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智山學報 第56 - 041高橋 尚夫「般若理趣経の註釈的研究 二 : 「初段・第二正説分」(」

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全文

(1)

般 若

趣 経

註釈 的

初 段

説分」

高 橋  

 

 1  は し が き  本 稿は松 濤 誠達先 生古稀記 念 論 文集 『梵 文学 研 究論 集 』(2007年 3 月 大 祥 書 籍 )に 〈般 若 理 趣経の註 釈 的研 究一 「初 段 ・第一縁起分」〉 とし て提 出し た もの の 続 きで ある。 般若 理趣経の註釈 的研 究はすで に福田亮 成博士が先 鞭 を付け ら れ、その詳細な論考が 提 出され てい る1)。 理趣 経研究の 第 一で あ る古稀 記念論文 集に執 筆の 栄誉を 得た こ とは まこ とに感に堪え ない 。 し か し、 同種の 研究を、そ れ も福田先生の 論考に 比べ 撰の謗 りを免れ得ない もの を提 出する こ とは い さ さか躊躇の念 を抱かざ るを得 ないが、 先生の後塵 を拝するもの とし て筆 者の理趣 経研究の 第 一一 と し たい 。   本稿の意 図する とこ ろ はすで に前稿に述べ てある とこ ろ で あるが、 一再録 し おこ う。 本稿は真 言宗所 依の 読誦経典である 「般若理趣経」の 註釈三本を便覧風に列 挙 し、 各註釈問の相 違や特徴を把握 し、理 趣経の教理の 解 明に寄与せ ん とする もの で ある。 三本の註釈と は  一つ に はが 国の 真言密教 に おい て 理 趣 釈経》と、 経典名で呼ば れる ほ ど まで に 理 趣 経解釈の根 本と なっ てい る不空撰 『大 樂金剛不空眞實三昧耶經 般若 波羅 蜜多理趣 釋 』(「般 若 理 趣 釈 」)で ある。 これは不 空訳 『大 樂 金 剛不空 眞 實三 麼 耶經』(「般若理 趣 経」)の 註 釈で ある。 な お、 不空訳 「般若理 趣 経」に 対 応 す る チベ ッ ト訳 は 「百 五 十 頌理 趣経 」とする。

 

二 つ はチベ ッ ト訳に残るジュ ニ ミ ト ラ (智友〉作

AryaprajfiapatamitanayaSa

− tapa配 謐詬k 即k巨 『聖般 若波 羅蜜多趣 百五 十註釈 亅(「智 友 釈 」)で あ り、これ は 「百 五 十頌理 趣経」の註釈であ る が、全 訳を施さ れ た福田亮成博士に よ れ ば、そこ に用い れ た経典は別の類本の可能性が あるこ と が示 唆さ れて い る2)。

 

三つ 目 はーナ ンダガル バ 慶 喜 蔵 )作 Siparamaditka 『吉 祥最本初 広 釈』(「慶 喜 蔵 釈 」)で ある。 これ は所 謂金 剛 頂経 第六会とい わ れ る法 賢訳 『佛 説最上根 本 大 樂 金 剛不 空三 大 教 王 經』(「理 趣 広経 」) に対応する

SriparamadinfimamahfiyAnakalparEja

(「蔵 訳 理 趣 広 経 」)の 逐 語 釈で ある。 「理 趣 広 経 」、 「蔵訳理趣 広 経」に は 「百五 十頌理 趣 1) 福 田 亮 成 「理 趣 経の研 究 その成立と展 開」国書刊行 会 昭 和 62 年 pp.309−341 2)福田亮 成 「ヂュ ニ トラ著 般 若 波 羅 蜜 多 理 趣 百五十 註 釈の和 訳 」 東 洋 学 研 究   第 4、 S、6、7号 昭和45年〜48年

(2)

智山学 報 第五十六輯 経」が包 摂さ れ、経典自体は そ れ に曼薬 羅や瑜伽 儀 軌 等が付加 されて い る。 「慶喜 蔵 釈」は 「蔵訳 理趣 広経 」すべ て に亘っ てい るが、 「百 五 十頌理 趣 経」の部 分の 註釈の みを抽 出するこ と に よっ て もう一つ の 「般若理趣経」の註釈が で きあがるこ と となる。  これ ら 三本の註釈の便覧対照 につ い て は、   第一の 「般 若理趣 釈」は宮坂宥 勝博士の和 訳3)、 理 趣経研究の書 籍 や 論 文 に は 必ず論究さ れ る が、 こ こで は便覧の ため原文書 き下 し文 を掲 載 した。 その際 参考に したの は寛文十二 の版本の コ ピーで あ る。   第二 の 「智 友釈 」は福 田博士の全 訳がある が、 参考に さ せて頂きつ つ 筆 者が新た に 翻 訳 し た もの を載せ た。  第三 の 「慶 喜蔵釈 」は独 自に 翻 訳 し た。 「慶喜蔵釈 」は経文の 註 釈 部分に先 行 して 科文が施さ れ てい る が、 それ につ いて は福田博士の翻訳がある4)。  第一の 「般若理 趣釈」 と第二 の 「智 友釈 」は掲 載の 必 要はな く、「慶喜 蔵釈 」の み 掲載 すれ ば事 足 りる ことであるが、便 覧風にするこ と に より便利な とこ ろ も あ ろうか と、 紙幅の 無駄 を顧みず載せ た。 しか し、 「智友 釈 」、 「慶喜蔵 釈」 と も難解な部分が あ り、 大方の ご教示 を得ら れれ ば幸い で ある。 今回は 「初段 ・第二正説分」を掲 載し た。  

2

  和     訳  便 覧 風にする た め、 不 空 訳 「大 樂金 剛 不 空眞實三麼耶 經』(「般若理 趣 経」〉の経 文 (白文〉 とそのチベ ッ ト文 「百五十頌 理趣 経」(栂 尾に所 収 され たものを用い た)の和 訳と 対応するサ ン ス ク リッ ト文 っ た部分は イ タ リッ ク 〉、 法 賢訳 「理趣広 経」の書下 し文 と 「蔵訳 理趣 広経」(「蔵 訳 」)の和 訳、 「般 若理趣 釈 」、 「智 友釈」、 「慶喜蔵釈」の 順 で 記 して行 くが、 牒文はゴ シ ッ ク で表わし た。 なお、十七清浄句の部 分に関しては 「義 述」を加え た。 略号

匯 ヨ  

不 空訳 『大樂金剛不 空眞實三麼耶經』正蔵 8巻、 243番 〉

匱蚕 ヨ

絢 ・

p

・ajfiapdr・mitan ・ydS・at・P・ii・AS・tika

       『聖 般若波 羅蜜多理 趣 百五 十頌』        D  デ ル ゲ版  東北 目録  

No

489

(台北 版 No ,487・Vel.17)        P  北京 版   大谷 目録  No .121〜VoL5 栂尾  栂尾雲 『理 趣密教文化研究所 昭和

45

年 所収 3)宮 坂 宥 勝 「【講説】理 趣経 『理 趣釈 』併録」四季社 平成 17年 4)福田亮成 「理 趣経の研 究 その成 立 と展開」 国 書 刊 行 会 昭 和62年 pp.194−・214

(3)

       般 若理趣 経の 註釈的 研究 二 高橋

匯垂劃  

法 賢訳 『佛説 最 上根本 大 樂 金 剛不空 三昧大 教 王經 』(大正蔵 呂巻、244 番)

 

S

・addhakar ・・  ・・, Ri・ ・hen b・afi・

P

。 訳 :

Srtp

・・amadi ・anla−

    

maha nakalpar

 

吉祥最初 と称す大乘儀軌王』       D  デ ル ゲ版  東北 目録  No .487 (台北 版 N・.485・VoL17 )

      P  北京版    大谷目録  

No

119

 

VeL5

 

不空 撰 『大 樂 金 剛不空眞實三昧耶經般若波 羅蜜 多理趣 釋』(大正蔵 1g 巻、1003

        番)

  

失 訳 :

Jfiatiamitra

AryaprajfifipaiamitatiayaSatapafica

≦atikatika

      『聖 般若波 羅 蜜多理 趣百五十註釈 』

      D  デ ル ゲ版  東北 目録 No .2647 (台 北 版 N。.2653・Vol.3 

     

P

北京 版    大 谷目録  

No

3471

VoL77

Sraddhakaravarrnan

, 

Rin

 chen  

bsafi

 

po

Anandagarbha

pramdi

ik巨

      『吉 祥最上本初 広 釈』       D  デ ル ゲ版  東 北 目録  No 、2512 (台 北 版 N・.2516・V・1.29)      

P

 北京 版    大 谷目録  

No

3335

Vol

72

TS vS

堀 内寛仁校 訂 「梵 文初 会金剛頂 経』上 ・下 昭和 49、

58

年 高野 山大学密 教 文化研究所 Karmavajra, Gshon

 nu tshul khrim 訳 ;Vajragikharamah五

guhyayogatantra

D  デルゲ版  東北 目録  

No

480

(台北 版 No .478・VoL17) P  北 京 版     大 谷 目 録  

No

113

 

