Japanese Association for Tibetan Studies
NII-Electronic Library Service Japanese Assooiation for Tibetan Studies
ッ
ォ ン
カ
バ
の
『
中論
』
註釈
に
お
け
る
三
時不成
の
論
理
根 本 裕 史
1
問 題
の
所 在
ッ ォ ン カバ
・
ロ サン タ クパ(
Tsong
kha
pa
blo
bzang
grags
pa
,
1357−1419
)
の『
中論
』(
M
翊αm α4
吻
αm 醜α版 物緬 , ナー
ガー
ルジュ ナ作〉註
である rTs α sheTik
chen は、
1407
年
か ら
1408
年 頃Legs
bshad
snyingpo
に続
く形
で著
された彼
の代表作
の一
つ である。 rTs α she
Tik
chen は、
チベ ッ トで作成
された その 他の 『中論
』註
(1)と比 較 して極め て浩 瀚 な註
釈
書
である。 ま た、
同 書は その随
所におい て先
行 するチベ ッ ト人の解 釈 へ の批判 を含んでい るこ とか ら
、
チベ ッ ト仏 教にお け る 『中論
』 受 容の歴 史 を知る上で
極
め て重要
な文献
で ある と
言
え る。さらに また
、
rTs α sheTik
chen は、 『中
論
』 に対
する註
釈書
とい う性 格 上、 そ の他のツ ォ ンカバ の著 作に おい て余り
力点の置
か れて い ない議 論 を 数 多 く扱っ て おり、
そ の こ と か ら し て も十
二分
に研究
の余地
がある作
品で あると言
えるだろ う。筆
者は 目下、時間論
とい う角度
か らツォ ンカバの中 観 思 想の一
端 を 明 らか にすべ く研 究
を進
めて い る が (3>、
彼の 時 間 観に関 し て こ れ ほ ど まで に豊冨
な題材
を提
供 して くれる作 品は、
同 書 を 措いて他にない 。本 稿では主に rTsa she
Tik
chenag
二章
に依拠
し て、
三時不成
の論
理に関
す るッ ォン カバの
議 論
にっ い て考察
するこ と に し たい。
言 う ま・
で も な く、
『中 論』 第二
章
の 冒 頭に おい て提
示さ れ る 三時 不 成の論 理につ い て は既に良 く知 られてお
り、
イ ン ド学、仏教学
の研 究者
に よ る優 れ た 研 究が数多
く発表
さ れてい る ω。 し か しなが ら、
こ の論
理 をめぐるチベ ッ ト仏 教での展
開
につ い ては、
これ まで全
く研 究さ れて こなか っ た 。特
に rTsa sheTik
chen 第二章
の議論
は、
ッ ォ ンカバ 以 前のチベ ッ ト人 解 釈に対 する批
判 を含
んで い る と同 時に、 ツ ォ ンカバ
自身
の時
間観
を反 映 した もので あ る ゆ え、 注 目に値 す る。ツ ォ ン カバ 以
前
の チベ ッ ト に おける 『中論
』 の註 釈 書 は多 く現 存 してい ない が 、 幸い に
し て
現
在 目にす ることの で き るマ チャ・
チャ ン チュ プツォ ン ドゥー
(
rMabya
Byang
chubbrtson
’gros
,?− 1185
, 以 下マ チャ・
チャ ン ツ ォ ン と略記)
〔6)の ’Th
αd
pa
’i
rgyan には、
ツォ ンカバ が批 判 を 加 えてい る見 解に一
致 する見解
が見
出さ れ る。 そこ で、
以 下で は 三時 不 成の論
理に関
す るマ チ ャ・
チ ャ ン ツ ォ ン とツ ォ ンカバ の両 者の見 解 を 比 較 した 上で、 ッォ ン カバ がマ チ ャ・
チャ ン ッォ ン説 を 批 判 して い るこ と を まず 指 摘 する。 そ し て、
その批 判
の中
に表
されてい るッ ォ ン カバ の時間観、
取り分
け 「現在
」 に関 する彼の見 解 を 明 らかに したい。
2
議論
の
背 景
最初
に、
ツォ ン カバ の 見 解 に従っ て 『中論
』 全 体に おける第
二章
の位置
づ け を確認
し た上 で(7)、 こ こで問題
と な る 『中論
』 の偈頌
を示 すこと に し よ う。一3 一
N工 工一
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一
ッ ォン カバ の 『中 論』註 釈にお け る三 時 不 成の論 理
一
ッォ ン カバ に
従
えば、対 象
を 「勝 義 と し て存
在 す る(
don
dam
par
yod
pa )
j も し くは 「それ 自身の 特 質に基づい て 存 在す る(
rang
gi
mtshan nyidkyis
yod
pa )
」 と捉 える無 明こそ が
、輪
廻の原 因に他 な らない。
よっ て、
輪 廻の苦 しみ を 断 ち 切る た め に必 要なの は、
こ の無明
に よっ て捉え ら れ た対象
を否
定 するこ とで ある。 そ して、
人(
gang
.zag ) を所 縁 と し て 「我」 や 「我 所」 と捉
える無 明 と、
