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人間の理念に関する哲学的人間学試論(1)実存論的・存在論的人間学

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(1)

人間の理念に関する哲学的人間学試論(1)

実存論的・存在論的人間学

津 田 淳

(1984年9月29日受理)

Ein Versuch der Philosophischen Anthropologie 一Existential・ontologische Anthropologie一

Jun TSUDA

(Received September 29,1984)

1. 「人間の理念」の探究における現況

1. はじめに

「人間の理念」の解明には新しい「哲学的人間学」が要求されるが,それはマックス・シェーラ 一に従えば「人間の本質とその本質構造に関する基本学1)」といえる。これをより具体的にいえば

「人間とは何か」また「宇宙において人間は如何なる地位にあるか2)」の究明であり,それは「神 と人間」との関わりから人間の本質構造を解明するものでも,また独断的に動物の次元から切り 離された超自然的な特性を前提とした「理性と人間」との関わりからそれを解明しようとするもの でもなく,むしろまず「動物と人間」という視点における両者の関わりから人間の考察を始めると いうことである。いいかえれば,それは人間の本質構造を構成すると考えられる「人格」(Pe rson)

概念の発達を,はじめから特定の伝統的思惟の系譜に従って,「神」との関係や「理性的存在者」と いう概念から理解するのではなく,まず基礎工事として「動物」との関わりにおいて,両者の相違 点を自然科学および社会科学の研究成果を基にして理解し,そのうえでそれらの視点を超える哲学 的方法論に基礎をおく綜合的な根抵からの人間理解にアプローチするということなのである。従来,

人間の理念といえば,一方にユダヤ=キリスト教の伝統における人間の理念があり,他方にギリシ ヤ=ローマ的伝統における人間の理念があった。前者は「神の像」(imago Dei)を宿す者という点 に,後者は「理性能力」(logOS)を備える者という点に,それぞれ焦点を合わせることにより,人間 の宇宙における特殊地位を与えるものであった。けれども近代以降これらの伝統的なヘレニズム およびヘブライズムの系譜の人間の理念に対し,新しい自然科学および社会科学の方法論に基づく

茨城大学教育学部哲学研究室

(2)

さまざまの人門の理念が登場することになる。こうして現世紀において,われわれは「人間の理念」

に関して実にさまざまな見解の渦のなかに巻き込まれているといわなくてはならない。以下にまず,

われわれはそれぞれの人間の理念の主要な特色を概括しておくことからはじめたい。

2.ヘレニズム文化圏における人間の理念の特徴

周知のように,ヘレニズム世界の人間観においては,人間の理念はPerson, Persδnlichkeit等の 語源である「ペルソナ」(persona)を有することを前提条件として形成された。「人間」を意味する ことになるこの「ペルソナ」は,もとはヘレニズム世界の演劇において使用された「仮面」のこと であったが,それは後に舞台に登場する役者の担う「性格」や「役割」の意味をもつにいたり,さ

らに一般社会に拡大されて,人生の舞台としての公的な社会的世界における「役割を担う者」の意 を獲得する。こうしてこの言葉は歴史的発展の中で,究極的には法廷において「市民権」を持つも のとして自己の権利を主張できる「自由市民」を指す言葉となる。このようにみるとヘレニズム文化 圏における人間の理念の特質は,まず公的社会的生活において「役割を担う能力」をもつものとい

う点におかれているのであり,それはまた,そのような能力を持つものとして公的社会での法的人 権や権利をも主張できる存在のことであった。従ってまた,ここでは公的社会において役割を与え

られなかった女性や奴隷は,ペルソナを持たない存在として,社会的生活において法的人権を持た ず,人間の理念としての「人格存在」からは除外された。アリストテレスの記すところによれば,

彼らは家政術にとっての固有の「生命を有った道具」にすぎず,すべての実用に供される道具が主

       ,       A

lの所有物であると同様に,彼らは「生命をもった所有物」(κτημαεμψひ潔oのであり,主人の「財 産」(κτησκ)の一部と見倣されたのである紘

この場合,アリストテレスにとって,また当時のギリシャ人一般にとって,とくに重要な事柄は 奴隷的存在が本来奴隷であるとされるための目印を彼らの「非理性性」においたということである。

      亀       

z隷や女性には人間に本質的と考えられる「熟慮熟考する能力」(τ0βωλεひτεκ0レ)と,それに基づ       

ュ思慮深い「選択行為」(πρoα ρεαのとが欠けていると判断されているということである。一般

       A       (

ノギリシャ的思惟の系譜の人間観においては,人間は「魂」(ψ塀η)と「身体」(σωμα),あるいは 理性と感性との異質的な二つの部分の総合と考えられ,前者の魂あるいは理性的部分は「不死」な

るものとして,ここに人間の本来の本質的部分を認め,後者の身体あるいは非理性的部分は死すべ きものとして,人間の本質とはかかわりのない非人間的なもの,すなわち動物的なものとされたの である。アリストテレスは「奴隷制」を肯定し,それがむしろ自然の理に適ったものであることを 次のように強調している。

「奴隷は一種の生命をもった所有物である。一・・それはその他の道具に先だつ優れた道具とい ったようなものである。何故なら,もし道具がいずれも人の命令をきいて,あるいは人の意を察 して,自分の為すべき仕事を完成することができるならば,例えば,……稜が自ら布を織り琴の 擁が自ら弾ずるなら,職人の親方は下働人を必要とせず,また主人は奴隷を必要としないであろ

う。……生あるものは,まず第一に霊魂と身体とからできていて,そのうちの一方は自然によっ

て支配するものであり,他は支配されるものである。一・身体にとっては霊魂によって支配され

(3)

ることが自然に一致したことであり,……身体が霊魂に,また動物が人間に劣るのと同じ程度に 劣る人々一身体を働かせる以外に彼らの為し得る最善のことがない人々一は誰でもみな自然によ

って奴隷であって,そのような人々にとっては主人によって支配されることの方が善いのである。

…… タは奴隷と動物との間に,有用さという点ではたいした相違は存しない。何故なら生活必需 品のために身体を以ってなされる援助が両者,すなわち奴隷と家畜とから生じてくるのだから。

ところで自然は自由人と奴隷の身体を区別することを欲し,一方のは生活に必要な仕事に適する ほど頑強なものとし,他方を直立して,このような労働に役に立たないが,・…戦争に関する 仕事と平和に関する仕事としての国民としての生活には役立つようにつくっている。一・・以上の ことからある者たちは生れながらに自由人であり,ある者たちは奴隷であるということ,そして 後者にとっては奴隷であることが有益なことでもあり,正義にかなったことでもあるということ

は明白である。」 (Politica,1,4〜5)

こうして要するに奴隷は明らかに主人の身体の一部でしかなく(主人の魂の一部ではない),また このようなものとして主人の部分のようなものであり,それゆえ独立して存在するのではなく,全 体に関連して存在するにすぎないとされるのである。従ってここでは主人と奴隷との関係は,魂に

よる身体の支配関係と同様に,主人による奴隷の専制的支配関係なのであり,彼らは結局は家畜並 の存在だということになる。

このようにみると,ヘレニズム文化圏における人格概念の本質は役割や機能や能力と結び付けら れ,それは「役割人格」として特徴づけられる。さらにまたこれらの役割や能力はとくに理性能力

