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日本西蔵学会々報 (51) 001根本 裕史「ツォンカパの『中論』註釈における三時不成の論理」

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(1)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

ォ ン

中論

註釈

時不成

根 本  裕 史

1

問 題

所 在

 

ッ ォ ン カバ

ロ サン タ ク

Tsong

 

kha

 

pa

 

blo

 

bzang

 

grags

 

pa

1357−1419

中論

M

翊αm α

4

αm 醜α版 物緬

ルジュ ナ作

〉註

ある rTs α she 

Tik

 chen

1407

か ら

1408

年 頃

Legs

 

bshad

 snying  

po

された

代表作

。 rTs α she  

Tik

 chen は

チベ ッ トで

作成

された その の 『

中論

(1)と比 較 して極め て浩 瀚 な

である。 ま た

同 書は その

所におい て

行 するチベ ッ ト人の解 釈  へ の批判 を含んで

い るこ とか ら

チベ 仏 教にお け る 『

中論

』 受 容の歴 史 を知る上で

め て重

文献

で あ

る と

え る。

 

さらに また

rTs α she 

Tik

 chen

、 『

』 に

する

とい う性 格 上、 そ の他のツ ォ ンカバ 著 作に おい て余

力点の

か れて い ない議 論 を 数 多 く扱っ て おり

そ の こ と か ら し て も

研究

余地

がある

品で あると

えるだろ う。

者は 目下

、時間論

とい う角

か らツォ ンカバ中 観 思 想

端 を 明 らか にべ く

研 究

めて い る が (3>

彼の 時 間 観に関 し て こ れ ほ ど まで に豊

題材

供 して くれる作 品は

同 書 を 措いて他にない

 

本 稿では主に rTsa  she 

Tik

 chen  

ag

依拠

し て

時不成

す るッ ォ

議 論

にっ い て

考察

するこ と に し たい

言 う ま

で も な く

中 論

』 第二

の 冒 頭に おい て

示さ れ る 三時 不 成の論 理につ い て は既に良 く知 られてお

り、

イ ン

学、仏教学

研 究者

に よ る優 れ た 研 究が数

く発

さ れてい る ω。 し か しなが ら

こ の

理 をめぐるチベ ッ ト仏 教で

の展

につ い ては

これ まで

く研 究さ れて こなか っ た  

に rTsa  she  

Tik

 chen

議論

ッ ォ ンカバ 以 前のチベ ッ ト人 解 釈に対 する

判 を

んで い る と同 時に、 ツ ォ ン

カバ

自身

を反 映 した もので あ る ゆ え、 注 目に値 す る。

 

ツ ォ ン カバ

ト に お

中論

』 の註 釈 書 は多 く現 存 してい い が 、 幸い に

し て

在 目にす ることの で き るマ

ュ プツォ ン ドゥ

rMa  

bya

 

Byang

 chub

brtson

gros

,?

− 1185

, 以 下マ チャ

ツ ォ

略記)

〔6)

Th

α

d

 

pa

 ’

i

 rgyan には

ツォ ンカバ 批 判 を 加 えい る見 解に

致 する

見解

出さ れ る。 そこ で

以 下で は 三時 不 成の

理に

す るマ チ ャ

チ ャ ン ツ ォ ン とツ ォ ンカバ の両 者の見 解 を 比 較 した 上で、 ッォ ン カバ がマ チ ャ

チャ ン ッォ ン説 を 批 判 して い るこ と を まず 指 摘 する。 そ し て

その

批 判

されてい るッ ォ ン カバ の時

間観、

り分

け 「

」 に関 する彼の見 解 を 明 らかに したい

2

議論

背 景

ツォ ン カバ の 見 解 に従っ て 『中

』 全 体に おける

の位

づ け を

確認

し た上 で(7)、 こ こで

問題

と な る 『

中論

』 の

偈頌

を示 すこと に し よ う。

一3 一

N工 工

Eleotronio  Library  

(2)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

ッ ォン カバ の 『中 論

』註 釈にお け る三 時 不 成の論 理

 

ッォ ン カバ に

えば

、対 象

を 「勝 義 と し て

在 す

don

 

dam

 

par

 

yod

 

pa )

j も し くは 「れ 自身 特 質い て 存 在す る

rang

 

gi

 mtshan  nyid  

kyis

 

yod

 

pa )

」 と捉 える無 明

こそ が

、輪

廻の原 因に他 な らない

っ て

輪 廻の苦 しみ を 断 ち 切る た め に必 要なの は

こ の無

に よっ て捉え ら れ た対

定 するこ とで ある。 そ して

gang

.zag ) を所 縁 と し て 「我」 や 「我 所」 と

える無 明 と

chos

を所 縁 と して 「我」 と捉 える無 明の 内

無明

対象

定 するこ とに

与 するのが

中論

の理

で ある。 ッォ ン カバ は

中 論 』 の

各章

を どの よ

な 順 序で実 践 するべ きか を説 明 する箇所 にお い て次の よ

に 述べ い る

[1 ]

