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「恩寵による教育」と近代教育思想

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「恩寵による教育」と近代教育思想

‑Ch.H.ツエラーの教育理論を軸として‑

"Ⅰ姐ucationthroughGrace,,andModernEducationalThought:

TheCaseofCh.H.Zeller,s王道ucationalTheory

TosbikoITO

Abstract

InpolntOftheirhistory,Pedagogyandtheologyarecloselyrelated・Thisis thereasonwhytherelationbetweenlearnlngandbeliefisoftendiscussed・This paperaddressestherelationbetweenlearnlngandbeliefinmoderneducational

thought.Johann Heinrich Pestalozzi,a repreSentative of modern educational thought,foundanidealsystemofeducationinChristianHeinrichZe11er'sinsti‑

tute,Whichessentiallydependedon"educationthroughgrace"・Thisisaremark‑

ableoccurrence,aSthemodernwayof thinkinglS nOrmally opposed

to any

de‑

pendenceongrace.ThisstateofaffairsglVeSrisetothefollowlngqueStions‥

1.Whyweretherepresentativesofmoderneducationalthoughtsointensively

attractedto"educationthroughgrace"?;2.Howshould weinterpret thedif‑

ferencesoftheeducationalpracticewhichdevelopedbetweenPestalozzi'sinsti‑

tuteandZeller,sinstituteinsplteOftheircommonbasis? This paper aims

to

answerthesequestionsbyplaclngZeller,seducationalthoughtin thehistory

of

pletisticthought.

1問題提起

教育学の成立史を紐解くと、教育学が神学にいかに多くを負っているかが認識される。また、

教育学者の個人史を紐解くと、いかに多くの教育学者が専門領域として神学的教養を身につけ ていたかが確認される。教育学と神学、ひいては教育学者と神学者のもっこの歴史的な関わり の深さを背景として、教育と宗教の関係、さらには学習と信仰の関係は、教育問題をめぐる基 本テーマとしてしばしば議論の対象として取り上げられることになる。

エルカース(JtlrgenOelkers1947r)は、近代教育学の核をなす概念である「完成(Voll‑

endung)」もまた神学に由来する概念にはかならないことを指摘する。「完成」という言葉は、

キリスト教のなかにみられるように「偶然性を消去し、幸福への約束を納得させるものである から、宗教的言い回し以外のなにものでもない。」(Oeklers,S.29)そこで問題とされている

‑89‑

(2)

のはどこまでも倫理的「完成」であり、したがって「完成」の理念は教育学的連関においては

「善への教育」を軸として展開されることになる。善は、キリスト教の教えによれば、時代や 状況背景に左右されることなく絶対的なものとして第一原因(primacausa)によって決定さ れる。(vgl.a.a.0.,S.49)この教えにしたがえば、「完成」を確約する教育は「最高の保証 を呈する機関」を必要とするのであり、この機関とは「最終的には神以外のものではありえな い。」(a.a.0.,S.58)「純粋に精神的な媒体を要求する」(vgl.a.a.0.,S.62)「完成」という 概念は、このように、人間のあらゆる努力を決定的な局面では無意味なものとみなす永遠なる 世界(神性)への教育を構想させるものであり、ここに今もって解消をみていない近代教育学 のアポリアが生起することになる。

プランゲ(KlausPrange1939‑)は、近年発表した論文のなかで近代教育学のもっこうし た宗教的態度を教育的態度へと移行させるメカニズムを提起している。学習への動機づけは、

「現在の幸福に対する確信が低下する」(Prange,S.319)場合にのみ生じる。この理解にたっ と、学習と「恩寵」はそもそも相容れない関係にあり、したがって「神の存在と学習が互いに 補完して一つの方向を目指すものではない」(ebd.)ことば瞭然として明らかである。学習に 焦点を合わせた教育的態度は必然的に、恩寵に重点をおく宗教的態度からの決別を迫るものと

して把握されなければならないのである。しかし、「恩寵による教育」ないしは「永遠なる世 界(神性)への教育」という標語のもと、これほどまでに強く宗教的態度をして教育の基調を 決定し続けることを可能とさせた理由はいったいどこに求められるのだろうか。

ドイツ語圏における近代を啓蒙と敬虔の融合体として特徴づけたのはトレルチ(Ernst Troeltsch1865‑1923)であるが、ドイツ語圏における近代教育学もまた啓蒙的特性と敬度的 特性をあわせもっているといえる。したがって、近代教育学の創唱者のひとりに数えられるペ

スタロッチー(JohannHeinrichPestalozzi1746‑1827)が、啓蒙的契機に根ざす汎愛主義教 育の理念と平行して敬度主義教育の理念を抱いていたことは単なる偶然ではない。(vgl.

Suchanski,S.63)ペスタロッチーは、学習の機械化と魂の醇化を一本化することによって汎 愛主義教育の旨とする合理性の理念と敬度主義教育の旨とする内面性の理念を同時に実現しよ

うとし、その可能性を「メトーデ」の構想過程を通じて追求し続ける。1この追求が成就され ることなく終わったことば周知の事実であるが、この追求のなかで合理性の理念と内面性の理 念を並立させてかかげながらも、「神の愛の力に基づかない教育は無意味である」(ⅤれKA Bd.XXI,S.228)という言に端的に表明されているように、ペスタロッチーは内面性の理念に 極めて高い比重をおいている。このようなペスタロッチーの目に、ツエラー(Christian HeinrichZeller1779‑1860)を精神的指導者とする「貧民および貧民教員養成自由学園ポイケ

ン校(freiwilligeArmen‑undArmenschu11ehrer‑AnstaltinBeuggen)」は、内面性の理念を 高度に実現させた教育実践として強く焼きっけられる。その死までわずか数カ月を残した日、

この学園を訪問した晩年のペスタロッチーは、「ああ、これだ。これこそ、わたしが求めてい た学校だ」(E.Zeller,S.199)とっぶやいたと伝えられる。ペスタロッチーは、ツエラーの学

1シュタトラp(PeterStadler1925‑)はペスタロッチpのもっ関心の二方向性を以下のように年代 的に区別して理解している。当初、ペスタロッチーは「功利主義的な教育構想」に関心を示していたが、

ノイホーフの貧民教育施設の閉鎖を契機とし、「教授のメトーデ」および「技能の基礎化」にならんで

敬度主義に強くひかれるようになる。(vgl.Stadler,S.182)この関心の二方向性に支えられたメトー デ構想の結末については、拙著S.57f.を参照のこと。

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(3)

園に「途方もない精神」すなわち「神の精神」(Vinet,S.116)を感じとり、何か人間を越え たもの一恩寵一によって導かれる教育、人間を永遠なる世界(神性)へと導く教育に対 する憧慣をよみがえらせたのである。

