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明治期における「南進」論の一系譜
一菅沼貞風『新日本の図南の夢』をめぐって一
有 賀 定 彦
は し が
き明治20年代,「南進」論が続出した。明治維新により幕藩体制から脱却して,近代化・工 業化への途をとり,富国強兵策をとりつつ資本主義の途を歩んだ日本が,国外に市場をも
とめ,植民地獲得にのりださんとする時期であった。杉浦重剛『焚噌夢物語』(明治19年),
志賀重昂『南洋時事』(明治20年),菅沼貞風『新日本の図南の夢』(明治21年執筆),田口 卯吉『南洋経略論』(明治23年),稲垣満次郎『東方策』(明治24年),鈴木経勲『南洋探検 実記』(明治25年),鈴木経勲『南島巡航記』(明治26年),鈴木経勲『南洋風物誌』(明治 26年置等がそれであり,時期はおくれるが,明治期「南進」論として, 日露戦争後,竹越 (1>
與三郎『南国記』(明治43年)をつけくわえることができる。
本稿では,そのなかから長崎県平戸の出身,菅沼貞風の「南進」論をとりあげ,その特 徴をみてみたい。
(注)
(1)明治期「南進」論については,すでに紀田順一郎氏と矢野暢氏が,それぞれの立場から代表的論者 をとり,紹介・論評されている。紀田順一郎「南国記」(三沢弘編『明治の群像・6・アジアへの夢』
所収)三一書房,1970年。矢野暢『「南進」の系譜』中公新書,中央公論社,1975年。矢野暢『日本 の南洋史観』中公新書,中央公論社,1979年。
1 菅沼貞風の人と業績
慶応元年3月10日,肥前平戸に生る。幼名を長一郎といい,長じて名を貞風と改める。
家は代々松浦候に仕える。明治13年,侍伴にえらばれて,旧藩主松浦伯の諸公子にしたが って猶興書院に入る。だが,家貧しくして一年後には職を郡役所に奉じ,昼は役所に勤め ながら,夜書院に帰って経史を講諦す。明治16年置大蔵省関税局が貿易沿革史の編纂にさ いし,長崎県に史料をもとめる。県はこの仕事を,平戸が古い貿易港だということで,平 戸の郡役所にまわし,貞風がその任にあたることとなった。,このようにして,できあがっ たのが『平戸貿易志』であった。貞風,年わずか19才の書である。
猶興書院にあるや,才学群をぬき,つとに頭角をあらわす。松浦伯,その才をよろこん
で,明治17年東京遊学を命ず。この年9月,東京帝国大学古典科に入学。中村敬宇,島田 篁村,秋月目無,三島中洲g)諸教授の講義をうけ1そのかたわら専修学校で経済学を学ぶ。
東京帝大在学中は,寸暇を惜しんで図書館で古書を読み,貞風の正科は図書館かと同級生 にいわれるまでになる。この努力の結晶が卒業論文『大日本商業史』となった。そして,
この『大日本商業史』の成った直後,明治21年の夏,『新日本の図南の夢』が書かれたの であった。菅沼貞風24才の著述である。この『図南の夢』で貞風は,それまで『平戸貿易 志』や『大日本商業史』でおこなってきた,日本の対外関係や貿易の歴史的研究をふまえ
たうえで,「南進」の実践的政策を提示した。
明治21年7月東京帝国大学卒業,同年9月東京高等商業学校に職を奉じ,貞風はふたた び日本商業史の編纂に従事する。だが心は『図南の夢』・にて提示した実践的課題の実現に
とりくまんとする。東京帝大時代の学友斉藤坦蔵の資金援助をえた貞風は,矢野二郎校長 の再三にわたる慰留にもかかわらず,明治22年3月東京高商の職を辞す。同年4月横浜を 出港,海を越えフィリピンに渡る。マニラの日本領事館の一室に居をかまえ,かねて期し た調査に着手した。昼は地理・風俗・事業の資料収集や調査に歩き,夜は領事館の一室に 閉じこもってその整理や執筆にあたった。同年5月貞風よりおくれて福本日南マニラ着,
貞風と行をともにす。マニラにおける調査・研究は一応の成果をえ,7月中旬には一度帰 国の予定であった。だが,コレラにかかり,7月5日夜にわかに発病し終に起たず。明治 22年7月6日没。享年25才。
これまでに公刊された貞風の著作つぎのとおり。
『大日本商業史』〔附〕「菅沼貞風君伝」(福本日南),「平戸貿易志」,東邦協会,1892年
(明治25年)。
r大日本商業史』訂3版,八尾書店,1902年(明治35年)。
『大日本商業史』〔附〕「菅沼貞風君伝」(福本日南),「平戸貿易志」,「新日本の図南の 夢」,「手簡」,「蹟」(武藤長蔵),岩波書店,1940年(昭和15年)。
『新日本の図南の夢』〔附〕「菅沼貞風君伝」(福本日南),「解説」(平泉澄),岩波文庫,
岩波書店,1942年(昭和17年)。
『大日本商業史』(明治25年刊の複刻),五月書房,1979年(昭和54年)。
以下『平戸貿易志』,『大日本商業史』,『新日本の図南の夢』の順で.貞風の思索のあと をたどってゆくことにする。なお,この紹介の作業にあたっては,三つの文献がまとまっ て所収されている岩波版『大日本商業史』に拠り,他の版は必要に応じて参照することと する。引用のページも岩波版で示す。
(附記) 「菅沼貞風の人と業績」には主としてつぎの文献によった。
福本日南「菅沼貞風井野」(『大日本商業史』所収)。江口礼四郎『南進の先駆者菅沼貞風 伝』八雲書林,1942年(昭和17年)。河嶋慎一「菅沼貞風とフィリピン」国立国会図書館
『アジア・アフリカ資料通報』,VoL 21,.No.10,1984.1(昭和59年1月)。
明治期における「南進」論の一系譜 77
2 『平戸貿易志』
『平戸貿易志』は13項目からなる。以下(1)から(13)まで,各項目にしたがって,その概要 をみることにする。
、 (1)
