社 会 科 教 育 と 教 育 権 独 立 論 (Ⅱ
) 社会科教育教室 糸田じ
前稿 (第16巻 第
1号
)に
述 べ た如 く、国家 の教 育権 の存否 と,そ
の本 質 は,社
会科教 育 において特 に重 要 な意味 をもつ教 師 の教 育権 の独立
(PadegogiSche Freiheit des Lehrers)を
考 察 す る上 で重要 な論点で あ り前提 で あると考 えるので、前稿 の親義務論・特別権 力関係論 にひ きつ づ いて,学
校 経営近代化論 ・公教育論 ・教 育 の 自由否定論 。国民主権論等 々の立場 か ら更 に検討 を 加 えてみた い。 さらに本稿 で は国家 の教 育権 と国民の教 育権 の関係 の一部 につ いて も論 を進 めてみ た い。3,国
家教 育権 論 国家教 育権 論 の理論的根 拠 の第二 は,学
校 経営近代化論 で あ る。学校 経営近代 化論 は,伊
藤 和衛 氏 の主張 で ある。伊藤氏 によれ ばμl)特 別権 力関係 論 は「絶 対主義 国家 におけ る官俯支配 を弁護す る理論であり」,「
反動理論」である。そして営造物理論は,「
昭和38年6月 8日地方自治法の一 部 を改正する法律案が法律第99号として成立するにT9・よび,地
方自治法関係の実定法から,一
斉に 営造物 とい う用語が消滅 し,代
わって『公の施設』 という用法が生 まれた」ので「実定法上の根 拠がなくなった」。そこで新 しく「上下の特別権力関係 を断 ち切 る」学校管理の理論として,学
校 経営近代化論が考えられるのであるという。つまり,「
教育行政への特別権力関係論の導入による 弊害の除去 を意図 した」 もののようである。 では,学
校経営近代化論 とはどのような理論だろうか。 学校経営 は明治以来の「経験 と勘」 という前近代性でなされていた。それに「合理的なすじ道 を つけ近代化」するために,F・ W・
テーラーの提唱 した科学的管理法 を現代教育の管理 に適用 し たものである。その目的は憲法第26条が保障 している子 どもたちの基本的人権である「教育を受け る権利」 を満 た してやることであるとする。 学校経営の近代化 とは,学
校経営の民主化 と合理化=能
率化である。すなわち,「
経営の主体的 推進力となる教職員集団」 についていえば,「
自由にして平等 な自発性のあるエネルギーを燃や し て経営 にか加すること」 (民主化)で
あるし,「
経営の組織的機能的側面」では,「
学校の仕事を ますます技術化 し能率化 して効率を高めること」 (合理化)で
あるとす るざ※2) 学校 経営近代化 の内容 は,ば序 校 経営組織 における職務権 限関係 を明確 にす ること,lH岸
校 経営 にお ける事務 の重要性 を認識 し,キ
チ ンと した業務分析,事
務量測 定 を基礎 とす ること,?り中心 は 注 (※1)伊
藤和衛「学校経営の近代化論」,明
治図書,1970,P98参
照 注 (※2)宗
像誠也他「国民 と教師の教育権」,明
治図書,1970,P166よ
り引用 折 [ ︼ ﹂ め はi
v
奢 ざ と “ 患細 川 哲:社会科教育 と教育権独立論 (Ⅱ) 教育課程の管理で
,前
近代的 な教育課程管理 の現状 を改め,合
理的 にす ること,そ
のためには内部 報告制度 などを活用す ること。学校経営近代化の方法は,管
理分析で あるとす るざ※3) この主張では,国
・都道府県・市町村・学校 とい う四重の重層構造 をもつといいなが ら,視
野 を 学校内部 に限定す る。 そ して,学
校では校長 (経営層),教
頭・各部長・各主任 (管理層),教
職 員 (作業層)と
い う三層 が存在す ることを説 き,そ
れぞれの職務権限 (と くに管理層 の)を
明確 に す ることによって学校の経営管理 が円滑 に成就 され,そ
れがひいては児童・生徒 の教育 を受 ける権 利の保障 につながるとい うので ある。 この,学
校経営 の近代化論の提唱す る職務権限の明確化は,た
とえば,「
週案作成」,「日案作成 」で,立
案→打合せ→連絡→記録→検閲 (校長・教頭)と
い うルーテ ィー ンを確定 し,教
師 にこれ を遵守 させよ うとす るが,学
校内部 に支配・服従関係 が前提 とされ, また雑務排除の観点 がそこに 貫徹 されていないため,厖
大 な しごと量 に苦悩 す る現場教師 に,実
りの ない形式事務 をいたず らに お、やす効果 しかもた らさず, さらに教師の 自主的 な教育含J造への努力を阻害す ることになりかねな い。 さらに,こ
の論の基本的誤謬 は,教
育,ひ
いては教師の職務 と責任 には特殊性 があ り,企
業 と 学校 とは組織騰造 が本質的 に相違す るとい う認識 が,欠
落 しているとい う点で ある。 すなわち,学
校教育の中核 的 な部分 を直接担当 している教師 (教諭)の
職務 は,真
実 に貫 ぬかれ 人間性 にみ ちた教育内容 を,科
学的 な方法で児童・生徒 に教 え,同
時 に予測 を超 えた児童生徒 の可 能性 を発達 させ る専門的 な仕事で あるが,そ
こでは担任教科の如何 や経験年数の長短 を問わず教師 の職務 と責任 は全 く同一で ある。校務分掌上の役割の違 いをもって上下の格付 けの根拠 とす ること は右の点 か ら全 く誤 りとい うべ きで あって,教
師の間 には本質的 に上下関係 はないとしなければな らない。 このことは,か
って教育公務員特例法 が制定 された ときの提案理 由に,「
教育 が永遠の課題 を担 うものであ り,そ
の時 々の現実的必要 を超越す る,ま
たはすべ き特色 があるところから,教
師は法 令の範囲内で創意 と工夫 をもって,自
律的 に教育 を行 な うことが必要で ある。教員の職務は,責
任 において濃淡軽重の差 があるはずはな く,同
一責任 が要求 されるもので ある」 と述べ られている点 か らも明 らかで ある。 このよ うな意味 において,学
校経営近代化合理化の名の下 に,校
長一教頭―主任教師一一般教師 と系列化す る学校重層構造論 は問題で あるといわなければならない。 学校教育組織の階層性 を強化す ることによって,学
校経営管理 が近代化合理化 され,そ
れがひい ては,児
童 ・生徒 の「教育 を受 ける権利」の保障 につ ながるもので あるとし, しかも,こ
の「教育 を受 ける権利」 は,「
社会権」で あり,そ
の権利の保障 は,国
家 に作為 を請求 す ることで あるから, 国家 が教育全般 にわた り介入す るのはむ しろ当然のこととして, この学校重層構造論 と合せて,国
家教育権論 を論証す ることも,筆
者 としてはi承