この歴史的文脈から、以下の素朴な疑問が浮かびあがってくる。1.ペスタロッチーおよび彼 と同じ時代に生きた教育者は、なぜそれはどまでに強く「恩寵による教育」にひかれたのか。

2.等しく内面性の理念に支えられながら、ペスタロッチーの学園とツエラーの学園に生じた教 育実践の相違はなにを示唆するのか。本稿では、敬度主義教育の歴史の中にツエラーの教育思 想を位置づけることによって、このふたっの疑問の解明を試みたい。

2 敬虚主義と教育

ペスタロッチーとツエラーは、「教育は神と直接に関係づけられることによってなされなけ ればならない」という敬虔主義的な教育観にたっ。ペスタロッチーは、啓蒙主義的合理主義か

ら敬度主義へと転向したチューリッヒ知識人である親友ラーゲアーク,(JohannKaspar Lavater1741‑1801)、さらにチューリッヒの敬度主義者の結社の指導者を父として自らも信 仰深い敬虔主義者である妻アンナ(AnnaPestalozzi;geborenSchulthess,1738‑1815)を 介して敬度主義に接し、一貫性を欠いてはいるものの、長年にわたって敬虔主義と響きあう教 育に対する関心を示している。2一方、ヴュルテンペルクの敬度主義の家庭に生を受けたツエ

ラーは、バーゼルのドイツキリスト教協会を精神的母体として設立されたポイケン校の初代校 長として、敬度主義に基づく教育理念をあらゆる妥協を排して追求している。

敬虔主義は、スコラ主義に偏した教義や世俗化した教会制度への反動として、すなわち「心 情、および個人的な宗教的体験に立ち戻ることをとおして」(Reble,S.129)宗教的生活を内 面化することを信条として生じた運動である。敬虔主義の核心は、恩寵による人間の内的再生

におかれるが、ここで想定されているのは「神性に参与するまでに高められた状態」というキ リスト教的意味における完全性である。この個人的レベルにおける再生はしかし、最終的には 社会的レベルにおける再生へと発展していくものであるとされ、この意味では社会改革の理念 としても理解される。敬虔主義者と称されるのは、シュペナー(PhilippJakobSpener1635‑

1705)を宗教改革推進者・敬度主義創始者として認め、さらに自分の属する地方の敬度主義の 長老(例えば、ヴュルテンペルク地方ではベンゲル)の教えを受け入れるという要件を満たす 人々であった。したがって、敬度主義者の集会では聖書とならんでそれぞれの地方の敬虔主義 の長老の著した修養書を読むという慣例が生まれる。(vgl.Lehmann,S.85)3

悲観的人間観をその前提とする敬度主義の教えにしたがえば、「原罪の魔力のせいですべて の子どものJL、は邪悪な我意を担って」(Blankertz,S.49)いるので、子どもの本性もまた「堕 落して」いるとみなされる。原罪を負った子どもは「回心」へと導かれなければならないが、

この過程で教育に期待される最大の役割は子どものもつ「生来的な我意」(Francke,S.15)を

2 これについては以下の文献を参照のこと。Froese1963,S.340ff.;Silber1957,S.17;Stadler1988,

S.182ff.;Osterwalder1996,S.162

3 したがって、敬虔主義は厳密には聖書絶対主義にも宗教的個人主義にも分類されえない特徴を備えて

いるといえる。

‑91‑

(4)

「打ち砕く」4ことにある。したがって、敬塵主義教育は陰鬱な苦行を旨とする精神と愛でもっ で情緒の育成(culturaanimi)を行うことをその課題とし、具体的には純粋な敬虔・信心深 さ・宗教生活の内面化・キリスト教的品性の実現を目指すものと理解される。この教育観の根 底には、宗教性は外的な知識によってではなく祈りと労働を介しての内的な修養によって培わ

れるものであり、この宗教性により覚醒が生じるとする宗教観が横たわっている。(vgl.

Reble,S.124)

敬虔主義との関わりを指摘される教育学者は多い。フランケ(AugustHermannFrancke 1663‑1727)、ツインツエンドルフ(NikolausLudwigvonZinzendorf1700‑1760)とならび、

カント(ImmanuelKant1724‑1804)、ペスタロッチー、シュライアーマッハー(Friedrich ErnstSchleiermacher1768‑1834)もまた、敬度主義と何らかの接点をもっ教育学者である。

敬度主義の創始者であるシュペナーは、「修養(Erbauung)」という概念を軸とした教育論を 展開している。しかし、この「修養」は教育的プロセスになじむものではなく、むしろ宗教的 プロセスとしてとらえられる。というのも、「修養」という概念のもとに語られているのは、

人間が放下した状態におかれていることを前提として「生来の人間の無力さゆえに働く神の作 用」(Schaller,S.167)にはかならないからである。「修養」とは、すなわち「人間の内的再生 であり、受動的でしかもその罪深さゆえに無能である人間に向かって神の活動として働きかけ

るものであり、このことを通じて人間はキリスト教徒となるのである。」(a.a.0.,S.166) しかし、敬度主義教育を一義的に解釈することばできない。すでに述べたとおり、敬度主義 者はそれぞれ自分の属する地方の敬虔主義の長老の教えに即して敬度主義を理解するので、必 然的に様々な敬度主義の成立をみることになる。リッチェル(AlbrechtRitschl1822‑1889) は、この多様に分岐した敬度主義のなかにハレ敬度主義・ヘルンフート敬虔主義・ヴュルテン ペルク敬度主義という三大潮流を指摘しているが、この三つの流れはまたそれぞれに教育に対

しても独自の意義深い構想を提起していることが確認される。

1698年、ハレに『フランケ学院(FranckescheStiftung)』を設立したフランケは、1702年

に『子どもたちを真の信仰とキリスト教的怜例へと導くための教授要義(Kurzer und einfaltigerUnterricht,WiedieKinderzur wahren Gottseligkeit undchristlichen Klugheit anzufuhrensind)』を著し、学院における教育の指針を明らかにしている。『教授要義』によ

れば、教育の第一の目的はキリスト教信仰の形成、すなわち「心情の育成(Gemiltspflege)」

におかれなければならない。教育者は教理問答害および聖書を教材とし、とりわけ「真理・服 従・勤勉への愛」という三っの美徳を子どもの魂に植えっけるべく努力しなければならない。

この教授を通じて、子どもたちには祈ること、聖句・聖歌を暗記することが求められる。注目 されるのは、教育効果を確実なも・のとするために社会の悪影響から学院を遠ざける配慮がなさ れたことである。長期休暇の廃止・日曜学校の設置は、この意図に即してとられた方策である。

『教授要義』で説かれた教育の第二の目的は、キリスト教的怜例の形成である。教育者は、キ リスト教信仰という土台の上に公益的知識・実際的作業を獲得させることで、キリスト教的怜 例へと子どもを導かなければならない。学院においてこの教育は、薬品製造・書籍印刷といっ た形で結実している。フランケに代表されるハレ敬虔主義教育学は、「生来の自己を排除し、

