太宰治
長 野 隆
﹁ 津 軽 ﹂
ヲ & ー 日間 1
作品評価の分岐点
に対する評鋸は︑それが﹁新風土記叢書﹂の っとして繍まれた事靖と︑他ならぬ太宰自身の故郷日津軽を最 り扱った表現であることによクて︑いわゆる文学の形式と内容 に関わる多様な問題を引き出すこととなった︒例えば︑誌法問 時代批評とも見なしうる花田清輝の﹁芸術家の宿命について i
太 宰
治 論
│ ﹂
( ﹁
新 小
説 ﹂
賂 n ・
6 )
や 学
野 浩
二 の
﹁ 太
宰 治
﹂ (
﹁ 小
説 の
文 章 日 創 欝 社 ︑ 昭 幻 ・ 辺 ︑ 及 び 豊 島 年 志 雄 ﹁ 解 説 ﹂ ︿ 吋 太 宰 治 全 集
第 十
巻 同
昭
M ・ 9 ︑警窓﹀などは︑その始まりを告げてお号︑
以 降 の 一 い し 研 究 に つ い て 少 な か ら け を
っ た
︒ は い こ と を
︑ ほ と ん ど 本 当 の ま ま
︑
に︑かかれてあるので︑好惑がもてた﹀と評価しつつも︑その
︿ものたりない﹀観を︿﹁墨講﹂がなさすぎる﹀点に指摘して小
説形式への疑義を持ち出し︑花田靖揮は︑問題を表現の価値的 意味あいへ交叉させながら︑本来ナショナルなものをインター ナショナルなものとをすべき太撃がこうした故郷ものを書くに 歪つては︑津軽の︿オズカスの勝科ではあったであろうが︑邸内 時に一一十世紀の芸省家の敗北であった﹀と︑論の当否はともか く﹁津軽い批評のあるべき要所を指摘した︒対して豊島与憲雄 は︑︿この新風土記は︑小説のやうに面白い︒感銘詰まったく 小説と同じである﹀と︑これを肯定的に見定め︑以下に挙︑汚る 亀井勝一郎や佐藤春夫らに代表される積極的受容派系統の︑い わば先駆けをなした
gの 全
作 品
の 中
か ら
︑
もし一つだけ選べ る︑なら︑私は 賂
MM
・ 口
︑ 新 潮 粧
﹀
︒
︿ 般 の
での作品は全部抹殺してしまってもこの一作さへあれば設
は 不
朽 の
作 家
の 一
人 ﹀
︿ ﹁
種 事
の 文
才 ﹂
︑ ﹁
現 代
日 本
文 学
金 集
丹 報
第 十
七 号
﹂ 昭
m ・ 9
︑ 筑
輩 書
房
)
C
が︑無論ここで震視すべきは︑作品
﹁ 津
軽 ﹂
へ の
賛 否
一 広
々 の
問 題
な ど
で は
な く
︑ 例
え ば
先 の
花 田
・ 宇
野・豊島らの眼を︑摺々に再誇にかすめ︑また同時に欺いたか
のような︑一作品﹁意軽﹂それ自体の構造に関わる問題の所在
で あ
ろ う
︒ 豊
島 は
︑ 先
の 一
言 に
つ づ
け て
︑ こ
ん な
一 首
い 方
を し
て い
る 太宰は自ら︑作品の中から数節を山引用して︑の裏
付けとしてゐる
a作品中空襲講を︑事実をはで裏付けるの は︑あり得ることだが︑事実を︑作品中のい服構を以
の は
︑ こ で 島 る
︒ つ ま り
︑ 虚 構 も 真
い か
も 知
れ な
い ︒
ぞ れ が
︑ 一 つ 立
︒
ここで︿引用﹀されているという作品が﹁思ひ出﹂(や しゃれ晦息子﹂)を指すのは自境だ︒とにかく︑ここに示した豊
島の発雷は︑先の花田・宇野らの評一吉と窯らし合わせることに より︑極めて重要な意味あいをもっ︒それは︑亀井が﹁津軽﹂ を指して︿前期と後期をつなぐ結び昌のやうな作品で︑太宰文
学を解く最大の鍵﹀(前掲)と金量づける以上に重要な示唆で ある︒今日までさほど問題設されなかったのは︑それが何がし か一般論的な手触りを離れないことと︑批評的構築を断念した
