はじめに
前回に引き続き、文化人類学が問題にす る「コメンサリティー(共飲共食)」の特 異な現象である茶の湯とシュンポシオンの 比較を試みる。今回は、両者のエーティク
(倫理、道徳)について考えて試みる。
前号の内容
・茶の湯とシュンポシオン、茶と葡萄酒、
茶室とアンドローン、服装、照明と飾り、
道具 ・歴史的概観 ・「利休の茶会」と プラトンの『饗宴』 ・対話と沈黙
茶の湯のエーティク
オックスフォード大学のある古代史学者 は、『死とシュンポシオン』と題する論文 の中で次のように書いている。
「小津安二郎の古典的映画『東京物語』
(1953)のクライマックスは、家族の母 親の死の後にやってくる。身内が最後の 儀礼的食事のために集まる。その時、彼 らの日常的生活を支えてきた家族という 絆の意味が暴かれる。あるものは、遺品 の高価なものを手に入れようと我欲を張 り、それぞれは、食事も終わらぬうち に、自分の生活のためにと慌ただしく
散っていく。ただ義理の娘だけが、人間 的感情を以て母親の命の終わりに応え る。そしてそれゆえに、日本人の社会の 日常性を超えることができる。その彼女 のなかに私たちは、根本的な、翻訳不能 の日本人のエーティク、すなわちワビ・
サビの存在を感じることができる。」
イギリスの教養を代表するような人物で あるこの歴史家は、英語に翻訳不可能なワ ビ・サビと呼ばれるものが、日本人が拠っ て立つところの根本的なエーティク(倫 理、道徳)であるという。すなわち彼は、
「ワビ・サビ」を美学(エステティック)
ではなく、エーティクとして捉えている。
そしてそのエーティクを私たちは、母親の 命の終わりに「人間的感情を以て」応えた 義理の娘の態度に見ることができるとい う。彼は、映画の登場人物の立ち居振る舞 いに、何を見たのだろうか。ただ上の引用 では「ワビ・サビ」と一括りにされている
(イギリスでの慣用?)が、問題はないと 思われるので、ここでは「侘」としてのみ 取り上げる。
「侘び数寄」
「侘」は、茶の湯のもっとも基本となる
茶の湯とシュンポシオン
-承前-
中山 典夫
されている当時の茶会記が教えてくれる。
これら簡潔な備忘録ともいうべき書き物に は、それぞれの茶会の日時・場所、列席者 の氏名、使われた道具、懐石の献立など が、要領を得た箇条書きで記録されてい る。しかし、ときには点前の所作、数奇雑 言の断片が加えられることはあっても、そ れら的確で簡約された記録は、その催しが 選ばれた人たちによる、高度に緊張した知 的な集まりであったことを語っている。そ して多くの場合、その集まりの場が狭い粗 末な草庵、使われた道具が日常雑器の見立 て、懐石献立が一汁三菜であることは、そ れらが、後に「侘茶」と呼ばれる形の茶の 湯であったことを窺わせる。
このような「茶会」に参加したのは、
『日本西教史』が報告する「貴人」、すな わち一部のエリートに限られていたのだろ うか。
『山上宗二記』は、将軍義政の時代のこ ととして、
天下に御茶湯仕らざる者は人非仁に等 し。諸大名は申すに及ばず、下々洛中洛 外、南都、堺、悉く町人以下まで、御茶 湯を望む
と記している。ここでの「人」、「仁」がど んな人間を指していたのか定かでないが、
その中に、庶民大衆も含まれていたのだろ うか。いずれにしてもこの一節は、乱世に 権力に連なった地方豪族をはじめとして、
京都、奈良、堺の町人に至るまで、悉く茶 の湯を楽しみにしたと告げている。
この人気は、以後もつづいていたのだろ うか。
義政の時代から約 1 世紀後、天正 15 年
(1587)10 月、太閤秀吉は京洛北野の松 原において大茶湯を催した。『北野大茶湯 之記』によると、洛中上下のみならず、奈 良、堺に立てられた高札には、若党、町 人、百姓の別なく、たとえ唐国の者でも、 およそ茶の湯に心寄せるものは釜ひとつ、 つるべひとつ、吞物ひとつをもって、茶が なければこがしでもよく、これに参加する こと。そして、この茶会に参加しないもの は、今後こがしをも立てることを禁じる。 さらに、侘者には太閤自ら茶を振舞う、と あった。10 日間であった予定は、一日で おわった。
それから約半世紀後、寛永 3 年(1626) ごろ世に出たという軍記物『甫庵太閤記』 は、次のように語る。
侘すきの面々、是は目出度き御代にあう て、価貴き道具をも拝見し、又侘すきの 名誉をも達せんと悦ぶも有、洛中のすき しやは名をも取、秀吉公の御感にも頂 り、堺のすき者共を一あて当て、常々の 名人かほを汚さんと巧み侍るも有。
「侘すき」を自称する面々は、「価貴き道 具」の拝見を大いに喜び、彼らのなかに は、本当の「侘数寄」の仲間に加えられ、
「数寄者」と呼ばれる名誉を得、太閤に近 づく機会を狙うものもいた。あるいはま た、常日ごろ名人ぶり、大きな顔をする
「堺の数寄者ども」に一泡吹かせんと目論 理念とされる。本来、心細く、もの哀し
く、うらぶれた心境をあらわす言葉であっ た「侘」が、何時、どのようにして茶の湯 と結びついたか、判然としない。中世の末 期、戦乱、下克上の苛酷な世に絶望し、諦 めのなかで、豪奢・贅沢とは縁のない「侘 人」による茶の湯が生まれたのだろうか。
1580年代、利休(1522-1591)の弟子山上 宗二(1544-1590)が著わした茶の湯の秘伝 書『山上宗二記』には、すでに紹鴎(1502- 1555)が「侘数奇」という言葉を使ってい たことを記している。そこで紹鴎は、茶人 のなかの一群を「侘び数寄」と呼び、彼ら を「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作 分一つ、手柄一つ、この三ヶ条調うる者を いうなり」と定義している。すなわち「侘 び数寄」とは、高価な道具を持たないが、
