• 検索結果がありません。

明治初期奈良県における学校教育事情―「日新記聞 」を中心として―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "明治初期奈良県における学校教育事情―「日新記聞 」を中心として―"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

明治初期奈良県における学校教育事情―「日新記聞

」を中心として―

著者 岡 奈津子

雑誌名 高円史学

巻 3

ページ 18‑37

発行年 1987‑10‑01

その他のタイトル Aspects of School Education in Nara (奈良) Prefecture at the Beginning of Meiji (明治) Era

URL http://hdl.handle.net/10105/8644

(2)

明治初期奈良県における学校教育事情

− ﹁日新記聞﹂を中心として −

奈   津   子

明治維新によって成立した新政府は︑近代国家体制の完成を目指し︑指導者のみならず国民全体を積極的に啓蒙させる

立場をとった︒この中心となった政策のひとつが︑教育制度の充実である︒

新政府は︑まず新しい時代にたつ人材を養成し︑欧米文化を摂取する機関としての大学を創設する計画をたて︑京都を中

心として計画を推進した︒しかし︑政治の中心が東京に移ると︑この計画も東京で展開されることになり︑より現実的な大

学計画がたてられることとなった︒

維新直後のこの様な動きは︑藩内が独自の教育改革を行っていたため︑統一して実施されることはなかった︒従って︑全

国的に統一した教育行政を浸透させるには︑一八七一︵明治四︶年七月の廃藩置県の実施を得たねばならなかった︒

全国の教育行政を総括する機関としての文部省の設置は︑廃藩置県後間もない明治四年七月十八日のことである︒文部省

は直ちに近代教育制度制定の研究を行い︑同年十二月︑本格的に学制草案の起草に着手し始めた︒まず学制頒布にあたり︑

−18一

(3)

その基本精神を明らかにするために︑太政官布告第二一四号︵学制序文︶を出し︑翌年八月に一〇九章からなる学制が頒布

された︒内容は︑﹁大中小学区ノ事﹂ ﹁学校ノ事﹂など六項目で︑徹底した近代学校の精神によるものだった︒学制の実施

には︑経費面や教員養成面などで問題が残されたが︑ともかく︑学制に基づいて各地に小学校が続々と設けられ︑近代教育

の礎石が築かれたことは意義深いことであったq

ところで︑学制を含む明治初期の教育史研究は︑戦後盛んに行われている︒その中でも特に一九六〇年代初め以降の研究

方法の特徴は︑大きく二つに分けられる︒

第一は︑府県を中心とする地方教育史研究の盛行である︒これは︑一九七二︵昭和四十七︶年に学制頒布百年をむかえる

という事情により︑一九六〇年代後半から盛んになった︒そして︑一九七〇年代中頃になると︑一八の道府県が教育史を刊

行し︑六県が準備計画をたで地方教育史研究論文も約七六〇点にのぼっね︒

第二の特徴は︑学校教育や社会教育︑教育行政などの個別研究が︑明治前半期を対象として現れたことであプ笠これによ

り︑明治前期の日本教育史の諸側面が多面的に明らかになった︒

そして︑現在では︑これらの研究が進められていく中で︑洋学教育史や思想史の総合的研究や︑学制頒布以前の幕末・維

新期研究がなガ必要とされている︒

以上は︑明治初期の全国的な教育状況とその研究動向についてであるが︑次に奈良県の場合について簡単に述べてみたい

奈良県の教育は︑当然ながら社寺を中心として発達してきた︒近世になると︑藩校や家塾だけでなく︑庶民教育の寺子屋

も数多く開かれ︑明治初年に行われた調査によると︑奈良町内を除いて︑三〇八の寺子屋が開設されていたといー忽維新後

ー19−

(4)

は︑京都・大阪の動きに刺激されて学校開設が相つぎ︑一八七二︵明治五︶年五月には私小学校が開設している︒そして︑

同年八月に学制頒布をむかえるのである︒学制頒布後︑学校数はさらに増加し︑一八七四︵明治七︶年頃には︑就学率も五

二・七パーセントを超えるに到ったq

ところで︑この時期の奈良県の教育状況について書かれた論文はほとんどない︒その中で︑永島福太郎氏が﹁﹁学制﹂実

施状況の一斑−奈良県の場合−Jと題して︑学制頒布後の奈良県内での対応について考察しているのは注目すべきもの

である︒氏はこの中で︑学制頒布後の学校設立数や就学率︑教育税問題などに触れ︑奈良県では学制が喜び迎えられたとい

う結論に達している︒そして︑全国的にみても︑学制頒布当時において︑学制を受け入れる基盤が成熟していたと考えてい

る︒しかし︑氏の論考においても︑根拠となる史料はなお充分提示されているとは言い難く︑その結論についても再検討の

余地がある様に思われる︒

さて︑本稿では︑以上の様な諸先学の研究をも念頭におきつつ︑特に学制頒布前後の奈良県の学校教育事情について︑

﹁日新記聞﹂という新聞を通して探っていくことにする︒﹁日新記聞﹂は︑奈良県で最初に発行された新聞で︑明治初期の

奈良県の様子を伝える貴重な史料であり︑教育関係の記事も多い︒このため︑その中の記事を探ることで︑従来ほとんど明

らかにされていない︑明治初期奈良県の学校教育事情の一端を明らかにしてみたいと思う︒

まず次節では︑具体的な考察に先だち︑本稿での主要な分析対象である︑この﹁日新記聞﹂という新聞の概要と史料的性

格の問題について︑あらかじめ検討を加えておくことにしたい︒

20

(5)

