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帷を開いた二人の志士 : 新島襄と森有礼

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帷を開いた二人の志士 : 新島襄と森有礼

著者 大江 流

雑誌名 新島研究

号 102

ページ 93‑112

発行年 2011‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013034

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欧米列強の日本を最終目標とした由来

 古代ローマ帝国は欧州、中東を制覇し、征服国からの富の収奪で、わが 世の春を謳歌していた。満つれば欠けるのならいで、堕落して群小国家の 鼎立になるのだが、ローマ法王の支配するカトリックの天下は続いてい た。13世紀航海暦の計算根拠天動説にカスティリャ国王が天動説の技巧的 複雑化を批判、地動説1)を示唆する。丁度この時、マルコ・ポーロの東方 見聞録2)で中国(元)の東海に黄金の国ジパングがあると紹介されたから、

当時欧州の海運国であったイスパニア、ポルトガルが大洋に乗り出す大航 海時代が出現した。

 その後、ローマ法皇のカトリックは乱脈をきわめたため、ルーテルの宗 教改革につながり、ドイツ以北の新教圏と南欧州のカトリック圏に欧州は 分離する。それからは国境を上下左右する近代国家への騒乱の時代とな り、欧州各国の軍事競争に拍車がかかる。当然近代兵器が出現し、戦乱を 知らない大陸や諸島の国々はジパングを目指す欧米諸国の行きがけの駄賃 に征服占領されて、植民地となり、その富は収奪された。

 当初海洋の覇権を握り植民地の富を欲しいままにしたイスパニア、ポル トガルが欧州の覇権の推移で、植民地をイギリス、フランス、プロシャ、

オランダなどに奪われ、または独立国に変貌、とくに強い海軍国イギリス は植民地を全世界に展開し、大英帝国の夢を叶えた。忘れてならないのは 独立したアメリカ合衆国が短期間に、その広大肥沃な土地と資源で欧州列 強に劣らない力をつけたこと。ロシアがムラビョフ東征総督3)の下、極東 さらにアラスカにまで版図を広げ、傘下におさめたことである。

─新島襄と森有礼─

大 江   流

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 さて目標のジパング、日本のことである。確かに先鞭をつけたのは、ポ ルトガルで、先達に宣教師を派遣した。時は戦国時代、それが織田信長の 天下統一でキリスト教と織田政権は蜜月の関係になる。豊臣秀吉に政権交 替し、イスパニア、ポルトガルの野心を看破した秀吉は1582年バテレン

(キリスト教)追放令を発布、奇しくもサン・フェリペ号事件4)がそれを例 証することになる。1639(寛永16)年江戸幕府の鎖国令の完成で、以後230 年間、日本のキリスト教は歴史の形の上では消滅したことになる。

 1853年アメリカ合衆国のペリー来航で、日本が開港するや、欧米諸国は 究極の目標黄金の国ジパング目指して熾烈な宣教活動を開始する。幕府は その強大な武力の前に為する術を知らなかった。これが、その由来と顛末 である。

志士を生んだ背景

 歴史は人生と同じで、一回限りである。だが、相似形はある。幕末の志 士を生んだ背景は今の日本と酷似していると私は見ている。外交と内政の 危機的状況、いわゆる内憂外患である。蝦夷松前藩は樺太を領有し、その 影響力は沿海州に及び、山丹貿易で蝦夷特産の海産物を輸出して巨利を博 し、幕府の隠し財産だった。それがロシアの南進で沿海州はもとより、樺 太を占領される事態になり、松前藩の海産物輸出の利益のみならず、現地 の請負漁場も閉鎖する始末で、財政の窮迫を招く。(別紙参照)

 俗に幕末という1858(安政5)年から1867(慶応3)年は前項で述べた ように、幕府は欧米の砲艦外交に、その要求を受け入れるのを余儀なくさ れた。安政5年、老中堀田正睦に日米通商条約を勅許請求させたが、朝廷 は許さず、逆に尊皇攘夷を指令される始末5)になった。この状況下、欧州 列強に屈した幕府は独断で開港と外人居留を認め、叛く藩主には降格や謹 慎蟄居を命じ、幕府の政策に異論を唱える学者たちを投獄処刑する強行策 をとった。安政の大獄である。これが逆に攘夷論者の火に油を注ぐ結果に なり、外人居留者の殺傷事件、外国艦船への砲撃の形で激化する。これが 反芻されるから、治安は乱れ、幕府の権威は地に落ちる。

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 外圧は誰の目にも明らかで、放置すれば日本は明日にも外国に占領され 兼ねない状態で、幕府に政権を委ねておけない緊急事態だったのである。

内政は財源が逼迫し、地租徴収の強化と商人の搾取が、買い占め売り惜し みとなり、武家の堕落とともに、一揆、打ち壊しが全国的に広がった。莚 旗を立ててお上に謀反するというのは余程のことである。幕府はついに武 家(旗本)の町人(札差)への借金を破棄(踏み倒し)する棄捐令6)にも 及んだ。

新島における士魂

7)

 群馬の藩主板倉勝明は英明で、幕府の末路を読取り、日本の次の世を背 負うに相応しい人物を育て上げようと決意する。述べたように、日本の内 憂外患は誰の目にも明らかで、欧米列強に植民地化されるのは時間の問題 だった。

