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立身出世主義の系譜と論理 : 明治期を中心に

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(1)

立身出世主義の系譜と論理 : 明治期を中心に

その他のタイトル The change and the structure of the notion

"Rissin‑Shusse" in Meiji Japan

著者 竹内 洋

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 7

号 1

ページ 33‑49

発行年 1975‑11‑04

URL http://hdl.handle.net/10112/00023158

(2)

立 身 出 世 主 義 の 系 譜 と 論 理

—明治期を中心に一一

竹 内

「天ハ自ラ助クルモノヲ助ク」(「西国立志編」)。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造ら ず 」 1) (「学問のすすめ」)。「少年よ大志を抱け Boys,be ambitious  」 ! 2) (W. S .   Clark) 。「身を 立て名を挙げやよはげめよ」(小学校唱歌「あおげば尊し」)。「男児立志出郷関」。 これらは,近 代日本において人口に膳灸し,人々の情熱を掻きたてた影響力の大きなキャッチフレーズ群であ

った。

そして,これらは人々を立身出世へと駆動するキャッチフレーズとして理解された。立身出世 主義が,近代日本人のエネルギーのオリエンティルングとなった支配的観念 3) であったことは,

1)福沢諭吉「学問のすすめ」の剪頭の一節が「人間平等の原理」ではなく, 「立身出世の機会均等」の側 面から受容された点については,前田愛「明治立身出世主義の系譜ーー『西国立志編』から「帰省」まで ー」文学, V .3 3 ,   N .  4 ,   1 9 6 5 年,参照。

このような受けとり方は受け手の誤読というより,福沢の「学問のすすめ」にそのような含みがあった ようにおもわれる。 「天は人の上に……」に続けて,福沢はいう。 「 . . …•人は生まれながらにして貴賎・

貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり,無学なる者は貧人となり下 人となる」(「学問のすすめ」 ( 1 8 7 21 8 7 6 年)永井道雄編「日本の名著 3 3 : 福沢諭吉」中央公論社, 1 9 6 9 年,所収, 5152 頁 ) 。

2) W . S .  C l a r k  ( 1 8 2 61 8 8 6 ) が 1 8 7 7 年 5 月帰国の折,見送りにきた札幌農学校学生にむかってかたった言 葉である(渡辺寅次郎「札幌農学校に偉大なる精神的感化を見台せしクラーク氏の回顧」成功, V . 1 8 , N . 2 ,   1 9 0 6 年 1 月号, 3 3 頁)。一学校学生への言葉がかくも語り伝えられたのは,それが近代日本人の上昇志 向願望に適確な表現をあたえたからであろう。

3)社会的上昇移動は,富,権力,威信などの増大をもたらすから,あらゆる時代,社会,個人にみられる 普逼的傾向である,といいきれるだろうか。

ウェーバ (M. Weber) は,近代資本主義が遭遇しなければならなかった頑強な妨害は「伝統主義的な 生活態度」であったという。労働の集約度を高めるために企図された出来高賃金は,その意図に反して,

労働の増大ではなく減少を結果した場合が多かったこと,つまり従来 1モルゲンの刈り入れにつき 1マル クの報酬で, 1 日 2 . 5 モルゲン刈り入れ, 2 . 5 マルクの賃金を得ていた労働者は,出来高賃率が 1 モルゲン につき 0 . 2 5 マルク引きあげられたことによって期待されたように 3 モルゲン刈り入れ, 3 .7 5 マルクの賃金 を得るのではなく, 2 モルゲン刈り入れ 1 日 2 . 5 マルクの賃金を得ることで「足れり」とした場合が多か ったことを指摘する。 「報酬の多いことよりも,労働の少ないことの方が彼を動かす力であった」「人は

「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣をえようと願うものではなくて,むしろ単純に生活する,つま り習慣としてきた生活をつづけそれに必要なものをえることだけを願うにすぎない」とのべる ( D i eP r o ‑ t e s t a n t i s c h e  Ethik und d e r  :}Geist< d e s  k a p i t a l i s m u s ,  1 9 0 41 9 0 5 ,   梶山カ・大塚久雄訳「プロテ スタンテイズムの倫理と資本主義の精神(上)」岩波文庫, 6365 頁 ) 。

経済労働についてのウェーバーのこのような指摘は,社会的上昇移動についてもあてはまろう。社会的 上昇移動が望ましいとされ,それが行動価値となるのは超歴史的普遍的傾向とはいえない。

いわんや,上昇移動をめぐってのそれ以外のさまざまな槻念 ( m o b i l i t yc u l t u r e ) にいたっては,時 代,社会によって異なっている。たとえば上昇移動者を s e l f ‑ m a d eman と呼ぶアメリカ社会と, n o u ‑

~S3 ‑

(3)

関西大学「社会学部紀要」第 7 巻第 1 号

今日までの高等教育進学率の急ビッチの増加と,世代間上昇移動に夢を託す日本の親達の教育熱 心に充分すぎる証拠をみることができよう 4) 。

立身出世はどのようにして正当化され,賞讃されたか。なにが立身出世とされたか。立身出世 の方法はどのように考えられていたか。立身出世の動機づけ要因はなんであったか。立身出世主 義は,近代日本人の支配的観念であったがゆえに, このような立身出世をめぐっての観念は,

日本の文化(価値)や社会(社会関係)の写像ともいえる。だからこそ,立身出世は社会移動 ( s o c i a l  m o b i l i t y ) に関心をもつ研究者にとどまらず,文化,思想史,日本の社会構造に関心を もつ研究者の研究テーマともなっている 6) 。 日本近代の立身出世主義は,われわれの「移動文 化 」 ( m o b i l i t yc u l t u r e ) としてだけではなく,われわれの「精神構造(史)」として重要な研究 テーマであろう。

本稿は,われわれの移動文化や精神構造(史)として立身出世主義を考察する。それゆえ社会 的上昇移動という学問用語ではなく,立身出世というフォーク・コンセプトに固執する。社会的 上昇移動観念の通文化的 ( c r o s s ‑ c u l t u r a l ) 側面よりも,上昇移動観念をめぐっての日本社会の パティキュラリスティックな側面に焦点をあてたいからである。

このような課題設定から,当然社会移動の客観的側面ではなく,その主観的側面(立身出世主 義)を対象とする。観念(イメージ)は,客観的事実(ファクト)と無関係に現実にインパクト をもたらしうる。そのかぎり両者は別個の研究テーマとなりうるが,銀念と客観的事実は,まっ たく無関係ということはありえない。信念や願望は,リアルな事実認識にもとづくとはかぎらな いが,客観的な事実・状況は,人々の信念や願望に影響をあたえずにはおかない。それゆえ,社 会移動の主観的側面を主要な対象とするにしても,その客観的側面(社会移動の量,距離,型)

にも注意していきたい。

最後に,これは精神構造研究一般のディレンマであるが,観念(立身出世主義)内容や担い手 .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

の変容,変化のダイナミズム究明と,観念内容自体の論理的ダイナミズム究明は,しばしば両立 しがたく二律背反的でさえある。観念内容や担い手の変容,変化にアクセントをおくと,時間的 ダイナミズムによって観念内容の論理的ダイナミズムの解明は犠牲になりやすい。逆に,観念内

veau r i c h eと呼ぶフランス社会では,移動文化がちがう。前者では,下層から奮闘努力し上昇移動した ことにたいしプラス価値が付与されているが,後者にはそのような意味は含まれていず,新参者というイ メージである ( J . G .C a w e l t i ,  A p o s t l e s  o f  t h e  S e l f ‑ M a d e  Man: Changing C o n c e p t s  o f  S u c c e s s  i n   A m e r i c a ,  U n i v .  o f  C h i c a g o  P r e s s ,   1 9 6 5 ,   p .   2) 。

