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子どもの権利論における人間学的基礎 子ども論・子ども学から

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子ども論・子ども学から

第章 子どもの権利論と子ども観 第節 問題の所在

第節 子どもの権利論の子ども観 第章 子ども論・子ども学

第節 子ども論・子ども学とは何か 第節 本質主義から構造・関係論へ

第節 構造・関係論的な子ども論・子ども学 第章 子ども論・子ども学から子どもの権利論へ

第節 子どもの権利論と子ども論・子ども学 第節 子どもの自律性(行為主体性)

第節 まとめと課題

第章 子どもの権利論と子ども観

第節 問題の所在

子どもの権利条約(United Nations Convention on the Rights of the Child) 1989 年に制定されてからすでに 20 年が経過した。同条約の制定を契機とし て,さまざまな理論や解釈が内在的に提起されるのはもちろんのこと,子ども に関わる制度である,児童福祉や少年司法,学校教育などの制度において子ど もの権利条約を視野に入れた試みが現れてきている1)。特に昨今では各地方自

)たとえば,「子どもの権利の総合的,学際的研究」等を目的として「子どもの権利条約総合研 究所」が設けられ,雑誌「子どもの権利研究」が年回発刊されている。同誌においては,こ れらの課題・状況が報告されている。

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治体においていわゆる「子どもの権利条例」が制定されてきている。2000 年 に制定された「川崎市子どもの権利に関する条例」をはじめとして,子どもの 権利を表題とした子どもに関わる総合型の条例が存在するようになってきてい る。

種々の制度や処遇が権利条約の「精神」において実行され,解釈されてきた と言えるだろう(大江 2010:146-147)。言い換えれば,子どもの権利に関わる 実践・解釈の厚みが格段に増してきたのである。

こうした状況を子どもの良き生の改善という観点から評価することは当然で きる。いわゆる児童虐待・子ども虐待に該当するような暴力を受け,家庭とい う最小単位の社会的親密圏から放逐された子ども,同様な状況の中で必要な衣 食住のサービスが十分に与えられずに呻吟する子ども,徹底的な管理抑圧の状 況に自由を渇望する子ども,そうした状況に対して「子どもの権利」ひいては 権利概念が持つ規範的力は決して蔑ろにして良いものではない。

だが,こうした「厚み」は皮肉なことに,子どもの権利にまつわる解釈や実 践の角逐,拡散を及ぼすことになる。保護と自律の対立,権利とコストの問 題,必要にして十分なニーズとは何か,そしてそもそも権利語法はどこまで有 効なのか,等々,こうした課題は単純な整理を許さない。なぜならば,そこに は理念やイデオロギー上の意識的あるいは無意識的な対立があるからだ。単純 化の危険を承知であえて言えば,子どもの権利は「子ども」と「権利」という 非常に訴求力が高い観念の組み合わせである限り,場合によっては過大な思い や要求がそこに含み込まれてしまうからである2)

本稿で注目したいのはそうした理念やイデオロギーのさらに下にある想定 だ。それは「子ども(存在)(childhood)」なのである。childhood とは,

adulthood との対照からの子どもである「period 時期」であるという時間的分 節を本来示している。「childhood は慣例的には時期として特徴づけられてい る」(Qvortrup 2009:23)という指摘からは,おとなへの階段としての,まずは 世代的な概念として議論されるべき概念であることがうかがえる。ただし,後 述のようにそもそも childhood 概念が成立すること自体がその時間的分節に何 らかの意味や実質を認めたからであり,childhood 概念においてその「特質」

に注目することは不自然なことではない。ゆえに本稿においては,子ども(存

)このことを言い換えれば,子どもの権利には特有の「非自明性」がある。参照,(大江 2010:

139-143)。

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在)観という特質を意識した用語を使用することとしたい。

拙著(大江 2004)において,筆者は子どもの権利論を概説してきた。そこで

は当然のことながら,一定の子ども観が想定されている。あまり意識化されて いるわけではないが,少なくとも当該処遇にふさわしい子どものイメージがあ るのである。たとえば,保護主義的な子どもの権利論にふさわしい子どものイ メージは「いたいけ」で弱い子どもである。必要なサービス・ニーズを保障す べきだとする子どもの権利論にふさわしいイメージは「可塑性」の高い,まさ に発達する子どもである。そして,自律や自由を主張する子どもの権利論の基 底にある子どものイメージは,自己主張がはっきりできる,有能な青少年であ る。

あるべき子どもの権利論を構想する際に,あるいはそもそも厚みを増した子 どもの権利論の整理のために,childhood にまつわる諸観念の交通整理が必要 ではないか。この視点から本稿は分析を進めていきたい。

本稿の見取り図を以下に簡単に示す。

:まず,子どもの権利論にある(隠された)子ども観とは何か。そのことを

簡単に整理していく(第章第節)

:次に,そうした子ども観が,現在の子ども論・子ども学の議論の到達点か らどのように整理されるのかについてまとめていく(第章第節)

:さらに,現在の子ども論・子ども学の課題がどこにあるのか,特に規範的 な議論としてどこにあるのかを示す(第章第・節)

:まとめとし,上記の議論と接続できるような子どもの権利論があるとすれ ば,それはどのような形となるのかについて,簡単に展望していく(第 章)

本稿は「子ども(存在)観」という,子どもの権利の基盤にある観念につい て考察しようとするものであるが,他の基盤から考察する場合もありうる。た とえばそれは,国家論から入る子どもの権利論研究である。紙幅の関係上,以 下のような諸論点は,まとめで若干言及する他は考察することを本稿ではでき ない。

子どもの地位と国家の役割が議論されてないという指摘(Archard & Mac-

leod 2002:13)のように,子ども論とそこでの国家の役割の問題をもっと積極

的に問う必要が現代社会にはあるだろう。たとえば,解放主義的な子ども論で

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は,限りなく国家介入がなされない国家が想定される。国家を子ども論との絡 みで強く留意する必要がなぜあるのかと言えば,それは現代国家の強大さから 来る。レッセフェール的な国家とパターナリスティックな国家では,当然のこ とながらその子どもへの処遇および処遇理念は著しく異なる。