意志、想像力、実行力をそなえる茶人だと いう。この紹鷗の「侘び数寄」は、やがて 茶の湯の形の呼称となり、その形は、次の 世代の利休によって整えられた。
「侘び数寄」は、どのような集まりだっ たのだろうか。それを、外の目で見たひと つの記録がある。
1689 年フランスで、16 世紀の後半に日 本に派遣されていたイエズス会士が故国に 送った書簡をもとに、大部にわたる日本の キリスト教史が出版された。この 18 世紀 におけるヨーロッパの日本観に大きな影響 を与えた書は、明治政府に委託されたフラ ンス人宣教師によって翻訳され、明治 13 年(1881)『日本西教史』として発刊され た。
書の冒頭では、ザビエル(1502-1552)
たちの活動や信長、秀吉などによる政変が 概説され、つづいて、かなりのスペースを さいて、日本の地誌、風俗が報告されてい る。たとえば、人々が肉ではなく、魚を好 んで食すこと、この国には橄欖樹がないゆ え、食用および灯明に鯨脂を使い、蝋燭の 代わりに松明を燃すことなどが述べられ、
つづいて
此国葡萄酒ヲ産セス一種ノ飲料アリテ太 ク我国ノ麦酒ニ類ス。其尤モ嗜メル飲料 ハ「チヤ」ト名ツクル植物ノ葉ヲ滾湯中 ニ 入 レ タ ル 物 ニ テ 之 レ 則 チ 支 那 ニ テ
「テー」ト云フ所ノ物ナリ。貴人ニ一種 ノ奇トスヘキ楽ミアリテ自ラ茶ヲ点シテ 之ヲ飲ミ又其友人ヲ招キテ之ヲ供ス。其 居館ニ一室ヲ構ヘテ他事ニ供セズ、唯点 茶ノ用トス。
「麦酒ニ類ス」飲料とは、同じ発酵酒であ る日本酒のことであろうか。「「チヤ」ト名 ツクル植物ノ葉ヲ滾湯中ニ入レタル」飲み 物は煎茶であるが、これは原著者の、ある いは翻訳者の誤解であろう。貴人の居館 は、他のところで「美屋」と呼ばれてい る。その美屋である居館には、「唯点茶ノ 用トス」「他事ニ供」さない一室が、別に 構えられていた。これは、たとえば大坂城 や聚楽第の茶室のことであろう。そこでの
「自ラ茶ヲ点シテ之ヲ飲ミ又其友人ヲ招キ テ 之 ヲ 供 ス」「貴 人」の「奇 ト ス ヘ キ 楽 ミ」は、『太平記』が語る贅を尽くした茶 事ではなく、質素な茶会であったろう。
その茶会の実際の様子は、今日に多く残
されている当時の茶会記が教えてくれる。
これら簡潔な備忘録ともいうべき書き物に は、それぞれの茶会の日時・場所、列席者 の氏名、使われた道具、懐石の献立など が、要領を得た箇条書きで記録されてい る。しかし、ときには点前の所作、数奇雑 言の断片が加えられることはあっても、そ れら的確で簡約された記録は、その催しが 選ばれた人たちによる、高度に緊張した知 的な集まりであったことを語っている。そ して多くの場合、その集まりの場が狭い粗 末な草庵、使われた道具が日常雑器の見立 て、懐石献立が一汁三菜であることは、そ れらが、後に「侘茶」と呼ばれる形の茶の 湯であったことを窺わせる。
このような「茶会」に参加したのは、
『日本西教史』が報告する「貴人」、すな わち一部のエリートに限られていたのだろ うか。
『山上宗二記』は、将軍義政の時代のこ ととして、
天下に御茶湯仕らざる者は人非仁に等 し。諸大名は申すに及ばず、下々洛中洛 外、南都、堺、悉く町人以下まで、御茶 湯を望む
と記している。ここでの「人」、「仁」がど んな人間を指していたのか定かでないが、
その中に、庶民大衆も含まれていたのだろ うか。いずれにしてもこの一節は、乱世に 権力に連なった地方豪族をはじめとして、
京都、奈良、堺の町人に至るまで、悉く茶 の湯を楽しみにしたと告げている。
この人気は、以後もつづいていたのだろ うか。
義政の時代から約 1 世紀後、天正 15 年
(1587)10 月、太閤秀吉は京洛北野の松 原において大茶湯を催した。『北野大茶湯 之記』によると、洛中上下のみならず、奈 良、堺に立てられた高札には、若党、町 人、百姓の別なく、たとえ唐国の者でも、
およそ茶の湯に心寄せるものは釜ひとつ、
つるべひとつ、吞物ひとつをもって、茶が なければこがしでもよく、これに参加する こと。そして、この茶会に参加しないもの は、今後こがしをも立てることを禁じる。
さらに、侘者には太閤自ら茶を振舞う、と あった。10 日間であった予定は、一日で おわった。
それから約半世紀後、寛永 3 年(1626)
ごろ世に出たという軍記物『甫庵太閤記』
は、次のように語る。
侘すきの面々、是は目出度き御代にあう て、価貴き道具をも拝見し、又侘すきの 名誉をも達せんと悦ぶも有、洛中のすき しやは名をも取、秀吉公の御感にも頂 り、堺のすき者共を一あて当て、常々の 名人かほを汚さんと巧み侍るも有。
「侘すき」を自称する面々は、「価貴き道 具」の拝見を大いに喜び、彼らのなかに は、本当の「侘数寄」の仲間に加えられ、
「数寄者」と呼ばれる名誉を得、太閤に近 づく機会を狙うものもいた。あるいはま た、常日ごろ名人ぶり、大きな顔をする
「堺の数寄者ども」に一泡吹かせんと目論 理念とされる。本来、心細く、もの哀し
く、うらぶれた心境をあらわす言葉であっ た「侘」が、何時、どのようにして茶の湯 と結びついたか、判然としない。中世の末 期、戦乱、下克上の苛酷な世に絶望し、諦 めのなかで、豪奢・贅沢とは縁のない「侘 人」による茶の湯が生まれたのだろうか。
1580年代、利休(1522-1591)の弟子山上 宗二(1544-1590)が著わした茶の湯の秘伝 書『山上宗二記』には、すでに紹鴎(1502- 1555)が「侘数奇」という言葉を使ってい たことを記している。そこで紹鴎は、茶人 のなかの一群を「侘び数寄」と呼び、彼ら を「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作 分一つ、手柄一つ、この三ヶ条調うる者を いうなり」と定義している。すなわち「侘 び数寄」とは、高価な道具を持たないが、