4) もちろん近代日本の急ヒ°ッチでの進学率上昇は, 「フム学問々々とお言ひだけれども, 立身出世すれば こその学問だ」という『浮雲』 ( 1 8 8 71 8 8 9 年)のお勢の言葉にみられるように上昇移動に動機づけられ ただけではない。リダラシィ ( l i t e r a c y )の普及は, より高度な知識への探求にむかわせるから,知識ヘ のコンサマトリィ ( c o n s u m m a t o r y )な関心からの進学要因を無視できないではあろう。

5) たとえば,川島武宜「立身出世」展望, 1931年 9 月号,岩井弘融「競争•成功•出世」河出書房, 1956 年,作田啓一「立身出世」霞見代社会心理学 8: 階級社会と社会変動』中山書店, 1 9 5 吟舌所収, 見田宗 介「「立身出世主義」の構造—-13 本近代の価値体系と信念体系ー」潮, 1 9 6 7 年1 1 月号, 門脇厚司「日本 的立身出世の意味変遷ー近代日本の精神形成研究•覚書ー」教育社会学研究,第2~ 島 1 9 6 吟三など。

‑ 3 4   ‑

(4)

立身出世主義の系譜と論理(竹内)

容の論理的ダイナミズムにアクセントをおくと,観念内容の変容や担い手の変化の解明が疎かに .  .  .  . 

なる。本稿では,立身出世主義が庶民層に浸透する明治後半期までは主として前者のアプローチ

(系譜)をとり,立身出世主義が庶民層に浸透したその意味で立身出世主義の普及,成熟,確立 期である明治後半期,大正前半期については後者のアプローチ(論理)をとりたい。立身出世主 義の形成期には.その観念内容の変容や,担い手の変化が,普及,成熟,確立期には立身出世観 念は相対的に固定するから,その論理構造が,主要な解明課題となろうからである。

江戸時代は身分社会であるから,基本的には階層間移動が少ない閉鎖階級社会 ( c l o s e dc l a s s   s o c i e t y ) であり,地位への人員配分が属性 ( a s c r i p t i o n )原理の社会である。しかし,江戸時代 を研究したドーア ( R . P . Dore)やトーマス・スミス ( T . C . Smith) は,江戸時代にはかなりの 社会移動があったこと,地位への人員配分は業績原理であるべきとするイデオロギー ( m e r i tas  i d e o l o g y )がかなり普及していたことを跡づけている 0。

ドーアやスミスがいうほど江戸時代に,社会移動,業績原理イデオロギーが存在したとすれ ば,上昇移動の規範が社会の一部に潜在したことになろう。だが,身分社会である江戸時代に,

上昇移動があらゆる人々の顕在的な行動価値となっていたわけではないことは確かであろう。上 昇移動の規範が「常識的知識」 1 1 ) (commonsense knowledge) となることは秩序原理=身分原 理そのものの否定になるわけだから。

上昇移動が公認の顕在的価値となったのは,近代国家をめざし官僚制や軍事.産業を運営する ために多数の能力ある人材の自発的積極的協力を必要としたがゆえに.四民平等によって完全な ものではないにしても身分制を廃止し,職業選択,居住の自由を認め, .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  「官武一途,庶民にいた .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

るまでおのおのその志をとげ」(傍点引用者,「五条の誓文」),「人能<其オのあるところに応じ

砿励しそ乏 i と 祉 事 L , , しかして後初て生を治め産を興して業を昌にするを得べしざれば,学問は 身を立るの財本」(傍点引用者, 「学制序文」)と,上から積極的に業積原理が唱道された明治維 新以降のことである D。

このような上からの積極的な業績原理の唱道は,単に近代国家をめざしての国民の自発的能動

1)  R . P .  D o r e ,  E d u c a t i o n  i n  Tokagawa J a p a n ,  R o u t l e d g e  and Kegan P a u l ,   1 9 6 5 ,  松居弘道訳 r 江戸

時代の教育」岩波書店, 1 9 7 0 年 。 T . C .S m i t h ,   • •Merit• a s  I d e o l o g y  i n   t h e  Tokugawa  Period• i n   R . P .  D o r e  e d . ,   A s p e c t s  o f  S o c i a l  Change i n  Modern J a p a n ,  P r i n c e t o n  U n i v .  P r e s s ,   1 9 6 7 .   2)  A .  S c h u t z  ( C o l l e c t e d  P a p e r s ,  V . I ,   P r o b l e m  o f  S o c i a l  R e a l i t y ,   1 9 6 2 ) の用語。

1) このような業績原理の唱道は,一層端的には「今日人材ヲ登庸シ,門地=拘ハラス,其材二応シ,其地

二立タシムル」(岩倉具視「諸政体建定•議事院設置の建議」 1869年)や「諸役人より下民迄, 自分のオ を挙るに憚ることなく」(佐渡県判事奥平謙甫「布告」 1 8 6 8 年 1 2 月 3 日)などにみえる(引用は鹿野正直

「資本主義形成期の秩序意識」筑摩書房, 1 9 6 9 年 , 1 8 5 頁より)。

(5)

関西大学「社会学部紀要」第 7 巻第 1 号

的エネルギーの調達のためだけではなかった。明治新政府の支配者層は下級士族を中心にしたも のであったから,身分制(属性)原理を否定し,業績原理を秩序原理とすることは,自らの支配 者としての正統性獲得のためにも必要であったことには注意しなければならない。

立身出世主義がいかに多くの人々に内面化されていったかは,「西国立志編」 ( 1 8 7 1 年)や「学 問のすすめ」 ( 1 8 7 2 年)の流布と受けとられかたにみられよう。

「西国立志編」の第一編は「邦国及ビ人民ノ自ラ助クル事ヲ論ズ」ではじまり, 「政法ノ群下 ヲ圧抑スルモノハ人民ヲシテ扶助ヲ失ヒ勢力二乏カラシム)レ事ナリ……人民ヲシテソノ自己ノ為 トコロニ任セソノ志ヲ伸)レ事ヲ得サシメソレヲシテ自己二勉励進修セシムレバスナワチ人民ノ為 二真実ノ利トナル」 2) と古典的自由主義理論,市民の自主自由を説いているのだが,一般的には

. .  

その面は受容されなかった。原題の " S e l fH e l p " が「西国立志編」(傍点引用者)と訳されたこ とに,また 、 S e l fH e l p " を「自助論」とうけとめても,自助=自主自立は「自己の手腕を以て自 己の運命を作り出す」こと,あるいわ「自己独立の計を為す」 3) ことと立身出世における奮闘努力 主義としての自主,ないしは経済的自立としてのみ受容された。かくて, 「西国立志編」は「字

............... 

々句々ミナ身ヲ立テ家ヲ興スノ金言格論ニシテ」 4) (傍点引用者)と, もっぱら立身出世教本と して受容された。

一方,「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」ではじまる「学問のすすめ」 も「人間 平等の原理」としてよりも, 「立身出世の機会均等」の側面から理解された&)。 このようなうけ .  .  .  .  .  . 

とめ方の一例は,日比谷平佐衛門のつぎのような述懐にうかがえよう。 .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  「何時まで人に頭を下げ る身分で終りたくはないと考えて居った。当時最も深く感動したのは福沢翁の文明論で『人間は .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

元来平等なものである。天は人の上に人を作らず,町人が武士に劣って居ると限られる道理はな .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

い。唯知識の勝ぐれたものは無知者を圧倒して社会の上位に立つことのみは何人も争ふことの出 来ない真理である』と云ふ議論には大に感服したのである」 e) (傍点引用者)。

2)中村正直訳「西国立志編」 1 8 7 1 年 ( S .S m i l e s ,   函 I fH e l p ,  1 8 6 7 ) 。

3)雑誌「成功」 ( 1 9 0 2 年1 0 月創刊号)編集主幹村上俊蔵(濁浪)は「自助苺主人」というペンネームをつ かい,「発刊之辞」で「中村敬宇先生の西国立志編」を賞讃し,「発刊之大旨」に「自助的人物の養成」を .  .  . 