文書である理由に依ろう︒が︑読者・研究者に再度要請される
のは︑かかる先駆的﹁津軽﹂評価の各々が壊かせる︑奇妙だが 明度のはっきりした差異性と︑その撞異の対照性ゆえに反って 長照させずにはおかぬテクストなるものの稲川一性
l i
つ ま
り
吋津聴いという表現に内在する︽同一的較差性︾のようなもの
i
に常北付きまとう︑例の︿成実や真議﹀の問題︑あるいは︿引 i に対する︑関心の向け方ではなかろうかむ太準的小説表現
用という方法﹀の問題︑そして柑よちも︑
SG
が告己患身︿に
纏わるもの﹀を語るということに関与
dす
る 的 な
︿ か た り
﹀ の 問 題 や
︿ 出 回 己 間 々 :
・
・
・ と う い っ
た︑昨今の太宰研究において避けては通れない問題が︑すでピ いち早く兆していた事・実を︑改めて確認しておきたい︒作品
吋 津
軽 い
に ︑
農 島
や 亀
井 が
一 皆
︑ つ
よ う
な ︿
太 端
文 学
を 解
く 最
大 の
鍵﹀があるとするをら︑おそらく︑これらをおいて他にはない︒
︿太事治﹀というこのインターナショナリストは︑対︿近号
的 口
I カリストたる 5 本というナショナルな︑であればこそま
たローカルな津軽という︑まさに世界地図上の極小の一点を︑
自らのクニ(アルサト)としてウチ(イエ)に持ち︑それを措
くという強い必然と罷難さを﹁意軽﹂に託したのであるからむ 以降に綴られる﹁津軽﹂議(太宰研究)も︑したがって︑自ず とこれらの問題を引き寄せ︑またそれを取り巻く方向へと自然 な展開を遂げるかたちとなる
ci 2 ︿奴嫌系﹀もしく誌︿屑識的世界﹀
評部の定着と研究の接関
i
先 の 亀 井 や 佐 藤 ら の 論 を 経 て
︑ へ の 評 価 は
︑
したように見える︒しかし︑研究サイドから見れば︑
益々複雑化したとも語︑ぇ︑鍔えば︑奥野健男などの部
税 同
沼 地
本 太
宰 治
全 集
第 七
巻 山
部 川
村 山
・
9 ︑
筑 摩
番 勝
﹀ に
代 表
さ れ
る ︑
これを︿自己接認の書﹀と見る捉え方
i i 鶴
谷 態
去 に
一 習
わ せ
れ
ば︿自己存在の基盤雑誌の替であることは衆目の一致するとこ
ろ で
あ ろ
う ﹀
( ﹁
津 軽
﹂ ︑
﹁ 関
滞 留
文 学
・ 太
宰 治
必 携
﹂ 昭
日 ・
9 )
と す る へ の 論 及
は︑一向に減少する気配を見せない︒なぜか?本晃に依れば︑
プ予ックボタスこ の
種 の
文 一
習 の
宥 す
る 暗
箱 的
な 機
能 │
│ つ
ま り
︑ そ
う 一
一 吉
っ て
い
る分には間違いの少ない言い方 ii
ー に
こ そ
疑 義
を 抱
く (
﹁ 吉
本 陸
窮 ﹁
太 宰
治 ﹂
を 語
る ﹄
昭
6 ・
m山 ︑ 大 和 書 房 ) の だ が ︑ そ れ は と も か
く︑﹁津軽﹂論の跡を絶やさぬ繁栄には︑眼を反らさせないも のがある︒論及が時績を晃誤らぬ眼り︑果てしなく続きそうな 気配!!つまり︑事仲軽い生成の袈所に関わる︑美しい秘密
︿ 謎
﹀ で
あ ろ
う ︒
大 久
保 典
夫 の
提 出
し た
二 つ
の 論
考 (
﹁ 吋
津 軽
い 論
ノ オ
ト ﹂
︑ 吋
作 品
論 太
宰 治
﹂ 昭
的 ・
6 ︑
武 文
社 出
嬢 /
﹁ 故
郷 ・
母 ・
家 !