このことは,結局子どもは「誰の子どもなのか」という論点につながる。子 どもとは,①社会(国家)にとっての子どもなのか,②親にとっての子どもな のか,それとも③子どもは子ども自身のものなのか。各主体間の相克関係がこ こでは重要となってくる。たとえば,子育ての中立性をめぐる議論である。子 育て・教育への国家関与および介入の度合いの問題である(自由・民主的な国

家についての理解)。付随して,善(good)をめぐる諸観念を当該国家は子育て

および教育の基礎理念としてどのように扱うのかという問題がある。「自律」

「能力」「徳性」「陶冶」「選択」などの諸理念を中立性の観点から当該国家体制 にふさわしい形で問う必要性が出てくる。さらにはそうした諸理念がどのよう に分配されていくのかという平等性に関わる問題も存在する。特に,「格差」

社会に生きる現代の子どもにとって,求められるべき平等理念を「平等とは何

(何についての平等)」という根本的論点に立ち返って検討することも大きな

課題である。

第節 子どもの権利論の子ども観

さて,前節で示唆したように,子どもの権利論には隠された前提としての複 数の子ども観がある。子どもとはどのような存在であるのか(後述するように,

普遍的・本質的に子どもとは○○であるという考え方を採る場合と,子どもとはあ くまで関係する状況・文脈の中で規定されるものだとする考え方には大きな相違が ある),子どもは現在どのような社会状況の中で育っていると言えるのか,そ してどのような方向性の中で教育陶冶されるべきなのか。こうした諸点が子ど もの権利論には含まれているのである。そうでなければ,そもそも規範的な議 論は成立しない。

もちろん,「子ども」という限定詞を可能な限り排除し,人間としての権利 を広く主張することは理論的には可能である。そもそも「人権論」を標榜する 限り,対象(成人男子,女性,少数民族,子ども等々)の属性の相違を越えた形 で,何らかの共通性を措定しないわけにはいかない。そうでない限り,定義上 ヒトの権利とは言えないことになる。

子どもの権利論や権利に関わる制度の背景にある子ども観を包括的に取り出

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す作業は本稿の手に余る。短兵急に子どもの権利論の背景にある子ども観に本 格的に切り込むことはしない。では大枠としてそうした子ども観を把握する手 段はないのだろうか。ここで注目したいのが,国際的な子どもの権利文書であ る。子どもに対する処遇の国際標準を示すこれらの文書によって,子どもの権 利論の類型化を行い,そこでの子ども観に多少なりとも輪郭を与えていきた い。

子どもの権利条約制定後 20 年を経過した現在,同条約が子どもの権利に関 する国際的な文書としては良く知られたものとなっている。同条約には前史と も言えるような先行する文書が,しかも長期間にわたって存在している。こう した文書を概括してみると子ども観の一定の把握が可能となる。このことにつ いては,拙著(大江 2004:16-20)3)において記述したので,大略を以下に述べ るにとどめる。

子どもの権利を本格的にまとまった形で言及した初めての国際的文書とされ る「ジュネーブ宣言」(1924)は,「総じて身体的保護に着目された権利文書」

(大江 2004:162)と言える。まずは子どもの権利観のベースに要保護性があっ

たことがうかがえる。次に,戦後直ちに検討が行われ,1959 年に制定された

「国連子どもの権利宣言」においては人格的(精神・心理的)保護の必要性が意 識され,さらにはジュネーブ宣言に比較して広範囲に権利の保障領域が広がっ た。総じて「様々な機会保障が志向されるようにな」(大江 2004:164)ったと 言える。子どもの権利条約(1989)に至ると,権利文書は「網羅的」とも言え る権利保障を志向するようになる。特に,子どもの自律・解放を志向する観点 が強く表れるようになる。

これらの国際的文書の傾向から,ここで強調しておきたいことは次のような ことである。保護主義的,ニーズ志向的,そして解放主義的な権利論に基づく 各々の子ども観は,少なくとも単独使用の場合は,規範的かつ / あるいは事実 的な意味で「本質主義的」(次章において説明する)な性質となりやすい。だ が,果たしてそうした子ども観は複雑化した現代社会において妥当なものであ り,あるいは子どもおよび子どもをめぐる状況の実相を探り当てているものな のだろうか。

)条約などの国際的な文書を中心として,子どもの権利カタログを機能的に分析したものとし てフィリップ・ヴィアマンの業績がある(Veerman 1992)。その業績の紹介については(大江 2004:159-168)を参照されたい。

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たとえば,現在の子どもの権利論の中心概念のひとつとして「最善の利益

(the best interest)」が挙げられる。各々の子どもにとっての最善の利益を保障 することが,子どもに関わる処遇の原則であるという主張は,「総論」として 考える限り,誰も反対できまい。だが,それが各論になった場合,その判断は 直ちに悩ましいものとなる。「何が子どもの最善の利益であるかをわれわれは 論争的でなく知ることはできない」(Thomas 2000:63)という記述を見るまで もなく,最善の利益の図り難さは容易に想像しうる。「最善」という一見,中 立に見える観念こそ,それが抽象的であればあるほど,主張者の望みや感情を そこに入れ込む可能性が生まれる。最善の利益論は決して中立ではなく,むし ろいかようにも用いられる危険性がある。子どもの最善の利益はしばしばおと な側の主張を融通無碍に根拠づけしてしまうものであり,まさにおとな側の主 張の「隠れ蓑(coverup)(Guggenheim 2005:143)として使用されてしまう危 険性を負っている。

こうした悩ましい問題をさらに分析的に検討するためには,結局,そこで問 われている「子ども観」を詰めていく必要がある。さらなる子ども論・子ども 学の検討が必要なのである。そこで次章では子どもの権利論を一旦離れて,昨 今検討が深まりつつある子ども論・子ども学の紹介・検討に進んでみたい。

