明治初中期実学主義消長の史的考察
内
(そ の 二)
山 克 己
増 田 史 郎 亮
承 前 3.変 容 期
借以上のように問題を内包しつ、推移して来た実学主義は10年代に入り転換を余儀なくされ ざるを得なくなった。というのは先に問題点となっていた生活遊離の問題,儒教主義的又国家 主義的教育方針を当局が本格的に採上げるに至ったからである。前者に就いて当局が腐心努力
した事は先の西村,九鬼の一文でも判るが,尚12年教学大旨に「農商ノ子弟ニシテ二男ク所多 クハ高尚ノ空論ノミ……此輩他日業卒リ家二帰ル托,再タヒ本業二就キ難ク云々」,其前年日 本教育令草案上奏文に「学制……を目下の情況に照し,之を将来の進度に測れば,往々加除訂 正を要すべきものあり」(1)等とあり,12,3,4年の教育令,改正教育令,小学校教則綱領 に「土地ノ情況」「民間日用二二ゼンコト」(2)等々の言葉が散見している所に明らかであろ う。斯当局が前期末問題屈していた生活遊離の問題を考え,民間の実情に即した教育方策を一 時的にせよ採用したというのは,先の民間の不評もさる笹子ら,当時政府の三国近代化,資本 主義体制確立への準備工作が一先ず終了し,中央集権的教育政策が一応段落の段階に迄来てい たからだと考えられる。 糟 尚当時は農民暴動激化し,当局に於ても「此余政府ノ方向不変益苛酷二子ルトキハ真二国家
ノ大変二季終不可不ノ境二至ラントス」(3)として農民の要求たる地租軽減の実現を図るとい った世情でもあった。斯る世情が又当局をして民間の教育的要求を納れしめる契機を成したと も思われる。無論之で以て此問題が全く解消したのでない事は13,4年田口卯吉の評論「改正 教育令」「学制論」に「然るに世人が読書を尊敬するの甚しき……地理誌読本地方人民に於て 何の益かある」「抑も所謂教育なるものは,要するに文字を知るの利あるに過ぎざるなり,人 生文字を知る,何が為に衣服飲食を得るより貴重なるか」 ω とある所からも窺えるのであ る。斯不徹底を免れなかったとは言い条,実学主義本来のねらいの一つが日用に近きものであ った事を思えば,か\る傾向は其本来の主旨に立戻る変改であったと言ってよかろう。
斯る方針と並行して当局は後者即ち仁義忠孝,忠君愛国の教育方針を又促進して行った。此 点は周知の如く,12,4,5年の教学大旨,小学校教員心得,幼学綱要序に夫々「一時西洋ノ 所長ヲ取り日新ノ効ヲ奏スト錐モ其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ徒二洋風是競フニ於テハ……君臣父 子ノ大義ヲ知ラザルニ至ラン」「教員タル者ハ殊二道徳ノ教育二千ヲ用ヒ生徒ヲシテ皇室二忠 ニシテ国家ヲ愛シ父母二孝ニシテ……」「民唯務於智識才芸。棄本趨末。遂将至不知仁義忠孝 一1一
一中何物。則其弊害果何所底止哉」とある如くである。而も尚当局は以上の方針に併せて13年 洋学派,民権派的色彩を持つ修身教科書の取締と禁止を命じ,i翌年更に修身科を教科目の首位 に掲げる許りか,授業時数を増加して其強化を図ったのであった。之又同様の意に解してよか ろう。上述した如く前期一応之等の伏線は敷かれていたのであるか.ら,例の立身治産の実学主 義から此儒教中心,忠君愛国主義への急転は自然の数であったとも言えようが,先の所謂智育 偏重,徳育軽視下の時代,儒教主義を放棄批判し,修身科を部分的に設置するのみか,教科雪 中第六番目に位置ずけていた事(5)を想起すれば,其豹変の状全く端縛すべからざるものがあ
ったと言う他はなく,実学主義変改の様前者の比でなかったと評する外はあるまい。というの は前者での変改が生活との距離を縮めるという事によって実学本来の姿に立戻るという事を意 味したのに対して,此変改は忠孝本体実学末技観の立場に立って儒教による該主義の魂の入れ