﹁ 津
軽 ﹄
を 視
座
と し
て ﹂
︑ ﹁
国 文
学 ﹂
昭
M ・
3 )
辻︑いわば︑この培籍の手触りを
重に確かめようとした︑最初の試みであった︒昌己確認の書 (という暗箱﹀である点については疑わずとも︑その﹁確認いの 理ちつけ方に︑いかにも太撃的を資質を見ょうとしたもので︑ 吋母会るもの﹂の欠如を︑それを代替する﹁たけいに象徹され
る人々の中に見︑︿津島家と津島家を取り巻く人々︑父系を軸 とし︑それの受け理としての奴輝系を描くこと﹀が﹁産軽いの
世界であると指摘した
cこの大久謀説に異議を提出した相馬正
一 の
検 証
( ﹁
﹁ 津
軽 ﹄
に つ
い て
﹂ ︑
﹁ 産
軽 ﹂
昭 日
・ ロ
︑ 意
軽 書
嘉 )
も 面
邑 い
c
説くところ︑太宰が実擦に小泊の﹁たけ﹂を一訪ねたのは ︿披露身の︽出自︾の秘密﹀を開くことにあり︑作品中の﹁た けいり影象は︿現実の叔母さえと子守のタケとを鎗一お合わせ﹀
たもの津軽紀行は故郷との︿訣射の京情を叙した︑いわば
見 納 め の 旅
﹀ ー ー ど こ と な く
︑ 先 の 農 島 与 志 雄 の 論 な
どと対比させてみたくなる言及である︒それはともかく︑大久 保典夫による︿奴蝉系﹀着謀のコードは︑東郷克美の三塗軽﹂ 論 i
題 縁
的 世
界 へ
の 帰
還 ﹂
( ﹁
一 需
の 欝
座 太
宰 治
﹂ 昭
同
' 3 ︑
高 講
堂 )
の提出によって︑一挙に文化記号議的な精彩を放ハ
Jことにな
る
c東郷完英の説くところ
i i
︿ 津
軽 告
自 体
﹀ が
︑ ︿
秩 序
と 制
度
からなる人工的文化的中心から選定して︑京文化的な周縁最界 の自黙と準沌の中へ自己を右端克﹂する︑一種エロス的な詰揮 の非験で為った﹀とし︑それは︿津軽内部においても︑中心蔀
よりは罵縁部が目ざされており二一重の意味で周縁への援﹀で あるとするむであればこそまたそれは︑︿作られ装わ弘た表護 としての昌己から︑深層としての本費的な自己(内なる辺壌) への雑であった﹀と穿つ︒た︑だ︑議の感触としては︑作品で為 る以上に入龍太事治にとって︑立仲軽い起草上の積犠的な意味
あいを嘆ぎ出しているようにも読める︒大久保が円滞軽いに太
事 ら
し い
︿ ﹁
子 い
の 純
情 ﹀
を 読
み と
る 鰻
き を
一 本
す の
に 比
し て
︑ 東
郷が少しく︿﹁反骨﹂精神や民衆志向の中途半端さ﹀を指摘す る理由でもあるだろう︒自己確認という︑その﹁確認﹂のニュ
アンスが︑教妙に異なっているように晃受けられる︒
3 ︿
中 心
﹀ と
︿周縁﹀あるいは︿中央﹀と︿地方﹀
ともかく︑東郷論文がもたらした﹁逮軽﹂論活性化の意義は
大 き く
︑ 後 継 す る 論 寄 ら の 限 の 焦 点 を 絞 り 築 く し た い
ない︒その最たる収穣を︑安藤宏の辺海軽いの構造﹂︿吋太宰治
婦 一
一 一
口 忍
抑 制
臼 ・
7 ︑
洋 々
一 社
) と
︑ 鶴
谷 憲
一 一
一 の
﹁ 太
宰 治
﹁ 害
軽 ﹂
i
︿ っ
た 会
さ ﹀
の 自
党 ﹂
( ﹁