﹁日新記聞﹂は︑奈良県で最初に発刊された新聞である︒この新聞については︑従来から︑福島隆三良や森一貫氏l・山上

豊氏によって研究が行われており︑﹃奈良県の百年﹄でも紹介されている︒現在︑一八七二︵明治五︶年五月の創刊号から︑

翌年十一月の第三六号までの存在が明らかにされている︒形は︑縦二二センチ・横一五センチはどの小冊子形式で︑八枚程

度の和紙を二つ折にして︑とじて発刊していたらしい︒配布方法については︑一八七二 ︵明治五︶年六月に出された奈良県

布令書が最も明確に示している︒それは︑次の様なものである︒

夫新聞紙ハ︑人之知識ヲ開キ時惜二達スル主意ニテ︑外囲ニハ各国数多有之︑皇国二於テモ︑三府ハ勿論請願逐日相関ケ

雷膝下二於モ春来︑高橋平蔵金澤日舛平等申合︑日新記聞ト号シ出版之儀願︑此節苺行鼓候︑就而ハ嘗分嘗国中へ毎号二千

部ツミ施輿いたし︑外二戸長副へ定借ヲ以二千部員求有之度乾願出神妙之至リニ付聞届候︑右二付出板毎二雷嚇ヨリ致頒

布候間︑序言之趣意篤ク相心得︑一部ハ一村町へ渡置︑一部ハ戸長副之内へ買求︑代料之義ハ毎年七月十日十二月廿日両

度ミ取纏差出シ可申候︑

この内容か︑与毎号二千部は県に納められて県下の各町村に配布され︑残りの二千部は主に戸長らに購読されていたことが

わかる︒また︑この新聞ついて県が許可を与えているという状況から︑日新記聞と奈良県とのつながりをうかがい知ること

ができる︒全国的にみても︑﹁この時期の地方新聞は︑京都・大阪・名古屋などの大都市にみられた﹁啓蒙的報道新聞﹂に

対して︑地方庁の公布物を中心とする﹁公布式新聞﹂と呼ばれ︑発行者に印刷設備を官給したり︑一定の補助金を交付する

れ H−

など府県の保護のもとにあったJと考えられており︑表紙の﹁官許﹂という朱印がこれを明確に示している︒

−21−

(6)

しかし︑掲載されている記事の内容は︑必ずしも地方庁の公布物ばかりではない︒県内の開化の様子や事件・宗教・農林業・

教育関係の記事︑さらに全国各地の新聞からの抄録︑読者からの投書・広告など様々な範囲にわたっており︑当時の社会を

l︾充分うかがい知ることができる︒これについては︑福島隆三氏も﹃新聞研究叫の中でとりあげ︑日新記聞の啓蒙性について

日新記聞が県の保護を受けていた限り︑福島氏の述べている様に︑全く自由な立場で活動していたとは言い難いが︑この

新聞の豊富な内容や︑広告類を二打三銭で引き受けているところをみると︑純粋な御用新聞とは言い切れない様に思われる︒

そして︑日新記聞が明治初期の奈良の様子を伝える貴重な史料であることは言うまでもない︒

つぎに︑﹁日新記聞﹂の発行者について︑判明するところを述べておく︒日新記聞の発行者は︑金澤日舛平と高橋平蔵とい

う人物である︒金津易平は︑一八二七︵文政十︶年の生まれで︑新聞発行時は油留木町に住んでいた様である︒国学者で天

謀組の幹部であった伴林光平の門人で︑歌道にも優れていた︒一八六七︵慶応三︶年︑聖武天皇陵の守衛長に任ぜられ︑調

査のために県下を巡村している︒維新後は︑市小学校下用掛・小学校御用掛頭取・学校御用掛頭取などを歴任し︑明治十四

年には奈良公園の取締りにも任ぜられている︒日新記聞の他にも︑﹃奈良名所独案内﹄ ﹃奈良明細全図﹄ ﹃平城坊目遺考﹄

などの著書を残している︒一方︑高橋平蔵は︑祖先が一乗院に出仕︑正徳年間に家を再興した名家の出だといわれている︒

第六号︵明五・八︶までの後書奥付に︑﹁新聞報社 本局 奈良油留木町 金津日舛平/売払所 書林 同乗向北ノ町 高橋

平蔵﹂と記されているところから︑どちらかと言えば金澤扁平が中心となり︑高橋平蔵はその協力者の様な形で発行されて

いたのではないかと考えられる︒︵第七号以降は橋本町に移された日新社から発行される︒︶

以上の様に︑日新記聞とその発行者について簡単に説明してみたが︑私がこれを通して明治初期の奈良県の教育事情を考

−22一

(7)