第章 子ども論・子ども学

第節 子ども論・子ども学とは何か

近年,社会学を機軸とした「子ども論・子ども学(childhood studies)」がそ の検討の深みを増してきている。そこでは,「子どもとは何か」という分析的 な視点を中心として,子どもの歴史,心理的世界のありよう,日常生活,処遇 理念等が検討され,子どもを包括的に捉えようとする一連の議論が集積しつつ ある。本章では,まずそうした先行研究を見ていく。前章で検討された子ども 観が,現在の子ども論・子ども学の議論の到達点からどのように整理されるの かについて,その類型化論に言及しつつ,瞥見していきたい。もちろん,スタ ンダードな子ども存在を安易に想定するという普遍化の危うさにわれわれは常 に注意する必要があるだろう4)。だが同時に,すべてを相対化してしまっても 理論的検討は進まない。特に,少なくとも身体的・生理的そして精神的な移行 期であるという,人類に共通する子ども存在の類型化には(過度の普遍化の危

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険性に警戒しつつ)何ほどかの意義はあるに違いない。

さて,近年の子ども論・子ども学の議論はどのような守備範囲を持っている のであろうか。まずは先行研究を見ておきたい。

400 頁以上にわたる総合的・包括的な視点からの子ども論・子ども学の概説 書と見なされる,『子ども論・子ども学の手引き(Handbook of Childhood Stu- dies)(Qvortrup et al (eds.)2009)によれば,子ども論・子ども学の領域は次 のようなものになる5)

①子ども論・子ども学の概念(行為主体性,発達,研究方法論等)

②子ども存在の歴史(概説史,近代性論,家族史等)

③世代について(世代間秩序,集合的アイデンティティ等)

④子どもの日常世界(身体性,遊び,仲間等)

⑤子どもの実践性(労働,仲間文化,消費者,メディア参加者等)

⑥子どもの権利(子どもの権利条約,利益と責任,移住・移民等)

また同上書と同時期に発刊された概説書『子ども論・子ども学入門(An In- troduction to Childhood Studies)』によれば,子ども論・子ども学の領域は次の ようなものになる(Kehily (ed.) 2009)6)

①子ども存在および子ども論・子ども学の概念

②子ども存在の歴史

③子ども存在への社会文化的アプローチ

)同様な問題意識を James たちは抱いている。「特定のローカルな状況においてはまったく根 拠のない子ども存在の内容を利用する危険をわれわれは冒している」(James et al. 1998:140)。

)方法論も含め,同書で子ども論・子ども学のパラダイムとして,Qvortrup らは次のような点 を提起している(Qvortrup et al. 2009:4-6)

①「正常な」子ども存在の研究

②慣習的な社会化的視点に対する批判の重視

③子どもにとっての行為主体性および主張の重要性

④子ども存在に関する構造的制約への着目

⑤子どもおよび子ども存在を研究するための通常な社会科学的研究手法の使用

)同書の中で Gittins は次のように述べている。子ども論・子ども学の歴史研究(そうした学問 を通時的に跡付けるため)にはつのカテゴリーがある。①子どもをめぐる社会経済的状況研 究,②心理学的研究,③法的政治的処遇研究(Gittins 2009:35)。

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④子ども存在への法・政治的アプローチ

こうした概説書を参考にするならば,子ども論・子ども学の守備範囲は次の ようなものとして捉えることもできるだろう。まず,学問領域的な区分けであ る。オーソドックスな学問区分で言えば,子ども存在の哲学,子ども存在の心

理学(生理学を含む),子ども存在の歴史学,子ども存在の社会学(内容は多岐

にわたるが),子ども存在の法・政治学である。子どもが存在する「場」に着

目して類型化するならば,家庭における子ども論・子ども学,学校における子 ども論・子ども学,広く社会における子ども論・子ども学等が立てられるだろ う。さらに,子どもが社会において果たす「機能」に着目して子ども論・子ど も学を論じるならば,上述のように,労働,仲間文化,消費者,メディアなど との接点において子どもがどのような位置に現在あるのかが重要となる。究極 的には子どもという「世代」がおとな世代とどのような位置関係にあるのかと いう点も同様に重要である。

上述の概説書の諸論考などにおいて厳密に類型化されているわけではない が,いわゆる記述と規範の区別もある程度は必要である。社会学(の研究者)

を機軸とした近年の子ども論・子ども学研究においては,実証的・記述的研究 が多い。そこでは,これまで可視化されてこなかった子ども存在の実態や,子 どもをめぐる社会的構造を明らかにしていくという視点が強調されており,子 どもをどのように育て教育するべきかという視点は,従来の教育学等の守備範 囲であると見なされている。あるいは,規範の問題は子どもと政治・法という 問題領域で論じられれば良いという発想も見受けられる。方法二元論の妥当性 をめぐる問題もあり,截然とした記述と規範の区分を子ども論・子ども学に持 ち込むか否かは論争的である。だが,近年の子ども論・子ども学が子どもに関 する包括的な視座を標榜するのであれば,規範の問題をどのように押さえるべ きかについては回避しえない。そのことについて本稿では,あくまで試論的に

「子ども論から規範(権利)へ」というアイデアを第章で示唆するにとどめ る。

近年の子ども論・子ども学は,自らの方法論にも意識的であろうとする。昨 今の子ども論・子ども学の方法論的特徴を Lange および Mierendorff は次の ように述べる(Lange & Mierendorff 2009:80-82)7)

①民族誌的な研究方法へのシフト

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②家庭・家族から距離を置く

③信頼に足るインフォーマント(情報提供者)としての子どもの社会的承認

④構築主義および構造主義的視点から子ども存在の社会的文脈を分析するこ

さて,子ども論・子ども学の最大の特徴は何だろうか。当然過ぎると思われ るかもしれないが,それは「子どもの発見」8)に続く「子どもへの着目」と言 わざるをえない9)。このことを本稿ではさらに「制度化」と「直接的価値化」