その

で も、

最初

に人 我や我 所 と して捉 える無 明の 対 象 を 「あ る 」 と

確定

す る必 要があるの だ が、 こ の こ と は

第十

によっ て

示 さ れて い る。 その よ うに して人 に

し て自性 を 否 定 した 時

他 世

前 世

ら今

者〕

、 今

か ら他 世

来 世

へ と

、善、

不 善の業 を為 す 者が存 在 するゆ えに

それ は

当し ない 」 と

論〕

定す る た め に

去 来

考 察 〕 」 (第二章 ) と f作 者の考 察」

八 章

の 二

示 されてい るの

で あ る

rTsa  she 

T

薦 chen

20b5

21a1

(8)

 

よっ て、 ッ ォ ン カバ に よれ ば

理論

か ら

今世

、 今 世か ら来 世へ と輪 廻 す

るこ とや

その主

定 するとい う意 義 を持つ の で あ

り、

そ れ は ま た

特に人 無 我の理 解 を 深め るの に

益 な 理

なの で あるc さ ら に

、次

に示 す rTs α she 

Tiic

 chen 第二 章 末 尾の

述は

本 章の理

が人だ けでな く法に まで

張さ れ

る こ と を示してい る。

2

まず

初に

現 前の もの で ある

粗大

去来 〔

し て

本 章

の理

を適 用 した

後〕

その

有情

前 世 か ら今 世へ 来 ることや 今 世か ら

来世 〉

こ と に関し て も応 用 し

、無 自性

理論

確定す

るべ 。 その次に

法に関

し た

諸事物

につ い て もまた、

それ らが〕 生 じ る 時に何

か ら も

ない こ と、 な らびに

滅 する時に何 処へ も去 らない こ と に関 して理 論 を 読 み 替 えて応 用し、 他の全ての所

と能 作に関 して

もその

通 り

に為 すべ きで ある (rTs α she 

Tik

 chen

67a2−3)

〔9)。

 

こ こ でッ ォ ン カバ は

、第

の理

習 する際の手 順 を三段 階に分 けて い る。 彼に よ れ ば

こ の

学 習者

は まず 第

粗 大な去

来 (

gro

’ ong  rags 

pa )、

す な わ ち

歩 行 な ど の

られ る去

を取 り上 げて

それ をこ の章の理

に従っ て

定せ ねば な ら ない 。 第 二 に は、 有

が輪 廻 世 界 を 去

す る とい

事 態に目 を 向 け

そ こ で の 去

否定

せ ねば なら ない そ して

、第

三 に は、 法に

連し た

事物

目し

、諸存在

の生 滅の際にも去 来が成立 し ない こ と を

定せね ば な らない

こ のよ

に して ツ ォン カバ

行 な どの場

に おける

来の否 定 を 出 発 点 と し な が らも、 最

的にはあ らゆる人 法の去

して その 理

を応 用し て

とあ らゆ る去

が無

自性

で あるこ とを

定 する ことに こそ

中 論

議論

意義

見 出

し てい る の であ る(10)

 

で は

具 体 的に は如 何に して

去来

性が

定 され るのだ ろ うかQ それ は

rTsa  she 

Tik

chen

科文

着 目

す れ ば 明 らかな よ うに

、行為 (

bya

 

ba

行 為 主 体 (

byed

 

pa

 

po

一4 一

(3)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

ン カバ の 『 』 註 釈に おける 三時不 成の論理

行為

象 (

las

とい う三っ の作 業 概 念 を軸に し て行わ れ る

同 章の科 文 を抜 粋 して その和 訳 を 示せ ば、 以 下の通

で ある

括弧内

、註

釈の対 象 となる偈 頌の 番 号 を 表 す

(11) 。

K1

行為 対 象と行為主体における行 為を個 別的に否 定 する   L1 行 為 対 象につ い て吟 味した 上で否 定 する    

M1

三つ の道に関し て共 通に行為を否 定す る (

k1

)    

M2

〈現に去ら れつ つ あ る 所〉に関して行 為を個 別に否 定 する      

N1

前 主張を提示する

k .

2)      

N2

そ れ を否 定 する理 論

    

01

目 的 語 と動詞の

方が意 味 を 窟 す る な らば 他 方 は 意 味 を欠いてい る (

k

3

)        

02

両者が意味を伴 うな らば 過大適 用となっ て し まう (

k.

4

−6

)  

L2

行 為 主 体につ いて吟 味 した上で否 定す る (

k.

7−

11 )  

L3

行為が存 在 する ことの根拠 を 否 定 する (

k .

12−17

)  

L4

行為につ い て吟 味した 上で否定 する (

k .

