著者 大越 哲仁
雑誌名 新島研究
号 106
ページ 12‑24
発行年 2015‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014627
新島襄海外渡航150周年記念シンポジウム
新島襄の海外渡航と中濱万次郎
大 越 哲 仁
1 海外渡航に至る新島の精神状況
1)「鎖国崩壊期」から開国へ
新島襄が新島七五三太(および敬幹)として過ごした安中藩士時代の日本 は、いわゆる「鎖国」、すなわち、幕府による欧米列強との外交の禁止と一 般の日本人に対する海外への渡航及び海外からの帰国の禁止政策が崩壊して いった時期であった。
1837年に、アメリカ船モリソン号が浦賀沖に来航し、日本人漂流民7名 を送還しようとしたが、幕府は無二念打払令を適用して撃退した。このモリ ソン号事件と、これを批判した高野長英、渡辺崋山らに対する蛮社の獄が、
いわゆる幕府の「鎖国」政策の最後の実力行使となったが、1840年にオラ ンダがアヘン戦争勃発の情報を幕府に伝えると、1842年、幕府は、無二念 打払令を撤回し、代わりに薪水給与令を布く。1851年には、ジョン万次郎 が帰国し、1853年のペリー来航にともない、彼は、老中首座阿部伊勢守に より江戸に召されて幕府直参となり、中濱姓を名乗る。
1854年の日米和親条約締結と1858年の日米修好通商条約及び蘭・露・英
・仏との修好通商条約の締結によって日本は開国するが、それはあくまで、
当該諸国との外交・貿易関係の樹立と同国人に対する開港・開市に限定した 開国であって、一般の日本人に対しては依然として出入国を禁止してい た1)。しかし、その頃から、漂流民が続々と帰国するようになった。1859年 6月には、ジョセフ・ヒコが米国に帰化した上、カトリック信者として帰国 している。
ジョセフ・ヒコの生涯を描いた吉村昭の『アメリカ彦蔵』には、このよう
な「鎖国崩壊期」の日本人漂流民数十人と、彼等を助けた多くの善良なアメ リカ人の姿が描かれている。
2)軍艦教授所と日本の改革者になるとの決意
新島は、1860年に幕府の軍艦教授所に入って航海術を学び始めるが、そ の頃、堂々たるオランダの軍艦と、それに比べてちっぽけな和船の姿を見 て、「我が国の全面的な改革と革新を行わなければならないという大志」2)を 抱くようになった。この志は新島の生涯にとって極めて重要である。この時 から新島の視線は、もはや安中藩という一藩に留まらず、日本全体の運命に 注がれ、日本の改革者となる決意を懐いたからである。その後の新島の生き 方は、まさに日本の改革者そのものであったように筆者には思われる。もと もと新島は上州武士の血を引く者だったが、生まれも育ちも江戸だったこと が、このように彼の視野の拡大において非常に重要であった。「江戸時代の 国とは自藩のことであって、国家意識、国民意識が生まれたのは明治以降だ った」という議論があるが3)、それは地方の藩民においては概ね該当するも のだろうが、特に「鎖国崩壊期」と開国後の幕末に江戸や開港地の空気を吸 った者は敏感に国家意識を育てていたのである。その典型が新島であり、当 時、江戸や長崎に出張り、後に新島と一緒に同志社英学校を創った会津藩の 山本覚馬もまた、その一人であった。
3)玉島航海と自由への憧れ
日本の改革者になるという決意を懐いた新島に到来したのが、備中松山藩 の洋式帆船・快風丸の玉島(倉敷)への航海同乗のチャンスであった。
西暦で1863年1月2日から3月3日まで、新島は快風丸に乗船して2ヶ 月余りの航海を満喫するが、この間に彼は、「自由に対する新鮮な考え方」4)
に満たされる。この玉島航海も新島の藩士時代において重要なエポックとな った。彼は、この航海で味わった自由が忘れがたく、藩の桎梏から逃れるた めに航海士として幕府に雇われることも考えるようになるからである5)。
4 )幕府軍艦組海軍からの誘い