に分節化してみたい。子どもへの着目は子どもの周辺に,あるいは子どもを否 応なく巻き込む形で制度を作り上げていく。「子ども存在は社会的制度として 見なされる」(Zeiher 2009:127)のである。Zeiher の先行研究に依拠してその ことを敷衍するならば,以下のような諸点が挙げられるだろう(Zeiher 2009:

127-)。①学校と家族という制度が子どもに関わる基本的な制度として成立

10),そこで機能的な特化が行われること。教育への機能的特化は学校で担 われ,親密性を含め11)ケアへの機能的特化は家庭で担われるのである。②近 代社会の進行とともに,時間と場所による規律が進むこと。ここでも学校や家 庭が主たる空間管理の場となる(James et al. 1998:38)。③個人化は制度化を通 して達成される。つまり,種々の制度の中で個人が作り上げられる。④制度化 が進めば進むほど,その難点が逆に意識されるようになる。そこから「脱制度

)子ども論・子ども学が方法論的に種々の論議を呼び起こす可能性は,その方法論がまだ広く 了解されていない点もあいまって十分考えられる。「子ども論・子ども学は,社会科学における 議論に特有な方法論的批判から逃れられないし,また逃れるべきでもない」(James et al. 1998:

170)。

)種々の批判はありつつも,「子どもの発見」という視点を人口に膾炙する形で提起した業績と して(Ariès 1973)がある。Gittins によれば,多くの歴史家が承認するであろうことは,16 世 紀にかけて家庭や子どもに関する態度や考え方が変わったということである(Gittins 2009:

41)。

)たとえば James らは,歴史的には徐々に子ども存在の意識の社会的承認が高まっていったこ とを次のような流れで説明する。①子どもの不可視化,②子ども存在の可視化,③子どもへの 感情移入化,④子どもにとってのニーズへの着目,⑤子ども論・子ども学の発展(James et al.

1998:153)。

10)「『学校』と『家庭』は,近代社会が『子ども』の周辺に発達させた代表的な装置である」(本 田 2000:119)。

11)「近代的家族は諸個人の唯一ではないにせよ主要な感情的親密性の出所(source)である」

(Burtt 2002:242)。

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化」の動きも出てくる。

すでに機能的特化という文脈で現れているとも言えるが,子どもの発見とそ れに続く着目は規範的な主張としての重点化でもある。すなわち,愛着の問題 も含め,子どもを価値的に重要視するという傾向である。そこでの価値とは,

子どもを働き手として見る経済的価値から,愛情を注ぐ対象としての感情的価 値へと変わりつつある(Kehily 2009b:202)。多くのものが子ども存在に背負わ されており,皮肉なことに「本当に子どもにとって大切なこととは何か」とい う論点が忘れ去られる危険性もある。特に,子どもの安全への観点は国民的強 迫観念に近いとの指摘もある(Kehily 2009b:199)。「歴史上,現代のように道 徳的パニックの問題として子どもに焦点があてられたことはなかった」(Gillis

2009:124)という指摘からわれわれは学ぶ点が多いのではないだろうか。今や

放任はネグリジェンスと捉えられ,事故や責任を恐れて子どもに対して過保護 になる社会の現状を嘆く論調もある(Alderson 2000:101)。肝心の子ども自身 が忘れ去られるという危惧もある12)。観点を研究や考察に引きつけて言えば,

こうした子ども注目の時代(誇張の時代)であればあるほど,子どもを冷静に 分析・理論化せよという指摘(James et al. 1998:197)に耳を傾ける必要がある。

これは少子化の状況も背景にある。「希少価値」としての子どもという発想 13)。このことが「子どもの権利」という発想と深い関連性を持つことは想 像に難くない。

こうした子どもへの着目は,子どもが「科学」されることでもある。科学と して学問として,子どもが言及され,論じられ,研究されるのである。子ども は観察され実験の対象とされ,様々な角度から研究の対象とされるに至る。ま さに,「幕開けした 20 世紀が,『児童の世紀』であり得たか否かは別として,

『児童研究の世紀』であったことだけは疑うべくもない」(本田 2000:33)ので ある14)

12)「よい教育制度も,良質な教育環境も,そして,教育的な子ども文化も,すべて『子どものた め』という価値の具現体である。しかし,これら価値実現に向けられた情熱によって,肝心の

『子どもそのもの』が覆い隠されるという転倒が生じてしまったのは,いつ頃からだったろう か」(本田 2000:186)。

13)「『子ども』という存在が,多産多死の『周縁的存在』ではなくなり,少産少死の『中心的希 少価値存在』へと変わった」(本田 2000:62)。

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第節 本質主義から構造・関係論へ

前節で紹介した子ども論・子ども学の議論であるが,そこでの大きな論争点 のひとつは「本質主義対構造・関係論」という図式である。そのことについて 本節では考察してみたい。

まずは本質主義である。子どもの本質(それが子ども「そのもの」となる) 何か特定の性質や特徴に探り当て,それを理念化・イデオロギー化し,あるい は理論化していく。たとえば,普遍化可能な発達概念(発達時期・発達段階 15)が縦横に語られ(その批判として Woodhead 2009a),「発達は子ども存在 の暗喩」(Qvortrup et al. 2009:9)となり,常軌化の言説が巷に横溢し16),そし て教育学が正統な学問体系として構築されていくのである。そうした言説を批 判的に捉えるならば,そのような本質主義的発想は子どもを対象化・客体化の 存在に押し込め,おとなと子どもの間の権力関係を強化するものだという批判 となる。こうした本質主義的な想定は実はかなり強固なものとして存在してい るのではないか。子ども学の発展とともに,本質主義の鍵概念としての発達概 念に種々の角度から批判が加えられてきたゆえんがここにある。

