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近江商人の「立身」「出世」観

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近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観

宇佐美 英 機

はじめに  ﹁近江商人﹂が代表的な近世商人の一類型であることは、改めて紹介するまでもない。﹁近江商人﹂は、斯学において は、︿近江国に本家︵本店︶を置いて、他国稼ぎをした商人﹀と概念規定され、その経済・経営活動のみならず、社会的 活動の特徴点は、すでに多くの研究が蓄積されている。少なくとも日本の中世から現代に至る歴史社会において、商業の 歴史や日本資本主義成立期の諸産業分野における企業の歴史を理解する上では、近江国の商業・﹁近江商人﹂、あるいは近 江国出身の経営者・﹁近江系企業﹂を対象とした研究は必要不可欠なことであると考えられる。  本稿で﹁近江商人﹂に関わって素描したいことは、その労働観・奉公観についてである。このさい、念頭にあるのは、 日本を代表する総合商社の伊藤忠商事・丸紅の源流である伊藤商店の明治二十六年︵一八九三︶ 一月十二日制定になる       ︵1︶ ﹁店法﹂に記された、﹁店法則趣意﹂の一節と﹁店員勘定﹂に記された﹁出世店員﹂の存在である。  この店則は初代伊藤忠兵衛︵天保十三年︿一八四二﹀∼明治三十六年︿一九〇三﹀︶が晩年に至り制定したものである が、﹁店法則趣意﹂では、この店法は﹁事新ラシク制定シタルモノナラズ、従来業務上実地二行ヒ来りタル事柄ヲ列記シ タルマデニシテ、畢寛業務ノ根拠ヲ確定シ、以テ他日ノ遺忘二備エントノ本意二過ギザルナリ﹂と記し、店員に向かって 五つの希望を上げている。その第一条では、コ、四恩ヲ思ヒ以テ立身出世ノ志ヲ励マスベシ﹂と述べている。四恩とは、 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号       二 ﹁父母・国王・衆生・三宝﹂の恩を指すが、ここではなぜ四恩なのかは問わない。確認しておきたいことは、初代伊藤忠 兵衛は、店員に対して﹁立身出世ノ志ヲ励マスベシ﹂と鼓舞していた事実、および、﹁店員勘定﹂の第七∼一〇条に﹁出 世店員﹂について定めがある事実である。第七条には、﹁出世店員ニハ給料ヲ付セズ必用失費ノ補助金トシテーケ年参拾 円以下ヲ給ス﹂とある。すなわち、伊藤商店には﹁出世店員﹂と呼ばれる無給の店員が存在していたのである。  ﹁出世店員﹂は、現在知られる限りでは伊藤商店にのみ見られた名称であるが、なぜ﹁出世店員﹂という名称として存 在するのか、その理由を明らかにしたい。伊藤忠兵衛が商業活動に際して﹁立身出世ノ志﹂を鼓舞し、﹁出世店員﹂を配 置していたことは、たんに個人に帰する行動ではなく、その背景には﹁近江商人﹂ないし﹁近江国﹂の商業活動に対する        ︵2︶ 共通した理念があり、それが反映されていると考えられるからである。 ﹁立身﹂と﹁出世﹂  現在、我々は﹁立身出世﹂という言葉を四字用語で用いている。しかし、語義的には﹁立身﹂と﹁出世﹂は別の言葉で あった。それゆえ、﹁立身﹂﹁出世﹂﹁立身出世﹂を同じ意味でとらえるようになったこと自体が、掴本における当該語の 考え方の歴史的変化を示す現象だといえる。ただ、このことについて詳しく述べるだけの知識は持ち合わせていないため、 ここでは四字用語として使用するのは、近代に至って一般化するのだということを理解しておけば良い。また、これまで の教育史・社会学研究では、﹁立身出世主義﹂が明治期の﹁時代精神﹂であり、当時の青年に﹁末は博士か大臣か﹂とい う﹁幻想﹂を与えることにより、学校進学熱や受験戦争をもたらし、他方で学卒者による近代化推進のモータ⋮役を果た       、     ︵3︶ したことが主張されていることも注目しておいて良いだろう。﹁立身出世﹂するということが、﹁社会的な名声・地位を獲