Vbl

5

不空 訳 『

若波 羅蜜多理 趣經大樂不空 三昧 眞實金 剛薩墟菩 薩等一十 七 聖 大 曼 荼羅義述亅(大正蔵 19 卷 1004 番) 初段 ・第二 正説 分 【承 前】 §

11

清浄句の門 (再 録 )

丕至 

  

説一切 法清 淨句 門。

 

す なわ ち、般若波 羅 蜜の理趣で あ り、一切法の 自性 清 浄 なる門 と称せ ら れ る …    も を説示し た 。

(…

  

sarvadharmanayavi6uddhinirh 翫a de忌ayati sma

圜  

一切 清淨の 法 門 を 宣 説 す。 …

 

  

一切法の 自性 清浄な る門と称 する、の 般若波羅蜜 の 理 趣 を お

示 し になりました。

(4)

智山学報第五十 六輯 に於て染ぜ ざるが故に、廣く有 情を利 樂する事を作すが故に、 速に無量の三摩 地解脱 智慧を 證する が故に、 速に廣大の 福徳の資 糧を集むるが故に、一切の魔 羅毘那夜 迦の 衆を 超 越 して、速 疾 に 世 出 世 間の勝願 滿足 するこ とを得る が故に、 如來 大悲を もて最 上乘種性の を愍 念するこ とを説 き、 十七種の清 淨瑜伽の 三摩地 を説き た まう。 是 の 故に諸の經に、三界は唯心 なりとも、 心 清淨 なる に由っ て有情清 淨 な り。 心 雜染 な る に由っ て有情雜 染な りとも説き、又、 有 情界は 是 れ菩薩の淨妙佛 國土 な りと説 きた まう。 修するに由っ て十七清 淨句 門を得る是れな り。

 

爾の 時、毘 盧 遮那 如 來他 化 自在天王宮に於て、 諸の大 菩 薩 等の爲 に此の般 若 波 羅蜜の甚 深 なる理趣の十七清淨句 門を説き た まう。 蓋 し 是 れ 十 七 大菩薩の三摩地の 句義なり。 能 く住持する者 をし て疾 くに菩提に至 らしめ んが爲の故 な り。 遂に は此の 十七 聖の位の 大 曼茶 羅の如來 諸の 大士等の與に説 く所の語 を演べ たまう。 此に依て 修行せ ば速 疾に成就 す。

韲ヨ 

経に …

  

一切法の自性清浄なる門と称するこの般若波羅蜜の理趣 を説い た とあるの は、 仏 菩薩は有情の 利益の た めに、増 大せる無数の 十二 部の經典 をま とめて 説 くけ れ ども、 その ようにまた、 空性の智 と般 若 波羅 蜜は無二の義で ある と広 く示 す こ と と、 所 作 [タン トラ]の経 典の理解 と、 食物 を清 浄にするこ とと、 [過 ・現 ・ 未 ]の 三時に取 着するがご と き が ない な ら ば、 住処におい て相 を 取 着せ ざる が故に 汚 れる こ とな く、 食物におい て相を取ら ざ れ ば浄 ・不浄の区別は なく、 時に おい て相を 取 らざれ ば一切の 時に おいて平等となるので 三 時の 区別はない。 …  一切諸 法は自 性 か らして 、 [また]、 自体か ら して空で あ り、 成 ずるこ と な きが故に清浄な る門と称 する般若波羅蜜平等瑜伽の義 を説 くが故である。

法を示 し て と 云 っ て、正法を示 すこ と を な して、 説 時 を なすとい う意 味で ある 。 特 に 名 前が その ように 付 けら れ たの は、 如 実 を具足 する 法 を示 す な ら ば、 …  特にな して今は名前 その もの を示すべ き為に 一切 法自性か ら し清浄 な 門で ある と 云っ て、 一 切法は妙楽等と 云うの であ る]。 そ れ らの 自性 清浄とは、 そ れ らの勝義に よ れ ば非存在の 自性であっ て、その 門と は 入 る場所で あ る。 【訳 註

1

第二 正説 分はこ こか ら 始 ま る が、 経 文 自体は第 一縁 起 分 (序説)の 末尾 に繋 がっ てい る の で前稿の終 りに全 文を載せてある。 こ こ で は説一切 法清浄句門の註釈の 部分のみ を 再 録 し た。 な お、 こ こで い う清 浄と は染汚に対 する清 浄とい う意味で はな く、清 浄 =空とい うこ とで あ り、智 友 ・慶喜蔵の註釈に も その義を認め るこ と がで き る。 ち なみ に、 『智光 明荘厳 経』(木村 高尉 ・大 塚 伸 夫 ・木村 秀 明 ・高橋 尚 夫 「梵 文校 訂 階 光 明荘 厳 經 』」 小 野 塚 幾 澄博士古稀 記 念 論 文集 『空海の思想と文化 』山喜 房   平成 16年  所 収 ) に、清 浄の意味を次の ように記して いる。   文殊 師利よ、 清浄 と は 空性で あ る (

Sany

(5)

般若 理趣経の註釈 的研 究 二 高橋

(prakvtir viSuddhib )、  清 浄と は無 戲論で ある (aprapaficab  Suddhih)、   彳青浄とは真 如で あ

る (tathata vl忌uddhi )、   清 浄と は虚 空である (akaSarp C. uddhill )、   清 浄とは 内である (adhy −

atmat pariSuddhi4)、  清 浄 と は 蘊 を 了知す るこ とで あ る (sk。ndhapa ,ijftE 

9uddhi

)、 清 浄と は過去に於ける滅 盡を知る こ とで ある (atTte kVttyajfiEna、挿 uddhi 尊〉。 (§35 xvi )

§12 十 七清浄句

   妙楽 (妙 適 )

匠璽ヨ 

所 謂妙適清淨 句是普 薩位。

EIEI

妙 楽 (妙適) の 清 浄 な る 位、そ れはすな わち菩 薩の位で ある。

    (surataviluddhipadam  etad  yaduta bodhisattvapadam )

匯鋼  

所 謂 る妙樂清 淨の句 、是 れ即 ち菩 提の句。

妙楽 清淨の位 、そ れ はすな わち菩 薩の位である。

 

經に云く。 所 謂 る妙 適清 淨の句、 是れ菩 薩の 位な り と は、妙適 と は、即 ち、 梵音の蘇 囃多 な り。 蘇 曜多と は、世 間の那 羅那 哩の 娯樂の 如 し。 金剛 薩堙 も亦た 是 れ 蘇 囎多な り。 無縁の大 悲 を以っ て遍 く無 盡の衆生界 を縁 じて安 樂利益を得し めん と 願っ て、 心に曾っ て休 息なく、自 他 平等に して無二 な り。 故に蘇囃多と名つ くるの み。 金剛薩墟瑜伽の 三摩 地を修する に由っ て、 妙適清 淨の句を得。 是の 故に普賢 菩薩の位 を獲 得す。

何 を か一十 七 聖 と爲 す。 其の 一大 樂昧 眞 實剛 菩薩 。 蓋 し諸佛普 賢の 身、 器世 間及び有情 世 間に周遍するこ と を表す。 其の 無邊 自在の理常に 體寂に して不 妄不壞なる を以ての故に是の名有 り。 左に金 剛鈴を 持する は是れ適悦の 義 な り。 腰の左に置く は 大 我 を表す。 右に五股 金剛杵 を持するは是れ 五智の 義な り。 拳を轉じてに向 くるは衆生に示 す。 曼茶 羅の其の 中位に據る に於て而 も其の衆相を 總 ず。 是れ を除て而も 一十 六 位有 り。 蓋し 正覺の徑 路 な り。

般 若 波羅 蜜の義とは何で あるか と な ら ば、経にす なわち、 妙 適清 浄の 句 、そ れ は す な わ ち菩 薩の句である とある の は、

 

(1切衆生 を無上の 菩提に 渡 すこ とに (277・b)歓 喜する が 故に、声聞を 細心の 法     によ り高め る こ と と、

 

(2) 一切 法空 性の智と般 若波 羅蜜 との平 等 瑜伽に よっ て よく渡 して 清 浄な歓 喜 を     (得 るこ とと)、

 

(3) 金 剛 (男) と蓮華 (女 )の曼 陀 羅行に よ る世 間の歓 喜の 円満に よっ て、 本 尊と

  

十方の一切聖者に回向する な ら ば、一切 聖者に お い て も自と他とい 区 別 な き平    等の 大き な喜び (妙 適 〉がある こ と と、  (4> ま た、我 と我所 な き平等に よっ て無量の聖者に 回向する な らば、 福徳の積 集と

(6)

智 山学報 第五 十六輯     なる こ と。  是の如き行に住 するのが菩 薩の行で あ り、如 実の義を説 くの が菩薩の句である。 句 に随順 して実 行するの が菩提である。