一方、幕府軍艦奉行木村摂津守も新島に注目し、安中藩に対して彼を破格 の「当分15人扶持」6)で軍艦組に出役できないか、との打診を行った。新島 の出仕時(1859年、徒組除)の俸給は4両2分1人半扶持であった7)。1人 扶持とは、年換算で1石8斗(1.8石)、すなわち約1.8両であるから、4両 2分1人半扶持とは、約7.2両(4.5両+1.5×1.8両)である。これに対し て、15人扶持とは、約27両に相当し(15×1.8両)、新島の出仕時の俸給の 4倍弱という破格の厚遇なのである。この打診に対して、安中藩は、稽古に なるから行ってもよいが、幕府の直参となることは許可しない、と新島家に 伝え、父の民治が新島の意向を聞いたが、結局、彼はこれを断る。そのため に民治は、新島が当時患っていた眼病にかこつけてこの出仕を謝絶してい る8)。
新島が断った理由は、幕府海軍に雇われている人々の下品で放蕩な生活ぶ りに対して失望したためであった。新島は海軍奉行からの打診を真剣に受け 止め、海軍の人々のことを調べたのであろう。そして、彼らの生活ぶりを知 って衝撃を受け、こんな堕落した人たちとは付き合いたくない、と考えたの であった9)。ここに、当時の人々の中では比較的潔癖だった新島の性格が良 く表われている。
5)1863 年の精神的危機と危機脱出のための模索
新島が20歳になった1863年は、彼が箱館に渡ってそこから海外へ脱出す る前年であり、藩士時代の新島にとって極めて重要な年になった。
玉島航海で自由を味わった新島は、もはや安中藩一藩に留まる気持ちが無 くなったが、その一方で、幕府海軍という道も自分には向かないために自ら それを閉ざしてしまった。そのために、彼はこれからどうすればよいか思い 悩み、極度にイライラして、怒りっぽくなっていった10)。彼は精神的な危機 を迎えていたのである。
その危機から脱却するヒントを得ようとしたためであろう、この年に彼は 新たに英語の勉強を開始し、さらに、外国由来の書物をむさぼるように読み 始める。
その書とは、周知の通り、一つはブリッジマン(中国名裨治文)が中国語 で書いた『連邦志略』というアメリカについて漢文で書いた本である。彼は 同書を何度も読み、アメリカ大統領の選出方法、無月謝学校、貧民院などを 知って「脳みそが頭からとろけ出そうになるほど」驚く11)。新島はアメリカ の大統領制にあこがれ、アメリカのことを学びたいと思うようになるのであ る。その一方で、人々を犬や豚のように抑圧する日本の将軍を嫌悪し、
「我々は幕府を倒し、行政府の長はアメリカ大統領のように我々が選挙で選 ぶべきだ」と考えるに至る12)。1863年といえば、薩摩藩と会津藩が提携し て8月18日の政変を起こした年であって、まだまだ幕府権力が絶対的に優 勢な時期であり、「倒幕論」や「公儀政体論」が台頭するのは、1867年の土 佐藩・薩摩藩間の倒幕の密約と坂本龍馬の「船中八策」以降である。したが って、新島の「倒幕・公儀政体論」は、日本の近代政治思想上最も早期のも のの一つと位置づけることが出来る。
また、新島が読んで感銘を受けたもう一冊は、『ロビンソン・クルーソー』
の和訳本(『漂荒紀事』、黒田麹蘆がオランダ語から訳した重訳版)であっ て、彼は同書を読んで、外国を訪ねてみたいという願望をかき立てる。承知 の通り、『ロビンソン・クルーソー』はフィクションだが、記述の形態とし ては、フィクションではなく、あくまで「事実の正しい記述」として「英吉 利國魯敏孫嶇瑠須著」として綴られていた。そのために新島はクルーソーの 漂流記を事実として受け止め、クルーソーが出来たように、自分も海外でも 生き抜けると考えるようになったように思われる。
6)キリスト教の「創造主」との出会い
さらに新島は、その当時、上海か香港で発行されたキリスト教に関する書 物にも出会った。
もともと新島は、祖父の弁治から毎晩のように「バテレン由来之事」など を読み聞かされて、キリスト教を忌み嫌っていた人間であった13)。
その新島が、友人宅でキリスト教に関する冊子を目にする。彼は、「是コ ソ平生憎ム所ノキリシタン宗門ナルヘケレ、再三復読沈思熟考必ラス其ノ非 ヲ看破シテ呉ヘシ」14)と決意して、友人からこれを借り受ける。しかし、読