と結び付けられ,理性能力を役割の成立条件とすることにより,究極的には理性概念に焦点を合わ せて人格概念が形成されたといえる。こうしてヘレニズム世界においては,人格とは「理性人格」

にほかならず,そこでは魂と身体,理性と感性というきわめて疑わしい人間の二分法に立って,人 格とは生成変化する偶有性の世界に対する理性的存在者の自己同一的な本質存在者とされることに なるのである。いいかえれば,まさしく不死なる「理性的実体」としての人格がヘレニズムの伝統 における人格概念だったといってよい。

3.ヘブライズム文化圏における人間の理念の特徴

ヘレニズム文化圏における人間の理念が「理性人格」に求められたのに対し,ユダヤ=キリスト 教的世界におけるヘブライ思想の人間観の系譜においては,人間の理念は「神の似像」(imago

Dei)として象徴される人間の「霊的実存」に求められたといえる。

もともとヘブル人とは,ユーフラテス川を渡ってきたユダヤ民族に対してカナン人が呼び慣わし た呼称であって,その意は「渡り人」のことである。つまりユダヤ民族は,一方では大家畜を擁し 強大な軍事力を有するアラビア砂漠における雄大な放浪民族「ベドウィン」と,他方では土地に定 住し,安定した生活様式をもつ農耕民族や都市貴族とからなる「カナン人」との迫間を彷復い歩いた 民であり,彼らの生活様式は,この両民族の間を旅人・寄留者として放浪する土地も国家ももたな い「半遊牧民的小家畜飼育者層」としての特徴をもっていた。このような半遊牧的放浪民族をM.

      

買Fーバーは「ゲーリーム」(Gerim,παρεπ δημoζ)と名付けたが,この呼称はユダヤ民族の族

(4)

長であったアブラハムが,妻サラのためにヘテ人から私有の墓地を買い求めたとき,自らを呼んだ 呼び名であった。アブラハムはヘテ人に向って「私はあなた方の中に〈居留している異国人〉(ゲ 一ル・ウェ・トーシャープ)ですが,あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい」

(創23:4)と語っているように,この「ゲーリーム」とは「居留している異国人」,あるいは「旅 人にして寄留者」の意である。

M.ヴェーバーは,このような独得な自然風土と生活様式とのうえに形成された,独得な文化風 土をもつゲーリームとしてのユダヤ民族においては,その宗教思想における救済観,いいかえれば 彼らの自然に関する感覚と,その中での人間存在自身に対する「存在感覚」において独得な特徴を培

ったと考えている。ヴェーバーはその著r古代ユダヤ剃(Das antike Judentum,1921)において,

とくにユダヤ的パーリア民族の救済思想とインドのパーリア諸部族の救済思想とを比較することに よって,ユダヤ民族に特徴的な「契約意識」,「契約的人格」概念,およびその「歴史感覚」の発展 を明確に浮彫にした。ヴェーバーによるとユダヤ民族の特殊性を見る場合に基本的に重要なのが,

彼らがゲーリームと名づけうるカースト制をもたない環境世界におけるパーリア民族であったとい うことである。インドの賎民カーストの救済思想においては,儀礼的に厳正なカーストに恭順な態 度をとることにより,その報賞として不変の現世のカースト組織内に生れ変るということ,いいか えれば自己の階級と身分に忠実であることによってのみ上位の階級に救済されるとする「輪廻転生」

が説かれた。しかしこれに対し,ユダヤ世界の救済思想の特異性は,神の指導による現世の不正な 社会秩序の「変革」という点にあった。ここでは世界秩序は永遠不変ではなく,神の被造物であり,

社会の制度や秩序は人為的歴史的所産にすぎなかった。こうして一方で,ヘレニズム世界には類を みない独得な歴史感覚と歴史改革意識を育むことになる。けれども他方で,彼らは自己の解放と救 済とを歴史変革に求めながら,現実には歴史を改変しうるほどの軍事力をもたぬゲーリームにすぎ なかったのであるから,ここではまた契約意識と「契約人格」概念を生むことになる。なぜなら彼 らは,土地も国家も持たないパーリアであり,財産は土地ではなく家畜であり,従って牧草地を求 めて移動し,土地所有民族や都市貴族たちとの平和的な「契約」を結ぶことによってのみ,土地を借

りて生活することができる「旅人・居留する異国人」にすぎなかったからである4も

けれども,このユダヤ民族の人間の自己理解を考察するに当って,ヴェーバーのように単に社会 学的視点から分析するだけでは不十分なのであって,われわれはヴェーバーの視野をさらにその根 抵にある哲学的「存在論」の視点から透視しなければならない。そうするときはじめて,このゲー リームという独得な生活様式を生きたユダヤ民族の他に類を見ない独自の人間の理念の特質が明確 にされると考える。とりわけヘブル人の「究極の次元」における「存在感覚」には独得な特色をみ ることができるのである。彼らの生存の根抵における存在感覚はその「被造感」にあるといえる。

彼らにとって一切の存在者は神によって創造され,その存在を付与された被造物にすぎない。被造

物であるとは,その存在の根拠を自己自身のうちに持たぬということである。イエスはこの事実を

端的に言表した。人は何の理由もなしに生命を贈られ,また何の理由もなしに「今日にもその生命

をとられる存在」(ルカ12:20)にすぎない。人は誰も自分の意志で此の世に来たものはないし,自

分で自分の生命を創り出したものもいない。人は「どんな価値にも関係なしに」(マタ10:8)偶々

此の世に投げ込まれ,生命を贈られたがゆえに生きているにすぎない。もともと人生に目的や理由

があったわけではなく,人は何処へ行くのかも知らない此の世の「旅人・居留民」(レビ25:23,へ

(5)

ブ11:8〜3,創23:4,1歴29:15,詩39:12,H9:19,1ペテ2:11)にすぎないのである5)。パス カルも聖書の研究を通して,このような人間の状況を次のように美事に言表した。

「人間の蒙昧と惨めさをつくづく考え,何も語りかけてくれない宇宙をみつめるとき,また人 間が何の灯火ももたずに,ひとりぽっちに置きざりにされ,いわば宇宙のこの片隅に迷いこんだ みたいに,誰が私をここに置いたのか,私は何をしにここにきたのか,死んだらどうなるのかも 知らず,まったく何ひとつ分っていないことを思うと恐ろしくてならない。さながら眼っている 間に打ちすてられた恐ろしい島に連れてこられて,目醒めてみると,私が何処にいるのか分から ず,そこから抜け出そうにもその手立をもたない人間のようだ6)」。

もちもの

それゆえイエスはまた「人の生命は所有の豊かなるにはよらない」(ルカ12:15)といい,「何を 食わんと命のことで思い煩い,何を着んと体のことで思い煩うな」(ルカ12:22,マタ6:25)と語る。

人は「思い煩ったからといって自分の寿命を僅かでも延ばすことができない」(ルカ12:25,マタ6

:27)存在だからである。人が生きるのはただ存在を与えられ,存在へと定められ,肯定されている からであり,それゆえ人は己の存在をそれが肯定されてあるがままに「受容」し,そこに身を委ね る外はない。蒔かず刈らず倉に収めない空の鳥,織らず紡ぎもせず,「今日ありて明日は炉に投げ 入れられる」(ルカ12:28,マタ6:30)野の花さえ「神はこれを養い,美しく装い給う」のだから,

あなたがたも天の父に信頼し,自己の存在を任せよ,とイエスは説く。こうして「明日のことを思 い煩うな,一日の苦労は,その日一日で十分である」(マタ6:34)とされる。