匳喜國 

そ れ は ま た、 どの ように現 証する か と な ら ば、 す なわち、 (68b)この よ うに 妙 楽清浄の位、 それはすな わち菩 薩の位である云々 であっ て、 聞 ・匚思 ・修 ]等の般 若に よっ て い か に 聞 く か と な ら ば、そこに おい て、この よ う に とい っ て、この ような 名前の祕 密の般 若波 羅蜜の理趣がある が、 それをお示 し になるの である。 その うち、 妙 楽 等の真 実の 相が 般 若で ある。 その彼岸 に到 達して (瞬   晦 )行 くのが般 若 波羅 蜜で あっ て、 菩 提 心等の証得を自性 と してお り、解脱へ の殊勝の道 とい う意 味で ある。 その理趣は前に説い 通 りで あ り、 それに よっ て獲 得 されたもの 、 それを示すこ と が 開示 する こ とで ある。 その 説示 をなすとこ ろの 般若 波羅 蜜、 そ れ はまた、 何である か と な らば、 こ の ように云々 とい うの であっ て、こ の ように とい うの は例を示す 意味で ある。 非 常に清淨で あるなら ば、 妙楽で あっ て、 所 取 ・能取の分別か ら離れ た不可得 の大 悲によ る愛欲 を 自性とするもの で あっ て、 真如より姿・形 を残 り無 く示し たの で、 後の究竟に 至 る まで有 情の為に行 じ るの で ある。 是の如 く世尊はその よ うに妙楽であ る と言っ て も、  「過失 無 く、 常 に 生 じ、 すべ ての愛 欲 に 随喜 し、 そ れ に よっ て祕密 世 尊は大 貪 欲で あ り、 大 歓喜で あ る」(出 典不 詳 ) と説か れるか らである。 その真 如における第一の理趣は清 浄であ る。 その位は 四つ で あ り、 十真 実の 自性 を有 する。 そ れ は とい うの は前と結びつ ける [言 葉で ある]。 す なわちとい の は言葉の接 続 詞で あっ て、 集約の言葉として追加して入れたの である。 そ れは また、波羅 蜜と結びつ くの である。 菩提の 自性における有 情が菩薩で ある と陳 述 して、 その結果を 自性 とする た めで ある。 その位 (pada) と は有 情 を調伏 する位で ある。 その意味は次の ように示 して、 世尊金剛薩 堙が菩 提の (69a) 自性の位にある 者、 それが有情たちの調伏の 位で あっ て、 妙楽清浄の位に よっ て調伏さ れ るべ きもの たち を調伏するの であ る。 そ れ に よ る な ら ば、 妙楽清 浄の位に よっ て金 剛薩唾の 自性

(rdo sems  dpa・i ho b。 fiid) を説い たの である。

【訳註】pada (句、位 ) とい う語は足どり、 足 跡とい う意味で ある が、偈 頌 を成立 さ せ る章句で もあ り、地位 、境 地 を意 味する言葉で もある。 意識 的にか不空 は同じ言葉を 「句」と 「位」の二 つ に訳 し分 けてい る。 ま た、 「百 五 十頌理趣 経 」で は位 (gnas) と し、 智 友は句 (tshig) と し、 慶喜蔵は位 (gnas ) と訳してい るが、い つ れも 「境 地 」の 意味であ る。

 

また、 智 友釈に頻繁に出て くる 「 一 切法空性智般若波 羅蜜平 等瑜伽 」 (ch。s・thams・cad

(7)

般 若理趣経の註 釈的研 究 二 高橋) が、 一切 法空性 智 と般 若波 羅 蜜の語を結ぶ 助 詞が、 の (kyi)、 に よ っ て (kyis)、 と (dah)等非 常に 不安定である。 拙訳 に おい て は 一 切法 空性智 を 「 切 諸 法 は 空で あ る との認 知」体 有) と解し、般若 波羅 蜜を 「空智の実践 」(修 生) と捉 え、 平等 瑜伽と は 理念と実践と が一体 と なっ た状 態と考え、 「一切法空性の 智と (dafi)般若波羅蜜の 平 等瑜伽 (結 合 )」とい う釈に統一した。 大方の ご教 示を得たい 。   貪欲

欲箭清 淨 句 是菩薩 位 。

匡垂ヨヨ

貪欲の箭の清浄 な位、 それはすなわ ち菩 薩の位である。

    (ra−gaka−ndavi ,“uddhipadam  etad  yaduta bodhisattvapadam )

貪 欲清 淨の句、 是 れ即 ち菩提の句。

欲 箭清 浄の位、 それはすなわ ち菩 薩の位である。

 

欲箭清淨の句 、是 れ菩 薩の位な り と は。 慾 金 剛 瑜 伽 の 三 摩 地 を 修する に 由っ て慾 箭清淨の句を得。 是の故に慾金剛菩 薩の 位を獲得 す。

匳姻  

其の 二 は所 謂る意生 金剛菩 薩な り。 大 悲の欲 箭 を以て二 乘の 心 を害 す。 所以 に手に是のて而 も其の欲離倶幻平等の智身を現ず。

 

経に、 貪欲の 箭清 浄の句、 それ はすな わ ち菩薩の句で あ る と あ るの は、 一 切 有情に対 し、利益 と守 護の意の箭を先と し随順 する こと と、空性の智と般若 波羅蜜と の平 等瑜伽の 意の箭 を先と し随行する こ と と、 五欲 徳 (色 ・聲 ・香 ・味 ・触 ) と五 甘 露 等と相応 す るこ と と、 平等性の箭を 先 と して 享受を 為 す な ら ば、 [清浄 な る がコ 故に で ある。

匳薑調

貪 著とは、金剛薩堙 等が観 修 (bhavanfi)に対して熱 く執着 する こ とで あっ て、 「貪 著が三昧耶である と説 か れ るの は、 心に適 う法へ の愛 着で ある」(出 典 不詳 ) と説 か れ る故に。 貪著その もの が矢で あ るこ と に よ る な ら ば、貪著の矢で あっ て、鋭 く貫 くこ とに よっ て矢と 云 わ れる と説 くこ と と、ま た、タ ン トラその もの に、   「一切の最勝を貫 くこ とによっ て一貫性であ る」(出典 個 所不詳 ) と説か れ る故に。 その清浄云々 とい うの は 以前の如 し。 こ の言葉に よっ て ま た、 金剛

意 生 (rd。 

ile

 yid las byufi ba, vajraman 。bhava−)の 義を示し たのである。

訳註

義述に意生金剛 菩薩

i

とあ り、 慶喜蔵に金剛意生 とある の に 一 。 すな わ ち 有 情 済度の 意 を 生 じ るこ とが箭の如 くであるのが 貪欲清 浄で ある。   接 触

觸 清淨句、 是菩薩位 。

(8)

智 山学報 第五十六輯

 

接触の清 浄 な位、 それ はすな わ ち菩 薩の位で あ る。

    (sparSavis ’L“ldhipatinm etad  yaduta bedhisattvapadbm)

觸清淨の、 是 れ即 ち菩提の句。 (  味の後に出る)

鬮  

触清浄の位、 それ はすなわち菩薩の位である。

 

觸 清 淨の是 れ菩薩の 位な りと は、 金 剛髻離吉羅瑜伽の 三摩地 を修す る に 由っ て、 觸清 淨の句を得。 是の故に金剛髻 離吉 羅菩薩の位を獲得 す。

其の 三 は所謂 る 髻 利吉羅金 剛菩 薩な り。 中國の言 に於て は觸 と名つ く。 衆生 を 捨てずして必ず解脱せ し む る を 以て の 故に。 觸の性即ち菩提なりと 明 さ ん と欲する が故に。 所以に抱持の相に住 して而 も其の觸 淨倶 幻平 等の智身を現 ず。

甌  

(  味清浄の句の後に出る。 再 録してお く)経に、 触 清 浄の句、 それはす な わち菩 薩の句で あ るとあるの は、 一 切法 空性の 智と般 若波羅蜜の平等性に瑜伽 する とき、 楽 と苦の二 がある身の一切のは本 来空であ る が故に、楽・不楽の差別の一切の 区 分 も 楽の最勝なるが故に、 本尊に供養し、 廻向するな らば、 煩惱の縛とは な らず、 福徳と なるなら ば、清 浄なる が故に である。

匯亶國 

触 清 浄云々 とい の につ い て、 この様に観 修 を具足する こ とにおい て、 金 剛薩唾等を 目の 当た り にするの が触で あ る。 次の ように 「 一安楽最 勝悉 地」 と 説か れて い に。 残 りは 以前の如 し。 これ に よっ て ま た、 金剛 峰 (rd。rje 鵬 em 。 can )の 自性と説か れる の で ある。   愛縛

1

丕空]

愛 縛清淨 句是菩 薩位。

愛縛の清浄な 位、そ れ は す な わ ち菩薩の位で あ る。

    (priyabandhanavis’uddhipadam  etad  yaduta bodhisattvapadam >

鬮  

親 法清淨の句、 是 れ即 ち菩 提の句

匱函 

愛 縛清 浄の位 、 それ はすなわち菩 薩の位で あ る。

 