意志、想像力、実行力をそなえる茶人だと いう。この紹鷗の「侘び数寄」は、やがて 茶の湯の形の呼称となり、その形は、次の 世代の利休によって整えられた。
「侘び数寄」は、どのような集まりだっ たのだろうか。それを、外の目で見たひと つの記録がある。
1689 年フランスで、16 世紀の後半に日 本に派遣されていたイエズス会士が故国に 送った書簡をもとに、大部にわたる日本の キリスト教史が出版された。この 18 世紀 におけるヨーロッパの日本観に大きな影響 を与えた書は、明治政府に委託されたフラ ンス人宣教師によって翻訳され、明治 13 年(1881)『日本西教史』として発刊され た。
書の冒頭では、ザビエル(1502-1552)
たちの活動や信長、秀吉などによる政変が 概説され、つづいて、かなりのスペースを さいて、日本の地誌、風俗が報告されてい る。たとえば、人々が肉ではなく、魚を好 んで食すこと、この国には橄欖樹がないゆ え、食用および灯明に鯨脂を使い、蝋燭の 代わりに松明を燃すことなどが述べられ、
つづいて
此国葡萄酒ヲ産セス一種ノ飲料アリテ太 ク我国ノ麦酒ニ類ス。其尤モ嗜メル飲料 ハ「チヤ」ト名ツクル植物ノ葉ヲ滾湯中 ニ 入 レ タ ル 物 ニ テ 之 レ 則 チ 支 那 ニ テ
「テー」ト云フ所ノ物ナリ。貴人ニ一種 ノ奇トスヘキ楽ミアリテ自ラ茶ヲ点シテ 之ヲ飲ミ又其友人ヲ招キテ之ヲ供ス。其 居館ニ一室ヲ構ヘテ他事ニ供セズ、唯点 茶ノ用トス。
「麦酒ニ類ス」飲料とは、同じ発酵酒であ る日本酒のことであろうか。「「チヤ」ト名 ツクル植物ノ葉ヲ滾湯中ニ入レタル」飲み 物は煎茶であるが、これは原著者の、ある いは翻訳者の誤解であろう。貴人の居館 は、他のところで「美屋」と呼ばれてい る。その美屋である居館には、「唯点茶ノ 用トス」「他事ニ供」さない一室が、別に 構えられていた。これは、たとえば大坂城 や聚楽第の茶室のことであろう。そこでの
「自ラ茶ヲ点シテ之ヲ飲ミ又其友人ヲ招キ テ 之 ヲ 供 ス」「貴 人」の「奇 ト ス ヘ キ 楽 ミ」は、『太平記』が語る贅を尽くした茶 事ではなく、質素な茶会であったろう。
その茶会の実際の様子は、今日に多く残
候へばとて、誰あつてしかるもの無之候 に、かやぶき・黒米の御供、其外何から 何までつ々しみふかくおこたり給はぬ御 事、世に勝れたる茶人にて御入候。ふる きを不捨、新しきを不求といふところ肝 要にて候。今さへ古きを求め宝となす風 俗にて候へば、なげかはしなげかはし。
後代にては影も形もなくなり、あき人の 業になり可申と、いとかなしく候。
侘と云ふ文字、空法師幾日か工夫候へ ども、埒あき不申候、本来物のなき人は 手に入りかね可申、あなかしこあなかし こ
八月五日 大黒庵 宗易得人
紹鷗は、「侘」についていろいろ考え、
茶仲間の空(空海)法師とも談義した。そ して一応の結論を得、それを弟子の宗易へ の手紙に書いた。
「侘」という言葉は、先人も歌の中で も、いろいろに詠じています。しかし今日 では、「正直に慎み深くおごらぬさま」を
「侘」というのではないでしょうか。たと えば、一年の時候でいえば、(旧暦の)十 月がまさに「侘」なのです。定家卿は
いつはりなき世なりけり神無月 誰が まことより時雨そめけん
と詠んでいます。
自然は、人間のいつわりのある言葉も心 も及ばないところ。その自然では、神無月
(陰暦十月)になると天の摂理にしたがっ て、「正直に慎み深くおごらぬ」時雨が、
ひそやかに万象を湿らす。
さすがに定家卿、自然はこのように「正 直に慎み深くおごらぬ」すなわち「侘」の 配慮を、もれなく万物の上に及ぼすとおっ しゃっているのです。
茶事についていえば、茶の湯とは本来、 俗世間の外にあって心静かに独りを楽しむ もの。そのようなとき、とつぜん友人が訪 ねてくる。その友人に茶を点て、たまたま 近くにあった花などを活けてもてなす。そ して和やかな気持ちで時を過ごす。これが
「侘」の茶の湯なのです。
師(空海法師のことかもしれない)がよ くおっしゃっていました。「茶の湯には、 一つとして、侘の心を離れる所作はない。 人が人をもてなす、しかしそこには、本来 の心と心の交わりはない。だが「正直に慎 み深くおごらぬ」の所作がつづくうち、人 は意識しないのに、こちらと向こうの心が 気持ちよく交わることが起こる。これは、 まさに奇跡というべきものであるが、「侘 茶」にあっては、ときどき起こり得るの だ」、とのことです。ありがたいお話です。
貴殿は、ただの人ではなく、人の言葉を 聞き分ける耳、物事を正しく見る目、何事 をも理解する明晰な頭脳をお持ちですか ら、正しく公明な徳というものすべてをお 見通しでしょう。
それに比べて私は、茶の湯を頭では納得 して楽しんではいるのですが、話すことが 不得意で、思うことをうまく口に出せず、 茶の湯の道の本意を伝えようとしても、そ れが言葉の端からこぼれ落ちてしまうので す。
天の下にあって、「正直に慎み深くおご らぬ」、すなわち「侘」の根元は、天照御 むものたちもいたという。その日の参加者
は4~500人に及んだという。
茶に心寄せる大衆の目の上の瘤が、これ ら「堺の数寄者ども」、「侘茶」の茶会に名 を連ねる人たちであった。
同じ年の寛永 3 年(1626)刊行の茶の湯 入門書『草人木』は、「侘茶人」を別の姿 で見ている。