このようにみるとユダヤのメシアニズムは必ずしもヴェーバーが指摘するような現実的政治的な 領域に属するものではない。ヴェーバーはユダヤのメシアニズムは,内面の事柄でも滅びやすい無 意味な現世からの救済でもなく,彼らが征服しようと欲したカナン支配の約束を意味したとし,こ の現実政治的なメシアニズムが神との契約を守ることによる希望の倫理となり,待望の思想となっ て強烈な将来への投射という形をとったとするが,このメシアニズムの展開は,ユダヤ世界におい て必ずしも一義的ではなく,歴史的には現実政治的メシアニズムから倫理的メシアニズム,さらに 宗教的メシアニズムへと,複雑な絡み合いをもちながらもその発展の跡を辿ることができる。そして ユダヤ民族の究極的存在感覚を「存在論」の視点から透視すれば,むしろそこには宗教的メシアニズ ムが明確な形で浮彫にされてくるのである。そこではエジプトにおける奴隷的状態からの解放を祝 う「過越祭」,それを記念する「マツォト」(出エジ12:8〜,申16:35)あるいは「仮庵の祭」等々

さすらい

に象徴される「放浪と仮住」(レビ23:43,1ペテ1:17)という人間の実存意識,実存感覚が自覚 化されているのである。

こうして此の世の「放浪と仮住い」という人間の実存感覚を培ったこのヘブライズムの文化圏に おいては,人間における根源的自由は人の此の世,とりわけ土地からの解放に求められた。彼らは

「神の奴隷」であることの自覚化を深めることによって,かえって此の世の権力や富の奴隷からの 解放と自由を求めた。このように見ると,ヘブル人のゲーリームとしての性格は,むしろ基本的に

この民族に独得な,此の世の「寄留者」として生きようとする歴史的「実存感覚」を養ったといえ るのであり,彼らは土地を占有し国家形態を形成したときでさえ,基本的にはギリシャ・ローマ世 界にみられるような制度としての奴隷制を発展させることはできなかった。

レビ記25章には次のように記されている。

「あなたの兄弟が落ちぶれて,あなたに身売りしても,彼を奴隷として仕えさせてはならない。

(6)

彼を住込みの雇人のように,また旅人のようにあなたのもとに住まわせ,ヨベルの年まであなた のところに勤めさせなさい。そのときには彼とその子たちはあなたのもとから出て自分の一族の ところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。彼らは わたしがエジプトの地から連れ出した,わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売

られてはならない」(レビ25:39〜42)。

また出エジプト記21章では次のようにいわれている。

「あなたがヘブル人である奴隷を買うときは,6年の間仕えさせ,7年目には無償で自由の身 として去らせなければならない」(出エジ21:2)。

「女奴隷がもし彼女を自分のものと定めた主人の気に入らないときは,主人は彼女が贈い出さ れるようにしなければならない。彼は彼女を裏切ったのであるから,外国の民に売る権利はない」

(出エジ21:8〜9)。

「自分の男奴隷または女奴隷を杖をもって打ち,その場で死なせた場合は,そのものは必ず罰せ られなければならない。しかし,その奴隷がもし1日か2日生きのびたならば,その人は罰せら れない。奴隷は彼の財産だからである」(出エジ21:20)。

これらの奴隷的身分に関するユダヤの諸規定には勿論その限界があったことを指摘することがで きる。ここではユダヤの同胞を奴隷の身分に固定したり,奴隷のように扱うことを禁じているが,

異国民には必ずしもそれは適用されてはいない。一ユダヤ在留の異国人や貧しい人々のために収穫 の一部や落穂を残す配慮が推められ,自らがかってエジプトの地で在留異国人であったことを想起 すべきことは説かれている(出エジ22:21,23:9,12,レビ19:9〜10,34)。一また奴隷は売買の対 象であり,究極的には上記の出エジプト記21:20の如く,財産であるとされている点でもヘレニズ

ム世界と何ら異ならない。

けれども,上述のレビ記25:39〜42および下述するレビ記25:8〜10,23には,さらに奴隷に関す る上述の如き単なる「社会的次元」の規定を超える「存在論的次元」の視点が含まれているとみる ことができる。

「あなたは安息の年を7たび,すなわち7年を7倍数えねばならない。安息の年の7たびは49 年である。あなたはその第7月の10日に……すなわち晒罪の日にあなたがたの全土に角笛を鳴

り響かせなければならない。その50年目を聖別し,国中のすべての住民に解放を宣言しなけれ ばならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって,あなたがたは各々その所有の地に帰 り,各々自分の家族のもとに帰らなければならない」(レビ25:8〜10)。

「地は買い戻しの権利を放棄して売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなた がたはわたしのもとに居留している異国人である」(レビ25:23)。

角笛(ヨベル)を鳴り響かせて,すべての住民に解放を宣言する「ヨベルの年」は50年目毎の「土 地からの解放」を意味していた。それは人はみな「神のもとに居留している異国人」であるがゆえ に,神から借りていた自分の土地を神に返し,再び神から土地を新ためて平等に借りるという年な のである。ここにはヘブル人の此の世の寄留者として生きようとする「存在論的実存感覚」が言い あてられている。彼らは此の世の一切の存在を,人間も土地をも含めて「神の所有」とすることに よって,いいかえれば自らを「神の奴隷」(レビ25:42,ロマ6:22,1ペテ2:16)として自覚化し,

地上的一切の存在を「神の被造物」と了解することにより,地上的あらゆる価値からその絶対性を

(7)

剥奪しているのである。それゆえここでは,此の世的人間的価値要素,すなわち土地や財,権力や地 位あるいは理性能力といった所謂「文化的社会的価値」は相対的で交換可能な価値として「価格」

(Preis)をもつにすぎないとされるのである。こうしてここではヘレニズム世界とは異なって,人格 概念は「役割価値」としての人格でも,「理性実体」としての人格でもなく,神の被造物として神に

その存在の根拠をもつ限りにおいてのみ価値を帯びる人格概念となる。パウロによれば「神の息,

     r  隻r       (       唱  (  雪       (     

̲の霊」(τoαγ oμπンεひμα)の支配する「聖霊の宮」(μαoζτooα7 oひπレεひματo⇔(1コリ6:17

〜19,3:16)としての人間のみがそれ自身として尊厳を宿す絶対的人格価値であり,それは神の 似姿を有つ被造物としての「霊的実存人格」ということになるのである。それゆえにまた,ここでは 現世の人間の社会的組織体の中での主人と奴隷,男と女との間の身分的価値差別は,少なくともそ の人格価値に関する限り,等しく神の被造物であるという了解のもとに,否定され解消される要因 を含んでいたといえるのである。

「奴隷も主にあって召された者は,主に属する自由人であり,また自由人も召されたものはキ リストに属する奴隷である。あなたがたは代価をもって買われたのである。人間の奴隷となって はいけない」(1コリ7:22〜23)のであり,また「キリストをその身に着た者は……ユダヤ人も ギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく,男も女もない」(ガラ3:27〜28,コロ3:11)のである。