 板倉勝明は幕府が松前藩の樺太から沿海州に及ぶ北方の権益をロシアに 奪取された現実に、幕府が海防の必要性を認識、欧米の知識を得て、築地 に幕府軍艦操練所(軍事専門学校)を設立したのを知っていた。1846(弘 化3)年、藩の若者を抜擢して入校させている。その2年後、嘉永1年に は藩学義務教育のため、漢学所を創立し、将来を担う若者に正しい教育を 志向する。その素養を高め、異変に対処できる人物を育てるのが目的だっ たが、これでは不十分と判断する。欧米先進国の知識を吸収し、その力の 因って来るところを解明しなければと、ついに長崎から蘭学者島田順輔を 招く。1856(安政3)年、新島七五三太13歳、抜擢された3人の最年少だっ た。祐筆の父民治への信頼はもちろんだが、勝明藩主は彼の天分を見抜 き、新島七五三太こそが藩、ひいては今後の日本の生存に不可欠な人物と 思い入れたと私は判断している。翌年勝明は薨じているから、相当厳しく 己の意志を七五三太に叩き込んだはずである。もはや彼は勝明藩主の分身 であり、藩に対する、国に対する忠誠、それを私は士魂と言いたい。勝明 の死後弟の勝殷が後を継いだのだが、島田の蘭学は打ち切る。彼は漢学所 の助教授に七五三太を任じ、その2年後、自身が幕府の命令で大阪へ新島

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民治を同行赴任したとき、祐筆職代勤を息子七五三太に命じている。いか にその知識能力を高く評価していたかが分かる。彼はさらに七五三太の識 能向上のための後途を策する。藩主は先君の意志を忠実に踏襲し、七五三 太を幕府軍艦操練所に入校8)させる。勝殷は彼の入校中に本家筋にあたる 備中高梁の藩主板倉周防守勝静が購入したアメリカのスクーナー(帆船)

快風丸の乗船を斡旋9)、江戸から備中玉島までの航海を体験させている。

七五三太はこの時オランダの軍艦(蒸気船)を見て文明の差を痛感、外国 密航を決意したのだから、大きい人生の転機だった。

 1863(文久3)年、眼疾と不眠症により、軍艦操練所を退学、操練所手 伝出役甲賀源吾に私費入塾、洋学に没頭する。漢学の「聯邦志略」、友人か ら漢訳聖書を借りて読み、アメリカの文明に憧れ、密航の国をアメリカと 決めたようだ。

 さて、江戸でこれほどの勉学をするということになると、かなりの学費 が必要になる。国家老尾崎直紀に「今にして学ばずんば」と金策を依頼し ている。さらに箱館の諸術調所入学のため江戸を発つとき、25両の小判を 手にしていた。明らかに藩庫から出た大金である。不思議なのは七五三太 の脱国1年後の1865(慶応1)年6月、父民治から藩大目付へ「倅七五三 太、箱館にて修行の期限切れたるも、なほ未熟につき1年継続」の許可願 いが提出され、翌年には同じく「七五三太、ロシア人と測量のため船出、

風雨で遭難し、行方不明」と届け、いずれも、すんなりと許可承認されて いることである。ここまでくると、七五三太は藩の輿望(彼の脱国への藩 ぐるみの工作)を一身にうけていることで、輝く希望の星と言っても過言 ではない。逆に言えば、彼は安中藩のため、国のため、この期待に応えな ければならない責務があった。その真剣さは接する人を捉えて放さない、

感動的なものにまで昇華していたのだ。

森におけるラジカル(急進性と心理の追及)

 薩摩藩の森は安中藩の新島とは比較にならない。薩摩は大藩で外様、江 戸とは隔離しており、幕府の意向を気にすることもなかった。生麦事件後

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の1863(文久3)年、薩摩英国戦争10)でお互いの力を認識しあった両者は 和睦、薩摩は賠償金10万ドルを支払い、英国は薩摩の軍事的後ろ盾とな り、その留学生を受け入れる。森はその抜擢された15人の一人11)で、将来 の海軍提督になる予定だった。

 ところが、英国在住1年に満たず、留学生たちの後見人であり、英国外 交 に 大 き い 影 響 力 を 持 ち、 日 本 贔 屓 の ロ ー レ ン ス・ オ リ フ ァ ン ト

(Lawrence. Oliphant)が母とともに、アメリカのハリス(T.L. Harris)の 新生社(The Brotherhood of the Newlife)に入信12)する。

 蛇足ながら、オリファントが日本贔屓になったのは、彼が外交官として イギリス領事館東禅寺に勤務していた時、水戸浪士の襲撃に遭い、傷を 負って帰国13)するのだが、命を賭けた浪士の形相、続く薩摩の無敵英国艦 隊に善戦した日本人の根性に触れたことが、契機と思われる。彼に心服し ていた森たち6人はオリファントと行動をともにする。