むかしは茶湯に上中下の三段をわけた り。上は其身世にすぐれ或は其身に財あ れば名物所持ある故に是を上とす。中は 財あれ共、名の道具に不足なるか、ある ひは、道具あれ共、其身まとしければ、
是を中とす、下は財も道具もまとしき故 に下とす、これを侘といふ。
「むかし」が、いつのことかわからな い。半世紀前の利休のころのことだろう か。茶人には、三段の階層があった。身分 が高く、財産が有って名物をもつのが上 段。財産は有るが名物をもたない、あるい は名物をもってはいても其身が貧しければ 中段。財産もなく道具の乏しいのが下段。
こ の 下 段 の も の を「侘」と い う 。「侘」
は、ヒエラルキイ最下位の茶人であった。
「侘」のエーティク
以上みてきたように、「侘」は、茶の湯 のなかで、さまざまな展開を見せていた。
しかし茶の湯に、「侘」をエーティクと みなす一面もあった。
『紹鴎侘の文』と呼ばれる一文が伝えら れている。 それは、紹鴎が弟子の利休に あてた手紙の形を成しており、そこで、手 紙の主は「侘」を次のように定義してい る。
侘と云ふこと葉は、故人も色々に歌に も詠じけれ共、ちかくは、正直に慎しみ 深くおごらぬさまを侘と云ふ。一年の うちにも十月こそ侘なれ、定家卿の歌に も
いつはりなき世なりけり神無月 誰 がまことより 時雨そめけん
と、よみとりけるも定家卿なればなり。
誰が誠よりとは心言葉も不及処をさすが に定家卿に御入候。ものごとの上にもれ ぬ所なり。
茶事もと閑居して、物外をたのしみ居 る所へ、知人とぶらひ来て、茶点てもて なし、何かなと花を生てなぐさみ候すが たにて候。師へよく聞き置き候に、一つ として心はなる々所作はなし、是も心と 心のつかぬ所にてもてなす心を本性と云 ふなれば、我しらずによき所に叶ふとこ ろが奇妙とも云ふべきなりと仰せ有難き 事にて候。
御身は只人にてましまさず候、聞く 耳、見る目、知り得るものあれば、一分 の明徳くもりなく候、我等は心にてとく と合点して楽しみ候へ共、口べたにて、
いはれ不申候。言葉にあらはす斯道の本 意は落申して、あさまに聞へ候ものにて 候。
天下の侘の根元は天照御神にて、日国 の大主にて、金銀珠玉をちりばめ殿作り
候へばとて、誰あつてしかるもの無之候 に、かやぶき・黒米の御供、其外何から 何までつ々しみふかくおこたり給はぬ御 事、世に勝れたる茶人にて御入候。ふる きを不捨、新しきを不求といふところ肝 要にて候。今さへ古きを求め宝となす風 俗にて候へば、なげかはしなげかはし。
後代にては影も形もなくなり、あき人の 業になり可申と、いとかなしく候。
侘と云ふ文字、空法師幾日か工夫候へ ども、埒あき不申候、本来物のなき人は 手に入りかね可申、あなかしこあなかし こ
八月五日 大黒庵 宗易得人
紹鷗は、「侘」についていろいろ考え、
茶仲間の空(空海)法師とも談義した。そ して一応の結論を得、それを弟子の宗易へ の手紙に書いた。
「侘」という言葉は、先人も歌の中で も、いろいろに詠じています。しかし今日 では、「正直に慎み深くおごらぬさま」を
「侘」というのではないでしょうか。たと えば、一年の時候でいえば、(旧暦の)十 月がまさに「侘」なのです。定家卿は
いつはりなき世なりけり神無月 誰が まことより時雨そめけん
と詠んでいます。
自然は、人間のいつわりのある言葉も心 も及ばないところ。その自然では、神無月
(陰暦十月)になると天の摂理にしたがっ て、「正直に慎み深くおごらぬ」時雨が、
ひそやかに万象を湿らす。
さすがに定家卿、自然はこのように「正 直に慎み深くおごらぬ」すなわち「侘」の 配慮を、もれなく万物の上に及ぼすとおっ しゃっているのです。
茶事についていえば、茶の湯とは本来、
俗世間の外にあって心静かに独りを楽しむ もの。そのようなとき、とつぜん友人が訪 ねてくる。その友人に茶を点て、たまたま 近くにあった花などを活けてもてなす。そ して和やかな気持ちで時を過ごす。これが
「侘」の茶の湯なのです。
師(空海法師のことかもしれない)がよ くおっしゃっていました。「茶の湯には、
一つとして、侘の心を離れる所作はない。
人が人をもてなす、しかしそこには、本来 の心と心の交わりはない。だが「正直に慎 み深くおごらぬ」の所作がつづくうち、人 は意識しないのに、こちらと向こうの心が 気持ちよく交わることが起こる。これは、
まさに奇跡というべきものであるが、「侘 茶」にあっては、ときどき起こり得るの だ」、とのことです。ありがたいお話です。
貴殿は、ただの人ではなく、人の言葉を 聞き分ける耳、物事を正しく見る目、何事 をも理解する明晰な頭脳をお持ちですか ら、正しく公明な徳というものすべてをお 見通しでしょう。
それに比べて私は、茶の湯を頭では納得 して楽しんではいるのですが、話すことが 不得意で、思うことをうまく口に出せず、
茶の湯の道の本意を伝えようとしても、そ れが言葉の端からこぼれ落ちてしまうので す。
天の下にあって、「正直に慎み深くおご らぬ」、すなわち「侘」の根元は、天照御 むものたちもいたという。その日の参加者
は4~500人に及んだという。
茶に心寄せる大衆の目の上の瘤が、これ ら「堺の数寄者ども」、「侘茶」の茶会に名 を連ねる人たちであった。
同じ年の寛永 3 年(1626)刊行の茶の湯 入門書『草人木』は、「侘茶人」を別の姿 で見ている。
むかしは茶湯に上中下の三段をわけた り。上は其身世にすぐれ或は其身に財あ れば名物所持ある故に是を上とす。中は 財あれ共、名の道具に不足なるか、ある ひは、道具あれ共、其身まとしければ、
是を中とす、下は財も道具もまとしき故 に下とす、これを侘といふ。