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得すること﹂とするならば、それは、まさしく現代的な理解であり、国語辞書に記されたことである。そして、抽象的に 表現すれば、その通りだということができる。  明治期の﹁立身出世主義﹂は、学歴を媒介項として説明されている。そのことに特に異論はない。しかし、研究史が ﹁立身出世主義﹂を日本の近代化と関わらせて、学歴の問題として説明するのは、必ずしも正鵠を射たものではないだろ う。少なくとも﹁近江商人﹂ないし﹁近江国﹂にあっては、この問題はいささか趣を異にしている。結論的にいうならば、 ﹁近江席入﹂の世界においては、﹁立身﹂とは、商家経営体の職階を昇進することであり、﹁出世﹂とは﹁別家﹂ないし       ︵4︶ ﹁独立自営業者﹂となることを意味していた。そこで注目されるのは、﹁立身﹂と﹁出世﹂は奉公人に向けて発言されてい ることである。もちろん、この際に﹁立身﹂と﹁出世﹂の意味が逆転して理解されている場合も存在していた。そのよう な事例はあるにせよ、明らかに別の概念として理解されていた。﹁立身出世主義﹂が社会の時代精神となる以前に、しか も、学歴とは何ら関係のない概念として﹁立身﹂と﹁出世﹂観が存在したことが重要である。  このように商家の職階を昇進することに﹁立身﹂﹁出世﹂という言葉を用いることは、﹁近江商人﹂だけが行った訳では        ︵5︶ なく、近世を代表する商家であるコニ井家﹂﹁住友家﹂の店則にも確認することができる。  ところが、重要なことは、管見の範囲では﹁三井家﹂﹁住友家﹂を例外として都市の商家や他の地域の商家の家訓・店 則の中に、そのような用語はほとんど見られないにもかかわらず、﹁近江商人﹂の家訓・店則には数多く見られるという 事実である。現在、確認している所でも、日野町の中井源左衛門家・山中兵右衛門家・矢尾喜兵衛家、五個荘町の外村与 左衛門家・外村宇兵衛家・塚本定右衛門家、近江八幡市の市田清兵衛家、野洲町の小澤七兵衛家、湖東町の小林吟右衛門        ︵6︶ 家、米原町の北村源十郎家などの家訓・店則・遺訓に﹁立身﹂﹁出世﹂という言葉が見られる。これだけの商家を上げる だけでも湖東地域一帯で、七島や近世の領主支配を超えて史料が存在していたことが明らかであろう。恐らくは、近江国 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観 三

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     滋賀大学経済学部附属史料館硯究紀要 第三十七号       四 内の他の地域においても、同様な家訓・店則をいずれ発掘できるものと予想される。このように、一つの国内の商人が、 同じような観念を共有している例は、他の藩国家には見あたらず、近江国の特質として考えることができる。それでは、 具体的にどのようにいっているのか見ておくことにする。詳細は、既に示した拙稿を見て頂きたいが、重複を恐れず二、 三紹介することにする。  最初の例は滋賀大学経済学部附属史料館が所蔵する、代表的な﹁近江商人﹂中井源左衛門家の初代光武.三代目光煕が 遺した是L︵明和八年︹毛七一︺七月︶・安目L︵文政六年︹天二六︺鬼窺︶である・この﹁中井源左衛門家文書﹂ は三年間の科学研究費補助金助成を受けて、二〇〇三年春、史料館に史料が搬入されて以来、半世紀振りにようやく史料      ︵8︶ 目録が完成した。現在、通説化されている﹁近江商人﹂像は、この中井源左衛門家を典型例としているといっても過言で       ︵9︶ はない。先達の研究者である江頭恒治氏や小倉榮一郎氏の研究にも利用され、﹁近江商人﹂の姿が解明されたことは周知 のことであろう。しかし、それは史料の全容を踏まえた研究ではなかったことを改めて指摘しておきたい。それゆえ、目 録の完成により、新しい﹁近江商人﹂研究を始める準備態勢ができたということができる。  それはともあれ、﹁定﹂と﹁定目﹂では、        ︵精︶   一励忠節親二孝行傍輩中子供二至悪、随分睦間早舟、相互二立身出情可仕密事      ︹中略︶   右之条々家内之人々堅相守可申候、只人は忠孝之道を暫も忘へからす、兎角家内男子清里して申分なく、家業無   油断相勤、永々家繁昌致山掛之勘弁専一也、惣而奉公二出るもの、親は、御主人言用二も相立、其御蔭二而行末   宿を持斎様、朝暮願ふ事二候、弥励忠勤候ハ・、御主人ハ不及申、天道之蒙憐を忠孝之道二叶ひ、老後子孫繁昌   無疑候、常々可相心得者也      ︵﹁定﹂︶

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  一子供勤行方、行儀作法是迄一向狸二士往先キ出世之道無心青田、宗而主用向キ大切二相励、用弁無遅滞可仕、    子供之内ろ気随蓋置二身ヲ青藍得ハ、何れへ立入候連も立身不相論物二候、畢寛主用漣外事之様二心得候故之    事と被存確評転得覚候、即面々立身興行之辛抱二言、縦は其内不弁之者相出、暇相国憲得は蓮、於主人為差手    支致もの二而も無宿、又其者之身分二取候而は、主恩相背キ候天罰二而、自然石悪報難遁、惨痛は骨肉之間相    はなれ、生界一身之置処も無之成果百雷、不便之至二候、是正子供中ち之不覚悟故意置戸候、能々令孫弁、行    状八口勤労相尽、出世之基可為要用事      ︵﹁定器﹂︶ とあり、奉公人に対して、主人に対する﹁忠節﹂と親に対する﹁孝行﹂を勤めることを強調し、﹁辛抱﹂して自助努力す ることが、立身・出世にとって必要なのだと諭している。主人に仕え仕事に励むことは、﹁出世下道﹂を歩むことであり、 それは、﹁行末宿を持﹂つことにつながるのだといっている。別科でも指摘したが、同様のことは五個荘町金堂の商人外        ︵10︶ 村宇兵衛家においては﹁我が創業の稽古﹂なのだとしている。  ﹁行末宿を持﹂つことや﹁我が創業﹂は、いずれ別家となること、あるいは自らが営業を始めることであるが、それは 自らの老後の安穏のみならず子孫の繁栄に繋がるのだともいうのである。それゆえ、﹁出世﹂することは、豊かな老後と 画引の生活を保証するものだと考えられていたのである。もちろん、このような志向は、自己・個人と主家をとりまく同 族の永続を意図するものではあったことはいうまでもない。しかし、それゆえにこそ、立身・出世の過程にはさまざまな 試練が待ち受けていたのである。  立身・出世の過程の中では、﹁近江商人﹂として体得すべき倫理が躾られていった。それは、﹁商家﹂﹁商人﹂の心構え である。斯学において良く引合に出される﹁三方良し﹂の精神は、その一例である。ただし、史料的には﹁三方良し﹂と 記したものは存在しないのであり、これは造語・隠喩に過ぎないが、その意味するところは、﹁商家﹂﹁商人﹂たるものは、 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観 音