(1) 平戸港にヨーロッパの貿易が開かれたのは,天文18年(1549年)から寛永17年
(1640年)にいたる92年間である。その貿易相手国は,ポルトガル,スペイン,オランダ,
(2)
イギリスの四ヵ国であった。ポルトガルが天文18年平戸で貿易を開いてより,20年後横瀬 に移り,つづいて福田に港を開き,元亀元年ついに長崎港を開く。おくれてスペインは天 正8年(1580年),オランダは慶長2年(1597年置,イギリスは慶長18年(1613年)に平戸 港に来航する。当時長崎港はポルトガルの独占市場であったが,寛永16年(1639年),ま
ったくポルトガル人の来航を拒絶するにおよび長崎貿易は廃絶する。長崎港の貿易は,カ トリック教によっておこり,またカトリック教によって衰えた。その後,寛永18年(1641 年),オランダ人を平戸より長崎に移して貿易市場は長崎に移る。ここにおいてわが国はつ
いに鎖国の世と変じ,平戸港は蓼々たる寒邑となる。
(31
ところで,貿易には二つの性格がある。一つは「純然たる貿易主義」であり,他は「貿 (4)
易以外に宗教を附帯し,宣教以内に奪掠の主義を包含したるもの」である。この貿易のあ り方の違いが,ポルトガル,スペイン,イギリスが我国より拒絶され,オランダがこれを 独占した所似である。そして,オランダの貿易が長崎に移って平戸市場が廃絶したのは,
平戸は平戸領主の所領(松浦領)であるのにたいし,長崎は江戸幕府の直轄地であること による。その変遷は貿易自然の形勢よりおこったものではない。
(2) それではなぜ,平戸港が我国最初の欧洲との交易港となったのか。それは「支 那との交通に帰因す乱廻附1、み沖州使様代よ蜷は開力、れ,元憲に遭遇し,
倭冠で進出し,海賊王直ここを根拠地とする。また地理的には,平戸港は「支那」航路の 要津であって,博多と坊津,また博多と五島との中間にあって,寧波以北よりくるもの
と福建:・廣東よりくるものとの相湊合するところである。天文12年(1543年),ポルトガ ル船が王直とともに大隅の種子島に漂着する。その後王直の平戸商館開設後,ポルトガル 人は鹿児島を去って平戸に移った。このようにして,平戸は我国において,はじめて欧洲 貿易の要港となった。
(3) 欧洲諸国で航路を東洋に開いたのは,ポルトガル人をもってはじめてとする。
天文12年,ポルトガル船が骨導とともに種子島に漂着,鉄砲を伝来する。その値,鉄砲一 挺に銀千両。つづいて天文18年ザビエルが鹿児島に来航し,日本にキリスト教を伝える。
のちに鹿児島の貿易は平戸に移り,ヨーロッパや印度の薬種・織物と日本の金との交易に より,ポルトガル人は巨利を博する。
(4) カトリック教「僧徒」平戸港にきたり,ついで豊後に移る。平戸の領主,書を
印度におくってカトリック教「僧徒」をまねく。
(5) 平戸,豊後に海外貿易が発展するや,大村の領主大村純忠がポルトガル人と特 約を結び,横瀬港を開きついで福田港を開き,ついに長崎港を開くにいたる。これによっ て,それまで平戸の一下でおこなっていた貿易の一半は長崎港の貿易となる。「純然たる貿 易」は平戸港において行われ,長崎はカトリック教の中心となり,ついに長崎港はカトリ
ック教僧徒の占領するところとなる。ここにおいて日本の一港はついにポルトガル人の奪 略するところとなったが豊臣秀吉によって日本にとりもどすことができた。大村の領主が
ポルトガル人をその領内に誘致したのは平戸港との競争ということではなんら非難さるべ きことではないが,その競争の手段は大いに不法なるものであった。たとえば横瀬港をめ ぐる大村純忠とポルトガル人との特約はつぎのようなものであった。「一 『キリスト』
教堂を創設し教師に充分に給養し,ポルトガル人のために横瀬浦の一志およびその周囲二 里四方の地を開き諸税を免じ,又教師の許諾なき異教の者は一人も港内に住することを得 ざらしむべし。一 ポルトガル人等港内に在住する者へは何人も論ぜず諸税をのぞき,自 (6)
今十ヵ年ポルトガル人と貿易を営む諸人へも課役一切を免除すべし」。このよつな特約は長 崎についても結ばれた。長崎の地はけっして商業に便利な地ではないのにもかかわらず,
外国貿易に向って開かれたのは,このように宗教と貿易との結びつきという不法な特約の もたらしたものである。
(6) スペイン人の日本初渡来は天文18年(1549年),豊前の竹屋であった。そのの ち天正8年はじめて平戸港にて貿易を開始したが,慶長4年(1599年)にいたって貿易に みこみがないようになった。それは,ポルトガル人と同じくカトリック教を奉じたこと,
また当時オランダ人がすでに平戸港に来航してスペインとの競争をこころみたこととによ
る。
(7) オランダがポルトガルに代って東洋貿易の権をえたのは1595年置文録4年)に はじまる。それより2年後慶長2年オランダ船がはじめて平戸に立寄る。以後,平戸港は オランダとの貿易,隆盛にむかう。
(8) 英人ウィリアム・アダムス平戸港に貿易を開く。慶長18年置1613年),イギリ スは商館を平戸に設置しオランダと競う。だがやがて,貿易に利なきとして元和9年(1623 年),平戸の商館を鎖して退去する。平戸貿易におけるオランダ商人の暴利はひどく,輸 入織物の価格はヨーロッパのほとんど10倍の高価であった。
(9) 秀吉以来,江戸幕府の時代にはいうても朱印船貿易は発展し,外国貿易は盛大 におもむく。また日本人の海外進出もさかんになる。平戸では,領主松浦法印および商人 助大夫,伝助の三人が朱印状を受ける。