4.自然科学,社会科学の領域における人間の理念

上に概括したヘレニズムとヘブライズムのそれぞれの伝統的な系譜に立つ相対立する人間の理念 に対して,近代以降,自然科学や社会科学の発達に伴って生物学,医学,心理学,社会学,人類学 などの諸領域からの人間の本質構造に関する新しい研究が新しい人間の理念を求めるという形で現 われた。こうしてすべての学問がそれぞれ同じ人間という主題を研究対象とするのであれば,お互 の成果を考慮し合うのは当然の成り行きなのであるが,それにも拘らず生物学的に真理とされる結 諭がそのまま哲学や神学に関しては真理ではないのであり,こうして現代のわれわれは真理の多数 性の事実に出会わざるを得ないという新しい事態に直面しているのである7乙例えば伝統的なドグマ 神学においては,伝統的に聖書の記述に従い,神が己れの姿に似せて人間を創造したという神話的な 創造の物語に忠実であろうとするが,生物学の領域に起った進化論においては,科学者たちは人間は 高等な類人猿の子孫であると主張した。今日の進化論においては人間の進化に関する諸理論はさら に発展を辿り,それらは必ずしも一致をみない詳細で混みいった諸見解に分裂しており,進化論そ のものが単純な理論では説明できない問題にぶっかっている8)。

また生理学の領域における自然科学的研究は微視的な宇宙の構造の解明に迫っており,例えば動 物の脳に関する実験は,科学者たちをして人間は自動人形のような,決定論的に理解しうる存在で あると主張させ,分子生物学や遺伝子工学の研究においては,積極的優生学の立場に立つ科学者た        ψ

ソは遺伝子操作によって人間の遺伝的構造を前以って決定することによる彼らの理想と考える人間 の創造を試みようとさえしている。自然科学の領域において人間の理念とはいったい何なのであろ

うか。

これらの自然科学の諸領域に対して,さらに他方では社会学や,なかでも文化人類学等の社会科

(8)

学の研究領域では目覚ましい業績をあげており,人間の社会の構造や風俗・習慣に極めて大きな多 様性があり,また倫理的価値判断における正。不正の区別,善・悪,是・非の価値基準に関し人類 共通のスケールは全く見られないことを彼らは明らかにした。洞窟に住む人間と文明社会の市民,

エスキモーとピグミーの間には途方もなく大きな相違があり,またニューギニア高地人の中には一 種の人肉嗜食の風習も残っていることが調査の結果明るみにでたのである9)。人類学が発見したも のは固定化した人間の本性ではなく,むしろさまざまな人間の本性に関する多様性であり,倫理に 関していえば,人類には「自然法」ではなく,むしろ多様な慣習があるのみであり,永遠の道徳的 原理のかわりに習慣・習俗の無限の広がりをみるのみであるということである。

こうした人類における文化の多様性の問題は,20世紀に入って第2次世界大戦の経験を経た人 類学者たちをして,とりわけルース・ベネディクトによって指摘された「文化の型」という主題を めぐる「比較文化論」を刺激した10)。人間の行動特性や性格が文化的社会的諸制度やその文化価値 観の中で発展し,また形成されること,それぞれの文化がそれ自身の独得な個性をもつこと,従

って人間のそれぞれの文化のもつ行動特性はそれ自身の文化の中で理解されなければならないこと 等が指摘されたのである。こうしてこれらの研究は,全く異った諸文化を研究することによって,

自己の文化に忠告を与えることの必要性や,また相互に他民族や異文化のそれぞれの独自性を理解 し合うことの重要性を促すことになっているわけであるn)。

5.人間の理論の統合に関する課題

けれども他方で,このような人間の自己理解にかかわる特殊諸科学の間の見解の対立や人間の理 念の多様性とその不統一は,まず第1に,われわれ人類の理論的研究における解決さるべき重大な 学問的課題であり,第2には,それは人類の倫理的課題に対する脅威であり,文化の担うべき課題 に対する危機でもある。先に少しくふれたように,マックス・シェーラーは今世紀におけるこの危機 を鋭く感受した最初の一人である。彼はその著r宇宙における人間の地位』(Die Stellung des Menschen im Kosmos,1928)というきわめて啓発的な書物の中で次のように述べている12)。

「教養のあるヨーロッパ人にく人間〉という言葉で何を思い浮べるかと問えば,まずきまって 彼らの脳裏に全く両立しがたい三つの思想圏が相互に対立し合って浮ぴあがってくる。第1は,

ユダヤ=キリスト教的伝統におけるアダム・イブ,そして創造と楽園と堕落という思想圏である。

第2はギリシャ的古代的思想圏であり,ここにおいて世界ではじめて,人間の自己意識が人間の 特殊地位の概念にまで高められたのである。人間が人間であるのは〈理性〉,ロゴス,フロネー

シス,ラチオ,メンスを所有することによってであるという命題が立てられたのである。一ロゴ

スとは言葉を意味すると同時に,あらゆる事物の〈何〉を把握する能力をも意味している一。こ

のような見方には超人間的な理性が世界全体の根抵にあって,それに人間が,しかもあらゆる存

在者の中で人間だけがあずかるという教説が固く結び付いているのである。第3の思想圏は,こ

れもすでに久しく伝統的になった近代科学の発生心理学の思想圏であって,そこでは人間は地球

の進化のずっと後になって現われた最終結果であって,人間が先行の動物界と異なるのは,すで

にそれ自体としては人間以下の自然においても見出される諸エネルギーや諸能力の複合の混合度

(9)

合の相違にすぎないとされるのである。これら三つの思想圏相互の間にはどのような統一もみら れない。従ってわれわれは今や相互に干渉し合うことのない自然科学的人間学,哲学的人間学,

●   o   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ■   o   o   o   o   ●   ●   ●   ●   ・   ●

神学的人間学を所有しているが,しかしわれわれは人間に関する統一的理念はもっていないので

●   o

ある。人間の研究にたずさわる特殊科学はますますその数を増しているが,それら諸科学がどれ ほど価値があるものであるにしても,その多様性は人間の本質に光を当てるというよりも,むし ろはるかにそれを蔽い隠してしまうのである。上述の三つの伝統的思想圏は,今日いたるところ で揺れ動いており,とりわけ人間の起源の問題に関するダーウィニズムの解決が全く徹底的な衝 撃を受けたということをさらに考慮するならば,これまでの歴史の如何なる時代にも,今日ほど 人間が自己自身にとって疑問になったことはなかったと言えるのである13)」。

われわれはこうした現況の中で新しい人間の理念の研究のために,これまでの人間の研究にたず さわる特殊諸科学の成果や,哲学的人間学,神学的宗教的人間学などの諸見解を踏えつつ,それら を統合する新しい人間学に対する方法論を提起し直す必要に迫られている。われわれはこのような 意味において,自らの新しい試みの一端とその「新しい哲学的人間学」の課題を提示したいと考え る。しかしその際,従来の神学的人間学や哲学的人間学のように独断的に人間を動物から区別し,

切り離すことからはじめるのではなく,むしろ人間と動物との関わりにおいてのみ人間の存在の構 造を解明することからはじめ,且つあるべき人間の理念の姿を求めたいと思うのである。

もっともここで私が求めている人間の理念は,単に生物学や人類学などの学問領域における研究 方法によって近づきうる人間の理念の次元なのではない。究極的には人間存在の本質的構造は,こ れらの自然科学的,あるいは社会科学的諸領域の研究対象を超えた要素をもっており,われわれが