替えを要求するという事を意味したからである。
実学主義の祖師福沢が「徳育如何」「極端論」「教育方針変化の結果」の評論で之に瞠目す るのみか痛嘆し,教育の進歩を妨げ忠君愛国に腸踏せしめるものとして痛烈な批判を浴せ(6),
且つ「疫はらひましょ」の中で「あぶないなノ\……明治M,5年……文明開化の秋風に四角 な文字の返りざき……仁義礼智の御教訓……あとの始末は如何ならん」(7)と皮肉ったのも蓋 し当然であったと考えられる。斯る方針の急変を来したのは福沢の前掲文,更に12年「東京新 誌」事物盛衰記に「一度衰ヘテ復盛ナル名アリ……撃剣……漢文,和歌」(8)と明示される如
く一つには幕末以来の象山等実学派の所謂中体西門論的立場の今津があり,儒教主義への郷愁 があったからとも考えられるが,より直接的には14,5年前後,日本近代化の準備工作が一r応 終った際採られたデフレ政策を期に不景気が到来し,それが農民運動,自由民権運動野各種社 会運動の激化を招来したからだとも考えられている(9)。詰り仁義忠孝,忠君愛国の服従倫理
を説く徳育は之等に対処し,之を防止する為の当局の対症療法たる具に供せられたとも見られ るのである。此事は夙に福沢の論文「儒教主義の成跡甚だ駆るべし」q◎に指摘した所であり,
諸書の屡々言及する通りである。13年西周が評した如く世は正に「礼儀廉恥辞譲の風一掃して 小学の児童其時を視るは雇人の如く……孝弟の事は馬耳東風」(11)という時代であった事を忘 れてなるまい。
斯様にして当局は実学の魂の入れ替えを要求し乍ら儒教主義,国家主義的教育方針を強化 し,国民的教化の統一を図って行ったが,其方針は確定的なものとはならず且つ実学主義を制 圧し去る事にはならなかった。20年前後の儒教主義,理学主義,宗教主義,折衷主義夫々に拠 る所謂徳育論争が行われ,徳富蘇峯の論文「新日本之青年」(20年)に「現時の教育主義」と して復古主義,跳馬主義(此処で言う実学主義),折衷主義の三潮流が批判検討されている(12>
所からも其事が隠せられるが,就中13年置ペンサーの教育論移入を噛矢とした一連のスペンサ ー派実利主義教育論の盛行振りに之を窺う事が出来るであろう。稲垣干頴が「和文読本」
(15年刊)序で「実事実学をだに妨ぐる事なくば……漢文をも耀しね漢詩をも歌ひね」と言っ たのも亦同上の意に解してよかろうか。
4.発 展 期
以上の如く変改の手が加えられ乍らも該主義は隠約の中に其命脈を保った。否保つ所か此期 に於てそれは学問的支柱を得て理論化され「学理的根拠を有する教育主義」となって「教育界 の正面より現出」(1良したとさえ言われる迄に成長し発展したのである。其節を蒔いたのは前 述の如く13年謙訳のスペンサーの「斯氏教育論」を初め,16年訳ペインの「倍因氏教育学」,
18年訳ジョホノットの「如氏教育学」(「教育新論」)等の影響であった。第1篇に例の著名 な「何ヲ以テ最大ノ価値アル学識トスルヤヲ論ズ」を掲げ,「体躯ヲ待スルノ道,心智ヲ待ス ルノ道,日用平生ノ事務ヲ処スルノ道,母子ヲ養育スルノ道,国民タル者ノ本分ヲ尽スノ道」
即ち「己ト人トノ為二最大ノ利益ヲ生ズルノ道・・…・ヲ講究」(1①した「研北教育論」,英米功 利主義を信奉し(!5),自然科学を尊重した点で之と軌を同じくし,心理学的基礎の上に立って 教育を論じたスペンサー一派の倍因氏,如氏の教育学,之等は何れも英米当代一流の学者の手 に成った科学的教育学書であって,昇等が先の常識的見解に踏止った実学主義に学問的支柱と 理論的飛躍を与えた事は想像するに難くない所である。
此処で回国の実学主義は理論的武装を施されて再び其質的転回を見たと言っても過言でない であろう。而も又周知の如く昇等は皆当時盛んに旙読されたのであり,其意味から之等諸書あ 流行は教育理論一般の発展と共に高められた実学主義の普及,滲透をも意味した。之等が此期 を通じ如何に歓迎黙読されたかは藤原喜代蔵,湯原元一の「スペンサーの教育論は・…・我が教 育界を震蕩し荷も教育を口にする者にして聖書を経かざる者絶えてあらざる迄に歓迎せられ…
