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−一明治前期における⊥地方国立銀行の分析叫−

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(1)

618   簡36巻 第5号  

ー アイ ーー  

沖縄第百五十二国立銀行の史的研究   

−一明治前期における⊥地方国立銀行の分析叫−  

伊 丹 正 博  

目  次  

− は し が き  

こ 第百五十二国立銀行の成立  

(1)創 立 事 情  

(2)株主・役員の構成  

三 第百五十二国立銀行の営業状況  

(1)預 金 業 務  

(2)貸 付 業 務   四 むすぴにかえて  

ー は し が き  

明治前期金融構造の研究上,その基礎形成過程を国立銀行時代に・もとめ,さ   らに個別研究をおし進める一・つの手がかりとして,九州地方に設立された十数   行に.およぶ国立銀行の申から,これまで患点的にいくつかのものを取上げ,そ  

(1) の分析を進めてきた。   

個別分析において最も重要なことは,正確な史料の入手であるが,周知のよ   うに国立銀行研究にかんしては,もっぱら,「半事実瞭考課状」を主要史料と  

(1)拙稿「第十八国立銀行の歴史的−・考察」(『経済論究』第五号),「第五国立銀行の史的研   

兎一士族銀行の特殊型として+】−」(『経済学研究』第二十五巻第二号),「明治中期に   

おける第五層立蛮行の性格把ついて−」(『鹿児島経大論集』第一巻第三号),「第十八国立   

銀行の貿易商人的性格一荷為替兼務を中心として−・」(『九州大学九州文化史研究所   

創立二十五周年記念論文集』所収),「福岡第十七国立銀行の史的研究H−その創出過   

程と生成基盤−」(『鹿児島経大論集.』第三巻第一・号),「明治期銀行史における士族銀   

行の問題一帯五国立銀行の特殊な性格に.ついて−」(「靡児島繹大論纂塵第三巻第二   

号)。   

(2)

沖縄第百五十二囲うと銀行の史的研究  

619   

ーー 7占 一−−  

(2)  

するのが,最近の研舞傾向である。しかしながら,これら史粁の発掘ほ非常に   困難であり,特に,創立当初からの連続的史料はなかなか得がたいものである   から,断片的史料をつなぎ合せるか,あるいは諸勘定における期末残高などの  

統引数字は,各県の勧業年報や統計書,又は新聞紙上に掲載された決算報告の  

諸計数表などによ  って補わなければならない。   

このような事情から,結局ほ,入手し得た史料によって,その国立銀行を取  

(3)  

扱うという場合がかなりあると思う。   

これま−で筆者の対象とした国立銀行ほ,明治初期において九州の重点的地域  

とみられる長崎・鹿児島・福岡であるが,この中でも鹿児島は,特に明治期の   金融銀行史資料に.乏しく,その発見の困難な場所であり,たとえば,鹿児島第   百四十七国立銀行(現鹿児島銀行)のように,南九州における重要な国立銀行   であるにも拘らず,史料の入手し難いことから,その分析の進め得ないものも   ある。叉,すでにたびたび指摘したように,明治5年の旧国立銀行条例にもと   ずく国立銀行で,規模も比較的大きく,支店所在地でありながら,その創立事  

情の故に,かえって鹿児島と密接な関連をもつ第五国立銀行も,はとんど考課状  

(4)  

の見出せぬ銀行である。   

しかしながら,この第五国立銀行については,『沿革事誌』を中心に数少い  

史料を加えて,島津家及び鹿児島との関係を分析し,強いてアブローーチの方法  

としての類型化概念を用いれぼ,『特殊な士族銀行』というべきであろうとの   ぺてきた。もちろんこのような括孤つきの国立銀行は,これ以外にもいくつか  

5)  

見出されるであろう。けれども,筆名の主張したいのは.国立銀行の大半を,単   なる撃士族銀行又は禄券銀行として塗りつぶしてしまうことの危険性である。   

本稿においてほ.,たまたま入手レ得た史料をもとに,第百五十二国立銀行を  

12)この点にかんしては,伊牟田敏充氏「松方デフレ期の大阪第十三国立銀行・一同行   

「実際考課状」の分析一一lぴ証券経済月報j第46号)の中において,詳しくのべられ   

ている。  

【3J前掲伊甲田氏論文秦燕㌔  

ト4J前掲拙稿第五国ご乙戯行にかんするもの参照。尚,日日本金融史資料』明治大正屈筋三巻    には,明治七年上下半季の実際考課状のみ掲磯されている。  

(5)前掲拙稿「 ̄明治期銀行史における士族銀行の問題_l参照。   

(3)

620   寛36巻 第5号   

・− 76 − 

分析の対象とするわけであるが,同行は規模こそ小さいながら,当初,沖縄に 

設立されたという特殊事情があり,さらに前稿払おいてもふれたように.,第立   国立銀行との関連性の点からも,看過し得ない問題をもつものといえよう。す   なわち,この分析を通じて,第五国立銀行の研究を側面よりさゝえ,おし進め   るよう努力したい。  

ニ 第首五十二国立銀行の成立   

(1)創 立 事 情   

周知のように,国立銀行の設立が急増するのほ,明治9年8月の国立銀行条   例改正以後であるが,九州においてほ,改正前には−・行もなく,わずかに,大   阪算五国立銀行の鹿児島支店のみが存在したことほ,すでにのぺた通りである  

(6)  

が,改正後,明治10年から12年紅かけて:実に19行が設立されている。この中の   最後のものが沖縄第百五十二国立銀行であるが,これは,全国立銀行中,最終   設立とされる京都算古志十三国立銀行よりも,実際紅は三ケ月も遅れて営菜を   開始しており,この国立銀行時代,最後に店を開いたのは,全く同行にほかな  

\Tl  

らないのである。   

設立地として沖縄を選んだ理由は判然としないが,一応推論すれば,同行設   立のわずか前に,鹿児島第百四十七国立銀行が設立されており,その資本金額  

四十万円から見て,同一・地に新たに設立申請をすることは不利と考むたのであ  

ろう。これは,後に取消されたとほいえ,明治10年12月12日の太政官布告罪88   号に∴含まれている「各府県人口及ヒ村税高二割合タル銀行資本.」なる規定が影 

(8)  