18−23

K2

行 為 対 象 と行 為 主 体にお け る行 為 を共 通に否 定 す る (

k

24−25ab

 

こ の 科 文の

構成

が示 すように

、冒頭付

近で は

で ある 「

」 を過 去

未 来

現 在 の三通 りに場 合 分 け した 上で

その 何 れにおい て も

去る行 為

は妥 当 しない こ とが論じら れる

所 謂 「

時不成

」 の

理で あ る。 こ こ で は

こ の

理を

鮮烈

表現

し た

目した い こ の 偈 頌を、 チベ ッ ト語 訳や

釈に

づい て次の ように訳 すこ とが 出

既に去ら れ た所

は去ら れない。 〈未 だ 去 ら れてい ない所 〉 も去 られ ない

既 に去 ら れ た所

未 だ 去られてい い所 〉 以 外に

ら れつ つ ある所

は知ら れない

MMK

 

II

 

1

(12) 。

 

こ こ で ナ

ルジュ ナは、 ま

ず前

半の 二句で、 過去の道

既 に 去 ら れ た所

来の道

未 だ 去 られて い ない所

に お い て 去 るこ とを

否定

次に

後半

の 二

、現在

の 道

られつ つ ある所

に おい て去る こと を否 定 してい る。 現 在の

去る行 為

過 去 や 未

の道 と両 立 し ない こ とは

明で あ るか ら

前 半の 二 につ い ては

議論

地は ない

。 む し ろ

、問題

とすべ きは、 現 在の 道に関 して述べ られ た後 半の 二句であ る

また

マ チャ

チャン ッォ ン ツ ォ ンカパ との

見解

が起きて い るの も

そこに おい て である。 よっ て、 以

で は

後 半

の 二

解釈

に注 意 し なが ら、

者の見 解を 比較 する こ とにす る。

3

 

ォ ン の

 

マ チャ

チ ャ ン ツ ォ ン の

見解

か ら先に

て み よ う。 彼 は 『中論 』 第二章

偈 を次 の よ うに註 釈 してい る

3

その

ず 〈

られた

は去 られない。 なぜ なら

、〈

去る

行為

が既に滅

一5 一

N工 工

Eleotronio  Library  

(4)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

バ の 『中論 』註 釈にお け る三 時 不 成の論理

し て無 く なっ てい る か ら で ある。

未 だ 去 られて いない道

も また

去 られ ない。 な ぜ

な ら

、〈

去る行

為〉

だ生じ て お らず、 存 在し てい ない か らである

。〈

現に行かれつ っ ある所 〉

す な わ ち

、〈

現に去 られつ つ あ る道

に おい て も ま た、 去ることはない。 な ぜ な ら

道 とい う場 所におい て或る

去 る

者〉

に よっ て

通過

さ れ た

未 だ 通 過 さ れてい

の 二者 〕 は 直 接 対 立 す るの で

dngos

gal

 

yin

 

pas )、〈

既 に去られ た 所

ら れて い

以 外

現に 去 られ つ つ あ る 所

は知ら れず、 認 識 さ れ ない ゆえ、 その 二

現に去 られつ つ ある所 〉は存 在 しないか らである

Th

α

d

p

α ’

irgyan

39b6

40a2

(13) 。

 

線 部

すように、 マ チャ

ツ ォン は 「

過去

」 と 「未

」 の

両者

が直 接 対 立 するこ と を 主 張してい る。

直 接 対こ と と は、 その 二 つ を 除 いた

三の集 合 (

phung

 gsun1

があ

り得

ない こ とを含 意 する から(14)

過 去 と未

の道が直 接 対 立 す るとい

こ と は

現 在 」 という

三の

集合

が無

med  

pa

)であること を

帰結

る。 よっ て

彼の解 釈に

えば

現 在 」 は無であ り

無であ る 「

現在

の道」 に おい て

去 る 行

為 〉

存在

し得 ない の だとい うのが

ルジュ ナの 意 図で ある と理

するこ とが

来る(15)

4

 

そ の

 

しか しなが ら

こ のよ う なマ

チャ ン ツ ォ ンの

釈は、 ツォ ンカバ に は決 して

け 入 れ られ ない

で あっ た。 ま ず

ツ ォ ンカバがマ チャ

ャ ン ォ ン の見 解か ら決 別 し て い ることを 端 的に 示 す

文章

か ら見て み よ う。 ツ ォ ンカバ は、 こ の偈 頌に説かれる 三時 不 成の

理の意 味 を 次の よ うに ま と め てい る。

4

従っ て

こ の理

足 に よっ て踏 ま れたその

全体

」 た る

を 基

に第 三 の

集合

と し て

性に よっ て存 在 す るこ とを

否定

する の であっ て

、 〈

既に去 られた

所 〉

未 だ 去 られて い ない

が直 接 対 立 することに

づ い て

dngos

gal

 

yin

 

pas )

第三の

集合

定 するもので はない (16)

なぜ な ら、 ま さに

(17)で は

、〈

行為〉

滅 し た所 を

既に去ら れ た所

〉、

未 だ 生 じて いない

だ 去 られてい い所

現 在

去る

行為 〉

に よっ て

わ れ た所

gro

 

ba

i

 

bya

 

ba

 

da

 

ltar

 

bas

 zin 

pa )

現に去

られつ っ あ る

所〉

説明

して い る か らで あ る

rTs α she 

Tik

 chen ,

56a2−3)

(18) 。

 