…ジョポノットの教育学に至っては……出版早々全国師範学校の教科書に採用せられ,学校教 師にして此書を読まざるは大なる恥辱と迄賞讃せられ云々」(16)[7,8年頃から流行し出し たペイン・スペンサー・ジョホノットなどになると……スペンサーは初め尺振八氏後に有賀長 雄氏の謙訳で大いに読まれた。ジョホノットは初め高嶺秀夫氏の摘訳,後に有賀長雄氏の全訳 の外,能勢栄氏著の教育学の粉本となって最も盛に行はれた」(17)という言に道破されている が・尚改正教育令当時ですら「スペンサーやベィン等の書物・其他英国の自由教育論が多く教
育家の間に読まれ」(18〕,例の小学校教員心得公布前後ですら「新進の学者多く西洋の学理の 精密なるに心酔し,教育の事も全く本説に従ひて是を行はんと欲し」llgl「文部省の官吏上局 一,二の人を除くの外……英語仏語等一芸に通ずる人達の集合にて…・・皇道主義に拠らしめな
くてはならぬと唱導するやうな者もなく,又本邦の学問の欧化主義に陥るを慨歎する者もなき 有様であった」⑳という島田三郎,西村茂樹,江木千之の言によっても充分想見せられる。此 処を見ても実学主義が其変改を受けた前期に撃て猶且,其主意が充分貫徹されず,徹底されぬ儘 此期に持越して益々例の其理論的整備を伴い乍ら昂揚発展せしめられた模様が想像せられるの である。無論此処で此期に於ける教育主義は実学主義と銘打たれるものとは高々選を異にする もの,又儒教中心の国家主義的教育方針全く消滅せずとの反論も成立つであろう。如何にも此 期のそれは実学主義と言わルよりも寧ろ実利又は功利主義と名付けたがよく,此期の教育の動 向が欧米色一色に塗りつぶされなかった事も事実である。然し乍ら従来の実学主義が先ずスペ 一3一
ンサーのそれにより学問的根拠を得,如,倍因両氏の教育学によって科学化された事は疑えぬ 所であり,教育の趨勢又大体以上の所にあったと見ても大過ないのではないかと思われる。
渚以上のように前期変改を余儀なくされたにも拘らず消失せず,此期該主義が却って発展を 見たのは何故か,それは言う迄もなく初年以来隠然として思想の座を占あて来た欧化主義が 13,4年激烈を極めた民権運動の盛上りによって嘆ずけられ,殊に条約改正を期として絶頂に 達し隆盛を極めるという時代相であったからだと考えられる。それを最も象徴する所謂鹿鳴館 時代は言わでもの事,「日本全国大概見積」(14年)に「儒者四分,洋学者6分」「女学雑 誌」に「17年暮より19年冬迄女学改良,衣服改良,家屋改良,交際改良,宗教改良,『束髪改 良,演劇改良の声高し」とあり,20年某誌に「当世流行改良」として教育改良,文字改良,小 説改良,学校改良,風俗改良⑳等々が挙げられるという,時代は正に欧化主義全盛の時代で あったのである。尤も其極点を示した鹿鳴館時代の欧化主義は大倉喜八郎更に丸山真男氏の言 の如く「条約改正を促進したい為の政策で……大体に於ては先づ条約改正といふ大目的の為に やったと見て差支へ」鋤なく,外圧排除のタクチックな手段に過ぎず,それは一皮むけば国 家主義的,復古的傾向を内に蔵したものであったと言われなくもないであろう。成程斯様に 20年前後の欧化主義は明治初年のそれのようには一本気なものでなく,改正という外耳排除の 単なる戦術に過ぎなかったとしても㈱,事実上此時期は又「欧米に模倣し専ら外面の文明を 装ひ……本邦古来……の忠孝節義1・・…等の精神は棄て\顧みざるものの如し」図と評され,