愛 縛清 淨の句 是 れ菩 薩の 位 なり とは、 愛 縛金剛 瑜 伽の 三 摩 地 を修 する に 由っ て 、 愛 縛清 淨の句 を得。 是の 故に愛 金 剛菩薩の位 を獲 得す。

 

其の 四 は所謂る悲愍金剛菩薩な り。 悲愍 を以て の故に愛念の繩 を以て普く衆 生の 未だ菩 提に至らざるを縛して終に放 捨せ ず。 亦た摩竭 大魚の呑 啗する に遇 う所 一 た び 口 に 入 已て 更 に免る る者の き が 如 し。 所以 に 此の摩竭 魚 幢を持 して而 も其の 愛縛捨離倶 幻平等の智 身を現ず。

匯國  

経に愛 縛 清浄の 句、 それはす な わ ち菩薩の句であると出てい るの は、 波 羅 蜜 の対象に親近する が故に愛で ある。 捨て ざ る が故に縛で ある。 自の般若 と出会っ て平

(9)

般若理 趣 経の 研 究高橋 ) 等性の の廻向と観 察を誤るこ と が ない な ら ば、 清淨 なる が故に である。

i

亶國 

愛縛 清浄云々 につ い て 、金剛薩堙等の 白性を 目の 当た りに して輪廻の 限 り 棄てない のが愛である。 その もの を縛す るこ と、す な わ ち  「愛縛 すること摩竭の如 し。 そ れ故 、そ れ は摩竭を標 識とする」咄 典不詳 ) と説か れてい る故に。 残 りは前と同じである。 そ れ に よっ てもまた、 金剛憶 念 (,de ,

j

。 dran pa>の義を 示 し たの で あ る。 【訳註 】義述 と慶 喜蔵は共に摩竭魚を標識 と して い る。   自在力

囮  

一切自在 主清 淨句是菩薩位。

一切 自在主 の清浄な位 、 、そ れはすな わ ち菩 薩の位で ある。

       (sarveSt ・aravis ’ uddhipadam  etad yaduta bodhisattvapadam)

匯圖  

一切富樂 清淨の句、 是 れ 即 ち苦 提の句。

鬮  

一切 にお け る自在と 力 清 浄 の 位、そ れ は す な わ ち菩 薩の位で あ る。

 

一切 自在 主 清淨の句 是 れ菩 薩の位 なりとは。 金 剛傲 瑜 伽の 三摩地 を修 する に 由っ て、一切自在主清 淨の句を得。 是の故に金剛傲 菩薩の 位を獲得 す。

 

其の 五 は所 謂る金 剛慢 菩 薩な り。 無 過上 智 を以て 一衆 生を し 悉 く毘 盧 遮 那如來の 體 を證せ し む。 世出世 間に於て皆な 自在を得。 所以に傲誕の威 儀に住して而 も其の我 無我倶 幻 平等の 智身を現ず。

區 ヨ 

経に一切享 楽 自在清 浄の句、そ れ は す な わ ち菩 薩の句で あ る と あ るの は、 世 間の一切の享楽を 有 す るの は 転輪王で あっ て、大 自 在に よるな ら ば、空性の智と 般若 波 羅 蜜 との平等瑜 伽による な ら ば、五欲に相応 して世 間の一切の享楽を有 すとも、煩 惱の縛とな らない。 清 浄 なる が故である。 [また、] 転輪王 等の世 間の人の 一 享楽 もま た 最 勝で完 全 であ る な ら ば、 [そ れ も清浄 なるが 故 に で ある。]

憂萋

調  

一切における自在 云々 につ いて、 同様に金 剛 薩墟 等の 自性 を棄てずに、 愛 縛に よっ て縛す る瑜伽 に よっ て、成所 作智に よっ て 、一切の世 聞 と 出 世間の 円満具 足 を 輪廻する 限 り保持 するな ら ば、一切に お ける 自在 と支 配 (dbafi byed pa)[力 ] と説 か れ るの で あ る。 残 り は 以前の 如 し。 そ れ に よっ て ま た、 金剛慢 女 (。d。 rje  sfi。m 、 ma の義を 示 し たの であ る。 (69 b)次の ように 「左慢に よっ て支 配 を な す」 と 説 か れ てい るか らである。 そ れ故、彼は慢に よっ て高慢な態 度と言わ れるの である。 そこに おい て また、 その 自性と は成所作 智を自性 とする もの であるが故に、精進波羅蜜(brts。n ・

(10)

智山報第五十六 【訳 註】理趣 釈 は金 剛傲 菩薩、 義 述は 金剛慢菩薩、 慶 喜 蔵は金 剛慢 女の 義 を示す とい う。   見

匣空

1

見 清淨句是菩薩位。

匡蘆 ]

見の清 浄 な位、 それはす なわ ち菩薩の位で あ る。

    (drstiviguddhipadam etad yaduta bodhisattvapadam>

匯鋼  

見 清淨の句、 是 れ即 ち普提の句。

見 清浄の位、 それ はす なわ ち菩薩の位 で ある。

匡魎

 

見清淨の句是れ菩 薩の位 なり とは、意生 金剛瑜 伽の 三摩地 を修す る に由っ て、見 清 淨の句を 得。 是の 故に意生 金剛菩薩の 位を獲得 す。

 

其の六 は所謂る金剛 見菩 薩なり。 寂 照大 慧の眼 を以て雜 染 界 ・妙 淨 、 眞諦 ・俗 諦に於て、 唯だ 一切法勝 義眞 。 所以 に意生の契 を 持 して而 も其の三昧の身 を現 ず。

経に見 清浄の句 、そ れ は す な わ ち菩薩の 句である とある の は、空性の 智 と般 若波羅蜜との 平等 瑜伽に よる な ら ば 正 見であっ て、種々に行 じ て も煩 腦の縛 とはな ら ない な ら ば、 清浄なるが故にで ある。

匳亶國

見 清 浄の位云々 につ い て、 こ の よ うに説かれた欲箭に よっ て法界を観 察 し て、 一切 法は無我で ある と見る のが見で ある。 他の ものは推 して 知るべ し。 それ に よっ て また、 [金剛]嬉 (sgeg m 。)の義と説 くの で ある。 【訳 註】理 趣釈は意 生金 剛菩薩、 義述は金剛見菩 薩、慶 喜蔵は 金 剛嬉菩 薩とす る。   適悦

圃  

適 悦 清淨句是菩 薩 位。

匡亟 ]

適悦の 清 浄 な 位、 それ はすなわち菩 薩の位で ある。

    (rativi≦uddhipadam  etad  yaduta bodhisattvapadarn)

匯劑 

愛 樂清 淨の句、 是れ即ち菩提の句。

歓喜 〔適悦)清 浄の位 、それ はすな わち菩 薩の位で ある。

 

適悦清淨の句是れ菩薩の位 な りとは、 適 悦金剛 瑜 伽の 三摩地 を修 する に 由っ て適悦清 淨の句を得。 是の故に適悦金剛菩薩の 位を獲得す。

匱垂]

其の 七 は所謂 る金 剛 適悦 菩 薩な り。 身塵に於て而 も適悦清淨を得。 生 死解脱 に於て厭わず住せず。 所以に觸 金 剛 相 を 持 して而 も其の三 昧の 身 を現ず。

(11)

般 若理趣経の註 釈 的研究 二 (高橋)

 

経 に 適悦清 浄な句、 それはす な わ ち菩 薩の句で あ るとあ るの は、 常 に説 くこ と と一致する。 略 説する に、 一切 法 空性 に おいて一味の 見解 と如実の廻 向による な ら ば、 清 浄なるが故にで あ る。

 

歓喜 (適悦 )清浄の位 云々につ い て、 以前に説い た 理 趣 に よっ て金剛 薩

i

堙等 の 自性を 目の 当 た り にする触清 浄より無漏の歓喜を 生 じる であろ う。 他の もの は推 し て知るべ し。 それ に よっ て また、 [金剛]笑 (bshad pa>の義を説 くの である。   渇愛

丕空

愛清淨句是菩薩位。

亟 ]

渇愛の清 浄な位、 それはす なわ ち菩薩の位で あ る。

        (trsnfivi螽uddhipadam  etad yaduta bodhisattvapadam)

匯賢

1

染法清淨の句、 是 れ即 ち菩提の句。

匳訳】

[渇]愛清 浄の 位 、 そ れ は す な わ ち菩薩の位で あ る。

 

愛清 淨の句 是れ菩 薩の位な り と は、 貪金 剛 瑜 伽の 三摩地 を修 する に 由っ て 愛清淨の句を 得。 是の故に貪金 剛菩薩の位を獲 得す。

鬮  

其の八 は所 謂る金剛 貪菩 薩 な り。 貪愛に即 して而 も清 淨 を得る が故に。 遂 に 能 く貪を 以て而 も一切の功徳 智慧 を積 集 して疾 く菩 提 を 證 す。 貪愛性 に住する に 由 る が故に。 所以 に悲愍の 契を 持 して而 も其の 三昧の 身を現ず。

匯 ]