響を与えていたと考えられる。  

(6)前掲拙稿「福岡第十七国立銀行の史的研究H」3貴。  

(7)『明治財政史』第十三巻273貰によると,京都第百五十三国立銀行は,明治12年11月11    日免許で12月5日開業であ為に対し,沖縄第百五十二国力.銀行は,明治12年12月10日免    許で13年3月15日開業となっている。名号の数字の若いのは,いうまでもなく,願書申   

請の時期の早かったことによるものである。  

将)『明治財政史』第汁三巻222〜231貢傍照。太政官布告第83一弓の布告当時ほ,まだ沖縄県   

はなく,府県人口及び租税高割においても,琉球藩を除くとしてある。尚,腱児島県の   

剖あてほ,資本金額39万円,発行紙幣高31カ2千円であった。   

(4)

621   沖縄欝百五十二国立銀行の史的研究   ー 77 一  

(9)   

この間の卦帖ほ,同行の『第壱桓1半、李実際考課状.』中に,「創立ノ事」なる  

/  

項目の中で,明治12年8月18日に琉球藩を廃し沖縄県を置かれたことに基くと  

のべてあるが,かつて薩摩藩以来二百六十余年にわたって−鹿児島の支配下にあ   った琉球のことから見て−も,沖縄県が鹿児島となお密接な関係を持ち続けたこ  

とほ当然である。   

かくて,鹿児島在籍の士族平民の手によって沖縄に設立されることになった  

わけであるが,これほ更に次節において−詳説したい。  

(2)株主・役員の構成   

算百五十二国立銀行設立の発起人ほ,鹿児島県士族松田通信以下5名で,算   1表の通りであるが,身分別でほ4名まで士族であり,後記に見られるよう  

に,同行ほ士族の関与が大きい点を指摘しうる。  

算1表 第百五十二国立銀行発起人  

※ 日高宏文苔No.209『創立定款,同詮苔,資本金増加許乱肱より作成。  

資本金額ほ創立請願の際,一応5万円として上呈し,できるだけ早い機会に   増資することを予定していたが,開発免状の下附を受けた明治12年12月紅は,  

出資希望者が多数出現し,増資を求めたため,再び,大蔵省に対して−5万円増   資を出願したが,当時,政府は国立銀行券の増発に憾まされていた時であり,  

「資本金額ノ義難問届尤銀行紙幣発行ヲ要セサル義二俣ハ⊥簡可及詮議」旨の  

【91日高宏文寧No・210「沖縄県那軍第百五十二嘩協牒行第蔓回雄李実際考課択l   

(5)

622  

第36巻 第5弓   

rざ・一一  

(10)  

指令があり,遂に紙幣発行を伴わない資本増額に踏切り,13年2月に・資本金10  

万円とした21 この間,当初の資本金5万円に対する発行紙幣の−F附が遅延し,  

更に,事実上設立準備の■−…切を行っていた鹿児島の地に支店を設置する許可を   求め,すべてが片桐いた3月15日に到り,ようやく開業の運びとなったもの  

で,出願以来約1年に近々、時日を要している。   

この原因の−一滴ほ,恐らく,発起人及び株主がほとんどすべて鹿児島在住で   あって,銀行設立他の沖縄とも,関係官庁たる大蔵省の所在地束京とも遠隔の   地であるため,諸手続にかなりの日数を要した為であろう。もちろん,株主中   唯一一・の東京在住者たる渡辺融に接渉を委任したり,東京第三十三国立銀行を代   理店として諸般の専務を,同行を通じて行うようにしたのであるが,これほ,  

その後の銀行経営にも密接な関連をもってくることになった。   

さて,このように開業までに二周にわたって株金募集を行ったため,株主数   も当初の23名から60名に増加しているが,これは第2表に見られる通りであ   る。これによって,更に株主構成表を作成すると第3表・寛4表となる。   

設立時においてほ,士族乎民の株主数ははゞ同じ位であるが,所有株数の比   率では,士族の方が丁度1.5倍である。しかし,増資後は約3倍に増加する。  

すなわち,士族の所有株数ほ,総株数の60%から75%へと占める割合を増加し  

たが,乎民の方は,40%から25%へと, 

逆にその割合を低下させて−いる。この  

事情は,福岡第十七国立銀行の設立時と増資後の株主構成の異動の場合紅よく  

(1;〜〉  

似ている。   

(10)このような事例ほ,他にもたびたび見受けられるちとである。たとえば,福島第百七    国立銀行創立にさいし,地元でほ20万円の資本を希望しながらも,大蔵省の反対に合   

い,10万円に減額し,しかも発行紙幣額は4万(つまり資本金5万円に見合う額)で承    服させられている。この点に・ついては,杉山和雄氏「明治前期の地方銀行一福島第百   

七国立銀行の分析−.」(『金融経済』76弓)を参照されたい。  

†川 第百五十二国立銀行の設立時資本金を10万円と見るか,5万円とみるかについて−ほ問    題もあろう。『朋治財政史』においては10万円として扱ってある(同番273頁の表)が,   

5万円としている場合もある(作造洋太郎氏『近世日本貨幣丸』和束)。しかし,これは   

同行の開業日が明治13年3月15日であり,資本金増加証書への大蔵省の承印が,同年4    月17日附であるところから(前掲史料による),やはり設立時資本金は5万円とするの   

が正しいと思う。  

tl劫 前掲期柄「福岡筋十七国立卿守の史的研究H」31へ■32頁0   

(6)

623   沖縄節百五十二国嘉銀行の史的研究    第2表 設立初期の株主所有株数表  

ー・7ク ー 

の   合  計 所有株数 (13年3月)  

創立時 所有株数  

住  

蛛所  

松 田 通 イ言   土師孫太夫   島 津 久 徴   児 玉 東 −・  

田辺格之丞   土師荘八郎   川北銑之遷   田 中   伝   矢野作兵衛  

矢野善左衛門  

長崎武一・郎   徳田作兵衛   村 田 孫 平  

福 島   巌  

上 田 ふ み   肥後助三郎   荒巻新兵衛   田中拾右衛門   有 川 純 治   小 森 政 隆   右 松 有 寿   林  尚五郎   村 田 −・郎   長 崎 通 義   伊 勢 唐 三  