んでみると、その内容はそれまでの想像とは大きく異なり、宇宙の創造主で ある神と、罪という人類の病、その病を癒すイエス・キリストのことが書か れており、この3つの主題に彼は大きく心を動かされる15)。
7)「天父」思想とキリスト教による自由の獲得
しかし、新島の理解はそれだけに留まらない。彼は、その本に神が「天 父」と書かれていたことから、神を世界の創造主という自分の外にある客体 としての存在だけでなく、自分自身を創造してくれた、自分にとって特別な 存在である天の父として捉えたのである。
ただし、中国語でキリスト教の神を「天父」と表わすのは一般的である。
たとえば、太平天国を起こした洪秀全は、キリスト教の神を「天父」あるい は「天父上帝」、イエスを「天兄」と呼んでいる。しかし、新島の特殊性は、
神を文字通り、天における自らの父という意味で「天父」と捉えたことにあ る。ここに新島の精神の純粋性が見て取れるのである。
このキリスト教の創造論と天父の思想は、新島における封建的な価値観を 破壊させるものとなった。それ以降の新島は、家族よりも藩主よりも、なに より自分が天父の意思と考えるもののために突き進むようになるのである。
著名な聖書の言葉に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由 にする」(ヨハネによる福音書8.32)とある。まさに新島において「キリス ト教の真理」が働き、封建的な桎梏から彼を自由にしたということができ る。そして、後年、キリスト者として帰国した新島は、恩師シーリーから学 んだ言葉、「耶蘇〔イエス〕世ニ降リ自由顕〔ル〕、耶蘇教ナキ国ハ自由ナ シ」を語り16)、キリスト教と自由教育(リベラル・アーツ)によって日本を 自由な市民国家に変革させるために、命懸けで我が国初の私立大学設立に取 り組むのである。
8) 「宇宙ノ主宰ヲ探索シタキ了簡」と「五大洲ヲ跋渉シタシキ志願」
ところで、後年、新島は、海外渡航へ至る間の経緯について次のように語 っている。
〔上記のキリスト教の冊子を読んで〕必ラス此〔キリスト教〕ハ穿鑿ス ヘキ事ナルヘシト思ワシメタリ
其ヨリ段々ト此宇宙ノ主宰ヲ探索シタキ了簡カ生シ、又五大洲ヲ跋渉シ タシキ志願カ発シ、米国迄飛出シテ彼国ノ耶蘇教信法ニ接シ自ラ耶蘇教 ノ学校ニ入リ学ヒ…17)
「この広い世界には、キリスト教のように、自分が思い込んでいるものと異 なる事が沢山あるに違いない、だから、キリスト教の神を探求したい考えも 生じ、さらにまた、世界の5大陸を巡り歩いて、自分が知ったつもりでいて も本当はほとんど知らない様々な事を見聞してみたい」という希望が彼の心 中に起こったのである。
新島の海外渡航の動機について、伊藤彌彦氏は、「脱櫪」、くびきや庇護か らの解放18)と指摘し、本井康博氏は、「エクソダス」(自由への脱出)19)と指 摘されている。筆者も同意見だが、さらに付け加えれば、この「宇宙ノ主宰 ヲ探索シタキ了簡」と「五大洲ヲ跋渉シタシキ志願」という2つの意思、そ して、そもそも新島が海外に目を向けるきっかけになった、江戸湾でのオラ ンダ軍艦と和船との比較の衝撃で得た「我が国の全面的な改革と革新を行わ なければならないという大志」が、新島の海外脱出の動機になったと考えら れる。
新島が箱館行きの快風丸に再び乗船できると決まったとき、「近地留学」
していた駿河台の川勝光之助(光之輔)の英学塾で、彼は次の歌を詠んだ。
一襲弊袍三尺剣 回頭世事思悠々 男児自有蓬桑志 不渉五洲都不休20)
蓬桑の志すなわち天下に雄飛する志と、五洲〔世界の5大陸〕を渉らずん ばすべて休まず、という言葉に、当時の彼がすでに、箱館から海外渡航をし て「五大洲ヲ跋渉シタシキ志願」を持っていたことが明らかである。
2 箱館における新島の海外密航成功の要因
それでは、新島は1864年にどうして箱館からの密航を成功できたのか。
第1には、彼が比較的警備の手薄な箱館に行けるチャンスを掴んだからで あろう。