引 用 文

3

4

の下 線 部 分 を比 較 す れば分か る よ

ツォ ンカバ は 「現

」 の否

し て

マ チャ

チャ ン ツ ォ ン に見 られるよ うな

釈に明 らかに異 を 唱 えて い る

ツ ォ ン カバに よ れば、 ナ

過去

直 接 対 立 す る と を

根拠

に して 現 在の

存在

を 否 定 して い るの で は ない な ぜ な ら

過 去や

未来

の道が

在 するの と同 様に

去る

行為

に よっ て

わ れ た

存在

し てい るか らで あ り

、現在

存在

する とい うこ とは また

」 の

者で ある チ ャ ン ドラ キ

ル ティ の見 解で もある か ら で ある。 従っ て

こ の

偈頌

に おいて は

過 去の

未来

直接対

ること を

拠にして

、第

三の

合 た

一6 一

N工 工

Eleotronio  Library  

(5)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assoolatlon  for  Tlbetan  Studles

ォ ン 中 論 』 註釈 に お け る 三時 不 成の論 理

現在

否定

されて い るので はない

現 在の道は端 的に

存在

し ない の で はな く、 あ くま で本

によっ て (ngo  

bos

) 存 在 しない の で あ り、 こ の偈 頌の後 半 部 は 「本 性に よっ て

在 す る現 在の道 は

去 られ ない 」 とい う意 味で理

さ れ ね ばな らない の である(19>。

 

で は

な ぜ 現

の道 は 「

本性

に よ っ て

在 し ないj と

えるのか、 それ は、 「現 在 」 と して把 握 されて い る物が

果た して把 握さ れ た 通 りに存 在し て い るの か

かを

し求めて

考察

し た と き に

その よ

は何 ら見 出さ れないか らである。 これに

し て、 ッ ォン カバ はチ ャ ン ドラ キ

ル ティ の 『

明句論 (

Pr

α5αη α

』(20)に依 拠 して次の よ うに説 明 してい る。 通

常、

現に歩 行 して い る人の足に よっ て踏 ま れてい る場 所が

現に去ら れっ っ あ る 所

で あ

、 「

現在

」 であ る と見な される。 ところが

実 際に はその よ う な 場 所は、

考察

し て も見 出 さ れ ない の である。

 

ず第

行者

の 「足の

」 と 「踵」 の二箇 所に着 目 す ると

以 下の よ うな 理 屈で第 三 の

合たる 「現 在

」 は

在 し ない と言 える

5

さ らに 足に よっ て踏ま れ てい る道で、 (a)足の指に よっ て

ま れて い る所 の後 ろ は

その部 分の

去 る行 為

が滅 した所で あ り

(b)踵によっ て 踏 まれてい る所の前は、 その部 分の

る行 為

が未 だ 生 じてい で ある

よっ て

。)(b)その両 者を基

にす れ ば

間の

は 「

行為

し た

」 と 「行

が未だ 生 じて いない所」 の何れで もな い

三 の

合 と し て

在 しない

rTs α she 

Tik

 chen

55a6

b1

(21) 。

 

こ こ で 「足の指」

a

は足の 先 頭 部 分の こ とを 意 味し

「踵」

b

は足の末 尾の部 分の ことを 意 味 する

その 内

足の指によっ て 踏 ま れてい る所 を基 準にす れ ば

その後 方は 「 去の道 s で あ る。 ま た、 踵に よっ て踏ま れ て い る所を基

にすれ ぼ、 そ の前 方は 「未 来 」 で あ る。 ゆ え に、 こ の 二 つ の地 点を基

に 「現 在 」 とい

う第

三の

合を探 し

め て も、 そ れは見 出され ない そ れで は、 今の よ

に足を

諸部分

分解

に、 足

全体 (

c

基準

に することに よっ て 「現 在の道」 とい う第三の集 合 を 見 出 すこ と は可 能だ ろ うか。 ツ ォ ンカ バ は

次の ように解 答 を 与 えてい る。

6

(。)その 二 部 分の何 れで も ない 足で

そ れ

身の特 質によっ て成立 した何 らかの

存在す

場合

には

その

の道は

(ab

部分

」 を基

に して

、両者何

れで もない も の と し て

存在

することはない と し て も、 (、) 「全 体 」 たる足 を 基

に して、 両

何 れで も ない の と して存 在 す る

こ と にな るだ ろ う

。 けれ ども

(。)その 二

分の何れで もな い に して

本 性によっ て成 立 した もの は存 在 し ない のだか ら

。)そ れ を基 準に して

その

道が

現に去ら れつ つ る所

とし て本 性に よっ て存 在 するこ とはないの

である

rTsa  she  

Tik

 chen ,

55b1 − 2)

(22) 。

 

も し指 や 踵 な ど とい っ た 諸 部 分 とは別 個に

そ れ

身の特 質によっ て成立 し た 「足

全体

」 が

存在

するならば

そ れを 基

に し て第 三の集 合 たる 「現 在 」 を 立て るこ とが 可 能であ る。 し か し な が ら、 諸 部 分に依 存 し ない 「足 全 体 」 な る もの は

実際

存在

し ない の で

そ れ を

基準

に して立 て ら れ るべ き 「現 在 」 も また、 それ 自 身の特 質によっ て (も し くは

7

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

(6)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

ッ ォ バ の 『中論』註 釈にお ける 三時不成の論理

に よっ て

存 在 す るこ とはない の で あ る

 