昭 和
め 長
編 小
説 ﹂
平
4 ・ 7 ︑歪文堂)に見
ることができるむが︑それらを照会する前に(するためにも)
是非とも触れておきたい言及がある
c小 野
正 文
の 論
考 ﹁
﹁ 害
軽 ﹂
に 託
し た
太 宰
の 心
構 ﹂
( ﹁
太 宰
治 1
﹄ 昭
印 ・
7 ︑
洋 々
一 社
) に
覗 く
︑ 以
下のような一欝で為る
c六親のうちの﹁父子兄弟﹂の﹁子﹂の立場を抜け出し︑﹁養
子﹂とともに小家臆を営んでいる﹁東京の寧麓いが︑今や
﹁住まういペき﹁拠り所﹂なのである︒
このようを指捕は︑一見︑当たり前のようでいて︑ことのほ
か意味が震いむ東郷克美が︿﹁仮寝﹂の場所にすぎない中央の
﹁東京﹂から︑存在の根︑課である辺境への逆行というかたちに
なっている﹀とするのとつき合わせて︑重視されるべき素朴な
問題を含ませている︒私見を挟めば︑ここにこそ﹁クニ﹂や﹁ウ
チ﹂や﹁スミカ﹂のもつ両義的意味あいが︑すでに関われてい
るように思われるからだ
cそ も
そ も
﹁ 中
︑ 心
﹂ と
は ﹁
題 縁
﹂ と
は ︑
︿私﹀にとタて何なのか? 安藤宏の論の提出は︑そこから開始されたとも一⁝言い換えられ
る︒吋津軽﹁﹁序議﹂の果たす重要性への着目である︒すなわ
ち︑作中で︿本﹀が︑いかにも︿おのれの肉親を誇る事が至難
な業であると間接に︑故郷の核心を語る事も容易に出来る業で
はない﹀と言いながら︑その実すでに語っている︿六つの町﹀
と
︑ だ か ら
︿ 私 は
︑ 仰 の 津 軽 の 町 を 語 ら う
﹀ っ て
いく﹁本舗﹂の︿他の部較の町﹀とは︑︿常に見え︑ざる呼塔関
謀を意造ってい﹀る︑という指摘に始まる︒議文構築の便宜上︑
︿中心部﹀なるものを金木(生家)を含む︿六つの町﹀︑︿内円
部 ﹀ を 金 木 ( 高 流 ・ 鹿 の 子 溜 池 ) ・ 小 詰 ・ 墾 田 ・ 今 別 ︑ ︿ 外 円 部 ﹀
を三厩・龍飛・磐ケ沢・深捕︑といった町々(に象徴されるも
の)に董き︑その︿外円部﹀から中の方へと︿囲いこんでいく
務樟の運動﹀のなせる︑引力や斥力の表象に﹁津軽いの世界を
見ょうとする︒つまり︑その力学のゆえぷ︑たけに代殺される
︿忘れ樽ぬ入﹀たちへの作者の筆の強鐸も生じ︑
盟いこみが捕かれぬ中心部への麗拐した愛憎に棋ざすもの
であ︐る誤与︑内円部にあるのはこのように曲縁共同体内部
に為クてなおかつ︑その傍流為るいは罵縁に位置する人々
でなければならない︒
と説いてみせる
cあるいは同じ力学の下に生じる︑︿︽兄︾とい
う権威を脅りることなしに津軽入の︽護室︾を語ること﹀の閤
難さの指接や︑︿この作品に︑﹁都市常民﹂の婚者調を図式的に
重ねること﹀の危険性の指摘など:::就中︑外ケ浜で︿私 v が
耳 に
す る
︿ 可
憐 な
叢 女
の 歌
・ 一
一 円
﹀ の
印 象
を 捉
え て
︑ そ
こ に
︿ 内
円
部を顕いこもうとするうちに︑ふと外円蔀をつき破︒て瞬間的
に 顔
を 出
し て
し ま
﹀ う
︿ 異
界 ﹀
の 風
景 の
舘 鑑
︑ 占
め る
現 出
を 見
出 し