 1867(慶応3)年12月ブロンクトンにある新生社に12人の日本人が集め られ学校が創設された。この時「日米もし戦えば」の論争で分裂14)明治政 府誕生前年のことであり、好機逃すべからずと、ハリスは神託と称し、森 と鮫島に帰国を勧めた。相応の教養をアメリカ、イギリスで身につけた二 人は明治新政府の1869(明治2)年9月以来、議事体裁御用を早速勤める15)

ことになる。

 20世紀初頭を代表するアメリカの詩人エドウィン・マーカム(Edwin Markham)が森を評価して、「人道の人であったから、森はラジカルで あった。なぜなら、ただラジカルである者だけが、世界を正すことができ るのだから」と述べ、伊藤博文が日本初の内閣組織に登用して曰く『日本 が産んだ西洋人(日本が当時もっとも必要とした人物。日本人離れした精 神と性格)』16)と称した。幕藩体制から急速な近代化を必要とした明治新政 府にとって、西欧人の真髄を身をもって習得した森の知識能力は不可欠で ある。短期間に日本国家を西欧のレベルに引き上げるには思い切った改革 を断行せねばならなかった。富国強兵の旗印の下、西欧文明を吸収するに は旧来の制度を打破する、それが国民平等化の廃藩置県であり廃刀令であ る。森はその矢面に立ち奮闘する。これは武士階層の集団的抵抗に遭遇、

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彼は内閣の責任を一人で被り下野17)する。士族の反発が後の西南の役の遠 因になっているのだから、どれほど凄い改革か理解できよう。西欧の律 令、制度を取り入れることから、日本の近代化は始まる。それは表面を真 似ることではなく、正鵠を得た知識、信念、実行力に基づくものでなけれ ばならない。

 明治政府が後に続く、太陽暦の採用、議会制民主主義の樹立、義務教育、

徴兵制度などなど、西欧化への諸制度を幾多の困難に遭遇しながら克服 し、軌道に乗せることができたのは、森たちを中心とする閣僚、役人の献 身があればこそと私は見ている。それは森のラジカルそのものである。

新島と森の接点

 新島がワイルドローヴァー号でボストンに着いたのは脱国1年後の1865

(慶応1)年6月であり、森の薩摩留学生がサザンプトンに上陸したのは同 年3月、新島は1年間の船内での英語実習、森は薩摩英国同盟の1864(文 久3)年以降多少の英語研修はあろうから、この時点では語学力互角とみ てよかろう。問題はその時の背景にある。

一、時の背景

 世界は西欧列強の軍事力に席巻され、東洋諸国はことごとくその植民地 と化し、ついに最終目標である黄金の国ジパングに矛先が向けられる。幕 府はフランス陸軍を模範とした近代化、天皇親政の官軍はイギリスを後ろ 盾として、日本を二分して争うことになり、収拾はフランスとイギリスの 青写真どうりに、両国の植民地に嵌る運命にあった。この国家的危機は大 小、親藩、譜代、外様を問わず、藩主たちは痛切に理解していたはずであ る。だから国の滅亡を避けるために身命を賭ける。もはや幕府は風前の灯 で、自活の道を模索せねばならなかった。それには藩の若い俊秀を選抜し て、西欧の先進文化を吸収し、同化せねばならないと決意する。当面の対 象国は幕府に鉄槌を下したアメリカと世界に君臨するイギリスと言うこと になる。

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 新島と森が出国した元治1年と翌慶応1年は幕府の鎖国令が生きている 時である。小藩安中の新島は脱国という密かな手段で、大藩薩摩の森は幕 府を歯牙にもかけず、堂々と藩費留学する。考えてみると、幕府直属の諸 術調所(今の国立大学相当か?)が箱館に創立され、居留外人や出入りの 外国船から先進的な知識や技術を取得するという学問が、国策として施行 されていたのだから、辻褄を合わせると、比較的出国は容易な環境だった ようだ。

 1863(文久3)年アメリカニューブルンスウイックのラトガンスカレッ ジで日本脱国留学生を受入れ18)ている。これは新島の脱国1年前で、この 大学には客死した7人の20代藩士の墓がある。おそらく慣れない環境での 必死の勉学の無理がたたったのであろう。

 この年は井伊大老が桜田門で討ち取られ、4連合国艦隊が長州を砲撃 し、薩摩とイギリスの戦争があった年である。密出国とその受け皿があっ たということである。

 幕府にとっても、その取締が困難で、その取り調べや逮捕どころではな かったであろう。新島以降脱国者が相次ぎ、慶応2年鎖国令は廃止され、

藩費留学が認められた。

二、新島と森の共通点

 共に英明藩主に仕え、その眼に叶い、藩の将来を託する青少年で、藩ぐ るみの支援と投資を受けている。二人とも藩内屈指の人物だったことを意 味する。また武士の身分は君主の馬前に死ぬのを本懐とする死生観で透徹 されているから、使命に対する忠誠心は並外れている。藩主は二人に日本 の直面している危機と、それに対する忠誠を叩き込んだはずである。

