山田佳子
A Study of Ch'oe Jong‑hui's Novels in the Late Colonial Period
Yamada Yoshiko
1 はじめに
1930年に保母として日本へ渡った崔貞煕は、
帰国後の1931年に三千里社に入社するとともに 小説を書きはじめた。当時は雑誌記者が小説を 書くことは珍しくなく、とりわけ女性記者に対 して依頼が多かったという1。記事を書く一方 で、創作の修行を行うというわけだが、崔貞煕 も自らが処女作と定める1937年の「凶家」2以 前に十篇あまりの習作を書いている。そして
「凶家」のあと、「穀象」などの短篇を経て、
1939年から1941年にかけて「地脈」、「人脈」、
「天脈」のいわゆる「三脈」が執筆される3。
この三作品は、当時、新女性と呼ばれ、朝鮮の 伝統的な習慣とは相容れない考え方をもった女 性の、恋愛と結婚、離婚、それに私生児の問題 が扱われており、崔貞煕の解放前の代表作とさ れるものである。
崔貞煕の初期の作品では「運命」という言葉が 一つのキーワードとなっている。このことは従 来から多くの論者によって指摘されてきた4。
特に「地脈」と「人脈」では、男性関係をめぐ る女性主人公の不幸が運命ととらえられ、「こ の世で最も不幸な運命の所有者」、「あらゆる小 説に書き表された悲しい運命を持った女主人 公」、「二人の前に横たわった運命」5、などの 表現とともに、作品は悲しい運命を負った悲劇 の主人公の物語としてでき上がっている。
しかし筆者の分析によれば、三脈の中でいち
ばん最後に書かれた「天脈」については少し違 う解釈ができる6。妻子ある男性との結婚、出 産、男性の死亡、再婚、離婚と、苦難の道を歩 んだ主人公が必ずしも悲劇の主人公として描か れているようには読めないのである。また、
「運命」という言葉が女性の悲劇を強調するも のとして用いられてもいない。「天脈」の主人 公は離婚後、恩師が園長を勤める孤児院に自ら の子どもとともに入り、そこで働くようになる のだが、しだいに恩師を異性として意識するよ うになる。しかし恩師は、全ての子どもたちの 父親となるべく個人的な感情を押し殺す姿を見 せるのみであり、そこから主人公が何かを感じ 取っている場面で作品は終わっている。ここで はむしろ恩師の苦悩のほうが強調されているの である。
作家は「三千里j1940月12月号に「香隣園を 訪ねて」という記事を書いている7。これは孤 児院の訪問記である。すなわち、「天脈」はこ の訪問をもとに書かれたものと思われる。訪問 記の中には、園での生活を通して子どもたちが 精神的に成長していく様子とともに、妻の理解 を得られない園主の、妻にも孤児たちを自分の 子どもと同じように愛せるようになってほしい と願う気持ちが描かれている。「天脈」の主人 公も、他の子どもたちより自分の息子の方へ愛 情が傾いていることに悩み、それを恩師に相談
している。
ここで敢えて作家自身の事情を持ち出すなら
国際教養学科
ば、崔貞熈には『三千里』の編集人であり、内 縁の夫であった巴人・金束換との出会いの前 に、愛情なく結ばれた劇作家、金幽影がおり、
息子が一人いた。この息子の養育をめぐっての 婚家との葛藤は「静寂記」8に描かれているが、
金幽影は1939年に死亡する。そして息子はいっ たん作家のもとで育てられたが、結局、金幽影 の妹に引き取られる9。この頃、作家は巴人と 生活をともにするようになったものと思われ る。息子との離別が描かれた「静寂記」は1941 年5月に作家自身によって日本語に香き換えら れて発表された10。「天脈」の連載が終わった 翌月のことである。作品が必ずしも作家自身の 事情を反映しているとは言えないが、この時期 の作家の胸に、息子との離別の悲しみが大きく のしかかっていたことは想像に難くない。
このような作家自身の事情を考慮するなら ば、「天脈」は孤児院の訪問から素材を得、そ れを自身の当時の事情に重ね合わせながら書か れた作品と言える。「天脈」の主人公の歩んだ 道のりは、作家自身のものと全く同じではない にしろ、当時の新女性たちが抱えていた苦悩を 代弁している。すなわち早婚制や、離婚、再婚、