経に [渇]愛の清 浄な句、 それは すな わ ち菩 薩の 句で ある とあるの は、   空 性の 智と般 若波羅蜜に平等瑜伽せ る愛と、   五甘露 と五欲徳の 相に不着不離に平等瑜 伽せ る愛と、  一切 衆生 を無上 [菩提 ]に渡すべ き方便にお ける愛に よ るな ら ば、 清 浄なるが故に で ある。

i

亶國 

愛清 浄の位云々につ いて 、 金 剛 憶 念の 自性の愛 縛の 未来の欲を棄て ない こ と で あ る。 残 りは推 して知るべ し。 それに よっ て また、 金 剛歌 賢 女 (rdo 巾 glu m  an ma )の義 と説かれ るの である。   慢

囮  

慢清 淨句 是菩 薩位。

慢の清浄 な位、 それは すなわ ち菩 薩の位である。

    (garvavis’uddhipadnm  etad yaduta bodhiasattvapadam)

慢清浄の位 、そ れ は す な わ ち菩 薩の位 であ る。

(12)

智山学 報第五 十六輯 慢清 淨の 句 を得。 是の故に金剛慢 菩薩の位を獲 得す。

麺国 

其の 九 は所謂る金 剛 自在菩 薩 な り。 三界に 出 入する に自在に して 無畏 な り。 生死涅槃に於て而 も大我の體 を得。 所 以 に金剛慢の相に し て而 も其の 三 昧の 身を 現ず。

凾  

経に慢 清 浄 な句、 そ れは す なわ ち菩薩の句で あ るとあるの は、 空 性の智 と般 若波羅蜜 との [平等 瑜伽によ り]、 大 印を有 すと 雖 も煩惱の 縛と は な らず、 一切 法 自 性 平等性に よ れ ば、清浄な る が故に で あ る。

慢云々につ い て、 自在主の慢に よっ て無 尽の 三 界に おい て うご め く有 情界 を征 服 して照する もの、 そ れ が慢で ある。 残 りは推 して知るべ し。 是れ によっ て ま た、金 剛舞賢女 (rdo g肛 m  an ma )の義と説か れ るの である。   荘 厳

圏  

莊嚴清淨 句是 菩 薩 位。

匝 ヨ

荘 厳 の 清浄な位、 それはす なわ ち菩 薩の位で あ る。

    

(bhUsanavi≦uddhipadam  etad yaduta bodhisattvapadam>

匯圓 

莊嚴 清淨の句、 是 れ即 ち菩提の句。

鬮  

荘厳清 浄の位、 それはす なわ ち菩薩の位で あ る。

匡壅姻  

荘嚴清淨の句是れ菩薩の位 なり と は、 春金剛瑜 伽の三摩地 を修 する に由っ て、 莊嚴清 淨の 句 を得。 是の故に春金剛 菩薩の位を獲得す。

 

其の十 は所謂 る金 剛 春菩 薩 な り。 能 く菩 提の覺花を以て供養雲 海 を起 し、 亦 た方便を 以て衆生に授與 して功徳の利 を作さ し む。 花は是れ春の事なるを 以て遂に以 て 之 に名つ 。 故に亦た花を持して以て 其の 契 と爲す。

 

経に、 荘 厳の清浄 な句、 それはすなわ ち菩 薩の句で あ る とあるのは、 自身の 大 印の 身は平等性であ る が故に、 宝珠や衣服 等であっ て、普 賢行の 一 厳 も聖 な る本尊に対 する施物で ある。 本尊と 十方の諸 仏に於て も差 別 な く、 一聖者 て (278b )平等に 回向するこ と によっ て福 徳の積 集と な り、煩悩の縛と な ら ない こ と に よ るなら ば、 清 浄な る が 故 にで あ る。

i

亶國 

荘厳 清浄の位云々 につ い て、[三 十 七]覚支と禅定の花の飾 りに よ っ て見解 が清浄となる。 それ に よっ て見清浄の位と 云 わ れ る。 他の もの は推 して知るべ し。 そ れ に よっ て金 剛花 女 (rdo 

Oe

 me  tog ma )の義と説か れる の で ある。   悦 意

匯 ヨ 

意滋 澤清淨句是菩薩位。

悦意の清浄 な位、 それはす なわ ち菩薩の位である。

(13)

般若 理趣経の註釈 的研 究 二 (高橋)

 

悦意 清淨の句、 是れ 即 ち菩 提の句。

匳亟]

悦意清 浄 の 位 、そ れ は す な わ ち菩 薩の位で あ る。

 

意滋 澤清淨の句是れ菩薩の位 な り と は、雲 金剛 瑜 伽の 三摩地 を修 す るに 由っ て、 意滋澤 清淨の句を得。 亦は喜 悦清 淨句と云 う。 是の故に雲金 剛菩 薩の位 を獲 得す。

 

其の十一は所 謂る金剛雲菩 薩なり。 能 く法澤 慈 雲を 以て 含識を滋 潤 し、 亦た 方便を以 て諸の 身心に授 く。 無始 無明の 臭穢不善を し て化 して 無量の 供養 香雲 と成さ し む。 鑪煙 雲に像る を以て遂に 以て號と爲す。 故に焚香の器 を持し て 以 て契と爲 す。

匯凾  

経に、 貪清浄の句はす な わ ち 菩 薩の句 な り と ある の は、常に貪欲の 箭の 説 と 同 じで あっ て、 要するに空性の智と 般若 波羅蜜の平 等性に瑜伽 する と き、貪 欲を 出現 さ せ る種々 の相を行じて も、 匚一見] 有情の 無 明の行と同じで あっ て も、煩惱の 縛 と は な ら ない こ とに よるな ら ば、清浄なるが故に である。   経に、 瞋清 浄の句はすなわち菩 薩の句である とあるの は、 一切 法空性 般 若波 羅蜜に 平等瑜伽 す れ ば、調 伏 を な す と き、粗 暴 な 有 情の調伏 と 苦 しみ の住処に住 して 生 れる者の廻 向に よっ て瞋恚 を出現する法 を行じて も、 有情の 無明の行とは 同じで は な く、 煩 惱の縛 と は な ら ない な ら ば、 清浄 な る が故に で あ る。   経に、 癡 清浄の句はす な わ ち菩薩の句で あ るとあ るの は、 空 性の 智 と [般 若 波 羅 蜜]に 平等瑜伽 す る と き、 自と他 を 区 別する 相 を取 ら ない の で、 [例 え]種々 の 相 を 行 じて も、顛 倒の癡で は ない無智 嘸 分 別 智)の 理趣に よっ て知る な ら ば、清 浄な る が故に である。   経に、 一切清浄の句は す な わ ち菩薩の句で あ る と あ るの は、 一切法空性の智と 般若 波羅 蜜に平 等瑜伽 する とき、 六根 ・六境 等の 一切 を行 、 正見と誤 りな き廻 向に よっ て煩惱の縛と はならず、 こ れ らの行はまた、 福徳の積集となるな らば、 清浄 なる が故にで ある。  経 に、 胎 清 浄 の句は す な わ ち菩薩の句な り と あ るの は、 空 性の 智 と 般 若 波 羅 蜜 に 平 等瑜伽 すれ ば、 菩 薩と如來の身と種々 の供 養の光明を放っ て、供 養称 賛と喜 び を捧げ る こ とに よっ て、 煩惱の縛 とならない なら ば、 清浄 なる喜びの故に で ある。 一行相に お い て は、 その理趣の如 く行 じる結 果は また、 持明尊 者の菩 提の 住処となる であろ う。  経 に、 相 清浄の句はすな わ ち菩薩の句な り と出て いるの は、 空性の 智と般若 波羅 蜜 の平等 性に住 する とき、一切法の共相と自相とにおいて行 じて も、その もの は 区別な く平等性な る が故に、 相に よっ て縛さ れ た煩惱と はな らない。 清 浄なるが 故に で ある。  経に、 意清 浄 な句はす なわち菩 薩の句な り と あ るのは、空性の智と般若 波羅蜜の平 等性に瑜伽し、 大 印の 身 佼 合 身 )に よっ て悦 楽 と歓 喜と心 喜のすべ て も本尊に供 養 する と同様に、本 尊と一切 如 來 に も差別 な き が故に、 一聖者 し て も供養廻 向

(14)

智 山学報 第五十 六輯 し、 [ま た、]意歓喜 と悦 楽の 享受が 一切衆 っ て も受け取ら れ、 廻向さ れるな ら ば、 自の意歓 喜と煩 惱の縛と な ら ない こ と に よっ て、 誰かに歓喜をなす 縁 もま た福徳 を得る で あ ろうな ら ば、 清浄 なるが故に である。

 

悦 意 清浄の位云 々 につ い て、 慧に よっ て 一 切法は無 我で ある と見 れば歓 喜 を 生 じ るであろ う。 それ に よっ て般 若波 羅蜜は毒では ない と 云 わ れ る。 残 りは推 して 知るべ し。 《金剛香女 ?》

【訳註】智友釈に は貪 (rd。d chags )、 瞋 (she ・sdah )、 癡 (gti mug )、

(thams  cas)、胎 (md ・a)、 相 〔mtShan ・nid)の五句が増句さ れ てい る。   光明

匿曁ヨ

光明清淨 句 是菩薩 位。

 