(10) 盛大にむかった外国貿易は一時にすぎず,それが衰えたのは,ポルトガル,ス ペインのカトリック教と結びつくわが国侵略の企図であった。オランダ船がポルトガル船 および日本船より,ポルトガルのカトリック教を利用する日本侵略を企図する書状を発見。
さらに我国の政府を激怒せしめて,ますますポルトガル,スペインニ国の貿易を困難なら
明治町における「南進」論の一系譜 79 しめたものは,スペインのカトリック教導が禁令を,まったく無視して引き続き我国に潜入 したことである。寛永元年(1624年)スペイン人の国外退去令がおこなわれる。オランダ 人は踏絵をおこない,平戸貿易はオランダの独占するところとなる。だが数次の鎖国令,
島原の乱は,長崎港に開いたポルトガル人の貿易をまったく廃絶せしめることとなり,寛 永16年(1639年 )には,我国のヨーロッ六貿易は平戸港で貿易するオランダ人の独占する
ところとなった。
(11) ポルトガル人が去った後の長崎の衰微を幕府が隣んで,出島に平戸よりオラン ダ人を移したという説は,当時の事情を知らぬ者の言である。従来,幕府は長崎を直轄し,
奉行を派出して外交事務を管理していたが,長崎の貿易が廃絶するにおよび,我国の外交 は平戸港のみとなる。だが,平戸港は平戸領主の港であるところがら,当時の政体として は領主のつかさどるところとなる。だが,このように外国貿易を永く一領主のもとに独占 せしめておくことはできない。ここに,外交の枢機を掌握することと貿易の利益の検括と のため,平戸のオランダ人を長崎の出島に移し,幕府の直接の支配下におくこととなった。
(12) 平戸は唐船にも開かれた港であった。地下がそうであり,明の鄭墜下またしか り。だが,オランダ人の出島に移る時,唐船の来航も禁ぜられる。
(13) 平戸に伝わる西洋文明はキリスト教の影響をうけていることにより,領主は西 洋の事物をことごとく放棄せしめた。伝来の学術技芸はその伝を断った。
以上13項目よりなる『平戸貿易志』を各項目にしたがって,その概略をみてきた。その 引用文献は,『続目本紀』,『日本後記』,『肥前風土記』,『三代実録』をはじめとして,『長 崎実録』,ケンペル『日本歴史』,クラッセの『日本西教史』などにおよぶ古書じつに83冊 におよぶ彪大なものであった。それは雪下使の古代から江戸幕府の長崎における貿易独占 をもたらした鎖国にいたるあいだ,わが早め対外関係の歴史のなかに生きる平戸港の貿易の 歩みをたどったものである。だが,古代からヨーロッパ貿易がはじまるまでにあてられたの は,全体13項目のうち,(2)の一項目のみであって,重点はヨーロッパと日本との関係 におかれている。それはまた,別の視点からするならば,平戸港と長崎港との関係の歴史
(7)
でもある。貞風は貿易を,「純然たる貿易主義」と「貿易以外に宗教を附帯し,宣教以内 に奪掠の主義を包含したるもの」との二つの性質のものにわける。そして、このテーゼを 平戸の貿易の盛衰のなかにあてはめて,平戸の貿易は長崎の貿易にくらべて「純然たる貿 易主義」であったとする。貞風は,江戸幕府の鎖国は,「当時江戸の政府が外国の事情を 詳にせずして進取の気力に乏しく,ポルトガル人の隠謀,スペイン人の暴行等に畏怖して (8)
自ら固守の政略をとりしは,我国の貿易をしてついにこの極にいたらしめる所似なり」と のべ,鎖国にいたる原因として,ポルトガル,スペインの「貿易以外に宗教を附帯し,宣教 以内に奪掠の主義を包含したるもの」としての貿易のあり方と江戸幕府の退守の姿勢との (9)
両面を主張した。この『平戸貿易志』を基底に,さらに彪大な資料を駆使して太古の時代
より鎖国にいたる白本の対外関係や貿易の歴史を叙述したのがr大日本商業史』であった。
つぎにこれをみてみよう。なお,『大日本商業史』は350万言にのぼるきわめて彪大な大著 述であり,また基本的な論理のはこびは『平戸貿易志』と変りはないので,ここでは『大
日本商業史』に特徴的にみられる貞風の主張を紹介することにする。
(注)
(1)(2)天文19年(1550年)の説もある。岩生成一『鎖国』(日本の歴史・4)中公文庫,中央公論社,
1981年,24ページ。
(3)菅沼貞風『大日本商業史』岩波版,526ページ。
(4) 『前掲書』同ページ。
(5) r前掲書』528ページ。
(6) 『前掲書』545ページ。
(7)この点からするならば,貞風の『平戸貿易志』は『大日本商業史』とともに,長崎の地においてい われている「長崎学」の学術的考察の「先駆者」といってもよい。
(8)菅沼貞風『大日本商業史』岩波版,585ページ。
(9)日本の古代史,中国・朝鮮の史料,外国人のみた日本に関する史料,長崎その他の地方史など『平 戸貿易志』で引用したものを含めて226冊にのぼる。
3 『大日本商業史』
(1) 本書執筆の目的
貞風は『大日本商業史』執筆の目的をつぎのようにのべる。
(1)
外国貿易に2種あって,「一を働きかけの貿易といい,一を受身の貿易という」。わが国 の今日の外国貿易は「受身の貿易」であって,「我の彼より買わんと欲するも,坐して彼 (2)
のきたりて売るを待ち,我の彼に売らんと欲するも,坐して彼のきたりて買うを待つ」。こ こにおいて,その買うものはつねに高く,その売るものはつねに低い。このような「受身 の貿易」は鎖国の余習といってよい。世人は,日本は東洋商業の中心たるに適当なりとよ くいう。すなわち,人口多く,物産豊かで,数多の良港その周回をめぐりて,海運の便き わめてよい。東に北米の合衆国,南に濠洲,西に「支那」,北にウラジオストッ久ニコ ライエフスクの地方あり。わが国はその中心にあってすこぶる天然の形勢を占む。いやし