これから提示しようとする人間学を敢えて「哲学的人間学」と呼ぶのはこのためであることは注意 しておきたいと思う。しかしまた他方で,この哲学的人間学ということにおいて神学的人間学と必 ずしも距離を置こうとするものでないことも注意しておきたい。われわれはむしろ神学的人間学に おける「神話的象徴形式」を哲学的に基礎づける試みを意図しているのであって,人間観における ヘブル的思想の系譜にヘレニズムの人間観を超える人間に関するより深渕な見解が含まれていると 考えるものであることを断っておきたい。もっとも余り裁然とヘレニズムとヘブライズムを分断し てしまうことにはむりがあるのであって,われわれとしては,ヘレニズム世界に属していた思想家 としてはヘラクレイトスとソクラテスとにみられる弁証法的思考法や後者の人間へのアプローチに おける対話法等に関しては,これを高く評価すべきものと考えているし,またそれらはヘブライズ ムの系譜に通ずるものをもっていたことを見逃してはならないと考えている。

いずれにしてもわれわれは,ここで新しい人間学を基礎づけようとする自己の立場を「哲学的方

法論」に求めていることを示しておきたいのであって,その意味において狭義にとれば,これから論

考する人間学は単に神学的人間学でも自然科学や社会科学的人間学でもなく,正しく「哲学的人間

学」なのだということである。私見によれば,哲学的方法論においてのみ初めてわれわれは人間の

認識における総合的な理解と人間存在の深みに接近することが可能なのであって,人間存在は単に

自然科学的,社会科学的方法による人間の客観的な特性の記述によってはその生きた具体的な全貌

を顕わさないのであり,また他方で十分なる吟味を経ない独断的な神話を語るだけのドグマ化した

神学的方法論においても人間存在の具体的な構造は基礎づけられないのである。そしてまた,さら

に人間学への哲学的問を止めるわけにいかないのは,ソクラテスの述べる如く,われわれ人間存在

(10)

においては,自己の存在の条件を「十分に吟味しない生は生きるに価しない生とならざるを得ない」

からなのである。

H.哲学的人間学と隣接諸科学との関係について

1.新しい哲学的人間学の立場

われわれが一試論を試みようとする「哲学的人間学」がいかなる思想の系譜に属するものかにつ いて,ここでふれておきたい14)。神学的人間学でも自然科学的,社会科学的人間学でもない「哲学 的人間学」の系譜はそれほど古い歴史を経たものではないのである。所謂「哲学的人間学」の新し い構想を打ち出したのは晩年のM.シェーラーであって,先述のr宇宙における人間の地位』は彼の「哲学 的人間学」の新しい試みの緒論に当るものであり,彼はその後の研究をこの哲学的人間学の構想の解明 に捧げようとしていたのであるが,この書を遺稿として残し1928年世を去った。しかしそれ以来,

この書に啓発された多くの研究者が「哲学的人間学」へのアプローチを試み始めたのであり,今日 では「哲学的人間学の系譜」と呼び得る一つの学問領域を形成するに至った。

われわれの小論はこれらの哲学的人間学の系譜に対する批判的試みも含むのであり,この人間学 の対象アプローチの方法論においては,上記の如くあくまで哲学的であるわけであるが,基本的にシ エー 堰[やその他の哲学的人間学の諸説とは異なって「実存論的存在論」の視点からの人間学を試 みようとするものである。一般にこれまでの哲学的人間学の系譜には「実存論的」視点と「存在論 的」地平が欠けていたと考えられるのであるが,われわれはむしろこの「実存論的存在論」の立場 からこそ新しい人間学への道は拓きうると考えているのであり,従って,本論稿の「哲学的人間学」

においてわれわれが試みるのは,自然科学や社会科学の人間に関する研究方法とその成果,および それとは次元を異にする人間に関する神学的研究方法とその成果とを「実存論的存在論」という哲 学的立場において総合的に見直そうとするものであり,そのような意味ではこの哲学的人間学を

「実存論的・存在論的人間学」といいかえてもよいと考えている。本論稿の副題を「実存論的・存 在論的人間学」と唱ったのはこのような経緯に基づくものである15)。

2.哲学と神学の間

上述したようにわれわれは基本的に「哲学的人間学」の立場に立つわけてあるが,しかしこのよ うに云っただけでは誠に曖昧なのであって,以下にこの哲学的人間学の立場の隣接領域との関係に ついて少しく詳述しておきたい。

この「実存論的・存在論的人間学」の方法論的立場は,まず第1に,実証科学としての自然科学

の方法論とは全く異質のものであるが,哲学の領域のなかにも実証主義的方法論を標榜する哲学も

あるのであり,われわれの立場は単に自然諸科学的人間学ではないのみならず,実証主義的哲学的

(11)

人間学ともその方法論において異なるものであることを注意せねばならない。もともと哲学の領域 にもすでにアリストテレスが区分したように「第1哲学」と呼ばれる基本哲学の領域と「認識論」

やその他の哲学の領域があるのであって,われわれの人間学はこの「第1哲学」の領域に属し,そ れは「存在そのものとは何か」に関する問の中に含まれる人間学であり,単に存在に参与している 存在者や事柄,観念や価値,霊魂や身体などの特有の性格に関して問うような哲学の領域に属する 人間学ではない。この哲学の立場は「存在それ自体」を,またすべての存在者に共通の範疇とか構 造とかを理解しようとするものであって,このような意味で「存在論的」視野に立つ人間学であること

にその特徴を有するのである1眺

第2に,われわれの実存論的存在論的人間学の立場は,神学的人間学との関係においてはさらに 複雑なかかわりにある。先にもふれたように,キリスト教神学はヘブライズムの思想圏にあるわけ であるが,われわれの人間学は広い意味でこのヘブル的思想圏に入るものであり,従って神学の領 域との密接なかかわりの中にある。しかし神学の方法論にもパウル・ティリッヒが指摘するように 二つの立場がある。神学の歴史において,神学的思考が存在する限り,二つの型の神学が存在した のである。一つは,「哲学的神学」(Philosophische Theologie)であり,他は「ケリュグマ的神学」

(Kerygmatische Theologie)である。「哲学的神学」とは哲学的性格をもつ神学ということであっ て,神学が究極的に無制約的にわれわれにかかわる存在を問う学であるとすれば,それは「存在そ のもの」を問う第1哲学とかかわらざるを得ないのであって,ここに哲学的神学と性格づけうる神 学が必然的に生じることになる。ティリッヒによれば

「存在の意味を問うときに,神学は神を求めているのであり,存在それ自体と世界とを構成し ているさまざまな力や構造,それらの織りなす関係や多様性を問題にするとき,神学は存在のこ れらの範囲内で,存在の根抵,力,規範,目標の開示を求めているのである。神学は人間が自己 に無制約的にかかわる存在の開示を如何なる仕方で受容するか,それとも拒否しようとするかを 問うのである」。

つまり,神学の問いには必然的に哲学的要素,すなわち存在の意味,存在の構造への問い,また さまざまの存在領域の中における存在の開示などへの問が含まれているのである。

