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自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵こ

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自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵こ

︑       赤 川   理

はじめに第一章 ボーテの所説

 第一節 社会の問題を解決する手段としての学校教育

  1 学校教育の意義

  2 社会の問題

   一 社会の内的問題

    ω全体傾向

    ② 家族の変化

    ③ 公共心の欠如︑判断力の喪失︑欲求不満な自己発展に対する反応

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日      ︵都法四十六ー二︶ 三六五

(2)

   ④ 学校教育の意義のあてはめ

   ㈲ 小括

  二 外的問題

  三 再統一と新たなラント憲法の制定ー内的問題と外的問題という枠組み

第二節 教育システムと法による操舵

 1 教育システムと教育プロセス

  一 教育システム

  ニ 教育プロセス

  三 教育システムと教育プロセスとの関係

 2 教育システムの自己準拠性

 3 教育システムの法による操舵

  一 法治国原理に基づく要請

  二 教育システムの法による操舵の可能性と意味

   ω 憲法の実際

   ② 憲法の作用−象徴作用

   ③ 憲法の作用ー法律学的側面−連邦憲法裁判所の判決と法化の要請︵以上︑本号︶

  三 法的な操舵と教育プロセスの保護

 4 多元主義 三六六

(3)

 第三節 国・親・子供の関係

 第四節 ボーテの議論の意義

第二章 ディットマンの所説

第三章 ピエロートの所説

第四章 フーバーの所説

おわりにはじめに

 一九九四年一〇月︑ドイツ国法学者協会の第五四回総会が開催された︒同総会の第一主題は︑﹁自由な立憲国にお

ける学校の教育委託と教育尺度︵団艮各旨︒︒°・芦日①︒︒巨○団﹃N巨・σQ°・§宮§江巽︒り︒巨一・巨埣︒︷匡ユ菖g<︒目゜・°・巨︒q°・°・§﹇︶﹂      ︵注1︶       ︵注2︶であった︒同総会における第一報告者は︑ボーテであり︑第二報告者は︑ディットマンであった︒また︑オーストリ    ︵注3︶      ︵注4︶      ︵注5︶アのマントルとスイスのハンガルテナーも︑それぞれの国について報告した︒ほぼ同時期に︑この大会での議論に呼       ︵注6︶   ︵注7︶応して︑ピエロートとフーバーも︑同じテーマについて論文を発表し︑論争がなされた︒この一連の議論を紹介・検

討することにより︑教育における国家の役割について考察すること︑とりわけ︑ドイツにおける議論の共通の前提を      ︵注8︶探ることが︑本稿の課題である︒

       ︵注9︶       ︵注10︶ドイッでは︑ラント憲法の中に︑教育目標と呼ばれる規定が定められることがある︒たとえば︑ラインラント・プ

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度臼      ︵都法四十六ー二︶ 三六七

(4)

三六八

ファルツ憲法三三条は︑﹁学校は︑青少年に︑神に対する畏敬の念と隣人愛を︑尊敬と寛大さを︑誠実さと正直さを︑

民族と郷土に対する愛を︑自然と環境に対する責任意識を︑道徳的な行為と職業上の有能さを︑国際和解の精神にお

ける︑自由で民主主義的な心情において︑教育しなければならない︒﹂と定める︒教育目標は︑再統一によって新た      ︵注11︶にドイツ連邦共和国に加わった諸ラントの憲法にも規定されている︒このように︑多くのラント憲法において教育目       ︵注12︶標が定められているのに対して︑基本法においては︑教育目標は規定されていない︒

 以上のような事情により︑ドイツにおいては︑現に存在する教育目標をどのように解釈するかという実践的な問題

が存在する︒そして︑基本法において︑教育目標が定められていないことをどのように捉えるべきかという問題︑解

釈によって基本法からも教育目標を導き出すことができるのかという問題も存在する︒本稿で取り上げる一連の議論

は︑そうした問いに対する答えとしての意義がある︒

 教育目標という具体的な規範の解釈は︑国家の任務についての議論にもつながる︒一方では︑国家には多元主義的

な社会における統合の任務が課せられているのだから︑国は教育目標に即した教育を通じて︑共通の重要な価値を若

い世代に伝達すべきである︑という見解があり得る︒他方では︑特定の価値を教育目標として定めることによって︑

国が教育内容に関わることは︑最終的には個人の教化につながるのだから︑自律した個人によって国家が構成される

という前提に反する︑という見解もあり得る︒本稿で取り上げる一連の議論は︑国家についての原理的な考え方を背

景に有するので︑こうした問いについての考察としても意味がある︒

(5)

 また︑一連の議論においては︑教育における︑国・親・子供・教師の役割についても議論される︒具体の教育制度

は国ごとに異なるけれども︑国・親・子供・教師が︑教育における主要なアクターであることは変わらないはずであ

る︒そうだとすると︑ドイツにおける議論においてそれらの主要アクターの関係がどのように捉えられているかは︑

わが国の議論にとっても意義があると思われる︒

 教育は︑個人が︑みずからの生活を意味のあるものにするために不可欠である︒ひとが︑有意義な生活を送るため

には︑知識や判断力や感受性が必要である︒未熟な存在である子供が︑こうした力を持つ大人に成長するためには︑

教育が必要である︒他方で︑社会も︑民主的な国家の担い手として︑自律した個人を必要とする︒子供が︑国家を担      ︵注13︶う市民にまで成長するためにも教育は重要な役割を果たす︒

 こうした役割を持つ教育について︑日本国憲法二六条一項は︑﹁すべて国民は︑法律の定めるところにより︑その

能力に応じて︑ひとしく教育を受ける権利を有する︒﹂と定め︑同条二項は︑﹁すべて国民は︑法律の定めるところに

より︑その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ︒義務教育は︑これを無償とする︒﹂と定める︒そして︑      ︵注14︶本条が保障する﹁教育を受ける権利﹂は︑子供の学習権として保障されると考えられている︒最高裁も旭川学力テス       ︵注15︶ト事件判決において︑学習権の存在を認めていると思われる︒

 子供に﹁教育を受ける権利﹂や学習権が認められるとして︑誰が子供の教育の内容を決定する権能を有するのか︒       ︵注16︶旭川学力テスト事件判決は︑この問題について︑対立する二つの見解があることを指摘する︒そして︑同判決は︑﹁⁝

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日       ︵都法四十六−二︶ 三六九

(6)

三七〇

二つの見解はいずれも極端かつ一方的であり︑そのいずれをも全面的に採用することはできない⁝﹂と述べ︑親︑国︑       ︵注17︶教師といった子供の教育に関わる者たちそれぞれに︑一定の範囲の自由や権限を与える︒教育に関与する者たちへの