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号       六 効率的な利益追求を第一義に考えて行動するのではなく、世の中の必要品の需要・供給の調整に寄与することを本分とし、 それが達成された時に余沢として利益を得るという考えに価値を置くということであろう。そこには、自らの社会的責任 を自覚することが強調されている。中井家二代目光昌が遺した﹁中置治要﹂の一節には、﹁夫商家ハ財を通し有無を達す        ︵11︶ るの職分、其余沢を得て相続を果ることなれば、慌て食へ、織て尊人よりも猶卑し﹂とあるが、商人のあるべき処世観を 述べている。  このような社会的貢献を前提とした経営活動は、すでに紹介した﹁近江商人﹂たちが近世・近代期において、地域社会 の神社・仏閣に寄進・寄付したり、山林の植林、猛暑井戸、土木普請などの費用を提供したこと、あるいは病院・学校な どを寄付するなどの行為がなされたことは、周知のことに属する。右に上げたような貢献は、現在の企業による社会的貢 献の先駆であることは、巷間よくいわれるところであるが、奉公人は、主人たちの商業観・利益観もまた、奉公をする中 で自然に修得していくことになった。  ただ、ここで注意しておかなければならないことは、﹁近江商人﹂は﹁私益﹂の前提に﹁公益﹂を位置づけていたが、 そのさいの﹁公﹂とは、あくまでも地縁・血縁・笹縁という縁の繋がりのある範囲での地域・得意場︵商圏︶なのだという ことである。それはまさしく、﹁世間﹂という繋がりに限られていたのであり、近代的な﹁国家﹂に対する貢献を意図し たものではなかった。不特定多数の人々からなる﹁国家﹂が視野に入り、そこにおける﹁公益﹂を考えるようになるのは、 近代社会になってからだと理解しておく必要があろう。さもなければ、﹁近江商人﹂ないしは近世期における商人の社会 的貢献を過大視して判断してしまう危険性がある。

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二 ﹁出世﹂の姿  さて、﹁立身﹂の先に﹁出世﹂の世界が待っているということを商家の主人は奉公人に諭し、奉公すること、主人・主 家のために働くことの目標を明らかにしていた。しかし、単に店則の条規をもって﹁立身﹂﹁出世﹂を鼓舞したところで、 説得性を持つものではない。現実に﹁出世﹂した際に得ることが出来る世界を見せられなければ、空疎な文言でしかあり 得ないことは疑いを入れない。  ﹁近江商人﹂は、この点についても生きた教材、すなわち現実の姿を提示していた。それは、現在も五個荘町・近江八 幡市・日野町などの﹁近江商人の里﹂に伝存し公開もされている、瀟洒な庭園と高価な書画・骨董が雨あられた土蔵が建 つ空間を、琵琶湖を往来した船の廃材を利用した舟板塀で囲んだ屋敷という姿で.ある。また、立花・茶道・俳譜を楽しむ という文化教養的な生活であった。  時代は下るものの、五個荘町金堂出身で、現在、生家が﹁近江商人屋敷﹂として公開されている第一回直木賞候補作家 でもある外村繁は、いわゆる﹁商店物﹂と呼ばれる一連の小説を著したが、代表作の一つである﹃再三﹄︵昭和十年執筆︶        ︵12︶ のなかで、五個荘町をモデルとして次のように描写している。       いわゆる   この江州の東部地方は古くから所謂近江商人の出生地として有名であった。が殊にこの六荘村は、中の庄に藤村   家、橋詰に岩井家、太子堂に仲家などの県下屈指の分限者達が集まっているので、まるで近江商人の本場のよう   に言われていた。したがって村人達の気配にも自ら異なったものがあった。親達はもちろん、子供達までが丁稚   奉公に行くことを無上の誇りにしていた。村の母親達は無理を言う子供等をこう言って叱った。 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観 七