法(
chos)
を所 縁 と して 「我」 と捉 える無 明の 内、
前者
の無明
の対象
を否
定 するこ とに寄
与 するのが、
『中論
』第
二章
の理論
で ある。 ッォ ン カバ は、
『中 論 』 の各章
を どの よう
な 順 序で実 践 するべ きか を説 明 する箇所 にお い て次の よう
に 述べ て い る。
[1 ]
その中
で も、最初
に人 我や我 所 と して捉 える無 明の 対 象 を 「無であ る 」 と確定
す る必 要があるの だ が、 こ の こ と は第十
八章
によっ て説
示 さ れて い る。 その よ うに して人 に関
し て自性 を 否 定 した 時、
「他 世(
前 世)
か ら今世
へ来
る〔
者〕
や 、 今世
か ら他 世(
来 世)
へ と行
く者
や、善、
不 善の業 を為 す 者が存 在 するゆ えに、
それ は妥
当し ない 」 と言
う〔
反論〕
を否
定す る た め に、
「去 来〔
の考 察 〕 」 (第二章 ) と f作 者の考 察」(
第
八 章)
の 二
〔
章
が説
示 されてい るの〕
で あ る(
rTsa sheT
薦 chen ,20b5
−
21a1
)
(8)。
よっ て、 ッ ォ ン カバ に よれ ば
第
二章
の理論
は、
前世
か ら今世
へ
、 今 世か ら来 世へ と輪 廻 す
るこ とや
、
その主体
を否
定 するとい う意 義 を持つ の で あり、
そ れ は ま た、
特に人 無 我の理 解 を 深め るの に有
益 な 理論
なの で あるc さ ら に、次
に示 す rTs α sheTiic
chen 第二 章 末 尾の記
述は、
本 章の理論
が人だ けでな く法に まで拡
張さ れ得
る こ と を示してい る。[
2
]
まず最
初に、
現 前の もの で ある粗大
な去来 〔
に関
し て本 章
の理論
を適 用 した後〕
、
その次
に〔
有情
が〕
前 世 か ら今 世へ 来 ることや 今 世か ら他
世(
来世 〉
へ去
るこ と に関し て も応 用 し、無 自性
の理論
を確定す
るべ きで ある 。 その次に、
法に関連
し た諸事物
につ い て もまた、〔
それ らが〕 生 じ る 時に何処
か ら も来
ない こ と、 な らびに、
滅 する時に何 処へ も去 らない こ と に関 して理 論 を 読 み 替 えて応 用し、 他の全ての所作
と能 作に関 してもその
通 り
に為 すべ きで ある (rTs α sheTik
chen ,67a2−3)
〔9)。こ こ でッ ォ ン カバ は
、第
二章
の理論
を学
習 する際の手 順 を三段 階に分 けて い る。 彼に よ れ ば、
こ の章
の学 習者
は まず 第一
に、
粗 大な去来 (
’gro
’ ong ragspa )、
す な わ ち、
歩 行 な ど の場
面
に見
られ る去来
を取 り上 げて、
それ をこ の章の理論
に従っ て否
定せ ねば な ら ない 。 第 二 に は、 有情
が輪 廻 世 界 を 去来
す る という
事 態に目 を 向 け、
そ こ で の 去来
を否定
せ ねば なら ない。 そ して、第
三 に は、 法に関
連し た事物
に着
目し、諸存在
の生 滅の際にも去 来が成立 し ない こ と を確
定せね ば な らない。
こ のよう
に して ツ ォン カバ は 、歩
行 な どの場面
に おける去
来の否 定 を 出 発 点 と し な が らも、 最終
的にはあ らゆる人 法の去来
に関
して その 理論
を応 用し て、
あり
とあ らゆ る去来
が無自性
で あるこ とを確
定 する ことに こそ、
『中 論 』第
二章
の議論
の意義
を見 出
し てい る の であ る(10)。
で は
、
具 体 的に は如 何に して去来
の自
性が否
定 され るのだ ろ うかQ それ は、
rTsa sheTik
chen第
二章
の科文
に着 目
す れ ば 明 らかな よ うに、行為 (
bya
ba
)
、
行 為 主 体 (byed
pa
po
)、
一4 一
Japanese Association for Tibetan Studies
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一
ツォ ン カバ の 『中論 』 註 釈に おける 三時不 成の論理一
行為
対象 (
las
)
とい う三っ の作 業 概 念 を軸に し て行わ れ る。
同 章の科 文 を抜 粋 して その和 訳 を 示せ ば、 以 下の通り
で ある(
括弧内
は、註
釈の対 象 となる偈 頌の 番 号 を 表 す)
(11) 。K1
行為 対 象と行為主体における行 為を個 別的に否 定 する L1 行 為 対 象につ い て吟 味した 上で否 定 するM1
三つ の道に関し て共 通に行為を否 定す る (k1
)M2
〈現に去ら れつ つ あ る 所〉に関して行 為を個 別に否 定 するN1
前 主張を提示する (k .
2)N2
そ れ を否 定 する理 論01
目 的 語 と動詞の一
方が意 味 を 窟 す る な らば 他 方 は 意 味 を欠いてい る (k
.