4「打ち砕く」とは、ここでは、「神の意志によって意志を形成しなおす」ことである。(vgl.Schaller, S.173)

‑92一

(5)

自らの創造的諸力を無視し、神の法則の前に自らの意志を屈服させる」(vgl.Ranft,S.19f.) という指向性によって集約される。神の作用を人間の内面において受け入れることを可能とさ せるため、教育はこの指向性を習得させる役割を担うものとして理解されたのである。

ヘルンフート同胞教会は、1722年、ツインツエンドルフ伯に受け入れられたボヘミアおよ びモラヴィア出身の難民によって組織された教会である。教会の育成およびその個々の構成員 の魂の育成を目的として、ヘルンフート同胞教会は1727年、難民のための教育施設を設立す る運びとなるが、この施設は設立の意図に反して難民という対象枠を越えて受け入れられ、人々 が「まさに嵐のように押し寄せ、もうパンク寸前の状態なのに、『まだ余裕はあるか』と何度 も問い合わせにくる親が出る」(ZitiertvonLost1993,S.6)盛況ぶりをみせる。施設の教育 方針は、子どもを「一瞬たりとも監視の目から離すことなく」、「終日、肉体的精神的労働に従 事させる」(Lost1992,S.251)という苦行を尊ぶ原則をかかげる一方で、こういった「義務 と労働の連関から導き出された厳しく禁欲的な考え」を常に「宗教的内面性」および「喜びに 満ちた生活解釈」(Ballauf/Schaller,S.251)と結びっけてとらえたという点で、ハレの教育 とは区別されるものとなっている。この独特の教育観は地上における至福の心情的体験を目指 すツインツエンドルフの世俗志向を反映させたものであるが、この世俗志向の結果、教育が宗 教的倫理的完全性の理念から解放され、さらに子どもがこの理念の梗桔から解放され、画期的 な教育状況が生み出されることになる。5ヘルンフートでは、子どもは「すべての才能を備え、

十分な価値をもつ人間」であり、まさにこの才能の発達段階におかれた存在とみなされる。

(vgl.Lost1992,S.251)6教育に期待された役割はしたがって、子どもに生活のための職業能 力を徐々に身につけさせながら、同時に永遠なる世界(神性)のための使命に対する自覚をう ながす回心、の過程として機能することに求められるのであり(vgl.a.a.0.,S.252)、ここに 子どもを等身大でとらえる教育、換言すれば子どもの固有価値の尊重をその根底におく教育へ の方向性が確立される。ヘルンフートの教育においてさらに注目されるのは、他の宗派に対す る開放的な態度である。この背景には、ヘルンフート同胞教会に対して「あらゆる教派・宗派 からなる兄弟愛に満ちた協会」(Brecht1995,S.258)の実現を要求し続けたツインツエンドル フの主張がある。この寛容性ゆえに、ツインツエンドルフの理念にたっ教育構想は異質な教派・

宗派をかかげる人々のなかにも乳轢を醸し出すことなく溶け込み、敬虔主義という枠を越えた 普及をみる。

ハレ敬度主義・ヘルンフート敬度主義という敬虔主義の二大潮流は、やがてそろってヴュル テンペルクに流れこむが、そこではこのどちらの潮流からも区別される新しい潮流、すなわち ヴュルテンペルク敬度主義が生起する。ヴュルテンペルク敬虔主義は、シュペナーやフランケ

5 来世志向的態度を絶対化する立場の否定は、ツインツエンドルフの思想の基本特徴をなすものである。

ヴューバー(MaxWeber1864‑1920)は、このことについて以下のように述べている。「完全性に向 かって体系的に努力を重ねることを拒絶するこのツインツエンドルフの態度は、合理的な作業そのもの を行うことで来世にいたる確信を獲得させる指導をするものではなく、『人間は現在すでに至福の状態 にあるという気分を感じとらせる』という、要するに幸福主義の理念に合致している。」(Weber,S.100)

6 ツインツエンドルフに語らせるならば、「子どもは小さいながらも尊厳者であり、洗礼はそれを塗油 するものである。今後、子どもは生まれながらの尊厳者以外の何者としても扱われてはならない。」

(ZitiertvonLost1992,S.253)ヴューバーは、「子どもらしさという宗教的感情がその真実性を示す 目印である」(Weber,S.100)とするツインツエンドルフの表明のなかに、ツインツエンドルフの子ど も観の独自性をみている。

‑93‑

(6)

の教えと一線を画しっっ、ベンゲル(JohannAlbrechtBengel1687‑1752)およびェティン ガー(FriedrichChristophOetinger1702‑1782)の教えを基礎として形成される。(vgl.

Beyreuther1978,S.240)「静観的態度の貫徹J(a.a.0.,S.244)7によって特徴づけられる教 えを提唱したベンゲルは、体系化された教育書こそ著していないものの、自身、教育者として の活動を展開している。教育者としてのベンゲルは、「信心ぶった厳格主義とは無縁な、親切 で寛容な教育者」(Brecht1995,S.260)であろうと努め、その教育活動のなかで聖書を素材と

して様々な教材をっくり出していくが、あくまでも知の集積に陥ることなく良き行動様式を獲 得すること(habitum)に主眼をおく立場をとる。ベンゲルはまた、ハレの敬度主義教育では 否定的に解釈されていた「教育における遊戯の価値」を再考する等、斬新な教育見解も提起し ている。ベンゲルの「自主性を促進する教育」はしかしながら、結局は理念どおりに機能する ことはなかった。

ベンゲルの敷いた基礎の上に形成されたヴュルテンペルク敬度主義から、1780年、後に救 済院運動の名のもとに決定的な影響を教育界に与えることになる組織(ドイツキリスト教協会

の前身)がバーゼルに設立される。この組織が設立された当時の敬度主義は、疾風怒涛・感傷 主義・ロマン主義といった時代思潮を反映させ、断固とした反啓蒙主義的態度と主観的経験の 重視によって特徴づけられる新しい段階に入っていた。この時点をもって、啓蒙主義と敬虔主 義が手に手をたずさえて共通の敵である「硬直した正統信仰」と闘った時代は終焉する。それ

はまた同時に、汎愛主義教育学と敬度主義教育学が共同体制を組んでひとつの教育施設を運営 しえた時代の終焉をも意味する。バーゼルに拠点をおくヴュルテンペルク敬度主義の組織は、

ちょうど精神的指導者の不在で混迷状態にあったハレの敬虔主義者をもとりこみながら、ヘル ンフート同胞教会とならぶ覚醒運動の一大拠点として発展していくことになる。

この組織の設立を実現に導いたのは、アウグスブルク出身の神学者ウルルスペルガー(Jo‑

hannAugustUrlsperger1728‑1806)である。ウルルスペルガpは、「南ドイツを代表するハレ 敬虔主義者」(Weigelt1995,S.710)として有名なサムエル・ウルルスペルガー(Samuel Urlsperger1685‑1772)を父として生を受けるが、1770年代半ば、学問的目標と実践的目標