認 し得 ないところで ある。 国家教育権論の理論的根拠の第四は,公
教育論であり,教
育の公的性格 に求 め られる。 すなわち,伊
藤和衛氏 は公教育 につ いて次のよ うに述べている。 「公教育 とい うのは私教育の ことではない。だから家庭や塾 の教育のように教育す るものの自由 な立場 は通用 しない。公教育の主人公 は教師ではない」。「教育基本法第10条第1項
や同6条に明 o r e ▼ 歳 亀 留 , ゛ 注 (※3)宗
像,前
掲書,P167か
照鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第16巻 第2号 定 されている」よ うに
,「
国民全体 であ り,都
道府県や市町村の住民」で ある。「 その教育の考 え 方や要求 が反映す る公法上の正当 な教育行政機関 と して文部省や教育委員会がある」。 したがって, 「教育の内容 に限ってそれは教師個 人の 自由に委せてよいとい うことにはならない」のであって, 文部省や教育委員会の決めた「教育内容上の基準 とい うのは教師たちも尊重 してこれに従わなけれ ばならない」∵4)さ らに,「
国民は,み
ず か ら行 な うことので きな くなった教育の一部 を他 の者 に 付託 し,そ
の付託 された者 を介 して公教育 を実施 す るのである。そ して,こ
の教育 を付託 された者 は,ま
さに国家であるといわなければならない」 とし,そ
の ことか ら必然的 に国家 が教育内容 に関 与で きる し,「
憲法26条によって保障 されている子 どもの教育 を受 ける権利 も,同
時 に国家 に対す る教育 を受 ける義務 (就学義務)と
しての側面 を有 している」こととなるとす る。 さらに,現
代の公教育は1教
育 をもはや単 なる個人的利益 にかかる私事 と して放置すべ きもので なく,社
会の基本的 な共同利益 にかかわる国民的関心事 とし,こ
れを国家的規模 で組織化 したもの である。 それは,国
民 が自己の子弟の教育 に対す る権能の一部 を国家 に付託 す ることによって行 な われる。 したがって,国
は単 に施設・設備等の整備 にとどまらず,教
育内容 にも関与 する権能 を有 す ることは当然の帰結 と言 うべ きであるとい う。 そ して,公
教育思想の根本 には近代国家の成立発展 に伴 ない,教
育の もつ社会的機能 が国民全体 によって深 く認識 されたことが指摘 される。すなわち,教
育は,次
代の社会の よ りよい後継者の育 成のために,そ
れまでのよ うに教育 を単 なる個人的利益にかかわる私事 として個 々の親 に委ねるの ではなく,社
会の基本的 な共同利益 にかかわる国民的関心事 として,国
家的規模 で これ を組織化す ることが必要であると認言哉されて きたので あるとされている。 このよ うに して国家 が司法制度 を定めた り,公
衆衛生施設 を整備 した りす るの と同一の意味 をも って,教
育 についても国家 自らがその事業主体 と して登場 し,公
教育制度 を組織 し,運
営 す る方向 に進 んだ。そこでは,国
家 は,1社会的地位 や経済的事業 にかかわらず,す
べての国民に対 してその 能力に応 じて教育の機会 を与 え,国
民 として共通 の教育 を施すよ う教育 を強制 し (義務性),こ
れ を公費で負担 し (無償性)1ま
た政治的宗教的 には中立 (中立性)の
原則 をつ らぬ くこととなる。 したがって,「
公教育では,教
育の私事性 と同義 をなす教育の自由はもともと問題 となる余地 がな いとい うべ きで ある(※ 5)」 として公教育で あることを前提 に国の教育内容への関与の権能 を認 めて いる。 この公教 育論 による国家教育権論 は,一
部傾 聴 にあたいす る面 は あるが1公
教 育 で あ ることを理 由 に国家 に,当
然教 育権 が存在す るとい うことは,問題 で あ る。以 下 この点 につ いて検討 を進 めてみ た い。 一般 に公教 育 とい う場 合,国 ,公
立学校 の教 育 のみで な く,私
立学校 の教 育 をもこれ に含 め るが, これは,今
で は私立学校 も公共 的教育機 関 と して国,公
立学校 とほぼ共通 の規制 を受 けて いるので あ る。公教育は,国によ り,それぞれ成 立の事情 や発達 の経過 を異 に しているが,おおむね,19世 紀末 か ら20世 紀 にかけて将来 の庶民学校 を母体 とす る義務教育制度 を中心 に,す
べ ての国民 を対象 とす る国民教 育制度 と して形成 されている。 その成立 の過程 をふ まえ,公
教育の本質 をみてみ た い。 注 (※4)伊
藤,前
掲書,PP 65∼67参照 注 (※5)高
橋恒三,「
教師の権利 と義務」 第一法規,1972,PP46∼
47か 照哲:社会科 教育 と教育権独 立論 (Ⅱ) 公教 育 が成立す る近代 において
,教
育思 想 の本 質 的 な部 分 は,堀
尾輝 久氏 によ る と,「
人権 思 想 の系 と しての子 どもの権 利 の確認 と,そ
の教 育的表現 と しての学 習権 ない し教育 を受 ける権 利 の主 張,近
代 的親権観 の成立 」(※6)に よ り,親
は,子
ど もの権 利 を実現 す るための現実的配慮 の義 務 を 負 い, この子 どもにたいす る義務 を第一次的 に履 行 す る権 利 をもつ もので あ るこ と,そ
して,こ
の 権 利 は親 の 自然権 に属 す る とされ る。教 育 の 目的 は,公
民 の育成 で は な く, と りわけ人間 の形 成 に おかれ る。教 育 とい う言葉 は,人
間の 内面形 成, と りわ け徳 性 の涵養 を中心 とす る全面教育 を意味 する。 かかる人間の内面形成にかかわる問題 は,国
家権 力の干渉 してはならない「私事 」 とされた。 以上の原則 から必然的 に,「
国家 が教育 を主宰 し,指
導す ることは,自
己の任務の限界 をおかす も の として否定 された。 その結果,絶
対主義下の公教 育はもとよ り1古
代共和国 における公教育 も, 国家 が全面教育 をひ きうけ,人
間の内面 にまで立 ち入 ることになるか ぎり否定 された。教育方法 と しては,子
どもの学習の権利の確認 と並行 して,子
どもの自発性 が尊重 され,つ
め込み主義 が否定された
(消
極教育 I'6ducatiOn nも gat e)。 これ らの諸原則 を生 かすための教育形態 としては,家庭で
1親
または家庭教師 による個人指導 が理想 とされた」鞣7)と指摘 している。 しか し,か
かる近代教育原則からみちびかれる教育形態は,家
庭教育 を唯―の もの とす るのでは なく,新