3
)02
両者が意味を伴 うな らば 過大適 用となっ て し まう (k.
4−6
)L2
行 為 主 体につ いて吟 味 した上で否 定す る (k.
7−
11 )L3
行為が存 在 する ことの根拠 を 否 定 する (k .
12−17
)L4
行為につ い て吟 味した 上で否定 する (k .
18−23
)K2
行 為 対 象 と行 為 主 体にお け る行 為 を共 通に否 定 す る (k
.
24−25ab
)こ の 科 文の
構成
が示 すように、冒頭付
近で は、
行為
対象
で ある 「道
」 を過 去、
未 来、
現 在 の三通 りに場 合 分 け した 上で、
その 何 れにおい て も〈
去る行 為〉
は妥 当 しない こ とが論じら れる。
所 謂 「三時不成
」 の論
理で あ る。 こ こ で は、
こ の論
理を最
も鮮烈
に表現
し た第
一
偈
に着
目した い。 こ の 偈 頌を、 チベ ッ ト語 訳や諸
註
釈に基
づい て次の ように訳 すこ とが 出来
る。
まず
、〈
既に去ら れ た所〉
は去ら れない。 〈未 だ 去 ら れてい ない所 〉 も去 られ ない。
〈
既 に去 ら れ た所〉
と〈
未 だ 去られてい ない所 〉 以 外に〈
現
に去
ら れつ つ ある所〉
は知ら れない(
MMK
II
1
)
(12) 。こ こ で ナ
ー
ガー
ルジュ ナは、 まず前
半の 二句で、 過去の道(
既 に 去 ら れ た所)
と未
来の道(
未 だ 去 られて い ない所)
に お い て 去 るこ とを否定
し、
次に後半
の 二句
で、現在
の 道(
現
に去
られつ つ ある所〉
に おい て去る こと を否 定 してい る。 現 在の〈
去る行 為〉
が、
過 去 や 未来
の道 と両 立 し ない こ とは自
明で あ るか ら、
前 半の 二 句につ い ては議論
の余
地は ない だろう
。 む し ろ、問題
とすべ きは、 現 在の 道に関 して述べ られ た後 半の 二句であ る。
また、
マ チャ・
チャン ッォ ン とツ ォ ンカパ との問
で見解
の不
一
致
が起きて い るの も、
そこに おい て である。 よっ て、 以下
で は後 半
の 二句
の解釈
に注 意 し なが ら、両
者の見 解を 比較 する こ とにす る。3
マ
チ
ャ
・チ
ャ
ン
ツ
ォ ン の
見
解
ま
ず
マ チャ・
チ ャ ン ツ ォ ン の見解
か ら先に見
て み よ う。 彼 は 『中論 』 第二章、
第一
偈 を次 の よ うに註 釈 してい る。
[
3
]
その内
、ま
ず 〈
既
に去
られた道
〉
は去 られない。 なぜ なら、〈
去る行為
〉
が既に滅一5 一
N工 工一
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一
ツ ォ ンカバ の 『中論 』註 釈にお け る三 時 不 成の論理一
し て無 く なっ てい る か ら で ある。〈
未 だ 去 られて いない道〉
も また、
去 られ ない。 な ぜ’
な ら、〈
去る行為〉
が未
だ生じ て お らず、 存 在し てい ない か らである。〈
現に行かれつ っ ある所 〉、
す な わ ち、〈
現に去 られつ つ あ る道〉
に おい て も ま た、 去ることはない。 な ぜ な ら、
道 とい う場 所におい て或る〈
去 る者〉
に よっ て通過
さ れ た〔
所〕
と、
未 だ 通 過 さ れてい ない〔
所の 二者 〕 は 直 接 対 立 す るの で(
dngos
’gal
yin
pas )、〈
既 に去られ た 所〉
と
く
未
だ去
ら れて い ない 所〉
以 外に〈
現に 去 られ つ つ あ る 所〉
は知ら れず、 認 識 さ れ ない ゆえ、 その 二者
以外
の〈
現に去 られつ つ ある所 〉は存 在 しないか らである(
’Th
αd
p
α ’irgyan
,39b6
−
40a2
)
(13) 。下
線 部
が示
すように、 マ チャ・
チャ ン ツ ォン は 「過去
の 道 」 と 「未来
の道
」 の両者
が直 接 対 立 するこ と を 主 張してい る。一
般に或る二つ の物が直 接 対立するこ と と は、 その 二 つ を 除 いた第
三の集 合 (phung
gsun1)
があり得
ない こ とを含 意 する から(14)、
過 去 と未来
の道が直 接 対 立 す るという
こ と は、
「現 在の道 」 という第
三の集合
が無(
medpa
)であること を帰結
す
る。 よっ て、
彼の解 釈に従
えば、
「現 在の道 」 は無であ り、
無であ る 「現在
の道」 に おい てく
去 る 行為 〉
は存在
し得 ない の だとい うのが、
ナー
ガー
ルジュ ナの 意 図で ある と理解
するこ とが出
来る(15)。
4
ツ
ォ
ン
カ
バ
の
見
解
と
そ の
意
義
しか しなが ら
、
こ のよ う なマ チャ・
チャ ン ツ ォ ンの解
釈は、 ツォ ンカバ に は決 して受
け 入 れ られ ない考
え方
で あっ た。 ま ず、
ツ ォ ンカバがマ チャ・
チャ ン ツォ ン の見 解か ら決 別 し て い ることを 端 的に 示 す文章
か ら見て み よ う。 ツ ォ ンカバ は、 こ の偈 頌に説かれる 三時 不 成の論