こ の よ

に して

現 在 」 とい う第三の集 合 を探 し求めて考 察 して も

通 常そ れ と し て

握 さ れて い る通 りに見 出 さ れる こ はない

の こ とか ら

現 在の道は 「本 性に よ っ て

存在

し ない と結

さ れ る。 ま た、 以上の こ とは現 在の道が無 (med  

pa

であることを帰 結 するもの で はない

ツ ォ ンカバ の表 現 を 用い れ ば

現 在は 「全 体 る足 を 基 準

三の

集合

と して本

によっ て

cha  can  rkang  

pa

 

la

 

ltos

 nas  

phung

 

gsum

 

du

 ngo  

bos

存 在 しない の で あっ て、 ただ

在しない の で はない。 そ して

こ の よ

な 限 定 詞が付 け られ てい る

限 り

に おいて

現 在の道の

存在

否定

さ れ るのである。

 

で は、 な ぜツォ ンカバ は

現在

定に

し て、 この よ うに回 り く どい説 明 を与 えてい るの だ ろ

。彼

マ チャ

チャン ッォ ン の言 う よ うな 「

現在

存在

しない コ とい う理 解で満 足 出 来 な かっ た 理

であ ろ

か。 そ れ は次に示 す よ うに

現 在の存 在を認め るこ と が、 過

未来

定 する上で不 可 欠だ か らで あ る。

7

]【

論】

さらに ま た

、〈

現に去 られつ つ ある道

が存 在 し ないな らば

現 在の道は存

しない

ことになる

しか し

その

通 り

だとす れ ば、 行 為が滅 した過 去の

、〔

為が

だ 生じてい 未 来道 も ま

、存在

し ない こ と になっ て し ま うだろ う

。【

既に

られた 所

未 だ 去 られ て い

は、 『明 句 論 』(23)で 「行

が滅 し た所」 と 「行 為だ 生 」 を指 すもの と して

明さ れてい る

その 両 者 何 れで も ない

に去 られつ つ

道〉

存在

しない な らば

ちょ うど指

さ れ た通 りの過 失 と な る であろ う けれ ど も

こ こ で はその

両者何

れ で もない

現に去ら れつ つ ある道

が存 在 し ない と

じ てい るのではない の で あっ て 、

現に去られつ つ ある

道〉

に して

本性

によっ て

存在

する

物〉

定 した 上で

それにお け る

去る

行為〉

るの である

rTsa  she

 

Tik

 chen

55a3 −6)

(24) 。

 

rTsa  shε 丁鵜 chen

十 九 章に も述べ られてい る よ

に(25}、 過 去 と未 来は現 在に依 存 し てい るため

も し現

存在

しな けれ ば

過 去 と未 来 を 設 定 す るこ と は

不可能

になる。 よっ て

、現在

の道が

在しない な らば

過 去と

未来

の道 も

存在

しない こ とに な り

三っ の

時間

属す

る道の何 れ もが

成 り

立 た な くなっ て しま う

しか し

チャ ン ド ラ キ

ル ティが過 去の道

行 為が既に

し た所、 既に去 られた

所)

未来

道 (

行為

だ 生 じて い ない所

未だ去 ら れ てい ない所 )につ い て説 明を

えて い る ように

、中観

説におい て も

言説

と して の過 去 と 未

は認め ら れ てい る。 ゆえに

それ ら を認め る た めに必

な 現 在の道 も また

、存在

す る と 認められ ねばな らない こ の よ

に して ツォ ンカバ は

、 自

らの解 釈こ そが チ ャン ラキ

ル ティ の

見解

なの であ るとい う

自負

を もって、 現 在の有 を主 張 して い る。

 

言説有 (

tha

 snyad  

du

 

yod

 

pa

)であ るとい

ツ ォン カバ の

解は

 rTsa  she 

Tik

chen

の記 述か らも

認さ れ る。 以 下に示 す 引 用 文

8

中論

章、

第 十 四

(26)に対 する

釈の

一部

で ある

こ の

頌で ナ

ル ジュ ナは 三

時不成

理 を用い て、 生 相に よっ て

が 生 み

さ れ る ことを 否 定 して い る

すな わち

生み

され る もの

bskyed

bya

は過 去

未 来

れ か に

する

で ある が、 その何れ もが 生 み

さ れ る ことはな

一8 一

N工 工

Eleotronio  Library  

(7)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

バ の中 論 』 註釈における 三時不 成の論理

な ぜ な ら

過 去の

既に生じ た もの

と未 来の

未 だ 生 じ てい ない

は現 在の

生 の作 用 〉 と両 立せず

ま た、

既に 生 じ た もの

未 だ 生じて い ない もの

以 外に

現に 生 じつ つ る もの

は認め られ ない か らである。 ツォ ン カバは

こ こで

現に生 じつ っ あるも の

定 さ れることの意 味 を 次のよ

解説

して い る

8

こ の こ と は

先 程

現に去ら れつ つ ある所 〉に関 して解

し た よ

般に

既 に生 じた もの

未 だ 生じ てい ない もの

直接

対立するもの である と して も

そ れ を根 拠に否 定 して い るの で は ない な ぜ な ら

そ れ

根拠

で あ る と し たら 〕二 者 択

的に

わ れて い る

既に生 じ たもの

未 だ 生じてい ない もの

今の場 合の

既 に生 じた もの

だ生 じて い

は意 味 が 同じ である

だが、

の場

者は

釈(27)で、 「じ た

し た も 」 お よ び 「未 来の もの」 を 指 す もの とし て

説明

さ れ て い るか らで あ る。 従っ て

生 じた 後滅 した も 」 と 「生の

用 を

始 して いないもの」 の両 者 何 れで も ない 「現 在の生」 は

説に おい て存 在 するの で (tha

snyad  

du

 