それに私生児をめぐって引き起こされた問題 は、当時としては当事者である女性自身が自ら の責任として引き受ける以外に方法のないもの であった。つまり巴人との新たな生活の始まり という、人生の転機にあった作家は、自らを不 幸な運命を背負った悲劇の主人公と考えるのを やめ、息子との別れを自らの負うべき貴任とし て受け入れて、再出発しようとしていたことが 作品からうかがえるのである。
ところで「天脈」が執筆されたのは1941年で ある。この間の朝鮮は日本の植民地政策が強化 され、日本語の使用が強制されていく過程にあ った。「天脈」は解放前に朝鮮語で執筆された 最後の本格的な小説であり、内容も時局とは関 係がない。しかし崔貞煕はこれ以後、1945年の 解放までに、日本語によるものや、時局に呼応 した内容の小説を残している。一般に親日文学 と呼ばれるそうした作品は、その作家の研究対 象から除外され、特別な時期の特別な作品とし て扱われることが多い。しかし本稿では敢えて、
植民地末期の戦時色強まるなかで執筆された、
それらの作品を検討することにした。というの は、同一の作家の作品として、「天脈」におい て見出された変化の兆しを裏付けるものがそれ
らの作品の中に存在することが予想され、その 成立過程を探ることが必要であると思われるか
らである。
五 時局を描いた3篇の小説
1936年8月、朝鮮総督に就任した南次郎は
「内鮮一体」を提唱したことで知られる。「内鮮 一体」とは南自身の定義によれば「半島人ヲシ テ忠良ナル皇国臣民タラシムル」11というもの で、文字どおり朝鮮人を日本の戦時体制に組み 込むことが目的であった。そして1937年7月の 日中戦争開始とともにこれは朝鮮統治の最大の 課題となっていった。
文芸面に目を向ければ、「地脈」、「人脈」が 発表された文芸誌「文章』は1941年4月に廃刊 となった。同時に、やはり文学雑誌として名高 い「人文評論』も廃刊となり、その編集人であ った崔載瑞による『国民文学』が同年11月、代 わって創刊された。「国民」とは言うまでもな く、大日本帝国の国民を指す。これもまた文芸 における「内鮮一体」を目的とする措置であっ た。また総合雑誌「三千里1は「大東亜』と名 前を変え、朝鮮語と日本語が混在した。教育に おいては、1938年3月の「第三次朝鮮教育令改 正」によって、すでに日本語が国語とされ、朝 鮮語は随意科目となっていた。日本語解読者は 1935年に7.81%であったものが、1941年には 16.61%に増加している12。因みに新聞は「朝鮮
日報』と『東亜日報』が1940年8月に廃刊とな り、朝鮮語の新聞は総督府の御用新聞である
『毎日新報』があるのみであった。
『国民文学』は当初、年4回の日本語版と年 8回の朝鮮語版の発行を計画していたが、1942 年5・6月合併号より早くも「国語雑誌」へと 転換した13。結局のところ、完全な朝鮮語版は 一度も発行されていない。1942年1月号には次 号予告として<「国民文学』二月号(諺文版)>14
と載っているが、完全な朝鮮語版ではなかった。
これは同3月号でも同様であり、何より編集人
である崔載瑞自身の手によると見られる文章は
編輯後記を含めてすべて日本語である。「国民 文学』が完全なる日本語の雑誌となった時期に 重なる1942年5月というのは、朝鮮における徴 兵制度が閣議決定され、それに伴って「国語普 及運動要項」が出され、学校教育の国語化では 足りない、「生活語としての国語」の習得が要 請された時期であった15。
文学史の上では暗黒期という呼称16が用いら れるこの時期は、使用言語が朝鮮語であれ、日 本語であれ、その内容が戦時体制の日本に与す る、いわゆる親日文学が生産された。ただし日 本語で書くことが強要される体制のもとでは、
作品の内容にかかわらず、朝鮮の作家にとって は日本語を使用すること自体も親日行為となり 得たため、親日文学ということばの定義が単純 でないことも事実である。
内容の如何によらず朝鮮人作家による日本語 小説の数を見てみると、1939年から増加の傾向 を見せ、1941年から1942年にかけて急増してい る。これは1939年に日本語の発表媒体が相次い で誕生したこと、また1941年12月8日の太平洋 戦争開戦と、それに先立つ「国民文学』の創刊 に関連づけられる17。全体数ではこの1939年か ら1945年までの間に312篇にのぼる日本語小説 が朝鮮人作家によって書かれている18。