理の意 味 を 次の よ うに ま と め てい る。[
4
]
従っ て、
こ の理論
は、
足 に よっ て踏 ま れたその道
が、
「全体
」 た る足
を 基準
に第 三 の集合
と し て本
性に よっ て存 在 す るこ とを否定
する の であっ て、 〈
既に去 られた所 〉
と〈
未 だ 去 られて い ない所〉
が直 接 対 立 することに基
づ い て(
dngos
}gal
yin
pas )
第三の集合
を否
定 するもので はない (16)。
なぜ な ら、 ま さに註
釈(17)で は
、〈
去る行為〉
が既
に滅 し た所 を
〈
既に去ら れ た所〉、
未 だ 生 じて いない所
をく
未
だ 去 られてい ない所〉
、
現 在の
〈
去る行為 〉
に よっ て伴
わ れ た所(
’gro
ba
’i
bya
ba
da
ltar
bas
zinpa )
をく
現に去られつ っ あ る
所〉
と説明
して い る か らで あ る(
rTs α sheTik
chen ,56a2−3)
(18) 。
引 用 文
[
3
]
と匚
4
]
の下 線 部 分 を比 較 す れば分か る よう
に、 ツォ ンカバ は 「現在
」 の否定
に関
し て、
マ チャ・
チャ ン ツ ォ ン に見 られるよ うな解
釈に明 らかに異 を 唱 えて い る。
ツ ォ ン カバに よ れば、 ナー
ガー
ルジュナは過去
と未
来が直 接 対 立 す るこ と を根拠
に して、 現 在の存在
を 否 定 して い るの で は ない 。 な ぜ な ら、
過 去や未来
の道が存
在 するの と同 様に、
現在
のく
去る行為
〉
に よっ て伴
わ れ た道
も存在
し てい るか らで あ り、現在
の道
が存在
する とい うこ とは また、
「註
釈 」 の作
者で ある チ ャ ン ドラ キー
ル ティ の見 解で もある か ら で ある。 従っ て、
こ の偈頌
に おいて は、
過 去の道
と未来
の道
が直接対
立す
ること を根
拠にして、第
三の集
合 た一6 一
N工 工一
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一
ツォ ンカバ の 『中 論 』 註釈 に お け る 三時 不 成の論 理一
る現在
の道
が否定
されて い るので はない。
現 在の道は端 的に存在
し ない の で はな く、 あ くま で本性
によっ て (ngobos
) 存 在 しない の で あ り、 こ の偈 頌の後 半 部 は 「本 性に よっ て存
在 す る現 在の道 は、
去 られ ない 」 とい う意 味で理解
さ れ ね ばな らない の である(19>。で は
、
な ぜ 現在
の道 は 「本性
に よ っ て存
在 し ないj と言
えるのか、 それ は、 「現 在の道 」 と して把 握 されて い る物が、
果た して把 握さ れ た 通 りに存 在し て い るの か否
かを探
し求めて考察
し た と き に、
その よう
な物
は何 ら見 出さ れないか らである。 これに関
し て、 ッ ォン カバ はチ ャ ン ドラ キー
ル ティ の 『明句論 (
Pr
α5αη脚 α砌
』(20)に依 拠 して次の よ うに説 明 してい る。 通常、
現に歩 行 して い る人の足に よっ て踏 ま れてい る場 所が〈
現に去ら れっ っ あ る 所〉
で あり
、 「現在
の道
」 であ る と見な される。 ところが、
実 際に はその よ う な 場 所は、考察
し て も見 出 さ れ ない の である。ま
ず第
一
に、
歩行者
の 「足の指
」 と 「踵」 の二箇 所に着 目 す ると、
以 下の よ うな 理 屈で第 三 の集
合たる 「現 在の道
」 は存
在 し ない と言 える。
[
5
]
さ らに、 足に よっ て踏ま れ てい る道で、 (a)足の指に よっ て踏
ま れて い る所 の後 ろ は、
その部 分の〈
去 る行 為〉
が滅 した所で あ り、
(b)踵によっ て 踏 まれてい る所の前は、 その部 分の〈
去る行 為〉
が未 だ 生 じてい ない 所で ある。
よっ て、
(。)(b)その両 者を基準
にす れ ば、
間の道
は 「行為
が滅 し た所
」 と 「行為
が未だ 生 じて いない所」 の何れで もな い第
三 の集
合 と し て存
在 しない(
rTs α sheTik
chen,
55a6
−
b1
)
(21) 。こ こ で 「足の指」
(
=
a)
は足の 先 頭 部 分の こ とを 意 味し、
「踵」(
=b
)
は足の末 尾の部 分の ことを 意 味 する。
その 内、
足の指によっ て 踏 ま れてい る所 を基 準にす れ ば、
その後 方は 「過 去の道 s で あ る。 ま た、 踵に よっ て踏ま れ て い る所を基準
にすれ ぼ、 そ の前 方は 「未 来の道 」 で あ る。 ゆ え に、 こ の 二 つ の地 点を基準
に 「現 在の道 」 という第
三の集
合を探 し求
め て も、 そ れは見 出され ない 。 そ れで は、 今の よう
に足を諸部分
に分解
せず
に、 足全体 (
=
・
c)
を基準
に することに よっ て 「現 在の道」 とい う第三の集 合 を 見 出 すこ と は可 能だ ろ うか。 ツ ォ ンカ バ は、