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 八    ﹁ようし。ほんなことしてな。大きいなっても丁稚さんに行けんほん!﹂   すると頑是ない子供等でさえ無理言うことを止めるのであった。事実当時は東京や京大阪から﹁兄さん﹂達が立        お っ   派な服装をして帰って来た。また、もったいないような新宅を見事に建てた﹁叔父さん﹂達も幾人となくいたの   である。だから村人達は、丁稚見習いさえ辛抱出来ずに帰って来た真吾を、まるで異端者のように白眼視した。  右の一節にあるように、子供達は、なぜ丁稚に行けなくなるといわれると、無理をいわなくなるのであろうか。この話 しは小説上のフィクションであろうか。これは本当のことを描写しているかどうか地元の人に確かめたところ、苦笑いを 浮かべながら、﹁まあそうですね﹂という返答を得ることができた。もちろん、この一節は、昭和初年の頃を描写してい るものであり、研究上の﹁近江商人﹂の世界をそのまま投影させるのは危険であるが、近代社会の﹁立身﹂﹁出世﹂の世 界を見事に描いていると思われる。      ・  子供達は、丁稚に行くことにより、いずれ若い時期には﹁立派な服装﹂を身にまとい帰省すること、かなりの年配にな れば﹁もったいないような新宅﹂を建てることが可能であることを見て育っていると読みとることができよう。商家へ奉 公に入り、職階を昇進すれば、そのようなことが自分自身も実現できることを、幼少の時期から身体に染みこまされてい るのである。そのような状況が、近江商人が本宅を置き住んだ村の実態であり、近世期においても子供達が奉公すること、 労働することの動機付けになっていたと推測できるのである。さらに一例を加えるならば、八幡商人の伴家の養子となり 商業に従事し、隠居後に著述に専念したと伝えられる伴菖践は、天保十三年︵一八四二︶四月自序の﹃主従心得爆管編 上﹄に記された﹁江州勢州等の国々より奉公に出る事﹂の一節の中で、奉公に出した子供を持つ親の思いを伝えて次のよ      ︵13︶ うに認めている。   烏すの鳴ぬ日電あれ共、唐子の事を思ひ出さぬ日とてハ一日もない、どふぞ息災で首尾能出世して呉ればよいが

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  と、何所の仏神へ参詣しても我身の事ハ願わずして、唯我子の息災延命、出世するやうにと計り願ふ也、︵中略︶、   又たまく辛抱をよく仕重て、親の売た田地を買戻し、在所の家も造り直し、親達を安心に養ひて近所近辺のほ   め事のむすことも、あることよい事を聞につけ、わるい事を聞につけ、案事煩ふ事ばかり也︵後略︶  ここでも、子供の﹁出世﹂は、﹁親の売た田地を買戻﹂すことや﹁在所の家も造り直﹂すという、現実的な事例が上げ られていることが注目されよう。  このような﹁立身﹂﹁出世﹂観は、ある意味で経済的・経営的成功者を語る上では有効な説明たりうると考えられる。 しかし、現実には、奉公に入った者のうち﹁出世﹂の世界を享受できる人数は、ごく限られていた。それでは、﹁近江商 人﹂﹁近江国﹂は、このような経済的・経営的な失敗者・敗者を切り捨てたのであろうか。そうではなく、ここにも再挑 戦の仕組みが存在しており、それが﹁出世証文﹂の存在だと考えられる。 三 ﹁出世証文﹂の歴史的意義  ﹁出世証文﹂は﹁仕合証文﹂とも呼ばれる証文であり、現在、管見の範囲では一〇〇通あまりが発掘されている。そし て、その九割以上は上方八か国に伝来し、かつ大多数は近江国内に残されている。これは、たまたま意識的にこの史料を 収集している研究者が筆者だけであるということは考慮に入れなければならないが、そのことを考えても﹁出世証文﹂は 近江国に最も多数伝来しているものと思わ雛・  少なくとも﹁出世払い﹂という観念は、﹁出世証文﹂の存在を前提として日本社会に成立・普及した言葉であると推測 される。恐らくは、﹁出世証文﹂は十八世紀末に上方地方で一般的に成立し用いられた証文であろう。そして、最も作成

    近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観音

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    滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号      一〇 されたのは近江国であり、商人と取引関係のある人々の問で作成されたものが大多数だといえる。このことから、現在、 何気なく使う﹁出世払い﹂という日本語は、上方地方の言葉として限定的に用いられ、全国に普及するのは近代に入って からではないかと推測される。また、社会的な規範意識を伴う言葉であったと考えられる。  さて、﹁出世証文﹂とはどのような証文であろうか。法律的ないい回しをすれば、﹁将来の不定時において債務を弁済す ることを約束した証文﹂ということになろう。証文では、債務を弁済することを約束しており、債務を棄揖してもらって いるのではない。債務者は、現在の経済状態では嵩んだ債務を弁済できないため、将来の何時か︵不定時︶に﹁出世﹂した 時点で弁済することを約束している。したがって、現在この証文が残っているのは、債務者が弁済できなかったたあだと 思われる。弁済できたのならば、証文は破棄されるか人名抹消の処置がされたものと推測できる。そのようなことは、一 般的な貸借証文でよく目にすることであろう。それゆえ、破棄された可能性を考慮すれば、実際は知られている以上に多        ︵15︶ 数の証文が作成されたと考えられる。次に﹁出世証文﹂の一例を掲げる。      出世証文之事   一金四拾両壱歩三朱 三匁五分五厘     但、無利足御約定       ママ   右之金音無拠要用二付借用申上掛処実正明白也、然ル処此度御皆済二御返金思草上田二軒燈、碧羅仕合二付、辿   茂此節御返避難相成、折入御頼申上欝欝、御仁情ヲ以出世単二怪聞届ケ被成下、難有恭仕合二銀鱈候、然ル上者   向後我等不全及子供二至迄、出世業次第恩借之事二御座候間、無相違御返金建仕事、為後日出世証文、依而如件     天保九戌九月      かり主        北庄村 九兵衛︵印︶       証人