日 高佐一・郎  

鹿児島県鹿児島郡坂元村   

〝   〝  下竜尾町   

〝   〝  西田村薬師町   

〝  肝何郡串良郷柏原呵     鹿児島郡潮見町   

〝   〝  坂元村   

〝   〝   〝 冷水  

†■   ′■   ノ′     ノ′  

〝  

〝  金壁間   

〝   〝  中町   

〝   〝  坂元村   

〝   か  潮見町  

〝   〝   ′ケ  

〝   〝  上荒田村    サ   〝  下竜尾町   

〝   〃  池ノ上町   

〝   〝  大黒町   

〝   〝  故川町   

〃   か  西田村    ケ   ル  荒田村   

〃   

 坂元和   

〝   か  潮見町  

′′   〝   一ケ  

〝   ケ  下伊敷村   

〝   〝  堀江町   

〃  肝付郡高山郷新富村  

旧 20 30 58 54一40 20 40  

0   0  

4  3  

4〇 一20  30 30 3〇 一  

0  0  6 3  3  2   

(7)

ーー βロ ー   第36巻 第5号   624  

数   の  

13年2月 増資時の 引豊艶墾  

25      23  

創立時 所有株   

須 田 単 著   渕 辺 申 介   飛岡卯石橋門  

藤安辰次郎  

月仁下伊太郎   小川市兵衛  

渡 辺   融  

野村治兵衛   横 松 員 助   相良十左衛門  

川i崎 龍 助、  

有村甚四郎   渕上休兵楯  

山 口 尚 −−・  

種子島時中   肝付半右衛門   瀬之口党左衛門   洒匂筒佐彦   有 村 良 基  

別 府 選 良  

石原佐方術門  

巾 村 兼 志  

伊知地 徳四郎   岩下伊太郎   和志武新左術門   須田仲之丞   安田助之丞  

鹿児島県健児島郡上飽和   

〝  

〝  上磯町J   

〝   〝  金昼間   

〝   〝  住ま町   

〝   〝  金生鞘   

〝  

〝  六日町  

東京府神周区西小川町   鹿児島県鹿児島郡山ノロ町  

′γ   〝    ′ケ  

〝  

〝  永田町   

〝  姶良郡埴生郷土久徳利  

′′  

′′     ′′    1■  

〝   〝  ケ 暁子町   

〝  鹿児島郡新正院透間   

〝   〝  永田町  

〝   〝  下荒周村   

〝  姶庖郡蒲生郷上久徳利  

ノγ   〝    ぺ′    〝   ノケ   〝    〝    〝  

〝   ノケ    ケ    ′′  

〝  腱児島郡鼓川町   

〝   〝  稲荷馬場町   

〝   〝  下竜尾町   

〝   〝  長田町   

′′  

′′  中町   

〝   〝  池ノ上町   

〝   〝  長田町  

5  3  ハリ  

2  2  2  

0  0  ∩︶  0  0  

2  2  2  2  1   0  0  

2  2   0  0  0  ︵U  

2  2  2  2  

0  0  0  0  0 1  2  2  2  2   0 0  0  0  0  0   2  2  2  2  2  2  

0  ︵U  ■‖U O O O  

2  2  2  2  2  2  

0  0  0  0   

0  0  0  0  

2  2  2  2  

(8)

625  

沖縄第百五十二国立銀行の史的研究   → βJ¶−  

身   分    士    士   

創五時の 所有株数   姓   名  

山 口龍太郎   岩 兎   基   有川早之丞   相 良 ま 熊   大域筑登之   相良仲次郎   相 展 長 発  

鹿児島県鹿児島郡冷水通町  

〝   〝   下荒田村   士〝   〝   長田町   

士〝  

〝   永田町  

沖縄県那覇西村  

鹿児島県健児島郡鹿児島  

東京府四ッ谷区船町  

合計  

※ 日高家文葦No.209『創立定款,同謹書,資本金増加謹書』より作成  

第3表 設立時における株式所有数別人員表  

※ 前掲日高家文晋No−209の史料により作成   

(9)

626  

第36巻 節5号   

箱4表 埋腰時における株式所有数別人員表  

−∂2 −  

●     、ヽ 出資よ、\讐   ヽ、 

4,850  

円     6,000  

平  

民  

∴・:: ・・∴  ご  

士   族  

l  

−−● −−  − −−   

円  

4,500    3,000    2,900    2,700   

2,000   1 

1  

一 ー 

_  

3;:≒16 ;::i5  

15    24    30  

 ̄ ̄  

這「云忘  

誉 前掲日高宏文苫No」209の史料により作成   

更に,60株以上の大株主の所有株数合計は,設立時では10名で33,000円(内   平民3名9,000円を含む)となり,株金5万円の66%を占めているが,増資後   ほ14名で48,350円(内平民4名12,000円を合む)であり,株金10万円の約48%  

に低下しており,それと同時に20株未満の小額株主が前回の1名から11名へと   

(10)

沖縄第百五十二国立銀行の史的研究  

627    ・一 &3 一冊  

増加し,この1・曽贅勧5万円が大部分細分化されて,多数の士族の出資によりま  

かなわれたことを物語って−いる。   

以上の点から,この銀行の設立j体は士族が中心であったと考えられる。平   民の内容について−は,判断する史料がないが,数年後の株主表及びその住所な  

どから推定すれば,はとんど皆商人であると言ってよい。   

次に,役員について眺めてみると,創立時の役員ほ,定款第七条「当銀行ノ  

(13)  

取締役ハ三十糠以上ヲ所持スル株主ソ内ヨリ五人以上ヲ選挙スベン」に・よって  

次の5名が就任している。  

取締役頭取  福島  巌(士族)  60株所有   取 締 役  松田 通信(士旋) 120株所有   同   児玉 東−・(士族)  60株所有   同   村田 孫平(平民)  60株所有   同 支配人  徳田作兵衛(平民)  60株所有   