次の ように解 答 を 与 えてい る。匚
6
]
(。)その 二 部 分の何 れで も ない 足で、
そ れ自
身の特 質によっ て成立 した何 らかの物
が存在す
る場合
には、
その間
の道は、
(a)(b)「部分
」 を基準
に して、両者何
れで もない も の と し て存在
することはない と し て も、 (、) 「全 体 」 たる足 を 基準
に して、 両者
何 れで も ない もの と して存 在 す る〔
こ と にな るだ ろ う〕
。 けれ ども、
(。)その 二部
分の何れで もな い 足に して、
本 性によっ て成 立 した もの は存 在 し ない のだか ら、
(。)そ れ を基 準に して、
その〔
間
の〕
道が〈
現に去ら れつ つ ある所〉
とし て本 性に よっ て存 在 するこ とはないのである
(
rTsa sheTik
chen ,55b1 − 2)
(22) 。
も し指 や 踵 な ど とい っ た 諸 部 分 とは別 個に
、
そ れ自
身の特 質によっ て成立 し た 「足全体
」 が存在
するならば、
そ れを 基準
に し て第 三の集 合 たる 「現 在の道 」 を 立て るこ とが 可 能であ る。 し か し な が ら、 諸 部 分に依 存 し ない 「足 全 体 」 な る もの は実際
に存在
し ない の で、
そ れ を基準
に して立 て ら れ るべ き 「現 在の道 」 も また、 それ 自 身の特 質によっ て (も し くは、
本一
7
一
N工 工一
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一
ッ ォン カバ の 『中論』註 釈にお ける 三時不成の論理一
性
に よっ て)
存 在 す るこ とはない の で あ る。
こ の よ
う
に して、
「現 在の道 」 とい う第三の集 合 を探 し求めて考 察 して も、
通 常そ れ と し て把
握 さ れて い る通 りに見 出 さ れる こ とはない。
その こ とか ら、
現 在の道は 「本 性に よ っ て存在
し ない」 と結論
さ れ る。 ま た、 以上の こ とは現 在の道が無 (medpa
)
であることを帰 結 するもの で はない。
ツ ォ ンカバ の表 現 を 用い れ ば、
現 在の 道は 「全 体た る足 を 基 準にして第
三の集合
と して本性
によっ て(
cha can rkangpa
la
ltos
nasphung
gsum
du
ngobos
)
」存 在 しない の で あっ て、 ただ
単
に存
在しない の で はない。 そ して、
こ の よう
な 限 定 詞が付 け られ てい る限 り
に おいて、
現 在の道の存在
は否定
さ れ るのである。で は、 な ぜツォ ンカバ は
現在
の否
定に関
し て、 この よ うに回 り く どい説 明 を与 えてい るの だ ろう
か。彼
が、
マ チャ・
チャン ッォ ン の言 う よ うな 「現在
は存在
しない コ とい う理 解で満 足 出 来 な かっ た 理由
は何
であ ろう
か。 そ れ は次に示 す よ うに、
現 在の存 在を認め るこ と が、 過去
と未来
を設
定 する上で不 可 欠だ か らで あ る。[
7
]【
反論】
さらに ま た、〈
現に去 られつ つ ある道〉
が存 在 し ないな らば、
現 在の道は存在
しない〔
ことになる〕
。
しか し、
その通 り
だとす れ ば、 行 為が滅 した過 去の道
と、〔
行
為が〕
未
だ 生じてい ない未 来の 道 も また、存在
し ない こ と になっ て し ま うだろ う。【
答】
〈
既に去
られた 所〉
と〈
未 だ 去 られ て い ない 所〉
は、 『明 句 論 』(23)で 「行為
が滅 し た所」 と 「行 為が未だ 生 じてい ない所 」 を指 すもの と して説
明さ れてい る。
その 両 者 何 れで も ない〈
現に去 られつ つ ある道〉
が存在
しない な らば、
ちょ うど指摘
さ れ た通 りの過 失 と な る であろ う けれ ど も、
こ こ で はその両者何
れ で もない〈
現に去ら れつ つ ある道〉
が存 在 し ない と論
じ てい るのではない の で あっ て 、〈
現に去られつ つ ある道〉
に してく
本性
によっ て存在
する物〉
を否
定 した 上で、
それにお け る〈
去る行為〉
を否
定す
るの である(
rTsa sheTik
chen,
55a3 −6)
(24) 。rTsa shε 丁鵜 chen
第
十 九 章に も述べ られてい る よう
に(25}、 過 去 と未 来は現 在に依 存 し てい るため、
も し現在
が存在
しな けれ ば、
過 去 と未 来 を 設 定 す るこ と は不可能
になる。 よっ て、現在
の道が存
在しない な らば、
過 去と未来
の道 も存在
しない こ とに な り、
三っ の時間
に属す
る道の何 れ もが成 り
立 た な くなっ て しま う。
しか し、
チャ ン ド ラ キー
ル ティが過 去の道(
行 為が既に滅
し た所、 既に去 られた所)
と未来
の道 (
行為
が未
だ 生 じて い ない所、
未だ去 ら れ てい ない所 )につ い て説 明を与