察しようと考えた理由には︑発行者金澤日舛平の立場も大きく関係している︒彼が教育関係の職を歴任していることから︑そ

の彼による記事の選択や執筆は︑当時の教育状況のかなり正確な把握のもとになされたものと考えられるからである︒勿論︑

そこには︑発行者の懇意的な意向が働く余地も大きく︑この点は︑さきに述べた日新記聞がもつ御用新聞的要素とともに充

分注意しておく必要がある︒

次節では︑これらの諸点に留意しながら︑日新記聞の記事を検討することを通じて︑従来事実関係の解明が不充分であっ

た︑明治初期学制頒布前後の奈良県教育事情の一端を明らかにしていきたいと考える︒

二 日新記聞からみた学校教育

﹁日新記聞﹂に掲載された多くの記事の中から︑学校教育関連記事を検討していくと︑それらは大きくいって︑次の三つ

の問題に整理・分類できる様に思われる︒その三つとは︑①学校教育のねらいについて︑②学校設立・経営費用面に関し

て︑③学校教育奨励策について︑であるが︑まずはじめに学校教育のねらいについてからみていくことにしたい︒

1 学校教育のねらい

学制は︑一八七二︵明治五︶年八月三日に布達第十三号をもって文部省から頒布された︒その前日には︑学制頒布を知ら

せる太政官布告第二一四号が発せられ︑学制制定の精神および政府の教育に関する抱負が明らかにされている︒この太政官

布告は︑﹁学事奨励に関する被仰出書﹂といわれるもので︑主要な部分は次の様なものである︒

(8)

人々自ら其身を立て共産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし︑身を修め智を開き才芸を長ずるに

よるなり︑而て其身を修め知を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能はず︑是れ学校の設あるゆゑんにして︑日用常行言

語書算を初め︑士官農商百工技芸及び法律政治天文医療等に至る迄︑凡人の営むところの事学あらざるはなし⁝⁝︵以下

ここには︑あらゆる段層の人々に対しての学問の必要性が述べられている︒そして︑全国的な学校教育制度の普及のため︑

国民の協力を仰いだのである︒

奈良県では︑これに先立ち︑六月に次の様な独自の就学諭告を出している︒

夫レ人タル者初ヨリ貴機宜冨ノ別アルニ非ス︑只知識アル者ハ貴ク︑知識無キ者ハ餞ク︑知識アレハ勤努ノ義ヲ桝へ︑天

然ノ道ニヨリテ︑恩フマ︑ニ衣食住ノ用ヲ達シ︑人ノ妨ケヲナサスシテ︑自由安楽二其身ヲ立テ︑知識ナキ者ハ徒二一日

ノ安ヲ倫テ︑終身貪壷二陥り︑其身ヲ出ス所ナシ︑斯ク知識アルト知識無キトノ差別ハ︑雲壌ノ異ルニ至ル︑然二其知識

ナルモノハ撃問ヨリ生シ︑其撃問ハ︑幼少ノ時︑讃書手習算術等ヨリ漸々修業致サスシテハ容易二成就スルコトナシ⁝⁝

︵中略︶⁝⁝サレハ︑先般有志之有共︑コノ文明之世二暫時モ坐視スへキコトニ非ストテ︑吃然奮吾シテ願出︑私学校ヲ

取開キ︑且是迄之撃風ハ詩賦古文二従事シテ空言補ヒナキニヨリ︑習風ヲ改メ︑人々身家ヲ立テ︑日用二益アル筆問ヲ教

この就学諭告では︑人間の生活の中での知識の重要性を説き︑その知識を得るためには︑絶えず学問に親しまなければなら

ないと説いている︒そして︑これは貴桟貪富の別なく言えるとしている︒

この就学諭告と太政官布告第二一四号の内容を比較してみると︑ほぼ似かよっている︒恐らく︑奈良県には︑学制頒布以

ー24−

(9)