日米修好通商条約で1863年までに箱館・新潟・横浜・兵庫・長崎の5港 を開港することが決まっていた。しかし、条約締結直後から国内に沸き起こ った激しい攘夷運動の結果、兵庫(神戸)の開港は1868年、新潟のそれは 1869年に延期されたために、1864年における開港地は、箱館と横浜と長崎 の3港だけであった。そのうちの長崎は極めて遠方である。横浜は、当時の 日本の貿易の中心港かつ列強の艦隊の駐留港かつ攘夷派の武士による攘夷実 行の舞台であって警備は甚だ厳しく、まず密航が成功するべくもなかった。
一方、箱館は北辺の地にあり、貿易量を見ても、1864年当時、3港の輸出 入総額(ドル建て)の内、横浜は78%、長崎は19% に比べて箱館は僅かに
3% と極端に少なく21)、最も地味な開港地であった。そして、まさに新島が
海外渡航を行った同年旧暦6月に亀田御役所土塁(五稜郭)が完成し、従 来、函館港を臨む函館山の麓にあった奉行所が同所に移転し、新島が海外渡 航に成功した旧暦6月14日の翌日15日から箱館奉行小出秀実が五稜郭で執 務を始めた22)。したがって、新島が密航した当日の夜は、多くの役人が五稜 郭での業務開始準備に追われていたと想定され、その分、港湾の警備が手薄 になったと考えられるのである。
第2は、新島が当時として希有の「国際派」の、しかもアメリカでキリス ト教を学びたいという希望を持った武士であったために、アメリカ人である セイヴォリー船長の協力が得られたのであろう。
周知の通り、幕末の日本は、欧米各国と修好通商条約を結んでいるにもか かわらず、攘夷派の武士が外国人襲撃を繰り返した。その最初が、1859年 の露国の士官と水夫の殺害事件であり、フランス領事の使用人(中国人)殺 害事件である。1860年には、オランダ商船長ら2名の殺害事件が起こり、
1861年には、ヒュースケン殺害事件、東禅寺事件、1862年には、生麦事件
(リチャードソン殺害事件)が起こっている。
生麦事件当時、イギリス公使館の通訳だったアーネスト・サトウは、後 に、「生麦事件の発生は在日ヨーロッパ人を震え上がらせて、武士はだれで も外国人の暗殺者と見なし、道端で武士に会ったらできるだけ早く通り過ぎ て、自分の命がどうにか助かった、とほっとした」と著書に記している23)。 そのような外国人から恐れられた武士の中でほとんど唯一人、新島は、ア メリカ人のセイヴォリー船長に自ら会いに行って、「彼の国〔アメリカ〕之 学問修行いたしたく、且つ地球を一周せん」24)と述べ、さらに、同胞のため に聖書を日本語に翻訳できるようになるまで英語を勉強したい、と自己の抱 負を語ったのである25)。義侠心と信仰心をあわせもつセイヴォリーが、新島 の志に感動したのは間違いない。セイヴォリーが、日本人を密航させてはな らない、という日本滞在の船長としての立場を危うくしても新島を助け、さ らに、実際に自分が船会社をクビになっても一向に気にしなかった理由は、
彼が単に新島の人柄に惚れ込んだからだ、ということでは説明がつかない。
なぜなら、密航を助けるまで新島とは一度しか会っていないからである。一 度だけで新島の人柄を見抜き、職を賭して援助するまで惚れ込んだとするの は困難であろう。それでは、なぜセイヴォリーが新島を助けたかというと、
個人的な同情というよりももっと大きな目的、大義のためであろう。おそら く、セイヴォリーは、新島の将来に、日米市民の友好と日本のキリスト教の 興隆を託したのであろう。
そして第3は、第1とも関連するが、密航した日の夜が、特に警備や人の 目が届きにくかったからである。上記の通り、旧暦6月14日は箱館奉行の 五稜郭での執務開始の前日であり、奉行所の役人は五稜郭で準備に慌ただし かったはずである。加えて、その夜は祭りが行われて、箱館の街には人が集 まり、何千という提灯の火が灯されていたのである26)。当然、普段港湾をう ろつくような者も祭りの会場に行っていたであろう。そして、翌日の陽がま だ明けやらぬ未明27)には、新島が乗り込んだベルリン号は函館港を出帆し去 ったのである。
こう考えると、新島の6月14日深夜のベルリン号への乗り込みと翌日未 明の出帆は、周到に準備された計画のように思われる。新島の日記を見る限