yod

 

pas )、先後

の 二

に 生 じつつ あるもの

は 「それ 自身本 性

によっ て存 在 しない」 とい う意 味 なのである

rTsa  she 

Tik

 chen

101a1

3

(28)

 

こ こ で ツォ ン カバ の

展開

し てい る

議論

rTs α she 

Tik

 chen  

ag

見 られ と軌

にするこ とは明ら かであ る

。彼

に よ れ ば

既に生 じた過 去の もの と未 だ 生じ てい ない未 来の ものが直 接 対立 するこ とを根 拠に

、〈

現に生じつ つ あるもの 〉 とい う第三 の集 合の無を

くこ と がナ

ル ジュ ナの意 図なの で はない

チャ ン ドラキ

ル ティの 註 釈が示 すよう に、 こ こで用い られてい る

論法

に生じ たもの

だ 生 じてい ない もの

の 二

か らな るディ レン マ で はな く

その 二 つ に現 在の生

skye  

ba

 

da

 

ltar

 

ba )

た る

現に生じつ つ あるもの

を加え た三 者か らなる ト リレン マ で あ る。 よっ て

、〈

に生 じつ つ あ る もの

は 言 説におい て存 在 す る。 また

そ れは端 的に存 在 しない のではな く

あ くまで 「それ 自 身の

性に よっ て

在 しない

rang  

gi

 ngo  

bo

 nyid  

kyis

 med  

pa )

」 と

わ ねばな ら ない。  か くして 、 ッ ォ ンカバ の理 解 する 三時 不 成の論 理の下で は

言 説 有 と して の現 在が認めら れている

さ らにま た

過 去 と未 来は現 在 を 基 準に して設 定 さ れるべ き もの であ り 、 現 在 な し に は有 り得 ない の である こ と から して

、彼

解釈

に おい て は 三

の全て が

設定可能

と な るの である

 

以 上の考 察 を通 じて 明 らかになっ たこ と を まと めれ ば

次の通 りで ある。

1.

マ チャ

チャ ン ツ ォ ン の理 解 する三時 不 成の論 理の 下で は

過 去と未 来が 直 接 対 立 する

 

こ と を

根拠

に し て、

現在

存在

否定

さ れ る。

2.

ツ ォ ンカバ はその よ う なマ

ャ ン ツ ォ ン の解 釈に異 を 唱 え

現 在は 「

在 しな 」   ので はな くて 「本 性 っ て存 在 しない 」 のであ る と理 解 した

3

ツォン 、 自 らの解 釈こそがチャン ドラキ

ィ の 見 解 なの で う 自負

 

下、

言説

有 と し ての現 在を認め、 その こ と に よっ て 三時の全て を正し く設 定 可 能に し た。

9

N工 工

Eleotronio  Library  

(8)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service JapaneseAssociation forTibetan Studies

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pa

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Deb

ther sngen po 'Gos

lo

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ba

gzhon

nu

dpa!.

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Deb

thersngon

po.

Varanasi;

Vajra

Vidya

dGongs

pe rab gsat

Tsong

kha

pa

blo

bzang

grags pa.

dBu

ma

la

ljug

pa't

rpya

cher

bshad

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Tsong

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pa

blo

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dBu

ma rtsa

ba'i

tshig

le'ur

byas

pa

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Tab ces

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'Thad

pa

'i

tgyan rMa

bya

Byang

chub

brtson

'gros,

dBu

rna rtsa

ba

shes rab

kyi

'grel

pa

'thad

pa'irpyan,

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pa'isnang

ba

Red

mda'

ba

gzhon

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blo

gros,

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ォ ン

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Types

 of  

Ihcompatibility(

 ’

gat

 

ba)

and  

Types

 of  

Non −Cognition (

m α

dmigs

   

in

 

Early

 

Tibetan

 

Ts

んα(

i

 m α

Literature

 

Tibetan

 

Studies

 

Proceedings

 o‘んε

7

   

Seminar

f

 

the

 

lntern

α

ti

nal・

Ass

c n 

f

r 

Ti

etαn 

Studi

εs

, 伽 z・1995

 V・

lume

 

l

,      

Wien

Brill

 pp

495

510

Onoda

, 

S

1992

  

Phya

 pa 

Chos

 

kyi

 seng  

ge

,s 

Theory

 of 

lg

α‘わα,

 

Tibetan

 

Studies

, 

Proceedings

 o/

   

the 

sth

 

Semin

αr of tんe 

lnt

εrnation α

1 ・

455

・ciαtion ノ

er 

Tibet

αn 

Studies

1

>αrita 

l

 

989 .