えて い る ように、中観
説におい て も言説
と して の過 去 と 未来
は認め ら れ てい る。 ゆえに、
それ ら を認め る た めに必要
な 現 在の道 も また、存在
す る と 認められ ねばな らない 。 こ の よう
に して ツォ ンカバ は、 自
らの解 釈こ そが チ ャン ドラキー
ル ティ の見解
なの であ るとい う自負
を もって、 現 在の有 を主 張 して い る。現
在
が言説有 (
tha
snyaddu
yod
pa
)であ るという
ツ ォン カバ の見
解は、
rTsa sheTik
chen
第
七章
の記 述か らも確
認さ れ る。 以 下に示 す 引 用 文[
8
]
は、
『中論
』第
七章、
第 十 四偈
(26)に対 する註
釈の一部
で ある。
こ の偈
頌で ナー
ガー
ル ジュ ナは 三時不成
の論
理 を用い て、 生 相に よっ て物
が 生 み出
さ れ る ことを 否 定 して い る。
すな わち、
生み出
され る もの(
bskyed
bya
)
は過 去、
未 来、
現在
の何
れ か に属
する筈
で ある が、 その何れ もが 生 み出
さ れ る ことはな一8 一
N工 工一
Eleotronio LibraryJapanese Association for Tibetan Studies
NII-Electronic Library Service Japanese Assooiation for Tibetan Studies
一
ツォ ンカバ の 『中 論 』 註釈における 三時不 成の論理一
い 。 な ぜ な ら、
過 去の〈
既に生じ た もの〉
と未 来の〈
未 だ 生 じ てい ない もの〉
は現 在の〈
生 の作 用 〉 と両 立せず、
ま た、〈
既に 生 じ た もの〉
と〈
未 だ 生じて い ない もの〉
以 外に〈
現に 生 じつ つ ある もの〉
は認め られ ない か らである。 ツォ ン カバは、
こ こで〈
現に生 じつ っ あるも の〉
が否
定 さ れることの意 味 を 次のよう
に解説
して い る。
[
8
]
こ の こ と は、
先 程〈
現に去ら れつ つ ある所 〉に関 して解説
し た よう
に、
一
般に〈
既 に生 じた もの〉
と〈
未 だ 生じ てい ない もの〉
が直接
対立するもの である と して も、
そ れ を根 拠に否 定 して い るの で は ない 。 な ぜ な ら、
〔
そ れが根拠
で あ る と し たら 〕二 者 択一
的に言
わ れて い る〈
既に生 じ たもの〉
とく
未 だ 生じてい ない もの〉
と、
今の場 合の〈
既 に生 じた もの〉
と〈
未
だ生 じて い ない もの〉
は意 味 が 同じ である筈
だが、今
の場合
の両
者は註
釈(27)で、 「生じ た後
に滅 し た もの 」 お よ び 「未 来の もの」 を 指 す もの とし て説明
さ れ て い るか らで あ る。 従っ て、
「生 じた 後に滅 した もの 」 と 「生の作
用 を未
だ開
始 して いないもの」 の両 者 何 れで も ない 「現 在の生」 は言
説に おい て存 在 するの で (thasnyad
du
yod
pas )、先後
の 二時
以外
の〈
現
に 生 じつつ あるもの〉
は 「それ 自身の本 性によっ て存 在 しない」 とい う意 味 なのである
(
rTsa sheTik
chen,
101a1
−
3
)
(28)。
こ こ で ツォ ン カバ の
展開
し てい る議論
が、
rTs α sheTik
chenag
二章に見 られた もの と軌を
一
にするこ とは明ら かであ る。彼
に よ れ ば、
既に生 じた過 去の もの と未 だ 生じ てい ない未 来の ものが直 接 対立 するこ とを根 拠に、〈
現に生じつ つ あるもの 〉 とい う第三 の集 合の無を導
くこ と がナー
ガー
ル ジュ ナの意 図なの で はない。
チャ ン ドラキー
ル ティの 註 釈が示 すよう に、 こ こで用い られてい る論法
は〈
既
に生じ たもの〉
と〈
未
だ 生 じてい ない もの〉
の 二者
か らな るディ レン マ で はな く、
その 二 つ に現 在の生(
skyeba
da
ltar
ba )
た る〈
現に生じつ つ あるもの〉
を加え た三 者か らなる ト リレン マ で あ る。 よっ て、〈
現
に生 じつ つ あ る もの〉
は 言 説におい て存 在 す る。 また、
そ れは端 的に存 在 しない のではな く、
あ くまで 「それ 自 身の本
性に よっ て存
在 しない(
ranggi
ngobo
nyidkyis
medpa )
」 と言
わ ねばな ら ない。 か くして 、 ッ ォ ンカバ の理 解 する 三時 不 成の論 理の下で は、
言 説 有 と して の現 在が認めら れている。
さ らにま た、
過 去 と未 来は現 在 を 基 準に して設 定 さ れるべ き もの であ り 、 現 在 な し に は有 り得 ない もの である こ と から して、彼
の解釈
に おい て は 三時
の全て が設定可能
と な るの である。
以 上の考 察 を通 じて 明 らかになっ たこ と を まと めれ ば
、
次の通 りで ある。1.