前に学制の精神が伝わってきていたものと考えられる︒これは︑学制頒布が四か月はど遅れたことを考慮すると︑学制の成

案がすでに出来上っており︑各地方官の知るところとなっていたのではないかと容易に推察できるからである︒もしそうで

あれば︑この四か月余りの期間は︑奈良県にとって︑学制頒布に対する準備期間であった︒この準備期間中に︑できるだけ

学制をスムーズに受け入れる基盤をつくっておかねばならない︒日新記聞の創刊も︑これらの動きと関わりがあるのかもし

ところで︑就学諭告中には︑有志による私小学校設立の話が出ている︒これも︑準備の一段階であるが︑この記事が日新

記聞に掲載されている︒日新記聞第二号︵明治五年五月︶のこの記事は︑奈良市中の中院町と北袋町に私小学校が設立され

たことを伝え︑同時に︑次の様な県からの布令書も載せている︒

前條之通嘗分之間有志ノ者ヨリ出金ヲ以テ取設候得共元来学校ノ義ハ銘々天ヨリ受得タル国有ノ知識ヲ開キ此世二生レテ

7

人ノ人タル通義ヲ桝工日用普然ノ権利ヲ保チ通商交際ヲ盛大ニシテ巳力立身ノ端ヲ起シ土地ヲシテ繁冨セシムルノ基礎ニ

L r

候得ハ追々京阪ノ小撃二準シ取計候問明日ノ安楽ハ今日ノ勉励二在ル﹈ノ道理ヲ篤ク相桝工目前ノ小利ヲ貪り後日ノ安楽

ヲ失ハサル様義テ可相心得者也

日新記聞第二号は︑明治五年五月の発行だから︑この布告は就学論告よりも一か月はど早く出されたことになるが︑その内

容は︑就学諭告と同じである︒知識を開き︑身を立てるために必要な学問や︑それを広める学校の重要性を強調している︒

また︑京都・大阪の動きを意識している感もある︒

そして︑さらにそれを強調するかの様に︑次の様な記事が続いている︒

新聞誌二印播縮下線国志賀郡大前村ノ郷校ノ校則ヲ載ス事簡ニシテ要ヲ得タリ左二附記シテ同志ノ採揮二供ス

ー25一

(10)

二撃間ノ起意ハ第一窮行ヲ贋ミ信義ヲ守り倫理ヲ桝工篤実ノ人ト成ルベシ此志ナキハ恨令経義二委敷百家ノ書二捗り詩

r

文二巧ナリトモ皆道二非スシテ学問ノ本旨ヲ失フ各心得達不可有之事

一︑子弟タルモノ家二在テ父兄二事工親族朋友二睦シク成長二従ヒ其撃ヒ得シ萌ヲ以テ家業専務二心掛可申事

二身ノ分限ヲ知ル事学問ノ肝要クリ綿テ法法令ヲ常二心得居り非分不法ノオ業有之間敷事

一︑農隙二学問出精スルハ勿論也卜錐トモ文雅風流二流レ質素ノ風ヲ失ヒ申間敷事

一︑御政事ヲ議シ人ノ短ヲ揚ゲ其他無益ノ雑談二耽り教師ノ教戒ヲ違犯ス問敷事

これは︑印播県の郷校規則である︒右の記事の存在については︑従来指摘はされていないが︑教育に対する民衆のあるべき

態度を要求している点で︑重要な記事だと考えられる︒学問の重要性を説きながらもやはり農業を差し置いてはならないこ

と︑政事に口を出してはならないことなど︑教育の浸透によって懸念される出来事をあらかじめ予想して︑この規則を載せ

たのだろう︒また︑印播県の郷校の規則が引用されるところをみると︑発行者は︑他府県の様子にもかなり精通していた人

物と考えられる︒

この二つの記事は︑県の教育に対する考え方を特によく表したものといえる︒

また︑他にも従来指摘されていない注目すべき記事がある︒第二号︵明治五年五月︶にみられる記事で︑学校に洋史訳本

や地球図が納められたという内容のものであるが︑その中に次の様な文章がある︒

ヲサム家園ヲ為ルモノ︑史ヲ讃ム山豆二国史ト漠史トノミニ止ランヤ此其大心冒ヲ開カズンバアルヘカラサルナリト

この記事から︑海外に目を向けることの必要性を説いている︒このことは︑学制頒布後は意識的に行われるが︑それよりも

早く奈良県で説かれていることに注目したい︒しかも︑日新記聞第二号の記事は︑新聞中に記されているのだが︑二月に作

−26一

(11)

成されたものである︒恐らく︑二月には︑まだ学制の内容は伝わっていなかっただろう︒その時期に︑海外に目を向ける教

育方針を大きく揚げたのは︑奈良県が︑早い時期から教育に対して意欲的な態度を示しているといえる︒

以上の様に︑学校教育のねらいについて︑学制頒布以前の記事を中心にみてみたが︑県や国の方針に忠実な︑或いは先取

りした記載内容がみられる︒これは︑学校教育に対しての︑奈良県の敏感さを物語るものであり︑また一方で︑日新記聞の

御用新聞的性格をも浮き彫りにするものであると考えられる︒

2 学校設立・経営費用面に関して

一八七二︵明治五︶年八月に頒布された学制は︑近代教育の礎石となった点で意義深いものだった︒しかし︑この頒布は︑

前節でも述べた様に四月に予定されていた︒その遅れた原因には︑教育費用の問題が大きく影響している︒結局この問題に

関しては︑何ら触れられずに頒布されたため︑各府県では教育費用の工面に様々な方策がとられた︒

奈良県の当時の教育費用問題については︑﹃奈良県教育百年史﹄で取り上げられ︑小中学校の設立維持は︑政府からの恩

恵的な補助金を除いて︑大部分が民費に頼っていたとされている︒また︑永島論文でも教育費問題が注目されていはいるも

のの︑示されているデータも限られたものであり︑その詳細な検討は依然として今後の課題とされてい慰そこで︑以下に

おいては︑学校設立・経営費用問題に焦点をしぼり︑その調達方法や民衆の反応を中心に検討していきたいと患う︒

まず︑学校設立についてであるが︑これに関する記事は︑比較的早い号からみられる︒その中の代表的なものは︑前節で

も紹介した県からの布令書の中の一部分である︵第二号・明治五年五月︶︒奈良市中の中院町・北袋町の二か所に私小学校

が建てられたことについての布令書であるが︑次の様に書かれている︒

ー27−

(12)