けれども他方で,「哲学的神学」に対し「ケリュグマ的神学」は哲学とは関係なしに,キリスト教 の使信の内容を秩序立てて組織的に再現しようと試みる。この神学はわれわれ人間に自己自身を知 らしめた神の啓示を,すなわち「神の言」を対象とする。この神学は神の言の学である。そして神 の啓示,神の言が起こるところが教会であるゆえに,神学は教会という人間の特殊な生活領域の中 で行なわれる聖書とドグマを対象とする学問である17)。この立場の神学の主唱者はカール・バルト であるが,彼自身は狂信的なバルティアンたちとは異って,日常の言語でさえ哲学的術語や哲学的 思考方法によってなされるのであるから,神学が哲学的用語とその方法論とを全く避けることがで きないことを認めてはいる。しかしそれにもかかわらず,神学者は哲学者と同じ人間的な仕方で考 えつつ,人間の限界内にあることを語っているようでありながら,実は神自身が語ることを語るの であり,啓示された神の思惟に奉仕し,その謹人となると主張される。ティリッヒは,これらの神 学の二つの型の対立の状況の中にあって,むしろこの両者の間の緊張と相互受精はキリスト教思想 史の辿る必然的な姿であるとみており,もともと「神学」(Theologie)という言葉の「神」(theo)

が,神の啓示としてのケリュグマを示し,「学」(logie)が神の使信を迎え入れようとする人間の理

(12)

性の努力を示しているのであるから,ケリュグマ的神学と哲学的神学とは互に相手を要求し合うべ きものであり,互に相手を排斥するようなことになれば,それは「神学」の理想から離れることになると指 摘している。従って哲学と神学とが同時に実存的で且つ理論的であるかぎりにおいて,両者は合 致しているといえるのであるが,哲学が本質的に理論的であり,神学が本質的に実存的であるとい

う点では哲学と神学とは別の領域に属する学問なのである。しかし上述のように,神学の理想はこ の二つの型の完全な統合にあるのであって,神学部には両者を代表する学者が要求されるし,また 教会も哲学的神学なしにはその目的に答えることはできないし,同時に教会はケリュグマ的型の神 学の助力なしではすまされないといえるのである。

以上のような神学界における二つの型の神学の相違とのかかわりにおいて,われわれの実存論的

・存在論的人間学の立場は,ティリッヒ自身が身を置く「哲学的神学」の立場とその方法論におい て近接するものであり,またその思想圏においてもヘブライズムの思惟方法の系譜に入るわけであ るが,それにもかかわらず,われわれ自身の立場は神学そのものの領域に視点をおく人間学ではな くて,あくまで「哲学」の領域に視点をおく人間学の立場であることは断わっておかねばならない。

もっともここで誤解されてはならない点に一言ふれておけば,われわれが自己の方法論的立場を哲 学に限定するということが,その他の哲学の方法論や特殊科学の領域から行なわれる「人間学」へ のアプローチを否定するものではないということである。むしろ諸学の目差す「人間」への学がそ れそれの方法論とその対象領域の次元において独自のものであることは認めるのであるが,その独 自性が同時にそれぞれの限界であることも認めなければならないということであり,哲学の仕事は それらの状況を自覚化した上で,なおそれらの諸学の成果の根抵に総合的な方法論を求めて迫って ゆくという課題を担わされているということである。またわれわれにはそのような哲学の立場が実 存論的存在論であると考えられるということなのである。いずれにしても20世紀における「人間

とは何か」との問いに対する見解の不統一と,またその研究方法そのものの混乱という現状に直面 して,われわれは一つの新しい「総合的」な視点に立つ試論を提示したいということなのである。

皿. 「哲学的人間学」の方法論

1.現象学的方法論の吟味

上に述べてきたように,われわれはこの人間学の探究を「哲学的人間学」として提示すること

を断わってきたが,それは人間学の方法を,人間の歴史のある時点における神の啓示としての特定

の文献やその特定のドグマに奉仕するという神学的方法論でも,また実証や実験に基づく客観的対

象認識を求める自然科学や社会科学の方法論でもなく,哲学的方法論の立場に置くということであ

った。では哲学はその研究対象に如何なる方法でアプローチしようとするのか,また如何なるアプローチ

が可能なのかという問に答えねばならない。研究対象の性質はその方法論を規定するのであり,ま

た研究の方法によって記述され探究されるべき対象の性質の次元も異なるという関係にあるわけで

あって,方法論の探究そのものが同時に内容論であり本質論であるという性格を学問はもつのであ

(13)

るが,ここではこの問題に深入りすることをさけて,われわれがその哲学的人間学において自己の 立場とし,そこに身をおく「現象学的」方法論とはどのような性質のものであるかを明確にしておき

たい。

M.シェーラーはr道徳の形成におけるルサンティマン』(Das Ressentiment im Aufbau der Moralen,1915)の序文の中で,学問の方法論にふれ,彼自身の立場とした学の方法論としての

「現象学的方法」を,自然科学の影響のもとにある心理学の方法と区別してその特質を明確にして いるが,それはわれわれの現象学的立場を理解するうえで参考になるので以下に紹介しておきたい。

「内部知覚の事実としての所与を概念的に精査し,これを複合体として組み立て,さらに観察 あるいは観察と実験とによって,人為的に変化するこの複合の条件と結果とを探究するために,

それを究極的な〈単純な〉諸要素に分解することと,人間の生の全体的連関そのものの中に含ま れているが,決して人為的な〈構成〉や〈分解〉によって創られたものではない体験統一体と意 味統一体とを記述し了解していくこととは同じではない。前者の方法は一方法論的に自然科学に 影響された一分析的=構成的心理学,説明心理学の方法であり,後者の方法は総合的=記述的な 了解心理学の方法である18)」。

ここでシェーラー自身は後者の総合的=記述的な了解心理学の立場に立って,一般心理学と呼ば れる分析的=構成的心理学の立場を拒否しているわけであるが,この了解心理学の立場が彼の現象 学の方法における本質諦視の立場なのであって,それはディルタイのいう了解心理学の方法と同じ だということを示している。われわれの哲学的人間学の方法論もこのような現象学の方法論の立場 をとるものである。

けれどもシェーラーは上記の現象学的記述の立場に必ずしも常に忠実であったわけではない。と くに後期においては,ギリシャ的思惟の系譜に立つ精神と感性との二元論に基づく伝統的な形而上学 に傾斜し,理性主義的な対象認識における観念論に逆行した。シェーラーは前述のr宇宙における 人間の地位』において,人間に固有な能力としての「精神」(Geist)の超越的性格を,人間が動物と共 有する「技術的実践知」と区別して「理念化の働き」として説明しようとするとき,「苦痛」に対す

る人間の体験統一体と意味統一体の了解に関する記述を行っている。彼はそこで私の「精神」は特 定の「この痛み」という現象の現実的性格にとらわれ,その中に埋没するのではなく,またフッサ 一ルの考えとは異なって,単に痛みの事実に関する判断を排除し痛みをその本質に即して取り扱う だけではなく,むしろ現実印象の全体を除外し,「非現実化する」といういわば「禁欲的行為」を遂 行するのであって,こうしてはじめて人間は本質的に動物とは異なった高度の存在となると主張し

ている。

しかしこの点に関してはM.ブーバーの指摘するように19!生の事実における所与としての体験 統一体と意味統一体の現象学的了解は,「観覧席」で生の事実の演じる劇を一つの非現実的な典 型として観賞するといった認識なのではない。この了解は,精神が生の所与の事実の外に全面的に 出てそれと距離をとることによってそれを非現実化するのではなく,この生の現実の深みに身を投 じ,その中に住み込み,その事実に自らを開け渡し,その事実を徹底的に熟知し蓋すときに,はじ めて現実自体が自らを開示するというような性質のものなのである。精神の理念化の働きは,まず 精神自身が「舞踏の列に自ら加わらなくてはならない」のであり,それは恰も「原始時代の密儀」