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吉右衛門︵印︶ 簗瀬村        猪田清八殿  ﹁出世証文﹂は、様々なバリエーションで作成されているが、右の例のように無利子無担保の形式・内容であることが 一般的である。債権・債務関係の発生は多様であり、文面に記された内容も多岐にわたる。その中で注目されるのは、 ﹁子孫文言﹂と名付けている一節である。すなわち、﹁出世払い﹂にしてもらったことを感謝するとともに﹁子々孫々まで 感謝する﹂とすることである。右の例では、﹁我等不申及子供四竃迄﹂とする一節である。これは全ての証文に書かれる 訳ではないが、この証文に通念する観念だと考えられる。次に注目されるのは、いずれの証文においても無利子・無担保 形式で作成されることである。家屋敷を中心とする不動産などが担保に差し入れられている事例は見あたらない。しかし、 この証文には、不動産に代わる担保はあると考えられる。それは当事者・子孫の栄誉である。つまり、この証文はヨーロッ パ中世社会にも存在した﹁栄誉の質入れ﹂という借用証文と共通するものだと考えられる。このような個人の﹁栄誉﹂が 担保たりうることは、それだけ近世期は属人的・属地的な人間関係が機能する段階の経済社会であるということができる。 債務の発生が借銀返済の滞りや商品代金の滞りである事例は多いが、裁判に訴える事なく当事者で﹁出世証文﹂を手交す るという形で一旦債権・債務関係を見直している。このことは、視点を変えて見れば、経営破綻に陥ったさいの一つのセー フティ・ネットの役割を果たすものともいえよう。もっとも、債権者は自らの経営に危険を及ぼすという判断であれば、 当然、法的な処理を求めるであろう。それゆえ、安定経営の許容範囲内で実施されたと考えるべきであろう。その意味で は、この慣習も経済行為の範囲内で実施されたと考えることができる。  しかし、全ての債務者が同じ恩恵を被ったかといえば、そうではない。それゆえ、﹁出世証文﹂を手交している債権者 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号      一二 と債務者の関係を明らかにできなければ、本質を解明したことにはならないが、現在の段階では有効な解答方法を見つけ てはいない。ただ、一般的な観点から解決の糸ロを考えることはできる。それは、近世社会は借金が嵩み弁済できないか らといって、戦国期のように死罪を命じられる社会ではなかったということである。戦国期までは借金をして弁済できな いのは﹁盗み﹂と同㎝の行為であるという観念があり、近世初期にもそのようなことを約束している事例がある。例えば、 具体的な所蔵は明らかにできないが、慶長三年︵一五九八︶二月十日作成になる近江国内の借金証文の文面には、返済につ いて﹁若無沙汰申候ハ・、とうそく人たるへき者也﹂とある。しかし、十七世紀以降はそのような観念が通挿していても、 それに代わる社会通念が成立したと考えられる。それは、借金を返せないのは恥であるという考え方である。  ﹁分散﹂と称される、現在でいう自己破産に陥った者には、社会的な制裁として、弁済できるまで村はずれの小屋に居 住させるとか、雨の日にも傘・下駄を使用させない、あるいは村の寄合のさいに土間に着座させるといったことが強制さ        ︵16︶ れたことが、全国的な慣例として存在したことが報告されている。それゆえ、恥を雪がなければ終生、時により子々孫々 まで社会的な制裁を甘んじて受けなければならなかったのである。そのため、恥を雪ぐたあの努力が好むと好まざるとに 関わらず強制されていたと考えられる。  ﹁出世証文﹂の手交は、債務者にとって恥を雪ぐための動機付けともなったと考えられる。もちろん、債権者が債務者 にたいして優位な立場を保つことを目論んだこともあったであろうが、それ以上に経済的失敗者の再挑戦の動機付けとし て機能したと思われる。  ﹁出世証文﹂は﹁仕合証文﹂とも称されたが、﹁出世﹂は﹁仕合﹂と同義であった。ここでの﹁仕合﹂は、精神的なこ とではなく、極めて即物的に﹁経済的に豊かになること﹂であった。それは事実上﹁致富﹂といっても良いだろう。ここ には学歴といった問題は存在せず、個人の経済的・経営的器量や才能が重要な要素としてとらえられ、それが富を得ると