この中,支配人徳田作兵衛は開業直後辞任し,林周五郎(平民)(80株所有)  

が支配人となって摩児島支店主任を兼ね,更に,須田仲之丞(士族)(15株所   有)を副支配人とし,上記の取締役松田通信は副頭取に就任している。このよ  

うに.,役員構成における士族の割合は,株主構成の場合とはとんど変らない。   

ここで,第五国立銀行の役員,株主との関連を見て−みよう。第五国立銀行の  

(14)  

株主,役員ほ,すでにたびたび指摘した通り,創立当初の構成のみで,その後   のことほ正確にほ知り得ないが,現存史料に現れてくる人名の申から,この第   百五十二.国立銀行の設立時に関係している者を摘出してみると,有川純治,徳  

田作兵術・長崎武一・郎の3名である。有川純治は士族で,第五国立銀行の取締   役であると同時に,第百五十二国立銀行の株主(40株所有)であり,役員(具   体的な名称ほ不明,株主名時の属籍欄には銀行役員と記載)でもある。有川が   両銀行を結びつける役割を果していたのでほないかと推定できる事実は,第五  

爾)前掲日高家文吉No209の『創立定款』によ【る。  

(1亜 前掲拙稿中の第五国立銀行にかんする論文,特に「第五国立銀行の史的研究」を参照   

されたい。   

(11)

第36巻 第5号   628  

= ぶイ ーーー  

国致銀才うの 好1沿非事誌凋に次のような記述の見られるこ.とである。   

「(り」拾二十四年)兄二蝉児島支店二於テ剃三l五一仁二国二立.銀行株券抵当ヲ以テ   

福島厳へ貸附クタル五千四百円ハ結局弐千壱円九拾壱銭弐犀ノ損失ヲ生レタ    ルニ付七月九日ヲ以テ同店取締役有川純治貸附係谷村藤吉へ申合規則第三十  

(ユ5〉  

・】\条ニヨリ退院ノ処分ヲ命セリ」  

時期的にほノ約10年後のことであるが,福島頭取も有川もその地位に変動はない  

(16)  

ものと考えられる。次に,徳田作兵衛は両行の株主である。第五においてこほ20  

′株,第百五十二においては60株を所有している。尾崎武一・郎について−は推定の   城を出ないが,第五国立銀行の株主中に長崎用蔵という名があり,住所が同一一・  

であることから,同一・家族内の老ではないかと思われるために,一応挙げて見  

たものである。   

終りに,島津家との関連を競う点を示せば,大株主の−・人である島津久徽で   ある。彼は島津斉彬時代から家老をつとめ,忠義時代には城代になったが,島  

津久光の公武合体論に.もとずく藩体制の改革の際,更迭されて首座家老の席を  

しl:\  

退いた人物であるが,第百五十二国立銀行でほ,設立時の30株から,半年後に   は114殊に所有株をふやすと共に,.18年下津季より取締役に選定されており,  

筆頭株主であった。   

以上から判断しても,設立当初より,一・部商人の参加ありとはいえ,士族申  

(18)  

心的であったと見て−よい。又,その株主の所在地が,はとんど,塵児島の市部  

個 第五国立銀行『沿澤事誌』(明治29年8月刊)230頁。及び,前掲拙榊「明治期銀行史   

における士族銀行の問題」120〜124賞。  

(畑 第百五十二国立銀行にかんする史料でほ,明治20年上半季の考課状が,本和で使用し   

た最終のものである。  

(17) EJ鹿児島県史』第三.巻及び別巻に・よる。  

㈹ 士族中心に設立された銀行ほ,他の銀行に比して有利であったきいうことは,加藤隆    氏が第七十七周立銀行と第四十六国立銀行の場合,第百十四国立銀行と第十六国立銀行   

の場合とをあげて言及されているが(同氏論文「第十六国立銀行の史的研究」(明大『政   

経論叢』第29巻第5号)参照),第百五十二国立銀行の場合も,『第壱回半季実際考課状』   

中の創立にかんする記述において,「…同十三年一月二至り末夕発行紙幣御下渡不相   

成追々開業ノ日ヲ遷延スルヲ以テ同六日其実情ヲ大蔵省工具陳ン金四万円拝借ノ義ヲ請   

願セソニ同十五日金弐万円七歩ノ利子ヲ以デー・時拝借ノ義允准アリ由テ\速二開米スへヰ   

旨ラ閑申セリ」とあるのほ,先の第百十四国立銀行の場合と同様のケ−ヌであろ■う。逆   

に,この事例からも,第甫五十二国立二銀行の士族中心的惟格を推定しうる。   

(12)

沖純第竃五十二国立銀行の史的研究  

629    −・メこ;一一一  

に集中していることも,姐五国立銀行のそれが,県外の参加者もあり,鹿児島   在籍者にしても,必ずしも市部に集中的でないことと比較して興味のあること  

である。  

三 第百五十二国立銀行の営業状況   

(1)預 金 業 務   

預金構成ほ第5表の通りであるが,諸預り金総計額としてほ,明治15年F半   季から19年下半季に.かけて,はとんど大きな変動ほない。特に,その中心をな   す■と見られる約定預金は,かなり安定した預金である。その内容ほ沖縄及び鹿   児島両店の士族の預金になるものであるが,これが初めて現れた14年上半季  

と,最も多額である17年下半季との内訳を示せば次のごとくである。  

第5表 主要な預金の推移   ※単位円   

\\ 

、 

年次.主産\\   類    御用当   座預金  

御用通 知預金  

御牒   預り金   定 期  

預 金  

遠望偶霊鳥り霊闇窒  

明治13年・上    13年・下    14年・才 

15年・下   

16年・上   

16咋・ ̄下   

1−7年・下   

1叫」三・上   

18年・下   

19年・下    20年・」二  

一  旧  

520芦28,553   1 

−− 

−1  

■▼  ̄l       ■ ■一 ■  

1,038j4,189  

0】 275   

ー32,」710F  

3,00051,9931  

108    358    767    884   

. 