「むかし」が、いつのことかわからな い。半世紀前の利休のころのことだろう か。茶人には、三段の階層があった。身分 が高く、財産が有って名物をもつのが上 段。財産は有るが名物をもたない、あるい は名物をもってはいても其身が貧しければ 中段。財産もなく道具の乏しいのが下段。
こ の 下 段 の も の を「侘」と い う 。「侘」
は、ヒエラルキイ最下位の茶人であった。
「侘」のエーティク
以上みてきたように、「侘」は、茶の湯 のなかで、さまざまな展開を見せていた。
しかし茶の湯に、「侘」をエーティクと みなす一面もあった。
『紹鴎侘の文』と呼ばれる一文が伝えら れている。 それは、紹鴎が弟子の利休に あてた手紙の形を成しており、そこで、手 紙の主は「侘」を次のように定義してい る。
侘と云ふこと葉は、故人も色々に歌に も詠じけれ共、ちかくは、正直に慎しみ 深くおごらぬさまを侘と云ふ。一年の うちにも十月こそ侘なれ、定家卿の歌に も
いつはりなき世なりけり神無月 誰 がまことより 時雨そめけん
と、よみとりけるも定家卿なればなり。
誰が誠よりとは心言葉も不及処をさすが に定家卿に御入候。ものごとの上にもれ ぬ所なり。
茶事もと閑居して、物外をたのしみ居 る所へ、知人とぶらひ来て、茶点てもて なし、何かなと花を生てなぐさみ候すが たにて候。師へよく聞き置き候に、一つ として心はなる々所作はなし、是も心と 心のつかぬ所にてもてなす心を本性と云 ふなれば、我しらずによき所に叶ふとこ ろが奇妙とも云ふべきなりと仰せ有難き 事にて候。
御身は只人にてましまさず候、聞く 耳、見る目、知り得るものあれば、一分 の明徳くもりなく候、我等は心にてとく と合点して楽しみ候へ共、口べたにて、
いはれ不申候。言葉にあらはす斯道の本 意は落申して、あさまに聞へ候ものにて 候。
天下の侘の根元は天照御神にて、日国 の大主にて、金銀珠玉をちりばめ殿作り
(アガトス)人間」は、彼らの理想の姿と された。「カロイ(美しい人間)」はパライ ストラ(体育場)でつくられたが、「アガ トイ(善き人間)」を育てたのはシュンポ シオンであった。“ カロス ” と “ アガトス ” を接続語 “ カイ ” でつないだ “ カロカガティ ア ” は、後にはギリシア貴族の代名詞に なった。
描かれたシュンポシオン
シュンポシオンの実際の様子は、当時か ら残る詩などの文芸作品、あるいは美術遺 品から知ることができる(陶器画について は前号の図2、3を参照)。
≪ダイヴァーの墓≫
1968 年、南イタリアの古代ギリシア人 植民都市パエストゥムの墓地で、小さな墓 室(約2,25 x 1,00m)が発見された(図1)。
底は天然の岩を平らに削り、周囲と蓋は 石板を組み合わせた石室であり、石と石の 隙間をモルタルで固く埋めた壁面は、フレ スコ画で飾られていた。墓室の中には、朽 ちた亡骸と、その故人が若い男性であった ことを語る体育用香油壺、それに竪琴の一 部とみられる亀の甲羅が残されていた。
保存状態のよさと、イタリア・ルネサン スと変わらぬ完成度をもつフレスコ画か ら、この発見は、20 世紀最大の考古学的 快挙のひとつとされた。
フレスコ画を描いたのは、その描法から 遠くアテナイから来た画工、描かれた時代 は絵の様式から前480年ころと推測された。
蓋の内側には、塔の上から海に飛び込む
若い男が描かれていた(図3)。作品名《ダ イヴァーの墓》は、この場面に由来する。 しかしこの「ダイヴィング」が、何を意味 していたかわからない。
図1 発掘当時の様子 北
⑥ ⑤ ④ 図2 展開図
① ② ③
図3 蓋の内側 ダイヴィングする男 神です。御神は日本国の大主なのですか
ら、金銀珠玉を鏤めた御殿をおつくりに なっても、誰にも非難されることはないの です。にもかかわらず、お住まいは茅葺、
お供えは黒米、何から何まで慎み深く、決 してまわりの好意に甘えなさることはあり ません。まさに類のない、「侘」の本道を 示される茶人にてあられます。
茶の湯にあっては、よく「古きを捨て ず、新しきを求めず」ということがいわれ ますが、これは、よくよく考えることが必 要です。今日にあって、「古きを求めてそ れを宝となす」という考えが流行っていま すが、じつに嘆かわしいことなのです。こ れを放っておけば、「侘」の茶の湯は影も 形もなくなり、従来の茶の湯が残って、商 人の金儲けの手段となってしまうでしょ う。大変悲しいことです。
ところで、「侘」と云う文字をこれまで とは違う「正直に慎み深くおごらないさ ま」の意に使うことについては、空海法師 とも幾日にわたって議論しました。です が、いい考えが浮かばず、やむをえず今ま でと同じ言葉を使うことにしたのです。本 来の侘人、すなわち物を持たない人は、こ こでの「侘の人」ではないのです。
オックスフォードの歴史学者が投げかけ た疑問のこたえは、この『紹鴎侘の文』で はないだろうか。彼が映画『東京物語』の 登場人物に見た、日本人が拠って立つとこ ろの根本的なエーティク(倫理、道徳)
「ワビ」は、「正直で慎み深くおごらぬ」
姿を見せる茶の湯の「侘」であった。
もちろん「侘」を、以上のごとくただ道 徳的に解して、それで尽きるものではない であろう。「侘」は日本人の美学である、
といわれる。しかし西欧人の歴史学者に とって、美学(エステティック)は、“ ア イステシス ”「感覚による知覚」の問題で あって、茶の湯の「侘」とは結びつかな かったのではないだろうか。
シュンポシオンのエーティク
卑賤な者たち(カコイ)の仲間に加わら ないように、つねに貴人たち(アガト イ)に付き従い、彼らと共に飲み、共に 食事しなさい。(テオグニス、31-32行)
民衆(デーモス)は、自分たちが、「金 持ちたち」(プロシオイ)や「貴族」(カ ロイカガトイ)から解放されるために僭 主(テュランノス)を生み、それを育て た。(『国家』568E-569A)