くも,東西南北に市場を拡大して商業を拡張すれば,小もまた以て大に敵すべく,寡もま た以て衆に勝つべし。だが,もしこのような大望を達せんと欲するならば,なんとしても
「働きかけの貿易」をおこなわなければならない。我の買わんと欲するものは自ら産地に 行ってこれを買い,我の売らんと欲するものは自ら販路をもとめてこれを売らねばならな い。またこれを運搬するにも自国の商船を用い,・さらに一歩進めて四隣諸国の間に周旋し て物品の交換を開脚し,早計高売の間に仲買の利益を専翻して,富源を版図の外に開通す るの勇気を要すべし。鎖国の余習に埋没して,自ら知らざる者とはともに語ることがでさ ようか。我が国人は鎖国の夢を見た。だが,「国を鎖して彊域の中に退歩するは果たして (3)
日本国民の本色なるか」。
明治期における「南進」論の一系譜 81 貞風は,このような問題意識をもって,日本の商業の歴史の研究にとりくんだのであっ
た。
(2) 『大日本商業史』の要項
〔巻1 太古の時代〕 航海はどうして始まったか。日本国土はどうして発見されたか。
朝鮮半島への日本からの植民。「支那」帝国と日本との通交。当時の商業の形勢。
〔巻2 上古の時代(遣唐使ならびにその廃止後の時代)〕遣唐使のはじまりと「支那」
帝国よりの朝鮮の独立。歴朝の遣唐使ならびにその廃止。新羅および渤海と日本の通交。
遣唐使廃止後の諸外国との貿易のあり方。当時の商業の形勢。
〔巻3 中古の時代(海賊の時代)〕元口を打ち退けて以来,商機大いに振い「働きか けの貿易」となる。明ならびに朝鮮と日本との交通貿易。海賊大将軍および「八幡船」の 活動。当時の商業の形勢。
〔巻4 近古の時代(欧洲貿易の時代)上〕ポルトガル人の来航と鹿児島および平戸港。
カトリック教の布教活動と平戸から横瀬,福田さらに長崎への港の移転。長崎のポルトガ ル植民地化と豊臣秀吉による回復。南蛮寺の破滅。秀吉の朝鮮出兵の徒労。原田孫七郎の ルソン経略の雄図。
〔巻5 近古の時代(欧洲貿易の時代)中〕異国渡海朱印船の起源ならびに新スペイン
(メキシコ)との新航路。徳川家康の「支那」通商の計画と琉球占領。朱印船の数ならび にその航路。海南諸国の日本町ならびにその制札。ジェスイット教党の隠謀,金山奉行大 久保石見守の狂死。
〔巻6 近古の時代(欧洲貿易の時代)下〕オランダ,イギりスによる日本との貿易開 始。シャムおよび高砂における日本人。島原城主松倉重政によるルソン経略の策ふたたび 廃せらる。海外への渡航禁止。島原の一揆。鎖国。当時の商業の形勢。
以上のなかで,「カトリック教・貿易・植民地」,「江戸幕府と日本町」,「秀吉の朝鮮 出兵の徒労とルソン経略の策」ならびに「鎖国」についての貞風の主張を以下みることに する。 . (3) カトリック教・貿易・植民地(十字架・カピタン・植民地)
この点について貞風はつぎのようにいう。
16世紀当時にあっては,ポルトガル,スペインの二国人で海に航し地を求めた徒は,剣 を手にして市場に入り,いたるところ土地を奪掠して「土人」を殺し,絶滅しつくす場合 もあった。かトリック教僧徒の十字置は商人の剣とあいまって遂に大なる海外の版図を開 いた。これは日本にたいしても同様である。ただ我国の武力が彼等の横行を許さなかった ので潜んでいたにすぎなかった。彼等は,貿易の利を誘って,キリスト教の布教と植民地 獲得にのりだした。大村氏との「特約」がそれであって,長崎の植民地化はこのようにし てなされた。そもそも日本人の歴史には,「僧」と「商人」とが手をくんで「領土を奪う」
ということはなかったので,当時の日本人には,ポルトガル,スペインの日本侵略の企図
を予想だにすることはできなかった。慶長元年(1596年)土佐国浦戸に漂着したスペイン 船の船長が増田長盛に語った「まずキリスト教を布教し,のちに軍隊を送ってこれを版図 にいれる」との言。慶長16年(1611年),オランダ船がポルトガル船より押収した,キり スト教を利用する日本征服の企画をしたためたポルトガル人モロのポルトガル王あての書 状。元和年中,オランダ船がマニラより日本へと帰航の日本船中より発見した,南蛮の者 より日本に隠れひそむ者への「日本の大半がカトリック教に帰依したるときは通報すべし」
との書状等々。これらは,いずれもキリスト教と結ぶポルトガル,スペインの日本支配の 企図を示す。
貞風が『平戸貿易志』と同様に『大日本商業史』で力をこめて主張する点の一つが,当 時のポルトガル,スペインのキリスト教と結びつく世界征服の方策であった。しかもこの ことは,まぎれもない歴史の事実であった。当時の日本におけるカトリック教の悲劇の一 つは,「信仰の自由を認めない」ことにあった。したがってカトリック教は,他の宗教と は共存しえない運命にあり,日本における神道や仏教という伝統的な宗教とは絶対的な排 他関係にたった。しかも,こういつた宗教性が政・商・教未分離のもとにおしすすめられ たため,日本におけるキリスト教の信仰は,ただ「信仰」という「宗教」上のことがらに とどまらず,日本の伝統的なら已・」と「力」と衝突せざるをえないという「社会」性・「政 治」性をもっていた。
(4)江戸幕府と日本町
貞風は,当時の日本人の旺盛な海外進出とそれにたいする江戸幕府の保守的・退嬰的な 政策を批判して以下のようにいう。
元冠を打ち退けたのち,日本は「働きかけの貿易」の時代にはいる。朝鮮や明にたいす る平冠の活動は活溌となり,入幡船の海外進出はいちじるしくなった。秀吉にはじまった 朱印船貿易は江戸幕府の時代にはいっても年をおって発展した。朱印船の渡航先は,高砂
