七

(26)

八八

      ︵注4︶ 中でおろそかにされてきたことは許し難い︒

 ディットマンによれば︑こうした主張が教育政策を通して受け入れられることに伴って︑また︑こうした主張が学        ︵注5︶ 校の授業のために法的に言い換えられることに伴って︑憲法上の議論の寄与も必要となるのは不可避である︒憲法

は︑こうした主張と無関係でいることはできない︑というのである︒ディットマンはつづけてこう述べる︒﹁遅くと

も︑﹃法治国における学校︵°︒合幕日國①合け゜・乙︒§ひ︶﹄をめぐる七〇年代の活発な議論以来︑内的学校事項及び外的学

校事項の問題は︑教育学︵国邑Φ巨品゜・ヨ゜︒°︒巴屯︒9昌︶と教育政策の独占する領域ではなくて︑自由な立憲国の憲法秩

序という尺度付与によって︑つまり︑ドイツにおいては︑連邦において︑また︑諸ラントにおいて︑連邦国家的に分        ︵注6︶ かちもたれている憲法秩序という尺度付与によることを優先して︑答えられるべきところの法的問題でもある︒﹂︒す

なわち︑学校教育は︑教育学や教育政策の問題であるだけではなくて︑法的問題でもある︑しかも︑自由な立憲国の

憲法秩序に応じて答えられなければならない法的問題である︑というのである︒そして︑ドイツにおいては︑自由な

立憲国の憲法秩序は︑何よりもまず連邦国家的な憲法秩序である︑というのである︒

 そうだとすれば︑学校の教育委託と教育尺度の問いは︑憲法学にとって︑是非とも問わなければならない問いであ

る︒この問いは︑誰が学校教育の内容を決定するのか︑また︑いかなる内容が学校で教育されるのか︑という問いだ

からである︒ところが︑ディットマンによれば︑学校の教育委託と教育尺度を原理的に問うことは︑これまで︑一般

には考慮の外におかれたままであったのであり︑一九八〇年代の初めにはじめて︑当時の基本価値論争の周縁で︑通        ︵注7︶ りすがり的に︑一時的に視界に入りこんだにすぎない︒このような状況のままで良いはずはない︒ディットマンによ

(27)

      ︵注8︶ れば︑このような状況は︑憲法的に修正されなければならない︒こうして︑ディットマンは︑学校の教育委託と教育

尺度を問う必要性を明らかにした︒ ・

︵注1︶巴邑旨O彗日曽β曽N﹂︒巨編゜︒蝉鼻﹃温ら50国巨︒已田゜︒日品゜︒冨亘巳20力昌己o冨旨︒芦①﹂昌臼Φ⇒<魯壁゜︒°︒戸50q°︒c・9鼻≦已゜︒昂い㎝古

  一q⊃⑩㎝Qo°︽Oo° ︵注2︶ ディットマンは一九七八年にボンで﹁教育への勇気︵呂巨N烏国区Φ巨50a︶﹂という討論会があったことを紹介している︒

  ︵﹈∪一﹇け﹃P知目餌゜旬゜OJoり゜吟o◎.︶︒デイットマンの言い回しは︑この討論会のことを念頭に置いている︒

︵注3︶ O買目曽戸PPOこ゜力゜︽°︒°

︵注4︶ 以上 O声詳目曽戸PPO°o力゜︽○︒ヂ ︵注5︶O買目3PPρ゜︒込゜︒° ︵注6︶ O彗日曽戸PPPo力o力゜吟゜︒ムΦ゜ディットマンの本報告においては︑内的学校事項は︑教育の内容にかかわる事柄を意味し

  ており︑外的学校事項は︑教育の組織の形成にかかわる事柄を意味している︒

︵注7︶ O葺日碧長PPρ゜︒°中⑩゜エヴァースとへーベルレのモノグラフが例外として掲げられている︒O彗日ρ§PPOこ゜力゜ふ叉

  呵5°や及び呵⇒°°︒° ︵注8︶ O葺日日戸PPρ゜︒°芯゜      .      