権能の与え方がいかなるものであるにせよ︑その与え方の背後には︑教育に関与する者たちの関係についての一定の

捉え方があるはずである︒そういう理由で︑教育におけるアクターの関係の捉え方について考察することには意義が

ある︒ 教育に関与する者たちにそれぞれ権能を与える︑という右のような考え方は︑教育の受け手である子供を中心に据

えている︒ここで︑子供という存在が徐々に成長する存在であることを考慮に加えると︑教育に関わるアクター間の

関係はますます複雑化する︒子供は︑様々な段階を経て成長するのであり︑このことから︑親と子供との関係︑国と

子供との関係︑教師と子供との関係において︑問題が生じ得る︒

 まず︑親と子供との関係である︒子供の学習権という言葉は︑子供がみずから学ぶという観点に注目をした言い回

しであると思われる︒しかし︑子供は︑その未熟さ故に︑少なくとも一定の年齢までは︑もともと︑主体的に学ぶこ

とは困難である︒つまり︑子供に学習権があるとしても︑子供は︑少なくとも︑ある程度の年齢に達するまでは︑そ

の権利をみずから行使することはできない︒しかし︑その間も︑子供の権利は︑保障されなければならない︒そこで︑

親に一定の権能を与え︑子供の権利に対応する責務を果たさせることが考えられたわけであるが︑親が︑子供の権利

を代わりに行使すると説明することも考えられる︒

(7)

 他方︑親には︑子供をどのように育てるかを決定する親固有の権利や利益があると考えられる︒そうすると︑この

親固有の権利と子供の権利は︑どのような関係に立つのかという問題が生じる︒親が子供の教育に配慮するとき︑そ

れは︑子供の権利のために責務を果たしているのか︑子供の権利を代わりに行使しているのか︑親固有の権利を行使

しているのか︑という問題である︒しかも︑先に述べたように︑子供が成長する存在であることから︑次のようなこ

とも問われる︒子供が︑ある程度の年齢に達すれば︑すでに︑みずから学習権を行使することができるだけの力を身

につけていることもあるはずである︒そうした子供の教育について︑子供自身の意見と親の意見とが対立することが

あり得る︒そうすると︑どちらの意見を優先させるべきかという問題が生じ得る︒この場合︑親は︑もはや︑子供の

権利を代わりに行使することはできないのではないか︑また︑親固有の権利は︑どの程度の強さを持つのか︑たとえ

ば︑子供本人の意向を覆すことができるほど強い権利なのか︑という問題が生じ得る︒

 また︑国と子供との関係︑教師と子供との関係においても︑問題が生ずると思われる︒たとえば︑小学生はみずか

ら学習権を行使できるだけの力を身につけていない場合が多いであろうが︑高校生程度の年齢に達すれば︑すでに︑

みずから学習権を行使することができるだけの力を身につけているとも考えられる︒みずから権利を行使できるだけ

の力が子供自身に備わっているのであれば︑子供に権利を行使させる方が自然であろう︒そうすると︑子供の年齢や

発達の程度によっては︑国による教育内容の決定︑あるいは︑教師の指導よりも︑子供の意思が優先されることがあ

り得るのかという問題が生じ得る︒

こうした問題について考えるに当たっては︑国︑親︑子供︑教師という教育におけるアクターの相互関係がどのよ

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度臼       ︵都法四十六ー二︶ 三七一

(8)

       三七二

うに捉えられているかということにまで︑一度さかのぼる必要があるのではないか︑というのが本論文の問題意識で

ある︒本論文は︑ドイツにおける議論の考察を通して︑わが国の議論を比較法的な視野から位置づけようとする︒

 今回の議論の発端となったのは︑ドイツ国法学者協会の総会におけるボーテとディットマンの報告なのであるか

ら︑まず︑彼らの議論を見てみよう︒そのあとで︑ピエロートとフーバーの議論を紹介し︑最後に︑一連の議論の前

提を抽出することを試みる︒各論者の議論の仕方は︑様々であるにもかかわらず︑国と親とが対峙し︑教師は国の側

に位置づけられ︑子供は前面には出てこないという構造については︑一致が見られる︒そうした前提が共通している

から︑論争が成り立つのだと思われる︒

︵注−︶琴匡c︒︒量団・N﹂︒§︒q・・昌・藷巨両鼠・ξ゜・目冒︒書゜・︒巨︒凶∋時︒亘旨§<︒冒゜⁝︒︒°・°・ξ゜<<o°︒⇔戸い亡◎②い°・°︒.

  やムひ゜

︵注2︶﹀§日o旨§目団・・雲旨σ・°・巨ぎ︒q§団・・巨肩目D°・9旨切︒巨・目霊ロ︒一自喜g<°曇゜・︒=σ・°・°・§︷°<<o°・﹇困﹇い心二己︒い゜

  Oり切゜や司ー↓阜゜

︵注3︶ ≦巳仔芦oqζき戸陣N苫7§σq︒・芦日躍旨烏団艮︒旨σq°・日品゜・冨ひ02°り合巳︒目時①凶庁窪=合9<︒§°・°・旨鵯゜・⇔釦豊く≦︶°︒一μい♪一⇔Oぷ

  O力Oり゜↓いー②心゜

︵注4︶㎡・︒﹃︒・§§卑・喜壽・⁝ぎ︒・巨団・邑・旨σ・°・§O°・巨量切︒巨︒一日ヰ︒菖=雲自く︒曇゜・︒︒σ︒°・°・§戸<<o°・曽い亡②︒ぷ

  ○力Oり゜⊃いー一〇ム゜°

︵注5︶ 本総会について︑即きN︼︼日げo﹃oqo炉eoo口o庁;げ9合o↓①oq=晶O雪くo﹁o日oq旨oq●〇二︶①旨合oロ゜カロ讐゜・苫合邑o巨o﹃日=①=o\Q力邑o①日

  ひヒ且SO寄oσ自一ゆ②玲ロo①∨<odド這⇔い出昌ま゜力゜力゜芯:②ω﹂=o津ミ◎︒°力゜いN十いNS︵=°コ一ひが︑第一主題についての報告である︒︶

 家村=知江巳oδ旨o□O﹇o↓①加已拮Oo﹃<20﹇巳oq巨oqOo﹃一︶o耳゜・9①昌Q︒声①自oo宮゜・庁耳oこO怠日国邑o\°力①①︼P>O戸声②②い゜ぴり◎力゜一陪1一ωSまた︑

(9)

  本総会第一主題について︑ζ賀ー出日目已色Qo﹂°・°陣恩Φゴ旨σq°︒き日①oqき臼犀Nけ呂σ︒°・日品声σ合﹃°り合巳o﹈日埣o︷庁o﹈法゜冨口くo目゜︒−

  °・芦o°°・°︒§で声巳od⑦⇔◎°リシカヒ〒一N9 わが国では︑横田守弘﹁国家の教育任務と﹃個人﹄1十字架判決に対する一つの批判を

  素材にしてー﹂  ﹃佐藤幸治先生還暦記念 現代立憲主義と司法権﹄ 一九九八年 四七七−五一四頁が︑本総会における

  ボーテとデイットマンの議論を取り上げている︒また︑浮田徹﹁国家の教育任務と教育目標規定ードイツ憲法上の教育の担

  い手としての国家の役割に関する一考察1﹂  ﹃六甲台論集 法学政治学篇﹄ 四八巻二号 二〇〇一年 三九−六四頁が

  取り扱っているドイツの議論には︑本総会における議論も含まれている︒

︵注6︶ ︼﹈o色o艮自2戸団S︒庁旨o︒°︒巨啓日oq已巳陣恩︒旨oq°・目①宮雷ひ△9︒り住巳︒﹂日時︒芦︒巨9︒ロ<①目゜︒°・旨o︒°︒°・訂夢O<bd一﹂②去出︒津ミoり゜力゜