シュンポシオンは、“ アリストイ ” の集 まりの場であった。ギリシア語で「最高の ものたち」を意味する “ アリストイ ” は、
神と人の間に生まれた半神(ギリシア語の へロス、英語のヒーロー)の家系を誇り、
神々以外に仕える者をもたない、すなわち
「仕える」「侍る」べき上位人間を持たな い、領地を守るために戦う、一騎当千の武 家貴族であった。
「戦う貴族」はまた、平時に「余暇をも つ貴族」であった。彼らはその余暇を、身 体を鍛えることだけでなく、知性をみがく ことに使った。「美しい(カロス)善き
(アガトス)人間」は、彼らの理想の姿と された。「カロイ(美しい人間)」はパライ ストラ(体育場)でつくられたが、「アガ トイ(善き人間)」を育てたのはシュンポ シオンであった。“ カロス ” と “ アガトス ” を接続語 “ カイ ” でつないだ “ カロカガティ ア ” は、後にはギリシア貴族の代名詞に なった。
描かれたシュンポシオン
シュンポシオンの実際の様子は、当時か ら残る詩などの文芸作品、あるいは美術遺 品から知ることができる(陶器画について は前号の図2、3を参照)。
≪ダイヴァーの墓≫
1968 年、南イタリアの古代ギリシア人 植民都市パエストゥムの墓地で、小さな墓 室(約2,25 x 1,00m)が発見された(図1)。
底は天然の岩を平らに削り、周囲と蓋は 石板を組み合わせた石室であり、石と石の 隙間をモルタルで固く埋めた壁面は、フレ スコ画で飾られていた。墓室の中には、朽 ちた亡骸と、その故人が若い男性であった ことを語る体育用香油壺、それに竪琴の一 部とみられる亀の甲羅が残されていた。
保存状態のよさと、イタリア・ルネサン スと変わらぬ完成度をもつフレスコ画か ら、この発見は、20 世紀最大の考古学的 快挙のひとつとされた。
フレスコ画を描いたのは、その描法から 遠くアテナイから来た画工、描かれた時代 は絵の様式から前480年ころと推測された。
蓋の内側には、塔の上から海に飛び込む
若い男が描かれていた(図3)。作品名《ダ イヴァーの墓》は、この場面に由来する。
しかしこの「ダイヴィング」が、何を意味 していたかわからない。
図1 発掘当時の様子 北
⑥ ⑤ ④ 図2 展開図
① ② ③
図3 蓋の内側 ダイヴィングする男 神です。御神は日本国の大主なのですか
ら、金銀珠玉を鏤めた御殿をおつくりに なっても、誰にも非難されることはないの です。にもかかわらず、お住まいは茅葺、
お供えは黒米、何から何まで慎み深く、決 してまわりの好意に甘えなさることはあり ません。まさに類のない、「侘」の本道を 示される茶人にてあられます。
茶の湯にあっては、よく「古きを捨て ず、新しきを求めず」ということがいわれ ますが、これは、よくよく考えることが必 要です。今日にあって、「古きを求めてそ れを宝となす」という考えが流行っていま すが、じつに嘆かわしいことなのです。こ れを放っておけば、「侘」の茶の湯は影も 形もなくなり、従来の茶の湯が残って、商 人の金儲けの手段となってしまうでしょ う。大変悲しいことです。
ところで、「侘」と云う文字をこれまで とは違う「正直に慎み深くおごらないさ ま」の意に使うことについては、空海法師 とも幾日にわたって議論しました。です が、いい考えが浮かばず、やむをえず今ま でと同じ言葉を使うことにしたのです。本 来の侘人、すなわち物を持たない人は、こ こでの「侘の人」ではないのです。
オックスフォードの歴史学者が投げかけ た疑問のこたえは、この『紹鴎侘の文』で はないだろうか。彼が映画『東京物語』の 登場人物に見た、日本人が拠って立つとこ ろの根本的なエーティク(倫理、道徳)
「ワビ」は、「正直で慎み深くおごらぬ」
姿を見せる茶の湯の「侘」であった。
もちろん「侘」を、以上のごとくただ道 徳的に解して、それで尽きるものではない であろう。「侘」は日本人の美学である、
といわれる。しかし西欧人の歴史学者に とって、美学(エステティック)は、“ ア イステシス ”「感覚による知覚」の問題で あって、茶の湯の「侘」とは結びつかな かったのではないだろうか。
シュンポシオンのエーティク
卑賤な者たち(カコイ)の仲間に加わら ないように、つねに貴人たち(アガト イ)に付き従い、彼らと共に飲み、共に 食事しなさい。(テオグニス、31-32行)
民衆(デーモス)は、自分たちが、「金 持ちたち」(プロシオイ)や「貴族」(カ ロイカガトイ)から解放されるために僭 主(テュランノス)を生み、それを育て た。(『国家』568E-569A)
シュンポシオンは、“ アリストイ ” の集 まりの場であった。ギリシア語で「最高の ものたち」を意味する “ アリストイ ” は、
神と人の間に生まれた半神(ギリシア語の へロス、英語のヒーロー)の家系を誇り、
神々以外に仕える者をもたない、すなわち
「仕える」「侍る」べき上位人間を持たな い、領地を守るために戦う、一騎当千の武 家貴族であった。
「戦う貴族」はまた、平時に「余暇をも つ貴族」であった。彼らはその余暇を、身 体を鍛えることだけでなく、知性をみがく ことに使った。「美しい(カロス)善き
周囲の四面には、シュンポシオンの場面 が描かれていた(図2,6,7)。北側と南 側の長い面にそれぞれ 3 台ずつ、合わせて 6 台のクリネー(寝椅子)が並ぶ。もちろ ん現実のシュンポシオンならば、クリネー はアンドローン(シュンポシオン専用の部 屋)の壁に沿って据えられるのであり、ま た部屋の入口は西側に考えられているので あるから、本来ならばクリネーの少なくと も 1 台は直角に曲がり、さらにもう 1 台、