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いう、すぐれて経済的な問題としてのみ理解されたということができよう。それゆえ、家産再興の可能性があると見込ん だ者に対して、出世払いの方法で対処したと考えることができる。  しかし、実際、このような経済的失敗者、ここには奉公途中で解雇され﹁立身﹂の機会を失った者も含めて、どのよう に﹁出世﹂し家産を再興したのか、どのように受認の機会を得たのかについては不明である。これは、分厚い近江商人研 究史においても未開拓なテーマである。ただ、これまでの近江商人研究史では、国内での就業機会が乏しいために他国へ 持下り商いをしたと理解されてきたが、それは逆ではないか。むしろ就業機会が多様に存在したと考える方が、﹁出世証 文﹂の伝来の多さを説明できるのではないかと思われる。いずれにせよ、この問題は事例の発掘が必要であり、いまだ充 分な素材を手にしていないため、指摘するだけに留めたい。 四 明治期への継承  さて、﹁近江商人﹂社会に培われてきた﹁立身﹂﹁出世﹂観は、明治期に入り変化を遂げて行く。それは、﹁立身出世﹂ という四文字を連ねて用いる社会への変化と軌を一にするものであった。        ︵17︶  先に触れた塚本定右衛門の孫にあたる二代目塚本源三郎玄翁は、大正十五年に次のように往時を懐古している。   私共が白雲頭の丁稚時代に何かの式日に当り帳場の前へ招集されて、番頭さんから立身出世第一の事から始めて   ﹃右之条々固く相守り申可候、何事も姶を忘れては末遂け難く候、依之年始三ケ日の御式も全く以て始を忘れざ   るたあなり、親子主従ひとつの膿と同じ事に候へば、互に助け合ひ、家業大切に相励み候はゴ、立身出世無疑候、   然る上は名々老ての歓楽、且は忠孝国恩を報じ候道理にも相碁ひ賢島候、傍而如件﹄と読み聞かされた事の今も 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観 =二

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号 一四   猶耳底に残り、身に沁みて有難く感ずる次第であります  ここでいう﹁白雲頭の丁稚時代﹂とは、明治十年代のことと思われるが、番頭さんから﹁立身出世第一﹂だと鼓舞され たことを伝えている。この当時に四文字でいわれたのか、大正期の懐古であるゆえに四文字表現となったのか、それは定 かではない。しかし、﹁立身出世﹂が﹁忠孝﹂の道に叶うことであり、﹁煮ての歓楽﹂をもたらすものであること、すなわ ち先の中井家の例によれば﹁老後子孫繁昌﹂に結びつくものであると理解されていた。ただ、単に﹁忠孝﹂のみを述べて いた近世期の家訓・店則とは異なり﹁国恩﹂を語るところに、新しい時代の到来を示している。  また、冒頭で触れた伊藤忠兵衛家においては、明治十年から小学校卒業者を採用し始めたが、明治三十一年目一八九八︶ に商業学校卒業者を採用し始め、その時から洋式簿記に帳簿形式を改めるようになった。そして、明治四十一年度から高 等専門学校卒業以上の学卒者を採用するようになった。この間、明治三十六年七月に初代忠兵衛は亡くなり、翌三十七年 三月、二代目忠兵衛︵精一︶は滋賀県立商業学校を卒業して伊藤本店に入店し、経営に携わるようになる。この二代目は、 明治四十五年に﹁丁稚制度﹂に関して、近世的な﹁仕著及び別家制度﹂と明治期の﹁通勤及び給料制度﹂を比較して次の       ︵18︶ ように述べている。   吾人のいふ丁稚制度なるものは主従の情誼全く親子の如く上下の和合団結力が強く、事業そのものは自己なりと   いふ観念の下に労役に服するという美風がある。従って事業全般に亙る商業的教育を習得し得らる・が為に、例   へ長上を斎くも何人にても代って其の任務に携はる事が出来る。自己が将来独立するの素地がこ・に作り得らる・。   丁稚制度の尊重すべき点が此処であり、又一般にこの制度の下にあるものは質素勤勉の美風を養成し、現代的軽   薄思潮に染むといふ事が概して少く、又常に配当制度の下に働いて居るので、別家前に於いて既に相当の貯蓄が   あるから独立経営の場合にも幾分の助けともなる。要するに此の間々妙なる平和的の関係で連鎖せらる・ものが

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  ある。  右に引用した個所は、近世期以来の丁稚制度が、﹁事業全般に亙る商業的教育を習得﹂する上では有為な制度であるこ と、また、﹁別家﹂となり﹁独立経営﹂を始める入物にとって、奉公中の﹁配当制度﹂が開業資金ともなることを指摘し ている。ここでは、﹁事業そのものは自己なりといふ観念﹂が共有されていることが強調されているのである。  二代目忠兵衛は、別の個所においても、﹁学校出身は学力に過て勝り、少年入店者は実地経験に於て優れて居る﹂ので、 伊藤商店では﹁双方の長所を工合よく調和して営業上の方針を定めて、之を実行して居る﹂と述べ、現状の社会において は、むしろ丁稚制度は﹁吾が個人的商店の一種の美点として誇るべきもの﹂があると述べている。ここには、主人・店員 が一体化した﹁家族的経営﹂へのこだわりと、時代の変化を吸収し経営刷新を試みようとする姿勢を読みとることができ る。先の引用文のように﹁丁稚制度﹂は、事業全般にわたる商業的教育を習得することにより、上級職者の不在に対処で きるようになると評価している。換言するならば、総合的能力を修得させるのに適した制度だと見なしているのである。 ここでは、当時の社会において、他の商家が﹁学校出身者を事務的方面に、丁稚上りを仕入販売方面に使用するものが多 い﹂という状況に対する批判がある。学歴を前提とした社員の職務分担の差別は、二代目からすれば時流に無批判に乗っ たものであり、日本社会が経済的に十分に熟成されていない段階では、有効な人的資源の活用方法ではないという判断が あったと考えられる。  このような推移を見るならば、﹁出世店員﹂制度を残し、﹁立身出世﹂を謳った初代伊藤忠兵衛を﹁最後の近江商人﹂と 評価することは、あながち不相当なことではなく、同時に二代目は﹁最初の近江商人系企業経営者﹂たらんとしたと評価 することができよう。なぜなら、二代目忠兵衛は、﹁個人的商店﹂では対応できない程に経営が拡大し、先進資本主義諸        エフイセノノ  国と同様に﹁労銀の低廉と各個人の精力の功率︵罷勉力に富む︶﹂が日本に実現すれば、﹁通勤及び給料制度﹂は必然的 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観 一五