マ チャ・
チャ ン ツ ォ ン の理 解 する三時 不 成の論 理の 下で は、
過 去と未 来が 直 接 対 立 するこ と を
根拠
に し て、現在
の存在
が否定
さ れ る。2.
ツ ォ ンカバ はその よ う なマ チャ・
チャ ン ツ ォ ン の解 釈に異 を 唱 え、
現 在は 「存
在 しない 」 ので はな くて 「本 性によ っ て存 在 しない 」 のであ る と理 解 した。
3
.
ツォン カバ は 、 自 らの解 釈こそがチャン ドラキー
ル テ ィ の 見 解 なの で あるとい う 自負の下、
言説
有 と し ての現 在を認め、 その こ と に よっ て 三時の全て を正し く設 定 可 能に し た。一
9
一
N工 工一
Eleotronio LibraryJapanese Association for Tibetan Studies
NII-Electronic Library Service JapaneseAssociation forTibetan Studies
v
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6
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ba)
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ピ
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「中論の構 造一一
宗 喀巴『中論釈 』を 中心 として一
」『中観と唯識』、
岩 波書店、pp .
321−
332
。
注
(1
)そもそもチベ ッ ト人の手に よる 『中 論』 の註 釈 書は、
『入 中 論』 に対 する註 釈 書 な どに比べ て意外な程に数 が少ない。 例 え ば
、
MHTL
の 「中 観 関 連 (dbu
ma ’i
skor )」 の リス トに挙 げ られてい る作 品の 内
、
『中 論 』 の註釈 書と確 認さ れるの は九作品の みであ る (MHTL
No ,
11315
,11322
,11349
, 11390,11399, 11441 ,11444, 11455 ,11459 )。
(2
)ッ ォ ン カバ 以 前に著 作され た チペ ッ ト撰 述の 『中論』註の中で、
存 在 し ていたこ とが 知 られる最古のもの は ゴク
・
ロ ツァー
ワ (rNgoglo
tsa
ba
,1059− 1109
)に よ るrTsa she’
i
Tikk
α(MHTL
No .
11315
)であ るが、
こ の作 品は残 念がら現 存 して いない。
それ に次い で古い の が、
本 稿で取り上げるマチャ
・
チャ ンッォ ン の’
Thαd
pa
’
i rgy αn (MHTL
No .
11322 )で ある。
さ ら に ま た、
ツォ ンカバ の重 要 な 師 で あっ たレ ンダ
ー
ワ・
シ ョン ヌロ ドゥー
(Red
mda ’ba
gzhon
nublo
gros,1349
−1412
)の ’Thad
pa ’i
snangba
(MHTL
No .
11349
>も現存し て お り、
参照 可 能であ る
。
ツ ォ ンカバ が rTsa sheTile
chen の随所に おL・て取り上げてい る、
彼以 前のチベ ッ ト人によ る解釈が
一
体 誰に帰せ られ 得るか に関して は、
そ れぞれの箇 所につ いて逐一
検 討を要する が、
それ は今 後の課 題である。 (3
)その成 果の一
部は、
拙 稿 「ツ ォ ンカバ の中観思 想 に お け る 業 果 設 定の根 拠 」 (『南 都佛教』84
、
2004 年)、
「チベ ッ ト中観思 想に お け る 〈滅 し た もの〉を め ぐ る論 争」 (『哲 学』56、2004
年 )、
お よび
“
Tsong
−
kha
−
pa’s
lnterpretation
ofThree
Times
”
(『印 度学仏 教学 研究』53−1
、2004
一11 一
Japanese Association for Tibetan Studies
NII-Electronic Library Service Japanese Assooiation for Tibetan Studies
一
ッ ォンカバ の 『中論』 註釈に お け る三時不成の論理
一
年)に おい て 公表さ れ てい る。
(
4
)Cardona (1991)、
小 川(
1991)、
立 川(
1994)、
Katsura (2000)
な ど。
(
5
)rTsa sheTik
chen 第二章の英 訳がHopkins (1974
)によっ て既に行わ れ てい るが、
同研 究は内 容の分析に全 く立ち 入っ て い ない もの で ある
。
(6) Deb ther sngon po に よ れ ば
、
マ チ ャ・
チャ ン ツ ォ ン は チ ャ パ・
チュー
キセ ンゲ (Phya
pa
chos
kyi
seng ge,1109−1169
)の弟子の一
人であっ たが、 ク・
ロツァー
ワ・
ドデー
バ ル (Khu
lo
tsa
’aba
mdo sde ’bar
)とジャヤ
ー
ナ ンダ (Jayananda
)にも 師 事 し、
実際に はチャパ の説よ りも ジ ャヤ
ー
ナン ダ 等の説を重 視し てい た (Deb ther sngon po,406.