本質視された各々の特徴に対して様々な感情が付加されていく。曰く,子ど

もは邪悪(evil)で時には悪魔的な存在である。この場合,少年犯罪の実行者

がすぐ引き合いにだされる。10 歳の少年が 2 歳の子どもを殺した英国での James Bulger 事件(1993)のように,子どもが犯罪者で被害者も(年少の) どもである場合,その邪悪さは殊更に強調される。そして,いったん邪悪な存 在として認知されれば,彼らは悪い意味での有能さを発揮すると考えられる。

ゆえに矯正していかなければならない。この邪悪な子どもとほとんど年齢が変

14)もちろん,子どもについての勃興期の科学や学問,そして時代を下って近年の子ども論・子 ども学が研究としての「本流」にあるか否かは別問題である。むしろ,「二流視」されていると の指摘もある。「子どもを研究することは低い位置づけであったし,学問的経歴を積み上げる際 の有望な戦略としては見られて来なかった」(James et al. 1998:127)。

15)ピアジェ等の発達心理学の「普遍性」批判については,(Walkerdine 2009)を参照せよ。

16)常軌化言説としての発達概念を重視した近代社会は同時に,常軌化しない子どもに対しても

「注視」していく。この二重性について本田和子は印象的な筆致で次のように述べる。「20 世紀 とは,大人とは異なる子どもの特性を『成長・発達』と徴付け[ママ],それを科学的に究明し ようと情熱を傾けた時代である。そして,その結果を基礎として彼らの成長を支えることを教 育の使命とした。しかし,同じ 20 世紀が,その片側で『子どものままでいること』に執着し,

『成長しない子ども』に特別のまなざしを注いでいたとは……」(本田 2000:85)。

(12)

わらない場合でも,他方で子どもは純真無垢で傷つきやすい存在であると強調 される(Kehily 2009a:5)。純真無垢であればこそ,おとなや社会の側は子ども を「教導」する必要があり,そこから社会化の発想も強く生まれてくる。たと えば,前述の時間と空間による規律である。

子どもの純真無垢さにおとな側のかなわぬ夢や希望を仮託する発想17)もし ばしば見られる。子どもへの願いを,自らの(しばしばエゴイスティックな) いなしと分け隔てることなく,子ども存在という「本質」に託し,その実態を 糊塗し,隠蔽する危険性である。おとなが思いたいように子どもを捉える危険 性である。「子どものため」という用語法によって,そこでの真の意図や動機 が隠蔽され,場合によっては,まさしくイデオロギー化される。児童文学運動 や教育運動などの「『童心主義イデオロギー』が,『生身の子ども』を標的と」

(本田 2000:109)する危険性について,われわれは常に警戒的である必要があ

るだろう。

こうした有能/無能のご都合主義的使い分けは,少年司法でも現れる。子ど もが犯罪者の場合は責任(能力)ありと判断され,子どもが被害者の場合はた だ保護されるべき存在であると捉えられる傾向が現代社会には存在している。

「法的ディスコースは子ども存在の多様な構成を支持する。時には『受動的で イノセントな犠牲者』,一方,異なった機会には『狡猾で邪悪』」(Monk 2009:

193)となるご都合主義である。制度維持の目的で子どもの権利や自由が用い られる場合さえも想定可能である。

マスメディアやメディア機器の操作などにおいても,子どもの有能/無能の 本質主義が立ち現れる。一方ではわれわれおとなの能力を軽々と超えるような サイバーキッズとして,他方ではマスメディアの悪影響を直接受け食い物にさ

17)こうした発想の根底には,子ども = 親の一部と見なすことに象徴されるような,子どもを所 有するという考え方がある。参照,(Archard 2002:149)。子どもに対する現代的な親の「所 有」感を示唆するものとして,離婚後の訪問権の交錯がある。離婚後の両親の間を行き来する 子どもの苦境について,Jensen は次のように述べている。「子どもたちはあたかも両親の所有 物であるかのように共有されていると感じるかもしれない」(Jensen 2009:151)。

もちろん,こうした発想がどこまで普遍的に汎社会的に存在するのかについては,さらなる 検討が必要であろう。子どもの文化人類学について種々の業績を持つ Montgomery は,Kehily との論文において次のような意見を述べている。「イノセンスと childhood は現代西洋社会の childhood の構成において強固に関連づけられているが,歴史的文化横断的な証拠によれば,

このことは時間や空間を越えて普遍的に共有された仮定ではない」(Kehily & Montgomery 2009:88)。

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れる被害者として子どもはしばしば描かれる(Buckingham 2009)。したがって メディアの発達した状況は子どもを「解放」する福音的状況だと捉える立場も あれば,悲惨極まりない状況であると捉える立場もありうる。もちろん,後者 の立場であるからといって,その「管理」は容易ではない。今や携帯機器の存 在によって,寝室でもどこでもそのアクセスは縦横無尽であるからだ。

子どもイコール純真無垢という発想法は,子どもは白紙な状態で生まれ,そ もそも子どもの存在自体がタブララサ(邪悪さにもすぐ染まる?)であるという ロマン主義的な発想から来ていると言われる18)。理念としての,理想型とし ての子ども像である。そして,理念型・理想型として子ども像が立てられれ ば,その「喪失」は悔やまれるに違いない。われわれはその失われた自らの子 ども時代を懐古するゆえんがここにある。おとなの側が持つ強烈なノスタルジ ーである(James et al. 1998:66)。たとえば,世俗化された現代社会において

「永遠」の観念が放棄されてしまっていても,失われた子ども性の中に永遠を 見ようとし,そこにおとな自らのアイデンティティの源を求めようとする傾向 があると Gillis は指摘する(Gillis 2009:123)

こうした子ども(の捉え方)に関する本質主義の難点はたちどころに思い浮 かぶだろう。まず,本質主義は子どもの行為主体性を高く評価しない。そのこ とについては次章において若干検討したい。ここでは,子どもの存在およびそ の特質は上記のような一点に集中的に表現されるような単純なものではない,