︑
こも 号ぬ
更にこれを﹁茅謡﹂弘前にての︿認沼﹀の記壌に重ねる指摘等
あれこれ︑全く欲張りな論の構築ながら︑儀然︑説得させるも
の が
あ る
︒
一の論文も︑東郷←安藤の論を引き承けてなされた︒ 東郷がこの︿作品における文化人頬学的な意味での中心部は︑ 金木・木造を含む葎軽平野にあり︑それを家り囲むようにし
て︑東海岸と酉海岸の﹁倍屈﹂たる周縁部が配置されている﹀ として金木に視軸を置き︑︿ここでは岳黙さえも洗練されてお り文化的なのだ﹀と見をす仕草に対し︑鶴谷は︿とりわけ︑弘 前 は ﹀ と ︑ 培 に 弘 前 に ︿ 津 軽 の ﹁ 中 央 ﹂ ﹀ を 見 る 向 き を 示 し ︑ ﹁ 中
央(東京?とに対する﹁地方︿滞軽江︑その﹁地方一の中で の﹁地方いを︑東海岸沿いの町々︿や小治﹀と五能線沿い悶海 岸の町々に見たいとする︒私見を挟むまでもなく︑金木方面か らやや遠く望まれる岩木山は可憐(弱小なるがゆえの美)と呼
ばれるにふさわしく︑今ゃんザ売り物クとなった津軽・金木の地 吹雪は(残念ながら)弘前にはない︒だから︑醤谷が︑中期以 降の太宰に︿﹁昌信の無さ﹂ならぬ︑昌己の文学犠への務めた る自信の顕現化﹀を認め︑︿﹁所謂︑文化的﹂な洗礼をも十数年
の都会生活で充分に一本けてきているのが︽私︾なのである﹀と す る 視 点 や ︑ ︿ ﹁ 津 軽 の っ た な さ い ︑ ﹁ 文 化 人 で は 会 か っ た い い う 後の述懐はむしろ逆説的な替辞と受けとめるべきで為ろう﹀と
説く向きは︑意として軽視されるべきではない
Gそこに︑例え
ば 饗 庭 孝 男 の 言 ︑ つ ︿ 単 に 文 ︑ 学 的 な 成 功 者 の 嬉 惑 の よ ろ こ び で は な い こ の 作 品 の 強 い 陰 影 に 富 ん だ 味 わ い の 原 点 ﹀ ( ﹁ 太 宰 治 論 ﹄ 昭
日 ‑ u
︑講談社)が為り︑野坂幸弘の言︑つ︿戦後の新時伐的風潮
のなかでの﹁文化運動﹂あるいは﹁地方文化﹂に対する太宰の
否 定
的 な
姿 勢
﹀ (
﹁ 太
宰 治
に お
け る
都 会
と 田
舎 ﹂
︑ ﹁
解 釈
と 鑑
業 ﹂
昭 臼
・
d
は)の生とる理由がある︒
i 4 ︿かたり﹀/自己の同一化と異化
結 論 的 に
│
東郷克美が︿この﹁真理と愛構﹂の﹁巡礼﹂者にはかつての ︒しゃれ﹂とは反対に﹁乞食のやうを姿いへのやハ
Jしが必袈
だったのであろう﹀と潜い︑また神呑忠孝も以下に督︑つよう
に ︑
事 停
軽 い
泣 ︿
吋 箆
畿 百
胤 夙
﹂ の
ド テ
ラ 姿
を ﹁
乞 食
の や
う な
姿 ﹂
ι ゃ
っ し
て 吋
思 ひ
出 ﹄
の 世
界 に
誰 参
し よ
う と
し ﹀
︿ ﹁
津 軽
/ 家
﹂ ︑
﹁ 別
晋 国
文 学
・ 太
宰 治
事 典
﹂ 平
6 ・
5 )
た世界と見立てることもで
き る
︒ し
か も
﹁ 審
議 百
景 ﹂
こ そ
︑ 私
見 (
﹁ 弘
諒 大
学 近
代 文
学 研
究 誌
﹂
宿 泊
・
3 )