掲げている。村上が「西国立志編,原名自助論」(傍点引用者)の影響をうけたオヒ°ニオン• リーダーで あったことはまちがいない。かれにおける「自助」とはなにか。かれは「自助的人物」についてつぎのよ うにいう。 .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

「自ら重んじ,自ら営為し自ら勤労し,自己の手腕を以て自己の運命を作り出す人物を云ふなり,即ち 世間に自ら営為するを知らず,自ら勤労するを解せず,徒に大言壮語し以て自ら得たりとする者あるも. .  .  .  .  .  .  . 

此の如きは余輩の所謂自助的人物にあらざるなり,自ら助けず自ら重んぜず,自己独立の計を為す能はず して,徒に遊惰にのみ耽り居る人物あるも,此の如きは余輩の目的に反するものにて即ち不自助的人物た るなり」(傍点引用者,村上濁浪「成功は何を教へんとして世に出でしゃ」同誌, V .   1 ,   N .   5 ,   1 9 0 3 年 2 月 号 , 25 頁 ) 。

自助とは経済的自立ないしはその過程における奮闘努力主義(自主)とされていて,政治的社会的自主 自由の面にはまったくふれられていないことに注意。

4) 千河岸貫ー『日本立志編ー名修身規範」雙書房, 188~. 1 頁 。 5) 前註の 1)参照。

6) 日比谷平佐衛門「余の努力法」成功,V .   2 4 ,   N .   6 ,   1 9 1 3 年 2 月号.4 8 頁 。

‑ 3 6   ‑

(6)

立身出世主義の系譜と論理(竹内)

このようにして受容された「西国立志編」には毎日 4 , 5 0 人が印刷にあたり,これを販売した本 屋は一財産をこしらえ,「誠に難有しとして之を神棚へのせて,毎朝拝礼するものすらあった」 7)

というような売れゆきであり, 「学問のすすめ」初編は22 万部売れたという。立身出世主義は維 新を境にして,急速にひろがっていった。

.  .  .  .  .  .  .  .  .  3 

このようにして,上からの近代的業績原理の唱道が上昇移動の規範として内面化されたのは, .  .  .  .  .  .  . 

それが下からの伝統的精神と呼応したからである。下からの伝統的精神の第ーは, 「家」制度が 内包していた精神によってかき立てられたアスピレーションであり,第二は,士族層における上 昇移動規範のレディネス ( r e a d i n e s s ) である。前者からみよう。

神島二郎の卓見によれば,幕末から維新にかけてのわが国の「家」制度は,家の自衛,発展,

二三男の家創設運動を包含していた 1) 。このような「家」精神は,家成員のアスビレーションを かき立てるものに他ならなかった。「身を立て家を興す」というのが, これである。たとえば,

二三男の家創設運動によるアスビレーションの湧出は,嘉永 6 年に生まれた川野宗太郎のつぎの ような自伝にうかがえよう。父はしばしば,つぎのように語ったという。「房キ .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  I i 十六威以上と

なれば独立自活して行く固い覚悟がなくてはならぬ。親の腟を噛るやうでは末の見込がない。自 .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

ら働いて自ら活きて行くエ風をせよ。…•••自分の収入を貯蓄して,行く末の立身出世の準備をせ ょ 」 2) (傍点引用者)と。

つぎに後者,士族層を中心にした上昇移動規範のレディネスについてみよう。

江戸時代は身分社会であるから, 「我気に入働も器量も備へたるといふ共,筋目の者を凌ぎ揚 用る事なかるべきこと」 a) (「成憲百箇条」異本) というように,生得的な家格システムと官職シ .  .  .  .  .  . 

ステムはパラレルであったが, そのような身分社会の原則を前提としながらも, . . .   「筋目ある者の 子とて,其身に応ぜぬ奉公させ」(傍点引用者,「板倉重矩重道之遺言」)ることを戒め 4), 「仕置 役可埠知申付ーには,家老中老先祖の功有者に限るべからず。当代の器量に寄ぺきなり。……縦 .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

ヘ軽き者たりといふ共,其器に当りたるものあらば取=立之ユ恥被二申付_」 5) (傍点引用者, 「 土

井大炊頭利勝遺訓」)という業績原理による上昇移動が部分的に認められ, おこなわれていた。

「足高」はその象徴的制度である。もちろん業績原理の現実への適用は,イデオロギーほどでは なかったが 8)' 業績原理の理念と事実の存在は,士族層に上昇移動の規範を潜在化させただろ う。上昇移動規範が顕在化しなく,潜在的規範にとどまるのは,身分社会の秩序原理はあくまで

7)小塚空谷「中村敬宇先生の平生」成功,V .  1 ,   N .  1 ,   1 9 0 2 年1 0 月 号 , 2 3 頁 。 1) 神島二郎「近代日本の精神構造」岩波書店, 1 9 6 1 年 , 2 6 9 頁 。

2)川野宗太郎口述森田公美著「処世と修養実際物語:はだか一貫より」弘文堂,1 9 2 6 年 , 1 0 頁 。 3)  5)石井紫郎編 r 日本思想大系2 7 : 近凪武家思想」岩波書店, 1 9 7 4 年 , 5 0 2 頁より引用。

6) T . C ,  S m i t h ,  o p .  c i t .  

‑ 3 7   ‑

(7)

関西大学「社会学部紀要」第 7 巻第 1 号

も「筋目主義」だからである。また,「立レ身行レ道。揚

4

名於後世 ̲7) 」(山鹿素行「山鹿語類」)と いう武士の「名」と「恥」の体面意識には能動的行動主義が含まれており,それは,よい名をも とめての競争につながり, 間接的な形であれ,上昇志向を刺激するにあずかったとも考えられ る。同時に,もっと直接的に,仲間の微小な上昇移動も名と恥の体面意識から上昇志向観念を強

<刺激することになっただろう。

水戸の下級士族の家に生まれた宮部久は,往時を回顧して,「小禄で他に財産がなかったから, .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

安じて一家を経には行かない。其拠で是は何でも文武を以て身を立て国家の為めに努力すぺしと .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

父に訓誡せられしを服贋し,文武に達すれば栄達も出来ると云ふので,少年の頃から熱心に勉強 した 8) 」(傍点引用者)と語っているが,士族の家庭での上昇移動規範の存在を示していよう。

業績原理による上昇移動は幕末の「乱世」社会になると,理念としても事実としても一層強く なった 9) 。このようなレディネスの存在を考えれば,立身出世主義は明治維新とともに突如とし て生じたのではなく,「励起」 10) したのだと考えられよう。

しかも,明治維新後士族層は,身分制廃止,家禄廃止等により,従来の支配者層としての特権 が剥奪され,富,威信,権力などの相対的窮乏化 11) に陥入った。士族は特権的な支配階級であ ったがゆえに,客観的には「相対的窮乏化」であっても,心理的には「絶対的窮乏化」=没落士 族として意識された。「比間は在郷百姓より御内町にて女房取り迎ても苦しからず,武士の娘を百 姓え呉れてもお構なしとの御触あるよし,是等の混交勝て弄ひがたし,尊卑貴賤上下の分ち差段

ママ

なきを礼と申べくや」「我等先年蔑難して莫太献納せし功労空敷なり,右に準じて寺院武士に至 るまで位階もなく,平民同様,そが中に先ず百姓は可なり,工商は麟奢至極の世と成り,衣食住 強傲して詣布は売れる,栄耀の細工物も広太に売れる,大工などは日雇高直なれども寸暇なし」

「百姓体の者まで先祖の功労せし事を忘却して,分限あれば莫太の家を建排へて,妾を置抱ひす る事流行のやうなり」 12) (「羽後民情録」)という農工商階層の上昇への士族の憎悪は,その間の 事情をよく物語るものであろう。

上昇移動規範のレディネスと没落士族としての失地挽回(家運再興)から,立身出世主義は下

7)  「孝経」の一節の引用。

8)宮部久「宮部流の独立自尊主義」成功, V .1 5 ,   N .  4 ,   1 9 0 9 年2 月号, 3 3 頁 。

9) 一橋慶喜を将軍にしようとする運動は,「血統」(徳川慶福)にたいする「能力」という点で「最大の規 摸をもつ人材登用運動」であり, 「 1 8 6 0 年代には志士のあいだに,血統よりも能力という認識がほぼ一般 .  .  .  .  .  .  .  .  . 