今般有志ノ者ヨリ出金ヲ以テ中院町極楽院北袋町旧撃校牙二今市工私小学取設皮相願来ル五月朔日ヨリ試トシテ取掛り候

趣キ聞届候⁝⁝︵以下略︶⁝⁝

学校設立は︑民費によって行われていたことがわかる︒しかも次には︑この様な文が続いている︒

前條之通嘗分之間有志之者ヨリ出金ヲ以テ取設候⁝⁝︵以下略︶⁝⁝

民費での学校設立は︑しばらくの問続けなければならないことを了解してもらいたいが︑いづれは官費で行うことになると

いう言い方である︒しかし︑結局民費の方針は︑その後も改められることはなかった︒奈良県の場合︑それでも学校設立が

相次いだからである︒

そして︑学校設立に伴って︑机や椅子・教材などの道具類も︑ほとんど寄附でまかなわれた︒第二号に︑洋史訳本や地球

図が納められたという記事がみられることは︑前節でも紹介したが︑第四号︵明治五年六月︶にも︑よく似た記事がみられ

る︒山辺郡田村と添下郡棟本村の小学校の場合がそれである︒これによると︑机や椅子・書物などの他に︑金銭や食料の寄

附もあったらしい︒寄附は︑村人からがほとんどだが︑どちらにも県の教育関係の役人の名が記載されてい色山辺郡田村

の小学校の方には︑発行者金津日舛平の名もみられる︒このことから︑民費とはいっても︑県とのつながりはあったことがう

以上の様に︑学校設立費用に関しては︑ほとんど民費に頼っていたが︑決して県が無関係だったわけではなかったといえ

る︒

これに対して︑今度は学校経営費用についてみていきたい︒学校経営費用に関する記事は︑発行後しばらくしてから次第

に多くなってくる︒恐らく︑経営を続ける段階で︑次第に困難な点が生じてきたからだろう︒そして︑これに関する最初の

一28−

(13)

記事は︑第二三号︵明治六年三月︶に記載されている︒そこには︑村内の講を廃して学校を設立し︑以後も生徒に費用を負

担させなかった式上郡の村の話がみられる︒また︑記事の後半部には︑次の様な発行者の意見もみられる︒

P n

賄下ニハ此類甚夕多シ膏二益ナキノミナラス種々ノ事端ヲ発シ災害ヲ醸成スルモノ往々之アリ願クハ此佳撃二倣ヒ速二撃

校ノ基本二附シ無用ヲ輯シテ有用トナシ属晒ヲ脱シテ開化ノ域二塚入セン﹈ヲ企望ス

これによると︑県内で講の風習はかなり広まっていたらしい︒そして︑これに使用する金銭を学校の経営費用にするなどの

思いつきを開化として奨励している︒さらに︑次の第二四号︵明治六年三月︶では︑この村の戸長に県から褒美が与えられ

たと記されている︒ここにも︑発行者の意見があり︑他の人々が続くことを薦めている︒

恐らく︑学制頒布後︑半年以上経過すると︑学校経営費用の工面は︑あらゆる村での問題となってきていただろう︒このた

Wめ︑新聞で大きく紹介して参考にして︑学校教育が絶ち消えない様に努めたものと思われをまた︑同じく第二四号に︑桑

の葉を売った代金を学校経費にあてた山辺郡の村の話が投書されているが︑これも︑他の村の奮起を狙って︑大きく褒めあ

ところが︑第三二号︵明治六年八月︶になると︑経費不足は全て村民の怠惰に原因があると決めつけている︒非常に口調

が変わっているが︑これについては︑次節でみていくことにしたい︒そして︑それに続いて︑式上郡初瀬村の小学校につい

て︑具体的な資金調達方法があげられている︒それは次の様なものである︒

一︑金二十四囲

右ハ村内二湯屋ヲ置キ村中更番ヲ以焚方イタシ諸費引去徳分一年分見積り高

−29−

(14)