崔貞煕は1939年から1942年にかけて日本語に よるものと、時局的な内容の小説を併せて3篇 発表している19。3篇とも「内鮮一体」が掲げ られた作品である。ここではこの3篇の作品の 分析を通し、作品に込められた作家の意図を探
ることにする。
1)「幻の兵士」
日本語小説「幻の兵士」には朝鮮人少女と日 本人兵士との交流が描かれている20。朝鮮人少 女、英順が登山の途中で一人の日本人兵士から 声をかけられたことに始まる4人の兵士との交 流の中で、英順は兵士たちに「アリラン」の歌 や、ハングルを教える。「アリラン」を教える 英順には「戦場へ何時出されるかわからない彼 等のため一時間でもい・、彼等を楽しませ、慰 めるのになんでためらふことがあろう」という 思いがあり、ハングルを教わる兵士は「これを みんな覚えると、英順さんともっと仲よくなれ
さうな気がするんです」と語る。
こうした交流の様子はまさに「内鮮一体」を 具現している。ただし奇妙に思われる点もある。
それは「内鮮一体」が、決して日本人と朝鮮人 との平等を説くものではなかったにもかかわら ず、まして朝鮮人の民族意識の強さを警戒して、
その文化や文字を抹殺しようという時期にあっ て、朝鮮人少女が日本人兵士に「アリラン」の 歌やハングルを教えることである。しかもハン グルを教わった兵士には「面白いですね、これ らの字の形は朝鮮の家屋の構造によく似てゐる ぢゃありませんか」とまで語らせているd ただしこれも「支那家屋も朝鮮の家屋と同じ 構造になってゐるのを見ると日本と朝鮮と支那 とは神代からのつながりがあるのだと僕は信じ てゐます」という兵士の言葉により、「新東亜 建設」が念頭に置かれていることがわかる。し かしそれにしても、時代的制約の中で、作家が 朝鮮の文化を堂々と扱っていることは注目に値 すると言える。
2)「薔薇の家」
「国民文学』1942年3月号で、崔載瑞は愛国 班を扱った作品の登場を「新しい文学の小さな 芽生え」として歓迎し、「云ふまでもなく愛国 班は新しい国民運動の単位であって……この愛 国班生活を材料にして、愛国班精神を美化する が如き文学は国民文学の最も重要なる一項目と して追求されるべきである」21、と語っている。
崔貞煕の「薔薇の家」は愛国班精神を賛美す る内容の、朝鮮語による小説である22。この作 品の冒頭部では、背景に「大東亜戦争」が用い られているものの、戦時色はなく、家事を好み、
節約を心がけるまめまめしい妻と、妻に楽をさ せたいという気持ちから、あくせく働くことを
「奴隷根性」として蔑む夫との、睦まじい言い 争いが展開されている。「大東亜戦争」という 言葉さえ用いられていなければ、単に夫婦の価 値観の違いが読み取れるにすぎない。
中間部に入ると、愛国班長になることを望む
妻に対し、それを夫がたしなめるという場面が
現れ、国防献金、国債、貯金の奨励、防空演習
の必要性といった、時局を感じさせる言葉が並
ぶ。そして後半部ではまた、新たな展開を見せ
る。この夫婦の近所に住む夫の友人が訪ねてく ると、妻に対して、自分の妻が時局に無関心で 賛沢な生活を送っている、それは周囲にいる女 たちの影響でもある、だから愛国班長としてこ の町の女たちに感化を与えてほしい、と望むの である。ここに至って愛国班長の役割が理解さ れ、妻が愛国班長になることを夫が許し、夫婦 は和解する。
「薔薇の家」で強調されているのは、節約生 活は奴隷根性ではないことと、愛国班の役割の 重要性である。また愛国班長の役割として、
「貯金をするように言えば、国にとられてしま うことになりはしないか、あとで下ろせるのか と聞いてくる者、ゴム靴の配給票をくれなかっ たら防空演習に出ないと言い張る者」に対して 貯金や防空演習の必要性を説き、時局の深刻さ を認識していない「有閑マダム」たちを「正し い道」へ導くことが期待されている。この作品 では、後方部隊における「内鮮一体」の強化の 必要性が叫ばれているのである。
3)「野菊抄」
「野菊抄」は日本語小説である23。語り手
「わたし」は妻子ある男性と結ばれて息子を授 かるが、結局はその男性に捨てられた、という 過去を持つ。しかし「わたし」は女として母と して強く生きることを決心し、息子を「敗北し ないで世の凡ゆるものに勝って呉れることを」
願って「勝一」と名づける。ある日、「わたし」