しぃ条件 と現実の必要 に即 して教育形態 は変様 され,家
庭 の教育機能は、やがて,学
校 に ゆだね られる。 近代 (教育)思
想は,自
然法的・普遍的性格 をその主要 な特色 としているが1人
間の権利 とは, 子 どもをふ くみ1あ
らゆる種類の人間をふ くんだ人類すべてに共通 す る権利である。教育の権利 に悪
じ
二
票
浄
2三 ;竺
サ
負
3こど
蘇
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二
身
ぢ
七
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塚
ヨ
藤
場
を
奪
「この願いを各家庭 にゆだねて安心す るには,近
代 の現実 は,あ
ま りにきび しい。家庭 が正常道切 な教育 を十分おこないえないばあいには,教
育の機能 は,そ
のための機関 に委託 されな くてはなら ない。 こうして学校 はまず,家庭の延長,ない し,家庭の機能 を委託 された機関 として成立す る」係9) ことになる。 か くして1公
教育 が成立す るので あるが,こ
の公教育 はコン ドルセ(M.Condorcet)に
よると, 「平等主義 」,「普遍主義 」がその前提 をな している。 他方1子
どもを保護 し教育す る権利 が「両親の 自然権 」に属 し,そ
れは同時 に,「
自然 か ら与 え られた義務で あり, したがって放棄す ることので きない権利 」だ とされるが しか し, この放棄す る ことので きない自然権 の行使は,親
の恣意 を許 し,そ
の結果教育的偏 見を生むおそれがある。 「タ 庭教育の うちに生ず る偏 見は,社
会の自然的秩序 の一つの結果で あ り,知
識 を普及す る賢明 な教育 (公教育)は ,そ
の治療である」挙10)こ ぅしてコン ドルセ においては,公
教育は,家
庭教育 の延長 で あり,そ
の機能 を有効 にす るための代替物であ り,偏
見をなおすための集団化 (親義務 の共同化 )と して構 想 されている。 したがって,こ
の ことによって,親
の 自然権 (教育義務)は
放棄 された (※ 6 (※ 7 (※ 8 (※ 9 堀尾輝久,「
現代教育 の思 想 と構造 」, 堀尾輝久,「
現代教育 の思想 と構造」, 堀尾,前
掲書,P10参
照 堀尾,前
掲書,P10参
照 堀尾,前
掲書,P■
引用 岩波書店,1972,P8参
照 岩波書店,1972,P8参
照 細 川 注 注 注 注 注 (※ 10)鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第16巻 第2号 のではなく
,む
しろ,新
たな形式のもとでの実現だと考えられた。 さらに,学
校は租税 (公費)に
よって設置 される。それは「社会の義務であり政府の義務」だからである。公費学校は当然無料で ある。このような「学校が公立学校であり,そ
の体系が,公
教育制度」にほかならないとするが※11) だから,こ
のような公教育制度は,国
家権力の強い統制下におかれる「公教育」とは文↓立する。 「政府によって与えられる偏見は,真
の暴政であり,
自然的自由の うちにもっとも貴重な部分の一 つに文↓する侵犯」(※12)だ とされる。 政府が公教育を統制 してはならない理由はもう一つあげられる。それは,「
人類の無限の進歩の 可能性」の系としての「新 しい世代の権利」の主張であるとし,「
教育は,……既成の意見を承認す ることではなく,逆
にそれは,つ
ぎっ ぎに現われる世代の,
しかもいよいょ明知なる世代の自由な 吟味に既成の意見をさらすということでなければなら .ない」。 したがって,政
府 (公権力)も
,「
どこに真理が存 し, どこに誤謬があるかを決定する権利をもたない」。こうして,か
れの公教育論 は,教
育の公権力からの独立論にその主要な特色があると考えられる。 公教育の権 力か らの独立論とならんで,も
う一うの主要 な特色 は,公
教育それ自体の限定論で あ る。かれにとって も,教
育 とは,全
面教育であ り,内
面形成 (徳育)を
中心 とす る人間教育 を意味 した。 ところで公教育は,人
間教育のすべてを引 き受けることはで きない。それば「良心の権利」 に反 し,「
親の 自然権 を犯す」 ことになるとす る鮮13)なぜ なら,親
のその 自然権 を公教育に全面的 にゆだねたのではないか らである。 こうして教育 (徳育)と
知育が区別 され,公
教育は知育 に限定 される。知育の重視は17世紀以降の科学の発達 と啓蒙の思想に支えられていたが,同
時 に公教育を 知育に限定す ることは良心の権利,内
面の 自由を外的圧 力か ら守 るために必要だと考えられたか ら である。 こうして,コ
ン ドルセの公教育論は,公
教育 と国家 (権力)と
の関係 における権 力の限定論 (公 教育の独立論)お
よび,公
教育それ 自体の限定論 (知育のみ)の
二重構造 になっていた。 このコン ドルセの公教育論は,「
公教育それ 自体の限定論」 には問題があるにしても,現
代 にお いてなる示唆に富むものであると考える。特に,教
育形態 が私的な家庭教育か ら,公
立学校等 によ る公教育へ変化 したとはいえ,そ
の こと自体 は,近
代教育思想の具体的展開として とらえられてい ることは,重
視すべ き点である。す なわち,学
校は家庭の延長で あ り,そ
の機能の代替であ り,別
の側面でいえば私事の組織化であり,親
義務の共同化で あるとす る把握である。 か くして公教育は,「
教育の私事性」 とは無縁の もの と考えた り,公
教育であることか らただち に,教
育のいっさいの事項 を国家に付託 したとの結論のもとに,国
家的教育権 を肯定す るのは早計 である。 従来,わ
が国では,公
教育 とは,「
公の支配 に属す る教育の うち,
とくに公共の資金で設立 され た施設で行なわれ,国
家,地
方公共団体の教育行政機関によって管理 される教育」(※14との規定 にみ られるように,一
般 に,国
家権 力ない しその管理 と不可分のもの として観念 されて きているが,こ
うした側面においてのみ理解す る理解の仕方は歴史的にみて普遍妥当性をもつものとは言いがたい。 注 (※H)堀
尾輝久氏 によ ると,近
代公教 育制度 を「私事の組織化」 ない し「親義務 の共同化」 と して とらえることがで きるとい う。 注 (※12)堀
尾,前
掲 書,P12引
用達
1策認緩
唇
導
全
綸
評
拝
言
抜
承
韓
盆
平
教
刊
,的
関
,P70引
用
哲:社会科教育 と教育権独立論 (I) わが国において
,従
来,「