  ⇔≠②ー②ひ一゜

︵注7︶ 勺92家゜出已ぴ︒炉卑N﹂︒ロロ目σq°︒巨詳日oq旨△団邑︒旨σq︒︒日品︒・声σ○巽︒り畠亀︒﹈∋埣︒まΦ巨各窪く︒目゜︒°・巨oq°・°・け窪戸ロd妾くロd一゜⑦⇔﹄=①津一゜︒

  ○りo力゜O﹄いーいいや゜

︵注8︶ ドイツにおける国家の教育任務の問題について︑西原博史  ﹃良心の自由﹄ 増補版 二〇〇一年  ︵特に第二部第一

  章︶︒なお︑本稿では︑ドイツにおける議論を素材とする︒そのため︑マントルとハンガルテナーの報告は︑取り上げない︒

︵注⑨︶ 教育目標について︑西原 前掲︵注8︶第二部第三章第二節を参照︒また︑教育目標の規定の具体例については︑コ゜8葺

  ;b°°り゜り゜②総もいω゜また︑浮田 前掲︵注5︶四〇1四一頁を参照︒

︵注10︶ 教育目標を制定していないラント憲法もある︒

︵注11︶ これに関して︑冒日ーO︒亀隅民穿目P2︒已︒霊⇒ユ︒下目窪︒卑N︷o巨ロσq°・N匡゜メカ巴e︒⑦Oやシカ゜り゜﹈⇔ム②゜

︵注12︶ これに対して︑ワイマール憲法では︑一四八条において︑教育目標が規定されていた︒

︵注13︶ 子供が﹁共同社会の一員﹂へと育つためにも︑また︑子供が﹁自己の人格を完成︑実現していく﹂ためにも︑教育が必

  要不可欠であることを︑最高裁も︑旭川学力テスト事件判決において認めているものと思われる︒最大判昭和五一年五月二

  一日 刑集三〇巻五号六一五頁︵六三〇頁︶︒

︵注14︶子供の学習権について︑堀尾輝久 ﹃現代教育の思想と構造﹄ 同時代ライブラリー版 一九九二年︵旧版は一九七一

  年︶︵特に第二部第一章︶︒

︵注15︶ 最大判昭和五一年五月一二日 刑集三〇巻五号六一五頁︵六三三頁︶︒

︵注16︶ 最大判昭和五一年五月一=日 刑集三〇巻五号六一五頁︵六ごニー六三二頁︶︒教育内容を誰が決定するかという問題

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度O      ︵都法四十六ー二︶ 三七三

(10)

       三七四

 をめぐつて︑わが国では︑﹁国家の教育権﹂説と﹁国民の教育権﹂説とが対立してきた︒﹁国家の教育権﹂説も︑﹁国民の教

 育権﹂説も︑論者によって︑それぞれ多様である︒この問題に関して︑内野正幸  ﹃教育の権利と自由﹄ 一九九四年

︵注17︶ 最大判昭和五一年五月二一日 刑集三〇巻五号六︑五頁︵六三..一ー六︑︑一七頁︶︒参照 内野 前掲︵注14︶一ニー二八頁

第一章 ボーテの所説

 第一節 社会の問題を解決する手段としての学校教育

 1 学校教育の意義

ボーテの議論において︑学校教育は︑子供の側から︑また︑社会の側から︑次のように位置づけられる︒

 学校は︑生徒たちに︑個人生活︑社会生活︑政治生活︑職業生活をやり抜く能力を与えるべきであり︑また︑それ      ︵注1︶を与えようとすると︑ボーテはいう︒つまり︑子供たちは︑学校において︑将来自分の力で一人前に生活するための

準備をする︑というのである︒これが︑子供の側からみた学校教育の意味である︒

 また︑ボーテは︑﹁ひとが学校に対する社会と政治システムの諸々の要求をどのように定義しようと︑教育︵団巨o−      ︵注2︶巨已︶は﹃社会組織︵°・o︒巨日げ苔︶﹄において鍵の役割を占めるということが︑むしろ事実である︒﹂という︒これは︑

(11)

学校教育を社会の側から捉えたものとして︑次のように理解できる︒社会は解決を必要とする諸問題を常に抱えている︒それらの問題の解決には︑様々な手段が投入され得る︒しかし︑それらの問題を解決するのは︑いずれにしても社会の構成員である︒だから︑社会の構成員は︑社会の諸問題を解決する能力を養わねばならない︒もし︑社会の構成員が問題解決能力を有していないとすれば︑そのこと自体も社会の問題である︵ボーテの言うところの社会の内的

問題はこの問題である︒後述参照︒︶︒こうして︑問題解決能力を有する構成員を養成する役割を果たすものが︑求め

られる︒その役割は︑学校教育に要求される︒学校教育がこの役割を十分に果たしてはじめて︑社会の諸問題は解決

される︒そして︑社会の諸問題が解決されることによって︑社会は形成され︑維持される︒つまり︑社会の諸問題の

解決は︑学校教育による社会の構成員の養成なしではすまされない︑これが︑﹁ひとが学校に対する社会と政治シス

テムの諸々の要求をどのように定義しようと︑教育︵団区各巨oq︶は﹃社会組織︵°・o︒巨富ぴユ︒︶﹄において鍵の役割を      ︵注3︶       ︵注4︶︵注5︶占めるということが︑むしろ事実である︒﹂ということの意味であろう︒

 学校教育の役割が︑問題解決能力を有する人間の養成であるとすれば︑学校教育の内容は︑社会の現実に適合した

ものでなければならない︒だから︑﹁⁝教育委託の問い︑そしてさらに︑諸々の教育尺度の問いは︑ある特定の歴史

的状況における諸々の社会問題が発生させるところの挑戦に︑学校が適合しうるかどうか︑また︑どのように適合し       ︵注6︶うるかの問いである︒﹂︒また︑ボーテは︑前述のように︑7:教育︵卑N︷9巨σq︶は﹃社会組織︵°・o︒巨註げ腎︶﹄にお        ︵注7︶いて鍵の役割を占める⁝﹂ことを出発点としていたが︑このことが意味することのひとつとしてこう述べる︵もうひ

とつについては後述する︒︶︒﹁⁝この︹鍵の︺役割は︑またしたがって︑学校教育と学校養成︵°・畠巳﹈°・°冨u︒ま巨σq巨包      ︵注8︶>5σ法き︒q︶の諸々の内容は︑歴史的に条件づけられている︑ないしは︑歴史的に要求されている︒﹂︒つまり︑必要

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日       ︵都法四十六−二︶ 三七五

(12)

三七六

とされているのは︑歴史を踏まえた上での︑社会の現実に即した教育であることになる︒

 確かに︑現実は踏まえられなければならない︒しかし︑社会の現実は︑絶えず変化する︒これを︑ボーテも次のよ

うに認める︒﹁事実︑教育制度の法的準則︵<o品書①︶をめぐってなされた︹一九︺七〇年代の激しい議論以降︑若干       ︵注9︶の本質的な社会的枠条件は変化してしまった︒﹂︒社会が変化すれば︑それにともなって︑学校教育に要求される内容