的な潮流となっていた」という鹿野正直の指摘(前掲書, 9 1 頁)は,業績原理理念の普及を示す。またド ーアは,橋本左内の福井藩主宛意見書 ( 1 8 5 7 年)が,もっぱら人材の補給確保について論じられていて,

適材適所は実行されているとのべていることから,「時代の最後の2 0 年間には身分の制約を超えて「人材』 . . . . . . . . . . . . .  

を登用した例が無数にあったに違いない」(前掲邦訳書, 1 8 6 頁)と,事実としての業績原理の普及を示し ている。

1 0 )   「励起」とは,文化触変 ( a c c u l t u r a t i o n )によって既存の文化要素 ( c u l t u r a le l e m e n t )が強調され 極端化されること。神島二郎による用語(前掲書, 1 8 3 頁 ) 。

1 1 ) 明治維新による士族の窮乏化は,絶対的窮乏化ではなく,相対的窮乏化であったことは安田三郎「士族 と平民の社会移動」『社会移動の研究』東大出版, 1 9 7 1 年, 307310 頁,参照。

1 2 ) 鹿野正直,前掲書, 2 1 6 頁より引用。

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(8)

立身出批主義の系譜と論理(竹内)

級士族を中心に励起したのだといえよう。実際さきにのべた「家」精神にしても,それが適合し た階層は,下級士族,豪農,豪商であり,豪腹,豪商とは士族を準拠集団 ( r e f e r e n c egroup)  とした士族意識の所有階層であったことを考えれば,明治前半期の立身出世主義の担い手は下級 士族を中心にした士族意識の所有階層であったといってよいだろう。

一般庶民には,江戸時代をつうじて被支配層として「生れつかざる富貴をうらやむべからず,

……我が分を楽しむべし」(貝原益軒「大和俗訓」) とする「分限」思想, 「知足安分」思想がも っとも強い形で浸透させられ,内面化していただろう。それゆえ,一般庶民がそのような反上昇 移動規範から解放されるには時間がかかったであろう。また,学制が施行されても就学者のほと んどは士族層で, 「人民ノ慣習久シキ学ハ士人以上ノ事トシ平民二至テハ舎テ顧ミス」(団 i 川県 学事年報」 1 8 7 4 年)という状況であった。このことは高等教育については一層あてはまった 13) 。

そのインプリケーションは,一般庶民層が教育という上昇移動の手段をえられなかったというこ とだけではない。重要なインプリケーションは,学校教育をつうじて鼓吹された上昇志向理念へ のアクセシィビリティ ( a c c e s s i b i l i t y ) がえられなかったことである。

士族意識の所有階層を担い手とした立身出世主義は,スタテックな地位アスビレーションでは なく,達成 (performance) 志向と結びついた地位アスヒ°レーションであった。立身出世は「身 を立て家を興す」と意識されたが,同時に,それは「身を立て名をなす」,「功名富貴」として意 識されたし ambition はしばしば「功名」と訳された。「功名」とは「であること」(地位)にと もなう「威信」 ( p r e s t a g e ) だけでなく,「すること」にともなう「名声」

1)

(esteem) の面が含 まれており,さらには単なる達成以上のイノベーションによる名声が含まれている。立身出世主 義は<功名的立身出世主義>であった。このような功名的立身出世主義はわが国の近代化の革新 エネルギーの大きな源泉ではなかったろうか。 .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

「現代の青年には,斃れたらそれまで,石に噛り付いても一つ人のやらぬ独特の大事業を遂行

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

して,世間の奴等を驚かしてやらうと云ふ大なる気力がない」 2) (傍点引用者) という井上角五 郎の言葉は,<功名的立身出世主義>の性質をよく示していよう。功名の確かな領域である国家 . . . . .  

への貢献価値の意味が失なわれた第二次世界大戦後になると,出世=有名 8) となるが,これはく 1 3 ) 天野郁夫「近代日本における高等教育と社会移動」教育社会学研究,第 2 4 集 , 1 9 6 9 年 。

1) p r e s t a g e と e s t e e m という評価 ( a p p r a s i n g ) の二側面の区別は, K . D a v i s ,  Human S o c i e t y ,  Mac‑

m i l l a n  Company, 1 9 4 8 ,   p p .  9 39 4 .  

2) 井上角五郎「自己独特の大事業を経営せよ」成功, . . . .   V .1 8 ,   N .  2 ,   1 9 1 0 年 4 月号, 2 1 頁 。 3) 海道守編「無名から有名へ」(傍点引用者,神正書房, 1 9 5 3 年)という本には,「出世早道の手引」(傍

点引用者)というサブ・タイトルがついている。「あとがき」はつぎのようにいう。

「この頃の若いひとびとは,作家や画家や俳優などになりたがっている。一般の就職難からくる何らか .  .  .  .  .  . . . . . . . . . .  . 

の反映と思われるが,それよりも寧ろ戦後の芸術家や芸能人の華やかさ,名声のすばらしさへの憧れによ るのであろう」(傍点引用者,同書, 2 9 4 頁 ) 。

もちろん有名が戦後の出世コンセプションズのすべてをつくしているわけではない。

‑ 3 9   ‑

(9)

関西大学『社会学部紀要』第 7 巻第 1 号

功名的立身出世主義>の本質が露出したものに他ならない。

下級士族を主要な担い手とした功名的立身出世主義は,政府官僚の分野に誘導された。「書生 書生と沢山さうに,今の大臣皆な書生」という俗謡にみられる「参議熱」がそれである。

というのは,士族の伝統的教養である儒学は,治国平天下の「大臣の学」であったから,産 業,商業はマイナス価値であり,政治だけが高く評価されていたからである。さらに,日本近代 は政治革命が産業革命をリードしたから,官員は金銭的実益の面でも著るしく優位にあった 4) 。 まさに官員こそは功名富貴を一挙に獲得するルートであった。だから, 「職を失ひし士族の子弟 は多く此の成功を夢みて官吏たることを以て理想」とし,「青年の希望する学科は法律,政治」 5)

であった。

このような功名的立身出世は, 1887 年頃までは, 「功名」と「立身」=独立,自己実現と「出 世」=社会的地位の上昇の三者が予定調和の明るいトーンの時代であった。

「嶽然として大なる状態」の西欧諸国を前にし,「片々たる小船のみ」「我は彼より強しとして 自ら慰めんと欲するもーも之を慰むぺきの点あるなし」 8) という幕末に覚醒された国家意識=後 進国意識は,明治体制にひきつがれ,そのギヤップを埋めることが,国家的目標であり,国民的 ヴィジョンであった。 このような国家の危機と目醒めの時代においては, 「功名」のイメージは 明瞭であった。さらに,体制秩序が確立していない時点では,地位にともなう役割は既定のもの ではなく,地位占有者は役割のシナリオ・ライクーでもありえたから,功名と立身と出世の予定 調和が成立しえたのである。