(台湾),西洋(マカオ)をはじめ,安南(ベトナム),東京(ベトナム北部),交趾(ベ トナム中部),カンボジャ,シャム,ルソン等々といった東南アジアの各地におよんでい た。このように日本人が東南アジアへ進出するにともない,シャムの山田長政,高砂の浜 田弥兵衛のように大いに活躍する者もあらわれた。そして,交趾,カンボジャ,シャム,
ルソンには日本町が栄えるようになった。だが江戸幕府は,徳川家康の政策にみられるよ うに,自らの国内支配体制の維持にのみ目を向けていた。ヨーロッパ人の海外の植民地を そのまま彼等の領土と認め,海外における日本人の権益や活動,その砦としての日本町の 発展に意を用い力を蓋すということはなかった。ポルトガル人がマカオを,スペイン人が フィリピンを,オランダ人が台湾を武力で領したことをみるならば,どうして日本商人の 海外進出に軍隊を派遣して日本の版図を拡大しなかったか。これで,弱肉強食,優勝劣敗 の当時の世界にあって,ヨーロッパ人の東洋進出に対抗しえようか。
(5) 秀吉の朝鮮出兵の徒労とルソン経略の策。
明治期における「南進」論の一系譜 83 この点について貞風はつぎのようにいう。
:1572年置元亀3年),スペインはフィリピンを占領し植民地となす。だが,この時すで に日本人はルソンとの交流をはじめていた。それは納屋助左衛門の活動によっても明らか である。ところがスペインは,マニラを振点にカトリック教僧徒を日本に送り,キリスト 教を布教し,日本侵略を企図した。このような情勢にあって原田孫七郎は,日本もまた第 二のフィリピンとなることをおそれ,天正年間より秀吉の朝鮮出兵への軍をフィリピンに
向けるよう献策する。原田孫七郎は文禄元年(1592年),秀吉の書簡を携えて使者として 渡比するが,秀吉の死によりこの策は日の目をみることなく終った。もし秀吉が原田の献 策をとりいれ,朝鮮に出兵した遠征軍を転じて,これをフィリピン群島に用いたならば,
ルソンは長く日本帝国を構成する一分子となったであろう。秀吉の朝鮮出兵は,いたずら に多くの壮士を失うのみならず,寸土の地を収めることなく終った。また寛永7年(1630 年)春,島原城主松倉重政は,スペインのカトリック教僧徒の引き続く日本潜入を,フィ
リピ7を占領して根絶しようと計った。だが,幕府がこの策を許した直後,寛永7年11月,
重政が死んだためこの計画はついに実現しなかった。したがって,我国のカトリック教徒 を拒絶する手段はついに国を鎖して退守するのやむなきにいたった。
ここで貞風が,原田孫七郎と松倉重政の二つの事例をあげ,日本からの出兵の望ましい
「方向」として主張したことは,朝鮮・「支那」と戦わないこと,そしてフィリピンを経略 するこどである。この「方向」に貞風の「南進」論の原型がみられるのであって,この発 想が『新日本の図南の夢』に引き継がれてゆくことになる。
(6) 鎖 国
貞風はこの点についてつぎのようにいう。
元冠を撃退して以来,日本の商業の気運大いにおこり,ついに朝鮮・「支那」の沿海を はじめ海南諸国にまで勢威をのばしていった。このときにあたって,ポルトガル,スペイン は東西印度を席巻し,日本に迫ってきた。日本人の彼等と競争するや,商業にしろ兵事に しろ一も劣るところはなかったけれど,時の政府がキリスト教のなかに潜む奪掠手段にお どろき退守の政略をとり,ついに国を鎖すにいたった。だが,「我日本国民の性格たる,
けっして働きかけの貿易を経営するに不適当なる者にあらず。ただこれを御する者の……
(4)
早昼をとるにいたりしのみ。試みにその197艘の多きにおよびし異国渡海の朱印船をみよ」。
貞風はこのように,元竃以来の日本の対外商業のあり方と,それが鎖国にいたる経緯を のべたのち,「我日本国民の性格たるけっして働きかけの貿易を経営するに不適当なる者 にあらず」と主張する。そして(1)(本書の目的)で提起した課題にたいしてつぎのよ
うに答える。「我国人はじつに鎖国の夢をみたり,しかれども国を鎖して彊域の中に退制 するははたして日本国民の本色にあらじ,これ余が我国歴史について,その如何にこれを (5)
証振だてるかをみんと欲するところなり」と。
そして『本書』の最後で,明治20年前後の世界の形勢にふれ,つぎのようにいう。これ
から,太平洋は欧洲各大国の雌雄を決する戦場となるに違いない。その場合,欧洲の各大 国が東アジアにおいてどういうことをしょうと,またどのような問題を惹き起こそうと,
日本と「支那」の両国は始終その衝に当らざるをえない。だが,両国のうち日本だけが,
その軍備の整頓と行政の発達とによって,欧洲各大国とともに政治上の大問題を解く能力
(6)
をもっと。貞風はこのように,東アジアにおける将来の見通しと日本の位置づけにふれた のち,つぎの言で本書をしめくくる。「吾人はあえてかの欧洲各大国のごとく,他人の国 土を奪掠して自己の財嚢を充たさんと欲するものにあらざれども,いやしくも商業を振起 せんと欲するには,その進路に当れる障碍を切開くべき勇気なかるべからざるをしるも・・…
吾人日本人たる者この一国興廃の時に際す。遠く往昔を顧みて近く即今を思わざるぺけん
(7)
や」。
ここから将来の策として,『新日本の図南の夢』へと貞風の発想がさらに展開してゆく ことになる。
(注)
(1)菅沼貞風『大日本商業学』岩波版,4ページ
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
『前掲書』同ページ。
『前掲書』5ページ。
『前掲書』490ページ。
『前掲書』517ページ。
『前掲書』518ページ。
『前掲書』同ページ。
4 『新日本の図南の夢』
菅沼貞風の「南進」論