は勝一を連れて志願兵訓練所を見学に行く。そ こで「わたし」は訓練生らの規律正しい生活に 感心し、訓練所での生活を「立派な人生勉強」
と表現する。また、教官からは母が息子へ与え る感化の重要性を説かれる。勝一はすっかり兵 隊に憧れる。そして以前、息子から「おかあさ ん僕戦争へ征って死んだらおかあさん、泣きま すか」と問われたときには返事ができなかった
「わたし」が、「おかあさん、もう泣かないわよ」、
と言えるようになるというのがこの作品の筋で
ある。
ところで作家は1940年10月12日に「朝鮮文士 部隊」として総勢38名で京畿道楊州の志願兵訓 練所を訪問している。朝鮮に志願兵制が公布さ れたのは1938年2月のことであり、楊州と平壌
の2箇所に訓練所が設置されていた。教官の名 前を見ても、楊州志願兵訓練所所長の名前が海 田であるのに対し、「野菊抄」では原田教官と 名づけられており、また訓練所の様子もかなり 詳しく描写されていることから、「野菊抄」が 実際の訓練所を素材としていることは間違いの ないことである。この訪問については「文士部 隊と志願兵」という題目で各文人の所感が掲載 され、崔貞煕は「〈真実〉をもって勝て」とい う文章を寄せている24。
以上の3篇の作品は、内鮮協力、愛国班、志 願兵などが扱われており、時局に呼応した内容
となっている。それではこれらの作品には作家 のどのような意図が込められているのであろう か。植民地末期のこの時期に書かれた作品の大 部分は、題材や舞台に「時局的」なものを採用 し、そこに自己が訴えようとするものを繰り込 むという方法25を用いている、というのが一般 的な見解である。
これにしがたってみると、明らかに見えてく るものがある。すなわち崔貞煕がこの時期に訴 えようとしていたものとは、「天脈」において 確認されたように、新女性としての生き方によ って生じた不幸を涙に訴えるのではなく、自ら の責任として引き受け、新たな生活を前にして 息子との別れをも受け入れなければならないと いうことであった。このことを念頭に置きなが ら再び以上の3篇の作品を見れば、愛国班長に なって、戦時体制を理解しない利己的な女たち に道を改めさせようとする「薔薇の家」の主人 公の行動の本質が理解でき、強い母となって息 子を戦地へ送り出すことを決心する「野菊抄」
の「わたし」の心情の本質や、「わたし」が、
規律正しい行動の求められる訓練所の生活を
「人生勉強」と受け止める理由も理解できるの である。また、「幻の兵士」に見られる朝鮮文 化の強調については、「内鮮一体」を真の「内 鮮平等」と受け止めた表現であるという意味で、
改めて注目に値することとして確認しておきた いo
このように、崔貞煕が植民地末期に執筆した 小説は表面的には「内鮮一体」を掲げながら、
作家の意図は必ずしも時局そのものを描くこと
ではなかったと見ることが可能である。ただし 表面上の主題が戦争協力であり、前述したよう に朝鮮の作家にとって日本語で書くという行為 そのものが親日行為であったということから判 断すれば、以上の3篇の小説を時局的でないと 見ることはおそらく不可能である。実際に、崔 貞煕の作品は「狂的な戦争賛美の傾向を帯びて いる」とまで評されている26。
皿 小説以外の文章について
崔貞煕は小説のほかにも、植民地末期には時 局に呼応した内容の文章を多数残している。ま た、作家は1939年10月に結成された、文学者の 御用団体である朝鮮文人協会の幹事を務め、同 協会の主催による「文芸の夕べ」においては 1939年12月5日にソウル、1940年2月11日に平 壌で自作の随筆の朗読を行っている27。
前述したように「内鮮一体」とは、日中戦争 が進展するなかで朝鮮人を「皇国臣民」に作り 上げようという、南総督が掲げたスローガンで あった。その先には1938年2月の朝鮮人陸軍特 別志願令の公布があり、さらに1942年5月の徴 兵制閣議決定と1944年4月からの徴兵検査実施 があった。ただし、これらは直線的に見据えら れていたものではなかった。
先ず、徴兵制の前提である志願兵制度の制定 過程においては、朝鮮における徴兵制の施行は、
朝鮮人の「皇民化の度合」からみて「数十年後」