公教育」 とい うとき,そ
の公教育の「公」概念の歴史的・社会的本質に 対す る吟味がほとんどなされることな しに,行
政府の主張す る「公教育 に対す る国の責任」の論理 を媒介 として,教
育政策が公教育の名において強制 されることに対 し, ともす ると安易にこれを受 容す る傾向が強かったのではなかろ うか。た しかに,わ
が国の これまでの現実か らみれば,公
教育 といわれる概念は,国
家権 力ない しその管理 とい う契機 とわかち難 く結びつ いているかにみ える。 けれども,た
とえば,イ ギ リスにおいて公教育(publiC education)と
い うとき,そ
こで連想す るイー トン,ハ
ロー とい うよ うな学校はいわば私立学校で あ り,公
権 力ない しその管理 とのかかわ りを直接には持 たないとい う事実を考えれば,「
公教育=公
権 力によって管理 される教育」 とい う 性格規定は,必
ず しも普遍妥当性 をもつ もの とはいえないよ うに思われる。 19世紀末以降20世 紀の初めにかけて,麒
米各国の教育法則 は一様 に新 しい展開をみせ るが,一
口 でいえば,児
童生徒の「教育 をうける権利」(right tO education )を
保障す る「公教育」 (public education)法
則の形成である。(※お) 19世紀末 には近代市民社会が大 きく変容 し,そ
れが教育界に決定 的な影響をもた らす こととなっ った。大企業 からの高水準大量教育制度の要請・ナシ ョナ リズムの高揚 にともな う愛国心教育の必 要・社会不安への対策などの諸理由か ら,も
はや私教育制度 に依拠す ることがで きなくなり,国
公 立学校を大幅に拡充す るとともにそこでの公教育的規律 を私立学校 にもおよば し全体 として公教育 制度に再編成す ることが必至 となったのである。 そ して これを支 える教育財政 もすで に用意 されて あった。その うえかかる公教育制度は,労
働者大衆の生活のための,お
よび普通選挙制をうらず け るための無償教育 とい う労働運動の要求 にもある程度 こたえる形 になったので ある。(※10 か くして各国教育法は,公
教育の法原理 として,「教育の機会均等」(equality of education―al opportunity)を
め ざす公教育の義務性 (義 務教育 compulsory edllcation,enseigne―ment obligatoire)
と無償性,お
よび「教育の中立性」 を定め,こ
れによって児童生徒の「教 育をうける権利」 を保障 し,そ
れだけ大幅 に私人の教育の 自由を制限す る しくみをとっている。 しかし,近
代公教育の祖 といわれるコン ドルセ が、「公教育は国民 に対す る義務であ り」(※1'「
教育の不平等は専制の主要 な源泉の一つである」(※お)と して,「
公教育は知育のみを対象 とすべ き 」(※19)であ り,教
育の 目的は「既存の思想を,絶
えず啓蒙の度を進めてい く相次 ぐ世代の 自由な検証握
ぞ
ta:逸
弓
と
ピ
上
こ
こ
iょ系
彗
と
R角
遊
参
析
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七
ぢ
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家
罷
弼
系
思
拒
渥
哲
択
旱
誓
亀
島
子
と
と
二
登
とは「国民主権の一部を景
J奪したことになる」
(※22と強調するのは
,市
民革命によって確立した近代
注 (※15)Massachusetts Act Of 1852, ウ ァージエア州のPublc Common School Act of 1870な
ど
,兼
子仁,「
法律学全集・教育法」,有
斐閣,1969,に
よればイギ リスのEIementary Edllcation Act of 1870,Edllcation Act Of 1902,1918,ア メ リカ各州の憲法および 教育法の意義はそのように理解で きるといわれる。 (※16)兼子,前
掲書,P27参
照 (※17)コ ン ドルセ,「
公教育の本質と目的」,松
島均訳「コン ドルセ・公教育の原理」所収, 1966,明治図書,P9参
照 (※18)コ ン ドルセ,前
掲書,P10参
照 (※19)コン ドルセ,前
掲書,P31か
照 (※20)コ ン ドルセ,前
掲書,P36か
照 (※21)コ ン ドルセ,前
掲書,P37参
照 (※22)コ ン ドルセ,前
掲書,P178が
照` 細 ,H 注 注 注 注 注 注 注
鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第16巻 窮2号
教育の原則を貫〈思想のたんてきな表明である。堀尾輝久氏の要約にしたがえば
:※231c子どもの権
利の確認
,②
公教育の権力からの独立
,
したがって
,③
公教育それ自体の限定論である。
もとより,こ
うした近代公教育の思想は,以
後 の歴史の展開の過程で,そ
の まま ミ順調に、実現 をみるので はない。それどころか,資
本主義が産業資本主義か ら独 占資本主義の段階に進み,行
政 権 の強大化が不可避 に進行す るの とともに,教
育への国家介入 もまた著 しくなって くる。 しか しながら,こ
うした国家介入 を肯定す る思想は,当
然のことなが ら,労
働者階級の反発 を招 き,彼
ら自身の中か ら生まれた 自己教育の思想によって批判の対象とされるに至 るが,重
要 なこと は,近
代公教育の思想が,労
働者階級 によって,よ
り発展 した形で担われ,そ
の実現の運動が展 開 されるよ うになったことで ある。す なわち,彼
らは,教
育がすべての人間の普遍的権利で あるとい うことか ら,そ
の実現のために,教
育機会 (学校)の
増大 とそのための経費を公費 (税金)を
もっ て まかなうことを要求 した。 なぜ なら,「
それが現実的 にもっとも有効であるだけで なく,理
念的 にも,公
費は,人
間労働の変形 したものだ とい う公費観 にたてば,そ
れが,労
働者 にそのよ うな形 で返 って くるのは労THll者の当然の権利だか らである」Ψ)そ して,公
費教育の主張 が近代教育思想の 核心である `権利としての教育ヾと結びつ いた とき,公
教育無償の原則 と,公
教育の政治的宗教的 中立の原則 とを生み出すので ある。 なお,公
教育の概念につ いては,多
様 な公教育 に共通 しているもの として,(1)そ の対象が一般大 衆の教育である。(2周家ない しは公的機関がなん らかの仕方で この教育 と関係 をもっている。(3)目 的がなん らかの意味で公的なものをふ くんでいる。(4)公費教育 ない しは,公