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     滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号      一六 だろうと推測していたからである。また、二代目は生前に製造業に強い関心を抱いていたと伝えられていることも注目さ れる。近代社会においては、単に流通過程においてのみ利益を上げることには限界があることを見抜いていたと考えられ るからである。いずれにせよ、近代に至り近江国出身の商人・経営者が﹁立身出世﹂と四文字で奉公人・店員を鼓舞する ことは、﹁近江商人﹂の伝統を引き継ぎながらも、新しい時代の流れで変身を遂げようとしている姿を反映するものと考 えることができる。  しかし、新しい時代は、自己の小さな資本だけで独立営業するには、相当の覚悟が必要な時代でもあった。個人の器量・ 才能を商人の本分として考える限り、他人資本を受け入れて企業化することは困難であった。有限責任思想を自らのもの とし、他人資本を許容することに思考を変えない限り、近代的な経営者として変身していくことは不可能なことである。 多くの﹁近江商人﹂が明治・大正期に衰退した事実は、このようなことも︸因として考えることができる。そして、その ことは奉公人・店員においても﹁出世﹂して別家や独立自営業者になることよりも、店員として高級幹部になることを目 標とする時代の到来でもあった。ただ、伊藤忠兵衛が経営者として、いつの時点から﹁出世店員﹂制度を廃止したのかに ついては、現時点では推測の域を出ず史料的に確定することはできていない。  それにしても、外村繁が小説で描いたように、新しい時代を迎えてもなお、古里に家屋敷を構えるという道を選んだ人々 の存在は、﹁立身﹂﹁出世﹂観の時代を超えた観念の根強さを︸面では反映させているということができる。 結びにかえて 以上、近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観について素描した。多くの点は、すでに注で掲げた拙稿で述べたことと重複して

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おり、屋上屋を架したきらいがないわけではない。しかし、この言葉にこだわることは、﹁近江商人﹂の特質を説明する さいの重要な視点であると考えている。同時に、この﹁立身﹂﹁出世﹂観を支えるものとして﹁出世証文﹂の存在を措定 することは、社会的慣習の実態をより明白にする上で有効であると考えている。現在までに確認できた﹁出世証文﹂は、 その本文に記された内容からも多様な債権・債務関係の発生の事由や関係当事者の存在を知らせてくれる。これらの事例 を明らかにするには、すでに紹介した拙稿に加えて新しい論稿を準備したいと考えている。それは単に近江国の特質のみ を説明するにとどまらず、広く日本の近世・近代社会に通慨した社会的慣習の変化の歴史を解き明かす一助になるものと 確信できる。  また、本稿で取り上げた史料や観点は、これまでの商家経営史の分野では等閑視されたものであった。ともすればこれ までは﹁合理性﹂﹁効率性﹂の観点から近代の経営理念をとらえがちであった。しかし、経営者がそれらを体現すること が相即的に﹁近代﹂を示すものではありえない。法人化された経営体であることは、直ちに近代的経営を実施したことを 意味するものではないことは、伊藤商店や伊藤忠兵衛の従業員に対する意識や現状の社会認識からも予測できるものであ ろう。それゆえ、ロ本近代社会における企業の歴史は、抽象的な分析概念が実態と同一であるのかどうか、改めて検討が 必要であろう。 ︵1︶ 伊藤忠商事株式会社社史編集室﹃伊藤忠商事一〇〇年﹄五四三。五四四頁︵伊藤忠商事株式会社、一九六九年︶。 ︵2︶ すでに本稿と同一の関心から﹁近江商人﹂の家訓・店則を素材として検討したものに、拙稿﹁﹁近江商人﹂の家訓・店則にみ   る﹁立身﹂と﹁出世﹂﹂︵﹃経済史研究﹄第五号、二〇〇一年︶がある。併せてご参照いただければ幸いである。 ︵3︶ E・H・キンモンス、広田照幸ほか訳﹃立身出世の社会史﹄︵玉川大学出版部、一九九五年︶、竹内洋﹃日本人の出世観﹄︵学 近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観 一七