も変化するはずである︒ボーテも︑﹁改革をめぐる議論が︑教育システム︵団区各きoq°・°︒∨°︒δ日︶に対する社会の変化す      ︵注10︶る諸々の要求を顧慮して︑教育制度においていつもおこなわれている︒﹂と述べる︒つまり︑﹁⁝学校は変化する⁝﹂

  ︵注11︶のである︒ドイツにおいては︑一九七〇年代から八〇年代にかけて︑教育について激しく議論された︒ボーテによれ

ば︑今日教育について議論することは︑過去の重要な議論を忘れ去らせないという﹁考古学的関心﹂にとどまるもの

  ︵注12︶       ︵注13︶ではない︒社会が変化した現在︑教育について議論することは︑実際的かつ時局的意義を有するのである︒

  こうして︑ボーテの議論によれば︑学校教育について論ずるには︑その前提として︑いかなる問題を社会は現在抱

えているのかを確認する必要があることになる︒つまり︑﹁われわれは⁝社会の現実に目を向けなければならず︑ま

 た︑⁝教育システムに対する挑戦であるところのいかなる問題が解決されなければならないかを問わなければならな

︵注14︶      ︵注15︶ い︒﹂︒彼によれば︑今日取り組む必要があるのは︑﹁諸々の社会的危機現象﹂である︒そこで︑次に︑これについて

 見ていこう︒

︵注1︶ 蚤︒罫色Cdo夢P印N苫庁旨oq°・き津日o︒旨畠団﹃N冨已轟゜︒日も゜・声ぴ亀︒﹁°︒畠⊆冨一日玲︒臣︒巨合︒昌く︒自゜・°︒旨o︒°・°・§でく≦︶°り兄﹇い与゜⑦②い○︒°⇔°

(13)

︵注2︶ヒ︒°爵PPPρ゜り゜°︒°

︵注3︶ Odo日PPPO°力゜°︒°

︵注4︶ 実際︑ボーテは︑﹁⁝教育制度における成功を抜きにして︑こうした︹社会のーその具体的な内容については後述参照︺ 展開からわれわれの社会に差し迫るところの諸々の⁝機能障害を克服することは︑ほとんど不可能である︒﹂と述べる︒o白o仔p

 ppO°力﹂い゜以下︑特に注記しない限り︑︹︺の中は筆者が補った言葉である︒

︵注5︶ この議論は︑ボーテの教育システムについての議論と関連づけて理解されるべきである︒後述参照︒

︵注6︶e︒︒夢PPPρ゜力○°

︵注7︶0︒︒仔ρPPρ゜力゜°︒°

︵注8︶ odo筈pppP°り゜︒°°︒も゜

︵注9︶o︒︒日Pp翻゜ρ゜︒﹄°

︵注10︶ ヒロo筈Pppρ゜り゜ρ﹁教育システム﹂については後述︒

︵注11︶ 自自o仔PPPO°︒°O°

︵注12︶ <⑲q﹇00o日PPPO︒り゜︒︒°

︵注13︶ ボーテは︑一九七〇年代の議論の意義について︑総括的にこう述べる︒﹁⁝七〇年代の議論において︑憲法の中に実際  に︑あるいは︑表向き立てられた諸々の教育目標は︑二つの意味のバリエーションにおいて︑教育改革に賛成する者のため

  の︑あるいは︑反対する者のための戦闘手段としても投入された︒この出来事は⁝今日要求される諸々の教育目標が憲法か

  ら導き出されることができるか否かと問いかけさせる︒しかし︑また︑この出来事は︑多元主義的国家における諸々の教育

  目標の確定という基本問題を提示した︒すなわち︑一方において︑憲法上命じられている開放性︑非同一化︑あるいは︑中

  立性と︑他方で︑憲法上正当とされた︑否︑憲法上要求された実質的な価値固定の間の緊張関係を提示した︒﹂︒o︒o夢ppp

  O°り﹄⇔.ここで述べられた﹁基本問題﹂︑﹁緊張関係﹂は︑ボーテがこの報告において取り上げた問いの中心でもある︒

︵注14︶ 一Wo書PppO°り゜ρ

︵注15︶ ロ︒o日PρpO°り.②.

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日       ︵都法四十六ー二︶ 三七七

(14)

三七八

2 社会の問題

ボーアは︑その重要性を誰もが否定しないに違いないいくつかの間題についてだけ取り上げると罐・議論の焦点

を絞る︒彼は︑学校が取り組むべき問題のすべてを取り扱うわけでもなければ︑また︑社会的危機現象のすべてを取

り扱うわけでもない︒つまり︑ボーテは︑取り上げるべき問題だけを取り上げるために︑問題をはじめから重みづけ

ている︒ところで︑ぐ重みづけをするには︑何らかの視点が必要なはずである︒重要かそうでないかは価値判断なので

あるから︑その視点は価値に関係づけられているはずである︒そうだとすると︑ボーテは議論を展開するに当たっ

て︑みずからが価値にコミットしていることを明らかにした︑と言えよう︒

 ボーテが取り上げるのは︑二つの﹁問題複合﹂である︒第一の問題複合は︑西側産業国家における社会構造の変化

に関わる問題︑すなわち︑内的問題であり︑第二の問題複合は︑世界におけるドイツとヨーロッパの地位に関わる問      題︑すなわち︑外的問題である︒こうして︑ボーテは︑﹁内﹂と﹁外﹂という問題の区別をする︒これは問題の区別

の仕方として自然で︑価値関係的でないように見える︒しかし︑前の段落で述べたように︑問題が︑ボーテによって

意識的に重みづけられていることに注意しなければならない︒ボーテの議論の枠組みの背後にある考え方について

は︑後に触れることにしよう︒

 さて︑内的問題も外的問題も﹁問題複合﹂である︒以下で見るように︑内的問題︑外的問題それぞれの中では︑個々

の問題が相互に関連しあう︒このことから︑﹁問題複合﹂という表現の背後には︑個々の問題のどれが原因でどれが

(15)

結果と一概に言うことはできない︑というボーテの考えがあるものと思われる︒

︵注1︶ ζ︷°冨江bd°日P即N富庁旨噌巨日謂旨匹団﹃N完きσ︒︒・日も︒・雷ずユ自︒力9巨︒目時o庄6巨9︒口く︒自︒︒︒力已ロoq︒︒︒り一旬①戸<<Oψ︒舜﹇い古這⇔U・︒力・