のような素朴で直接的な第一次的な理念化であり,それは抽象的な第二次的理念化に先行している

(14)

のでなければならない。こうした手続きなしの生の現実の本質のldeationは単なる抽象になり終わ るほかはないのである。先に哲学的人間学の系譜には,人間の「実存的了解」が欠けていると指摘

したが,それはこのような晩年のシェーラーの哲学的人間学の構想における現象学的記述の不徹底 性に起因すると考えられる。

さて以上の如くであるとすれば,現実の生の具体的体験における体験の統一体と意味統一体の了 解には,人間存在の意識構造の奥行きの現象学的記述が必要であり,またこの「意識の自己開明」 かいめい

においては,自己が自己意識を意識し,さらに意識する自己を意識するという仕方で,無限に意識 を深めることができるわけであるから,ここでは意識のこのような重層的構造における意識深化の 明証性とその度合が問題となる。このようにして実はわれわれは哲学における対象アプローチの現 象学的方法の「学」としての性格の曖昧さ,いいかえれば,意識のどの段階からいわゆる「哲学」

になるのか,そもそも意識に段階を分けうるのかという困難な問題に出会うわけであり,われわれ はいわゆる「常識」と呼ばれる人間の自己理解と「哲学的」な人間の自己理解との間の境界線を何 処に引きうるかという難問をかかえているといわねばならないのである。

2. 「常識」と「哲学的認識」との境

哲学の学としての方法論に関してはB.パスカルの見解は大変興味深い。パスカルは長い間,抽象 的な学問の研究に時をすごすが,人間の研究をはじめるにおよんで,抽象的な学問が本来人間にふ さわしくないことを知り,人間の研究に専念するようになるが,彼はとくにこの人間の研究に関わる 精神を「繊細な心」(esprit de finesse)と呼んで,抽象的学問に関わる「幾何学的精神」(esprit

de g60m6trie)からこれを区別した2°)。彼によれば物理学,数学,幾何学などの原理は手でさわ われるように明らかで,実証や証明が可能な原理であるが,それらの原理は日常生活において如何に生 きるかには直接かかわりがないのに対し,人生の原理は日常生活において使用されているものであ り,この方の原理は極めて微妙で,研ぎすまされた澄んだ目を持たねば見えないのである。否,むしろ 殆と目には見えないのであり,見るというより感じ取らねばならないものである。ここでは澄んだ 感覚が要求されるのである。人生にかかわる原理に秩序がないわけではなく,また推論が必要でな いわけでもないが,それにも拘らずこの原理は推論するというより,「一目でとっさに見てとる」も のであり,それは誰にでもできるものではなく,少数者にのみ可能なのである。つまり彼によれば,

哲学的認識は日常生活の中で行なわれているものであり,すべての人の日常生活にかかわっている ものであるが,その原理の洞察はまた少数の澄んだ繊細な感覚にのみ獲得されるというわけである。

ここには日常生活における人生の原理に対する理解がどのようにして起こるかの構造とその性質 についてのいわば「現象学的」記述を見ることができるのであり,またそこでは「常識的了解」と 哲学的認識との間の関係がきわめて具体的に指摘されているとみることができる。

周知のように,カントにおいても類似の問題を指摘できる。カントは理論理性に関する学として

の「純粋理性批判」においては,人間の理性的認識の本質的構造とその限界の分析・批判を自然科

学の用いる実験的方法と類似した批判的超越的方法によって行い,新しい形而上学に道を開こうと

試みた21)。そこではまず感性よりはじまり,悟性を経て,理性に至って完結するという構造がとら

(15)

れた。これに対して実践理性に関する学としての「実践理性批判」を行なうに当っては,「理性の 事実」(Faktum)としての「常識」の中に含まれている道徳に関する理性的認識の分析を先行させ,

その著r道徳形而上学の基礎付け」においては「道徳に関する常識的な理性認識から哲学的理性認 識への移行」価ergang・・n d・・g・m・i・・n・ittli・h・n Vernunft・・k・nnt・is zu・phil…phisch,n)

という章から出発している22)。ここではまず,理性よりはじまり,悟性を経て感性に至って終結す るという構造をもっており,それは理論理性の場合とは逆の構造をとっている。カントにおいては 純粋理性といえども,その理論的な使用においては時間・空間における所与の直観から,いいかえ れば所与の対象の存在の事実から出発せねばならず,理念に関しては単なる統制的使用しか可能で なかった。しかし純粋理性は道徳的事柄に関する実践的使用においては,感性的なものに対して立 法的であり,また構成的であり得るのであって,純粋実践理性の根本法則は「純粋理性の唯一の事 実」(das einzige Faktum der reinen Vernunft)23)なのであると主張される。こうして彼の倫理 学の課題は,具体的にはこの「理性の事実」としての道徳法則を単なる経験的事実と区別する徴表 は何であるかに求められるのであり,彼によればそのような哲学者の業は「化学者の実験」に擬え ることができるとされる。

このようにみれば,カントにおいてもパスカルの場合と同様に,人間の在り方に関する研究にお いては純粋数学や純粋自然科学といった抽象的学問の原理にかかわるときとは異なって,日常生活 においてすでに使用されている常識的道徳意識の中に見いだされる道徳の原理にかかわるのであっ て,ここでもこのような原理とのかかわりにおいては「澄んだ感覚」と「繊細なこころ」が要求さ れることになるといえる。それは日常生活の中に働いている道徳意識の現象学的了解といえるもの であって,カントの用いた表現でいいかえれば,「道徳に関する常識的理性認識」の中に含まれて いる「純粋実践理性の事実」としての「道徳法則」の原則を抽出する試みといえるのである。この ようなカントの倫理学の方法は常識的な道徳意識の「現象学的記述」といえるものに近いといわね ばならない。もっともカントの場合,不純な経験的な規定根拠を含む道徳の事実の中から純粋な道 徳性の構造を抽出し,純粋実践理性の原則を発見する道すじが現象学派の主張するような道徳現象 の本質諦視とは同じではないし,またカントにとってはそのような直観は実践理性の神秘主義とし て排斥されているものであることは注意しておきたい。カントにおいては「べき」によって表わさ れる道徳法則が如何にして可能かは,われわれの理性には説明することはできないとされ,従って 倫理学の根本問題は理論的認識の外におかれるが,それにも拘らずカントが身を置く究極の立場は やはり直覚主義であるよりはあくまで主意主義的な理性の立場であったことは否定できない。しか し何れにしても上記に考察してきたように,道徳的原理に関しては本来,常識的理解と哲学的学と しての理解との間に本質的相違をおくことはむしろできないといえるわけであるが,なおそれにも 拘らず「哲学」とは,学として生の具体的体験における体験統一体とその意味統一体の了解を学問 的方法により,いいかえれば「繊細な澄んだ」感覚によって深く洞察したものを現象学的方法によ って記述しようとする試みであり,この澄んだ感覚による意識深化の無限の努力にこそ哲学の本質 とその自由な,何ものにも執われない性質が存するとみることができる。

さてわれわれの哲学的人間学の現象学的方法が上述の如き性質のものであるとすれば,われわれ

の対象アプローチの方法において,まず人間社会一般のいわゆる「常識」と呼ばれる意識が捉えて

きた「素朴な人間自身に対する自己理解」が取り上げられねばならないであろう。いわゆる常識は人間

(16)