地位占有者が役割のシナリオ・ライクーでありえた点をみよう。

渋沢栄ーは大蔵省へ出仕をすすめられ,大隅大輔からつぎのようにいわれている。「いま新政 府の計画に参与しておる者は,すなわち八百万の神たちである。その神たちが寄集まって,これ からどういう具合にして新しい日本を建設しようかと,その相談最中であるから,政府の仕事に 何から手を付けてよいかわからないのは足下一人ばかりではない。皆わからないのである」 7) と 。 これは 1869 年のことだからもっともなことだとしても,このようなことは, 1885 年の内閣制度の 確立, 1887 年の文官試験試補及見習規則の公布あたりまで続いたのではなかろうか。内務省会計 課長を退職した大谷靖は,「官吏生活四十四年の回顧」のなかで, .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  「兎に角, この明治 7,8 年か ら , 1 7 ,8 年時代は,丸でお役人といっても野武士の寄り集まりで,凡てが規律なく,実にだら しのないものであった。それが其後一歩一歩今日の如き整然たるものになった」

8)

(傍点引用者)

と,語っているところにうかがえよう。

4) 小島直記「学歴」ェコノミスト, 1 9 6 7 年 1 0 月 2 0 日 号 。

5) 加藤咄堂「明治年代思想の大観」成功, V .2 4 ,   N .  1 ,   1 9 1 2 年 9 月 号 , 1 2 頁 。 6) 田口卯吉『日本開化小史』 ( 1 8 7 71 8 8 2 年)岩波文庫, 2 0 2 頁 。

7) 渋沢栄一「青淵百話」 ( 1 9 1 2 年),長幸男編「現代日本思想体系 1 1 : 実業の思想」筑摩書房, 1 9 6 4 年,所 収 , 1 0 9 頁 。

8) 大谷靖「官吏生活の四十四年回顧」成功, V .2 8 ,   N .  1 ,   1 9 1 4 年 1 0 月 号 , 1 1 7 頁 。

‑ { 0  ‑

(10)

立身出世主義の系譜と論理(竹内)

「明治のはじめは事務官僚でも, みな政治家をもって自任していた」 9) という長谷川如是閑の 回想は,官僚は政治的能動者であったこと, いいかえれば, 「功名」と「立身」と「出世」は予 定調和していたことを物語るものである。

だが,このような「功名」と「立身」と「出世」の予定調和はしだいに崩れていく。

1885 年の内閣制度の確立により官僚体制が近代化され, 1886 年の大学令により帝国大学は「国 家の須要に応ずる学術技芸を教授し,及び其の蓋奥を攻究」する官僚養成機関となり,翌 1 8 8 7 年 には官僚のリクルート方式を定めた文官試験試補及見習規則が公布された。官僚機構が整備さ れ,地位にともなう役割のシナリオは既定のものになり,社会移動は庇護移動

i)

(sponsored  m o b i l i t y ) の型を明瞭にする。

森鴎外「舞姫」 ( 1 8 9 0 年)の主人公太田豊太郎の「官長はもと心のま汀こ用ゐるべき器械をこそ 作らんとしたりけめ。独立の思想を懐きて,人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき」 2) という感慨は,地位にともなう役割が既定のものになっていて,そこには,もはや政治的能動者 の面影はなくなっていることを示していよう。いまや功名は,達成(功業)にともなう「名声」

(esteem) のウェイトが減り.地位にともなう「威信」 ( p r e s t a g e ) のウェイトが増し,「立身」

は「出世」に埋没し,「役身」 3) になってくる。

やがて,上昇移動のフォーク・ラベルは,従来の「(立身)出世」に変わって,(立身)「成功」

が頻繁につかわれるようになる。

「成功」という用語を冠したもっとも早い上昇志向教本は,筆者の知るかぎり「人誰か成功を 望まざるものあらん」ではじまる 1892 年刊行の島貫兵太夫著「成功之秘訣」(高岩堂)である。

「英語世界」 1897 年 1 2 月号には, アメリカの成功教本のベスト・セラー作家, O . S . Marden

"Pushing To The Front" の註釈が掲載されており,「近時之ヲ教科書二用フル校学漸ク多ク 9) 長谷川如是閑「ある心の自叙伝」朝日新聞社, 1 9 5 吟 三 , 6 9 頁 。

1)  「庇護移動」 ( s p o n s o r e dm o b i l i t y ) は「競争移動」 ( c o n t e s tm o b i l i t y ) とともに,ターナー (R.H.

T u r n e r ) によって提起された社会移動の型の理念型である。

「庇護移動」は私的なクラプヘの加入に似た社会移動の型で,エリート候補生は既成のエリートやその 機関によって選ばれる。「競争移動」はスボーツの競争に似た社会移動の型で, エリートの地位はさずけ られるのではなく獲得される。 ( R . H .T u r n e r ,  " S p o n s o r e d  and C o n t e s t   M o b i l i t y   and S c h o o l   S y s ‑ t e r n "  i n  A.H. H a l s e y  e t  a l . ,  e d . ,  E d u c a t i o n ,  Economy and S o c i e t y ,   F r e e  P r e s s ,   1 9 6 1 ,   清水義弘監 訳「経済発展と教育」東大出版, 1 9 6 3 年,所収)。

2) 森鵡外「舞姫』 ( 1 8 9 0 年)角川文庫, 7 6 頁 。

3) 鈴木天眼 r 立身問答』(東京博文堂, 1 8 9 3 年)はつぎのようにいう。 ......... 

「元来立身と云ふ事,我国近時の流潮として人々「己レ」と云ふ観念を失ひ,只管社会既成の勢力に依 頼するを常道と心得,即ち役人為るとか教員に採用して貰ふとか又は会社の役員に使はるとか云ふ事を立 . . . . . . . . . . .  

身と申唱へ候へ共。是れ立身にはあらで役身に候」(傍点引用者,同書, 3 頁 ) 。

‑ 4 1   ‑

(11)

関西大学『社会学部紀要』第 7 巻第 1 号

読者亦少ナカラズ」

1)

とのべられていることからみて成功という言葉はこの頃までにかなりつか われはじめていたとおもわれる。そして,日露戦争前後に「成功風の追々吹き来るにつれ…•••一 種危険なる熱病の流行する徴候あり」 2) という成功ブームが生じた。

角川漢和中辞典(貝塚茂樹他編, 1959 年)によれば,「成功」は「①事業をなしとげる。また,そ のこと。③事業をなし遂げた功績,成績。⑧秋の取入れ。<国>立身出世する」と記載されてい る。<国>とは,国語特有の意義であることを示す。「成功」という漢字には,元来は立身出世=

上昇移動の意味はない。それはわが国特有のつかい方である。上昇移動をあらわすフォーク・ラ ベルとしての成功は, " s u c c e s s " の訳語として普及したものであろう。実際,成功ブームに大い にあずかったとおもわれる雑誌「成功」(東京成功雑誌社, 1902 年 1 0 月創刊)は, O . S .Marden  が編集したアメリカの " S u c c e s s " 誌をモデルに刊行され丸「成功」誌の表紙には s u c c e s s の 文字が入っている。「成功という明治の新熟語」

4)

という柳田国男の指摘は,成功が s u c c e s s の 訳語として,上昇移動のフォーク・ラベルとなった面をさしていると考えられる。

ではこの頃どうして「(立身)出世」という言葉にかわって,「成功」という言葉がつかわれる ようになったのであろうか。

1) 英語世界, V .  1 .   N .  5 ,   1 8 9 7 年 1 2 月号, 7 頁 。

2) 白露生「危険なる流行熱病」実業 之日本, V . 6 ,   N .   9 ,   1 9 0 3 年 5 月号,

4 9 頁 。

雑誌「成功」 V . 2 ,   N .   1 .   1 9 0 3 年 4 月号では, 「成功」という言葉が世 間に伝播し, 「帝国図書館にては,

書籍目録の題目中に特に成功の一 欄」が設けられたことを報じてい る 。 また同年 5 月には, 「個人が成 功を希求するの観念は一日旺成に赴 かんとす」との「発刊之辞」をもっ た実業之日本臨時増刊号「成功大観」

