「必要最小限」の判断基準について : 鶴田試論へのコメント
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(2) ときは、 当の学習者の 承諾を得ること」の 2 点につきる。 鶴田氏によれば、 拙 論「日本語教育におけるニーズ・アナリシスとカリキュラム・デザイン」にお ける学習者 5 名の「年齢・ 性別・国籍・ 受入れ大学」の 記述は、 「必要最小限 をこえており」、 学習者を特定させ、 学習者に不利益をもたらす 可能性があ る、 とのことであ る。 ポイントは 、 誰がどのようにして、 どこまでが「必要最小限」であ. るかを 判. 枕 するか、 という点だろう。 筆者は、 この点について、 以下のように 考える。 まず第一に 、 当の報告では、 学習者の実名はのせていないし、. 実践報告をの. せることに対しては、 学習者全員の 了承をとっている、 という点を確認してお きたい。 鶴田氏の言 然のことながら、. う. 第 2 の「最低基準」は 満たしているのであ る。 また、 当. 「ニーズ・アナリシス」に 際して、 学習者にとって 知られて. 「不利」になると 思われる情報は 記さないように 心がけた。 プレースメント テストの成績を. 記述することについては、 学習者からは、 「プレースメント・ った。. テストの結果は 単なる点数にすぎません」というコメントもあ. 第二に 、 当の実践報告の 対象クラスが 既習者クラスであ るという点であ る。. 「日本語予備教育. ( 国費留学生への. 半年間の日本語集中教育. ). 」のクラスを 受. 講する留学生の 大部分は日本語の 未智者であ り、 未智 者を対象とするクラスで は 同一教材を使用し、 同一のクラス 活動を行. 既習者の場合は 、 個々の学習者によって、 め 、 ニーズ・アナリシスを 的確に行った る必要があ る。. う. のが比較的容易であ る。 しかし、. 日本語を学んだ 環境が全く異なるた ぅ. えで、 カリキュラム・デザインをす. 既習者クラスでは、 受講者が言語面. 昔等 ) での能力、 非言語面での 知識. ( 場面に応じた. (. 日本語の文型、 語彙、 発. 日本社会に関する 文化知識. など ) をどの程度有しているかを 知ることが、 その後の授業を 設定する際に 不 可 欠なのであ る。. したがって、 既習者クラスを 運営するためには、 未 智者クラスの 場合以上に ニーズ・ アナリシスをくわしく 行. う. 必要があ る。 拙論の叙述は、 そうした詳細. な データの中で、 今後のコース 運営に際して 参考になると 思われる要点を 述べ. たものであ り、 実際に授業を 担当した当事者として、 一. 79. 一. 「必要最小限」と 判断し.
(3) た情報であ る。 鶴田氏は「年齢,性別・国籍」の記述は、 ニーズ・アナ においては不要だと 言 あ. う. リ. シス. 。 しかし、 これらの情報が 日本語教育において 重要で. ることは、 日本語教育関係者なら 当然の知識であ ろう。 例えば、 外国語学習. 歴との関連や 目標言語、 母語の干渉といった 面をはじめとして、 日本語教育の さまざまな局面にこれらの 要素がかかわってくるからであ 第三に、 当時の留学生センターがおかれていた. る。. 状況からも、 この程度のくわ. しさのニーズ・アナリシスの 紹介が「最小限必要」だった、. と思っている。. こ. の 論文の執筆当時の 1994 年は、 最初の留学生センターが 設立されてからまだ 4 年、 全国の留学生セシ. タ. 一の数も. 1. 5 大学. (現在は. 2 3 大学 ) だった。 予備 教. 育 のあ り方、 特に既習者の 教育体制については 模索の時期だった ろいろな困難をかかえているが. ). ( 現在でもい. のであ る。 全国の留学生センター 教員が集う. 機会のあ る会議においても、 よく既習者への 対応についての 情報交換が行われ ていた記憶があ る。 そして実際に 、 当の報告に対して、 何人かの日本語教育 関. 侠 者から「大いに 参考になった」という 肯定的な評価もいただけた。 上記の報告執筆の 際には、 そうした状況の 中で、 本 センタ一の今後のコース 運営にとってだけでなく、. 他のセンタ一の 既習者教育にとっても「叩き. して参考になればとの 思いが強かった。. 第 2. 台」. と. 号で拙論に続いて 実践報告をされ. ている 2 人の講師と 0 チームワークのもとに、 学習者と共に 作り上げていった. クラスは、 われわれが目指す 達成目標に近づいていたと 思う。 内容に関しては、 拙稿をご参照いただけれ ばと 思. う. 。. 第四として、 この報告によって、 はたして誰かが 学習者を特定し、 その学習 者の日本語能力についての 情報を悪用して、 学習者のプライバシー 権 をおかす 可能性があ るのか、 という点についての 判断も必要だろう。 本紀要は 、 主に日. 本語教育関係者を 対象に頒布されている。 執筆者は、 そうした読者を 念頭にお いて、 日本語教育の 実践や理論的側面への 貢献をめざしている。 拙論の記述 か ら 学習者を特定できるような. 立場にいる人はきわめて 限定されているし、 それ. らの人が推理をめぐらせば、 多少のほかしをいれても 特定することは 可能だ る そうした立場の 人はここで提供されている 一. 80. 一. 情報を悪用しない、 という信頼.