光 明 の清 浄な位、 それはす なわち菩 薩の位である。

    (filokavi≦uddhipadam  etad yaduta bodhisattvapadam)

明照清淨の句、是 れ 即 ち菩提の句。

鬮  

光明 清浄の位、 それはす なわち菩 薩の位で あ る。

厘壅甄  

光明 清淨の 句是れ菩 薩の位な り と は、 秋金剛瑜 伽の 三 摩地 を修 する に 由っ て、光明清淨の を得。 是の故に秋 金剛 菩薩の位 を獲 得す。

匳調  

其の十二 は所 謂る金 剛秋菩薩な り。 常に智 燈 を以て諸の 黒 暗 を破 し、 亦た方 便を以て衆 生に授 與 して 無量の 光 明供養 雲海を 起す。 其の空の色清爽な るこ と秋 時 に 如 くは莫きを以て、 智 光の體 を表わ さん と欲 し て遂に以て之に名つ く。 故に燈明を執 て以て其の 契とす。

區 ]

経に、 光明の清浄な句、 それ はすなわち菩薩の句で ある とある のは 、 空 性の 智と般若波 羅蜜に平等に瑜伽せ る大 印の 身に よっ て一切の影像 も本尊の像と見徹して 煩惱のと な ら ない こ とによれ ば、 清 淨なるが故に である。

匳薑國 

光明 (70a )清 浄の 位云々 につ いて 、 願 波 羅蜜で ある。 光明に よっ て 一 切法 は幻 等を自性とすると見る な らば、 法に おいて願 望 を生 じるであろ う。 それに よっ て 光 明清 浄の位と云わ れる。 残 りは推して知るべ し。 そ れ に よっ て ま た、 金 剛 灯 女 (rdo rje mar  me  ma )の 義 を示した の で ある。   身楽

圏  

身樂清 淨句 是菩薩位。

身楽の清 浄 な位、 それはすな わ ち菩 薩の位で あ る。

(15)

般若理 趣経の註釈 的研 究 二 高橋 )

圜  

身 清淨の句 、是 れ即ち菩 提の句。

匳函 

身 楽清浄の位、 それはすな わち菩 薩の位で あ る。

 

身樂 清淨の句是れ菩 薩の位 なり と は、冬 金 剛瑜の 三摩 地 を修 する に由っ て、 身樂清 淨の句を得。 是の故に冬金 剛菩薩の位 を獲得 す。

匳鋼  

其の 十三 は所謂 る 金 剛 霜 雪菩 薩な り。 能 く五無漏の蘊の香を 以て 衆生の心 體 に塗 り、煩惱の穢 熱を滅 し五 分法 身の香 を成す。 亦た方便 を以て衆 生に授與 して塗香 供 養 雲海を起 し、 栴檀の 塗香 を以て諸の毒 熱を解す 霜 雪 に 似 た るこ と有 り。 遂 に 以て 之 に名つ く。 故 に 塗香を執て以て其の契と爲す。

 

経に、 身楽の清 浄 な句、 そ れはす なわ ち菩 薩の句で ある とあるの は、 空 性の 智と般若 波羅 蜜に平等に瑜伽せ る とき、 身その もの を本尊の 像と [見倣 すことに よっ て 、 一切の苦と煩悩は 自性か ら して本 来無で あるが故に、 身は甚だ楽で あ り、 一 の身行は如来の 印に よっ て転ぜ ら れるが故に、 煩悩の縛 とは な ら ない な ら ば、 清浄 な る が故にで あ る。  経に、 語清浄の句、 それは すな わち菩 薩の句で ある 晦 g.iS。ddhip。d。m  。t。d y、d。t。・b・d− hisattvapada皿) とあるの は、 空性の智と般 若波羅 蜜の平 等性に瑜伽せ る と き、 一 葉の 自性 は本来 空であ り、 如 来の身を有する者の発せ ら れ た言葉のすべ て は真 言と な る が ゆ えに、煩悩の縛 と は な ら ないな ら ば、清 浄なるが故に である。

 

経に、 意清浄の句、 それは すな わち菩 薩の句である(man 。vi≦uddhipadam  etad yaduta b。d−

hisattvapadam)とあるの は、 一切 法空 性 の 智と般若 波羅蜜に 平等に瑜伽 せ る と き、意の 分別が 生 じて も、一切 法は本 来空性に よっ て如 実に廻向 するなら ば煩 悩の縛 と はなら ない。 清 浄なるが故にで あ る。

慶薑副 

身楽清 浄の位云 々 につ い て、 出世 間の 五蘊の 自性は身で ある。 それは安 楽 であ り、 そ れ によっ て善 なる (D dge ba’i, P (iregs pa

i

高 慢 な )慢を生 じ るで あ ろう。 そ

れ に よ る な ら ば、 そ れ (身) は その 匚慢]の と説か れ るの であ り、 そ れ に よっ て も 又、

金 剛慢女 (,d。 

ije

 sfi。m 、 ma )の義を説い たの である。 残 りは解 しやすい 。

【訳註】智友釈 と百五十頌理趣経の サ ン ス ク リッ ト文に は身に続 き、 語 と意の 二句が

増句さ れてい る。

  色

丞翌 

色清淨 句 是菩薩位。

色 の 清 浄 な 位、そ れ は す な わ ち菩薩の 位 で あ る。

    (rtipavis’uddhipadam  etnd  yc“iuta bodhisattvapaalam>

(16)

智山学報五 十 六

匯函

色清 浄の位、 それはす なわち菩薩の位である。

匡璽亟】

色 清淨の句是れ菩薩の位な り と は、 色金 剛 瑜伽の 三摩 地 を修 する に由っ て、 色 清 淨のを得。 是の故に色 金剛菩薩の位 を獲 得す。

 

其の十四 は所 謂る金剛色菩 薩な り。 色 清淨の智 を以 て淨妙 界に於て は受 用の 色身を起 し、 雜染 界に於て は變化の色 身を 起 して而も攝來の事を爲す。 故に 以て鉤 を 持して契と爲す。

 

経に、色清浄の句、 それ はす なわち菩 薩の句である とある のは、 空性の智 と 般若波羅蜜に平 等瑜伽 する とき、 一本 来 (像 ) や色か た ち を見 る ま ま に、大印の その もの に供 養する に、 如 実に廻 向するなら ば、 衆生の煩悩の縛 とならない 清 浄 なるが故に である。

匳薑國 

色清浄の云々 につ い て、 禅定 波 羅蜜を 生 じるた めに、所 化の もの た ち に

対 して金剛 薩唾等の身体を示 現 し、大持金 剛 (rdo  rje ・chah chen po)に よっ て為 す 者 、

そ れ が色で ある。 残 りは解 し やすい 。

  声

丕至

聲清 淨句是 菩薩位。

声の清浄な位、 それ はす なわち菩薩の位である。

        (9abdavi≦uddhipadam  etad  yaduta bodliisattvapadarn)

匯鋼

聲 清淨の句、 是 れ即 ち菩提の句。

声 清浄 (151 b)の 位、それ はす なわち菩薩の位である

匯璽

 

聲 清 淨の句 是 れ菩 薩の位 なり と は、聲金 剛瑜伽の 三摩地 を修する に由っ て、 聲清淨のを得。 是の故に聲金 剛菩薩の 位 を獲 得 す。

鬮  

其の十五 は所 謂る金剛聲 菩 薩な り。 聲清 淨の 智を 以て。 能く六十四種の 梵音 を表す。 法界に普周し て而 も引 入の事 を爲す。 故に索 を持 して以て其の契と爲 す

匯凾

経に、 声 清浄の句 、そ れ は す な わ ち菩薩の句で あ る と あ るの は、 空性の 智 と 般若 波羅 蜜に平 等瑜伽 する とき、 声は無 自性に よっ て 、 言 葉と 一区別 なく、 遍 く音楽の シン バ ル等に よっ て本 尊に供養し、 回向するな ら ば、 一 に行 じて も煩悩の縛と は な ら ない 。 清浄 な る が故にで あ る。

匳喜國 

声清 浄の位云 々につ い て、般若波羅蜜を 円満する た め に、 法無 碍 弁の 自性 によっ て十の般 若波 羅蜜 を説示 する 自性 ある もの、 それ が声で ある。 その他は解しや すい 。   香

(17)

般 若理趣 経の註釈 的研 究 二 (高橋 )

匯  

香清淨句是菩 薩位。

 

香の清 浄 な位、 それはす なわち菩 薩の位で あ る。

    (gandhavil. uddhipadam  etad  yaduta bodhisattvapadam

囲  

香 清淨の句、 是れ 即 ち菩 提の句。

疆]

香清浄の位、 それ はすな わ ち菩薩の位である。

 

香 清 淨の句是 れ菩 薩の位 な り と は、香金剛 瑜 伽 の三 摩 地 を修 する に 由っ て、 香 清 淨の句を 得。 是の故に香金 剛菩薩の位を獲得 す。

 