が刊行されている。同時に,この頃 の「実業之日本」には「成功の榮」

という欄が設けられている。

3) 成功, V . 3 ,   N .   4 ,   1 9 0 4 年 1 月号,

5 3 頁 。

4) 柳田国男 『明治大正史世相篇』

( 1 9 3 1 年)平凡社, 1 9 6 7 年 , 3 2 7 頁 。

‑ 4 2   ‑

(12)

立身出世主義の系譜と論理(竹内)

ナポレオン,ビスマルクではなく,スミス,ワットこそ青年の嘆美すぺき英雄であり,「わが邦 をして・・・・・・商業国たらしめ」ることこそが「国家将来の大経綸」とする徳富蘇峰の「将来之日本」

は , 1886 年に刊行され,商業が商業立国の立場から価値付与されてくる 5) 。そのような価値付与 をともないつつ,日清戦争から日露戦争にかけて産業革命がすすみ,資本主義社会に突入した。 . . . . . . . . . . . . .  

「実業振興の気運大に熟」し,「之を以て身を立て名を成さむこと志すもの多し」(傍点引用者)と

「実業之日本」創刊(1897 年 6 月)号は,「実業の天下」 6) をつげる。 また,「金銭ゆゑに売られもす れば,辱められもした,……金銭より外には何の望みも持たん」

7)

間貫ーを主人公とする「金色夜 叉 (1897 1902 年 ) は,農業社会から産業社会に移行することによって, 社会生活において金 銭のしめる意味が大きくなったことを示す。同時に, ヒロイン宮は,学士という未来の官僚工 リート(間貫ー)をすて,実業家(富山唯継)へ嫁ぐが,産業社会の到来とともに富貴が官員 の独占物ではなくなったことをあらわしていよう。上昇移動観念は官吏,政治家の分野だけで なく,致富の分野にも拡大されてきた。それまでの「立身出世」というフォーク・ラベルは官 吏,政治家の地位上昇を主な内包としていたから,新しい上昇移動観念にみあうフォーク・ラベ ルを必要としていた。そこに致富の意味の " s u c c e s s " を「成功」 という「新熟語」によって受 容するひとつの基盤があったといえ

よう。

「成功誌」の読者層にみれるよう に , 8) また 1905 年には「小学卒業立 身案内」(学友社)が出版されてい

5)徳富蘇峰「将来之日本」 ( 1 8 8 6 年 ) , 隅谷三喜男編「日本の名著40: 徳富 蕪峰・山路愛山」中央公論社, 1 9 7 1 年,所収, 1 1 7 頁 , 1 8 2 頁 。

6) 1 8 9 6 年 6 月には,岩崎弥之助,岩 崎久禰,三井八郎右衛門に男爵が授 けられ,つづいて1 9 0 0 年に渋沢栄一 が四人目の財界人男爵となった(岩 波書店編集部編「近代日本総合年 表 J 1 9 6 8 年 , 1 6 4 頁 ) 。

7)尾崎紅葉「金色夜叉』( 1 8 9 71 9 0 2 年)角川文庫, 1 0 5 頁 。

8) 雑誌「成功」は,「苦学生の同情者 を以て任じ,其精神に激励を与へん を期す」という発刊之辞「綱目」に あるように保証されたコースを行く 者よりも庶民の立身出世主義に対応

していた。

ここではこの雑誌の典型的な読者 層を示すものを一例だけ示そう。

「僕は家貧にして数年前北陸の一 寒村より笈を負ふて東都に来り工業

‑ 4 3   ‑

(13)

関西大学『社会学部紀要』第 7 巻第 1 号

ることにみれるように,この頃上昇移動規範が庶民に浸透したが,官僚制組織のなかの上昇移動 はすでに「当世立身ノ道述ハ先ズ官立其他ノ学校ヲ卒業致シ侯テ」 9) と,庇護移動の型をとって いたから,上昇移動の規範を内面化した庶民にとっては官僚制組織のなかの地位アスビレーショ ンよりも,金銭アスビレーションの方が現実的アスピレーションとみえたであろう。他方,地位 アスピレーション自体,体制の秩序が確立したこの時期ではもはや乱世型アスビレーションを受 け入れる余地は少なくなった。 すでに 1887 年において,文官総数 46,546 人中勅奏任官は 7.6 彩 ( 3 , 5 2 5 人)で,一生高等官になれない下級官僚が多く存在するようになっていた。 10) 民間企業 も 1900 年頃になると,同様な状況であった。

こうして,上昇志向は機会が開かれ生成途上にある産業の分野での致富者に金銭的アスビレー ションとして誘導された。いまや乱世型の大きなアスビレーションは金銭的アスビレーションに のみ夢を託すことができた。「立身出世」という上昇移動のフォーク'ラベルが色褪せ,「成功」

というフォーク・ラベルが登場した第二の理由がこれである。

このようにして,成功は s u c c e s s の訳語として普及したから,「富を致せば即ち成功」 11) 成 功=致富とみなされた。 1903 年の「実業之日本臨時増刊号成功大銀」は,カーネギー,ヴァンダ ービルトなどのアメリカの致富者の紹介に終始しており,同年刊行の「成功錦裏」も「成功の語 が多く致富を意味するは実に今日通用の観念なり」「大なる成功者は大なる致富者」 12) とのべて いる。

しかしどんな文化要素 ( c u l t u r a le l e m e n t ) も,ある社会に受容されると,既存の文化の文脈 のなかでなんらかの変容をする。致富の意味の強い s u c c e s s = 成功も,しだいに既存の「立身出 世」観念と「習合」 ( s y n c r e t i s m ) していった。 . . . .  

それは,たとえば内村鑑三の「世間の人の多くは,普通に成功と云ふことを以て,高位高官に昇 .  .  .  . 

ることであるとか,巨万の富を積むことであるとか,権威権勢を得ることであるとか,令聞名声を 博することであると云ふ様な意義に解して居る様であるが」 13)( 傍点引用者)という一節にうかが えよう。雑誌「成功」の「立志」欄を第一巻についてみても,実業家 1 名と政治家,学者など 1 名が

に苦辛し目下官立工場に職工たり然も忍耐勉強は僕の本領とするところなり先般より貴社発行の成功は実 に僕が良友にして更に吾れをして将来の安楽を得さしむる好雑誌と思ひ愛読し居るなり僕後日成功せば大 に貴社に酬ゐむとす幸に比端書を記憶せられたし」⑮該],「記者と読者」欄, V . 1 ,   N .  5 ,   1 9 0 峠 三 2 月号,

5 2 頁 ) 。

また成功誌の広告(前頁写真)は,この雑誌の読者層をよく示そう。

しかもこのような雑誌が,自称であるにしても「 1 万 5 千人以上の読者」(成功, V . 6 ,   N .   4 ,   1 9 0 5 年 4 月号)をもっていたことは,庶民に成功(出世)熱がいかに浸透していたかを物語るものであろう。

9)鈴木天眼,前掲書, 1 頁 。

1 0 ) 田沼肇他「日本のサラリーマン」 1 9 5 7 年 , 25 26 頁 。 1 1 )加藤咄堂,前掲論文, 1 2 9 頁 。

1 2 ) 実業之日本社編『成功錦裏』 1 9 0 3 年 , 3 4 頁 。

1 3 ) 内村鑑三「最大幸福の生活の生涯は如何にして送るべき乎」成功, V .1 0 ,   N .  5 ,   1 9 0 7 年 1 0 月号, 1 5 頁 。