立学校制度 を建て前 と す る,等
をあげ得るЬ しか しこれは,公
教育の本質 を規定 したことにはならない。たとえば堀尾輝 久氏は次のよ うに批半」す るさ※25xl)につ いて,だ
れがその主体で あるかによって,そ
の質は決定的に 違 って くるし,(2)についても,国
家がどのよ うな仕方で教育 と関係をもつか,そ
の仕方こそ,公
教 育の質を決定す る。(3)について も同様で ある。 この よ うに,公
教育の概念それ 自体はこれ らを限定 しない。だか ら,誰
々の教育思想に公教育思想があるといっても,そ
れは意味 をもたない。た しか にそれが私教育 と対立 して用い られるときには,一
つの限定 された公教育を予想 している。 にもか かわらず,コ
ン ドルセ に明 らかなよ うに,近
代教育の原則 (私事性)そ
のもの もまた,そ
の 自己展 開の中で,一
つの公教育思想 を成立 させていた。 このことは,近
代教育を私教育 として一括す るこ とを無意味 にす ると同時 に,公
教育 とい うカテゴ リーで もそれを包合 しえないことを意味す る。 こ のよ うにみて くれば,「
それ 自体意味 あ りげな公教育 とい う用語 (したがって また私教育 とい う用 語)は
,ほ
とん ど何 も限定 してはいない」 ことになるとい うさ※26)か くして公教育概念の不明確性曖 味性 を指摘 しているが,い
ずれにして も,公
教育の歴史的社会的性格 からすれば,本
来,そ
の概念 には,国
家による統制や支配 とい う契機は,当
然 には合 まれず,公
教育なるが故に,た
だちに国家 教育権 を肯定す ることにはな り得 ないと考えられ る。 国家教育権論の理論的根拠の第五 は,教
育の 自由の原則 的否定の立場である。 それは,教
育の 自 由から生ず る弊害を強調す ることによって国家の関与の必要 を肯定 しよ うとす るものである。 まず,「
教師に教育の 自由を認めることは,教
師が個人的に真理 と考えることの 自由を認めるこ (※23)堀尾,前
掲 書,P224参
照 (※24)堀尾,前
掲 書,P242参
照 (※25)堀尾,前
掲書,P46参
照 (※26)堀尾,前
掲 書,P47参
照 注 注 注 注細)H 哲:社会科教育 と教育権 独立論 (1) とにほかならない」とし
,そ
れでは下級教育機関に要求 されるかたよらない教育をす ることがで き ず,そ
のためには国家の関与が必要であるとしながら,「
もちろんこのことは,国
家が真理を決定 すべ きであるなどとい うのではなく,教
育の適正 を確保す るための,い
わば消極的な意味における 関与を不可欠とするとい うのである」 という。 次に,「
教師の教育の自由を認めるかいなかは,教
育の中立性を維持・確保するために国家が関 与 した方がよいのか,そ
れとも国家の関与をつ卜除 し,教
師の完全な自由に任せた方がよいのか…:・・ という価値判断に帰着するのであり,こ
の問題は,教
育内容へ の国家の関与から生ずる利害得失と, 教師の教育の自由から生ずる利害得失とを比較考量の うえ決定 されるべ きである。そしてこれを決 定するのは,国
民の代表者たる国会であり,現
在の教育法制は,国
家の教育内容への関与を認めて いるのである」※2つ とする。 教育の自由がみちびきだされる源泉の一 と解 される憲法23条については「同条が下級教育機関に おける教授の自由を保障するものでないことは通説の認めるところであり,最
高裁・……も同様の見 解を示 している」 ということ,歴
史的に大学における教授の自由に限定され,下
級教育機関におい ては「大学における教育との差異」からこれをみとめることがで きないとするにある。 右の主張の うち,第
一段についての批判をみると二の批判がなされているよ※281第一点は,教
師の 教育の自由をみとめることが,い
かにも教師の恣意に任せるかのごとき表現をしていることである。 この点については,「
教育の自由を認める見解においても,け
っしてそのような趣旨ではない」 と し,被
控訴人第一準備書面にものべ られているごとく, 恣意の抑制は,「
国民相互間の情報交換, 批判および討議一―典型的には,教
師および教科書執筆者など,公
教育制度の営みに直接具体的に 関与する者同志のそれ一一 という,い
わば『思想の 自由競争』の原理に則ってなされるべ きであり 」,ま
た教育の自由とてい触 しない国の法的拘束力のない指導・助言を拒否するものでもないので あるとしている。第二点は,国
の関与の必要性の論証の欠除とい う点のほか,そ
の関与が「消極的 意味」であるとする点である。国が「教育の道正を確保す る」 とい う自負をもって教育内容に関与 する場合,一
定の基準がなければならず,そ
の基準は結局国が真理と信ずるものにほかならないの であって,決
して「消極的関与」にとどまらないことになるとい う。 第二段では,教
育の自由を認めることの利害得失を比較考量の問題 としている点が批判の対象と される。第二段では引用する「通説」が何かは明らかではないが,そ
の引用する昭和38年 5月22日 の最高裁判決と同様,教
育法学が現在よりもなお未発達であった時代の学説であって,現
在の通説 と目すべ きものではないとするざ※2ω たとえ教師の教育の自由を憲法23条からみ ちびくことがで きないとしても,憲
法26条や13条, も しくはそれらの複合規定から教師の教育の自由を認めている見解は多くみられ,い
ずれにしても教 育の自由を認めている学説こそ今 日の通説であるとす る。たとえば「教育を受ける権利」は「学問 の自由」を前提とした「教育の自由」および「学習の自由」なしには本質的に成立 しえない権利で あるとする意見,(※ 鉤)「 憲法26条は F教育の自由』が問題になる側面では,国
察権 力の教育内容への (※27)有倉遼吉,「
国民の教育権と国家の教育権」,兼
子仁編,「
法と教育」,所
収,学
陽書 房,1972,P94か
照 (※28)有倉,前
掲論文,P94か
照 (※29)有
倉,前
掲論文,P95か
照 (※30)山崎真秀,「
憲法二六条」法学セ ミナー・コメンタール・憲法P106か
照 注 注 注 注鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第16巻 第2号 関与 。介入 を排除す る自由権保障規範 としての機能をもつ」 )と す る意見
,「
国民の憲法的 自由の 重要 な一環ゴ※32)と 解す る意見,等
すべて教育の 自由を認めているとす る。現在「通言刑 といえば, これ らをこそ指すものであるとするよ※30控訴人第一準備書面にい う「通言刑 にあたる文献は,法
