• 検索結果がありません。

『津軽』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『津軽』"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1 9 4  

﹃ 津 軽 ﹄

( ) つが

︻初出︼昭日・口︑小山書庖刊(新風土記叢書7)︻全集︑文庫︼

全集

6

︑新潮文庫﹃津軽﹄︑ちくま文庫全集

7

(

4

)/

7

月ロ日付津島礼宛葉

書/周年

8

1

日付小山清宛葉書/昭初年

6

5

日付堤重久

宛葉書︻成立事情︼津島美知子﹁後記﹂(近代文庫﹃太宰治全

m

‑ m

︑創華社)/中村貞次郎﹁太宰治の思い出﹂(昭

m ‑ m

)

(

M

9

9

)

(

4

7

)

/

(

)

(

4

7

)

﹃日本百科大辞典第壱巻﹄(明引・日︑三省堂書庖)/﹃日本百科

(53︑日本百科大辞典完成会)/﹃日本地理

風俗大系第四巻﹄(昭4

)/

(

84

17

)

(

U

)/

奥年鑑昭和十三年﹄(昭日・7︑東奥日報社)/竹内運平﹃青森

県通史﹄(昭日・7︑東奥日報社)︻同時代評︼花田清輝﹁芸術家

宿(6

)

︻梗概︼ある年の春︑私は初めて津軽半島を一周した口それは︑

︿故郷の核心﹀である生地金木や隣町五所川原︑そして中・高

校時代を育んだ極北の地方都市青森や文化的小都市弘前など

︿過去に於いて最も﹀親しい町々はともかく︑今まで知るとこ

ろのなかった地│まさに反文化の拠点たるべき田舎H

津軽ー

を改めて見つめ直す︿巡礼﹀の旅でもあった口

私は︑青森で︑昔金木の生家に奉公していた

T

君に迎えら

れ︑旧友

N

君を訪ねて蟹田へと向かうが︑そこここで︿生粋

の津軽人﹀と呼ぶにふさわしい︑愚直だが愛すべき

S

さんら

N

君とともに龍飛岬まで足を運ぶ︒その凄槍

たる風景の中でふと耳にする︿可憐な童女﹀の手鞠歌︒私は

︿たまらない気持﹀になるのである︒そして青森経由で金木の

生家を訪ね︑兄ら一族に迎えられるが︑長兄への負い目のぎ

こちなさは拭えない︒しかし︑懐かしいアヤたちにも再会し︑

近くの丘から改めて見る津軽平野とその上に可憐に浮かぶ津

軽富士川岩木山︒つい︿金木も︑どうも︑わるくないぢゃな

いか﹀と漏らしてしまう︒その後︑亡父の生家である

M

家を

木造に訪ね︑当主の歓迎を受けた足で︑更に西海岸へ抜け︑深

浦に一泊︒鯵ヶ沢の町を見︑五所川原へと引き返す口そこで

恩人中畑さんにも会い︑また︑母たるに等しい叔母を訪ねる

が︑不在口最後の足を︑もう一人の母とも呼ぶべき幼き日の

奉公人たけとの再会に求めて︑小泊へと運び込む︒その村の

運動会場での︑何かしらぶっきらぼうな︑たけとの出会い︒

が︑しだいに沈黙がほぐれ︿堰を切ったみたいに能弁にな﹀る

(2)

底土記は︑小説のやうに面白いc惑銘はまったく小説と同じ

である﹀と︑これを肯定的に見定め︑以下に挙げる亀井勝一

部や佐藤春夫らに代表される積極的受容派系統の︑いわば先

駆けをなした︒亀井は古う

i

︿太宰む全作品の中から︑もし

一つだけ選べと云はる︑なら︑私は﹁津軽﹂を挙げよう﹀(﹁解

説ヘヱA

h

)

i

︿

ての作品は全部抹殺してしまってもこの一作さへ為れば彼は

︿

羽 ・

9

吾一広々の開題などではなく︑椀えば︑花田・宇野・豊島らの

裁を︑個々に詞時にかすめまた問時に欺いたかのような︑一

作品﹁津騒﹂それ自身の構涜に関わる問題C所在であろう︒豊

!︿

中か込数節を引用して︑﹁事突いの裏付けとしてゐる︒作品中

の議構を︑事実を以て裏付けるのは︑あり得ることだが︑実

際の事実を︑作品中の﹄虚構を以て纂付けるのは︑これは全く

逆であるGつまり︑段構も真の藍講ではなく︑事実も真の事

実ではないかも知れないGそれが︑太宰文学を解く鍵の一つ

だ ﹀

iと母文中で︿引用﹀されているとする作品が﹁患ひ出﹂

を指すのは自明だ母とにかく︑ここに示した豊島の発言は︑先

の花田・宇野らの評言と照らし合わせることにより︑極めて

叢要な意味あいをもっ母それは︑亀井が たけむ︑その︿強くて無遠嬢な愛構のあらはし方に接して︑ああ︑私は︑たけに似てゐるのだと思﹀う︒この旅は︿私の忠れ得ぬ人﹀たちi昔︿一度は︑私の家にゐた事がある人﹀た