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(14)

立身出世主義の系譜と論理(竹内)

毎号ペアーになって紹介されている 14) 。産業社会の開始期には.成功は金銭的成功 ( p e c u n i a r y ‑ s u c c e s s ) の意味合が強かったが, それは一過現象であって.しだいに成功は,金銭的成功と同 時に地位の成功 ( s t a t u s ‑ s u c c e s s ) をも含む言葉としてつかわれるようになった。

このような成功(出世)は,「勤勉努力の人は必ず成功するが,懺惰不動勉の人は必ず失敗し,落 胆する」 1) と,機会は万人に開放されており,「勤勉努力」だけが成功と失敗を決定するとみなさ .  .  .  .  .  .  .  .    . . .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

れていた。しかも「貧乏人でなければ,人間の出世といふものは,出来ないと思ふ。貧乏だとい ふと,身体に自然に節倹といふものが付いて来居るから,決してヅルケない,東京などへ行って .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

見た所が,地方の貧乏人から出た者がどうもエライやうだ」 2) (傍点引用者)と,成功(出世)

における貧困の利点さえ説かれたから,不成功はまった<個人責任に帰結する。

かくて, 「わが夫の立身せざりし原因」 8) は , 「 O 我が夫は頗る大酒家なりき〇我が夫は経済の 念毛頭もなく,収入よりは蓬か多くを消費せり〇我が夫は進歩の念なく余暇を善用して自己将来 の発展を計る事なかりき〇我が夫は薄志弱行にして少しの幾難にも直に畏縮遼巡したりき〇我が 夫は努り易くして他人と争論を好み,其結果職業を変更する事厘々なりき〇我が夫は真摯の念を 欠き,悪意なきに係はらず,窃に他人を愚弄するが如き事厘々ありき〇我が夫は不正直にして厘 々他人に向いて虚言を弄し,為めに一生何人の信用も得る事を得ざりき・・・・・・」とされる。

このようにして不成功は,個人帰責になるが,そのうえに不成功は,敗けたという形で特に強 く意識されることが重要であろう。

そのために英語の s u c c e s s の反対語 " f a i l u r e " を,日本語の「成功」の反対語と比較してみ よう。 s u c c e s s の反対語 " f a i l u r e " は " n o n ‑ o c c u r r e n c e ,n o n ‑ p e r f o r m a n c e " 4 > ということで あって,「しくじる」というニュアンスであり,「敗ける」 ( b e i n gd e f e a t e d ) というニュアンス は少ないのではなかろうか。ところが日本社会では,不成功は失敗なのである。そして成功と失 敗は,「成敗」といわれた(たとえば「成敗の要訣は……」といようにつかわれた)。

もちろん成功が個人帰責の社会では,不成功者には必ず敗北感がまとう。だからマートン ( R . K . M e r t o n ) は,成功を文化テーマ ( c u l t u r a ltheme) とするアメリカ社会では,失敗は二重の敗北 を意味する ( f a i l u r er e p r e s e n t s  a  d o u b l e  d e f e a t ) という。つまり,成功競争で遅れたという

14) 成功誌第 1 巻「立志欄」の人物は,第 1 号,中村不折(画家)•バンダービルト,第 2 号,坪井正五郎

(学者)・カーネギー,第 3 号,村上専精(学者)・ロックフェラー,第 4 号,矢野文雄(政治家)• フ

ランクリン,第 5 号,新渡戸稲三(教育者)• アスクー,第 6 号,岡村輝彦(法律家)・ゴールドである。

1) 仲小路廉「国家の興亡と青年の士気」成功, V .2 0 ,   N .  2 ,   1 9 1 1 年 2 月 号 , 1 2 頁 。 2) 若尾逸平「実験せる最良立身要訣」同誌, . . . . . . . . . . . . V .    1 5 ,   N .  2 ,   1 9 0 9 年 1 2 月 号 , 2 9 頁 。

また,「正直に勇敢に貧の大訓練を受けたる人は,如何なる大勲偉業を為し得べき」(傍点引用者)とする 蛍光生「貧神に奉るの書」(同誌, V .1 3 ,   N .  5  ,  1 9 0 8 年 4 月 号 , 46 48 頁)参照。

3) 同 誌 , V .9  ,  N .  4  ,  1 9 0 6 年 7 月 号 , 3 0 頁 。

4)  H . W .  F o w l e r  a n d  F .  G .   F o w l e r ,   e d . ,   C o n c i s e  O x f o r d  D i c t i o n a r y ,   r e v .   4  e d i t . ,   O x f o r d   U n i v .   P r e s s ,   1 9 5 1 ,   p .  4 2 5 .  

‑ 4 5   ‑

(15)

関西大学『社会学部紀要』第 7 巻第 1 号

顕示的敗北 ( t h em a n i f e s t  d e f e a t  o f  r e m a i n i n g  f a r  b e h i n d  i n  t h e  r a c e  f o r  s u c c e s s ) と , 成功に必要な能力や道徳的気力をもちあわせなかったという隠示的敗北 ( t h ei m p l i c i t   d e f e a t   o f  n o t  h a v i n g  t h e  c a p a c i t i e s  and m o r a l  s t a m i n a  n e e d e d  f o r  s u c c e s s ) 5 ) である。ここで

マートンは f a i l u r e と d e f e a t を区別してつかっていることに注意しなければならないだろう。

日本社会では,成功と不成功は「成敗」として意識されたのだから,成功の反対語はただちに敗 北を示す言葉なのである。

・し・・・・

それゆえ成功(出世)が「人に負けない」 6) という形で,非常にコンパルシィヴに動機づけられる。

その結果,成功した友は「敵」であるというつぎのような認識も生じる。「彼は吾と郷を同ふ し,生年月日を同ふし,共に一個の鞍欄に乗り,共に同一の小学に学び,共に同一の少女を争 ひ,其初四半生は友と云はむより寧ろ兄弟,否多くの兄弟よりも親しみたり。而して向蔽 .  .  .  .  .  . .  .  .  .  .  . .  .  .  .  .  .  .  i と今蔽 ー必死の敵となれる。「彼」は成功して,「吾」は失敗せるなり」 7) (傍点引用者)。

明治後半期の青年類型の「成功青年」(成功希望生)と「煩悶青年」(煩悶生)とは 8)' 不成功 が個人に帰責し,敗北として強く意識される日本社会の成功(出世)観=<カチ・マケ的立身出 世主義>によって生まれた双頭の青年類型であったといえる。

このようにコンパルシィヴに動機づけられる成功(出世)熱にもかかわらず,逸脱者や失意の 大群が幾分かでも抑止されたとすれば,それは,マジック・ビュー(ダプル・イメージ)的成功

(出世)銀=<ダプル・イメージ的立身出世主義>によるだろう。また,機会の閉塞にもかかわ らず,成功(出世)熱が保温されたのは,移動距離の短いソフトな上昇移動も出世(成功)とい うコンセプションを獲得したくささやか立身出世主義>による。

まず,マジック・ビュー的成功(出世)観についてみよう。

成功鼓舞書は, 「実際の社会に立つに至りては,最第一に此事(道徳一引用者)の必要なるを 知るなり,立身出世を希望する者,決して軽々の観を為すべからず」 B) 「真摯熱誠の者は永遠に 栄え」 10) と,世俗的成功(出世)と道徳のパラレリズムを主張した。そのとき,世俗的価値と精 神的価値は図 .  .  A .  のようにオーバラップする。だが,このような世俗的価値と精神的価値のパラレ .  .  .  .  .  .  . 

リズムが強調されればされるほど論理必然的に, 「人間は成功すると豪くなるんだね,豪いから 成功するんじゃなくて」 11) という認識を生む。そして「其の実に於て人類社会のために尽して居 .  .  .  . 