 一ρ︵注2︶ bロo日PppO︒︒﹂ρ

一 社会の内的問題

    ω全体傾向

 ボーテによれば︑﹁西側産業国家の社会的発展は︑今世紀においては︑脱伝統化︑また︑個体化によって︑個人の

自律性の原理に三て・非常に強く刻印づけられて唾孔︒﹂.つづけて︑ボーアは︑この社会的震を︑おおよそ次の

ように説明する︒一九六〇年代においては︑この発展は︑義務の価値と受容の価値から自己発展の価値へというもの

であ︵唖超︒現在も・この傾向それ自体は︑変わっていない︒しかし︑六〇年代と七〇年代における自己発展の価値の

宣伝は︑非常に強く改革の躍動によって特徴づけられていたにもかかわらず︑この熱情は弱まってしまった︒そし

て・現在確認されるのは︑快楽主義的な要素をより強く強調する自己発展の価値の多元化と︑方向づけの喪失の拡大

で籠・

︵注1︶ ζ村言江00゜穿P団﹃N富5旨oq°・①巳茸欄きユ団邑巾旨σ︒︒・日品︒・富O江鶴︒り畠巳︒巨時6旨︒︷日90目くo民9︒︒已⇒oq︒︒︒.↑①ロ●<<O︒り痴戸U古⑦⇔曾Q︒﹂O・

  自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日      ︵都法四十六−二︶ 三七九

(16)

      三八〇

︵注2︶ 議論の展開の仕方からすると︑ボーテは︑本報告に関する限りでは︑﹁個体化﹂と︑﹁個人の自律性の原理﹂と︑﹁自己

  発展﹂とを等価なものとして扱っている︒

︵注3︶ 以上 boo日pp①゜P°り゜︒°一︹下=°

②家族の変化

 ボーテは︑﹁教育制度にとって︑まず第一に重要であるのは︑自己発展の価値をいっそう強調することが︑両親の

教育︵﹃①§σ・︶にどのような影響を及ぼすのかということである・﹂と問いを立衰・︑﹂の問いを問うに当たって・

自己発展の価値を強調することが︑家族の構造の変化をもたらしたことを︑ボーテはおおよそ次のように述べる︒人      格的自律において両性は平等である︒家族の中では︑伝統的に役割が分担されていたが︑このことは︑両性の平等の        ヨ 原理と相容れない︒また︑ひとが︑婚姻や家族の中で結びつけられていることと︑包まれていることは︑個人の自律

に対する脅威として︑自己実現に対する危険として感じられるようにな震・こうして・家族とい︑つ結びつき・ある

いは︑家族に類似した結びつきは︑依然として望まれているのだが・そうした結びつきは変化癖・これまでは性別

による既成の役割分担を伴う家族だけしか存在しなかったが︑みずからの選択によって様々な形式をとる生活共同体

    ︵注6︶があらわれた︒

  ボーアによれば︑家族の構造の変化は︑教育制度にとってきわめて本質的な二つの帰結を有遼・竺に・﹁:家

族のはっきりした役割分担を伴った時代におけるのとは異なった態様で︑両親の権利の担い手の問いが提起され

     る︒﹂︒たとえば︑ひとりで子供を育てる親について︑婚姻している両親と同様に取り扱うべきか︑それとも︑より手

(17)

      ︵注9︶厚く配慮すべきかという問いが提起される︑というのであろう︒第二に︑﹁⁝両親の権利と国の教育委託の関係に対      ︵注10︶するこの展開の帰結が問われなければならない︒﹂として︑次のように問う︒﹁国の学校高権と両親の権利が原則的に

同格であることは︑十分な能力のある家族を前提としているのか? また︑その問いが立てられるとして︑この前提

条件は︑ポスト家族的家族にあてはまるのか? ⁝ さらに︑ポスト家族的家族の弱さによって︑その中に国が介入       ︵注H︶しなければならないところの教育上の真空が生まれるのか?﹂︒﹁上述の︹家族の構造の変化という︺展開は︑両親の       ︵注12︶教育という私的領域への国の侵入に至ってはならない︒﹂と︑彼は結論づける︒彼によれば︑﹁⁝両親の教育権と国の

学校高権が等価であり︑そうであるゆえにそれらが慎重に均衡されなければならないということ⁝﹂は︑家族の構造      ︵注13︶が変化しても何も変化しない︒

︵注1︶ ≦︒ぎ巳odo浮P犀N宮ゴ9σq°︒巨穿goqき臼団﹃N完きoq°・日品︒・﹇筈●2︒り9巳6目才Φ一冨﹇法9自く︒自︒・︒︒旨oq︒・︒︒﹇知自<<O︒︒涛﹇い古一②②M︒力゜

  一ド︵注2︶ 0︒°日PPρO°り.一N°ここで︑ボーテは︑﹁自己発展﹂という言葉をあげた後に︑特に説明することなく︑﹁人格的自律﹂

  について述べる︒﹁ω全体傾向﹂の中で指摘したように︑本報告に関する限り︑ボーテは︑﹁個人の自律性の原理﹂と﹁自己

 発展﹂とを等価なものとして扱っているので︑彼の議論の中では飛躍はない︒

︵注3︶ oθo仔PP①゜O°力﹂N°

︵注4︶ ヒ︒o夢PPPρ゜力゜︼ド

︵注5︶ ロ︒o夢PPPρ◎力﹂N

︵注6︶ ロdo日pppPo力﹂N

︵注7︶ O︒o書PPPρ゜力﹂N°

︵注8︶ u︒o夢PpPOoカシ︒﹂N⊥P

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日      ︵都法四十六ー二︶ 三八一

(18)

三八二

︵注9︶ ボーテは︑ひとりで子供を育てる親について︑国は補助的・援助的に介入しなければならないという︒ただし︑彼はそ

 う述べる前に︑﹁家族の中の教育の固有の領域へは︑国は︑基本法六条二.項の狭い前提条件のもとでしか介入してはならな

  い︒﹂とも述べる︒bdo日pppO°り﹄ゲ

︵注10︶ ﹈﹈o汗PPPρびり﹂ω゜

︵注11︶﹈﹈︒日PPPO°力﹂ω゜﹁国の学校高権と両親の権利が原則的に同格であること﹂は︑連邦憲法裁判所の判例や多くの学説

  によって認められていることである︒曽日ppρO市戸9°にあげられている判例・学説を参照︒また︑﹁ポスト家族的家族

  の弱さ﹂という表現から︑家族の構造の変化の結果︑家族の力は弱くなった︑というボーテの考えが読みとれる︒彼の議論

  において︑弱体化した家族は︑社会的危機現象のひとつの結果であると同時に︑そのひとつの原因でもある︑と思われる︒

︵注12︶ 自o書PPPO°︒﹂ω゜

︵注13︶ Cdo夢PP︒°ρψ︒﹄一゜

⑧ 公共心の欠如︑判断力の喪失︑欲求不満な自己発展に対する反応

 ボーテによれば︑自己発展の価値への傾向は︑社会に対して︑また︑教育される者に対して︑﹁公共心の欠如﹂︑﹁判       ︵注1︶断力の喪失﹂︑﹁欲求不満な自己発展に対する反応﹂という問題をもたらす︒公共体を担う資質にかかわるこれらの問

題について︑ボーテが述べるところをみていこう︒

 ボーテは︑第一に︑﹁公共心の欠如﹂の問題を取り上げる︒ボーテは︑自己発展という概念それ自体は︑開かれた       ︵注2︶価値中立的概念であることを認める︒﹁しかし︑自己発展が︑消費と権利主張の意味において行われるところでは︑