右ハ報恩講ト唱へ十月ヨリ十二月迄村中毎戸僧侶客ヲ招キ酒飯ヲ設ケタルヲ自今省減ノ方ヲ立候見積高恨シ螢方ハ従前

ノ通

右ハ毎戸祖先ノ忌辰二億リ僧侶及客ヲ請待セシヲ前同様節減相立積立高管方ハ欠﹈ナシ

一︑金五園五十銭

右ハ村民泰詣洒歩等ノ節旅費節倹イタシ積立金ニイタシ置候見積高

一︑金七園二十五銭

右ハ夏百日間村民ノ童寝ヲ廃シ毎戸其身二應シタル職業一時働増シ積金高

一︑金八園二十五銭

右ハ村内一ケ年間諸職業仕来リノ雰長短ノ別ナク向後一時間ヲ働増シ積立金高

右ハ従前村内箆頭ヲ置キ毎戸年二金一歩宛費シタルヲ即今不残散髪ニナリ右料トシテ一口金二朱宛差出候積金高

右ハ五月奔秋ノ節一戸二二升宛取集メ此代金四囲四十鏡石三園積リ

右ハ五月取入ノ節一戸こ付一升宛取集メ此代金五囲九十四鏡石六園積り

二玄米二石七斗

30

(15)

右ハ十月収穫ノセツ一戸二付三升宛取集メ此代金十園八十鏡石四囲積り

右ハ撃校取井二湯屋一ヶ年下肥料此代金四囲

金穀総計九十九園十四銭

全体を通して︑昔からの習慣を廃して経費にあてている場合が多く︑村人それぞれが負担している場合が多い︒これが実際

に行われていたならば︑村人は様々な面で負担を余儀なくされただろう︒しかし︑新聞で大きく取りあげられるということ

は︑恐らく他の村も参考にして欲しいということだろうから︑斬新な思いつきだったのかもしれない︒

また︑学校を運営していく上で︑教師の不足に関する記事もある︒第二三号︵明治六年三月︶の十市郡櫻井村小学校の話

だが︑生徒が増加し︑教員だけでは授業できなくなったため︑優秀な生徒玉名を助教として雇い︑月二朱ずつ支払ったとい

う内容のものである︒学校設立費や経営費だけでなく︑教師についても︑民間の工夫がなされねば運営不可能だった状態が

これらの様子をみると︑従来︑就学率の順調な伸びに基いて考えられてきた︑奈良県の明治初期の教育状況も︑再検討の

必要性があるのではないかと患われる︒そして︑学校設立・経営費についても︑最初のうちは︑人々の関心も手伝って︑盛

んに学校も設立されていたが︑学制頒布後︑半年はど経過すると︑最初の盛り上がりに比べて熱のさめた状態になりつつあっ

たのではないかと考えられる︒そして︑第二四号︵明治六年三月︶の初瀬村小学校の設立経営資金一覧の後に続く言葉が︑

これを物語っている︒

ソノ立方ノ繊悉如此豊侍倣セサル可ケンヤ但萬件始アツテ錬終アルモノ鮮シ願クハ訣ソノ終ヲ保テ人ノ嘲笑ヲ招クコ勿ラ

−31−

(16)

3 学校教育奨励策について

日新記聞に記載された教育関係記事をみていくとき︑注目される第三の問題点は︑被差別部落民に関する記事群である︒

一八七一︵明治四︶年八月に︑積多・非人の呼称が廃止され︑彼らは翌年一月に平民身分に組み入れられた︒しかし︑表面

的には平民となったものの︑依然として差別は残っていた︒平民の中でも︑彼らのみが新平民という称され方をしていたの

も︑その表れである︒

ところで︑被差別部落の人々の様子を伝える記事は︑早くも第二号︵明治五年五月︶にみられる︒これは大阪の村につい

ての記事だが︑この記事も含めて︑以後被差別部落民の出てくる記事の内容は︑どれも共通して村民の勤勉な様子と村の開

化状況を知らせるものである︒例をあげると︑次の様なものである︒

奈良麻下十市郡笠神村小学校ハ同郡櫻井村ノ分校ニシテ新平民ノ村ナルカ学校取建以来生徒ハ僅二三十三人ナレ托其錬ノ

夜学生ハ率子三十以上ノ大人ニテソノ勉励他二比類ナク⁝⁝︵中略︶⁝⁝今後イヨ/\弛マスハ数年ノ後蔑視セシ平民ガ

却テ軽侮セラレルヤウナルベシ︵第一五号・明治五年二月︶

この内容をみると︑被差別部落の人々に対する学校教育も奨励されている︒そして︑村内からの教育熱も高まっていたこと

が知られる︒しかし︑それだけの記事ではない様な気がする︒それは︑記事の最後の部分で︑﹁今後イヨ/\弛マスハ数年

ノ後蔑視セシ平民ガ却テ軽侮セラレルヤウナルベシ﹂と︑平民を意識しているからである︒被差別部落の教育熱の高さを記

事にすることによって︑県民全体の教育に対する関心を高めることを狙ったのではないのだろうか︒そして︑このことをさ

一32−

(17)