第二節 自由な立憲国における学校の教育委託

1 原理的な問いの提起

右の理由によって︑学校の教育委託と教育尺度は︑憲法の観点から問われなければならない︒デイットマンは︑次

のように問いを立てる︒﹁憲法的な議論は︑学校には自由な立憲国において︿そもそも﹀教育委託︵卑N﹂oゴ巨o︒°・−

   自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶      ︵都法四十七−一︶  八九

(28)

九〇

巴啓日oq︶があり得る︿かどうか﹀︑すなわち︑学校の教育委託・養成委託︵bd 合編゜︒ー巨q﹄已゜︒巨合品゜︒芦日綴︶を越

えて︑生徒の一般的な人間的な発展を目標として影響を及ぼすことは︑国家の任務であり得るかどうか︑という原理        ︵注1︶ 的な問いを︑まずはじめに提起しなければならない︒﹂︒ディットマンは︑﹁原理的な問い﹂を議論の出発点とするの

である︒

︵注1︶ 巨日旨O葺日碧日卑Nδゴ已田゜︒芭巨目σ︒︑巨己国区Φ巨㊤∋品゜︒.書OΦ﹃Q力合巳o巨守Φ芦Φ巨○庁o⇒<o叶S器゜︒已お切゜︒冨9ノ︶θ︒力品P㎝古G力゜  心⑰︿﹀の中は原文イタリック体︒

2ロ昌合⇒ooと国区①巨昌oo

 この原理的な問いには︑﹁ロ巨q旨o︒﹂という概念と﹁卑恩Φ巨嵩﹂という概念とが関わっている︒この問いにおいて        ︑ ︵注1︶ は︑﹁ロ巨巨oq﹂﹁を越えて﹂﹁国巨書已編﹂も国家の任務であるかどうかが問われているからである︒ディットマンは︑

両概念についてこう述べる︒﹁切巨巨o︒と卑Nけ巨編の概念を︑ひとつひとつ議論し︑また︑限界づけようとすること

は︑ここでは︑もちろん︑希望のない大胆な試みであろう︒なにしろ︑それらの概念は︑そもそも︑精神史のもっと

も正体不明のものに属しているのだから︒われわれのテーマにとっては︑胃N芯巨編とロ 合⇒o︒は︑ある人間像を実        ︵注2︶ 現しようとつとめ︑また︑それに伴って︑不可避的に世界観的な内容をもつという︑原理的な確認で十分である︒﹂︒

両概念を明確に区別して定義づけることは︑ドイツ人にとつても困難なことのようである︒われわれも︑今は︑ディッ

トマンの忠告にしたがって︑この原理的な確認で満足して︑彼の議論をたどることにしよう︒

(29)

 ディットマンは︑両概念を分析することを完全に断念しているわけではない︒﹁両者︹国区Φ巨這とロ昌合50q︺は︑

傾向上︑︿他者決定︵寄Φ日qぴo°︒﹇§巨oq︶﹀をねらっている︒卑Nけゴ巨o︒は︑それに加えて︑より強く︑拘束に方向づ

けられている︒卑N⌒Φ巨梶には︑常に︑適応の要素が内在する︒ひとが︑このことを︑社会的な行為態様に向けての       ︵注3︶ 適合と理解しようとも︑そうでなければ︑特定の秩序観念を確信していることに向けての適合と理解しようとも︒﹂︒

第一に︑ディットマンによれば︑両概念の共通点は︑他者決定を意図することである︒﹁ロ法巨o︒﹂においても︑﹁国邑?