計 7 台あるはずである。おそらくその 7 台 目は、中央に横たわっていた墓の主のもの とされたのであろう(前号、図1参照)。
それぞれのクリネーの前には、小さな テーブルが置かれている。花の枝で飾られ たそれらテーブルの上に食べ物はなくこれ が酒席であることを示している。西側の狭 い面では、短い外衣(ヒマティオン)を着 た若い男とアエロス(二本の管をもつ縦 笛)を吹く少女に伴われて、ひとりの髯の 有る半裸体の男が歩いてくる(図4)。東 側の面では、ひとりの裸の少年が、台に載 るクラテール(混酒器)の傍らに立ってい る(図5)。
南北の画面に並ぶ 6 台のクリネーのう ち、2つのクリネーにはそれぞれ1人ず つ、4 台には2人ずつ、合わせて 10 人の男 たちが、腰から下をヒマティオンで覆う半 裸の姿で横になっている。以下には便宜 上、それぞれのクリネーに時計回りに①か ら⑥の番号をふる(図2)。
北側(図6)の西の端①では、独りでク リネーにのる有髯の男が、遅れてきた客を 歓迎するかのように、右手に持った酒杯を 差し出している。他方南側の東の端にあた
ると④では、同じく有髯の男が、差し出し た右手に持つ竪琴をそのままに、身をよ じって振り向き、入口のほうへ視線を送っ ている。ところで②、③、⑤、⑥では、一 台のクリネーにそれぞれふたりの男がの り、そのうちのひとりは有髯、他のひとり は無髯で、前者が後者を後ろから庇うよう に横になる。有髯と無髯、すなわち彼らは みな、年長者との若者との一対である。
北側の②では、若者は右手で酒杯をふり かざし、シュンポシオンにはつきものの コッタボス(「扇落とし」に似た遊び)に 興じ、杯を手にした有髯の男は、それを無 視して振り返り、隣のグループ③に目を やっている。その③では、有髯の男が無髯 の男の頭のうしろに手をまわし、左手に竪 琴を持つ若者は振り向き、右手を年長者の 胸にあてている。彼ら各自の酒杯は、テー ブルの上に置き去りにされている。
南側(図7)の④では、すでに上で見た ように有髯の男が、右手に持つ竪琴はその ままに、身をよじって振り返り、入口に やってくる新参者(図4)に視線を送って いる。つづく⑤では、両者はそれぞれ左手 に杯を持ち、若者は振り向いて両者は目を 合わせ、真剣なまなざしで話し込んでい る。入口にもっとも近い⑥では、アエロス
(二本管の縦笛)を吹く若者は年長の男に 凭れかかり、後者は天を仰ぎ、右手を頭に やり、うっとりとして、笛の音に声を合わ せて歌っている。
“パイデラスティア”
亡骸には、体育用香油壺や竪琴が副葬さ 図4 西側面
① ② ③ 図6 北側面
④ ⑤ ⑥ 図7 南側面
図5 東側面
周囲の四面には、シュンポシオンの場面 が描かれていた(図2,6,7)。北側と南 側の長い面にそれぞれ 3 台ずつ、合わせて 6 台のクリネー(寝椅子)が並ぶ。もちろ ん現実のシュンポシオンならば、クリネー はアンドローン(シュンポシオン専用の部 屋)の壁に沿って据えられるのであり、ま た部屋の入口は西側に考えられているので あるから、本来ならばクリネーの少なくと も 1 台は直角に曲がり、さらにもう 1 台、
計 7 台あるはずである。おそらくその 7 台 目は、中央に横たわっていた墓の主のもの とされたのであろう(前号、図1参照)。
それぞれのクリネーの前には、小さな テーブルが置かれている。花の枝で飾られ たそれらテーブルの上に食べ物はなくこれ が酒席であることを示している。西側の狭 い面では、短い外衣(ヒマティオン)を着 た若い男とアエロス(二本の管をもつ縦 笛)を吹く少女に伴われて、ひとりの髯の 有る半裸体の男が歩いてくる(図4)。東 側の面では、ひとりの裸の少年が、台に載 るクラテール(混酒器)の傍らに立ってい る(図5)。
南北の画面に並ぶ 6 台のクリネーのう ち、2つのクリネーにはそれぞれ1人ず つ、4 台には2人ずつ、合わせて 10 人の男 たちが、腰から下をヒマティオンで覆う半 裸の姿で横になっている。以下には便宜 上、それぞれのクリネーに時計回りに①か ら⑥の番号をふる(図2)。
北側(図6)の西の端①では、独りでク リネーにのる有髯の男が、遅れてきた客を 歓迎するかのように、右手に持った酒杯を 差し出している。他方南側の東の端にあた
ると④では、同じく有髯の男が、差し出し た右手に持つ竪琴をそのままに、身をよ じって振り向き、入口のほうへ視線を送っ ている。ところで②、③、⑤、⑥では、一 台のクリネーにそれぞれふたりの男がの り、そのうちのひとりは有髯、他のひとり は無髯で、前者が後者を後ろから庇うよう に横になる。有髯と無髯、すなわち彼らは みな、年長者との若者との一対である。
北側の②では、若者は右手で酒杯をふり かざし、シュンポシオンにはつきものの コッタボス(「扇落とし」に似た遊び)に 興じ、杯を手にした有髯の男は、それを無 視して振り返り、隣のグループ③に目を やっている。その③では、有髯の男が無髯 の男の頭のうしろに手をまわし、左手に竪 琴を持つ若者は振り向き、右手を年長者の 胸にあてている。彼ら各自の酒杯は、テー ブルの上に置き去りにされている。
南側(図7)の④では、すでに上で見た ように有髯の男が、右手に持つ竪琴はその ままに、身をよじって振り返り、入口に やってくる新参者(図4)に視線を送って いる。つづく⑤では、両者はそれぞれ左手 に杯を持ち、若者は振り向いて両者は目を 合わせ、真剣なまなざしで話し込んでい る。入口にもっとも近い⑥では、アエロス
(二本管の縦笛)を吹く若者は年長の男に 凭れかかり、後者は天を仰ぎ、右手を頭に やり、うっとりとして、笛の音に声を合わ せて歌っている。