1  

※※『\第百五十二国立銀行半事実際考課状』により作成  

(明治14年上半李)  約定預金期末残高  

沖縄店  35,010円 16ロ  士族   

(13)

630  

範36巻 第5号  

岬β6・−  

(明治17年 ̄F半季)約定頭金期末残高  

庵児島店11,648円  

沖縄店  47,404円   以上の身分職業別割合ぬ  

鹿児島店 士族91小9%(17口),商3.4%(1仁り,官吏1.7%(1口)  

沖縄店  士族54.4%(13口),商8.5%(2ロ),官吏0.9%(6口)  

貯蓄会36.2%(1口)  

このように,はとんど士族にかかわるものであるが,考琴状にほ,「約定預   金ノ\公債代金二属スルモノ最モ多ク本店二在チリ、殆ンt・八割七分ヲ占ム沖縄支   店ノ分モ亦五割余二居ル其他ハ平生使用セサル貯金等ニシテ皆何レモ特別ノ約  

(20)  

束ヲ以テ預リクルモノニ係レジ」と説明している。利息及び期限も,初期軋は  

平均年1割1分5厘で,満3ケ年となっており,その後は,本店ほ8分から1  

割3分8犀まで,沖縄支店は,平均8分とし,期限も,本店は10ケ月から5ケ   年まで,沖縄支店は10夕月から3ケ年までとしていた。   

以上に見る通り,長期の安定せる預金であった。   

次に,重要な地位を占めたのほ,やは.り御用諸預り金であろう。これもその   内容は,御用定期預金のみが,鹿児島郡役所の預金になるもので,残りほすべ   て沖縄県庁の為替方をつとめる沖縄支店に預けられたものである。しかしなが   らこれほ,明治19年以降は現われていない。   

以上に対して,一腰の定期預金,当座預金を見るキ,共に・明治17年頃から伸   びて来ている。   

定期預金ほやほり鹿児島・沖縄が多い。特に後者が多いようである。鹿児島   店の場合は,預け人がはとんど士族であるので省略し,比較的変化にとんでい   る沖縄店の定期預金預け人身分別(職業別を含む)割合・口数表を作成してみ   ると第6喪となる。   

(孤打課十回斗事実際考課状j22壬と。   

(14)

− β7−欄  

沖縄第百五十二国立銀行の史的研究  

631   

鋳6未 定期預金預ケ人身分別割合・口数表(沖縄店)  

※単位%,括弧内は口数  

【 

Fここ警百千丁忘「云L 

医 帥   教 員   学 校  

生迦二里至__■二ゝ 」      l  

56.3  

(7)   

64.5  

(2)  

明治13年・下  

14年・上  

15年・下  

16年∵上  

16年・下  

17年・下  

18年・」二  

18年・下  

19年・下  

20年・上  

8ヽノ  l︶  4︶ ・乱■︶  3︶  3︶  9\︑ノ  8\︑ノ  7︶  

3   6   ・1   4   ●3   .5   1   .S    1  

4 ′\  52  22  21  ︵B1  61  32  81  11  1    6︵  7︵  6︵  2︵  2︵  3︵  3︵  5︵   9ヽノ  3︶  l︶  l\ノ  8\ノ   

4  ・3   ‖l  2   ●5  

3︵  2︵  5︵  3︵  3′l\  

l    1   2  

7︶  l︶  5︶  l︑︶   6    日 l    ‖ l    ‖ 1  6′︵\  8︵  2︵  l︵  

1   2  

一 一   

2︶  8︶  4︶  2︶  4︶   2   2   ・3   ・3   ・2  

2︵  7/し  l ︵  5︵  7︵  

6     1     1   l︶   

3  

3︵  

2  

※※ 前掲史料により作成  

これによると,前半ほ士族の割合が多く,後半ほ.商人がふえている。比較的    変化少く,はゞ一足しているのほ′自史であるが,官吏ほ身分的に,恐らく士族に   

入るものがかなりあると推定されるので,約半数ほ士族の預ケ金と考えても良  

(21)   

いであろう。たゞ,18年から19年にかけてかなり商人の預け金が増加しているこ    とほ往けすべきであろう。吏に,−・口当りの金額を辞舟すれけ∵首班の場合は少   t2t)定期預金の身分職業別割合ほ,商人中心の国立銀行の場合と比較してみることも必要   

であろう。たとえば,長崎第十八国立銀行のそれを見ると,圧倒的に商人及び平民の預    金が多く∴戸更改び士族のものはごくわずかであぁ。又,職業欄にも,職工,僧侶などが  

あって,その銀行の〕■〜。地条件を示していることに気づくであろう。詳しくほ,拙顆「第   

十八国立銀行の歴史的←・考察_巨83頁を参照されたい。   

(15)

第36巻 第5号   632  

膚、ββ−  

額となるに反し,商人の場合ほかなり高額になると考えられる。ここに・も,士族   銀行として出発した同行に,商人の介入が次第に加わって来た事情を窺いうる。   

次に,当座預金についてみると,前半はとんど,沖縄店が大部分を占めてこい   る。そ・の利用者ほ九割以上商人であるが,19年より大阪店が急速紅増大しでい  

ることを充分注意すべきであろう。   

ここで,大阪支店のととについてふれてお争たいが,同店の開設ほ,史料の   考課状欠損のため,正確な時日を知り得ないが,推定すれば明治14年後半から  

(22)  

15年前半にかけての時期と言えよう。これほ,第五国立銀行が最初大阪に本  

(23)  

店を置き,鹿児島・東京の支店と共紅,沖縄紅も支店開設を討画していたこと   と合せて考えれほ,鹿児島と大阪との関係からも,すで紅塵児島と沖縄軋店を   開いた同行としては,是非とも開設したい地域であったことが肯けられる。   

以上に挙げた諸預り金を,店舗別に分け,各店の預金の総預金合計に対する   割合を算出してみると,第7表となる。これによれは,第百五十二国立銀行の   資金調達の事情をある程度推虚し得よう。すなわち,設立初期から柑年にかけ  

ては,沖縄店が8〜9割を占めて−おり,鹿児島店ほ約1割内外である。この内  

(2顎 本稿に使用した考課状は,日高家文苔No210,211,212の31附と,九州大学経済学    部研究室架蔵のもの8冊とであり,その時期を列記すれは次鱒ように・なる。  