学 協会「註解 日本国憲法」 と考えられるが,そ
れは少 な くとも今 日の通説であるかは きわめて うたが わ しいとす る。 かくして教師の教育の 自由をみとめるか,国
家の教育内容への関与をみ とめるかは, たがいに排他的な法的問題で あ り,そ
して憲法・教育基本法は前者 を認めることによって後者を否 定 しているのであるとしているざ※艶)こ の「教育の 自由否定」 による国家教育権論 とその批判論は, それぞれ一面の真理 を言っているもの と考えるが,ま
た同時│こ双方 とも,全
面的に真理で ないと, 考える。特 に,批
半J論がその結論の部で「教師の教育の 自由をみとめるか,国
家の教育内容への関 与 をみとめるかは,た
がいに排他的な法的問題であ り,そ
して憲法 。教育基本法は,前
者 を認め る ことによって後者 を否定 しているのである」 として教育の 自由を絶対視 し,他
方 を完全に否定 し去 ることには筆者 としては同調 し得 ないところで あ り,教
育の 自由が国家の関与を絶対的に拒否出来 るほ ど唯―,完
全なものではないと考えるので ある。 教育に対す る国家的法的規制は,必
要且つ最少限 にとどめ,教
育の 自由を最大限に尊重す ること が,教
育の 目的に適 し,ま
たその機能 を発揮 せ しめる所 以で あるが,
しか し,教
育の 自由とて無制 限の もので あ り得ず,ま
ず憲法・教育基本法 。学校教育法等の法令 に反す ることを得ず,教
育の中 立性 に反す ることも許 されず,ま
た子 どもの発達段階 に適応 した適正 なものであるべ きである等々 の制約制限が,本
質的内在的に存在す るのである。 か くして教育の自由を否定することも, これを絶対視 す ることも,共
に間違 いであるとす る筆者 としては,教
育の 自由否定 による国家教育権論にも完全 には77t認し得 ない とい うところで ある。 国家教育権論の理論的根拠 については,国
民主権主義・議会制民主主義の原理 に立 って考察す る のが妥 当 と考 える。 これにつ いては,学
カテス ト訴訟 における仙台高裁判決 (昭和44.2.19)の
, 次のよ うな判断は一つの示唆 を与 えるもので ある。すなわち,「
公教育 は,国
家 が国民か らその回 有の教育権の付託 を受 けて,国
民の意思に基づ き国民のために行 なわれるべ きもので あ り,こ
れを 達成せ しめるためには国民の総意 を教育 に反映 させ る必要があるのであるが,現
にみ るごとく,価
値観 の崩壊・分裂 によ り,国
民の間に教育理念や 目的 につ き見解の鋭い対立がある場合,国
民の一 般的教育意思 を道正 な手続的保障 をもって反映 しうるものは,議
会制民主主義の もとにおいては国 会のみで あ り,そ
こで制定 された法律 にこそ国民の一般的教育思想が表明 されているものとい うべ く,
したがって,右
法律 に基づ いて運 営され る教育行政機関が国民に教育意思 を実現で きる唯―の 存在であって,他
にこれに代 わ るべ きものはないのであり、他方,教
育実施 に当たる者 は,か
かる 教 育行政の管理 に服す ることによって,国
民 に対 し責任 を負 うことがで きるか らで ある。」としてぃ る。 これは,公
教育 において も民主主義の原理 が妥当 し,議
会制民主主義 をとるわが国に おいては, 国民の総意は法律 に反映 される建前になっているのであるか ら,法
律 の定めるところによ り国家 が 教育内容 に関与す ることは,認
め られるべ きであるとす るものである。 勿論,教
育の本質から国家の教育内容への関与 も当然,一
点の限界があるので ある。 その限界を 注 注 注 注 (※31)浦
田賢治,「
教科 書裁判の憲法論」 法学セ t嚢:ζ!屠
響
f薪
掲
紫
夏
´
暫
昂
壊
畠
教
科
書
検
定
J,
(※34)有
倉,前
掲論文,P97か
照 ミナー 167号, P22が照 法律時報,P47参
照哲:社会科教育 と教育権独立論 (1) 画す るものの一つは
,国
民の意思の表現で ある法律である。か くして教育 に関す る法令 は,国
家や 教師 を拘束することになるが,こ
れは国民主権主義の立場 か ら当然 と云 わなければならない。問題 は,教
育法令の内容で あるが,教
育 内容事項 は,精
神的文化的側 面で あ り,真
理 や科学 に関す るも のであるので政党的 多数決 には した しまないとす る点で あるが,た
とえば,現
実 に数学や物理や化 学 に関す る定理や公理や理論 について,何
が真理であり公理で あるかが国会の場で検討論議 され, 多数決で決め られることはないわけで あ り,歴
史,文
学,音
楽 につ いて も同 じよ うに,国
会の場で, 何が正 しく何が真実で あるか,多
数決で決め られることはないので ある。 しか し「教育 が真理や科 学にのっとって なされなければならないJと
言 うが如 き,教
育 につ いての大綱的基準は法律で定め 得ると共 に,又
かかる基準 は必要 なので ある。 要は現憲法が明示 す る「 そもそも国政 は,国
民の厳粛 な信託 によるもので あって,そ
の権威 は国 民に由来 し,…・・」 とす る国民主権主義下 にあっては,国
家 と国民 とは相対立 した関係 にあるのでは なく,現
憲法下 における民主制は,統
治す る者 と統治 される者 との同一性 を理念 とし,そ
こにおい ては,国
民全体 が国政 に参加 し,国
民全体の意思 を基礎 として国政 が行 なわれるべ きもので あるか ら,国
家意思 とはす なわち国民全体の意思であり,そ
の間に対立的契機 を入 れる余地 はないのであ る。国会は,全
国民 を代表す る選挙 された議員によって構成 され,政
府は,そ
の国会の議決 した法 律 にもとづいて行政 を担 当 している。 したがって国民全体 と国家 とは,戦
前の天皇主権国家や独裁 国家のよ うに分離 したものではな く,一
体であるとい うのが、憲法の大前提で ある。 教育 において も,こ
のルール,こ
の大前提 を無視す ることは,国
民か ら遊離す ることで あ り,又
国民 に対 して責 任を取 り得 ないことになる。か くして国民の教育権 と国家の教育権 と相対立 した もの と構成 し,国
民の教育権の立場 か ら国家の教育権 を否定 しようとす るのは,憲
法の大原則で ある国民主権主義そ のものを否定す ることになるのである。4.国
民の教育権・ 国家の教育権 は
,国
民主権主義 においては,国
民の教育権 か ら発す るもので あ り,国
民の教育権 の中核 は,親
の教育権 か ら発す るものであると考 える。 親権の一部 としての親 の教育権 は,わ