『新日本の図南の夢』は,貞風の執筆後ながらく菅沼家に秘蔵されたままであったが,
ようやく昭和15年(1940年)になって,岩波書店から出版された『新日本商業史』に収録 されて公けにされた。つづいて昭和17年(1942年),太平洋戦争中,平泉澄の「解説」 を ふして「岩波文庫」より独立の書として公刊される。原文は赤罫紙50余枚に書かれた小論
(1)
文にすぎないが,貞風の「南進」論がここに結晶しているといってよい。なお,この論文 の表題には「小を変じて大と為し,敗を転じて勝と為す」という添書がつけられており,
また論文は,「龍の巻」と「虎の巻」の前後二つの編より構成されている。
以下,「龍の巻 新日本を構成せよ」より貞風の「南進」論をみてゆこう。
貞風はまず,明治維新後20数年の現在,わが国の外交にとって焦眉の急は条約改正であ るとし,つぎのようにいう。安政5年(1858年),開国とともに,アメリカをはじめ英・
露・蘭・仏ととりむすんだ修好通商条約は,日本にとって裁判自主権と関税自主権をもた
ない不平等条約であった。裁判にあっては,外国籍の者は日本の法律に照らして処罰でき
ない「治外法権」を認めていた。また貿易では,輸入品にたいする関税は主として従価2
明治期における「南進」論の一系譜 85
割とされたものの,慶応2年(1866年)になって英・米・仏・露・蘭の5ヵ国との改四境 書により,輸入税はすべて従価5分に減ぜられた。これは従来にくらべ1割5分の損失で ある。ではどうしたら,不平等条約を徹廃し,完全なる独立国家となりうるか。貞風はつ ぎのよつにいつ。
いまや弱肉強食の世界にあって,我国は他国への依頼主義をとることはできない。だが,
「北極の南」,「南極の北」,広大なる楽園楽土は,ことごとくこれを欧洲人の専横にゆだね ている。しかもこのような世界の情勢にあって,我国の人口増加はいちじるしく,海外へ の移民を必要としている。ところで,国家を富強ならしめるには,商業を振起せねばなら ない。そのためには,「鎖国の余習」にすぎない居留地の外商に依存する「受身の貿易」
から,「働きかけの貿易」へと飛躍しなければならない。このことに関して,英国になぞら えた自由貿易を主張する者がいる。だが,英人の商業を経営する地にして,国旗を翻す軍 艦の錨早しないところがあるだろうか。我国の場合もまた同様であって,商業を振起する には国旗の力を要す。それではどのようにして我国の海軍を拡張するか。貞風はこのよう に自ら問い,つぎのように答える。
(2)
「我に一術あり,純一簡明にして以て易し」。まず我国の海軍にIOO隻からなる艦隊をつ くることをめざす。これは,ドイツと同じ軍艦保有量であって,いかなる国が東洋に向っ て海軍力を用いようとも,それに対抗しうる軍艦保有量である。だが,そのうち30隻はす でに保有している。1隻150万円として残る70隻には1億円を要す。これを外債で募る。
そののち,条約改正して,関税をこれまでの5分から2割とする。この関税収入で外債の 償還をおこなえばよい。国民は一文の負担を増加する必要なし。
それでば,このように強力な海軍力を整えたのち,日本はどこに版図をめざすか。貞風 はつぎのよ.っにいっ。
世人はまず朝鮮,「支那」を考える。だが朝鮮,「支那」は日本人の敵ではない。我国の 税権を束縛し,我国の法権を三二し,傍若無人の挙動をなして大いに我国を凌辱するもの (3)
は白色人種である。「吾人は fじて支那をとるの不可なることを知る」。なぜならば,日本 がもし「支那」に勝つならば,その国土は四分五裂して露・独・英・仏に分割されるであ ろう。日本もその一部分をうることはできょうが,「支那」の命脈は断たれるであろう。「支 那」を取ってならないときは朝鮮を取ってもならない。それは,朝鮮は日本と「支那」と の境界をなし,あたかも「万里の長城」をなしている。もしこの長城を取り除いてしまえ ば,その境界に事件が多くおこるであろう。ところで,安南は仏に取られ,ビルマは英に 領されている。それではシャムはどうか。日本がシャムを取ることは,英仏の二国と戦う
ことになるし,もともとシャムは日本人の敵ではない。すなわち,「支那」と同盟を結び,
朝鮮とシャムの独立をたすけて我国の与国とする。このようにして,日本を中心として東
洋の勢力を連結し,白人の蹟属に対抗する。だがそうであっても,日本にとって植民地は
必要である。この新版図は,「太平洋の西,印度洋の東,『支那』海の南,大洋洲の北,数
(4)
多の島野相群れる中にあるもの」。すなわち,フィリピンである6では,なぜフィリピンを 新版図と目したか。引き続き貞風はいう。
この群島はスペインの植民地である。日本は100隻の軍艦をもつがスペインがフィリピ ンに廻しうる艦隊は20余隻にすぎず,戦って撃破するに困難はない。ここを取ることがで きるならば,原住民のスペインからの圧政を取り除くことができるし,また日本の利益と もなる。もし,フィリピンを略取する名分がない場合には,日本からの移民を進める。そ うすれば,機が熟せば占領する名分が生ずるであろう。そののち,「オランダの領するジ ャワ,スマトラの諸島を取り,その後シャムを助けて英と一戦し,マラッカ半島を復して シンガポ「ルの峡門を下し,その後朝鮮を助けて露と一戦し,満洲の全域を復してウラジ オストック,ニコライエフスク,樺太,カムチャッカの瞼要を占め,その後朝鮮,シャム を約束して『支那』の頭尾を箱制し,もし機会があるならば台湾の一島を略取して『支那』
の海上の威権を抑え,丁丁形格して我に従わざらしめる。日本が東洋の声影たりうるのは (5)
この策にあるのみ」。.