らに強める記事が︑第二九号︵明治六年六月︶ に出てくる︒

奈良輝管下新平民高市郡飛騨村二於テ去壬申十一月小学校設立以来生徒日月二増加シテ勉励一方ナラス加之中年奮替ノ徒

ハ不学ニシテ一生ヲ閑過スルハ遺憾此上ナシトテ入校夜撃スルモノ五十飴名有之ヨシ依之校申狭阻ニナリ新築ノ義ヲ本楯

へ願出不日造螢二取掛ルヨシ他ノ小撃校ヲ見ルニ設立来度支二窮シ種々ノ事故ヲ生シ折角奮蟄開立ノ撃校モ日月二委靡振

ハス絶へサル﹈緒ノ如キモノ往々之アリ飛騨ノ学校二比スレハ何ゾ啓二廷揺ノ︑︑︑ナランヤ

後半部に注目して欲しい︒学校の設立は多いが︑いざ完成して運営し始めると︑困難が生じて衰退するものが多い中で︑飛

騨村の小学校は立派だと言っている︒これは︑前節で触れた経営困難な状態に陥った村々を︑叱咤激励するための記事であ

る︒そのために︑被差別部落を利用したのではないかと考えられる︒そして︑第三二号︵明治六年八月︶には︑さらに次の

様な記事がみられる︒

近来小筆校建設追々切迫二至レほトカク因循二流レルハ皆用度支給ノ方立サルヨリ一日復一日達人二先テ設タルモ之ガ為

ニ委靡振ハス其根脚皆奮発カノ薄キヨリシカルナリ何トナレハ新平民二限り一日一日ヨリモ盛大二赴ヰ支給ノ方モ随テ厳

立ス賓二義賞スルニ飴リアリ其肝以ヲ推スニ唯奮発ノ二字ヨリ来ル畢寛奮発心サヘアレハ何ソ支配ノ立サルヲ憂ン

これは︑前節で紹介した︑初瀬村の小学校の経費工面方法一覧の前文である︒前節でも少し触れた様に︑非常に強い口調に

なっている︒学校の設立費や経営費の口面が思わしくないのは︑全て人々の怠惰に原因がある︒なぜなら︑被差別部落民た

ちは皆勉学に励み︑経営も工夫されて安定しているからだ︑と決めつけている︒これによって︑平民の対抗意識をかき立て

ることを狙った様である︒そして︑この記事が第二九号よりも強い口調になっているのは︑資金難で設立経営が困難になり︑

衰退していく学校がさらに増加したからだと考えられる︒この様に考えると︑奈良県の学校教育について︑少なくとも初期

一33−

(18)

の段階では︑学校経営といった経済的側面において︑かなり危機的な状況が出現していたのではないかといえる︒そして︑

第二の問題点で触れた状況が︑改めて指摘されるのである︒

以上の様に被差別部落民に関する記事は彼らの学校教育への参加を賞賛するものというよりは︑むしろ県全体の学校設立・

経営を奨励するために︑彼らを利用したものといえる︒これによって︑教育熱が再びわき起こったかどうかは︑残念ながら

不明である︒そして︑こうした記事︵掲載方針︶が発行者個人の意図か︑県の方針を反映しているのかについては︑即断は

できないが︑日新記聞の性格からみて︑恐らく県の意向を多分に反映したものだったのではないかと考えられる︒

おわ日ソに

一八七二︵明治五︶年に頒布された学制によって︑奈良県の学校教育も少なからず変化した︒この論文では︑奈良県の明

治初期の学校教育事情について︑日新記聞を通して考察してきたのだが︑その特徴をまとめてみると次の様になる︒

まず︑学校教育のねらいについては︑中央の考えがほぼ忠実に伝わっていたといえる︒しかも︑学制頒布に対して︑県独

自の就学諭告を出したり︑他県の学校規則を引用するなどして︑積極的に対応しようとしたことがうかがえる︒しかし︑民

間の教育熱とは裏はらに︑学校設立・経営などの経済的問題は︑学制頒布後︑すぐに表面化してくる︒これは︑学校設立や

経営が︑ほとんど民費でまかなわれていたためであった︒そして︑この様な危機的状況を打開するため︑日新記聞に費用工

面の方法や叱咤激励文が記載されたと考えられる︒また︑その中で︑被差別部落民を利用した様子がうかがえる︒これによっ

て︑以後どの様な方向に向かったかは︑新聞が現存していないため残念ながら不明だが︑新聞の号が後になるほど叱咤激励

(19)