をあわせて設定する組織を設立することを決意したことを機として、ヴュルテンペルク敬度主 義の勢力圏に位置するバーゼルにたどり着くことになる。ウルルスペルガーの構想によれば、この 組織は新解釈者や合理主義者からキリスト教の真理を擁護し(学問的目標)ながら実践的キリ

スト教を育成する(実践的目標)ことをその趣旨とし、1698年にイギリスに設立された「キ リスト教的知を促進する協会(SocietyforthePromotionChristianKnowledge)」、および

1771年にスウェーデンに設立された「信仰およびキリスト教のためのスウェーデン協会(Societas SvecanaproFideetChristianismo)」(vgl.Weigelt1981,S.53;Weigelt1995,S.712)8を

モデルとして機能するものである。この提案はとりわけバーゼルで大きな反響を得、この結果、

1780年には同地に6人の発起人の手で「正確な教義および真実の信心のために活動している 支援者によるドイツ協会小委員会(EngererAusschussderDeutschenGesellschaftthatiger

7 この「静かに待っ」姿勢は、後にツエラーの教育理念の形成において「恩寵による教育」を支える背 景として作用したと想定されるものである。

8 ゥルルスペルガーは、1765年に「キリスト教的知を促進する協会」の会員に、1778年には「信仰お よびキリスト教のためのスウェーデン協会」の会員になっている。

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BefbrdererreinerLehreundwahrerGottseligkeit)」が設置され、続いて数多くの支部が設 置されるにいたる。(vgl.Weigelt1995,S.710)9新しい組織がこのように首尾よくすべり出 すことができたのは、ウルルスペルガーの提案が具象化された拠り所を求めていた当時の敬度 主義者の欲求に合致していたためである。とりわけ、1769年にフランケの息子であり後継者 であったゴットヒルフ・アウグスト・フランケ(GotthilfAugustFrancke1696‑1769)の死 後、求心力となる支柱をなくしていたハレ敬度主義者にとって、この組織の設立は時宜を得た

ものであったといえる。

しかし、この組織に加わった敬度主義者が必ずしもウルルスペルガーのかかげる目標を支持 していたわけではない。なかでも組織の中核をなしたヴュルテンペルク敬度主義者は、護教諭 的目標をかかげるウルルスペルガ一に抗して「修養的、創造的課題設定」10を追求したので、

協会における基本的合意は、1.人間は救済を必要とする、2.キリストは神であると同時に人間 である、3.人間はキリストの犠牲の死によって神との和解に達する、という3点を越えるもの とはなりえなかった。組織の運営については、1782年に設置された協会書記職にあたったヴュ ルテンペルク出身の若者に負うところが大きい。組織の基礎固めに貢献したシュタインコプフ (CarlFriedrichAdolfSteinkopf1795‑1801在職)、組織名を「ドイツキリスト教協会」と

改称して活動の拡大をはかったブルムハルト(ChristianGottliebBlumhardt1803‑1807 職)を経て、組織の理論的実践的確立に寄与したシュピットラー(ChristianFriedrich Spittler 1807‑1867 在職)11の代には協会の活動はその繁栄を極める。当初、組織の活動は会員間の

9 バーゼルという拠点は、あらかじめウルルスペルガ一によって意図されていたわけでほなく、同地が もちあわせていた以下の理想的な立地条件によって決定されたものである。1.敬度主義は1740年のツイ ンツエンドルフの訪問を契機としてバーゼルに確実に根づいており、しかもこの外来の敬度主義は当時、

敬度主義と正統信仰の和解をとなえた地元出身の教会派敬度主義者アノニ(Hieronymusd'Anonie 1697‑1770)の思想と溶け合っていた。2.バーゼルでは、検閲と監視が比較的ゆるやかであった。3.キ

リスト教協会の設立に対して経済的、組織的援助を惜しまない有能な幹部となる平信徒が数多く存在し た。4.商人のなかにも敬度主義をかかげるグループがすでにいくつか存在した。(vgl.Lindt,S.116)

10ゥルルスペルガーの心積もりでは、「新解釈者に対して神学上の闘いを.挑む」という護教諭的活動が 組織の中心課題となるはずであり、したがって組織はその性格上、「信仰を擁護する協会(societas

de

defendendafide)」となるはずであった。しかし、バーゼルに設置された組織は第一期(1780年〜1795

年)には会員間の交流に限定された活動を行い、いわゆる「信仰を確立する協会(societas

de

confirmandafide)」として機能し、1793年に外国における伝道が開始されたことに象徴される第二

期(1795年〜1810年)には、「信仰を宣伝する協会(societasdepropagandafide)」という性質を 帯びるようになる。さらに「バーゼル・ミッション」の設立(1815)・「貧民および貧民教員養成自由学 園ポイケン校」の設立(1820)といった大きな事業で注目される第三期(1810年〜1825年)の協会は、

「信仰を説教する協会(societasdepraedicandafide)」として特徴づけられるものへと発展する。

しかし、ウルルスペルガーが組織に期待していた「信仰を擁護する協会」としての活動は、この協会の 変遷史のなかに一度として登場することはなかったのである。(vgl.Benrath,S.105ff.)この意味に おいて、ウルルスペルガーは組織発足の契機を提供したものの、組織の活動そのものはウルルスペルガー の思惑とは大きくかけ離れたものであったといえる。

11シュピットラーはヴュルテンベルクの牧師館に生まれ、1810年、当時ドイツキリスト教協会の第一代 書記であったシュタインコプフの助手としてバーゼルに派遣され、第二代書記であったブルムハルトが 新しく設立された「バーゼル・ミッション」に移動した後、第三代書記に就任し、1867年の死にいたる まで60年間の長きにわたって協会の運営にあたる。シュピットラーの関心は啓蒙神学を批判すること にではなく、「実践的伝道的キリスト教を建設的に支援する」(Lindt,S.125)ことにあった。したがっ て、シュピットラーは大学の神学教授とも友好的な関係にあり、平信徒の立場からスイス敬度主義とヴュ ルテンペルク敬虔主義の架け橋を築くための活動を多岐にわたって展開する。

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交流にとどまっていたが12、組織名を「ドイツキリスト教協会」と改称した時期(1804)を境 として、活動の内容はオランダやイギリスに範をとった伝道促進を中心としたものへと移行し ていく。1815年の「バーゼル・ミッション(BaslerMission)」の設立は、組織の新しい方向 性を象徴する事業であり、さらに1817年に発足した「貧民および貧民教員養成自由学園設立 協会」は、1820年のポイケン校開校をもってこの方向性を不動のものとする。伝道促進とい