と予測されていた。それは強靭な民族意識を待 つ朝鮮人を国家権力の暴力装置の中に組み入 れ、銃を持たせることに、総督府も朝鮮軍も不 安と恐怖を感じないではいられなかったからで ある28。すなわち志願兵制度は徴兵制度の前提 として設けられたのではなく、安心して徴兵を 行えるよう、朝鮮民族の完全なる「皇国臣民化」
に、その主たる目的が置かれたのである29。し たがって求められていたのは、将来にわたって
「皇国臣民化」をすすめる役割を担う青年だっ たのだが、実際に集まったのは、経済的な「優 遇策」に引かれた地方の農家出身の低学歴層が 大多数であった30。「内鮮一体」は決して順調 に進んでいったわけではなかったのである。こ のような状況のもとで、「内鮮一体」を旗印に
した多くの文章が書かれていった。
崔貞煕には志願兵や、その予備軍としての少 年を扱った文章がいくつかある。先に挙げた志 願兵訓練所の訪問記をはじめとして、徴兵制度 が決定された1942年5月には、その月から完全 なる国語雑誌に転換した「国民文学』が組んだ
「名士・徴兵の感激を語る」という記事の中に、
「子をつれて」という短文を載せている。これ は作家自身が徴兵制についてのインタビューを 受けている様子を自ら小説風に綴ったものであ る。ここで作家は「小供を、もつと大事にしな ければならない。いい意味でもつときびしく育 ててゆくべきだ、と思ひました。父のない児は、
どうしても甘やかされ勝ちですからね。この児 が大きくなつて、他人に負けるやうな軍人にな つたらどうしやうかと、まるで、田舎のをばさ んみたいに気が気ぢやありませんわ」と語って
いる31。
また、これと同じ1942年5月の「大東亜』に は、「君國の母」と題する講演の内容が朝鮮語 で載っているが32、これは1941年12月27日に朝 鮮臨戦報国団33決戦婦人大会で「軍国の母」と いう演題で講演を行った記録があることから、
このときのものではないかと思われる。或いは、
1942年5月25日に「軍国の新しい母になる感激 と抱負」という題目の同婦人隊主催の座談会に 出席しており、これと関連があるかもしれない 34。講演会や座談会は新聞やラジオなどのマス コミとは無縁であった一般庶民に対する宣伝の ために盛んに行われていたようであるSS。
「君國の母」で語られている内容は、虫も殺 せない弱い自分が国民学校3年の息子に諭さ れ、息子が戦争に行って死んでも泣かず、「お
まえが戦争に行って死んだら踊りを踊る」とま で言えるようになった、だから「すべてを忘れ て貴い息子たちの意志を支える母になろう」、
というものである。
愛国班を扱った文章としては「初秋の手紙」
があり、作家が臨戦報国団の一員として債権を 売りに出た日のことが書かれている36。また、
随筆「二つのお話」にも、「先輩の方から何々
の婦人会を組織するのだが、誰々さんと一緒に
主勤になっては貰へまいかとのお話でした」と
いう下りがあり37、これも愛国班活動のことで
はないかと見られる。
さらに日本語による小品「二月十五日の夜」
がある38。これは愛国班長になった妻と、それ に不満を示す夫とのやりとりからなっている。
妻は、銃後の国民は兵士とともに戦場にいる気 持ちで緊張した日々を送るべきだ、一個人のこ とを考えず、常に国のためを思って苦難に打ち 克たなければならない、と主張し、女は家庭を 守るのが本職だ、という考えをもつ夫と言い争 う。しかし二人の言い合いはシンガポール陥落 を告げるラジオニュースとともに一気に収束 し、妻が愛国班長になることを夫が許すという 内容である。
以上に挙げた文章はすべて当局の新聞や雑誌 に掲載された記事や短文であり、作家自らの戦 時活動を綴ったものもあり、明らかに時局に呼 応して書かれている。崔貞煕が親日的な活動を するようになった理由について、しばしば取り 沙汰されるのは内縁の夫である巴人・金束換の 影響である。巴人は雑誌の発行を続けるため、
「三千里』を「大東亜』と改名し、親日的な作 品を載せるようになっていた。また、恩師であ った朴煕道の影響も考えられる。3・1独立宣 言書署名者の一人であった朴煕道だが、1939年 1月に「内鮮一体の実践強化を目標とする月刊」
「東洋之光』をいち早く創刊した39。崔貞煕は、
この朴煕道が校長を務める中央保育学校に入学 し、卒業後も朴煕道の勧めによって日本へ留学 している。そして帰国後、巴人の三千里社への 就職を斡旋したのも朴煕道である40。これに加 え、止むに止まれぬ事情から、当局の要請を拒 否できずに執筆や講演活動を行ったという可能 性も考えられる。