貞風のこの発想は,後年の「大東亜共栄圏」構想の原型といえる。貞風は,「北進」論 にたいして「南進」論者だといわれている。だがこの発想からするならば,その「南進」
ということは,ただ「南」に進むという意味ではない。日本を中心にしたアジアや太平洋 での支配体制の構築こそ窮極の目標であって,そのためには,まずどこから手がけるか,
その出発点が「南進」だということである。この意味からするならば,貞風の「南進」論 は「北進」論をつぎにひかえた「南進」論だといえる。
貞風はさらに論を進める。すなわち,日本のフィリピン攻略にあたっては,その着手す る時期に注意せよ。まず英・独・仏の欧洲諸国と直接戦いを交えないようにせよ。さいわ い,欧洲諸国は,近い将来,お互いに争う情勢にある。欧洲諸国がお互いに争い,その力 の衰えたる時こそ,日本のフィリピン攻略に着手する時である。貞風はこのようにのべ,
最後に海軍の拡張を力説して「龍の巻」を終える。
「虎の巻 旧日本に恥ずるなかれ」は,日本の歴史におけるフィリピン経略策にはじま る。天正から文禄年間にかけての原田孫七郎による秀吉へのルソン経略の献策と寛永年間 における松倉重政のルソン攻略の策である。この二つの策はともに『大日本商業史』でと りあげたところであり〔本稿では3の(5)で説明〕,その箇所で貞風がいっている主張と 変ることはない。すなわち,フィリピンを攻略・移民の対象としていること,朝鮮・中国
と戦わないこと,そして貿易や軍事と結びつくカトリック教とスペインに対する強い敵意 である。
そしてつぎに貞風は,「図南」の具体策におよぶ。まず日本人の長所である農業に目を
つけ,農業移民を企てる,そしてこの移民をしてフィリピンの特産物である砂糖,麻,煙
草の栽培やその加工業に従事せしめる。フィリピンを植民地にしているスペイン人は,い
までは欧州の中の最も進歩せざる人種であるので,日本人はフィリピンの豊かな資源を大
明治期における「南進」論の一系譜 87 いに利用して活動し,利益をうることができる。ただし農業移民には,怠惰・放縦なる者 は移住せしめないようにしなければならない。日本に本店、フィリピンに支店をおく「出
(6)
稼会社」を設立し,例を砂糖にとるならば,本店で甘干の生育・培養や収穫,さちに砂糖 を製造する方法等を習得したのち,移住せしめる。そしてこの訓練の期間中に,うえにの べた人物の評価をおこない,移民の選択をする。
貞風が,このように移民の選択に意を用いるのは,この移民は通常の移民ではないから である。移民を,中隊,大隊,連隊,旅団,師団,軍団の軍隊組織に編成し,「その機」
を待つ。その人数は9万人を考える。これだけの「力」があれば.たとえスペイン軍が本 国から攻めてこようと対等に戦える。フィリピンの原住民は,スペインの圧政に必ず抗し て立ち上がるであろう。「その機」をみて,フィリピン原住民の騒起に呼応して日本人移 民も立ち上がる。「その機」とは,「龍の巻」でのべたように欧洲諸国がお互いに争う時で ある,と貞風はいう。
それでは,この「出稼会社」の採算はどうか。貞風はこの点につき,ハワイ錦上傭主に よる『ハワイ糖業報告』におけるハワイ移民の資料を参考にする。なぜなら,ハワイ糖業 はフィリピン糖業より劣るため,ハワイ糖業を比較の材料にすることは,税目に見積るこ
ハワイ出稼人諸費比較表(単位はセント)
固 定 資 本 高 流動 資 本 高 労力国別
移住費 住所費 計 1ヵ月
J 銀 同食料 計 3力年分 合 計
ポルトガル人 112.00 76.38 188.38
10.41 9.1619.57 704.52 892.90
「支 那」人 76.00 31.49 107.49 13.56 6.43 19.99 719.64 827.13 日 本 人 65.00 41.94 107.79
9.88 6.32 16.20 583.20 690.99
(出所)『大日本商業史』岩波版684ページ。
とになるので恰好の材料になると。そして,まずこの表で明らかなことは,日本人移民の 賃金はポルトガル人よりも,さらに「支那」人よりも低いことがわかるという。貞風はつ づいてうえの『報告』によりながらいう。この資料で日本人移民の短所とされている労働 の勤続に慣れていないこと,牛馬の使用に慣熟していないこと,事業の熟練がポルトガル 人や「支那」人におよばないこと,こういつた短所は訓練でなおすことができるし,また、
短所にあげられている忍耐心のたりないことは,日本人移民の長所である競争心と愛国心 とで補うことができる。そしてよいことに,日本人移民は原住民と親密である。このよう にして,その低賃金とあいまって,出稼会社は利益をあげることができると。
以上のように貞風は図南の具体策をのべ,一大会社の力をもって国家万年の策を決める ことができると主張する。
ところで,この貞風の「南進」論は,杉浦重剛の『焚喰夢物語』の影響を色濃くにじま
せている。貞風は,東京帝大に在学中,「本書を読んで大いに感激し,卒業後浦啓一らの
指導によって設立した有為学会の会員にも一読するよう推奨した。彼らは狂喜し,競って (7)