が激しくなることから︑恐らく効果は︑はかばかしいものではなかったのではないかと思われる︒そして︑この様に︑日新

記聞中の教育関係記事を分析していくと︑日新記聞の発行そのものについても︑その契機となるものの一つに︑教育関係の

動きが関わっていたのではないかとも考えられるのである︒

以上を考慮しっつ︑奈良県の明治初期の学校教育事情についてさらに考えてみると︑永島氏のいう教育基盤の成熟につい

ても︑再考してみる必要がある様に思われる︒すなわち︑まず第一に︑学制頒布後︑半年もたたないうちに資金難などの危

機的な状況にすら陥った様子からみても︑少なくとも経済的な意味における民間の教育基盤については︑充分であったとは

言い難い︒また︑学制頒布以前に学校設立が相次いだのも︑永島氏が強調される様に︑学制が民間に喜び迎えられた側面と

ともに︑中央の状況や情報に対して敏感であり︑むしろ︑それらを先取りすらしたと思われる奈良県や県教育関係者の姿勢

についても︑充分留意しておく必要がある様に恩われるのであ専

もっとも︑今回の論文では︑主として﹁日新記聞﹂を通して︑明治初期の奈良県の学校教育状況について考察してきたわ

けであり︑以上述べてきた諸点や論点については︑まだまだ検討すべき点も多い︒本文でも触れた様に︑今後は︑県初期行

政からの分析︑或いは被差別部落側からの教育活動の分析などを行うことで︑奈良県における明治初期の学校教育状況を一

層明らかにしていきたいと考えている︒

ー35−

︹ 注

(20)

6)(5

7

8

9

ハHunnu

H H

u

.〇n H

u ﹃奈良県教育八十年史﹄によると︑明治七年の全国平均就学率はおよそ三二二二パーセントで︑奈良県の場合は全国三位以内には ﹃日本教育史資料﹄巻八附録 などがこれにあたる︒ 例えば︑板倉聖宣﹃日本理科教育史﹄や牧野富五郎﹃明治期啓蒙教育の研究﹄︑中野善達・加藤康昭﹃わが国特殊教育の成立過程﹄ 開山邦宏他編﹃近代地方教育文献目録︵補訂版︶﹄︑昭和五十二年 佐藤秀夫﹁学制百年記念の府県教育史の刊行状況﹂ ﹃教育学研究﹄第四十巻第一号︑昭和四十八年

﹃人文論究﹄第十二巻第四号︑関西学院大学人文学会︑昭和三十七年

﹁奈良県新聞史﹂ ﹃新聞研究﹄第五十六号︑昭和三十一年

﹁﹃日新記聞﹄のこと﹂ ﹃帝塚山短期大学広報部シリーズ2 大和・河内﹄昭和五十一年

﹁日新記聞と金澤昌平﹂ ﹃奈良県近代史研究会会報﹄第四十七号︑昭和六十年

鈴木良編︑山川出版社︑昭和六十年

小野秀雄﹃日本新聞史﹄良書普及会︑昭和二十四年

福島前掲注㈱論文

山上前掲注㈹論文︒福島前掲注㈱論文

奈良県教育委員会編﹃奈良県教育百年史﹄︑昭和四十九年

脚に同じ

36

(21)

抑 伯に同じ︑永島前掲注㈹論文

㈹ 山辺郡田村には世界図表一部が︑添下郡棟本村には三字経十冊が︑奈良市学校用掛の名でそれぞれ寄附されている︒

㈹ 明治初期の奈良県の教育行政については︑現在まだ充分明らかにされていない︒こうした学校の成立・経営費用の問題についても︑

今後教育行政面からの具体的分析が必要であると考える︒

拗 この点については︑例えば︑奈良県同和事業史編纂委員全編﹃奈良県同和事業史﹄ ︵昭和四十五年︶等の被差別部落側からの研究

において指摘されている︒

飢 新聞に記載されている啓蒙的な教育関係記事は︑すでに第二号︵明治五年二月作成︑同年五月発行︶にみられる︒これは︑本文中

でも触れた様に︑海外に目を向けることの必要性を説いた記事だが︑記事作成が二月であることを考えると︑非常に早いものだとい

37

本稿は︑昭和六十二年一月に奈良教育大学教育学部へ提出した卒業論文を土台に︑稿を改めたものである︒本稿作成およ

び史料調査に際しては︑泉谷康夫先生︑本城正徳先生︑奈良県立図書館の山上豊先生をはじめ︑多くの皆様に多大な御援助

を賜った︒また︑二月に︑奈良歴史研究会・奈良県近代史研究会の合同部会で報告する機会をいただき︑竹末勤先生はじめ

諸先生方から多くの御教示︑御助言をえた︒末筆ながら︑心から御礼申し上げます︒

参照

関連したドキュメント

を軌道にのせることができた。最後の2年間 では,本学が他大学に比して遅々としていた

また,文献 [7] ではGDPの70%を占めるサービス業に おけるIT化を重点的に支援することについて提言して

第四章では、APNP による OATP2B1 発現抑制における、高分子の関与を示す事を目 的とした。APNP による OATP2B1 発現抑制は OATP2B1 遺伝子の 3’UTR

(注)

新設される危険物の規制に関する規則第 39 条の 3 の 2 には「ガソリンを販売するために容器に詰め 替えること」が規定されています。しかし、令和元年

さらに体育・スポーツ政策の研究と実践に寄与 することを目的として、研究者を中心に運営され る日本体育・ スポーツ政策学会は、2007 年 12 月

一貫教育ならではの ビッグブラ ザーシステム 。大学生が学生 コーチとして高等部や中学部の

目について︑一九九四年︱二月二 0