 次は二人とも西欧文明の拠り所をキリスト教と看破し、その国の人々以 上に教理に精通し、西欧理解の基盤が確立されていることだ。

 3つ目はアメリカ、イギリスの現地で受けた教養で、ともに良い母と師 に巡り合ったこと。新島における3人の母19)スーザン・H・ハーディー、

メアリー・E・ヒドゥン、エリザベス・T・シーリー、森におけるレディ・

オリファント20)新生社での教祖代理の女性教師21)、その知性と教養は教育

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に占める女性の重要性を認識し、当時の日本人と異なる女性観を身につけ たことである。新島の八重夫人、森の寛子夫人は理想像のようだ。

 4つ目は二人とも権力におもねることは無かったようである。新島は岩 倉欧米親善使節団の田中理事官の通訳兼補佐官として活躍するが、それは 契約によって同行22)し、従属ではなかった。森は政府の要として、縦横に 腕を振るい、信念を貫いている。また新島は幕府の忠烈な藩士、女ながら 鶴ケ城防衛に銃を執った八重を妻としたし、森は幕臣として罪に列してい た新井奥邃を救い、自分の分身としてアメリカへ連れて渡り、ハリスの新 生社で修学させている。それは狂いの無い人を見る目、権力に対する反骨 精神であろう。

 最後に後ろ盾であるが、新島にはアルフューアス・ハーディー(Alpheus Hardy)というボストンに根を下ろした知名人で、富豪かつ敬虔なキリス ト教徒がいた。アメリカ東部における彼の影響力はかなりのものがあった と考えられる。ハーディー夫妻は新島の脱国理由書に感激して後見人に なったという。

 森には心酔して従ったローレンス・オリファントその人と、新生社教祖 T・S・ハリスがいた。オリファントは大の日本贔屓で薩摩の留学生の面 倒を見た人である。彼はイギリス下院議員で、外交通として名が通り、イ ギリス政界に少なからぬ影響力を持っていた。薩摩の留学生を引率渡英し た寺島宗則を時の外相クラレンドンと会見させ、外相を説得し、さらに議 会へ二度にわたり建言、外相は駐日公使パークスに「帝権復興に協力せ よ」と命令を下したほどの力23)があった。

二人の結びつき

 1866年オリファントと行動をともにした薩摩留学生6人は一旦、マサ チューセッツ州モンソンアカデミーに学ぶ。11月、その中の1人がアン ドーバーに新島を訪ねている。

 日本を離れてから、初めて会う日本人で大変嬉しかったと新島は述べて いる24)これが二人の巡り合いと私は理解している。

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 1年後、新島はモンソンアカデミーにいる薩摩の留学生に会いたいと、

M・E・ヒドゥンに手紙を出しているから、その後も脈絡はあったはずで ある。1868年、森はタイミング良く帰国し、樹立したばかりの明治政府の 内政外交の組織機能整備のための要職につく。幕府の封建的政治組織か ら、西欧の進歩的な政治機構への脱皮にはアメリカ、イギリスで修学した 森の知識能力、それに卓抜した森の実行力が必要だったからである。

 脇道に逸れるようだが、彼の使命感と実行力ゆえに官職を追われ、そし て復権する経緯を説明したい。

一、森の官職追放とその再登用

 明治政府の革新的政策に正面から取り組んだ森は、述べたように廃刀令 の反乱で内閣の責めを一人で負い下野する。それも世間体を繕うために、

懲戒解雇という厳しい形である。

 森の兄、横山安武は政府閣僚が森に難問を押し付け、大問題に発展する と、弟一人の責任にして誰一人責めを負わない閣僚の腐敗に立腹、森が職 を追われた、その1年後の明治3年7月26日、『時弊十条』の建白書を竹頭 にはさんで集議員院の門扉に掲げ、切腹諌死25)する。それは朝野を震撼さ せ、2ケ月後の9月25日森に政府から東京出府命令が届き、外交官とな り、10月小弁務使米国在勤(米国公使)を拝命する。森が有能な人物だか ら登用したので、兄の切腹諌死とは直接関係はない、と言われればそれま でだが、タイミングと後の要職を見ると、兄の影響は大きかったと私は観 察している。

 ついでながら、森は薩摩藩士であり、武士の既得権益擁護のために奔走 したことを紹介しておく。アメリカ公使在任中、政府財政を圧迫していた 常識のない華族、士族への生活費負担(国家収入の3分の1)を解消する 施策(華士族に職業の自由を認め、家禄の3分の1を切り捨て3分の2に 禄券を交付して封建的特権の解消をはかる)に彼は反撃する。家禄を私有 財産と見做し、この施策は人民の権利に対する国家権力の許すべからざる 侵略と見た。だから、明治5年、その起債に訪米した大蔵少輔吉田の外債 募集に英文パンフレットを配布し、その成立を阻止しようとした26)。翌

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年、森は職を解かれて帰朝しているから、その要因にはなっているはず だ。善かれ悪しかれ、森には政府を恐れない反骨精神がある。苦境に屈し ない森の精神力は結局明治政府の廃刀令、引き続く廃藩置県の大業を成し 遂げた、その起爆剤になっている。また、米国公使在任中、岩倉英米親善 使節団の労をとり、つつがなく目的を達成させた。