1V 3篇の小説の成立過程について
これまで見たように崔貞煕は植民地末期に3 篇の小説のほか、時局的な内容の文章を多数書 いている。このうち、記事や短文は当局の要請 によって書かされたということが十分に考えら れる。記事には「朝鮮文人協会幹事」などの肩 書きとともに署名されているものも見受けられ るのである。しかし小説の場合はそうではない。
小説家個人としての、香かない、という選択も
あり得たはずである。それではなぜ書いたので あろうか。これは三通りの角度から見ることが できる。
先ず一つめは、すでに見たように、3篇の小 説には表面的な主題とは別に、当時の作家の心 情が表現されているという点に注目した場合で ある。すなわち作家は親日という意識なく、そ れを素材として用いたにすぎないという解釈が 可能である。「天脈」の素材として実際の孤児 院が用いられたように、志願兵訓練所や、愛国 班活動は宣伝ではなく、単に素材にすぎないと いう考え方である。作家にとって戦時体制のも とでの極度に制限された生活は、わが子に対す る執着を捨て、利己主義を否定するという主題 を表現するのに好都合だったのである。
二つめとして、これは作品の内容からは離れ るが、作家である以上はどのような状況下でも 文章を書かなければならないという、職業意識 のようなものを取り上げることができる。解放 後のことではあるが、作家は植民地下での親日 行為について問われたとき、「文章を書く人間 は文章を書いて暮らすものだ」と述べている41。
そして三つめが、崔貞煕の、小説家としての 生理に注目した場合である。前章で見たように、
崔貞煕は小説以外に、時局的な内容をもった多 くの文章を書いている。それらを見て気が付く ことは、記事や短文、講演の内容が、小説とい う形に発展していくということである。志願兵 訓練所の訪問記をはじめ、志願兵や少年を扱っ た文章で述べられている内容、すなわち子ども を立派な軍人にするための母の役割、息子が戦 死しても泣かない強い母への賛美は、小説「野 菊抄」のモチーフとなっている。
臨戦報国団の活動報告である「初秋の手紙」
は、小品「二月十五日の夜」を経て、小説「薔 薇の家」に発展する。「二月十五日の夜」は
「薔薇の家」の縮小版とも言えるもので、妻が 愛国班長となることをめぐって夫婦が言い合い をする部分が同じである。実は「薔薇の家」は 末尾に「放送小説」と記されており、「二月十 五日の夜」をもとに、放送用にリメイクし、内 容を膨らませたものが「薔薇の家」であること がわかる。
また、小説「幻め兵士」が「内鮮一体」を真
の「内鮮平等」と受け止めて、朝鮮文化を強調 している点があることで注目されると述べた が、これにもやはり前段階と言える記事が存在 する。「親愛なる内地の作家へ」では、傷病兵 慰問講演行脚として朝鮮を訪れる日本の作家に 対し、朝鮮をよく視察してほしい、朝鮮の文化
を底の底まで知り尽くしてほしい、知らないと ころにどうして理解が生じようか、今まで貴方 方が持っていた態度を捨ててほしい、と綴られ ているのである42。
崔貞煕が雑誌記者として出発したことをはじ めに述べたが、小説を書くようにという社から の要請があったこともさることながら、崔貞煕
自身も小説家になるべく努力をしていた。その ことは、記者生活の忙しさを「職業と割り切る ならいいが、文壇進出を目指そうと思ったら、
記者生活は文章がだめになるだけだ」と語って いるところからうかがえる43。しかし評論家か らは、崔貞煕は「作家より雑誌記者としての素 質の方があるようだ、…筆致が記事的だ」との 酷評を受けている44。さらに1937年の「凶家」
を登壇作と自ら定める作家は、それまでに書い た文章を「どうにもならない文章だから探し回 ってどこかへやってしまった」と述べるなど45、
自他ともに小説家として認められるに至るまで には相当の苦労があったようである。こうした ことから推測し、崔貞煕は記事ではない、小説 を書くということに大きな執着があったものと 思われる。