ち!とお再会のための旅でもあったのである母

︻倖品評冊︺及び門研究展望︼@野倒的分蔽点作品﹁津軽いに

対する評髄辻︑それが刊新民土記叢書﹂の一つとして編まれ

た事情と︑他ならぬ太宰自身の故郷H津軽を取り扱った表現

であることによって︑いわゆる文学の形式と内容に関わる多

様な問題を引き出すこととなったG

(

印︑創欝社)︑及び藍島与志雄の﹁解説

L Q

9︑八雲害賠﹀などは︑その始まりを告げており︑以昨の﹁津

軽﹂詳細ないし研究について少なからぬ方向づけを行った号

宇野は︿本当らしいことを︑ほとんど本当のまま︑素藍に︑か

かれてあるので︑好感がもてた﹀と評留しつつもその︿もの

たりない﹀惑を︿吋章構﹂がなさすぎる﹀点に指摘して小説形

式への疑畿を持ち出し︑花田は︑問題を表現の鑑強的意味あ

いへ交叉させ︑本来ナショナルなものをインタ!ナショナル

なものとなすべき太宰がこうした故郷ものを書くに一患っては︑

津軽の︿オズカスの勝利ではあったであろうが︑同時に二十

官紀の芸街家の敗北であった﹀と︑論の当否はともかく﹁津

︿

つが

1 9 5  

を指して︿前

(3)

1 9 6  

期と後期をつなぐ結び目のやうな作品で︑太宰文学を解く最

大の鍵﹀(前掲)と位置づける以上に重要な示唆である︒今日

までさほど問題視されなかったのは︑それが何がしか一般論

的な手触りを離れないことと︑批評的構築を断念した文言で

ある理由に依ろう︒が︑読者・研究者に再度要請されるのは︑

かかる先駆的﹁津軽﹂評価の各々が覗かせる︑奇妙だが明度

のはっきりした差異性と︑その差異の対照性ゆえに反って反

照させずにはおかぬテクストなるものの同一性││つまり

﹁津軽﹂という表現に内在する︽同一的較差性︾のようなもの︑

に対する関心の向け方ではなかろうか︒太宰的小説表現に常

に付きまとう︑例の︿虚実や真偽﹀の問題︑あるいは︿引用

という方法﹀の問題︑そして何よりも︑自己が自己自身(に謹

わるもの)を語るということに関与する﹁自己言及﹂的︿かた

り﹀の問題や︿自己同一性﹀確認の問題:・等々││こういった

昨今の太宰研究において避けては通れない問題が︑すでにい

ち早く兆していた事実を確認しておきたい︒作品﹁津軽﹂に︑

豊島や亀井が言うような︿太宰文学を解く最大の鍵﹀がある

とするなら︑これらをおいて他にはない︒

つが

︿太宰治﹀というこのインターナショナリストは︑対︿近代﹀

l

カリストたる日本というナショナルな︑であればこそ

またローカルな津軽という︑まさに世界地図上の極小の一点

を︑自らのクニ(フルサト)としてウチ(イエ)に持ち︑それを 描くという強い必然と困難さを﹁津軽﹂に託したのであるから︒以降に綴られる﹁津軽﹂論(太宰研究)も︑したがって︑自ずとこれらの問題を引き寄せ︑またそれを取り巻く方向へと自然な展開を遂げるかたちとなる︒@評価の定着と研究の展開先の亀井や佐藤らの論を経て︑﹁津軽﹂評価は一応定着したように見える︒しかし︑研究サイドから見れば︑議論は益々複雑化したとも言え︑例えば奥野

(

7

9)

表される︑これを︿自己確認の書﹀と見る捉え方││鶴谷憲三

に言わせれば︿自己存在の基盤確認の書であることは衆目の

(

日 ・

9)

とする見方ーーが定説化する一方で︑﹁津軽﹂論は一向

に減少する気配を見せない︒なぜか?私見に依れば︑この

ブラックボックス種の文言の有する暗箱的な機能(つまり︑そう言っている分

)

(

)

の跡を絶やさぬ繁栄には︑眼を反らさせないものがある︒論

ブラックボックス

│つまり︑﹁津軽﹂生成の要所に関わる︑美しい秘密(謎)で

ある︒大久保典夫の提出した二つの論考(﹁﹃津軽﹄論ノオト﹂︑

6

/

ブラyクポァクス

M

3﹁国文学﹂)は︑いわばこの暗箱の手触

(4)