二、その後の新島と森

 1867(慶応3)年、新島が薩摩留学生と会いたいとヒドゥンに便りして いること、翌年森は帰国しているから、その前に一度は会っていると考え られる。晴れて米国公使としてアメリカに着任した森はボストンで新島と 会っている。その感触から、森は新島が今日本に必要な学識と能力を備え た得難い人物と認め、真剣に明治政府に仕官するように画策しているよう だ。先ず日本政府に手紙で自己紹介し、新島がアメリカで何を勉学した か、帰国の意志のあることを述べれば、パスポートを取得してあげると約 束。さらにハーディ夫妻に新島に費やした、これまでの費用全額を問い合 わせたようで、新島は森公使が支払ってしまうのではないか?と心配27)し ている。そうなれば新島は日本政府の官僚で自由が無くなってしまうから である。

 森は新島を高く評価、政府に彼の知識能力を余すところなく報告してい るはずである。それが田中不二麿文部大丞(理事官)への推薦となり、岩 倉英米親善使節団の補佐官兼通訳として活躍することになる。森は新島の 願望を100パーセント受入れ、田中理事官に対等の処遇を認めさせてい る。新島は明治政府の官吏ではなく、契約によって行動した。それは彼の 信念であり、アメリカの養父母に報いる餞かも知れない。だから功績はす べて田中理事官のものとして報告され、新島の功績にはならなかった。田 中はそれを知る故に新島の政府仕官を勧めるのだが、最終的に新島はそれ を断った。田中の心中いかばかりか、もし私が田中の立場なら、怒髪天を ついたと思う28)

 新島は森の努力で正式に脱国罪を免ぜられ、藩費留学生と認められる。

パスポートも取得できた。

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 新島はこの後、アメリカンボードでの宣教活動に専念し、ゆるがない地 位を獲得する。

 1874(明治7)年、大阪のキリスト教伝道牧師ゴードンからアンドー ヴァー神学校の新島に協力の要請、神戸のグリーンからも、日本の影響力 を持つ彼の派遣待望が届き、彼の希望もあって日本での伝道を決意。ラッ トランドでの65回年次大会で、日本でキリスト教大学を設立すると演説、

5000ドルの創設基金寄付を得て、その11月日本に帰国する。神道の国で異 教を伝道する苦難が始まったのである。

 森は中央で明治3年の大・中・小学規則6ケ条、明治5年の学制公布な どに尽力していたはずである。日本の教育制度はこれまで全国画一的に組 織され、1879(明治12)年の教育令によって日本の実情に即応させるため の試練を積み、一時文部大書記、西村茂樹29)の私学論で、私学の興隆が あったが、1886(明治19)年、いわゆる学校令により、小学校、中学校、

師範学校、帝国大学などの学校体系の基本が成立した。高等女子校、実業 学校、専門学校が明治30年代に、高等学校は1920(大正9)年に制度化さ れる。

 こうした学校の制度化と翼賛運動が徐々に私学規制に波及してくる。こ の限りでは政府の国策に献身する森と、国策に左右されずにキリスト教の 伝道と、私学振興、自由民権思想の普及に尽くす新島とは思想心象に食い 違いはあったかも知れない。

三、欧米の知識文明を導入するために

(一)新島 襄

 新島は岩倉英米親善使節団の体験から、この程度の通訳ではそれを正し く理解するのは困難と判断、日本人には語学力、それも英語の力をつけね ばならないと痛感30)する。大阪での英学校設立は宣教師を教師とすること に難色があり断念。京都で協力者山本覚馬を得て、帰国翌年の1875(明治 8)年11月、私塾同志社英学校を設立する。その後の経緯は前項で述べた。

 1879(明治12)年、政府は「徴兵令改正」徴兵免除条件を私学に適用し ないと布令。新島は「教育を愛し、教育を盛んにせんと計る者の望みを烏

(13)

為に帰せしむるが如し。これ草莽の間の教育士を悲嘆流悌只ならず。激烈 切歯せしむるに至る。是実に官より愛国の士人を滅ぼせんと計るなり」と 慨嘆。1881(明治14)年、中学校教則大綱制定。中等教育の統一で、私立 学校数減少を招く。1884(明治17)年、新島、京都山城田辺の南山義塾で 挨拶。同志社大学の設立準備に取り掛かる。1886(明治19)年、学校令に より、私立中学校、専門学校が減少。新島がいかに苦戦していたか、理解 できよう。のみならず皇祖崇拝という国是から、異国の宗教キリスト教へ の弾劾は避けられず、明治12年私塾開業願いが京都府知事の許可を得て、

文部省に提出され、田中不二麿の特別の計らいで、J・D・ディビス牧師を 同志社英学校に迎え入れたにもかかわらず、京都府は学校視察のおりに外 国人教師が聖書を教えているのを目撃し、問題にした。新島は弁明書を提 出するが、許されず書き直しを要求され、再度弁明書を提出する。また、

新島の信念であった日本女性への教養と知性の付与、そのための女学校に 必要なアメリカ人女性の雇用と居住許可を申請したが、許可されない。新 島は寺島外務卿に血涙絞る陳情書を提出、非常な苦難を味わっている。