16−
407.
2)。
マチ ャ・
チャ ン ッ ォ ン は 『中論
』 註である
’
Thad
pa ’
i
rgyan の他に、
Tshig
gsαl
stong thun gyi ’grel
pa
、
dBu
m α’i
bsdus
p
α、
dBu
m α’i
stongthun、
ジャヤー
ナンダの 『思択槌 (rTogge
tho
b
α)
』 に対す る註釈、
「入中 論 註』 の 「略義 (bsdus
don
)llと 「割 註 (mchanbu
)」な ど、
多くの 中観の著 作を残し てい る が (
Deb
ther
sngon po,417.
10−
12 )、
現時 点で目に す るこ とが出来 るの は’Th
α
d
pa ’i
rgyan の みで あ る。
(
7
)ッォ ンカバ の rTs α sheTik
chen に依 拠 した 『中論』の構 造の分 析が、
既に長 尾 (1978
)に よって 行わ れ てい る。 な お
、
ツォ ンカバ に先立っ て、
既にマチ ャ・
チャ ン ツ ォン が 『中論』の各 章の関 係を説 明し てい るが (’
Th
αd
p
α’i
rgyan ,17b5
− 19a5
>、
マ チャ・
チ ャン ツォ ンに よる説明はッォ ンカバ によるもの とは若 干 異 なっ てい る
。
彼は第一
章と第二章を、
「縁起 」 の限定 的 性 質の内の 主要な も の (
gtso
bo )
を説 く章と位 置づ けて い るのみで あ り、
ツ ォンカバ のよ うに第二章 の議 論を二無我の見解 と関連づけて説 明 して はいない。
(
8
)rTsa sheTik
chen,20b5−21a1
:de
la
yang thog mar gang zag gibdag
dang
bdag
gibar
’
dzin
pa,i
ma rig
pa
,
i
yul
med par gtanla
dbab
dgos
Ia
de
yang rabbyed
bco
brgyad
passton no
!!de
ltargang
zagla
rangbzhin
bkag
Pa
na ’jig
rtenpha
rol na8 ’dir
’ongba
dang ’
di
nas pha roldu
’groba
podang
las
dge
midge
byed
pa pQ yod pasde
mi ,thad
dQ
snyampa
,
gog
pala
,gro ,ongdang
byed
papo
brtag
pa
gnyis
so〃
(
9
)rTsa sheTik
chen ,67a2−3
:dang
po
mngondu
gyur
pa
,
iコ
gro
’
ong rags padang
de
nas’
jig
rten snga ma nas ’dir
,ong
ba
dang
’di
naspha
rol tu ’groba
rnamsla
yang
sbyarnas rang
bzhin
med tshul ngespar
bya
/
de
nas choskyi
dbang
du
bya8
pa,i
dngos
po
rnams
la
yang skyel
)a,i
tshegang
naskyang
mi,
ong
ba
dang !
’gag pa,i
tshegang
du
yang mi ,
gro
ba
la
rigs pa ,doll
pa
spos nas sbyar zhingbya
byed
gzhan thams cad1a
yang
de
ltar
bya
’o//
(
10
)ッ ォ ン カバ に よ れ ば 『中論』 第二章の理 論は
、
去来が端的に無 (medpa
)であ るこ と を帰 結 するもので はな く、 〈本 性に基づいて存在 す る去 来〉 ( ’
gro
’ongngo
bo
nyidkyis
yod
pa
)を否定 するもの であ る
。
つ ま り、
〈去る
者 〉、
〈去ら れ る所〉、
〈去る行為〉とい っ た 現 象は、
単に言 説に基づい て設定さ れ た だ け の ものとし て存 在し てい るけ れ ど も
、
「果たしてそれ ら は把 握さ れ た
通りに存 在し てい るのか
、
存 在 して いない の か」 と探究する な らば、
言説の根拠 付 け を 担 う基 盤は何ら見出さ れない
。
こ の こと を 理解せ し め るのが、
こ の章の目的 なの であ る (rTsa sheTik
chen ,
66b2−
6
を 参 照)。
(
11
)科 文の見 出 しは、
東 洋文 庫 (1996
,46−47)
に従っ た。(
12
)MMK
(
Skt .
)
II
1
:gatalp
nagamyate
tavad
agatalp naiva gamyate/
gatdgatavinirmukta 皿gamy
ana
甲 nagamyate
〃
MMK
(
Tib ,
)II
1
: re zhig songla
mi ’gro ste〃
ma songba
la
,ang ,gro