第1回半季実際考課状 (明治13年上半季)  

(〝13年下車季)  

(〝14年上平季)  

(〝15年下平季)  

(〝16年_上!!ろ季)  

(〝16年下平季)  

(〝17年下二i壬L季)  

(〝18年上さl壬季)  

(〝18年下半季)  

(〝19年 ̄F−、巨季)  

〝2   〝   〝  

〝3   〝  

〝6   〝  

〝 7   〝  

〃 〃 〃 〃 〃 〃 ル 〃  

〝′8  

〝10   ,, 11  ,, 12 

〝14  

〝15  

〃 〃 〃 〃 〃  

〃   (  2(咋・】上平季)   

以上の考課状の中,節3回までには大磯店についての記述なく,第6回より項れている    ことから,14年下半季ないし15年上半期と推定されるわけである。  

(2劫 R 第五国立銀行半季実際課ヨ剋(明治7年上半季)(『日本金融史資料』明治大正篇第3   

巻収録)には「枚店之事」と遷して,「琉球枝店ノ儀ハ追々開業イタシ候」とのべられ   

てある。しかし,実際には開設されずに終っている。前掲拙稿「第五国立銀行の史的研   

究」83克参照。   

(16)

633  

沖縄第百五十二国立銀行の史的桝究   第7衣 店別藷預金推移  

ーβ9 −−  

鹿 児 島 店  

−  

・二. ‥ 二  

沖縄店  

∴ ・_    ̄−− 

大阪店  

、− 

‖∴.  合  計  

3,625   円   16,236  

45,76(う  

179,961   110,932   101,570   150,545   114,215   161,741   101,382   66,090   年次・半オ\  

明治13年・上   13年・下   14年・上   15年・下   16年・上   16年・下   17年・下   18年・上   18年・下   19年・ ̄F  20年・上  

%  

89    17  

6   

10   

10    11    13  

8   

21    21  

3,625    円    1,857    37,972    166,460    94,150    90,879    131,686    95,889    129,363    35,805    14,379   

1,794    11,351    11,578    9,948    16,128    14,730    13,533    21,432    13,743  

(19)   

※ 前掲史料により作成   

容ほ,先述せるごとく御用預金等を含む官公金と,士族が大部分を占める約定  

預金と定期預金とから構成されて−いる。これに対して−,19年下草季より急速に   増加して,預金合計の過半を、占めるに至る大阪店の預金の構成内容は,はとん  

ど,当座預金である。先にも指摘した通り,この明治10年代末期償.なって,士・  

族中心であった同行が,商人中心の銀行へと転化のきざしを見せていると考え   られるのでほあるまいか。しかし,この点ほ,貸付業務の推移と共に合せて,  

士族中心の国立銀行の近代的銀行への転化過程を考えるべきであろう。  

(1功 第5衷・貸与7表ほ、】′・季実繚考課状の諸欄数表土り作成したものであるが,円未満を四    捨五入したため,弟5衷の預金合討と第7表ゐ∋垣金台意lで誤差の生ヂるところがある。   

軋19年下半季の預金項日中,別段預金は,考課状本文中におていは,瞭児島本店と沖   

縄支店との合計額28,337円を算出してあるが,嚢末の半季実際報告表の該当欄ほ22,】.12   

円となっており,噴い違っている。同史料からほ.どちらが正しいか断定J11来ないた   

め,そのまゝを用いた。それ故に,前者によった第7表と,後者を用いた第5衷で,預   

金合斜に差異が生じたものである。   

(17)

第36巻 第5弓  

・蛮ト一  

634  

(2)貸 付 業 務   

先にのべたような経過で集められた資金が,どのような形で利用されたか,第   百五十二国立銀行の資金適用状況をみると,弗8寂のごとくである。もちろん,  

第8表 貸付金店別推移  

緊単位円,括弧内ほ1二†数   

弾没 前掲史料紅より作成   

貸出残高は貸付金以外に.,当座貸越もあるが,同行の場合,この論稿で取扱っ   ている時期欣.は比較的少観であるので,表作成上からも省略した。尚,御用貸   付金もー・部にあるが,それほ鹿児島店に.おいて鹿児島県庁への貸付金1000円が   討上されているだけであるので,これも省略してある。たゞし,期限過貸付金   は,この数字の申に含まれている。そこで,この表においてほ店別推移として  

表出しておいた。本支店の合討鶴では,15年以降はとんど−・走して:いる。これ  

は,前節の第7表に.算出されている預金総討と比較してみると,設立直後のこ   年間は貸出が上廻っているが,それ以後は,貸出の方がずっと下廻っている。  

もちろん,これは貸付金のみで,資金巡用全般を論ずることは出来ないが∵当   

(18)

63.5  沖縄第百五十二国立銀行の史的研究  

ー9J−−  

座貸越,荷為番手形の額がごく少いので,或る程度はこの表から判断出来よ  

う。つまり,充分運用されていたとほ.言い難いところがある。たゞ,前節の預  

金構成の推移の場合と同様,19年傾から割引手形が非常に伸びて来ていること  

である。史料の限界のため,残念ながらその後の状況を窺い知ることほ出来な  

いが,もしこの状態が継続されているとすれほ,資金運用状況ほ極めて好調に  

なって来ていたと言えよう。   

次に,各本支店間の比較をしてみると,特に,どの地域が伸びて.−いたと.いう   ことほ言えないようである。わずかに大阪店が他の二店に比して少いという位   である。たゞ問題ほ,貸付先一・口当りの貸付金観である。すなわち,逆に大阪   店での貸付はかなり高額であって,鹿児島店の二倍,沖縄店のはゞ三倍以上に.  