という批判に注目したい。たとえば,そうした集中的表現を反駁できるような

「特質」がたちどころに提起できるのである。あるいは子どもとはそんなに単 純な問題背景から生まれ立ち現れてくるものではないという批判である。複雑 性からの批判と言っても良い。その反駁を理論化した知的な潮流が構造・関係 論的な子ども理解であり,そうした理解に基づく子ども論・子ども学の展開で ある。

第節 構造・関係論的な子ども論・子ども学

子どもはさまざまな社会的文脈において生まれ育ち,そして子どもは自らそ

18)文学に見られるロマン主義的な子ども本質主義として Hunt は次のように述べる。「19 世紀 の前半を通して,生来に邪悪でありゆえに堅固に管理される必要があるとされる子どもの観念 は,純粋かつ自由で神に近い存在であるという子どもの『ロマン主義的』観念と緊張関係にあ った」(Hunt 2009:56)。

(14)

の文脈を解釈し超越していく。もちろん,構造・関係論的な理解に基づく子ど も論の幅は広い。その中で最近,注目を浴びてきているのが,社会理論として の子ども論・子ども学という視点である。子どもそのものだけに注目するので なく,子どもをとりまく環境・諸条件をも同時に捉えていこうとする構えであ る。標語風に言うならば,子ども存在とは本質ではなく解釈なのである。子ど もは家庭だけで完結して育てられるわけでもなく,あるいは学校だけで完結し て教育されるわけでもない。そこでは家庭化・学校化の契機を著しく強調した 子ども論を克服することが求められている。諸要素の「関係性」が重要とな る。単純な本質主義的イデオロギーを乗り越え19),「何が子どもを子どもたら しめるのか」という視点を失ってはならない。相互作用主義や関係論的発想に おいて,子どもとは諸条件(特におとなと子どもの関係性)の中で相互作用的に 構造づけられるとされる(Honig 2009:67)。あるいは,子どもというカテゴリ ーそのものがおとなとの関係性において立ち現れ,その差異によって明瞭化す るという発想と言ってもよい(本田 2000:177)(James et al. 1998:66)。こうした 発想・視点は,子どもの存在を社会構造や歴史構造の中で広く位置づけ直すと いうことである。研究としてそれを捉えるなら,発達心理学や教育学を子ども 論の専売特許にするのでなく(教育や心理学で子どもを扱うのは当たり前であり,

社会科学や社会問題として子どもを扱うことこそが重要であるという発想),包括的

でありながらも本質主義的でない理論を子ども論の基底に据えるという発想で ある。

子どもの周囲には多様な関連要素がある。たとえば,物質的要素,心理的要 素,法的政治的要素,文化的要素等々。もちろん,特定の構造の中で簡単に子 ども存在が定義されてしまうのならば,それは本質主義に逆戻りするだけであ り,構造・関係論的な立場の子ども論にとっては自己矛盾である。また,子ど も存在がそうした構造の中に規定されてしまうべきだという主張に対しては,

積極的に行為主体性(agency)や権利からの批判も想起される(本稿第章参 照)

構造・関係論的な見方は,子ども存在を単線的な制度に押し込めることにつ

19)子どもに関する本質主義的理解は「子どもらしくない」イメージを子どもに押しつけること でも起こりうる。たとえば,「子どもらしさが失われた子ども」,「おとなびた子ども」という紋 切り型の理解も本質主義的なものである。児童文学におけるそうした本質主義的な子ども理解 につき,参照(Gillis 2009:120)。

(15)

いて厳しく批判する。その批判の背景には,たとえば家族形態の多様化・複数 化の社会状況の変化もある。もちろん,社会状況の変化とそれに伴う子ども存 在の変化が常に礼賛されるわけではない。むしろ,新たな悲惨を生み出してい るという批判もある。種々の統計や調査を基にした Jensen の研究(Jensen

2009)によれば,家族形態の現代的多様化・複数化が子どもの経済的社会的苦

境を生む傾向が強い。ワーキングマザーの存在は今や子どもの経済的安定・保 障にとってのセーフティーネット的な存在となっている。「安定した共稼ぎ家 庭の子どもは経済的勝者」(Jensen 2009:149)とも言えるのである20)。ここで 押さえておきたいことは,家族形態の複数化は当然のことながらおとなによっ て進められているということである。さらに言えば,そこでおとなが自由に家 族形態を選択することによって,子どもの福利や安全が増しているのかと言え ば,Jensen の研究に示されるように,甚だ疑問が残る結果となっている。子 どもの最善の利益論を主張する場合でも,現代社会における家族形態の多様 化・多元化状況における子どもの最善の利益を丁寧に探る必要がある。

構造・関係論的な志向は,したがって子どもをめぐる条件を探っていくこと になる。本質主義を採らないわけであるから,子ども自体が場合によっては社 会の変数,時には「コスト」としてさえも捉えられる場合もある。皮肉なこと には児童労働がやみ,子どもがおとなに稼ぎ手としての便益を与えてくれるこ とをやめ,経済的にはコストになった時こそ,前述のように子どもの価値が重 視されるのである。子どもの働き手としての「経済的価値」が減じた時に,子 どもが持つ感情的な価値が生まれてくるという主張に対しては,親にとって子 どもが感情的に重要であることはいつの時代でも共通であるという反論も想定 されうる。だが,その感情の「ありよう」は時代や社会によって異なる(Gittins 2009:43)のである。

構造・関係論的な志向を持つ社会理論としての子ども論・子ども学はその理 論的方法論としても固有の枠組みを提起する。本質主義を批判するわけである から,当然のことながら,相対主義的な傾向を強く帯びる。特に,民族誌的な 分析視点は非常に重要だとされる21)。子どもという「民族」が持つ固有性・