り、そのことは記されていないから、おそらく新島の協力者であったポータ ー商会の福士(冨士野屋)卯之吉や沢辺数馬等が、旧暦6月14日を新島の 密航の日に選び、その計画にセイヴォリーが協力したのであろう。沢辺数馬 は坂本龍馬の従兄弟で、当時、箱館神明宮の神職であり、箱館の祭りとは縁 が深く、新島も海外渡航成功を福士と沢辺のおかげであると特筆してい る28)。一個人の密出国のためにそこまで計画するであろうか、という疑問が 残るだろうが、福士や沢辺、セイヴォリーが新島の渡航に日本や日米友好の 将来の希望を託したと考えれば納得できる。
3 新島の海外渡航と中濱万次郎
ところで、新島は、いずれは日本に帰国することを前提として密出国を決 意し、箱館でそれを挙行している。彼は日記に、福士や沢辺、それに菅沼清 一郎という箱館で自分の海外脱出を支援してくれた3人の友人たちに対し て、「臥て願ふ、右之三名無事健全にして、予が帰国之上相見、相談、相酌、
相喰ひ、深く松柏の交り〔長く変わらない交際〕を結ばん事を」29)と綴って いる。ここに新島の出国が当初から帰国を前提としたものであることが分か る。
それでは、新島は帰国して活躍できるという目算があったのであろうか。
彼には、確かにその目算があったと思われる。なぜなら、彼の身近に、国 禁に反してアメリカから日本に戻り、幕府に許されて活躍する中濱万次郎の 存在があったからである。新島は1864年当時、「中濱塾」とも言われた新銭 座丁の中濱万次郎の家に通い、万次郎と親交があった30)。
中濱は、帰国時に、アメリカの航海書の原典とも言われ、現在でも改訂を 続けなが ら 出 版 さ れ て い るNathaniel Bowditch の THE NEW AMERICAN PRACTICAL NAVIGATOR(1844年版)31)を持ち帰ってきた。1857年には、
中濱は、同書の実用的な部分を翻訳して『亜美理加合衆国航海学書』と名付 けて出版するが、本書は我が国初の英語の翻訳本となった32)。さらに中濱は 軍艦所教授に採用されると、幕命を受けて、やはり自身がアメリカから持ち
帰ってきた英語の教科書に日本語の訳と発音を示すカナを付けた上で「中濱 万次郎訳」として1859年に『対米対話捷径』を出版、同書は我が国初の本 格的英会話教本となっている33)。1860年、中濱が遣米使節団に参加すると、
彼はBowditchの航海書をアメリカで70冊購入して、中濱が教授方を務め、
新島も学ぶ軍艦教授所等で教科書として用いた。同書は日本においても航海 術の基礎となる34)。
拙稿「同志社ハリス理化学校設立次第」でも紹介したが、新島の藩士時代 のノートをみると、彼は中濱が購入してきたBowditchの航海書を学んでい たことが分かる。たとえば、同航海書の11頁に掲載されている図面(図1)
は、「新島遺品庫」に「数学ノート(三角法)」と題して残されている新島の ノート35)のNo.10848017(図2)に、アルファベットの記号まで含めて全く 同じ図面として描かれているのである。
新島が箱館行きの快風丸に乗船する契機となった駿河台における備中松山 藩士との邂逅も、新島が「近地留学」していた川勝光之助(光之輔)の英学 塾から万次郎宅に、Bowditch の原書の不明の箇所の意味を訊ねに行くとこ ろであった36)。
したがって、新島とすれば、中濱との接触を通して、彼の存在こそが、自
図1 図2
分が密出国をしても、西洋世界で学問を積んで帰国すれば無事に帰国でき、
その上活躍できる場がある、という生きた手本になったと考えられるのであ る。
こう考えると、新島が海外渡航の目的について、セイヴォリーに、同胞の ために聖書を日本語に翻訳できるようになるまで英語を勉強するためであっ た、と述べたことが重要な意味を持ってくる。
新島は帰国を前提とする「留学」のために海外渡航を行ったのだから、そ の時の彼は、帰国後に日本語に翻訳した聖書を日本人に伝えることを考え、
それによって国に尽くすことを考えていたと理解することができる。事実、
フィリップス・アカデミーに入学すると、洗礼を受ける前から早くも「ヨハ ネによる福音書」の翻訳を試みている37)。ただし、当時の日本ではキリスト 教は厳禁されていたために、その頃は、具体的にいつ帰国するという見通し は持たなかったであろうが。