も概算されるようである。そこで,各店の貸倒内容を見るため,更に.,借り主   の身分職業別比率を算出してみると,第9,10,11表となる。  

第9表 貸倒金借り主身分職業別割合表(沖縄店)  

※単位%,括弧内は口数  

※※ 前掲史料により作成  

13年上半季は本支店の区別なきため省略   

(19)

636   第36巻 第5号   

一一・9ヱ 、・  

雄10表 貸刃金伯り主身分職業別割合表(鹿児島惜)  

※単位%,括弧内ほ口数  

り成作  

※溢 前掲史料によ  

18年上半季は  

課支 考本   状店   にの   数別 口区   のな   記き   なめ 戟た   し掛   略  

13年上半季   は  

第11表 貸付金借り主身分職業別割合表(大阪店)  

※単位%,括弧内ほlコ数   

(20)

沖縄第百五十二国了/銀行の史的研究  

637   

一〟9」ヲ ーー   

先ず,沖純店を見ると,8割ないし9割ほ商人向けj主付であり,残りの1判   内外から2制近ナくが土朕向けとなり,こくわずかではあるが侍史への貸刊も毎   半季行われている。→口当りの貸付金額を概算してみると,中頃の明治16年下   草季においてほ,′自史ほ・劇・口平均22円という少額であり,士族も100円紅みた   ない91円という金租である。これに対して,商人紅対するものは503円となっ   ている。これが,19年下車李において−ほ,官吏105円,士族185円,商人406円    と,前二者の割合ほふえ.,商人は減少している。   

これを更に,鹿児島店・大阪店とも比較してごみよう。まず,塵児島店の場合   ほ,沖縄店の場合と適って士族への貸付がかなり高い。それだけに,商人への   貸付ほ少くなこるわけであるが,やほり,構成比と.し七ほ∵・番多く,5割から7   割を上下している。特に,士族への貸出の激減する19年,20年には逆に商人へ   の貸付が8割近くまで増加している。この場合,官吏ほはとんどなく,農業や   医師小僧侶及びその他の雑業がわずかばかりある。ここで,先の場合と同様,  

−・口当りの貸出残高を算出すると,16年下半季の場合,士族ほ約317円商人ほ  

627円となる。沖縄店の場合よりもー・口当り貸付金額は多くなっているが,特  

に士族への貸付金ほかなり高くなって釆ている。   

次に,大阪店の場合を見よう。ここも,商人への貸出が圧倒的に多く,8割   ないし9割を占めており,残りが士族向けであり,他ほはとんどない。ここの    特徴は,鹿児島店の場合よりも,更に口数が少くなって−おり,それ故に,・一・口   当りの貸出残高も大きく,たとえば,明治17年下半李をとってみると,士族は   約1043円,商人は約1373円となっている。   

以上から,三店を比較しながら考えると,鹿児島の場合は,士族への貸出も   割合多いと言うことが注目されるであろうし,他のこ店についてほ,どちらも   商人への貸付がはとんどであるが,沖縄の場合ほ,非常紅多数の商人に小口の   貸付を行い,大阪でほ,小数者に高儀の貸付を行っているということになり,  

それぞれの地域における貸付対象たる商人のクラスの差が示されていると言え   

(21)

第36巻 第5号   

第12衷 貸付金抵当品及び割合表(沖縄店)  

638  

▼・8.J山  

\→\、、、、攣 別 、\ 年次・半季\\   公債証竃   他店株券   地  券    信用貸  

預金証書  

諸商品  

明治13年・下   

14年・_L    15年・ ̄下   

16年・上   

16年・下   

17年・下    18年・上   

18年・下   

19年・下   20年・上  

3  1  6  ︵U  3  9  2  6  6  

0  0  5  0  1  9  7  4  9  

1  2  2  1  2  1  1  

整 前掲史料により作成  

第13表 貸付金抵当品及び割合表(鹿児島店)  

※ 前掲史料により作成   

(22)

沖縄節百五十二国正毅行の史的研究   

第14表‡葦付金抵当品及び割合表(大阪侶)  

639   ー95−−   

※ 前掲史料に.より作成   

バ・l\  

る。   

次に,貸付内容を探るもう−・つの手がかりとして,貸付金抵当品目と,その  

(25)  

割合を表に作成したものが,第12表から第14表に至る,各店別のものである。   

これ紅よると,沖縄店では,設立当初,非常に信用貸が多く,後,次第紅減  

少して,以後は,地券及び他店株券で過半を占めることに.なる。物品抵当は,  

大体20%前後あるが,その品目ほ,紙・種子油・反布類・米・唐緒・黒砂糖・  

杉七分板・石油・茶・真論地金などで,特にその中で屋の多い品目と言うのは   ないようである。   

これに対し,鹿児島桔の場合は,設立当初ほ,公債証書抵当が非常に多く,  

以後は次第に他店株券と地券に移って行くのだが,特に18年頃から信用貸が急   速にふえてくるのほ,沖縄の場合と逆の現象で面白い。これは恐らく,鹿児島  

店の貸付対象にほ.,先に見た通り他二店と追って,かなり士族が多く含まれて    錮栗付残高の−・口当り金額を算出して,いろいろ考察を加えているのは,前掲伊牟田氏   

の論稿である。この申では,第十三国立銀行の本支店別に.特に商人への貸付を分析され    て,詳しい表を作成されているので,非常に示唆を受けるところがある。  

1251この貸付傘抵当品及び割合表ほ,考課状記載の統計数字をもとに概辞し∵てあり,品目   

も適当に整理したため,必ずしも百分比が−・執しないところもある。.   

(23)

640   第36巻 第5胃   

l96−−  

いるところから,明治14年以降の松方紙幣整理過程に,次雄に.公偵証書を手放  

し,信用貸に顆らざるを得なかったのでほあるまいか。叉,  このようなイ言用貸  

を行っていたところには,鹿児島店が,依然として−,所在地め士族と密接な関   係を持続していたことを示すと思われる。   

大阪店の持色ほ,抵当商品としての黒砂糖が大きな地位を占めていることで   あろう。これほ.,薩摩藩以来の特産物商品として,又,大阪はその売捌き地と  

して密接な関連を有していただけに興味ある現象で,第五国立銀行の場合と同  

、コtlゝ  

様である。   

最後に,割引手形と荷為替取引に、ついてのべなけれほならないが,紙幅の関  

係で別稿に譲りたい。たゞ,荷為替取引による商品の流通構造を図示して参考   に供しておく。同行の荷為替取引は,はとんど,本支店間において行われるも  

(27)  