閲読したため南進思想の旺溢するを見るにいたったという」。
明治19年(1886年)著の杉浦重剛の『奨喰夢物語』は,後に昭和4年(1929年)『明治文 化全集・第21巻・社会篇』のなかに収められて刊行された。この本で重剛は,当時の日本 の日の当らない階層の救済策として,海外への移民を説く。その地は,台湾をへだたる遠 からず,「太平洋の西,印度洋の東,『支那』海の南,太駅頭の北,数多の島四相群れる中
(8)
にあり」。すなわち,フィリピンである。移民の場として,朝鮮や清国とは争わず,フィ リピンを目するというのは貞風も同様であり,この重剛のフィリピンの描写からして,そ のまま貞風に引き継がれている。そればかりではない。貞風が『図南の夢』でのべるフィ
リピンやスペイン人の評価,「9万人」という移民の人数,その移民を軍隊組織にするそ の「編成」,原住民がスペインの圧政に抗して立ちあがるとき,軍隊組織に編成された移 民がともに立ち上るというくだり等,貞風はいずれも重剛の『三三夢物語』の発想を受け 継いでいる。
この視点からするならば,つぎのようにいえるだろう。菅沼貞風の『新日本の図南の夢』
(「南進」論)は,『平戸貿易志』から『大日本商業史』へと続けてきた独自の研究のうえ にたって,杉浦重剛の『焚喰夢物語』の影響をうけて,図南の具体策をのべたものであると。
(注)
(D 菅沼貞風『新日本の図南の夢』岩波文庫版に附された平泉澄の「解説」による。同書91ぺ「ジ。
(2)菅沼貞風『大日本商業史』岩波版,649ページ。
(3) 『前掲書』656ページ。
(4) 『前掲書』658ページ。
(5) 『前掲書』659ページ。
(6) 『前掲書』681ページ。
(7)判沢弘編『明治の群像・6・アジアへの夢』三一書房,1970年,200ページ。
(8)杉浦重剛『焚喰夢物語』,『明治文化全集・第21巻・社会篇』日本評論社,1929年,461ページ。
5 菅沼貞風の「南進」論の特徴
貞風の「南進」論の特徴の一つは,それがたんなる「政策」論ではないということであ る。『平戸貿易志』から『大日本商業史』へと日本の対外関係や貿易の研究のうえに,当 時の日本の社会情勢から生みだされた「南進」論である。現在の理論水準からみるならば,
『平戸貿易志』にしろ,『大日本商業史』にしろ,そのこまごました研究内容や研究水準 を云々することはたやすい。だが明治20年前後の当時にあっては,すぐれた労作といって よかろう。
ここで,当時の世界史の動向をみるならば,19世紀の後半にはいるにおよび,イギリス
明治期における「南進」論の一系譜 89 の世界市場独占体制は崩壊し,イギリス以外の欧米各国においても,本格的な産業革命が 進行し,保護関税のもとに生産力を伸ばし世界市場に進出していった。それにつれて,欧 米列強の植民地獲得競争は激化し、アジア地域もつぎつぎに欧米列強の餌食となっていっ た。それは白人によるアジア人の支配を結果した。貞風の「南進」論はこのような事態に たいし,朝鮮や中国とは戦わないこと,シャムとも争わず,日本人移民がフィリピン原住 民とともにスペインの植民地支配と戦うこと等を主張する。このように,貞風の「南進」
論には,アジア人はお互いに争わず,白色人種の支配からアジア人を解放するという「人 種主義」が特徴をなしている。そこに貞風の,欧米列強のアジア支配からの解放への熱い 思いをみることができる。
こういろた時代にあって,世界資本主義の環のなかに強制的に組みこまれた日本は,魑自 立国への途を歩むか,植民地・従属国への途に転落するかの岐路に立たされた。日本が自 立国への途を歩むためには,治外法権や不平等関税を日本に押しつけている不平等条約を 改正することが当時の大きな課題であった。貞風が自由民権運動に関心を示さず,その「南 進」論に「国権主義」が強く刻印されているのもこういった時代的背景があった。
貞風の「南進」論は当時の「移民」論でもある。明治維新後,資本主義への歩みのなか で生みだされたさまざまな社会問題の解決策として,「移民」が「南進」の担い手としてと
りあげられた。そしてこの「移民」が,「国権主義」と強く結びつくのも貞風の「南進」
論の特徴をなす。
ところで,「国権主義」や「人種主義」が対欧米ではなくアジア内部に向けられてくる と,「南進」論のいう「アジア解放」の内容が変ってくる。貞風の「南進」論は,たんな る「南進」ではなく,「南進」をふまえたうえでの「北進」であり,そのめざすところは
「東亜」の解放である。だが,「国権主義」と「人種主義」は,日本を盟主とする「東亜.
という構想になってゆく。貞風は,不平等条約にしても,日本に対する欧米列強には強くそ の改正を求めるが,隣国朝鮮に対する日本の不平等条約の押しつけにはなにもふれていな (1)
い。またフィリピンへの移民にしても,貞風は「移住の自由は人生最大の権利なり」との べ,フィリピンの原住民がそれをどううけとるかという検討は抜きにして,日本にとって 都合のよい論理のはこびとなっている。
貞風の「夢」は,第二次世界大戦のさなか『大東亜共栄圏』となって実をむすんだ。だ がしかし,それは日本にとってもアジアにとっても不幸な結実となるのである。
(注)