其の 十六は所 謂る金剛香 菩 薩 な り。 香 清 淨の智を以 て金剛界の 自然 名 稱の香 を發 しで 切 の散 動心に 入て以て止留の 事を爲す。 故に 以 て 鎖 を持 して契と爲す。

経に、 香清 浄の句 、 それ は す な わ ち菩 薩の句で あ る と あ るの は、空 性の 智 と 般若波羅蜜に平等瑜 伽する と き、一切の香は本来空の故に良い と か 悪と かの 区 別は な く、 最勝の 香をもっ て本尊に供養をな し、廻向する な ら ば、煩悩の縛と は な ら ず福徳 と なる こ とに よ れ ば、清浄なる が故に である。

匱喜國 

香云々 つ い て、 願波羅蜜を 円満する た め に、 法無我 を観修して、 無 尽の 所知は無 実体 を自性とする と知る称賛の香 ある もの、 それが香で ある。 残 りは推 して 知るべ し。   味

匯 ヨ 

味 清淨 句是菩 薩位。

匡画

味の 清浄 な位、 それはす なわ ち菩 薩の位で ある。

    (rasavi ≦uddhipadam  etad yaduta bodhisattvapadam)

匯圓  

味 清淨の句、 是れ即 ち菩 提の句。

   触清淨の句、 是れ即 ち菩提の句。

      (sparsavis ’uddhipadam  etad  yaduta bodhisattvapadam )

味 清浄の位、 それ はす なわ ち菩 薩の位である。

 

味 清淨の句 是 れ菩 薩の位 な りと は、 味 金 剛瑜伽の三摩 地 を修するに由っ て、 味清淨のを得。 是の故に 味金剛菩薩の 位 を獲 得 す。

 

其の 十七 は所 謂る金剛 味菩 薩な り。 味清 淨の智を 以て瑜 伽三摩地無上の 法 味 を持して以て歡樂の事 を爲 す。 故に鈴 を持 して契と爲 す。   是の如 き等の大菩 薩の十 七清淨 三摩地智 を文に依て廣述 す。 無量の 名義 體用理 事成 證の 門有 り。 今但だ粗 く綱 目を擧 げるのみ。 金剛頂經 第十 三會大三 昧耶眞實瑜伽略鈔 の大 意 を出す。 般 若波 羅蜜多理 趣 經 大安樂不空三昧 眞實金 剛菩薩等一十七聖 大曼荼 羅義述一卷

(18)

智 山学 報第五十六輯

匿亟]

経に、 味 清 浄の句、 それ はす なわち菩 薩の句である とある のは、空性の智と 般若波羅蜜の 平等 性に瑜伽 する とき、一切の味は本来空な る が故に、 食物の う まい 、 まずい 、 清浄 、汚 れ と かいっ た もの は な く、 すべ て美味なる こ と 甘 露の 如 くで、 本 尊 に供 養 し、 廻 向する な ら ば、煩惱の縛と は な ら ない 。 清 浄 なる が故に で ある。  経に、 触清 浄の句、 それはすなわ ち菩薩の句で あ る とあるのは、 一切法 空性 般 若波羅蜜の平等性に瑜伽 する とき、 楽と苦の二 が ある身の 一は 本来空 が故に、楽 ・不楽の差別の一切の 区 分も楽の 最勝 なるが故に、 本尊に供養し、廻 向す るな らば、 煩 悩の縛 と は な らず福 徳と な る な ら ば、清 浄 なる が故にで ある。 《  触の 個 所に移動 してある が再録しておく》

 

経に、 法清浄の句、 それ はす なわち菩薩の句である とあるの は、 空性の 智と般若波 羅蜜の平等性に瑜伽 する と き、 一切法は自性か ら して不生不 滅、自性か ら して空で あ る こ と に よっ て、 一切法を行 じ入る こ とに よっ て菩薩の行に 入 るの で、 煩 悩の縛とは な らない の な らば、 清 浄 なるが故に である。 同様に、 十二 処等の すべ ての 法を行じ る と き、 空性の智と 般若波 羅蜜の 平 等性に瑜 伽する は、 如来の智の 集ま りと な り、 種々 なる法を行 じて、 間違い のない 廻向は福徳の 積 集 を円満する。

璽薑國 

味云々 につ い て、 戒と定と 慧 と解脱と解 脱知 見の 自性に よっ て身の 安 楽 清 浄の位を獲得 する た め に、 嬉 等の 心 を大持 金剛の 自性に よっ て示 す もの、 そ れ が味と 云 われる。 残 りは解し やすい 。 [以 上] これ ら 四つ の 句 (色・声 ・香 ・味 ) に 、 順次金剛色 と金 剛声と金 剛香 と金剛味の 義を示 し たの で ある。  そ れは また、 (70b)欲界の 自在 [天コを調伏する た め に、 世尊大持 金 剛はその 女 尊 の輪の 中に 入っ た 大歓 喜の 身を化 作した者と して 見られ 、 かの欲界の 自在 [天] 自身 の妻の輪 その もの に 苦 し み を生 じた智 を生じて、 世 尊に願望し て帰命 する。 そ れ故世 尊の こ のお身体は 色清 浄の位で あ る と 思っ て、 世尊に対して 「これ ら完全 な御 身の色 円満 (三+二 相八 +随 形 好 相 ) を獲 得 する ように」と請い 、 その た め に、 彼は三 宝に帰 依 し、 菩提 心 を生 じる こ とをなす。 す なわち、 その もの の た めに世 尊は妙 楽清 浄等を お示 しに な る、そ れ が声であ る。 聞いて ま た、 その意味 を彼が信 解の智によっ て (D, P ともにkyi とある も kyisと読む〉声を 理解 する こ と が 香で あ る。 そ れ が よ り勝 れた その 自性 とな るの が味である。 次に又、 七覚支の花の禅 定を目の 当た りにするのが荘厳で ある。次に、決定の相 を有す る般 若 波羅蜜に 通達 するの が悦 意 億 滋 沢)で ある。 次 に、 光 明を獲得 する こ と と光 明を増大 する こ と と真 実の

につ い て少 分 よ り生 じ る 間 断な き三摩地の 自性に 通達するの が光 明で ある。 それ に よっ て法と人につ い て分別の 垢 か られ るこ と に よっ て、戒と定と慧と解 脱と解 脱知 見 を獲得 するの が身楽である。 次に、 一切法につ い て無我を見る のが見で あ る。その 因と な る もの を歓喜す るこ とが 適悦でる。 次に、 見た ままの法無我の 智を何度も何度も観修するの が渇愛である。 観修 と相 応 する強勢の相を有する慢が 慢で ある。 その 姿 勢を し た もの に何 度も何度も

(19)

理 趣経の註釈的 研究 二 (高橋) 妙楽の 清浄 等が欲箭である。 そ れに よる究竟の妙 楽の清 浄が触 清浄で あっ っ て、菩提 心の 71a )大楽等 を目の 当た りにする とい う意 味で ある。 菩提 心 等を目の 当た りに して捨て る こ と (

によれ ば、 有 情 を捨てない ) が出来 ない の が愛縛で ある。 そ れ に よっ て ま た、 所取と 能取の 結 合 か ら自性清浄 な る解 脱を獲 得 し、 任運に入る道に住 す る こ と を得て、一切に お ける 自在と力を獲得 し、妙 楽の大楽の主に よっ て荘厳さ れ た 自在 と な るこ とが妙 楽に至るまで タ ン トラ に説か れて い る。  是の如 く示 し たの は、 [五官]の対 境 を 捨 て るこ と に よっ て 、 解 脱 を獲 得せ ん とす る者が 、 怖畏 等の 自在を なし て説い たの であっ て 、 そ れ らの輪 廻の 無 常の 姿を 捨て て、 そこ に見て も厭 きない 姿て大楽を享 受する であろ うと 云うまで確立 す る が 故 に、 世尊は所説の 如き色 を正 し くお示 し になっ た ので ある。 この色 は琵琶等の音なくして 大 楽 を 生 じるこ と は ないで あ ろ う。 そ れ故、琵琶 を弾 くことなど によっ て音 をお示 し になっ たの である。 香が ない こ と は ない とい うこ と を示す た め に、手に香爐を持つ の で あ る。 そ れは また、 味の 器が ない こ とはない の で、それ故、 手に味の器を持つ の で ある。 花の飾 りは な くて も 同様であっ て、そ れ故、 手 を合 掌する こと によっ て花 等を [示 し たの で ある]。 さ らに ま た、焼香が なくて は満足 し ない の で、香 爐 を 持つ 手で香 爐を持つ の である。 同様に暗闇だ と お 互い が見えない の で 、その た め に灯 火 をお持 ち に な るのが灯 明である。 また、 塗香がない と身体が安 楽と な ら ない の で、小螺の 手で [塗 ] 香 [器 ] を持つ の である。 嬉か ら離 れる こ とに よっ て は歓 喜の大 楽を 生 じ る こ と が ない の で、 その た め に嬉と 笑 と大歌と舞い等 をなすこ とによっ て、 嬉 を次 第に如 実に歓 喜の眼の可愛 と見る (71b )こ と と、 眼の 愛 着 と、 歓喜 と、 眼の 愛着の欲 望 と、 眼の愛 着を 生 じ る勢い の慢の 自性 を示 して、これ ら も ま た別の もので は ない と す るこ と は、 抱 き し め るこ とであっ て、 決して捨て ない こ とで ある。 そ れ故 、これ ら一切の もの につ い て、 自在 性を保持 すること に よっ て妙 楽の大楽を生じ る な ら ば、 欲箭と、 触と、愛縛と、 自在主と な る位 を示 し たの で ある。 是の如 く対境 を捨て て解 脱を得ん と欲する者に よっ て驚恐 (skrag  pa ) と 云 わ れ るので あ る。 経典に、   「ヴ リン ダーの森は楽しい の で狐と なっ て も最高である。   ゴータマ は等を捨て たれ ども、 解脱を決 して求め ない 。」(出典不詳) と説か れ てい る。 すな わ ち、その 因縁の 故にその 妙楽の 清 浄の 位は菩薩の位で ある と 云わ れ る。 それ故、 こ の 味の清 浄な位は菩 薩の位で あ ると理由が 説 かれ た ので ある。 【訳 註】以 上、 十七清 浄句を一覧 表に す る と 以 下 の如 くなる。   の触は法 賢、智友は   昧の に 出。 栂尾 (