のが−−・般的であり,その他ほ,ごく稀にしか現れてこない。  

第15表 荷為替取引による主要商品の流通構造(明治13′−′20年)  

※前掲史料により作成  

脚 前掲拙稿「第五国立銀行の史的研究」101頁参照。  

銅 荷為替取引については,九州内の他の国立銀行と共に取上げ,お耳斗、に関連させなが   

ら,詳説してみるつもりである。   

(24)

沖縄第百五十二国立銀行の史的研究  

ー97−  

641  

四 むすびにかえて  

以上,史料紅よりながら,ごく大づかみに見て来たこの第百五十二国立銀行  

を,結論として,もっとも−・般的な士族銀行であると規定しておきたい。   

すなわち,設立動機においても,創立時の経過事情においても,設立主体,  

経営主体の構成にぉいても,更に室・の後の営業状況たおいて・も,いずれも,典  

(28)  

型的な士族銀行と言われるものの印象を強く感ぜしめるのである。強いて,他   の国立銀行(士族銀行と言われる)との差異を挙げれぼ,地域的な特殊性(た  

だ−・行だけ本土を離れて沖縄に設立された)と言うこ.とである。それ故に,資金  

の源泉として依拠したのも沖縄県庁の為替方としての官公預金であった。しか   しながら営業の主体ほ,地域的にも鹿児島にあったことは言うまでもない。た   とえば,考課状にほ,「沖縄県庁為換方御用御預金ノ抵当トレテ該庁へ納付ス   へキ丁金禄公債証書高三万五千拾円ヲ都合二依り鹿児島県庁へ納付シ同庁ノ御   預ヅ証書ヲ以テ沖縄県庁へ・上納センコトヲニ月十五日鹿児島県庁へ請願セシ∵ニ  

(29〉  

同月廿日許可ヲ得該公債証書ヲ納有セレヲ以テ御預ヅ証書ヲ下付セラレタリ」  

とあり,創立にかんする事務,株主総会など,すべて鹿児島において行われて   いることほ,先述した株主構成における株主の在住地からも肯定できよう。こ   のことほ,沖縄にとっても,銀行間設によって,本土との貨幣流通・商品流通  

の路が開けるとして,非常に期待していたよ・うで,第一個考課状の「本店景況   ノ事」においてほ,   

「当本店ノ、前記ノ如ク三月十五日ヲ\以テ開発セシカ置県日猶、浅ク開化未夕進   

マサルノ土地ナルヲ以テ貨幣流融ノ路未夕閑ケズ且ツ営業ノ日モ又数十日ナ    ルヲ以テ未夕繁盛ノ域二達セスト難トモ紙幣新銅貨交換ノ如キハ連日百有余    人ノ多数二及べり為換ノ業ハ当地未夕郵便為換ノ方法不相立ヲ以テ官民甚タ  

(2甜 典型的な士族銀行についてほ.,長幸男氏の類型化があり(同氏「日本における信用制    度の成立前史」〔『信用理論体系』制度編所収〕26頁),朝倉孝ま氏『明治前期日本金融構    造史』や,土屋裔雄編町地方銀行小史』(全国地方銀行協会)において,種々論議され   

ている。  

但9)日高家文書No212『第三回半事実際考課状』5貰。   

(25)

第36巻 第5号   642   

−−9β・−  

其不便二苦ミレカ開業以来単二本行二委託スルヲ以テ漸々繁昌二至レヅ(中  

r30)   

略)当地−・般金利ノ昂抵ノ、凡ソ高キモノ年四割二渉低キモノ八歩四摩ナリ」  

とあり,特に最後紅のべられてある如く,当時の沖縄の市中金利が非常に不自   然な状態にあっただけに,国立銀行の進出ほ時宜を得ていたわけである。   

しかし,現実に、は営業上諸般の情勢から,本店を沖縄におくことには不便が   あり,遂に,明治16年上半季より,産児島・沖縄で本支店の位置を変更するこ  

とになったのである。これほ,福岡第十七国立銀行が,福岡と大阪で本支店の  

(31)  

位置を交替したのと同様のケースとみてよい。   

第百五十二国立銀行の一−・般性ほ,士族の出資に大部分を拠りながら,その中   に特に満額を出資した士族がはとんど見当らないことにもよる。与の点は株主   構成において一見られた通りであるが,当時,すでに算五国立銀行・欝百四十七  

国立銀行に出資した士族が多数いたと考えられるところから,はゞ,同程度の   士族(未だ余り他の国立銀行に参加し七いないものを中心とした)が集合した   のであろう。たとえば,本稿に用いた史料の・−・部,日高家文書の所蔵者日高家   の先々代日高佐一・郎民は,株主名簿に記載されている如く,肝付郡高山郷在住  

(32ノ の士族である。この他にも,市部以外のいわゆる郷からの参加には.,姶良郡蒲  

生郷などからがある。   

このように,小資本ながら或る程度のまとまりを見せ,立地条件の特色をか   なり生かしていたことを指摘できよう。まだ全般的な分析でほなく,主として   設立時の株主構成・預金構成及び資金運用に‥おける貸付金の構成を中心に考察  

したので,同行の性格を充分規定することは出来ないが,士族によって作られ   た典型的な地方国立銀行と称して:良いであろう。本稿においてふれなかった部   分ほ.,第五国立銀行との関連の問題と共に,更に.今後の槻会に期したい。   

〔後記〕本稿を草するに当って,九州大学経済学部架蔵の史料については同  

(3q)日高家文書No210『第壱回半季実際考課状』14貢。  

(31)前掲拙稿「福岡第十七国滋銀行の史的研究卜〉」を参照。  

(32)日高宏文苔には,考課状以外に,第百五.十二国立銀行と日高佐一・郎氏との間で往復さ   

れた書簡などが含まれているが,これは別稿においてふれてみたい。   

(26)

沖縄第百五十二国立銀行の史的研究  

643    −99−  

学部助教授秀村道三流生に,叉,日高宏文蕃借濫についてほ,学友日高吾平   氏の御母堂と六ヶ所日高本家の皆様に,高山町公民館の中村建蘭氏に大変お   世話になりましたことを,ここに記して厚く御礼申し上げます。  

(38」1031)   

参照

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