が子 に対す る私的権利で あると同時 に,社
会的権利 として とらえられなければな らない。 この点ボ ン憲法 (1949年)第 6条
第2項
「子供の育成および教育 は,両
親 の 自然の権利で あり, かつ,何
よ りもまず両親 に課せ られている義務である。 その実行 に対 しては,国
家共同社会 がこれ を監督する。」東 ドイツ憲法 (1949年)第
31条第1項
「子供 を教育 して,民
主主義の精神 における 精ネ申的および肉体的 に有能 な人間にす ることは,両
親の 自然 の権利で あ り,か
つ,社
会 に対す るそ の最高の義務で ある」(※30と 規定 し,親
権 が自然法上の権利で あ り,純
然たる私的権利 にとどまら ず,社
会的権利で あることを認めている。 わが国 において も,子
どもの人権 としての「教育 を受 ける権利Jを
保障す る権利・義務 を第一次 的に,に
な うもの として親 の教育権 を位置づ ける時,そ
の権利・義務の公的 。社会的性格 が確認 さ れなければならない。 細 サ││ 注 (※35)高 木八尺・末延二次・宮沢俊義編「人権宣言集」,岩
波文庫1969より引用鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第16巻 第2号 なに故
,親
が子 どもの「教育 を受 ける権利」 を保障する義務 を第一次的 に履行す る権利をもつの ′ かとい うと,親
は自分の子 に対 して,肉
親 の愛情 をもってその子の人生の幸福 を考 えることので き る第一の者だか らと答 えるほかはない。親 の教育権は,こ
の肉親 の愛情 に根 ざした自然法的,従
っ て国家以前の権利で一定期間,自
分の子 に関 して存在するものである。 しか し,教
育の社会公共性 に着 目す る時,国
民一人一人に,た
とえ子 どもがいな くても,教
育 に つ いての発言権 が承認せ られなければならない。 この点,国
家の教育権 を否定 し国民の教育権 を承認 したといわれる杉本判 決は次のよ うに述 べて いる。 「 ここにい う教育の本質は,こ
のよ うな子 どもの学習す る権利 を充足 し,そ
の人間性 を開発 して 人格の完成 をめ ざす とともに,こ
の ことを通 じて,国
民が今 日まで築 きあげ られた文化 を次の世代 に継承 し,民
主的,平
和的な国家の発展 ひいては世界の平和 をにな う自良 を昔茂す る蒲為的,文
化 的 なずヽとなみ奉 あるとぃ ぅべ きで ある」。僚30(傍
点筆者) これは教育の本質を「国民が国民を育成する精ネ申的・文化的ないとなみである」 と規定 し,こ
の ような教育の本質からみて教育する主体もまた国民自体であるという。人類社会が今日までに築 き あげて きた文化 (科学 。技術・芸術 など)を
旧世代の国民が新 しい若い世代の国民に伝達 し継承 さ せていくいとなみが教育の本質にほかならないというのである。そして,こ
のことは,一
つには, 判決が,教
育者 として子 どもたちの前にたちあらわれる旧世代のすべての国民 (親,教
員,研
究者 , 市民一般)に
対 して,今
日までに人類社会がつ くりあげてきた文化を学ぶ自由を要請 していること をも意味 している。つ まり,国
民は,親
の子 に対する自然的関係を越えて,文
化のにない手として, 教育が文化の再生産の機能をもつために,教
育責務を有しているのだ, という主張 なのである。 さらに判決はこのような教育の本質論に立って,教
育責務もまた国民の側 にあることについて, つ ぎのようにいっている。すなわち, 「 このような教育の本質にかんがみると,前
記の子どもの教育を受ける権利に対応 して子 どもを教 育する責務をになうものは,親
を中心 として国民全体であると考えられる。すなわち,国
民は自ら の子 どもはもとより,次
の世代に属するすべての者に対し,そ
の人間性 を開発 し,文
化 を伝 え健全 な国家および世界の担い手を育成する責務を負 うものと考えられる」(※ 3分 として,教
育の本質論と 国民の教育責務論とから国家教育権 に対する概念としての「国民の教育の自由」 という,概
念を提 示するに至っている。そしてこの「国民の教育の自由」 とは,判
決によれば,憲
法第26条の子 ども の教育 を受ける権利に対応 して,親
を中心 とする国民全体が有する子 どもを教育する責務であり, 国には国民の右の責務を助成するための公教育の制度としての学校教育制度を設定する責務がある が,教
育内容 に介入することは基本的には許 されず,い
わゅる国家教育権は認められないとする。 (マスコミ等で,教
育権は国民にあって国家にはないとされたと報 じているのは,こ
のことを指 し ている。)こ
の判決は「国民による国民のための教育」 という教育観 から,教
育主権 としての教育 権は国民に帰属することとし,国
民の教育権は教育 をうける側の国民の基本的人権 としての「教育 を受ける権利」 を十分に保障 しうるような形式と内容をともなって行使 されなくてはならないと指 摘する点は評価 して良い。 注 (※36)岩本 憲 ・勝野 尚行 用 注 (※37)岩本・勝 野,前
掲 書, 勝野充行「国民の教育 と教育倒,教
育選書,1972,P175よ
り引 P176疹 期R細 '││ 哲:社会科教育 と教育権 独立論 (Ⅱ) しか し
,判
決の国民の教育の 自由論や国民の教育責務論 にも欠陥がないわけで はない。 とい うの は,た
とえば,判
決は,国
民の教育の 自由 とか国民の教育責務 とかい う概 念 を用いながらも,現
行 わが国実定法で根拠づ けることをしていない。国民の教育責務論は,事
実,前
記 した判決の教育本 質論からの論理的推論の域 をでていない, とい うことがで きる。星野安二郎氏は, この点 に関連 し て,判
決 は国民の教育の 自由をいってはいるが,「
それは,教
育学的な意味で あ り,教
育法学的に は,必
ず しも明確 にされていないよ うに思 われる。す なわち,国
民の教育権 を,教
育学的 ない しは 教育思想史的には,私
事 としての国民の教育の自由 と権利 をいっているよ うで あ り,教
育法学的 に は,国
民の教育 の 自由を,親
や教師,国
民一人一人の 自由ない し権利 として,す
なわち,人
権の問 題 として とらえているよ うに思 えることで あ り,教
育権 をもって権限ない し権能 として,す
なわち, 主権の問題 としてはとらえていないのではないかとい うことで ある」隠 °として,公
教育の国民主 権論の視角 からその不足 を指摘 しているので あるが,判
決の国民の教育権論 には,そ