実際に、新島が国外脱出した1864年当時、そもそも英書の翻訳業という 職業が存在していたかと考えると、そんな職業は全く存在しておらず、逆に 洋学者は「売国奴」として、いわゆる志士たちに命を狙われる存在だった。
福沢諭吉は当時幕臣だったが、その頃の彼は身の危険を感じて夜間はほとん ど外出せず、新島が国外脱出した1864年に帰阪する際は、道中の洋学者に 対する迫害を恐れて変名を使っていたほどだった38)。中濱も命を狙われてい たため、実は護身用のピストルと仕込み杖を所持していた39)。
したがって、当時、英語の翻訳で国に尽くし身を立てる、という発想は、
普通は思い浮かぶはずが無い。しかし、現実に新島はそれを考えていたのだ から、それには、現実的にそれを構想できる理由があるはずであり、それは 身近な実例があったからだとしか考えられないのである。
そう考えると、その実例とは、日本最初の英語の翻訳本である『亜美理加 合衆国航海学書』を著し、また日本最初の本格的な英会話教本『対米対話捷 径』を「翻訳」(実際は著作)した「英語使い」40)である中濱万次郎の存在が 第一に指摘できるのである。
注
1)幕府が学術修行及び貿易のための海外渡航を許可したのは1866年である。
2)Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima,(Reprinted by Doshisha University Press, Kyoto, 1980), p.28.
3)たとえば、色川大吉『明治精神史』では明治維新を「国民的覚醒の時代」として いる(同書「まえがき」)。
4)『新島襄全集』10巻(同朋舎出版、1985年)、p.36.
5)同書同頁。
6)『新島襄全集』8巻(同朋舎出版、1992年)、p.15.
7)同書、p.9.
8)同書、p.15.
9)前掲『新島襄全集』10巻、p.36.
10)同書、p.37.
11)同書、pp.11−12.
12)同書、p.12.
13)詳細は拙稿「新島襄の「霊魂の病」」(『新島研究』102、2011年)参照。
14)『新島襄全集』2巻(同朋舎出版、1983年)、p.391.
15)同書同頁。
16)同書、p.389.
17)同書、p.391.
18)伊藤彌彦『のびやかにかたる新島襄と明治の書生』(晃洋書房、1999年)、pp.11−
13.
19)本井康博『志を継ぐ 新島襄を語る(十)』(思文閣出版、2014年)、p.83.
20)『新島襄全集』5巻(同朋舎出版、1984年)、p.487.
21)田中彰『集英社版日本の歴史⑮ 開国と倒幕』(集英社、1992年)p.87「幕末の 輸出と輸入」表より著者が計算した。
22)北海道同盟編『北海道志』(下巻)、p.25、1892年。および、五稜郭タワーホーム ページ「五稜郭・箱館戦争・箱館 年表」
http : //www.goryokaku−tower.co.jp/history/history3.html」(2014/11/29確認)
23)Ernest Masion Satow,A DIPLOMAT IN JAPAN,pp.52−53.
24)前掲『新島襄全集』5巻、p.72.
25)前掲『新島襄全集』10巻、p.10.
26)前掲『新島襄全集』10巻、p.72.
27)前掲『新島襄全集』5巻、p.72.
28)同書、p.38.
29)同書、p.70.
30)前掲『新島襄全集』5巻、p.8.
31)中濱博『中濱万次郎 −「アメリカ」を初めて伝えた日本人−』(冨山房インター ナショナル、2005年)、p.160.
32)同書、p.161.
33)乾隆『幕末のバイリンガル、はじめての国際人 ジョン万次郎の英会話』(Jリサ ーチ出版、2010年)、p.49.
34)中濱前掲書、p.164.
35)新島遺品庫目録番号0848。
36)前掲『新島襄全集』5巻、p.8.
37)前掲『新島襄全集』10巻、p.65.
38)福沢諭吉『福翁自伝』(時事通信社、1899年)、pp.368−369.
39)中濱前掲書、p.301.
40)乾前掲書、p.21.