りを藍に確かめようとした︑最初の試みであったと言える9

自己確認の書︿という暗箱﹀であることは疑わずとも︑その確

認の取りつけ方に︑いかにも太宰的な糞費を克ょうとしたも

ので︑﹁母なるもの﹂の欠如を︑それを代饗する﹁たけ﹂に象

議される人々の中に見︑︿津島家と津島家を致り巻く人々︑父

系を軸とし︑それの受け血としてむ奴細川系を描くこと﹀が﹁津

軽﹂の堂界だと指摘した申また︑この大久謀説に異議を提出

(

一溌﹀も語白い︒説くところ︑太宰が実際に小拍の﹁たけ﹂を訪

ねたのは︿彼自舟の合山自︾の秘密﹀を聞くことにあり︑作

品中の﹁たけ﹂の形象は︿現実の摂母きえと子守のタケとを

重ね合わせ﹀たもので︑津軽紀行は故郷との︿訣別の哀構を

叙した︑いわば克納めの旅﹀と見る︒どことなく︑先の豊島

の論などと対比させてみたくなる言及である︒

A守奴蝉系もしく詰周縁的世界大久保典夫による︿奴縛系﹀藩

i

ドは︑東郷克英司津軽M

!

(

3︑有精堂﹀の提自によって︑一挙に文化

記号論的な精彩を放った︒すなわち︑︿津軽行自体﹀が︿秩序

と制度からなる人工的文花的中︑心から遁走して︑反文化的な

間諜笹界の自怒と混沌の中へ自己を﹁還元﹂する︑一種エロ

ス的な回帰の体験であった﹀とし︑それは︿津軽内部におい

ても︑中心部よりは届縁部が目ざされており︑二章一の意味で

1 9 7  

つが

思縁への旅﹀であるとする9だからまたそれは︿作られ装わ

れた表層としての自己から︑深層としての本質的な自己︿内な

る辺境)への旅であった﹀と︑作品としてよりは箪ろ人間太宰

にとって積極的な意味あいを嘆ぎ出すc大久探がそこに太準

品しい︿﹁子﹂の純情﹀を競み攻るのに対して︑東郷が少しく

︿﹁反骨﹂精神や民衆志向の中途卒端さ﹀を指摘する理由でも

ある︒自己確認という︑その確認のニュアンスが微妙に異な

‑中心と覇縁おるいは中央と地方ともかく︑東郷論文がも

たらした﹁薄軽﹂論活性化の意義は大きく︑後経する論客ら

の援の焦点を絞り易くしたのは間違いない︒その最たる技穫

を︑安藤宏の弓津軽h

(

h3

7

と︑鶴谷憲三の﹁太宰治志仲軽﹄i

︿

4・7︑童文堂)に見ることができるaが︑それを

頭会する前に︿するためにも)是非とも触れておきたい言及が

ある︒小野正文の論考ヰ捧軽﹄に託した太宰の心構い(司太宰

hl

7

mりような一節である9

︿ 六

穀のうちの﹁父子兄弟﹂の﹁子一の立場を抜け出し︑﹁妻子︺

とともに小家庭を営んでいる﹁東京の草震﹂が今や﹁住まう﹂

ベき﹁拠り所﹂なのである﹀︒この指播は︑当たり前のようで︑

ことのほか意味が重い︒東郷が︿﹁援寝﹂の場所にすぎない中

から︑存在の根源である辺境への逆行というか

(5)

1 9 8  

たちになっている﹀とするのに対照させ

問題を含ませている︒弘克を挟めば︑ここにこそ﹁クニ﹂や

﹁ウチ﹂や﹁スミカ﹂などのもつ爵義的意味あいが︑すでに関

われているように思われるか主だ9そもそも﹁中心いとは﹁周

縁﹂とは︑︿私﹀にとって荷なのか?