庁巨oq﹂においても︑教師︑あるいは︑親が︑ある人間像を実現しようとして︑子供に働きかけるのであるから︑確

かに︑これは︑・子供の側から見れば︑自己決定ではなくて︑他者決定と言うべきである︒第二に︑ディットマンによ

れば︑両概念の相違点は︑﹁国区Φ巨⇒oq﹂の方が︑価値︑秩序観念︑社会的な行為態様への拘束により強く方向づけら       ︵注4︶ れている点である︒この点についてディットマンの言いたいことは︑次のように理解できる︒いわゆる﹁しつけ﹂も

教育には含まれる︒︑﹁しつけ﹂は︑価値︑秩序観念︑社会的な行為態様と密接に結びついている︒こうした性格を有

する﹁しつけ﹂を含むのは︑﹁巨q巨o︒﹂ではなくて︑﹁寄N戸Φ巨⇒o︒﹂である︒そこに両概念の違いを見て取ることがで

きる︒ディットマンの言うところは︑おおよそこういうことであろう︒

︵注1︶ この問い方からすると︑﹁bd自曾50︒﹂が国家の任務であることはディットマンの本報告においては当然とされているもの  と思われる︒      .      

︵注2︶ §O彗日③目吉国区9∈お゜︒知鼻﹃躍ピ5口国区︒巨お切日品゜︒富ぴq2︒力合巨Φ日時Φ日Φ巨合Φロ<2S°︒°︒︹5陪゜・・8戸ノ︶臼あ白PO♪

 o力GQ°吟q⊃ーmO°

︵注3︶ O法日碧5PPO°Ooσ㎝O°︹︺の中は筆者が補った言葉である︒

︵注4︶ <σ︒↑・O戸詳日曽βPPOこQ︒°ベト︒°における要旨の2︒

  自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七ー︑一︶  九一

(30)

九二

3 自由な立憲国に教育委託は認められる

 さて︑﹁ロ旨巨o︒﹂と﹁国艮︒巨品﹂についての分析を踏まえて︑学校の教育委託が国の任務であり得るかという上

述の原理的問いに立ち戻って︑ディットマンはこう述べる︒﹁国の教育委託に対する原理的懐疑を呼び起こすところ

のものは︑他者決定というこの観点である︒たとえ︑この懐疑が︑歴史上のネガティブな経験をよりどころとするに       ︵注1︶ せよ︑あるいは︑教育︵国区Φ巨編︶に関して国が原則的に無能力であるという推量をよりどころとするにせよ︒﹂︒

教育に内在する他者決定という要素は︑個人の自律という要請と衝突し得るのであるから︑国の教育委託に対して原

理的懐疑を抱くのは︑確かに︑きわめて自然な考え方である︒

 ここで︑ディットマンは︑﹁自由な立憲国﹂に目を向けて︑この懐疑にこう答える︒﹁自由な立憲国は︑この懐疑を

分かちあわない︒自由な立憲国は︑その観念にしたがっても︑その歴史にしたがっても︑教育委託に対して消極的で    ︵注2︶ はなかった︒﹂︒こうして︑ディットマンは︑自由な立憲国には教育委託が認められていると言う︒彼によれば︑その

根拠は︑﹁観念﹂と﹁歴史﹂である︒ところで︑デイットマンがはじめに立てたのは︑上述したように︑原理的な問

いであった︒原理的な問いには︑原理的な答えを与えるのがふさわしいように見える︒しかし︑彼は︑答えを原理的

に与えるのではなくて︑観念︵これは原理的にも見えるが︑彼が述べるのは︑これからみるように﹁観念が保たれて

きたこと﹂である︒それゆえ︑これも精確に言えば︑観念の歴史︑すなわち︑歴史の一部である︶と歴史によって答

えを与える︒それでは︑ディットマンは原理的に答えることを断念しているのかというと︑そうではない︒実は︑

ディットマンは︑原理的な答えを用意している︒しかし︑その答えが明かされるのは︑ディットマンの報告の最後の

(31)