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   滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第三十七号       一八   文社、一九七八年︶、竹内﹃立身出世主義﹄︵日本放送出版協会、一九九七年︶、日置弘一郎﹃﹁出世﹂のメカニズム﹄︵講談社、   一九九八年︶など参照。なお、武士社会における立身出世に関しては、柴田純﹃江戸武士の日常生活﹄が関説している︵一四四   ∼一六〇頁、講談社、二〇〇〇年︶。 ︵4︶ 前掲注︵2︶論文、および拙稿﹁近江商人中井家の家訓・店則にみる﹁立身﹂と﹁出世﹂﹂︵﹃彦根論叢﹄第三一七号、 一九九   九年︶を参照されたい。 ︵5︶ 前掲注︵2︶論文。 ︵6︶ 前掲注︵2︶、︵4︶論文を参照されたい。なお、山中兵右衛門家については、年未詳︵嘉永年間︿一八四八∼一八五三﹀以前︶   制定の﹁定﹂に、﹁一博変諸勝負葦間敷候、実説に相勤、末々出世を願ひ不増欝気持ち恩間妻事、其身も一生取失ひ可申事﹂と   ある︵﹃山中兵右衛門商店二六〇年史﹄五一頁、私家版︶。    また、北村源十郎家については、﹁北村宗方書置書﹂︵滋賀大学経済学部附属史料寝所蔵﹁北村文書﹂家三九︶。この遺言では、   質素倹約な生活をすることを指示し、﹁立身出世を好﹂むことを戒めている。 ︵7︶ ﹁中井源左衛門家文書﹂八二三二・八二五二。これらの史料は、注︵4︶の拙稿および注︵8︶の報告書に全文翻刻されている。   一部翻刻文字が注︵4︶論文と異なるのは、引用史料の違いによる。本稿では、報告書の翻刻文による。 ︵8︶ ﹃近世・近代商家文書に関する総合的研究﹄四二∼八五一頁︵平成一二年度∼一四年度科学研究費補助金︵基盤研究︵B︶   ︵2︶︶研究成果報告書 研究代表者・宇佐美英機︶。なお、この後に新たに中井家文書が多数遺されていることが明らかになつ   た。中井家の全容解明のためにはこれらの整理・公開が次の作業として必要となった。 ︵9︶ 江頭恒治﹃近江商人 中井家の研究﹄︵雄山閣、一九六五年︶、小倉榮﹁郎﹃江州中井家並合の法﹂︵ミネルヴァ書房、 一九六   二年。改訂増補版は、洋学堂書店、二〇〇一年︶。

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︵10︶前掲注︵2︶論文。 ︵11︶ ﹁中井源左衛門家文書﹂8270。前掲注︵8︶、三三頁参照。 ︵12︶ 外村繁﹃草筏﹄一九∼二〇頁、サンライズ印刷出版部、一九九四年版による。なお、外村繁に関しては、久保田暁一﹃外村   繁の世界﹄︵サンライズ出版、一九九九年︶、﹃外村繁書誌稿﹄︵外村彰執筆、五個荘町教育委員会、一九九八年︶がある。 ︵13︶ ﹃主従心得草後編 上﹄三二丁表・裏、国立公文書館所蔵。この書物は、一般的には﹁近江商人の典型的家訓﹂とされてい   るが︵例えば﹃日本史広辞典﹄、山川出版社一九九七年︶、必ずしもそのように理解できない。ここで参照している一節が﹁江州   勢州三州等の国々﹂といみじくも記すように、伊勢商人・三河商人や三都商人の事例・慣習が混在して記述されていると考え   る方が、史料利用としては正しいものではないかと思われる。ただ、大筋においては近江商人の実態を反映させていることは   間違いないだろう。なお、引用にあたっては振り仮名を省略した。 ︵14︶ ﹁出世証文﹂に関しては、以下の拙稿を参照されたい。 ﹁近世の出世証文−滋賀県神崎郡五個荘町域の事例1﹂︵滋賀大学経   済学部附属史料館﹃研究紀要﹄二九号、一九九六年︶、 ﹁明治時代の出世証文一滋賀県神崎郡五個荘町域の事例一﹂︵﹃彦根論   叢﹄三〇二号、一九九六年︶、 ﹁馬場利左衛門家の出店と﹃出世証文﹄﹂︵﹃研究紀要﹄三一号、一九九八年︶。 ︵15︶ ﹁猪田清八家文書﹂。前掲拙稿﹁近江の出世証文﹂三三∼三四頁より再引用。 ︵16︶ ﹃全国民事慣例類集﹂第三篇章一章︵明治二二年七月印行司法省蔵版、青史社、一九七六年︶。 ︵17︶ ﹁﹁成功﹂とは何か?﹂︵﹃商人﹄第二巻第一号、振興社︶。引用に当っては振り仮名を省略している。また、別軍団︵2︶論文   も参照されたい。 ︵18︶ 丸山侃堂・今村南史﹃丁稚制度の研究﹄一五八∼一六七頁、掲載個所は一六二・一六三頁︵政教社、一九一二年︶。なお、引   用にあたっては振り仮名を省略した。    近江商人の﹁立身﹂﹁出世﹂観       一九

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   滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十七号       二〇 [付記1] 本稿は、平成十五年六月十九日に滋賀大学大学院経済学研究科博士後期課程﹁経済リスク専攻﹂設置記念講演会﹁近江   商人とリスク管理﹂で報告したものを論文化したものである。﹁講演録﹂も刊行される予定であり重複するが、併せてご参照願   いたい。 [付記2] 本稿は、平成十五年度科学研究費補助金﹁近世・近代商家活動に関する総合的研究﹂︵基盤研究︵B︶・︵2︶ 研究代表者   宇佐美英機︶の研究成果の一部である。

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