れば,仮令埋木の花咲く時はなくても,其人は真の成功者である」 12) (傍点引用者)と「名誉あ

5)  R . K .  .  M .  e .  r t .  o n .  ,  S .  o c i a l  T h e o r y  a n d  S o c i a l  S t r u c t u r e ,  F r e e  P r e s s ,  r e v .  e d i t . ,   1 9 5 7 ,  p . 1 6 8 .   6)  「人に負けないといふことを唯一の先祖への供物として, 無理な忍耐をして家の名を興したといふの

が,日本の立志伝の最もありふれた形式であった」(傍点引用者,柳田国男,前掲書, 2 2 2 頁 ) 。 7) 徳富董花「断崖」「自然と人生』 ( 1 9 0 0 年)所収,岩波文庫, 124125 頁 。

8) 成功,「記者と読者」欄をみると,「成功希望生」だけでなく「煩悶生」からの相談も多い。

9) 村上濁浪「立身志望者の注意」成功, v

: 6 , N .  2 ,   1 9 0 5 年 2 月 号 , 2 8 頁 。 1 0 ) 同「処世者と人格」同誌, V . 6 ,   N .   6 ,   1 9 0 5 年 6 月 号 , 2 8 ; 頁 。

1 1 ) 佐々木邦「村の成功者」 (19281929 年)「佐々木邦全集第 7 巻」講談社, 1 9 7 5 年,所収, 3 5 4 頁 。 1 2 )   「名誉ある失敗者」成功, V . 1 ,   N .  6 ,   1 9 0 3 年 3 月 号 , 3 3 頁 。

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(16)

立身出世主義の系譜と論理(竹内)

図A 世俗的価値

図 B

上→泄俗的地位←下

精神的価値

(立体図)

る失敗者」が賞揚される。「藤吉郎主義」(後述)から<階段的出世主義>を脱色した「金次郎主 義 」 18) (職務に野心を集中する第一等主義)と「清貧イメージ」 14) は,そこからすぐ一歩の距離 にある。「金次郎主義」や「清貧イメージ」 のアングルから庶民にうつった世俗的価値と精神的 価値のシルエットは,図 B のようなものではなかったか。

成功(出世)が図 A のようにみえるとき, それは,成功(出世)圧力から逸脱行動へむかうこ との防止機能をはたし,図 B のようにみえるとき,それは失意の慰撫機能をはたしたといえる。

いうまでもなく図 B は,近代の市民社会の価値観とは異なる。富や名誉や社会的地位と人格的 価値は無関係であるという世俗的価値と精神的価値の二元論ではなく,世俗的価値=精神的価値 を逆立ちさせたものにすぎないからである。

つぎに,成功(出世)機会の閉塞にもかかわらず成功(出世)熱を保温させた要因である移動 距離の短いソフトな上昇移動の出世(成功)というコンセプションの獲得=くささやか立身出世 主義>についてみよう。そのようなコンセプションは,

時点での日本社会の「地位役割システムの性質」から形成されたとみることができる。

「藤吉郎主義」 と体制の秩序が確立した

1 3 ) 見田宗介による用語。前掲書, 192193 頁参照。

1 4 ) 成功ブームと競合,並列して修養ブームがあった(たとえば,岡義武「日露戦争後における新しい世代 の成長(上), (下)」思想, N.5 1 2 ,   N. 5 1 3 ,   1 9 6 7 年 2 月号, 1 9 6 7 年 3 月号,参照)。修養思想と清貧イメ ージの形成とは,関連が深いとおもわれるが,ここでは問題の指摘にのみとどめる。

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(17)

関西大学「社会学部紀要」第 7 巻第 1 号

神島二郎によれば,体制の建設の時代から維持の時代になると,大望の理想像としての豊臣秀 吉は「偉大なる覇者・征服者」の側面ではなく, 「社会階梯上昇の心構え」の側面に力点が移さ れ「太閤崇拝」から濱§吉郎主義」へ変化したという 15) 。このような秀吉解釈の力点の移行は,

重野安繹「豊臣秀吉の立身の階梯」 is) ( 1 9 0 7 年)によく示されている。重野はつぎのようにい .  .  .  .  •. —••- .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  う . 。 . . 「秀吉は決して外史や太閤記など世俗の伝ふるやうに只徒に活達大度一点張りの英雄ではな . . . . . . . . . . . . . . . . .  

ぃ,寧ろ小心翼々自己の職務に尤も忠実なる人であった。·…••初め信長候に足軽から事へ,其を 只だ一応に怠りなく務めた,すると間もなく足軽頭を取立てられた,拙者如き者に足軽頭を命ぜ

られるとは実に有難い事だと,又其を一生懸命に勤める,又其の上に取用ゐられる•….. .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  拙者は一 . 

職を拝すれば一職,一官を拝すれば一官,念々其の職具の官心頭を離れず,只管に其を勤めたば .  .  .  .  .  .  .  .  . 

かりで他に何もないと云われた」 17) (傍点引用者)。神島は渭程 f 郎主義」を「その地位に応じて その職務に野心を集中するという第一等主義」 18) と定義しているが,「藤吉郎主義」には,「職務 に野心を集中する第一等主義」の他に<階段的 ( s t e p by  s t e p ) 出世主義>が含まれているとみ るべきだろう。<階段的出世主義>が脱色された「藤吉郎主義」が「金次郎主義」に他ならない。 .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

「天下を平定して朝鮮までも斬り靡かした太閤ですら,其初めは草履取りより昇ったではない . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  

か,…•••それが一歩一歩に進むに従って其希望は段々と大きくなり,終に彼れ程の大成業に到達 .  .  .  .  .  .  .  . 

した者である,人は何人も向上的精神に依りて生活して居る者であれば,朧を得て蜀を望むと云 ふことが総べての成業者の成業の道程である」 19) (傍点引用者)という一節は, 「藤吉郎主義」

における<階段的出世主義>の側面を雄弁に物語っていよう。

このような「藤吉郎主義」は,確かに「秩序とエネルギーを両立させる方途」 20) として支配者の 側から積極的に喧伝されたが,体制の秩序が確立した明治後半期における上昇移動は, 「太閤崇 拝」では理念的アスビレーションにとどまり,現実的アスビレーションは「藤吉郎主義」の形を

とらざるをえなかったであろう。

実際,「富国青年」 1903 年 2 月号の「社説」は,学校を卒業してただちに1 0 0 円の俸給をうるこ とのできる時代はもう終った,といい, つぎのように続ける。「大学卒業の学士が 2 5 円の司法官 を争ふ時代だ。……役人ならば判任の下役,銀行会社ならば .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  1 0 .  円か .  .  1 5 .  円の木ッ葉社員といふ次 .  .  .  .  . 

第,・・・・・・矢張り順序を踏んで,亀の甲より年の効,ジリジリと推し上がる他はない……諸君が学 校で習ふ所は殆んど皆ンな大将の学問で,雑兵の学問でない,大将としては適当であろうが,哀 . . . . . . . . . . . . . . . . .  

かな,諸君の地位は一の雑兵たるに過ぎない」 21) (傍点引用者)。明治後半期には, 「藤吉郎主 義」は現実的根拠をもっていたといえる。

1 5 )神島二郎,前掲書, 8 4 頁 。 1 6 )成 功 , V .1 1 ,   N .  1 ,   1 9 0 7 年2 月号。

1 7 ) 同 , 1 7 頁 。 1 8 ) 注 1 5 ) と同。

1 9 )大隈重信「現代学生立身方法」成功, V .1 0 ,   N .  2 ,   1 9 0 朗 三 1 0 月 号 , 1 0 頁 。 2 0 )見田宗介,前掲書, 1 8 8 頁 。

2 1 )富国青年「社説」, N .3 ,   1 9 0 3 年2 月 号 , 1 2 頁 。

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