不思議さ22)を再発見していくという発想である。あるいは観察者と観察対象

(者)が応答関係の中で語られる物語という発想である。

20)同様な趣旨から,両親が揃っていることの経済的有利さが子どもニーズ保障の有利さにもつ ながっていると主張するものとして,(Burtt 2002)がある。

(16)

子どもを民族として捉えれば,おとなという他の「民族」との関係が意識化 される。違う用語でこのことを語れば,それは世代の関係となる。構造・関係 論的な子ども論は世代論としても展開するとされる。「世代秩序(generational order)」という用語も目につく23)。もちろん,世代を非常に静的なものとして 捉え,スムーズな移行を単純に論じるのであれば,その世代論は本質主義的な 性質を帯びる。ここで言う世代論とは世代間の複雑な関係性を前提とするもの である。

では,こうした構造・関係論的志向の子ども論・子ども学にはどのような注 意点や課題があるのだろうか。まず,ここで強調されなければならないのは,

子どもを含む人間にとっての超越の契機の重要性の確認である。「人間は自由 という刑に処せられている」というサルトルの言を待つまでもなく,否応なく 人間は自らが置かれた文脈をしばしば超越する存在である。文脈に完全に規定 されつくしてしまうということはありえないのである。したがって,行き過ぎ た文化相対主義者の主張のような,子どもが特定の文化に影響されつくされて しまうと見なすことは,新たな普遍化の志向を持つものであり,その点におい て普遍化志向の発達心理学者と同じであるという批判(James 2009:36)も成り 立つ。

つまり,本質主義と同じく構造・関係論的志向も実相から遠く離れた「作ら れた」イデオロギーに進んでいく危険性がある。構造・関係論的志向は,本質 主義がしばしば陥りやすい安易な子ども像の想定に振り回されないという利点 がある。ただし,構造・関係論的志向を持つことによって,複雑であるに違い ない「子どもをめぐる構造」が容易に捉えきれると考えてしまえば,本質主義 と同じ難点を抱え込んでしまう。本質を完全に理解したと標榜することも,構 造を完全に理解したと標榜することも実相からずれていくのである。

21)民族学・文化人類学的視点からの子ども論の近年の業績として,(Montgomery 2009)

(Kehily & Montgomery 2009)がある。文化相対主義的な観点からは,たとえば子どものセク シャリティについてわれわれの「常識」を覆すような知見も報告されている。ただし,子ども のセクシャリティの基本的な部分が文化によって規定されるのか,あるいはフロイト説のよう に生理学的に所与のものなのかについては更なる検討が必要であろう。参照,(Kehily & Mont- gomery 2009:83)。

22)Rogers によれば,ピアジェは子どものことを「認識上の異邦人(cognitive aliens)」と捉え ていた(Rogers 2009:145)。

23)「『世代化』を通して,制度化された特徴的な実践を通して,子どもは子どもになるのであり,

そしておとなはおとなになるのである」(Honig 2009:71)。

(17)

本質主義的志向対構造・関係論的志向という点から,現在の子ども論・子ど も学のさらに深めるべき焦点がどこにあるのか,特に規範的な議論としての焦 点がどこにあるのか。そのことが次章への橋渡しの課題となる。その前に,こ こで子ども存在および子どもを見る視点を整理検討する際の有益な枠組みを紹 介しておこう。それが,James らが提起した「子ども存在の社会研究のため の理論領域」である(James et al. 1998:195-218)

James らは,子ども存在を捉える視点としてつの軸を立てる。そのひと つが,自律および他律につながる軸である。①自律的な極として「行為主体 性」「差異」「ボランタリズム」を置き,②もう一方の他律的な極に「アイデン ティティ」「構造」「決定論」を置く。さらに,もうひとつ普遍化志向と特殊化 志向という軸を置く。A普遍化志向の極には「普遍主義」「グローバル」「継続 性」が置かれ,B特殊化志向の極には「特殊主義」「ローカル」「変化」が置か れる。そして,つの軸の重なりによって,次のようなつの子ども(論) 捉え方を示す。

Ⅰ 自 律 か つ 普 遍(① か つ A):「マ イ ノ リ ティ グ ルー プ と し て の 子 ど も

(Minority group child)」人権主体であるような子どもの捉え方であり,子ど もを有能で自律した自己決定者とみなす。

Ⅱ 他律かつ普遍(②かつA):「社会構造的な子ども(Social structural child) 汎社会的に存在する子どもという集団を想定する。少なくとも当該社会内で は均一の子ども像があるとされる。

① 自律的 部族としての 子ども

マイノリティ グループとし ての子ども

B 特殊化志向 普遍化志向 A

社会的に構 成された子 ども

社会構造的な 子ども 他律的

(18)

Ⅲ 自律かつ特殊(①かつB):「部族としての子ども(Tribal child)」子どもを 非常に特殊な「部族・民族」として捉え,その独自性は大いに認め(たとえ

ば子どもの遊びや若者文化に注目する),時間空間に分節化された各々の子ど

も集団の固有性を強調する。

Ⅳ 他律かつ特殊(②かつB):「社会的に構成された子ども(Socially con- structed child)」特定の社会,特定の時代の構造に規定されきってしまう子 どもという想定である。

James らはこの類型化が必ずしも截然としたものではなく,各々の類型の オーバーラップも十分にありうるものだと主張する。この類型化はあくまで今 後の子ども論・子ども学の整理枠組みとして提案したいと述べている(James et al. 1998:206-207)

これまで論じられてきた本質主義は明らかに普遍化志向を強く持つものであ るし,構造・関係論的志向は他律的志向を持つものと言えるだろう。ただし普 遍化志向を強めれば強めるほど,現実の子どもに生起する豊穣なリアリティが 喪失するであろうし,また他律志向を強めても,自律の契機を完全に消滅させ ることはできないし,させるべきでもない。要点は,James らの主張と同じ く,その領域の組み合わせ・強調にあると言えるのではないか。普遍あるいは 特殊のどちらかの志向だけを強調すれば良い話ではないし,自律-他律の併存 性を忘れた自律あるいは他律志向も子どもおよび子どもが置かれた実相から遠 く離れていく。