外圧排除の「目的のみの為苦衷を忍んで,故意にやったといふのではなく……万事西欧の進ん だ文明を輸入しなければならんといふ真実の要求に根ざしてもみた」㈱と評された欧化主義 隆盛の時代でもあったのである。此期所謂功利主義教育論の教育界での震動,延いては実学主 義の進歩がある一方,仁義忠孝の線弛められず,新旧入り乱れての徳育混乱があるという複雑 な様相を示したのも実は以上のような世相の反映として受取られねばなるまい。r
5.退 潮 期
斯種々の曲折を半解らも一代を振絶しつ\高められ来った実学主義も其隆昌長期に亘らず・
20年高嶺秀夫の「新教育学」を極点として爾後凋落解消の一途を辿って行った㈱・』それは端 的に言えば種々の意味に於ける保守反動の大勢が19,20年頃から世を圧し始めたからである・
20年発刊の「国民位置」第10号が「保守的反動の大勢」の見出しの下に「世にも恐ろしきは反 動の力なり。而して今や反動の大勢漸く成らんとす云々」と言っているが,周知の如く実は此 前後から保守反動の勢は種々の面に胎動しつ\あった。西村茂樹の「日本道徳論」の確立,三 宅雄二郎等の「日本人」の覚醒,仏教徒の基督教攻撃等に現われる欧化主義に対する反動,国 家主義の拾頭がそれである。反動的保守主義,国家主義が既に民権運動以前から現実生活の発 展に伴って浮きつ沈みつしづ\来た事は縷々前述の通りであるが,それが再び此処で拾頭する と共に確固たる位置を占めるに至ったのは一つには10年代に於ける此運動の昂騰があり,吏に 先の欧化主義に対する反動があったからであるが,より根本的には半封建的支柱の上に再編成 された資本主義の発展開始と其対支活動準備,23年の憲法成立を目指しての民権運動指導者の
藩閥政府との妥協等という客観的情勢が其背後にあったからだと考えられる卿。
所で教育諸面とても其例外ではなかった。教育目的に「国家ノ須要二軍ズル学術技芸」の研 究教授を謳った帝国大学令,軍隊色豊かな師範学校令等を含む19年の諸学校令を初め,「道徳 教育及国民教育ノ基礎」を強調した23年の小学校令改正,欧化主義との妥協の上に儒教主義を 貫徹しつつ徳育混乱の拾収,国家主義教育方針の確立を図った同年の教育勅語,「国家将来ノ 富力ヲ進」める為「科学及技術ト実業トー致配合スル」⑱事をねらった26年の実業教育振興 等がそれであり,19年元田永孚の「聖慮記」にいう明治天皇の言「朕過日大学二軍ス。……学 科ヲ巡視スルニ,理科,化(学)科,植物科,医科,法科等ハ益々其進歩ヲ見ル可シト錐モ;
主本トスル修身ノ学科二於テハ曽テ見ル所無シ」⑳,22年直轄学校長に対する文相森有礼の 訓示「∵夫れ契り学政上に於ては生徒其人の為にするに興ずして国家の為にする,ことを始終記 憶せざるべからず」剛がそれである。之等と例の被仰出書に示された方針とを比較すれば其 変転ぶりに驚く外はあるまい。無論上記の如く斯る方針の提出は之を以て噛矢とせず,之迄幾 度か繰返し陰に陽に唱道され来ったものであり,殊に先の10年代の動向の如きは初年以来の其 端的な現われでもあった。此意味からすると以上の動向は既に其洗礼を受けたものであり,言 わば斯る準備,前奏の延長上に立つものであったと言えるが,此処で尚m年代のそれは前記の 如く仁義忠孝を中核にした国家主義的教育方針が採られたにも拘らず確定せぬ儘幾多の動揺を 免れなかったのに反し,此期の動向は如上の教育原則確立以外の何物も物語らなかったという 両者の差異は飽迄見落してならぬであろう。斯る方針の確立があったのも前記の客観的情勢の 故である事云うに及ばない。ともあれ此期の反動的国家主義的趨勢は斯政治,思想に限らず教 育の全面にも及んだ事は否めぬ事実であった。斯様に見て来ると実学主義が又もや魂の入れ替 えを強く要求され,其意味で其変改を強いられたであろう事は容易に想像出来る所である。明 治天皇の言の如き好個の例であろう。儒教主義による魂の入れ替え,此点に就いては先の変改 期に於て触れたので,此処では唯それが益々強化,貫徹された旨丈を指摘すればそれで事足り