れ以前 にすで に人権 としての国民の教育の自由権論 それ自体 としても不足 があり,国
民の人権 としての教育 の自 由権 を憲法的権利 として提示 しえていない。新井章氏 らは,判
決は国民の教育の 自由権 を憲法26条 で基礎づ けているとみている。(※翻 が,判
決 は,憲
法26条のい う教育 をうける権利は国民の 自主的 営為 としての教育 によっては じめて充足 され るのだ といってい るの で あ り,
その意味で国民の教 育の 自由権 を憲法26条の国民の教育 を うける権利の思想 か ら論理必然的に推論 してい るだけなので あって,国
民の教育の 自由権 それ自体の実定法上の根拠 を明示 しえているわけで はない。陣 9ま た 杉本判決の国民の教育の 自由論が,国
民一般 の教育の 自由をい うのであれば,当
然,す
べての国民 が教育の 自由権 を現実具体的に享受 しなが らその教育責務 を果た しうるよ うな状況 にあるのかどう かを問わなくてはならない。が,判
決は,親
や国民の教育責務や教育の 自由をいいなが らも,そ
の 物的条件 にはまった く論及 しえていないので ある。 このため,判
決の国民の教育の 自由論 もまた, ごく観念抽象的 な自由論 に終 わっているとい うことで ある。 特 に憲法第26条第1項
の「教育 を受 ける権利」 をめ ぐる判決の考え方 には基本的 に理解 しがたい ものがある。す なわち,
日本国憲法の下 においては,国
は,主
権者である国民の信託 を受 けて国政 を行 な うものである (憲法前文)。 これを教育 につ いていえば,憲
法第26条第1項
は,国
民の「教 育 を受ける権利」 を保障 し,こ
れを法律の定めるところにより十分 に実現すべ く求めてい るのであ って,国
は,国
民の「教育 を受 ける権利」 を積極的に保障す る責務 を負 っているので ある。そ して, この責務 を果たすために,国
は国民の合意 に したがって教育基本法,学
校教育法等の法律 を定めて いる。 判決は,国
に教育権はないとしているが,右
の意味で国 が教育 について負 ってい る責務 まで否定 す る理由 を見出す ことはで きない。判決は,国
民 と国家 とをあたかも対立的 な関係 にあるもの とし て把握 し,か
つ,教
育権は国民 にあるとす るから,国
に教育権 がないこととなるので あるが,こ
の よ うな把握の仕方は,現
憲法下 における国民 と国家 との関係 を基本的 に見誤 まってい ることによる もの と考 える。 注 (※38)星
野安三郎「検定合憲論への疑問J,法
律時報,1970, 9月号,P59参
照 (※39)新井 章・尾山 宏・高橋清一・吉川基道「コメンタール・杉本判決」,法
律時報1970, 9月号,PP 88∼90参照 注 (※40)岩本・勝野,前
掲書,P178参
照,なる「国民の教育の自由」の日本国憲法上の根拠 を論 証 しようとしたものとして兼子 仁「教育の自由と学問の自由」,公
法研究32号がある鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第16巻 第2号 判 決は
,憲
法第26条に「法律の定めるところによ り」 とあるのは,法
律 に基づ かない恣意的 な教 育行政 を否定 し,国
の教育行政 が法律 によるべ きことを定めたものであるが,選
律 によ りさえすれ ばどのよ うな教育内容への介入 をしてもよいとす るものでなく,教
育の内容 については,そ
の特質 か らして,政
党政治の 多数決 によって決めるには本来なじまないものであるとす る。 もとよ り,教
育内容 につ いての制度 を立て るにあたっては,教
育の 自主性,自
律性 を尊重すべ き ことは当然のことで あ り,個
々の教師の行 な う教育活動のすべてにつ いて法律 において定むべ きも ので ないこともまた,当
然の ことである。 しか し,憲
法の議会制民主主義下 において国民全体の教 育意思 を道法 に定めるのは国民の代表者よりなる国会 をおいてはほかになく,ひ
とり教育 のみ この 例 外た りうるものではない。 そ して実際にも,国
民の教育意思は教育基本法,学
校教育法等 によっ て定め られてお り,こ
れを教育内容 についてぃえば,教
育基本法 に教育の 目的,方
針等が,学
校教 育法 に学校の 目的,
目標等がそれぞれ定め られてお り,ま
た,学
校教育法の規定 によって,文
部大 臣が学識経験者や現場教師のが加を得て教育課程の基準 を定めているのである。この面ですでに国家は教育の内容に関与してぃるのであり,国 民に教育権があるところからして国家に教育権無しと
は云 え得 ないことになる。 国民主権主義,議
会制民主主義の立場 か らは,国
家の教育権 を肯定 し得 ることになるが,若
し国 民 に教育権 が無 いので あれば,国
家にも教育権は有 り得 ないことになる。 この点は次報で更 に検討 を加 えたい。 また国家の教育権 があるとしても教育への関与 は,教
育の本質,教
師の 自主性 ・主体 性,教
師の教育権の独立等 か ら当然,一
定の限界が有 るわけで, とりわけ,社
会科教育 においては, 教師の姿勢・意識・価値観・ イデォロギー等 が教育内容 とも関連 し,
しかも社会科教育 が知識主義 的構造 を取 らない為 に,社
会科教育 を方向づ ける大 きな要因 ともなり,極
めて困難 な問題 を提起す ることになるので あるが,こ
れ らの問題 につ いては稿 を改めて検討することにする。 献 文 考 参1)宗
像 誠也外2)伊
藤 和衛3)高
橋 姫 三4)堀
尾 輝久5)コ
ン ドルセ6)有
倉 遼吉7)浦
田 賢治8)高
木 八尺外9)岩
本憲外
10)星
野安二郎11)新
井章外 国 民と教師の教育権 学校経営の近代化論 教師の権利 と義務 現代教育の思想 と構造 公教育の原理 (松島均訳) 国民の教育権 と国家の教育権 教科書裁判の憲法論 人権宣言集 国民の教育 と教育権 検定合憲論への疑 問 コメンタール・杉本半J決 明治 図書
,1970
明治 図書,1970
第一 法規,1972
岩 波 書店,1972
明治 図書,1966
学陽書房,1972
法 学セ ミナー,167号
岩 波 文庫,1969
教育選書,1972
法律 時 報,1970。 9月号 法律時報,1970,9月
号 有斐 閣,1969
第一 法規,1972
新評 論,1970
12)兼
子仁
:
13)中
村 菊男 外 :14)有
倉 遼 吉:
15)MyrOn Lieber
16)茉
子仁 編 : 教 育 法 国 家 と教育 教育 と法律
man i The Future of
法 と教育
Publc EducatiOn, 1960