う目的のために開設されたこのふたっの施設は、前者はブルムハルトの指導のもと、後者はツエ ラーの指導のもと、多くの伝道者を輩出させ、開設の意図を果たしている。

ドイツキリスト教協会は、はかならぬこのポイケン校の開設によって伝道促進への決定的な 契機をヨーロッパ全土に与えることになる。異教徒を対象とする伝道活動はすでにハレ敬度主 義において実施されており、ヘルンフート敬度主義もまたこれを継承している。これに対して

ヴュルテンペルク敬度主義に属するブルムハルトは、キリスト教徒に対する伝道活動に目を転 じる。ポイケン校の設立に意欲的に取り組んだシュピットラーもまた、キリスト教徒に対する 伝道活動に先駆的意義をみいだし、はるか遠くにある異郷での伝道活動と同じように「すぐそ

ばの貧しい地区での」(vgl.Blaser,S.137)伝道活動もまたなされなければならないと考える。

伝道活動は神の国の伝統を拠り所とする覚醒運動の一環をなすものであるが、覚醒運動が「人 間はその出生とは関係なく、神の国に参与することができる」と説き、現世の身分を水平にと

らえる社会観を示したため、この運動はこれまで宗教運動から除外されていた多くの低階層の 人々をも引きっけ、これに乗じて伝道活動という形をとった覚醒運動はさらなる普及をみるこ

とになる。(vgl.a.a.0.,S.139f.)

ところで、スイスにおける敬度主義教育施設はポイケン校に先立っ歴史をもっている。敬度 主義に基づく教育実践としてスイスで知られるのは、プランタ(MartinPlanta1723r1772) およびネーゼマン(JohannPeterNesemann1724‑1802)によってダラウビュンデン州に設 立されたハルデンシュタイン校(SeminariuminHaldenstein)である。13プランタは「理性と 哲学」に多大な価値を置きながら、その一方で「キリスト教はあらゆるものから区別されるも のであり、理性と哲学はいっの時代にあっても宗教の唯一の真の源泉として啓示を理解するた めの有用な補助手段にすぎない」(Planta1766,S.43f.)と考える。この強固な宗教的確信の 上に、プランタは1761年、ハレの孤児院をモデルとした子どもたちの共和国をハルデンシュ

タインに設立したのである。

プランタは、ハレの教育学についてかなりの造詣を有していたと思われる。というのも、グ

12 この頃(1783)、組織の会員は「通信活動をする敬度主義者」と呼ばれている。(vgl.Benrath,S.

93)

13 ハルデンシュタイン校は、スイスで唯一の全国的社会改革組織として1761年に設立された「ヘルヴュ ティア協会」と深く関わっている。この協会は、啓蒙主義的な宗教的寛容の精神をかかげるが、その現

世的な指向性を支えるのは宗教無用論ではなく宗教は人間に不可欠なものとみなす汎宗教論である。フ ランス軍に屈する形で成立したヘルヴュティア共和国の新政府は、新しい政治体制の始動とともにスイ スを統一国家として確立するという課題に向かって蓮進することになるが、ヘルヴュティア協会はこの ような状況のなかで新政府に対して様々な提言を行っている。そのひとつが新しいスイスを担う次世代 を養成するために国立エリート学校を設立するという提案であり、当初バルトハーザー(Franz

Urs

Balthasar1689‑1763)やボートマー(JohannJakobBodmer1698‑1789)の学校構想を手がかり

とした模索を続けていた協会は、この構想の実現の可能性を疑問視するにいたり、最終的にはこの理念 を部分的に実現しているとされるハルデンシュタイン校に関心を表明してその教育実践を例会で報告さ せるとともに、支持の立場を明らかにしている。

‑96‑

(9)

ラウビュンデンの牧師であるギラルドン(AndreasGillardon1661‑1723)とフランケの文通 を契機として、グラウビュンデンとハレの間には密度の濃い交流が行われていたからである。

(vgl.Dellsperger1995,S.604)このギラルドンに感化されたゲィリ(DanielWi11i1697‑1770) は、1727年、トゥシスにグラウビュンデン初の孤児院を設立している。この施設はわずか‑6 年で閉鎖に追い込まれるのであるが、同地に敬度主義に根ざす教育施設が存在したという事実

は、プランタのハルデンシュタイン校設立に際して政治的・技術的に有利に作用したと考えら れる。しかしながら、敬度主義教育方針をかかげたハルデンシュタイン校そのものも短命に終 わる。1772年、プランタの死をもって施設の経営権はザリス(UlyssesvonSalis1728‑1800)

の手に移り、ハルデンシュタイン校はバセドゥ(JohannBernhard Basedow1724‑1790)の 学校を模した汎愛主義的教育施設へと変容され、敬度主義的教育実践の歴史にピリオドを打っ ことになる。14

3 ツエラーとポイケン校

ポイケン校の初代校長となるツエラーは、「プロイセンのペスタロッチー」として教育史に 名を残すカルル・アウダスト・ツエラー(CarlAugustZeller1774‑1840)15の弟である。ツエ

ラーは父親の希望でテユービンゲンで法学を学ぶが、ルードヴィヒスブルクに弁護士として赴 任して間もなく自身の職業的適性について疑問を抱き、以後、教育職に転じる。まず、学生時 代に哲学教授アペルの娘の家庭教師として働いた経験から生じた人脈を通じて1801年にアウ

グスブルクの貴族の息子の家庭教師をっとめたことを皮切りに、ザンクト・ガレンの私立学校

14宗教的には同じ精神でもって出発したプランタの教育施設とツエラーの教育施設ではあるが、寛容の 精神においては鮮やかな対照をなしている。プランタは、汎愛主義者であるザリスと共同経営の形でハ ルデンシュタイン校にたずさわるが、この協力体制が可能となった根拠は、プランタとザリスがヘルヴュ ティア協会という共通の支持基盤をもっていたという政治的背景に加えて、プランタがその教育実践上 依拠したハレ教育学の本質に求められる。すなわち、ハレでは学校教育における自然科学関連教科の重 視にみられるように啓蒙主義的知に極めて高い比重がおかれており、このハレ教育学の方針を受け継い だプランタは啓蒙主義的立場を代表する教育学である汎愛主義をうたうザリスとの間にこれといった不 都合をきたすことなくひとつの学園を運営することができた。一方、ツエラーのポイケン校は寛容の精 神に乏しい。ツエラーは「フランケの継承者」として自身を位置づけているが、ツエラーの教育施設で は、「当学園は、知識でほなく良尤、を育む場である」という方針のもと、「魂の世話」を基調として子ど もを「無能の自覚」へと導くことが推奨され、その結果、フランケが重視した自然科学関連教科が削除 される等、フランケの教育観との間にいくつかの敵酷をきたしている。また、ハルデンシュタイン校で 推奨された体育も、ポイケン校では「体育の目的は、労働の時間においてすでに達成されている」とい