の現実的生の体験統一体とその意味統一体に対する素朴で直接的な第一次的理念化を行なっている のであって,その理念化は,日常言語の中にその文化の志向する人間に関する価値観や理想像を何 らかの形で表現するという仕方で行なわれてきているのである。この意味で日常言語活動は「存在の ロゴス化」であると理解されうる。それはさまざまな存在者や事象,あるいは存在そのもののロゴス        ,   

サの働きであり,ギリシャ語の「真理」(αληθε α)という言葉が「隠蔽性を剥ぐ」という意味を もっているように,存在やさまざまの事象は「ロゴス」において自らを顕わすのであり,真理とは 理性的な言語において己れの隠蔽性を表に現わすことなのである。このようにみれば,われわれの

日常言語の中のわれわれ人間自身に関わる言葉は,人間の現実や,あるいは人間の理念のロゴス化 であるといえる。そのうえ和辻が述べる如く「ある問が言葉によって表現せられ,我々に共通の問 として論議せられ得るということが出発点においては唯一の確実なことである。我々は……言葉に

●   o

おいて表現せられたことの意味を問うている。……その言葉は我々が作り出したものでもなければ,

また倫理学(哲学)という学問の必要によって生じたものでもない。それは一般の言語と同じく歴 史的・社会的なる生の表現として既に我々の間に先だち客観的に存しているのである2秘。従って 上記のようにみてくれば,このような日常言語に現われた人間の自己理解をまず手掛りとして人間 に関する洞察を深めることが,われわれの哲学的人間学の現象学的方法の出発となるのは必然的な 成り行きであるといえるのである。

3.日常言語の分析の有効性とその限界

しかしここでわれわれの方法論の出発点におけるもう一つの問題点を断っておかなくてはならな い。われわれが日常言語に現われた人間理解の言語分析を行なうにあたって,今日の分析学派に属 する英米の倫理学者の主張,なかでも「日常言語の哲学」と呼ばれる立場にふれておきたい。「日 常言語の哲学」(philosophy of ordinary language)というのは,第2次世界大戦以来オックス

フォードの学者を中心として盛んになった分析学派の哲学的運動であり,オックスフォード学派と も,また「非形式主義」(informalism)ともよばれる。科学的な言語において数学を標準として 考えられた論理をあつかうのが形式論理学であるとすれば,日常言語の多様な使用における法則を 扱うものは「非形式的論理学」ということになる。矢島羊吉によれば,「この考えかたは,いわば科学 的数学的言語の独裁を否定して,日常言語において重要な位置を占める価値的な言語に独自の法則 を考えることを可能にする点で重要な意味をもつ25)」。それは「倫理学のうちからできるだけ哲学 的な〈たわごと〉を取除きながら,倫理的な言語の日常の使用を分析して,固有の法則を見いだそ うとする」のであり,このように倫理の本質をその日常の現われにおいて捉えようとする方法は,

倫理が日常生活と離れてあるわけでないのであるから,それ自身として有意義なのである。しかし この方法に必然的に伴なう重大な限界の一っは, 「ある価値体系と他の価値体系との優劣の問題,

すなわちその体系の前提となる道徳的原理の妥当性の問題については論証が不可能なのである」と

いうことである。つまり倫理の究極的倫理的原理の決定の問題が歴史の変動や,文化の相違の中で

どう捉えられるかには日常言語の哲学の立場は答え得ないといわねばならない。けれどもわれわれ

は以上のような限界を意識したうえで,なお一つの有効性をもつ日常言語に現われた人間の自己理

(17)

解を日本の文化の中に現われた日常言語に尋ねることから始めたいのである。(以下,その丑)

〔注〕

1)Max Scheler,。Mensch und Geschichte ,in:P観osopん齢cんe恥 εαπ8cんαμ槻g,(LehnenVerlag,

1954)S.62.Vgl.,Scheler,。Zur Idee des Menschen ,in:Vomひm8 μr2 dθr既rεe, G. W.,Bd.皿.

(Francke▽erlag,1955)S.173.

2)Schele為D e 86θ伽π8 de8漉η8cんeη mκ08mos.(Nymphenburger Verlagshandlung,1947)S.9.

3)Aristoteles, Po伽 cα,1,§4〜5.(『アリストテレス全集15』山本,村川訳,岩波書店,1969.10〜

15頁,参照).VglりM.1ぐFinley(ed.by),8Zαoerッ πCZαssεcαZ.4漉 σμ 妙,(W.Heffer&Sons,Ltd.

1960).なお拙稿「人格概念の一考察(その一)」(茨城大学教育学部紀要,第27号1978)6頁,参照.

4)Max Weber, Dαsαπ醜e J己dθη施m,−Gesammelte Aufs互tze zur Religionssoziologie,皿.(J.C.B.

Mohr,1921).拙稿「前掲論文」7〜8頁参照.

5)拙稿「存在の根抵としてのアガペー」二『愛』(日本倫理学会論集16,1981)153頁以下,参照.

       

U) B.Pascal, Pθπsθeε8ωrεαrθZ 8εoπ, B.693.

7)Roger L Shinn,1晩η一7先εハ他ω飽mαη sm,(The Westminster Press,1967)皿,(R. L.シン『人 間一新しいヒューマニズム』佐伯晴郎訳,新教出版社,1969,第2部,参照.)

8)Erich Rothacker, P観080Pん scんe湾碗んropoZo8ごθ,(Bouvier Verlag Herbert Grundmann,1964)

S.34ff.

9)本多勝一『ニューギニア高地人』(講談社文庫,昭和46年)144頁以下,参照.

10)Ruth Benedict, Pα伽ms q/C㍑伽re,1934.(New American library,1951).

11)A・n・ld G・hl・n・・Z・・Geschi・ht・der A・th・・P・1・gi・1 i・・甜ん・・P・Z・8 ・cん・F…cん・F。.8cんωπ8

(Rowohlt,1961)S.11.

12)E・n・tC…irer,命疎・αツ・η蜘π一乃ηεη ・・dω伽ηε・αP観…吻・ゾ勧mαη。繭ω.。,

(Doubleday,1953)p.40.

13)M.Scheler, D θ翫θZZ槻9, S.11〜12.(『シェーラー著作集13』亀井,山本訳,白水社,1977,15〜16 頁,参照).

14)A.Gehlen, Zωr Ge8cん. d..4説ん., E. Rothacker, Pん Zo. Aπ ん.,参照.

15) 「存在論」の考察については,とくにPaul Tillich,,,Biblisehe Religion und Frage nach dem Sein , in:DεθFrα8eηαcん(∫εm研Lわαメ ηg επ, G. W.,Bd.V.(Evangelisches Verlagswerk,1964).

16)Tillich,。Philosophie und Theologie ,in:D ε1かα8eηαcんdemσπ6edごη8孟θπ, G. W.,Bd. V.

(『ティリッヒ著作集第4巻』野呂芳男訳,白水社,1979,155〜170頁,参照).

17)菅園吉『転換期の基督鯛(畝傍書房,昭和16年)の中のとくに,第7章「神学と哲学の境」260頁以下,

参照.

18)M.Scheler,。Das Ressentiment im Aufbau der Moralen ,in:Vomσmsεωr2 dθr W例e, G.W.,

Bd』.(Francke Verlag,1955)S.35.(シェーラー『ルサンティマンー愛憎の現象学と文化病理学一」

津田淳訳,北望社,1972,序言D.

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