第章 子ども論・子ども学から子どもの権利論へ

第節 子どもの権利論と子ども論・子ども学

前章までの子ども論・子ども学を積極的に意識した子どもの権利論があると すれば,それはどのような形となるのだろうか。子ども論・子ども学の中の規 範的議論として子どもの権利論を位置づけるという発想を子ども論・子ども学 は採用する。もちろん,子ども論・子ども学を経由せずとも種々の子どもの権 利論は構成されてきた。むしろ,実定法を基礎とした権利論のように,特定の 子ども論を経由しない権利論は十分にありうる。

では多少なりとも子ども論・子ども学を意識した立論はどのようなものにな

(19)

るのだろうか。まず言えることとして,子どもの権利論だからといって,複雑 な社会構造を常に意識した理論構成になるとは限らないということである。む しろ,人権は本質に向かう傾向がある(本質主義的な子どもの権利論)。子ども の権利論の場合,保護やニーズの普遍的な重要性が説かれ,そうした語法によ る本質主義(普遍主義)がまず思い浮かぶ。子どもに必要なニーズは○○であ り,それを保障することが何よりも肝要であるという主張である。もちろん,

子どもに必要なニーズが何ひとつ示唆できないという主張をここで展開したい わけではない。本質主義的な子ども論の限界性からは,文脈超越的にニーズが 確定されるという視点が批判される可能性を指摘する必要があるということ だ。ちなみに歴史的には,保護やニーズのディスコースの普遍性が批判され,

権利ディスコースにとって代わられるという流れがある(Kehily 2009a:13) ここで強調しておきたいことは次のことである。保護ディスコース,ニーズ ディスコース,権利保有(rights-bearing citizen)ディスコースと,どのような ディスコースを採ろうとも,そこでの子ども観は,少なくともそれらのディス コースを単独使用する場合は規範的かつ/あるいは事実的な意味での本質主義 に即したものである。そして,そうした本質主義的な子ども理解は,事実の問 題として実態と異なるし,また規範的な観点においても妥当ではない(リバタ リアン的な発想による子ども論・子どもの権利論はその帰結を考慮すると妥当では ない)

構造・関係論的な方向性は本質主義批判としては有効であろう。人権論の観 点から言って権利内容が規定し尽くされることはない。特に,子どもは「不思 議さ(strangeness)」に開かれている点において規定しつくされるものではな い。開かれた構想の権利論にする必要がある。人権論本体はその方向性を指し 示すにすぎない。ゆえに常に新たな解釈に開かれた,その限りでは曖昧な理論 構成となることを,権利論は言わば「運命づけられている」のである。

第節 子どもの自律性(行為主体性)

前章の課題として,構造・関係論的志向を持つ子ども論・子ども学は子ども の自律性をどのように捉えなおすのかという点があった。この点を簡単に検討 し,本稿のまとめに入っていきたい。

自律に関わる傾向として,子どもを社会的行為者(social actor)や行為主体

(agency)を持つ者と見なすことが現在の子ども論における傾向となってい

(James 2009:34)。子どもが行為主体性を持つということを仮定するならば,

(20)

どんな行為主体性なのか,その行使のためにどんな自由を子どもに与えれば良 いのかを考える必要がある(James 2009:43)

本来であればここで,行為主体性を含む自律性観念に関して検討を本格的に 加えていく必要があるだろう。だが,紙幅の都合上,子どもの自律性が次のよ うな観点から捉えられることを示唆しておくにとどめたい。すなわち,①能力 としての自律,②特質としての自律,③権利(規範)としての自律である。

能力としての自律について考えてみよう。抽象的な思考能力を子どもの発達 のゴールに見立て,その能力の発達段階をピアジェは説いた。ピアジェを中心 とした能力の発達段階論は児童心理学の射程を超えて 20 世紀の子どもに対す る見方を基本的に規定してきたと言えるだろう24)。その影響力が大きければ 大きいほど,批判の目も厳しくなる。たとえば,子どもの能力はピアジェらが 想定したほど「低い」ものではなく,特に,実験室の中で示される能力ではな く具体的な文脈・状況において示される子どもたちの「有能さ」を実証した Donaldson の研究が挙げられる(Donaldson 1978)25)。また,女性に多く見られ る「ケアの倫理」から,自律性を唯一の能力の高低指標とすることに異議を唱 えた Gilligan の研究(Gilligan 1982)がつとに知られているところである。

能力としての自律性は上述のように,その単線的な発達段階に対して批判が 加えられ,疑問が投げかけられていることは間違いない。ただし,発達指標と しての自律性に批判が加えられたからといって,自律性観念が全否定されるわ けではない。それは事実の次元でも規範の次元でも残る部分が存在している。

その「高低」を問わずに,つまり特定の自律性の評価を伴わずとも,自律の 内容を問うことは可能である。「特質としての自律」「人格特性としての自律」

「意向としての自律」などに示される自律観念が成立する枠組みである。もち ろん,自律観念を拡張していけばいくほど,自律観念がわれわれの人格特性の 中核を占めているだけに,自律イコール人格に近づいていく。「もし自律が能 力や欲望,感情的感受性の混合物であるならば,それは人格の組成物(a con- stituent of character)である」(Callan 2002:122)。たとえば,いささか散文的で はあるが,次のようなタイプの各人格をイメージして頂きたい。

24)「子どもの発達研究は,20 世紀において確立され非常に影響力のある研究領域となった。特 にそれは知的・道徳的・人格的発達の包括的理論によってなされ,それは特にピアジェ,コー ルバーグ,エリクソンらによって形づくられた」(Woodhead 2009a:46-47)。

25)子どもの意想外の有能性は,小児医療などの分野においても示されてきた。参照,(Alder- son 2000)(Thomas 2000)(大江 2006)。

参照

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