そして作家が植民地末期のこの時期に書こう としていた小説とは、運命劇のようなものでは なく、自らの行いの結果を自らが引き受けて前 向きに生きる女性の姿であった。しかしこれは 作家にとって新しい試みであり、具体的な素材 に加えて手順を必要とした。「天脈」は実際の 孤児院訪問を素材にした「香隣園を訪ねて」を 下敷きとすることによって成立しているが、こ れと同様に作家は戦時体制という素材をもと に、好むと好まざるとにかかわらず自らが書い た記事を小説へのステップとして利用したので
ある。
解放直後に作家は、米軍政庁の土地政策をめ ぐる地主と小作人の葛藤を小説に書いた。そう したリアリズムの小説もこの作家にとっては馴
染みのあるものではなく、このときは1932年に 自らが書いた記事「回想の一節」が下敷きにさ れている46。これは作家が少女時代に故郷で目 撃したらしい、小作争議についての記事である。
このように素材を先ず記事にし、その記事を小 説に発展させることは、おそらく記者時代の修 行に始まり、特に馴染みのないタイプの小説を 書く場合には不可欠のステップとなっていたの でないかと推測される。そしてその原動力とな っているのは、生理的とも言える、小説を書く ということに対する作家の執着ではなかったか と思われるのである。
本稿では崔貞煕の植民地末期の小説を検討し てきた。その結果、内容が表面的には時局に呼 応したものであるとは言え、その底には「天脈」
において見られたのと同様の、作風の変化の兆 しをうかがわせるものが確認された。作家にと っての真の主題が時局とは別のところにあった という解釈は別段、目新しいことではないが、
崔貞煕の場合、まさに変化のさなかの時期に植 民地末期という時代を迎えたのであった。その 変化に植民地末期という時期がどのように作用 したかであるが、何らかの事情によって執筆し た時局的な記事や短文が小説の形に発展してい ったことに注目すると、作家はそうした記事や 短文を土台とすることによってこそ、新しい試 みの小説を形成することが可能だったというこ とがわかる。そこには記者として作家生活を始 め、小説家になるまでに苦労を重ねたこの作家 の、・生理のようなものが働いていたのである。
V まとめ
崔貞煕の初期の小説では、恋愛、結婚、離婚、
私生児をめぐる問題などから起こる女性の不幸 が運命ととらえられ、作品は悲劇の主人公を描 いた物語という様相を呈していた。「地脈」と
「人脈」が特にそうである。しかし「天脈」に おいてはそうした要素が薄れている。これには 作家自身の当時の個人的事情が影響を与えてい たことが推測された。
一方、作家は植民地末期のこの時期に、日本 語小説、時局的な内容の小説を3篇書いている。
これらの作品は徴兵制、愛国班活動など、時局
的な内容が組み込まれているものの、作家が真 に描こうとしたものは「天脈」においてすでに 見られた、すなわち自らの行いの結果を自らが 引き受けて生きる女性の姿であったと見ること ができる。この点で「天脈」において見出され た作風の変化が、これらの作品の中に引き継が れていることが確認できた。
また、崔貞煕は小説のほかにも、時局に呼応 した内容の随筆や記事、短文を数多く書いてい る。これらは当局の要請によって書かされたも のとも考えられるが、これらの文章が3篇の小 説の土台となっていることも確認された。すな わち記者として出発した作家にとって、素材を 記事に、記事を小説にするということは、一つ の自然な手順だったのであり、特に新しい境地 に足を踏み入れようとしていたこの時期に、そ うした方法が有効に作用したのである。こうし た執筆方法の原動力となっていたのは、生理的 とも言える、.小説を書くということに対する作 家の執着ではなかったかと思われる。
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4
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6
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11
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13
14
崔貞煕「9 Pt文学生活自叙」「白民』194&3。
同上。
「地脈」r文章』1939.9、「人脈」r文章』1940.4、
「天脈」「三千里』1941.1,2,4。
例として、趙演鉱「韓国現代作家研究』ソウル:
セムン社、1981、p.185。
朝鮮語の作品からの引用文はすべて筆者の翻訳に よる。なお、本文の頁数は省略する。
拙稿、「崔貞煕の短篇小説研究一「天脈」を中心 に・」f朝鮮学報』第170輯(1999.1)参照。
崔貞煕「香隣園&曇σ1」『三千里』1941.12。
崔貞記「静寂記」r三千里文学』193&1。
徐永恩「な号q 晋』ソウル:文学思想社、
1984、 p.690
崔貞記「静寂記」r文化朝鮮』1941.5。大村益夫・
布袋敏博(編)「近代朝鮮文学日本語作品集(1939・
1945)」創作篇3より引用。
「道知事会議二於ケル総督訓示」一九三九年五月 二九日、朝鮮総督府官房文書課編纂f諭告・訓 示・演述総撹」p.196。宮田節子「朝鮮民衆とく皇 民化〉政策」(未来社、1997)p.148より再引用。
林鍾國r親日文学論』ソウル:民族問題研究所、
2003、 p.290
「国語雑誌への転換」『国民文学』1942. 5,6合併
号、p,44。「国民文学』、1942,1、p.161。諺文とは、漢文に対 15 16
17
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してハングルを指す。
宮田節子「朝鮮民衆とく皇民化〉政策」未来社、
1997、 p.1140
「暗黒期」の始まりをいつからとするかは研究者 によって異なり、1939年、40年、41年と、3通り の見方がある。布袋敏博「日帝末期日本語小説研 究」文学碩士学位論文、ソウル大学校大学院、
19962、p.4参照。
布袋敏博「日帝末期日本語小説研究」文学碩士学 位論文、ソウル大学校大学院、1996.2、p.3,17.19参
照。
同上、p.51,53。
作家の日記風に綴られている「静寂記」を小説に 含める論者もいるが、本稿では除外した。
崔貞煕「幻の兵士」r国民総力』1941.2。大村益 夫・布袋敏博(編)前掲普、創作篇3より引用。
崔載瑞「私の頁」「国民文学』1942.3、P.14。
崔貞煕「薔薇9 召」r大東亜』1942.7。
崔貞煕「野菊抄」r国民文学1 1942.11。
崔貞煕「〈7ul翌〉呈 61フ1己}」、文士部隊外 志願兵、r三千里』1040.12。
三枝壽勝「一九四〇年代前半期の小説について」
r朝鮮学報』第86輯、1978.1、p.137。
宋敏鏑r日帝末暗黒記文学研究』ソウル:セムン
社、1991、p.199。
林鍾國、前掲香、p.99。
宮田節子、前掲香、p.104。なお「朝鮮軍」とは、
日帝下朝鮮に駐留していた日本軍のことをいう
(同沓、p.51)。
同上、p.56。
同上、p.62〜69。
崔貞煕「子をつれて」名士・徴兵の感激を語る、
「国民文学』1942.5,6月合併号、p.46。漢字、仮名使 いは原文のままとした。
崔貞煕「君國q 明t・li・1」r大東亜』1942.5。
1941年10月に結成された御用団体。皇国精神の宣 揚、国民生活の刷新、国債消化、貯蓄励行、物資 供出、生産拡充などを掲げた。崔貞煕は評議員を 務めた。林鍾國、前掲書、p.128〜131参照。
林鍾國、前掲轡、p.133。なお、林鍾國は「君國の 母」を1941年12月27日の講演内容としているが、
林はこの「大束亜」1942年5月号の記事の題目を
「軍國の母」としており、講演時の演題との混同な のか、或いは別の講演の内容なのか判断がつかな
い。同書、p.4工6参照。
宮田節子、前掲書、p.16。
崔貞煕「初秋の手紙・(第一信)債権を売る日・」
「京城日報』1941.9.23。大村益夫・布袋敏博(編)
前掲書、評論・随筆篇3より引用。
崔貞煕「二つのお話」r京城日報』1941.1.5。大村 益夫・布袋敏博(編)前掲書、評論・随筆篇3よ
り引用。
38裡貞煕「二月十五日の夜」『緑旗』1942.4。大村益 夫・布袋敏博(編)前掲書、創作篇4より引用。
39 林鍾國、前掲書、p.52。
40徐永恩rを呈q 晋』ソウル:文学思想社、
1984、 p.22,24,380
41崔貞煕「続・受難q章」r燦欄聾司奨』ソウ
ル:文学と知性社、1978、p.254。
42雀貞煕「親愛なる内地の作家へ」内鮮問答rモダ
ン日本』1940.8。大村益夫・布袋敏博(編)荊掲書、
評論・随錐篇3より引用。
43 崔貞煕「訪問・執華・原稿」「新家庭』創刊号、
1933.1。