      ︵注3︶      ︵注4︶公共心は落後する︒﹂︒上述のように︑現在︑自己発展の価値は多元化し︑快楽主義的な要素が強調されている︒ボー

テによれば︑こうした価値変化は︑忍耐と服従の姿勢を劇的に後退させ︑国家をこれまでまとめてきた最小限の共同

(19)

       ︵注5︶体倫理は今にも解体しそうなところまで行き着いてしまっている︒

 しかし︑ボーテは︑以上の議論だけで結論を出すことはせず︑つづけてこう述べる︒﹁共同体のための自己実現は

  ︵注6︶存在する︒﹂︒つまり︑現在存在する自己発展のすべてが共同体を崩壊させる自己発展であるわけではない︑というの

 ︵注7︶である︒また︑﹁ある程度の紛争︑すなわち︑意見の相違は︑この︹多元主義的︺社会に必要であり︑そうした紛争      ︵注8︶から︑この社会は︑諸々の発展可能性を得る︒﹂と彼は言う︒社会の発展のためには︑様々な自己発展の価値が様々

な態様において追求されること︑また︑それによって生ずるある程度の紛争や意見の相違は︑有益であり︑必要です

らあるというのである︒ただし︑ボーテは以下のような留保を付ける︒﹁⁝社会は︑紛争文化のルールの遵守と︑﹃と

もにすること﹄に︑すなわち︑参加に頼っている︒それは︑市場が︑すべての人に対して福利をもたらす機能を果た

すことができるのは︑市場に参加する者が十分に参加し︑また︑その際︑一定の規則を尊重する時だけであるのと全

く同様である︒われわれの社会のひとつの本質的な問題は︑共同体を拒み︑責任なき自由を欲するところの自己発展

 ︵注9︶である︒﹂︒つまり︑公共体を顧慮しない自己発展はあり得るけれども︑そうした自己発展は公共体を崩壊に至らし

め︑結局は︑自己発展の基盤の喪失に至る︑とボーテは考えていることになる︒すなわち︑自己発展にはおのずから

一定の制約があるのであって︑あるべき自己発展は公共体指向的でなければならないというのである︒もちろん︑公

共体指向的な自己発展には幅があって︑その中で個人が選択する余地はあるものと思われる︒こうして︑ボーテの議

論においては︑自己発展の価値には公共体との調和という枠がはめられる︒

ボーテは︑第二に︑﹁判断力の喪失﹂の問題を取り上げる︒﹁参加の本質的前提条件のひとつは︑情報とその処理で

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日      ︵都法四十六ー二︶ 三八三

(20)

三八四

︵注10︶ある︒﹂︒彼は︑おおよそ次のように議論を展開する︒現代の情報社会は︑広範な情報提供を受けた批判的に参加する

市民のために︑諸々の機会を︑これまでになく提供することができるはずであるのに︑現実は逆である︒つまり︑情      ︵注11︶報も消費の対象︑娯楽にされてしまっている︒ボーテは︑﹁判断力の喪失﹂の問題をこう締めくくる︒﹁視聴覚メディ

アの役割は︑判断力の著しい喪失へ︑未成熟さ︑また︑受動性へと行き着く︒情報を批判的に選択し︑また︑消化す      ︵注12︶ることは︑われわれの社会のひとつの本質的な問題である︒﹂︒つまり︑情報を主体的に受け取り︑摂取し︑解釈し︑

意味づける能力を︑われわれは身につけなければならず︑そうした能力なくしては公共体を担うことはできないとい

うのである︒

 ボーテは︑第三に︑﹁欲求不満な自己発展に対する反応﹂という問題を取り上げて︑次のように言う︒﹁脱伝統化︑

伝統的な結びつきを否定すること︑伝統的な役割分担によって媒介されたところの安全が消滅することは︑冷たい社

会へ︑孤独現象︑関係の喪失に至る︒自己発展の価値を強調することも︑欲求不満に行き着く︒社会の現実の中で自      ︵注13︶己発展は限界に突き当たるのである︒これらはすべて︑神経症的な反応を生み出す︒﹂︒ボーテの言うことからする

と︑個人の自律という原理は個人を解放したけれども︑そのことは︑個人をこれまで守ってきたきずなを破壊するこ

とと表裏一体であったことになる︒

︵注1︶ ≦︒冨江ヒdo爵P零恩6庁旨σq°・芦津日oq旨全団﹁N巨ロロ゜・ヨ①宮声σ●2°り9巳︒一ヨひ︒芦︒三村冨口く①自・°・旨鵯゜・§戸<<O◎力茄↑い古一〇②い曽︒力゜一ω゜

︵注2︶ ロσo書PppO°カニP

︵注3︶切2庁PPPO°力﹂ω゜自己発展の中には︑﹁消費と権利主張の意味において行われる﹂もの以外にも︑様々なものがあり

(21)

 得ることになる︒ボーテの本報告においては︑﹁自己発展﹂と﹁個体化﹂と﹁個人の自律性の原理﹂とが等価なものとされ

  ていることを先に指摘した︒これをここでの議論にあてはめると︑﹁個体化﹂も︑﹁個人の自律性の原理﹂も︑開かれた価値︑

 中立的な概念であって︑様々な態様のものがあり得ることになる︒

︵注4︶ <oq一゜ウロo日PPPO︒り﹂一゜

︵注5︶巳d9ゴP亭Pρ゜︐﹂ω゜

︵注6︶ Odo夢PPPO°力﹂﹈°ボーテの議論の趣旨からすると︑この報告に関しては︑﹁自己発展﹂︵°力馨゜︒δ巨宣已目σq︶と﹁自己実

 現﹂︵◎力江冨⊇02﹈﹃窪9きσq︶は同じことを意味している︒

︵注7︶ 自己発展の中には︑快楽主義的な自己発展も︑共同体のための自己発展もあるということであるから︑これは︑自己発

 展という概念が開かれた価値中立的な概念だとするボーテの議論と整合的である︒

︵注8︶ 一﹈o日PPpO°力﹂昏゜

︵注9︶c︒9庁PppO°力﹂与゜

︵注10︶ bdo旨PpρO切﹂昏゜﹁参加﹂という点において︑﹁判断力の喪失﹂の問題は︑﹁公共心の欠如﹂の問題と関連づけられて

  いる︒

︵注11︶ 以上 00o日PPPρψ︒﹂与゜

︵注12︶ Odo日PP①゜Ooり﹂﹄

︵注B︶ 一﹈o夢pppO°力﹂+

④ 学校教育の意義のあてはめ

       ︵注1︶v   ボーテは︑以上の議論から︑学校教育について次のような帰結を導く︒これは︑社会の内的問題という具体的な問

    題に︑前述した学校教育についての意義の議論を当てはめたものということもできる︒

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日      ︵都法四十六ー二︶ 三八五

(22)

︑二八六

 ボーテは︑こう述べる︒﹁まず第一に︑自己発展の価値への大きな傾向を阻止すること︑あるいはさらに︑その大

きな傾向を逆転すること︑また︑そのかわりに︑新しい生活に対して共同体の規律の伝統をよみがえらせることは︑      ︵注2︶学校教育の任務ではあり得ない︒﹂︒﹁しかし︑自己発展の価値の中には︑様々の発展可能性があるということが︑明