に敬え託︑︿太宰みずからの﹁黒景﹂の︑最初の発見 だと合占りでき︑︿﹁故那﹂が視えてくるのも︑この時期から﹀ で︑︿課えてしまった﹁故郷﹂は︑きっと︑いじらしく可憐な
存在(風景﹀以外ではな﹀く︑︿だから事仲軽﹂は脅かれた﹀と も諮い換えられる︒ぞれも﹁聞やひ出﹂という︑背の自日による
︿ 昔
語 り
f
﹀の︑ぃ震構の中の自己の﹁風景いを︿引用﹀するかた ちで︑いわ誌︑津軽が事叫酪 ι であるかのよう ι
害 軽
を ﹁
漕 軽
﹂
によって(またはその逆に)同一化しているのである︒この場 合︑﹃津軽﹂を太宰治という筆名に︑意軽を注高疹治という実 名に量換してもいいむそして︑この間一化こそは異化であると
も蓄える︒﹁東京入景﹂の︿芸術にをるのは︑東京の風景でな かった︒芸賓が私を欺いたのか︒私が芸衡を歎いたのか︒結論︒
‑
.'l
・
年芸衝は︑私である︒﹀に象議される︑いかにも彼らしいの
生じる理出ぜある︒︿語るもの﹀と︿語られるものて︿語るこ と﹀と︿語られたこと﹀などの相互間一化が︑すでに小説表現 としてこのように定着 i つまち異化ーしてしまっている︒太宰
文学特異の総力の産出源であり︑がために招来させたであろう
幸と不幸とが︑問時記透かし見えるようだ︒事仲軽﹂をもって
(酔酷1﹀
滞軽と成した︿術?の太宰が津軽を
A命名した﹀とは︑つま号︑そ ういうことだ︒自己言及的︿かたり﹀ならではの複雑きである
し︑が同時に︑その務有ともいうべき麗践の躍如を︑そこに重 ねて認めたい︒豊島や亀井や佐藤らに﹁唯この手応えを与え
た︑吋津軽いの美しい務審 H 構造である︒務められた︑作品の 構造が︑美しいのである︒寧ろ作品の構造と呼ばれるべきもの の方が信理的骨惑を成しており︑それが︑いか ζ も作品がもっ
思想を実現しているかのような文体を生きている︒四面に凸亜 のような意味像を映し出し︑凸冨に凹面のようなそれを覗き込
ませる仕組みである
5方法自体が主題性であり︑形式性自体が
内容をあらむしてしまうような表現!ーと︑ここまでくれば︑
ひとち﹁津軽﹂に留まらぬ︿太宰捨﹀の問題とをる︒︿奴縛系﹀
を措き︿周縁的世界﹀を描いた︑という
o l
l ‑
で あ
れ ば
こ そ
︑
所詮小説話護構たるにすぎない現実は逆に現実的な自由も得ら れるので為って
l
i 穿った言い方をすれ皆︑知らず殉じられた
﹁義﹂に報い︑今にして密かに﹁盤戦﹂をあかす︑というような 無言のふるまいに︑一見そうとは見えない作者の︑実はさりげ
ない澄身の力は詮がれている︒結果︑︿奴郷系﹀であれ
であれ︑それらの︿中心﹀って大なるもの誌小となり︑
元より小なるものは大となっそのゆき合くところ︑表現の
{ み 二 日 } 裁体としての︿難聴なるもの﹀が︑戦時下日本という我が閣の︑
{々 〆ニ }
その片隅に見え掠れする︑志るべからざる可憐な出合︑かなし
(ク ニ)
くいとちしい一故那として︑普遍的かつ象般的にクローズアッ
わ け
プされるかたちとなる︒﹃津軽﹂が︑英しい理由である︒