う理由により姿を消している。ポイケン校の教育観は、したがって、啓蒙主義的教育観ないしは汎愛主 義的教育観と相容れないことをその本質とする。

15カルル・アウグスト・ツエラーは、1863年、リヒテンシュタインに新たに設立された救済院の運営を まかされ、短期間ではあるが救済院運動に加わっている。しかし、宗派と無関係に子どもの入学を認め る、子どもの本性を善とみなす、家庭的教育価値よりも社会的教育価値を重視する等、汎愛主義の精神 を全面に押し出した運営を試みたため、彼は間もなく施設の経営母体であるドイツキリスト教協会会員 の不信をかい、リヒテンシュタイン校の校長職を追われることになる。なお、カルル・アウダスト・ツエ

ラーについては、近年、バウアー(AnnedoreBauer1954‑)による緻密な研究が発表されている。

その書のなかでバウアーは、兄ツエラーを啓蒙主義的精神の持ち主として、弟ツエラーを敬度主義的精 神の持ち主として対照的にとらえ、ツエラー兄弟をもって当時の教育思潮のふたっの極を代表させてい

る。

‑97‑

(10)

での教師職を経て、1809年にはツオーフィンゲンの公立学校の校長職を得るにいたるが、ポ イケン校設立にともなう人選によりドイツキリスト教協会からの要請を受けてこの校長職を辞

し、1820年から死にいたる1860年までの40年間にわたる後半生をポイケン校に捧げている。

ツエラーの実践が実を結び、ポイケン校は間もなく救済院運動の起点としてヴュルテンペルク、

スイスはもちろん、アルザス、バーデン、ラインラント、プロイセン、ロシア、北アメリカに まで大きな影響を与え、ツエラー自身も「覚醒運動に指導的役割を果たす教育学者」(Dehlinger, S.6)のひとりとして高い評価を受けるようになる。

ポイケン校には、貧民学校のための教員養成機関とその実習校の役割をかねた貧民教育機関 が併設されていたが、このうち教員養成機関は、当時の公立教員養成機関に自らを対置してキ

リスト教的家族生活をその範にとり、謙遜・謙虚の標語のもとに手仕事の訓練・伝道使命の理 解を目指すことで「真の教育者」養成をうたうものであった。1820年4月17日の開校から2

ケ月、ツエラーはポイケン校の設立趣旨を以下のようにかかげる。

1本校は、単なる教授施設ではなく、教育施設である。

2 本校は、単に市民の教育施設ではなく、神の国に仕える教育施設である。

3 本校は、強制に基づく施設ではなく、自由意志に基づく施設である。

4 本校は、富める者のための施設ではなく、貧しい者のための施設である。

5 本校は、高等教育学校ではなく、初等教育学校である。

6 本校は、キリスト教精神にあふれた有用な孤児院教員および病院学校教員を養成する。

7 本校は、特定の教育学派や教授法に拘束されない。

8 本校は、3年間の養成課程を設ける。

9 本校は、現世的名声にとらわれない、寡欲で謙虚な教員の養成に奉じる。

10 本校は、救世主と神の国の栄光のために、貧民の負担軽減と救援のために存在する。

ツエラーによれば、人間は原罪を負って生まれてくるのであり、人間の救済は自由意志によ る神への献身によってのみ可能となる。ここに、ルソー(Jean‑JacquesRousseau1712‑1778) のとなえた「自然の発達」を軸とする教育論は真っ向から否定される。というのも、「自然の 発達」とは、ツエラーの人間観にしたがえば、「罪と死の発達」(Zeller1893,S.4)以外のな

にものでもないからである。ツエラーは聖書の啓示に基づいてその教育論を構築しているが、

平信徒という立場から神学的教義にとらわれない自由な聖書解釈を行い、これをもとに心情を その基調とする独自の教育実践を展開する。ツエラーにしたがえば、教育とはその本質におい て人間からではなく神から差しのべられる「救済」に他ならず、したがって真の教育とは「人 間救済」であり、必然的に「人間の技ではなく、神の技」に帰されるものである。われわれ人 間にできることは、せいぜい「植え、水を与え、世話をする」(Monatsblatt1829,S.59)こ

とだけであるとするツエラーの教育論の帰結は、ベンゲルの原則とする「静観的態度の貫徹」

(Beyreuther1978,S.244)を強く反映させたものとなっている。「フランケの継承者」16であ ることを自認し、啓蒙時代に生起したあらゆる教育制度を否定したツエラーであるが(vgl.

16教育活動を始めたころ、ツエラーは主としてニーマイアー(AugustHermannNiemeyer1754‑

1823)の『教育と教授の諸原則(GrundsatzederErziehungunddesUnterrichts)』(1796)を手が かりとして独学的に教育に関する知識を身につけている。(vgl.Dehlinger,S.16)したがって、ツエ

ラーが自らの教育実践においてハレ教育学との関わりをことさらに強調したのも根拠のないことではな

い。

‑98‑

(11)

Zeller1883,S.21f.)、実際、決定的な教育作用をただ神とその恩寵に帰するなど、その教育理 念は理論的にはむしろベンゲルに多くを負っている。17ヴュルテンペルクだけでもポイケン校

に直接刺激された27の施設が誕生したことから読みとれるように、ツエラーおよびその教育 施設は貧困化のすすむ時代のただなかにあって18、救済院運動の象徴として教育界に大きな影 響を与えていく。

「フランケの継承者」という自称にもかかわらず、ツエラーの教育観の根底をなすのはすで に述べたようにヴュルテンペルク敬虔主義であるが、ツエラーとヴュルテンペルク敬虔主義と の縁は祖父の代にまでさかのぼる。ツエラーの祖父、ヨハン・クリストフ・ツエラー(Jobann ChristophZeller)は、フラティッヒ(JohannFriedrichFlattich1713‑1797)とともにデン ケンドルフの修道院付属学校でヴュルテンペルク敬度主義の視であるベンゲルに直接師事して いる。(vgl.TierschBd.I,S.45)その後、ツエラーの祖父の早死を機として、フラティッヒ はツエラーの父であるクリスティアン・ダゲィット・ツェラ,(ChristianDavidZeller)の 教育係の任にあたることになる。(vgl.Brecht1995,S.265)フラティッヒは、ルードヴィヒ スブルク界隈では絶大な人気を誇った教育者であったが、「人間をひとつの枠組にそって教育 することばできない。個人的な教育のみが可能である」(a.a.0.,S.265)という見解を反映

させ、教育の緻密な体系化には手を染めていない。この見解は、フラティッヒの師であるベン ゲルが教育における教育者の主導権を同様に斥けたことからもうかがえるように、ヴュルテン

ベルク敬虔主義の大きな特徴をなしている。このように、早くに父を失ったとはいえ、恵まれ た教育環境に育った人物の息子として、後にポイケン校を率いることになるクリスティアン●