安藤宏の論の提出はそこか会関話されたとも言える︒﹁津

軽﹂・﹁序踊﹂の果たす重要性への着昌である︒即ち︑そこで

︿私﹀が︑いかにも︿おのれの肉親を語る事が至難な業である

と同様に︑故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない﹀と

一世間いながら︑その実すでに諾っている︿六つの町﹀と︑だか

︿

§

絹﹂の︿佑の持経の町﹀とは︑︿堂に見えざる呼拡関保を形造

ってい﹀る︑と指擁する︒論の護支上︑︿中︑む部﹀なるものを

金木︿生家﹀を含む︿六つの町三︿内丹部﹀を金木︿高流・鹿の

︿

深浦︑といった町々︿に象数されるもの﹀に鷺き︑︿外円部﹀か

ら中へと︿臨いこんでいく精神の運動﹀のなせる引力や斥力

的表象に﹁津軽﹂的世界を克るaそれゆえに︑たけに代表さ

れる︿忘れ持ぬ入﹀たちへの筆の強識も生む︑︿閉いこみが描

かれぬ中心部へむ謹告した愛憎に根ざすものである限り︑内

円部にあるむはこのように血霧共間体内部にあってなおかつ︑

その普流あるいは題縁に位聾する人々でなければならない﹀ るべき

つが

と説く︒あるいは同じ力学の下に生じる︑︿︽兄︾という権或

を借りることなしに津軽人の︽患臨︾を一諮ること﹀の盟難さ

の指摘や︑︿この作品に︑﹁都事常民いの婦省譲を関式的に重

ねること﹀の危険性の指摘など︑なかんずく︑外ケ浜で︿私﹀

が耳にする︿可憐な麓女の歌声﹀の印象を捉えて︑そこに︿内

円部を囲いこもうとするうちに︑ふと外円部をつ議議って瞬

間的に顔を出してしま﹀う︿異界﹀の思索む髄龍ある現出を

見出し︑吏にこれを﹁序編﹂弘前にての︿欝沼﹀おれ も号ぬM

ねる指摘等々︑全く欲張りな論む講築ながもり︑議熱︑

鶴谷憲三の論文も︑東郷←安藤の論を引き一承けてなされた︒

東郷がこの︿昨品における文化人類学的な意味での中心部は︑

金木・木造を含む津軽平野にあり︑それを哀れノ富むようにし

て︑東海岸と西海岸の﹁信屈﹂たる属議部が藍重されている﹀

として金木に視軸を量き︿ここでは喜然さえも洗隷されてお

り文化的なのだ﹀と見なす仕草に対し︑鶴谷は︿とりわけ︑弘

前は﹀と暗に弘前に︿津軽の﹁中央い﹀を晃る向きを示し︑﹁中

に対する﹁地方︿津軽こ︑その﹁地方﹂の中で

いの町々︿や小治﹀と五能隷治い西海

でもなく︑金木方萌

時の町々

︿

ばれるにふさわしく︑︐売り物'となっ

(6)

地吹雪は︑︿残念ながら﹀弘前にはない︒だか込︑鶴容が︑中期

以降の太宰に︿﹁自信む無さ﹂ならぬ︑自己の文学観への秘め

たる自需の顕現化﹀を認め︑︿﹁所調︑文化院﹂恕洗礼をも十

数年の都会生活で充分に承けてきているのが︽私︾なのであ

る﹀とする視点や︑︿﹁棒軽のったなさ﹂︑﹁文化人ではなかっ

た﹂という後の述壊はむしろ逆説的な言辞と受けとめるべき

であろう﹀と説く向きは︑意として軽視されるべきではない︒

︿

郷のよろこびではないこの作品の強い陰影に富んだ味わいの

︿

︿

後の新時代的愚瀬のなかでの﹁文往運動﹂あるいは﹁地方文

姿

(

ζ

)

a v

︿

/

﹁滞軽﹂は︿﹃富議百景﹄のドテラ姿を﹁乞食のやうな姿﹂に

(

/

5

5

(

3﹀に鍛えば

l

︿太宰みずからの﹁風禁﹂の︑最初の発見だと

合点﹀でき︑︿﹁故郷﹂が視えてくるのも︑この時期から﹀で︑

︿視えてしまった﹁故郷﹂は︑きっと︑いじらしく可機な存在

︿愚景)以外ではな﹀く︑︿だから吋津軽﹄

つカf

1 9 9  

i も言い換えられる︒それも﹁患ひ出﹂という︑昔の自己による︿昔語り﹀の︑意構の中の自己の﹁風景﹂を︿引用﹀するかたちで︑いわば︑津軽が﹁津軽﹂であるかのように︑津軽を﹁津軽﹂によって︿またはその逆に)間一化しているのである︒この場合︑﹁津軽﹂を太宰治という筆名に︑津軽を津島修治という実名に置換してもいいcそして︑この間一花こそは即興化で

あるとも震える︒︿芸術になるのは︑東京の風景でなかった︒

芸荷が私を欺いたのか9私が芸術を欺いたのか︒結論邑芸術

︿

︿語るもの﹀と︿諮られるもの﹀︑︿諮ること﹀と︿語られたこ

と﹀などの棺互同一化がすで

ι

小説的表現として定着l

り異化ーされてしまっている︒﹁津軽一の︿倍じるところに現

実はあるのであって︑現実は決して人を謂じさせる事が出来

ない﹀という謎めいた言葉も︑だから︑予め相対化なし了えた

島らの援を過して︑自然に選びとられてくる現実だけを︿信

じる﹀と言ってるのであって︑︿信﹀には棺違ないが萄自では

嘘でない現実をあるがままに晃ている︑という風に読み換え

ることができる︒つまり︑︿私は童飾を行はなかったむ読者を

だましはしなかった﹀全津軽﹂)と結ぶゆえんである︒

︿

参照