 これは京都の仏教徒(僧侶等)が、新島の邪教教育が仏教の脅威として 京都府に働き掛けたのが原因のようだ。さらに政府は開校4年目のこの 年、同志社は外国人の学校と指摘、同志社は廃校の危機に直面した。新島 はそれに反駁するための資金をA・ハーディーに要請している。それはア メリカンボードの資金によって設立された学校であり、新島は雇用人に過 ぎないとの解釈に基づくものだったからである。

 新島は政府の要職にある森にアドバイスと解決策を求めた。森は「新島 さんがアメリカンボードの資金では無く、自前の資金を用いるのであれ ば、学校を存続させる権利も、外国人教師を雇う権利もあなたにはありま す。外務省は毎年アメリカンボードから補助金を受けとり、それに依存し ているのを好ましく思っておりません」(現代語で読む新島襄p.114)。結果 的に新島は自己資金で学校経営を約束し、森は新島同志社のために必死の 擁護につとめた。新島はその人脈とコネを活用し、知力体力の続く限り欧 米の知識文明の導入と教育普及に献身した。

 その無理が祟ったのであろう。1890(明治23)年、同志社大学の開設を

(14)

見ず新島は46歳で生涯を閉じる。

(二)森 有礼

 1874(明治7)年末、新島が帰国した時、森は政府の外債2000万円募集 に反対したことなどから、アメリカ公使を解かれ、本国外務省に勤務して いた。明治9年特命全権大使として清国の李鴻章と、朝鮮問題について外 交交渉している。彼はその鋭い頭脳と潤沢な知識の故に、日本の直面する 難題に取り組まねばならなかった。30歳の時である。

 官学、私学の差別とも言うべき、明治12年の徴兵令改正の時には、彼は 英国公使に着任していたので、この間の事情は分からない。

 1884(明治17)年に参事院議官文部省ご用係りとなり、時代を担う青少 年の教育と育成に尽力することになる。翌年内閣制度が施行され、森は第 一次伊藤博文内閣の文部大臣に就任する。憲法草案の臣民の権限義務を臣 民の分際と改正させている。このあたりが伊藤の言う「日本が産んだ西洋 人」のいわれだろう。考えてみると新島と森は見えない糸で結ばれていた のではないかという気がする。

 1886(明治19)年、大規模学制改革を断行する。1は帝国大学令、師範 学校令、2は教育制度の集権化、3は国家のための教育を強調したことで ある。この年の暮、高崎正風(御歌掛長、後の枢密院顧問官)の邸に招か れ、国語教育で論戦している。

 1889(明治22)年1月文部省会議室で、森は「万世一系の国体を中心と した教育を志向したい」と論述。それは彼の信念であるが、同時にキリス ト教に違和感を持つ国民に対する理解を解く意味もあったはずである。

 この年、内務省官吏山口県人会児玉佐一の家で、刺客西野文太郎が森暗 殺の覚悟を披瀝している。彼は国粋主義者で「森が伊勢神宮で不敬行為を 働いた」と言うのが動機であり、理由だ。同年4月11日、文部大臣邸応接 室で、西野は凶刃を振るい、森を刺殺、森時に41歳。

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二人が描いた新生日本の青写真

 はっきり申し上げて、新島と森の存在が無ければ、明治の偉業は達成で きなかったであろう。藩主が藩の命脈を藩の俊秀に賭けた。二人にはそれ が痛いほど分かるから、藩と藩主の心を身の内に至誠尽忠の志を遂げたと 私は理解している。

 二人は武士であり、死生観の備わっていることも忘れてはならない要素 である。また修学は欧米の力と文明の因ってくるキリスト教という根本の ところから始めている。文字どおり命を賭けたもので、物見遊山とは本質 的に異なるものである。だから習得した英語も現地の生活から体得したも のである。学問は新島において当時の最高学府〔大学院相当〕を卒業。森 もモンソンアカデミー〔大学予科〕から、新生社での学習と厳しい労働の 中から体得した、生きた語学であることを念頭におきたい。

一、岩倉英米親善使節団で果たした功績

 森はこの時駐米公使の職にあったから、その根回し、通訳の斡旋などに 活躍、教育を担う文部大丞田中理事官に新島を推薦、その採用が田中の理 事功程15巻の報告書として提出され、明治前期学制制定や改革の基礎資料 になっている。つまり、新島という人物のところを得た選定の効果であ る。8歳の津田梅子を留学生として帯同しているのも苦しい通訳事情が根 にあるようだ。新島はまさに群鶏の一鶴と称しても過言ではない。

 他に使節団の受入れや視察について各国外務省との細かい打ち合わせな ど森の肩にかかった責務は大変で、100人を越える一行を2年にわたり面 倒を見た功績は絶大なものがある。

 次に新島であるが、田中理事官による復命書(理事功程)はその最も重 要な部分が新島の筆と苦心によるものと、田中自身が認めている。この限 りにおいて新島は日本の文部行政に正しい道筋を示し、正しい情報を提供 したことになる。

 新島はさらに兵部省の山田顕義理事官にドイツ兵制を採用するようにア

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ドバイスしたと信じている。それは日本が短期間で輝く一等国に駈け上 がった大きい要因となっている。アーモスト大学で親しく指導を受けた シーリー教授はドイツで哲学を学んだ人である。愛弟子の新島はドイツ事 情にかなりの学識と多少の語学力があったと信じている。大江流「新島襄 とその兵学」『新島研究95号』132頁以降に詳述しているので、参照された い。