ハインリッヒ・ツエラーもまた、ベンゲル、エティンガー、ユング・シュティリング(Heinrich Jung‑Stilling1740‑1817)の書に親み、とりわけツオーフィンゲン時代にはユング・シュティ

リングの崇拝者として知られていた。(vgl.TierschBd.I,S.127)家庭外でツェラpが敬虔 主義と深い関わりをもったのは、学生時代、学生組合の前身である「真善美の促進をうたう有 徳同盟協会」のなかで「自我の醇化、人間性の改善」(Dehlinger,S.13)に没頭していたとき

である。1799年、ツエラーは条件っきではあるが、自分の指向性と敬度主義のそれとが一致 していることを初めて表明している。(vgl.a.a.0.,S.14)ザンクト・ガレンではツエラーは ラーゲァーターの教えをその核として結成されたシュラックー(AnnaSchlatter)のグループ と定期的に交流し(vgl.a.a.0.,S.17)19、さらにメルツ(MariaMagdalenaM豆rz)と書 面による交流を育んでいる。こうして、ザンクト・ガレン時代(1804‑1807)にはまだ「徹底

的に合理主義者であった」(TierschBd.Ⅰ,S.94)ツエラーは、1816年までには「合理主義か ら次第に遠ざかり、キリスト教的確信と認識にたどり着く」(a.a.0.,S.Ⅶ)にいたる。

1811年、ドイツキリスト教協会の書記職にあったシュピットラーと出会ったツエラーは、

17その一方で、ツエラーとベンゲルには見解の相違もみられる。たとえば、ベンゲルが「罪深い過去に っいての自己探求や分析」(Brecht1995,S.260)にあまり価値を認めなかったのに対して、ツエラー はこういった行為を積極的に評価している。

18当時の貧困には、フランスからの解放を目的として過大な税金や徴兵の負担が民衆に押しつけられた

こと、工業化の発達にともなって多くの伝統的な生業が廃止に追い込まれたことなど、複合的背景があ

る。

19このグループには、シュラックーの二人の姉妹(HelenaSchlatter,JudithHess,geboren Bernet) も属していた。

‑99一

(12)

以降、手紙の交換を行い、1813年にはバーゼルのキリスト教協会の会員として登録されてい ることが確認されている。ツエラーが1816年10月にブルムハルトとシュピットラーと対話し た際、三者は以下の共通願望を確認する。「はるか遠くの異郷にあるのと同じ様な施設をわれ われのすぐそばの貧しい地区にも設置し、異教徒の使者と同じような精神でもってキリスト教 の教えにかなう教師をわれわれの重しい子どもたちや教区民のために養成することができれば いいのであるが。」(Dehlinger,S.31)この頗望を実現するため、ツエラーは1817年4月、早 速にキリスト教教育施設の構想を「伝道のための学校教員養成施設の設置および整備に関して、

専門家として考えること」という表題のもとにまとめあげている。この構想の基本は、修道院 のように生活から疎遠な施設としてではなく、敬度な雰囲気に満たされて生活をしている大家 族のようなものとして施設を形づくることにあった。却1818年の聖金曜日に回心を体験したツエ ラーは、これを機としてその人生を最終的に敬度主義的信心へと捧げる決心をする。

真の教育は、「人間の現世の使命を果たす能力とともに、人間の永遠なる世界(神性)の使 命を果たす能力を付与する」(Zeller1893,S.2)ものでなければならない。前者が人間の技で

あるとするならば、後者は神の技であり、真の教育者はしたがってひとり神のみである。被教 育者、すなわちわれわれ人間は、教育を受けるためにまず「そこにのみ至福が宿るとされる神

と個人的な関係を結ぶ」(a.a.0.,S.8)必要がある。しかしながら、この関係を通じて神の 教えを享受することばすべての人間に認められているわけではなく、謙虚な人間にのみ認めら れている特権である。教育成立のための必要十分条件は、したがって、教育者としての神の存 在と被教育者としての謙虚な人間の存在である。この教育環境を整備するため、ツエラーは知 的な人間ではなく謙虚な人間を選んで入学させることをポイケン校の方針としてかかげる。こ の方針は、ポイケン校の入学試験記録によっても明らかである。この記録によれば、入学希望 者は口頭試問において以下のような質問を受けることになっている。「あなたは、いっ信仰に

目覚めましたか。どんな状況のなかで、そしてどんなふうにあなたは信仰に目覚めたのですか。

信仰に目覚めてからのあなたは、どんな感じですか。なぜ、あなたは神に仕える気になったの ですか。なぜ、あなたは貧民学校の教師として神に仕える道を選んだのですか。」(E.Zeller, S.42)これらの質問はいずれも謙虚な人間を選別するための一助として機能したことが想定 される。こうして、ポイケン校は謙虚な雰囲気を徹底して追及するようになる。

敬度主義者は個人的体験を日記や自伝の形で表現することを常とするが、ポイケン校の関係 者によって発刊された機関誌のなかには日記・自伝に類する体験談が数多く書き留められてい る。この体験を綴った記録に特徴的なのは、好んで受け身表現が用いられたことである。とい うのも、彼らの目には、この世界はただ「突然舞台に現れて急場を救う神(Deusexmachina) に基づく因果関係」(Gunther,S.158)によって支配されていると映ったからである。ポイケ

ン校で学んだ者には、原則として、養成課程修了後に伝道活動にたずさわる義務が課されてお り、この義務を負う意図のない者には150フランの学費納入が課されるしくみになっていた。

これは、ポイケン校が「福音教会のなかで民衆生活のキリスト教化を実現するという、キリス ト教徒への伝道」(Zeugin,S.49)に奉じるものであるとするツエラーの意向によるものである。

20 ッエラーのこの意図は、ポイケン校の開校から数年後、すでに実を結んでいたことが、ゲィネ (AlexanderVinet)の作成した1829年の報告書の一文からうかがえる。「もし私が実際に宗教的な生 活を目の当たりにしたことがあるとすれば、それは唯一ポイケンにおいてである。」(Vinet,S.119)

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(13)

4 ツエラーとぺスタロッテー

コンラート・ツエラー(KonradZeller)は、ポイケン校の教育方針を体現するツエラーが 敬度主義者であり、同時にペスタロッチー主義者であったとしている。(vgl.Zeugin,S.5)し

かし、ツエラーを額面どおりのペスタロッチー主義者として特徴づけることには、大きな疑問 の余地が残されている。その著『現世と永遠なる世界(神性)のための子ども教育(Die ErziehungderKinderfurZeitundEwigkeit)』の冒頭に、ツエラーははっきりと「真の教育

はキリスト教教育である」と記しているが、教育理論構築の起点をなすともいえるこの基本的 確信がペスタロッチーとも共有される性質のものであることは議論を待たない。しかし、時を 経るにつれてツエラーはペスタロッチーの教育論が十分にはキリスト教的でないとみなすよう