p

138

)の指 摘の如 く、 理趣 釈、 義述、 慶 喜 蔵が 十 七清浄句 を曼荼 羅の十七尊に配 して い るこ と は 興味深い。

(20)

智 山学報 第五十六輯 十七清 浄句一覧表

匠国 圖

  妙適 sura捻 妙楽 rab tu dg’aba 大 楽 不空 三 昧真 実 金 剛 (普 賢) 金剛(普 賢 ) 左 金 剛 鈴・右 五鈷 金 剛 杵 妙適 rab tu dg’aba 金剛 薩唾 rde sems dp’a   欲 箭 痂8ψ 欲 箭 ’d cah 饌ゆi md’ a 欲金剛 意生金剛 箭 を持 す 貧欲の dod  chag8 kyi md’a 金 剛意生 輌 巳yid 1觚b幡   触   ’ ψα「∫α   味の後 に出る 「eg pa 金 剛 髻 離 吉 羅 髻 離 吉 羅 金 剛 抱 持の相  味の後に出 る 金 剛峰 rdo 

qc

  mo can   愛 縛 ρ吻o∂oη〃  親 法 sdug pa’i’曲 ba 愛金剛 悲 愍金剛 摩竭魚幢を持す 愛 縛 甜ug pa’i’c 血ba 金 剛 憶 念 rdo 

Oe

 dran pa   一切 自在主 5α厂yθ西yα 昭 一切 富 楽 thams cddb     ■        . pbyug dan db跏 金剛傲 金剛 慢 傲誕の威 儀 一切 享 楽 自在 冒 1。ns sp山  s cad 金 剛慢 女 rde s行erI圏 ma    , kyi dban phyug

  見 噌 “ 見 1ta ba 意 生 金 剛 金 剛 見 意 生の契 を持す 見 lta ba [金 剛 ] 嬉 sgeg  mo   適 悦 rati 愛 楽 dg’a  ba 適 悦 金 剛 金 剛 適 悦 触金剛相を持す 適 悦 dg’aba [金 剛]笑 bshad pa   愛 町鰰 染 法 sred pa 貪金剛 金 剛貧 悲 愍の契を持す 渇 愛 sred  pa 金剛 歌賢女 rdoglu吐       慢 8α ”α bs五ems  pa 金剛慢 金 剛 自在 金 剛慢の相

na   yal 金剛舞賢女 蜘9肛砿h餬     荘 厳 bhUsana   o   . 荘 厳 「gya皿 春 金 剛 金 剛春 花を持す 荘厳 rgya1 貪・瞋・癡・一 切・胎・相 金剛花女 蜘

Oe

 me tog ma   意 滋 澤 齟 蕊dana 悦 意 y補 趣   P趾byod pa 雲 金 剛 金 剛 雲 樊香の器 を持す 意 yid 〈金剛香 女 ?〉   光 明 田 oka 明 照 snah  ba 秋 金 剛 金 剛 秋 灯明を執る契 光 明 sna血ba 金剛 灯 女 bo 噸e m肛 me  ma   身 楽 kayasukha 身 1us bda ba 冬金 剛 金 剛 霜 雪 塗 香 を執る契 身楽 lus bde ba 語

hag

・意yid 金 剛慢女 rdo 

qe

 si巳ms ma   色 rα 色 9ZUgS 色金剛 金 剛色 鉤を持 す 契 色 gzugs 金 剛 色 Ido 巾 9ZUgS   声 ≦abda 声 sgra 声 金 剛 金 剛声 索を持 す契 声 sg「a 金剛声 rdo e sgra   香 gandha 香 dri 香金剛 金剛香 鎖を持 す契 香 面 金 剛 香 rd e 面   味 rasa 味 ・触 ro 味 金 剛 金 剛味 鈴を持 す 契 味 ro 触把gbya・法ch・s 金剛 味 Ido 

Oe

 m

(21)

理 趣 経の 註釈 的研 究 二 (高橋) §t3

塰ヨ

何以 故。 一切法 自性 清。般若 波羅 蜜 多清淨

墮亟

 

それ は何 故か となら ば、 す なわ ち、一切法は 自 性 か ら し て清 浄で あ り、 一 切法の 自性は空性で ある が 故 に、般波 羅 蜜の清浄がある。

(tat kasya hetos tad yathE salvadharmab  svabhabhavisuddha  sarvadharnasvabhfivaStinyatayfi  prajfia

paramit諷vi≦uddhir  bhavati.)

匯調  

所 以は何ん。 諸 法の自性 清淨 亦 復た 是 の 如 し。 諸法の 自性 清淨なる が故に。 般若波羅蜜多亦 た 清淨な り。

匳訳]

それは何故 か と な らば、 すな わち、 一切法は 自性か ら し て清 浄で あ り、 一切 法は自性からして空性で あ る が 故 に 般若波羅蜜は完全に清浄であ る。

Vajra

 

hum

 

何 を以っ て の 故 に一切 の法は 自性 清淨 なるが故に般若 波羅 蜜多も清 淨な り と は、 一 本來清 淨 と 雖 も、客 塵煩惱氣有る に 、 身心 を覆 蔽 て六 趣 に輪迴 す。 瑜伽理趣を獲 得する に由っ て四種の智印な り。 所謂る大智 印 ・ 耶 智 印 ・法 智印 ・羯 磨智 印な り。 前の如 くの菩 薩に 一一を 具 す 。 相應 すれ ば方に離垢 清淨を得て 、便ち普賢大菩薩位 を 證す。 設使 え因縁 具せず して 四智印 を 得 ざれ ども、經の所 説の如 く一たび耳に聞か ば、勝福を獲得す るこ と決 定して異 ならず。 疾 く無上 正等菩提を證せ ん。 正因 と為る を 以っ てな り。

経に、 それ は 云何 とな らば、 すなわち、 一切法 自性 空によ っ て自性 清 浄で あ り、 一切 法 自性な る が 故 に 、 般若波羅 蜜清 浄 なり とあるの は、 常にその所説の法 の名 目の 中に は除かれる法とい の は 別 に なくて、 聖者の行境 と凡夫の 行境 もその 法性において行ずれ ば、 法の 相を知る こ と と、 無知の差別の煩悩の縛 と は清 浄と な る であろ う。 そ れ故 、常に所説の 一切諸 法自性 か ら あ り 、 法 性の 清浄 に よ る な ら ば、般若波 羅 蜜性 も一切 法 自性空の如 く般若波羅蜜 も また空の 相である。 清浄で ある とい う種々 の相に おい て行 ずる こ ともまた、空性のを 有 す る な ら ば、 般 若と方 便 とは不 可分の 結合 に よっ て 諸行 もまた損壊 する こ と なく、福徳と智慧の積 集 を円満 して如 来の三 を獲 得する で あろ う。

匱亶國

同様に、 一切法は 自性か らし て清 浄で あ る とい うの は、 何 故か と な ら ば、 妙楽より味 を究 竟とする一切法は勝義に おい ては所取 能取の分 別 を離れて い る。 それ 故、 妙楽清 浄の位はすな わち菩薩の位である と 云 わ れ る。 同様に、 乃至味清浄の位は 、菩薩の位で あ ると云 うまで につ い て、般 若波羅蜜清浄 によっ て も、 妙楽等は清浄で あ る の で、瑜 伽た ち は 他 に 通達すべ き もの は ない と 示 さ れるべ た め に そ れ ら が 説か れた の である。 一切法云々 につ い て、 法で もあっ て 一 も あ切 法 。 説か れ た如 き妙 楽の清 浄等で あ る。 そ れ らの 自性の清浄は無始 無終の 法界で あっ て、 真如 とい う意味である。 こ の ような 自 性の 一 72a )清 浄 と な る が般 若

参照

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