したがって︑︿信じるところ記現実はあるのであって︑現実 は決して人を信じさせる事が出来ない﹀という例の謎めいた官 業も︑︿私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捷し当て
たくて津軽へ来た﹀とか︿現実は︑私の設中に無かった﹀など と一部葉が添えられているように︑︽かくあるべしと信ずる吉ら の設を通して︑あるがままのものを見る︾とい︑つくらいのニュ アンスであって︑あらかじめ相対北なされた自らの践を通し
て ︑
自 然
に 選
び と
ら れ
て く
る 現
実 だ
け を
︿ 謡
じ る
﹀ と
一 一
言 っ
て い
るのだ︒だから︑︿情﹀には違いないが︑決して世間目的なそれ
ではなく︑いわば︑敢えて片目を膜りながら︑それと併行させ
て︑嘘でない現実をしっかり見ている︑と説み換えることがで
き る
︒ l
i すなわち︑︿本は虚鋒を行は在かった︒読者をだま
し泣しなかった﹀と︑そのの末尾を結ぶゆえんである︒
︿ 大
和 書
房 ︑
昭 部
・ 叩
) に
お け
( 註
1 )
吋 吉
本 隆
明 ︿
太 宰
治 を
﹀ る 長 野 発 言 ︒
﹁ 詩
に お
け る
︿ か
た り
﹀ 太
宰 治
か ら
中 議
中 也
へ ﹂
( ﹁
昭 和
文 学
研 究
第 祁
集 ﹂
平
5 ・
2 )
で の
替 及
に 重
お 合
わ せ
た い
︒
※引用文献再構︿引用順﹀
‑花田構輝﹁議術家の宥命について l
太 宰 治 論
﹂ (
﹁ 新 小 説
﹂ 略 的
μ
・
6 )
・ 宇 野 積 ニ ﹁ 太 宰 治 ﹂ ( ﹁ 小 説 の 文 章 ﹂ 創 華 社 ・ 昭 n
・ 日
・豊島与志雄﹁解説﹂︿吋太察治金集第十巻﹂八案審搭・詔 M ・
9 )
・穐井勝一部﹁解説﹂︿吋太宰治集下巻﹂新潮社・昭M‑U) * 佐 藤 審 夫 ﹁ 稀 審 の 文 才 い ︿ ﹁ 現 代 島 本 文 学 金 集 月 報 口 ﹂ 義 牽 書 爵 ・ 昭
m ‑
・奥野健雄﹁解説い︿吋荒本太宰治全集七巻い筑叢書房・昭 m ・ 9 ﹀ 9 ﹀
・ 鶴 呑 憲 一 一 一 ﹁ 津 鞍
﹂ (
﹁ 鰐 器 国 文 学
・ 太 宰 治 必 携
﹂ 学 費 社
・ 昭 以 w
a g
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・ 吉 本 構 明 仙 川 吋 吉 本 睦 現
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・大久楳典夫﹁故郷・母・家 i 事詮﹂を視躍として i ・ 6 ﹀
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・ 野 衷 幸 弘 ﹁ 太 宰 拾 に お け る 都 会 と 悶 舎 い ( 吋 解 釈 と 鑑 賞
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・棒谷患孝﹁樟軽/家﹂(﹁別冊鋼大学太宰治事典﹂学煉社・平 5 ・ 5 ﹀
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