     

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I,

 

Tokyo

Brill

 

pp .

197−202.

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1991

 

Camyat

ε 

G

αmyarnan α 

Gata

, 

Agata

 

』II, 

kk .

1

6の

考 察

印 度 学

   

仏 教 学 研 究J39

−2、

 

pp .

168−172。

立 川 武蔵

1994

  『思 想

法 蔵 館。 東 洋 文庫チベ ッ ト研究 室

1996

 

西 蔵文 献

 

1

The

 

Collected

 

Sa −bcad

 of rJe  yab sras  gsung

bum

1

丿』

      東 洋 文庫。 長 尾 雅 人

1978 

中論構 造

一一

宗 喀 』を 中心 として

」『中観と唯識』

岩 波書店

、pp .

321−

332

1

)そもそもチベ ッ ト人の手に よる 『中 論』 の註 釈 書は

『入 中 論』 に対 する註 釈 書 な どに比べ て

  

意外な程に数 が少ない 例 え ば

MHTL

の 「中 観 関 連 (

dbu

 ma ’

i

 skor 」 の リス トに挙 げ ら

  

れてい る作 品の 内

中 論 』 の註釈 書と確 認さ れるの は九作品の みであ る (

MHTL

 

No ,

11315

  11322

11349

, 11390,11399, 11441 ,11444, 11455 ,11459 )

2

)ッ ォ ン カバ 以 前に著 作され た チペ ッ ト撰 述の 『中論』註の中で

存 在 し ていたこ とが 知 られる最

  

古のもの は ゴク

ロ ツァ

ワ (rNgog  

lo

 

tsa

 

ba

1059− 1109

)に よ るrTsa  she 

i

 

Tikk

α(

MHTL

   

No .

11315

)であ るが

こ の作 品は残 念がら現 存 して いない

それ に次い で古い の が

本 稿で取

  

り上げるマチャ

チャ ンッォ ン の

Thα

d

 

pa

 

i rgy αn (

MHTL

 

No .

11322 )で ある

さ ら に ま た

  

ツォ ンカバ 重 要 な 師 で あっ たレ ンダ

シ ョン ヌロ

Red

 mda ’

ba

 

gzhon

 nu 

blo

  

gros,1349

−1412

)の ’

Thad

 pa ’

i

 snang  

ba

MHTL

 

No .

11349

>も現存し て お り

参照 可 能で

   あ る

ツ ォ ンカバ が rTsa  she  

Tile

 chen の随所に おL・て取り上げてい る

彼以 前のチベ ッ ト人

   によ る解釈が

体 誰に帰せ られ 得るか に関して は

そ れぞれの箇 所につ いて逐

検 討を要する    が

それ は今 後の課 題である。 (

3

)その成 果

拙 稿 「ツ ォ 思 想 に お け る 業 果 設 定根 拠 」 (『南 都佛教』

84

    2004 年)

ベ ッ ト中観思 想に お け る 〈滅 し た もの〉を め ぐ る論 争」 (『哲 学』

56、2004

年 )

  

お よび

Tsong

kha

pa’

s 

lnterpretation

 of  

Three

 

Times

印 度学仏 教学 研究』

53−1

2004

一11 一

(10)

Japanese Association for Tibetan Studies

NII-Electronic Library Service Japanese  Assooiation  for  Tibetan  Studies

バ の中論

』 註釈に お け る三時不成の論理

年)に おい て 公表さ れ てい る。

4

Cardona (1991)、

小 川

1991)、

立 川

1994)、

 

Katsura (2000)

な ど

5

)rTsa  she  

Tik

 chen 第二章の英 訳が

Hopkins (1974

によっ て既に行わ れ てい るが

同研 究は

   内 容の分析に く立ち 入っ て い ない もの で ある

(6) Deb ther sngon  po に よ れ ば

マ チ ャ

チャ ン ツ ォ ン は チ ャ パ

チュ

キセ ンゲ (

Phya

 

pa

  

chos  

kyi

 seng  ge

1109−1169

の弟子の

人であっ たが、 ク

ロツァ

ドデ

バ ル (

Khu

  

lo

 

tsa

’a 

ba

 mdo  sde ’

bar

)とジャヤ

ナ ンダ (

Jayananda

)にも 師 事 し

実際に はチャパ の説

  

よ りも ジ ャヤ

ナン ダ 等の説を重 視し てい た (Deb ther sngon  po406

16

407

2)

マチ ャ

   チャ ン ッ ォ ン は 『

』 註である

Thad

 pa ’

i

 rgyan の他に

 

Tshig

 gsα

l

 stong  thun gyi ’

grel

  

pa

 

dBu

 m α’

i

 

bsdus

 

p

α

 

dBu

 m α’

i

 stong  

thun、

ジャヤ

ナンダの 『択槌 (rTog  

ge

 

tho

  

b

α

に対す る註釈

「入中 論 註』 の 「略義 (

bsdus

 

don

)llと 「割 註 (mchan  

bu

な ど

多く

  