(4) のもとに記述せざるを 得ない。 鶴田試論は、. あ. らゆる情報源から、 すきあ らば. 個人情報を収拾して、 当の個人を苦しめてやろうとするような、. 「悪意の第姉. 者 」を過剰に想定した 上で、 学習者のプライバシー 権 を守る「オムブズマン」 として論じているよさに 思、えるのであ る。. 以上 4 つの論点から、 授業を実践した「当事者」として、 い. う. 「. 必、 要最小限」と. 基準について 考えてみた。 問題は、 筆者たちの実践報告の 土台ないしは 背. 景をなすこうした 事柄に全く関与していない 鶴田氏が 、 ご 自身の主観的な 判断 で 「必要最小限」を 裁断している 点であ る。 「学生との信頼関係」を 重視する. 鶴田氏が、. 実践報告の対象であ るクラスにおける 筆者たち教員と「学生との 信. 頼 関係」について、 推測や過剰な 想定のもとに 苦言を呈されるのは、 どんなも め だ るぅか 。 こうした問題における「当事者性」の. 重要さを強く 考えさせられ. ざるを得ない。. 鶴田氏がとりあ げているもう 一つの拙論における 成績の公表については、 鶴 田 氏自身が「個人を 特定する記述はない」と 認めている。 鶴田試論によれば、 「プライバシー 」とは「識別され 得る個人に関する 情報」とのことだから、 「個人が特定できない」成績表を「個人情報」とみなすのは. 者としては、 この成績表によって、. 矛盾している。 筆. 週 1 クラスで半年だけという 世界銀行から. 奨学金を得ている 修士課程コースの 日本語力 め 達成度を大まかに 示したに過ぎ. ない。. 「成績表の公開」が「個人情報を 最小限に」という 原則に抵触する 例と. しては、 かなり恐竜的な 選択と言えよ. 最後に、 日本語教育におけるプライバシー 権 に関する理論的考察のための 先 例としては、 鶴田試論が参照しているアメリカの. 学校教育における 成績の公開. 基準と、 サイコロジストの 倫理綱領は、 どちらも「強すぎる」基準と 思われる。 日本語教育の 実践報告における「成績」は. 績 」ほどの重みをもたないことが. 、 概して、 一般の学校における「 成. 多いし、 まして「プライバシー」はサイコ 一. 81. 一. ロ.
(5) ジストがかかわるクライアントのプライバシ. 一の重大さとは 比較にならないだ. ろう。 この種の問題にとっての 先行的議論としては、 1991 年から 1992 年にかけ て 日本民族学会で 展開された「倫理綱領」をめぐる. 研究. コ. 第 56巻. 4号. 議論が興味深い。. 下民族学. (1992年 ) に、 民族学会員のこの 問題に対するアンケート 回. 答 が紹介されている。 そこには、 「調査被害」という 形のプライバシー 問題と たえず葛藤しつつ 調査を続けているフィールド・ワーカーたちのホンネの. この種の問題が 決して明快に 一律的・. がさまざまな 観点からつづられており、 普遍的な「綱領」によっては. 思い. 裁断し得ないことが 活写されている。 それらの記. 述からも、 「当事者性」の 原則の重みを 感じるのであ る。. 一. 82. 一.
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