よう。
所で実学主義は斯る面からの痛棒を喰った丈でなく,此期拾頭し来った独逸流道徳主義教育 説即ちヘルバルト教育学の出現によって又打撃を被るという事象も生じた。実学主義の動向を 見る場合此点も上記の所に併せ瞑るべきでないであろう。此期を去る10年前,福沢が「教育 説」なる一文で「日本の教育……方今の急務は学問の高尚にして乏しからんよりも寧ろ容易に して広からん事を求むる時なり。此時に当て英米の学術を近畿なりとして故らに日耳鼻の学風 を採用せんとするは時勢を弁ぜざるの甚しき者なり……西人の言に英国人は実業を行ふに活澱 なれども日暮黒人の思想の緻密なるに若かずとの説もあれども……思想なくして実業起る可ら ず……日本の教育に於て手近き英米の学術を捨て、日舞曼の風に従はんとするは心得違の具な るものと言ふ些し」鰯と言った事を想起すれば,之又教育上の一大異変であったと言う他は あるまい。斯英米学一辺倒であった我教育界が此期独逸学依存に変り,それと共に道徳主義教 育説と銘打たるべき独逸ヘルバルト派教育学が「ヘルバルトでなければ夜も明けぬ」㈱と言 一5一
われる迄に隆盛を見たのは,上記諸事情に併せ20年以降思想界一般での独逸観念論の流行とい う背景㈱を先ず念頭に置かねばなるまいが,蓋し小目の教育学が従来移入のものに比しより 科学的であり,且つ上記の客観情勢に伴う従来の知育偏重,実利本位の教育への反動という時 宜に適する要素を之が持合せていたからだと考えられる。湯原元一が或一文でそれが時人から
「科学的教育学と呼ばれた程従前の英米のものに押すると大いに系統立っていたから」感服さ れ,スペンサー一派の「教育説は何れも知育を重んじたので……国民の心はこれに飽足らず…
・丁度此際に教育の最後の目的は道徳的品性を作るにあると唱へるヘルバルト主義が輸入きれ たので人心は翁然としてこれに向うた……のみならず其主要徳目として掲げられるものが……
頗る儒教の仁,義,礼,智,信の五常に似て,従来の道徳観念にも合ふので……老人仲間にも 大いに歓迎された」㈱といふ通りである。以上はヘルバルト主義流行の由来の概要である・
渚斯る由来を持った道徳主義教育説の流行が実学思想の動向に如何なる余波を及ぼしたか,
上記の所でも若干言及したので此処で多言を要しまい。先ず福沢の言ったような意味から言え ば,吾国教育界の英米学依存から独逸学依拠への転移をそれは物語ると同時に,延いてはそこ に於ける英米学に支持された実学主義の消滅を又意味したと考える事が出来るであろう。のみ ならず事実としでヘルバルト主義は又知育偏重から徳育偏重へという時代要請に答える許りで なく弥々之を促進し,且つ多くの美点を与える傍「余りに品性の陶冶を諜冷した結果,憎々も すれば実用的知識を軽侮し,各教科固有の価値ある事を忘れて,只管訓育の材料にしょうとし た」㈲等の重大な弊害も生んだ訳であって,之等から考えても該主義の盛行は実学主義衰退 の促進剤にこそなれ,発展のそれにはならなかった事が十分想見されるのである。斯種々の面 から追撃を受けて実学思想は衰退への一途を辿って行ったと考えられる。
とは言え無論該主義が之で以て消え去ったと見るのは尚早計の感を免れないであろう。とい うのは上掲小学校午下1条末尾に「其生活二必須ナル普通ノ知識技能ヲ授ク云々」,其要旨に
「維新以後我教育の知識教育に偏したる……弊を除却せざるべからず。然れども今や人智開発 の急要なる……昔日の比にあらざれば……忽諸に附すべからざるなり。是れ児童将来の生活 上,即ち処生営業上に必須なる普通の智識技能を博くるを以て,小学校教育の一大成分と為す
…・・活ネなり。……高等小学校の教科目中読書,作文,算術,地理,理科,図画の科目の如き ・・人民日常の生活上に適切なる材料を択ぶべきは固より……尚土地の情況に依りては農業,