らかにされた︒ここにおいて︑学校は必要とされているのである︒これらの︹社会の︺展開から生じたわれわれの社

会に差し迫るところの危険を阻止することは︑国の教育制度にとっての任務であり︑また︑要求である︒国の教育制

度は︑個々の教育の受け手が︑こうした展開が個人の存在についてもたらすところの諸々の問題を解決することがで         ︵注3︶きるようにすべきである︒﹂︒つまり︑ボーテは︑自己発展の価値それ自体は高く評価する︒しかし︑自己発展の価値

を追求することは︑社会的危機現象をも同時にもたらしたという︒われわれは社会的危機現象に対処しなければなら

ない︒ここで︑ボーテは︑社会的危機現象を阻止する役割を︑学校における教育に要求した︒これが︑学校教育の意       ︵注4︶義についての議論と整合的であることは明らかである︒

 ボーテは︑こう結論づける︒﹁⁝学校は︑個体化との責任あるかかわりあいを指導することができるし︑また︑そ

うしなければならない︒求められているのは︑換言すれば︑批判的で︑責任のある︑また︑共同体に方向づけられた      ︵注5︶自己実現の能力を与える教育なのである︒﹂︒そして︑﹁家族の中の新たな役割分担の用意があること︑脱伝統化した       ︵注6︶社会の中で︑有意義な生活の構想をみずから見いだす能力を発展させることも﹂︑そうした教育に含まれると言う︒

︵注1︶ 冨︒ぎ巳ロ︒o日P卑Nげ庁9σq°︒き日混ζ且団﹁N苫旨oq°・目品゜・声σ02°力9巳①ぎ齢Φ書︒巨合⑦コ<︒ぼ゜︒°︒旨oq㊤゜︒§戸<<O°力痴︹い♪﹂②②い゜°りLふ゜

︵注2︶b︒2庁PρPρ切゜・令︼十匡

(23)

︵注3︶ o︒2ロP靭靭O°りLい◆

︵注4︶ ボーテの議論においては︑社会に差し迫る危険の阻止という社会にとっての利益だけでなく︑教育の受け手である子供

 たちがおのれの存在についての諸問題を解決することができるようにするという︑子供たち自身にとっての利益も重視され

 ている︒OOo夢〇三﹄°O°りLい゜ωキ

︵注5︶ 国o夢Pppρψり﹂い゜ボーテの本報告においては︑﹁自己実現﹂は﹁自己発展﹂と同じ意味で用いられていることについ

 ては︑前述した︒

︵注6︶ 0︒o各PPPρ゜力﹂ひ゜ここでも︑﹁有意義な生活の構想をみずから見いだす能力﹂の発展という子供たち自身にとっての

 利益も重視されている︒

⑤ 小括

 ボーテが社会の内的問題について述べるところは︑次のようにまとめられる︒社会は︑脱伝統化され︑自己発展の

価値︑個体化︑個人の自律性の原理を目指して変化してきた︒その結果︑家族の構造が変化した︒また︑公共体を担

う能力を身につけない者が増えた︒公共体を担う能力を身につけない者が増加したのは︑ひとつは︑自己発展の価値

が拡散し︑公共体を指向しない価値や生き方も自己発展の価値に含まれるようになったからである︒もうひとつは︑

家族の構造が変化し︑家族の力が弱くなったため︑家庭においてそのような能力を身につけさせることが困難になっ    ︵注1︶たからである︒こうして︑公共体を担う能力をもたない者の増加が問題となる︒この問題は︑学校教育によって解決

されなければならない︒

︵注1︶ ただし︑ボーテの議論は︑問題が相互に複雑に絡み合っていることを前提とするものである︒﹁問題複合﹂︵≦︒冨巳

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日      ︵都法四十六⊥一︶ 三八七

(24)

       三八八

ロo所eP団邑合旨o︒°・巨日①oq旨α団邑o旨o︒°︒日品゜・冨σOo﹁°力合巳o声∋含巳ゴo巨oゴoロ<o自゜︒白・旨oq°・°・ロ芹く≦︶◎り勇↑い古⑦②い㊨゜力﹂O°︶という表

現が採用されたのは︑そのことを反映していると思われることは︑先に述べた︒

二 外的問題

 ボーテは︑外的問題について議論するに当たって︑三つの見出し語を掲げる︒すなわち︑﹁よそからの︵そしてま       ︵注1︶たよそへの︶移住の国としてのドイツ﹂︑﹁経済の現在地としてのドイツ﹂︑﹁世界的強国としてのドイツ﹂である︒ド

イツが世界全体とのかかわりにおいて抱えている問題にも︑学校教育は対処しなければならない︑というのである︒

 まず︑﹁経済の現在地としてのドイツ﹂について︑ボーテは次のように言う︒﹁良い教育インフラストラクチャーと

養成インフラストラクチャー︵切ま旨︒q︒・ー已巳>5σ萱已コ︒q°・日冒゜・巨ζ旨︶が︑成果豊かで競争力のある経済の現在地の

前提条件であることは︑一般に共有されている常識である︒このことは︑第三期の教育領域︵﹀已︒・σ法巨σq︒・O︒﹃①︷合︶︹高

等教育︑大学教育︺のみならず︑第三期の教育領域が結局のところ依拠しているところの第一期の教育領域︹初等教

育︺と第二期の教育領域︹中等教育︺にも当てはまる︒それには︑青少年が︑学校において︑産業技術の世界と情報

社会の諸条件に習熟することも含まれる︒環境を意識した行動は︑この能力のひとつの部分的な観点である︒国の学

校は︑卒業生に︑職業生活をやり抜く能力を与えるべきである︒そのためには︑国際労働市場で競争する能力︑ある

いは︑ドイツの企業のために外国で働く能力が含まれる︒この限りで︑ドイツは︑よそへ移住する国でもなければな       ︵注2︶らない︒ドイツの教育制度は︑生活関係の国際化を反映しなければならない︒﹂︒こうして︑ボーテは︑現在の産業社

会・情報社会を生き抜く力を子供たちに身につけさせるという問題が存在することを指摘する︒また︑この問題が︑

(25)

先に掲げた﹁よそからの︵そしてまたよそへの︶移住の国としてのドイツ﹂という見出し語のうち︑﹁よそへの移住

の国としてのドイツ﹂の問題でもあることを指摘する︒しかも︑この﹁よそへの移住の国としてのドイツ﹂は︑右に

引用したボーテの議論においては︑経済的な側面に限定されている︒これは︑経済以外の側面におけるドイッの拡大

には逆に慎重であるべきとの示唆を含んでいる可能性がある︒

 次に︑ボーテは︑﹁よそからの︵そしてまたよそへの︶移住の国としてのドイツ﹂のうちの︑﹁よそからの移住の国

としてのドイッ﹂について次のように述べる︒﹁より大きな問題をもたらすのは︑おそらく︑ドイッがすべての西側

産業国家と同様によそからの移民が入ってくる国であるという事実である︒このことは︑目を開いてドイツの街を歩       ︵注3︶く者は︑誰も否定することはできない︒﹂︒﹁それゆえ︑われわれの教育システムは︑われわれは多文化社会にいるの