二、閉鎖社会から自由民権社会へ

 重い緞帳を開くには殻を破る強烈な個性と、傑出した人物が必要だ。新 島と森はこの大役を果たしたのである。それにしても西欧と日本の懸隔は 余りにもひどすぎた。

1 は西欧では算用数字に統一されていたし、度量衡もメートル法の適用で 理解が速い。土俵を一つにしなければ、その文明にも速度にもついて行 けない。

2 は時刻が太陽暦で確立されているのに、日本は陰暦。1ケ月のズレがあ る。

  明け暮れ幾つそれも12支、1〜4更など幾通りもあり、ややこしい。

3 は職階である。武士と町人の身分格差、士農工商の世襲制、不満の種は 渦巻き、一見頑強そうだが、何時崩れても不思議でない脆さを抱えてい る。

最後に決定的な文明の差、西欧では蒸気機関による工業、運輸、通信、い わゆるインフラが整っているのに、日本では人馬の域を出なかった。

新島と森は教育に全力を尽くした

 焦眉の急、いかに西欧の先進制度、知識、技術を導入しようと努力した ところで、その受け皿が無ければ絵に書いた餅である。二人は国民一人一 人の知能レベルを西欧人並みに向上させなければならないと考える。西欧 の学識を取り込める能力を育成するということである。

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一、学校教育において

 明治政府も1番の大事と学校制度、義務教育31)を取り上げている。藩学 とも言うべき寺小屋を尋常小学校として敷衍徹底させる国策である。明治 5年に制定されているから、岩倉英米親善使節団出発時である。このとき は方向性を示しただけで、教育令で明確に規定されたのは明治12年であ る。明治11年までの私学振興が、私学の規制に入ったときである。逆に言 うと市民の向学心が官学の強制を嫌い、変形した政府への抵抗と取れない こともない。だがまたこの強制力故に義務教育は徹底する。一歩抜きん出 ていたプロイセンの学制を採用した日本はこの義務教育でイギリス、アメ リカと同等あるいはそれ以上の成果を上げることができた。文盲率世界最 低の快挙はそれを物語る。

 問題はそれ以上の学制にある。官学偏重は年を追って露骨になり、新島 が病に没し、森が凶刃に仆れると、富国強兵の風当たりはアメリカンボー ドを後ろ盾にする新島同志社英学校に苦難の道を歩ませることになる。

 今、紆余曲折を経て、義務教育は戦前の6年制から、9年に延長され、

高等学校も大学、専門学校の乱立でおしなべて危機に直面している。私は 日本の教育に命を捧げた新島、森の蘇生を念じている。

二、家庭教育において

 新島はアメリカに3人の母がいた。森には地位、身分、財産を捨てて、

理想のキリスト教を求めるレディー・オリファント、それにハリスの新生 社で女性師範代に接する。優れた教養と知性、たくましい個性と行動力、

日本の母と女性しか知らなかった彼等には驚天動地のできごとだった。そ れが母として子弟の教育をする。教育の基礎を二人は掴んだのである。教 養のある、たくましい母あればこそ、知性と教養を体得したたくましい子 供が育つ。

 当時の日本では女性は婦徳と言う衣を着せられた奴隷でしかなかった。

たくましい男勝りの居たのも事実だが、大勢には敵わなかった。

 新島は異国の母たちから真の愛情を受け、子育てを学んだ。だから同志 社に女学校を併設し、アメリカ女性教師を招聘する。女学生には男と同等

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の教育を身につけ、知性高い子弟を育成するに足る能力を修めるのが目的 である。

 森はさらに手厳しい明六雑誌に妻妾論を連載32)し、男尊女卑の弊風を非 難、男性の横暴を咎め、女性の奮起を促している。さらに彼は外交交渉の 閑談で李鴻章からヨーロッパとアジアの今後の見通しを尋ねられ「なお幾 世紀もの歳月を待たねばアジアはヨーロッパに追い付けない」と答えてい る。理由は神が神聖な地位を与えている女性に、アジアでは禽獣の扱い33)

をしているからだ。と述べている。

結び

 明治の革命を成就させた偉人、烈士、いわゆる志士は枚挙にいとまがな い。だが、その時何が大切で、何を為すべきか、を正確に判断できる学識 と実行力を持った人物を探すのは容易ではない。その革命は日本にとどま るものではなく、欧米列強を巻き込んだものだけに発展途上国の日本は先 進国の文化、科学、知識、技術を吸収するに足る頭脳が必要で、それを教 え導くのは欧米で現地の高等教育を学んだ、語学に秀でた人物ということ になる。

 明治政府の外国事情に関する知識は五里霧中といっても良い状況だっ た。巨大な資源を擁して躍進を続けるアメリカ、産業革命に成功し、世界 を席巻したイギリスは日本にとって最大の脅威であり、その情報を知るこ とは火急の大事だった。二人はその深奥を身をもって探り当て、日本の将 来に対する正しい青写真を提供したのである。文部行政(義務教育)にお ける先進国プロイセン、軍事学におけるプロイセン、ともにドイツを澪標 としたのは正解だった。それは新島のシーリー教授の薫陶であろう。