“パイデラスティア”
亡骸には、体育用香油壺や竪琴が副葬さ 図4 西側面
① ② ③ 図6 北側面
④ ⑤ ⑥ 図7 南側面
図5 東側面
れていた。それらは、死者を生前に幸福に してくれた品々であった。そして墓室の内 部を飾っていたのは、シュンポシオンの場 面であった。それは、花で飾られ、葡萄酒 が甘い香りをただよわせ、笛が吹かれ、竪 琴が鳴り響き、歌が歌われる、彼が望んだ 至福の世界であった。しかもそこでは、6 台のうち4台のクリネーが、年長者と年少 者の対で占められていた。それは、年長の エラステース(愛する者)と年少のエロー メノス(愛される者)の結びつき、“ パイ デラスティア”(少年愛)を描いていた。
“ パイデラスティア ” は、シュンポシオ ンが育てたギリシア貴族の文化のひとつで あった。エロース(愛欲)が関わることも あるパイデラスティアは、大衆の文化・喜 劇ではいかがわしいものとして、ことある ごとに揶揄の対象にされ、ときには痛烈に 非難された(例えばアリストパネス『蛙』
1068 以下)。しかし他方では、プラトンな どの知識層には、最高の友愛の形として賛 美された(例えば『饗宴』178C以下)。し かも “ パイデラスティア ” には、エロース 以上に、年長者エラステースによる年少者 エローメノスの教育という、大きな役目が あった。このフレスコ画は、シュンポシオ ンが貴族の若者の教育の場であったことを 語っていた。
≪ダイヴァーの墓≫の蓋に描かれた塔の 上から海へ飛び込む若者は、いままさに シュンポシオンの世界に飛び込もうとした 墓の主の颯爽とした姿であったかもしれな い(図3)。
シュンポシオンと詩人テオグニス
すでに見たように、シュンポシオンは、
「余暇をもつ貴族(アリストス)」が自ら の教養をみがき、エーティク(倫理、道 徳)を身につける場でもあった。ホメロス の暗唱で言葉の韻律を学んだ彼らは、竪琴 に合わせて、日々の出来事をうたい、笛に 合わせて、心に浮かぶ思いをうたった。そ れはやがて、シュンポシオン専用の二行連 結詩エレゲイア(エレジーの語源)を生み だした。
シュンポシオンは、詩人が活躍する場で もあった。そして、シュンポシオン専門の 一群の職業詩人を生んだ。彼らは、ギリシ ア各地を遍歴し、その地のシュンポシオン に招かれ、そこで自作の詩を披露した。そ の詩が高い評判を得ると、それは作者のパ フォーマンスを離れ、他のシュンポシオン で他の人々によって歌われた。そのように して、詩人の名声とその作品は、地域を超 え、時代を超えて伝えられていった。
前6世紀の後半に活躍したテオグニスも また、そのようなシュンポシオン専門詩人 のひとりであった。今日にも、彼の名のも とに約 1,400 行のエレゲイアが残されてお り、これは、今日に伝わるアルカイック抒 情詩の約半分に当たる。
彼のエレゲイアのひとつは、私たちに当 時のシュンポシオンと詩人の関係を教えて くれる(以下、テオグニスの詩の引用には 西村賀子氏の訳を使わせていただく)。
君には、僕が翼をあげたね。君はその翼
をつけて、果てしない海の上へ
天翔けて行き、大地の端から端まで 楽々と運ばれていくだろう。
君はありとあらゆる晩餐会や宴に顔を出 し、
宴席で多くの人々の口の端に上がる。
愛らしい若い男たちが高らかな笛の音に 合わせて
整然と、きれいな澄んだ声で
君のことを歌ってくれるだろう。そして 君が陰鬱な地の底に降りていき、
嘆きの声に満ちた冥王ハデスの館に歩 を進めると、
死してなお名声は朽ちず、その先も 永遠に、不滅の名が世の人々に知られ る。
キュルノスよ、君はギリシアの地と島々 をくまなく巡り、
魚の群れる荒涼たる海を越えていくだ ろう。
だが馬の背に座ってではなく、君を送り 届けてくれるのは
菫の冠をつけたムーサらのきらめく賜 物だ。
[この賜物に]心惹かれるすべての人々 に、そして同様に未来の世代にも
君は歌われるのだ、大地と太陽が世に あるかぎり。(237-252行)
テオグニスが「君」と語りかけるのは、
彼の愛する少年キュルノス。詩人とキュル ノスは、上に見た “ エラステース ” と “ エ ローメノス ”、すなわち “ パイデラスティ ア”の関係にあった。
「翼」とは、詩のもつ力とそれによって
得られる名声。テオグニスは、キュルノス に託して、シュンポシオン詩人としての自 身の理想の姿を詠っている。
キュルノスは、与えられた「翼」で空を 飛び、果てしない海を超え、ギリシア世界 の各地を巡る。そして訪れた地で、「晩餐 会」(トイネース)や「宴」(エイラピネー シ)、すなわち種々のシュンポシオンに招 かれる。その席では、皆が口をそろえて彼 の詩を歌う。ときには、彼の名声を称え、 澄んだ声の若者たちが整然と、冴えわたる 笛の音に合わせて斉唱する。
やがて「翼」を得たキュルノスも世を去 り、亡骸が地下深くに埋められる。しかし 彼の不朽の詩と名声は、ギリシアの隅々 へ、さらには海を超えて異国にまで運ばれ る。
それを運ぶのは言葉ではない、言葉を詩 にする女神ムーサの力。詩の女神ムーサの 力を知る者がいるかぎり、彼の詩は未来永 劫に歌いつづけられる。
ところで、上で見た≪ダイヴァーの墓≫ に描かれたシュンポシオンの場面で、笛を 吹く少女に先導され、若者に案内されて
「遅れてきた客」は、シュンポシオンに招 かれた詩人の姿であったかもしれない(図 4)。
テオグニスのエーティク
テオグニスは、彼自身、貴族の正しい血 筋を誇る詩人であった。今日に彼の名で伝 わる詩のほとんどは、彼が自分たち貴族の 伝統、貴族が身につけるべきエーティク