であり︑そして︑居続けるだろうという挑戦に応えなければならない︒われわれの教育システムは他文化出身の子供

たちを受け入れ︑教育しなければならない︒われわれの教育システムは︑われわれの文化的伝統出身の子供たちに︑      ︵注4︶他文化出身の人々とおりあいながらつきあうための用意をさせなければならない︒﹂︒ここで指摘されているのは︑多

文化社会における教育という問題が存在することである︒そして︑多文化社会における教育は︑ドイツ人の子供たち

にも︑他文化出身の子供たちにもなされなければならない︑というのである︒その際︑ドイッ人の子供たちへの教育

と︑他文化出身の子供たちへの教育とでは︑配慮の重点が必ずしも同じではないとボーテが考えていることが︑右の

引用から推測される︒他文化出身者は︑あくまで受け入れられる者であり︑受け入れる者であるドイッ人の子供たち      ︵注5︶とはおのずから状況が異なるということであろう︒

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度日      ︵都法四十六ー二︶ 三八九

(26)

三九〇

 そして︑最後に︑ボーテは︑﹁世界的強国としてのドイツ﹂について次のように言う︒﹁ドイツは︑世界政治におい

て︑単に経済的な権力ファクターになっているのみならず︑ひとつの政治的軍事的権力ファクターにもなっているの

であり︑そうであるがゆえにわれわれはしばしば多少の困難に当面するのである︒それだけに︑わが国は︑ドイツの

こうした状況に責任を持って取り組む用意と能力のある人を必要としている︒そのような徳が必要とされる機会はな

いわけではないし︑これは︑政治的な決定の担い手の事柄にとどまらない︒そのことは︑平和と国際協調を肯定し︑

支持することを意味するだけではない︒それは︑公共心が︑国境を越えて理解されること︑ヨーロッパにおいて︑ま

た︑世界において義務づけられていることとして︑国際的な連帯の姿勢として︑理解されなければならないというこ    ︵注6︶とを意味する︒﹂︒ここで︑ボーテは︑平和と国際理解の教育という問題が存在することを指摘している︒また︑ここ

では﹁ヨーロッパ﹂という観点が提示されている︒もっとも︑ヨーロッパという観点は︑﹁よそからの︵そしてまた

よそへの︶移住の国としてのドイツ﹂︑﹁経済の現在地としてのドイツ﹂においても︑事柄の性質上当然意識されてい

るはずである︒つまり︑ボーテの議論においては︑ヨーロッパという意識は︑外的問題全体に通底する意識として位       ︵注7︶置づけられている︑と言える︒

 ボーテが︑外的問題について述べるところは︑結局︑こうである︒現在のドイツは︑産業社会・情報社会を生き抜

く力の養成という問題︑多文化社会における教育という問題︑平和と国際理解の教育という問題を抱えている︒学校

教育は︑これらの問題にも対処しなければならない︒もちろん︑ボーテの議論は︑問題が相互に複雑に絡み合ってい       ︵注8︶ることを前提とする︒そのことは︑先に述べたように︑﹁問題複合﹂というボーテの表現にもあらわれていると思わ

れる︒この点は内的問題と同じである︒

(27)

︵注1︶ ζ民ぎユ訂o仔P即恩︒ロ旨oq°・巨陣日oq已5住陣N声︒旨σq°・目①宮﹇筈09︒力︒庁三︒目埣Φ芦6巨︒﹃o目くΦ§°・°・旨σQ°︒°︒冨自<<O︒力弟↑い古⑦②ぷ︒︒﹂ひ

︵注2︶0︒︒⇔=PρPO°力﹂ひ

︵注3︶ C︒o日PPPρ゜りLひ゜

︵注4︶ヒ︒2古PPPρ゜︐LS

︵注5︶ <㏄ピ嗣o日PP亭O︒︒°ωS

︵注6︶じ︒2庁PPPO°︒LS

︵注7︶ ﹁ヨーロッパの教育尺度﹂がそれ自体として取り上げられることもその証拠である︒U︒2=Pρ費O°力゜り◆ふO上﹂◆

︵注8︶ 自do日PPPO°り﹂O°

三 再統一と新たなラント憲法の制定−内的問題と外的問題という枠組み

 ボーテは︑社会の内的問題︑外的問題についての以上の議論でもって︑﹁⁝国の教育委託がその中に位置づけられ       ︵注1︶なければならないところの社会的・政治的枠が素描された︒﹂という︒しかし︑われわれは︑ボーテ自身が明示して

いないにもかかわらず︑彼の議論において取り上げられているもうひとつの問題を指摘しなければならない︒それ

は︑ドイツの再統一︑それにともなう旧東ドイツの諸ラントにおける新たなラント憲法の制定︑それらのラント憲法       ︵注2︶が教育目標を含むことである︒実際に︑ボーテは︑具体的な個々の教育目標について議論するに当たって︑旧西ドイ

ツの諸ラントの憲法と新たなラント憲法とをしばしば比較する︒また︑多元主義的国家における教育目標について論

ずるところでも︑旧西ドイッのラントの憲法が宗教色を帯びている教育目標を有することがあるのに対して︑﹁新し       ︵注3︶い連邦ラントの諸憲法は︑そのようなもの︹宗教色を帯びている教育目標︺を避けている︒﹂と対比する︒

自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度H      ︵都法四十六⊥一︶ 三九一

(28)

三九二

       ︷注4︶ ボーテの議論の出発点は︑社会の現実に目を向けることであった︒再統一及びそれにともなう諸問題は︑社会の現

実に目を向ければ当然視野に入るはずである︒右の段落で指摘したように︑ボーテは︑それらの問題を意識して具体

的な議論を展開した︒しかし︑ボーテは︑再統一及びそれにともなう諸問題を︑それ自体として独立させて取り上げ

ることはしなかった︒これは︑彼が内的問題と外的問題という枠組みの立て方をしたことに原因がある︑と思われ

る︒再統一は︑内的問題にとっても︑外的問題にとっても基盤となる事柄である︒再統一は︑ドイツ国家の︑また︑

ドイツ社会の境界の変更︑すなわち︑内と外との境界の変更にかかわる事柄である︒そうだとすると︑内的問題と外

的問題という枠組みでは再統一という事柄を捉えられない︒次元が異なるからである︒しかし︑先に指摘したよう

に︑ボーテは再統一の問題を意識していたのだから︑次の問いが問われなければならない︒すなわち︑ボーテははじ

めから再統一の問題を脇に置いて︑内的問題と外的問題という枠組みを立てたのではないかという問いである︒ある

いは︑内的問題と外的問題という枠組みを立てたのは︑再統一の問題それ自体を問わないために敢えてそうしたので

はないか︑と問うこともできよう︒

 このように問うことは︑そもそも︑内的問題・外的問題のそれぞれが︑ボーテによって重みづけられたものであ

り︑ボーテはみずからが価値にコミットしていることに自覚的であったと思われることから言って︑成り立つ問いで

ある︒

なるほど︑再統一という出来事は一回的な事柄である︒それゆえ︑もし︑ボーテの問題意識の中心が︑平時におけ

参照

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