       ︵注3︶ 部分においてである︒そこで︑われわれも︑ここでは︑原理的な答えを求めることはせずに︑引き続き︑ディットマ

ンの言うところに耳を傾けることにしよう︒

 ﹁観念﹂と﹁歴史﹂について︑ディットマンは︑上の叙述につづけてこう述べる︒﹁少なくともドイツにおいては︑

国が学校を営む伝統は︑立憲国の確固たる構成要素である︒この伝統は︑学校の教育委託と教育目標を規範で確立す

ることを含めて︑外的学校事項と内的学校事項に︑同じように関連している︒ドイツの学校制度に特徴的なのは︑国

家とのいたるところでの緊密な結合である︒⁝ドイツの国家性のすべての憲法史上の段階を越えて︑国はその市民に

対して教育任務を果たさなければならないという信念が︑引き続き保たれてきた︒国は﹃校舎﹄を建てるだけであっ        ︵注4︶ て︑校舎の規則にはもはや影響を及ぼさないという観念は︑ドイツの学校制度になじみのないものである︒﹂︒ディッ

トマンは︑まず︑﹁伝統﹂︵﹁伝統﹂という言い回しが用いられているが︑意味することは﹁歴史﹂と同じである︶に

ついて語り︑つづけて﹁信念﹂︵﹁信念﹂という言い回しが用いられているが︑意味することは﹁観念﹂と同じである︶

と﹁観念﹂とについて語る︒内容的に考えれば︑先に述べたように︑ここで言うところの﹁信念﹂や﹁観念﹂は︑そ       / れらが保たれてきたという﹁歴史﹂や﹁伝統﹂である︒また︑﹁歴史﹂や﹁伝統﹂もそれらを支える﹁観念﹂や﹁信

念﹂なしに存続したはずはない︒そうだとすれば︑ディットマンの本報告においては︑両者は相互に密接に関連して

おり︑はっきりと区別できるものではないと思われる︒

 ここで︑デイットマンは︑再び﹁自由な立憲国﹂に目を向けて︑こう述べる︒﹁まさに自由な立憲国も︑完全にこ

の伝統の中にある︒したがって︑すでにワイマール憲法が︑詳細な教育法の準則を︑並びにーワイマール憲法一四八

   自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵二︶       ︵都法四十七−一︶  九三

(32)

九四

       〜       ︵注5︶︵注6︶ 条において1教育目標を決定するという立憲国の先駆的な業績を含んでいた︒﹂︒しかし︑ドイツにおいては︑ワイ

マール共和国以降も︑自由な立憲国とは言えない体制が存在した時期があった︒ナチズムと旧東ドイツである︒これ

について︑ディットマンは︑右の叙述につづけてこう述べる︒﹁しかし︑とりわけ︑一九三三年以降の全体主義国家

における学校についての経験︑並びにー最近の1社会主義における学校の決算は︑自由な立憲国にとって︑学校を国

の後見から解放する誘因であったのではなくて︑1全く逆に1学校教育を︑自由な立憲国の意味において道具として         ︵注7︶ 利用する根拠であった︒﹂︒

 自由な立憲国が学校教育を自由な立憲国の意味において道具として利用していることについて︑ディットマンは︑       ︵注8︶ 次の二つの証拠をあげる︒ひとつは︑三九四六/四七年の諸々のラント憲法﹂である︒それらのラント憲法は︑﹁⁝

教育委託と教育目標を︿憲法上に﹀据えることによって︑それら︹教育委託と教育目標︺の特別の重要性︑また︑新       ︵注9︶ しい構想を可能な限り長く守る意思を文書で証明する︒﹂︒もうひとつは︑再統一された諸ラントのラント憲法と学校

法である︒﹁新しい諸ラントのラント憲法と学校法においても︑学校の教育委託はーしかも︿すべての﹀ラントにお        ︵注10︶ いて1力点を置いて強調されている︒新しいラント憲法は︑すべて︑学校の任務としての教育の概念を避けていな

︵注11︶ い⁝﹂︒

 以上の議論から︑ディットマンは︑次のように結論づける︒﹁したがって︑伝統と規範上の要求を背景にすると︑

自由な立憲国の学校に教育委託を与えることは正当化されている︑と自由な立憲国は自分のことを考えているという          ︵注12︶ ことが︑固く保持される︒﹂︒すなわち︑自由な立憲国は︑上述の伝統の中に位置づけられる︒しかも︑現在のラント

参照

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