 何よりも家庭教育の根幹を母に置き、女性の教養と地位の重要性を説き 明かした二人の志士の勇気と行動力に傾倒したい。惜しむらくは共に40代 の若さで早逝したこと、もう10年長生きしていたら日本の運命は大きく変 わっていたであろうと私は考察している。

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別紙

ロシアの松前領地侵犯と占拠(ペリー来航まで)

  目的と行動   幕府・藩の対応

1795 樺太で日本船の貨物収奪 不問 1797 択捉島上陸、対馬威嚇

1798 近藤重蔵択捉に「大日本恵土呂布」標

1804 宗谷海峡来泊

レザノフ漂流民護送、長崎で貿易要求

南部、津軽藩兵に蝦夷地警護命令

1805 長崎にレザノフ居座り 貿易要請却下。諸国大名に警戒要請 1806 大泊で略奪放火

久春部落で、略奪放火

ロシア船来航取り扱い処置布告

1807 択捉、大泊を侵略 沙那集会所放火

津軽藩兵宗谷の警備、南部藩兵徴集 秋田、庄内藩に援軍命令

1811 国後島ケムライ岬に上陸米酒を奪う 国後島でゴローニン艦長ら8人逮捕 利尻島に来航

箱館に拘禁、松前移送。

1812 ゴローニン脱獄逮捕

リコルド鷹田屋嘉兵衛国後海上で捕縛 国後島センペコタンに上陸水を汲み取る。

1813 ゴローニンらリコルドに引渡し

1831 東蝦夷に来航 松前兵士撃退 松前藩主幕府へ飛報 清国へ俵物密売禁止、ロシア進出で 1836 漂流民を護送して択捉島に来航 浦賀他に砲台構築決意

1847 松前平館村に上陸、食料を請うて退去 ムラビョフ東征総督に就任

浦賀沿岸警備諸藩割当

1848 対馬、松前沿岸に、津軽藤島村に上陸 出羽で堺商人の大豆略奪 越後に来航

品川に砲台構築 諸大名に沿岸警備命令

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1849 対馬、隠岐、肥後にも来航

1850 ムラビョフ、アムール河口にニコライ エフスク建設

密貿易厳禁命令

1852 紀伊の漁民護送下田に来航 砲台構築進む 1853 使節フチャーチン軍艦4雙で長崎来航

ペリー軍艦3雙で浦賀来航

米、露の国書に将軍死去 回答遅延通知

1854 ペリー軍艦7雙で浦賀に再来、神奈川 条約

全面的に要求を受入

1) 『大日本百科事典ジャポニカ』 12巻、p.5、小学館、1971年。

『大日本百科事典ジャポニカ』 1巻、p.112、小学館。

2) 『大日本百科事典ジャポニカ』 17巻、p.22、小学館。

3) 『大日本百科事典ジャポニカ』 17巻、p.345、小学館。

4) 日本史年表日本史大辞典編集委員会編『日本史年表』p.243、河出書房新社。

5) 『日本史年表』p.332、河出書房新社。

6) 『大日本百科事典ジャポニカ』 5巻、p.319、小学館。

7) 『現代語で読む新島襄』p.10、丸善、2000年。

8) 『現代語で読む新島襄』p.14、藩主許可。

9) 『現代語で読む新島襄』p.18。

10) 『大日本百科事典ジャポニカ』 18巻、p.113。

11) 林 竹二「森有礼と新井奥邃 その1」p.155、東京草風館、1981年3月、『人間雑 感 6号』所収。

12) 「森有礼と新井奥邃 その1」p.153。

13) 『大日本百科事典ジャポニカ』 13巻、p.202。

14) 「森有礼と新井奥邃 その1」p.161。

15) 林 竹二「森有礼と新井奥邃 その3」p.211、東京草風館、1981年3月『人間雑感 8号』所収。

16) 「森有礼と新井奥邃 その1」p.148。

(21)

17) 「森有礼と新井奥邃 その3」p.212。

18) 「森有礼と新井奥邃 その1」p.143。

19) 『現代語で読む新島襄』p.112。

20) 「森有礼と新井奥邃 その1」p.158、160。

21) 「森有礼と新井奥邃 その3」p.226。

22) 『現代語で読む新島襄』p.98。

23) 「森有礼と新井奥邃 その1」p.154。

24) 『現代語で読む新島襄』p.78。

25) 「森有礼と新井奥邃 その3」p.213。

26) 「森有礼と新井奥邃 その1」p.162。

27) 『現代語で読む新島襄』p.96。

28) 『現代語で読む新島襄』p.106。

29) 『大日本百科事典ジャポニカ』 13巻、p.783。

30) 『現代語で読む新島襄』p.99、大越哲二「『理事功程』と新島襄」p.5、『新島研究』

第94号、同志社大学人文科学研究所、2003年。

31) 『大日本百科事典ジャポニカ』 5巻、p.512。

32) 「森有礼と新井奥邃 その3」p.205。

33) 林 竹二「森有礼と新井奥邃 その2」p.169、東京草風館、1981年3月『人間雑感 7号』所収。

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