商業,手工の科目を加へて,人民の生活上に一層適切ならしむるを要す」㈲とあり,26年の 実業教育に関する訓令に「我国目方二文明ノ進歩ヲ見ルニ拘ラスコノ科学的ノ智識能力ハ未タ 普通人民二浸潤セス教育ト労働トハ劃然トシテ特別ノ帯域二立チ農工諸般ノ事業ハソノ大部分 静寧テ{乃旧習二沈澱スルコトヲ免レス今二野テ国家将来ノ富力ヲ進物ントセハ国民ノ子弟二向 テ科学及技術ト実業トー致配合スルノ教育ヲ施スコトヲ努メサルヘカラス」㈱とあり,殊に 29年福沢の評論「実学の必要」「半信半疑は不可なり」㈱では実学の必要を重ねて強調して
さえいるからである。此処を押すと実学主義が此期其姿を消して了つたと言うのは或は言い過 ぎだと言われなくもないであろう。然しそれにしても改正小学校令のそれが例の魂の入れ替え
という前提に立っての主張であり,26年の訓令が国家主義的限界内でのそれであり,福沢の意 見又之等の変容を承認した上での見解であった事を考えると,実学主義既に無疵であり得ず,
其昔日の悌最早窺うべくもなかったとも見られ得るであろう。とも角実学主義は此期以降衰退 して回ったと言えぬ迄も,先の反動的国家主義的攻勢に出会って変容せしめられ,変容され乍 ら実業教育の中に吸収解消せしめられたと見てもよいのではあるまいか。少くも実学主義が此 期既に昔日の新鮮さを失い,色槌せたものになっていた事は確かである・
(本論文は民主教育協会九州支部の研究援助によるものである)1960.3.30
参 考 文 献
(1) 「開国五十年史」明治40年 713頁
(2) 「明治以降教育制度発達史」第1巻 上掲書 155頁以下
(3) 「乱菊木戸言伝」下巻上掲書209頁以下
(4)鼎軒田口卯吉全集 第2巻 586頁,589頁
(5)明治5年「学制」第27章修身(解意)
(6) 「福沢全集」第9巻 280〜1頁 「続福沢全集」第1巻 739頁 第3巻 551頁 「教育勅語漢発 関係資料集」第2巻 3〜24頁
(7) 「福沢全集」第10巻
(8)石井研堂「明治事物起原」上21頁
19)玉城肇「現代道徳教育論の史的背景」 現代道徳教育講座1所収 48頁 1957
⑩ 「福沢全集」第9巻280頁
⑳ 明治13年刊 松田正久編 「小学道徳篇」序
(12)「現代日本文学全集」第4篇 3〜49頁昭和5年 働 藤原喜代蔵「明治教育思想史」 156頁
脇 尺振八訳「二二教育論」 明治13年 17頁
(15)稲富栄次郎「明治初期教育思想の研究」 138頁 268頁 参照
(16)藤原喜代蔵「明治教育思想史」 159頁
(17> 「教育五十年史」 180〜1頁
(18} 「同 上」 32頁
(働 西村茂樹「往事録」 明治38年 12ω江木千之「江木千之経歴談」
⑳ 石井研堂「明治事物起原」上 124頁 18頁
鋤 「太陽」増刊 前掲 大倉喜八郎「鹿鳴館時代の回顧」 520〜1頁
㈱ 丸山真男「明治国家の思想」「日本社会の史的究明」所収 昭和24年 201〜3頁
㈲ 西村茂樹「往事録」 明治38年 193〜4頁
㈱ 太陽増刊 前掲大倉喜八郎談
⑳ 藤原喜代蔵「明治教育思想史」 358頁 吻 鳥井博郎「明治思想史」 45頁 昭和28年 一7一
⑳ 倒
侶1)
e2)
㈱
侶の
・㈲
㈲
⑱の
㈲
明治26年11月:文部省訓令第12号 玉城肇「明治教育史」 123頁 森先生伝 143頁
「福沢全集」第6巻 明治11年稿 491〜8頁
「教育五十年史」 182頁
鳥井博:郎「明治思想史」 122〜3頁
「教育五十年史」 180〜1頁
藤原喜代蔵「明治,大正,昭和教育思想学説人物史」 第1巻 707頁
「教育五十年史」 130〜2頁 海後宗臣「日本近代学校史」 162頁 福沢諭吉「福翁百話」 78〜83頁 改造文庫
一35.9.12受付一