の 中観の著 作を残し てい る が (

Deb

 

ther

 sngon  po,417

10

12 )

現時 点で目に す るこ とが出来     るの は’

Th

α

d

 pa ’

i

 rgyan の みで あ る

7

)ッォ ンカバ の rTs α she  

Tik

 chen に依 拠 した 『中論の構 造の分 析が

既に長 尾 (

1978

)に よっ

  

て 行わ れ てい る。 な お

ツォ ンカバ に先立っ て

既にマチ ャ

ャ ン ツ ォ 中論各 章

  

関 係を説 明し てい るが (’

Th

α

d

 

p

α’

i

 rgyan ,

17b5

− 19a5

マ チャ

ン ツォ ンに よる説明は

  

ッォ ンカバ によるもの とは若 干 異 なっ てい る

彼は第

章と第二

」 の限定 的 性 質の

  

内の 主要な も の (

gtso

 

bo )

を説 く章と位 置づ けて い るのみで あ り

ツ ォンカバ のよ うに第二章     の議 論を二無我の見解 と関連づけて説 明 して はいない

8

)rTsa  she  

Tik

 chen

,20b5−21a1

de

 

la

 yang thog mar  gang  zag  gi 

bdag

 

dang

 

bdag

 gi 

bar

  

dzin

 pa

i

 ma  rig 

pa

i

 

yul

 med  par gtan 

la

 

dbab

 

dgos

 

Ia

 

de

 yang rab 

byed

 

bco

 

brgyad

 pas

  

ston  no

!!de

 ltar 

gang

 zag  

la

 rang  

bzhin

 

bkag

 

Pa

 na ’

jig

 rten 

pha

 rol na8 ’

dir

’ong  

ba

  

dang ’

di

 nas pha  rol 

du

 ’gro 

ba

 po 

dang

 

las

 

dge

 mi  

dge

 

byed

 pa pQ yod pas 

de

 mi ,

thad

  

dQ

 snyam  

pa

gog

 pa 

la

,gro ,ong  

dang

 

byed

 pa 

po

 

brtag

 

pa

 

gnyis

 so

9

)rTsa  she 

Tik

 chen

67a2−3

dang

 

po

 mngon  

du

 

gyur

 

pa

i

gro

ong  rags  pa 

dang

 

de

 nas

  

jig

 rten snga  ma  nas ’

dir

ong

 

ba

 

dang

di

 nas  

pha

 rol  tu ’gro 

ba

 rnams  

la

 

yang

 sbyar

  

nas  rang  

bzhin

 med  tshul nges  

par

 

bya

de

 nas  chos  

kyi

 

dbang

 

du

 

bya8

 pa,

i

 

dngos

 

po

  

rnams  

la

 yang  skye  

l

)a,

i

 tshe 

gang

 nas 

kyang

 mi

ong  

ba

 

dang !

gag pa

i

 tshe 

gang

 

du

  

yang  mi ,

gro 

ba

 

la

 rigs  pa

doll

 

pa

 spos  nas  sbyar  zhing  

bya

 

byed

 gzhan  thams  cad  

1a

  

yang  

de

 

ltar

 

bya

’o

//

10

)ッ ォ ン カバ に よ れ ば 『中論

』 第二章の理 論は

去来が端的に無 (med  

pa

)であ るこ と を帰 結 す

  

るもので はな く、 〈本 性に基づいて存在 す る去 来〉 ( ’

gro

ong

 ngo  

bo

 nyid 

kyis

 

yod

 

pa

)を否

  

定 するもの であ る

つ ま り

〈去

者 〉

〈去ら れ る所〉

〈去る行為〉とい っ た 現 象は

単に言 説

    に基づい て設定さ れ た だ け の ものとし て存 在し てい るけ れ ど も

果たしてそれ ら は把 握さ れ た

  

通りに存 在し てい るのか

存 在 して いない の か」 と探究する な らば

言説の根拠 付 け を 担 う基 盤

  

ら見出さ れない

こ の こと を 理解せ し め るのが

こ の章の目的 なの であ る (rTsa  she  

Tik

  

chen

66b2−

6

を 参 照)

11

)科 文の見 出 しは

東 洋文 庫 (

1996

46−47)

に従っ た。

12

MMK

Skt .

II

 

1

gatalp

 na  

gamyate

 

tavad

 agatalp  naiva  gamyate

gatdgatavinirmukta 皿

  

gamy

 

ana

na 

gamyate

MMK

Tib ,

)II

 

1

: re zhig song  

la

 mi  ’gro ste

ma  song

  

ba

 

la

,ang ,

gro 

ba

 min

//

song  

dang

 ma  song  ma  

gtogs

 par

bgom

 pa shes par mi ’ gyur

  

・・

   

サン スク リッ ト原 文に従 えば

、d

句の

gamyate

を、  a句や b句の場 合 と同様に 「 ら れ

12

N工 工

Eleotronio  Library  

参照

関連したドキュメント

和歌山県臨床心理士会会長、日本臨床心理士会代議員、日本心理臨床学会代議員、日本子どもの虐

日本冷凍空調学会論文集.

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