になる。ツエラーによれば、ペスタロッチーは「キリストによる購罪の救済の必要性」に対し ても「聖霊による内面性の新生の必要性」(TierschBd.I,S.93)に対しても明確な態度表明 を欠いており、その帰結として、キリスト教教育が本来、現世の使命と永遠なる世界(神性) の使命というふたっの目的を同じように追求しなければならないものであるにもかかわらず、

永遠なる世界(神性)の使命にかけられた比重に関してペスタロッチーの教育実践におけるそ れはあまりにも弱いものとなっている。

ツエラーはアウグスブルクで貴族の子息の家庭教師をしていた時代(1802)、『ゲルトルート はその子をいかに育てるか(WieGertrudihreKinderlehrt)』、およびブルクドルフにおける 教育実践に関するいくつかの報告書を通じて、ペスタロッテーの教育思想を知るようになる。

1803年秋、ザンクト・ガレンで教員生活を送っていたツエラーはブルクドルフのペスタロッ チーを訪問し、一週間、同地に滞在する。ペスタロッチーの教育活動のなかで青年ツエラーが とりわけ感銘を受けたのは、‑当時の訪問者が一様にペスタロッチーのメトーデに対する関心 を深めてブルクドルフを後にしたのとは対照的に‑「民衆の窮状」を緩和しようとするペス タロッチーの教育姿勢であったとされる。貧民学校の教師養成および貧民子弟の教育という実 践によって積極的に貧民教育事業に取り組むペスタロッチーの姿は、実際にはこれらの努力が 満足な成果を生み出していなかったものの、若きツエラーを魅了する。しかし、ツエラーはペ

スタロッチーの教育観に対して共感に終始したわけではなく、いくつかの異論も提起している。

ツエラーがペスタロッチ一に向けた批判の第一は、「人間の本性は善である」とするペスタ ロッチーの楽観的人間観である。ツエラーはこの人間観を「ペスタロッチーがルソーの誤りを 無思慮に継承したもの」(vgl.E.Zeller,S.215f.)として退け、さらにこの人問L観に基づく

「自然発達を旨とする」教育観をも否定する。人間の自然発達に寄せた絶対的信頼を根拠とし て、ペスタロッチーのなかで教育についての楽観主義が色あせることはなかったが、これはツエ

ラーの悲観的人間観に真っ向から対立するものであった。ツエラーは、「そもそも、弱い存在 である人間がそういった(=現世の、そして永遠の世界の)目的へと教育を施すことができる のだろうか。人間はそういった目標へと教育されうるのだろうか」(Dehlinger,S.25)と自問 する。1818年の回尤、体験を機として、ツエラーははっきりとペスタロッチ一に対立した見解 を示すようになる。すなわち、ツエラーによれば、原罪を負って生まれてきた人間にとっての 真の教育とは合自然の法則による教育ではなく福音による教育である。また、真の教育のため の唯一の手段は、現世の目的と永遠の世界の目的の双方に寄与しうるのがひとり自然を越えた 神の援助である以上、「救世主による福音」以外のものではありえない。原罪を負った人間の

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(14)

自然発達にゆだねられた教育とは、これとは対照的に、「罪と死の発達」(vgl.Delinger,S.28;

Zeller1893,S.4f.)以外のなにものでもない。

さらに、ツエラーは道徳的、宗教的陶冶におけるペスタロッチー教育学の不徹底さを指摘す る。ツエラーによれば、ペスタロッチーの教育は「調和的かっ楽観的な発達という結果へとわ れわれを導くことができない。」(Dehlinger,S.25)というのも、ペスタロッチーのメトーデ

は知的要素すなわち理解力を過度に偏重しており、その結果として福音書の教えに基づく心ゐ 陶冶を軽視しているからである。(vgl.Monatsblatt1832,S.33f.)ツエラーとペスタロッチー

は、「教育の本質は愛である」という同一の見解をもちながら、この「愛」の解釈においては ツエラーのいうところでは「(ペスタロッチ一には)愛を恩寵の結果として位置づける視点が 欠けて」いるという点において区別される。これは、ツエラーがペスタロッチ一における内的 直観に対する洞察の残さを指摘したものと受け取ることができる。

キリスト教の原理に基づいた救済院の設立を意図していたツエラーは、学校の教科を子ども を「その永遠なる世界(神性)の使命の認識」ないしは「真の信心深さ」へと導く「宗教」の 授業と、子どもを「現世の使命の共通認識および準備基盤」ないしは「実践的活動」(vgl.

Zeller1883Bd.Ⅲ,S.8)へと導く「宗教以外」の授業というふたっの範時にわけて理解し、学 校教育は両者の均衡を配慮しつつ行われなければならないと考える。ペスタロッチーは直観の 三要素として「数」・「形」・「言語」をあげ、「算術」・「図形および図画」・「国語」の授業の直 観化に腐心したが、キリスト教的原理に立っ救済院を構想したツエラーはなによりも「宗教」

の授業の直観化に心を傾けている。具体的には、宗教の授業を「低学年においては子どもの心 情に訴えかけるような簡単で短い物語をイエスの生涯から選びとって語りきかせることにより、

子どもの理解力に適うようにする」(Ruth,S.42)といった提案を行っている。ツエラーの学 園がペスタロッチーのメトーデを唯一採用したのは「算術」の分野であり、1803年にコッタ 版の図表が出されたときに同校はこの図表を「有用なもの」として積極的に購入している。

ペスタロッチーとツエラーはともに、「教育は神と直接に関係づけられることによってなさ れなければならない」という極めて敬度主義的な教育観をもつ。しかし、ペスタロッチーが啓 蒙主義主流の時代のなかで公的支援を受けてその期待に応えるべく機械的教育方法の完成に多 大なエネルギーを傾け、教育目標の終点におかれるべき神への指向性に関してはその教育学の 枠組の中に整合性をもって組み込むいとまがなかったのに対して、ツエラーはドイツキリスト 教協会の支援をえて、その教育学を神への指向性という一点に徹底して構築する環境におかれ

ていた。本稿の冒頭にかかげた、「等しく内面性の理念に支えられながら、ペスタロッチーの 学園とツエラーの学園に生じた相違はなにを示唆するのか」という問いに対する答は、この状 況背景に求めることができる。その晩年、ツエラーの学園を訪れ、「ああ、これだ。これこそ、

わたしが求めていた学校だ」とつぶやいたペスタロッチーの胸を去来したのは、何よりも、時 代の要求に左右されることなく内的直観を不動の核とする教育実践を行いえたツエラーへの羨 望の念であったように思われる。

5 「恩寵による教育」岬超自然的な教育力への憧慎一

18世紀、社会改革を標模する多くの協会が設立される。「社会改革」という標語は、教育者

にとって極めて魅力的な動機づけである「完全性の理念(Perfektionsgedanken)」(Im Hof

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参照

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