1 9 4
﹃ 津 軽 ﹄
(つ がる ) つが
︻初出︼昭日・口︑小山書庖刊(新風土記叢書7)︻全集︑文庫︼
全集
6
︑新潮文庫﹃津軽﹄︑ちくま文庫全集7
︻著
者注
釈︼
﹁十
五年
間﹂
(昭
引・
4
﹁文
化展
望﹂
)/
昭凶
年
7
月ロ日付津島礼宛葉書/周年
8
月1
日付小山清宛葉書/昭初年6
月5
日付堤重久宛葉書︻成立事情︼津島美知子﹁後記﹂(近代文庫﹃太宰治全
集﹄
叩︑
昭
m
‑ m
︑創華社)/中村貞次郎﹁太宰治の思い出﹂(昭
m ‑ m
﹁月
刊東
奥﹂
)︑
同﹁
津軽
余談
﹂(
昭M
・
9
﹁太
宰治
全集
付録
﹂ 9︑
八雲
書庖
)︑
同﹁
津軽
旅行
﹂(
昭剖
・
4
﹁太
宰治
全集
月報
﹂7
︑筑
摩書
房)
/越
野タ
ケ﹁
私の
背中
で﹂
(昭
剖・
ロ﹁
文事
﹂)
︑同
﹁修
ちゃ
ん
のこ
と﹂
(昭
お・
4
﹁太
宰治
全集
月報
﹂7
︑筑
摩書
房)
︻執
筆資
料︼
﹃日本百科大辞典第壱巻﹄(明引・日︑三省堂書庖)/﹃日本百科
大辞典第七巻﹄(大5・3︑日本百科大辞典完成会)/﹃日本地理
風俗大系第四巻﹄(昭4
・口
︑新
光社
)/
自作
﹁思
ひ出
﹂(
昭
8・4
17
﹁海
豹﹂
)︑
同﹁
おし
ゃれ
童子
﹂(
昭
U
・日
﹁婦
人画
報﹂
)/
﹃東
奥年鑑昭和十三年﹄(昭日・7︑東奥日報社)/竹内運平﹃青森
県通史﹄(昭日・7︑東奥日報社)︻同時代評︼花田清輝﹁芸術家
の宿命について│太宰治論│﹂(昭詑・6
﹁新
小説
﹂)
︻梗概︼ある年の春︑私は初めて津軽半島を一周した口それは︑
︿故郷の核心﹀である生地金木や隣町五所川原︑そして中・高
津 軽
校時代を育んだ極北の地方都市青森や文化的小都市弘前など
︿過去に於いて最も﹀親しい町々はともかく︑今まで知るとこ
ろのなかった地│まさに反文化の拠点たるべき田舎H
津軽ー
を改めて見つめ直す︿巡礼﹀の旅でもあった口
私は︑青森で︑昔金木の生家に奉公していた
T
君に迎えられ︑旧友
N
君を訪ねて蟹田へと向かうが︑そこここで︿生粋の津軽人﹀と呼ぶにふさわしい︑愚直だが愛すべき
S
さんらの歓待を受け︑
N
君とともに龍飛岬まで足を運ぶ︒その凄槍たる風景の中でふと耳にする︿可憐な童女﹀の手鞠歌︒私は
︿たまらない気持﹀になるのである︒そして青森経由で金木の
生家を訪ね︑兄ら一族に迎えられるが︑長兄への負い目のぎ
こちなさは拭えない︒しかし︑懐かしいアヤたちにも再会し︑
近くの丘から改めて見る津軽平野とその上に可憐に浮かぶ津
軽富士川岩木山︒つい︿金木も︑どうも︑わるくないぢゃな
いか﹀と漏らしてしまう︒その後︑亡父の生家である
M
家を木造に訪ね︑当主の歓迎を受けた足で︑更に西海岸へ抜け︑深
浦に一泊︒鯵ヶ沢の町を見︑五所川原へと引き返す口そこで
恩人中畑さんにも会い︑また︑母たるに等しい叔母を訪ねる
が︑不在口最後の足を︑もう一人の母とも呼ぶべき幼き日の
奉公人たけとの再会に求めて︑小泊へと運び込む︒その村の
運動会場での︑何かしらぶっきらぼうな︑たけとの出会い︒
が︑しだいに沈黙がほぐれ︿堰を切ったみたいに能弁にな﹀る
底土記は︑小説のやうに面白いc惑銘はまったく小説と同じ
である﹀と︑これを肯定的に見定め︑以下に挙げる亀井勝一
部や佐藤春夫らに代表される積極的受容派系統の︑いわば先
駆けをなした︒亀井は古う
i
︿太宰む全作品の中から︑もし一つだけ選べと云はる︑なら︑私は﹁津軽﹂を挙げよう﹀(﹁解
説ヘヱA宰
治集
下巻
h賠
訴・
口︑
新議
社)
︒佐
藤も
首相
つ
i
︿他
のす
べ
ての作品は全部抹殺してしまってもこの一作さへ為れば彼は
不朽
の作
家の
一人
﹀︿
﹁梯
脊の
文才
﹂︑
﹁現
代日
本文
学金
集男
報﹂
口︑
昭 羽 ・
9︑家憲響勝﹀︒がむろん︑ここで重視すべき誌︑︹隷軽﹂賛
吾一広々の開題などではなく︑椀えば︑花田・宇野・豊島らの
裁を︑個々に詞時にかすめまた問時に欺いたかのような︑一
作品﹁津騒﹂それ自身の構涜に関わる問題C所在であろう︒豊
島は
先の
言に
続け
てこ
う一
一一
一口
って
いる
!︿
太宰
は自
ら︑
作品
の
中か込数節を引用して︑﹁事突いの裏付けとしてゐる︒作品中
の議構を︑事実を以て裏付けるのは︑あり得ることだが︑実
際の事実を︑作品中の﹄虚構を以て纂付けるのは︑これは全く
逆であるGつまり︑段構も真の藍講ではなく︑事実も真の事
実ではないかも知れないGそれが︑太宰文学を解く鍵の一つ
だ ﹀
iと母文中で︿引用﹀されているとする作品が﹁患ひ出﹂
を指すのは自明だ母とにかく︑ここに示した豊島の発言は︑先
の花田・宇野らの評言と照らし合わせることにより︑極めて
叢要な意味あいをもっ母それは︑亀井が たけむ︑その︿強くて無遠嬢な愛構のあらはし方に接して︑ああ︑私は︑たけに似てゐるのだと思﹀う︒この旅は︿私の忠れ得ぬ人﹀たちi昔︿一度は︑私の家にゐた事がある人﹀た
ち!とお再会のための旅でもあったのである母
︻倖品評冊︺及び門研究展望︼@野倒的分蔽点作品﹁津軽いに
対する評髄辻︑それが刊新民土記叢書﹂の一つとして編まれ
た事情と︑他ならぬ太宰自身の故郷H津軽を取り扱った表現
であることによって︑いわゆる文学の形式と内容に関わる多
様な問題を引き出すこととなったG﹁問時代評﹂として前掲し
た花
田清
輝の
論考
や宇
野浩
二の
﹁太
宰治
﹂(
可小
説の
文雄
主総
お・
印︑創欝社)︑及び藍島与志雄の﹁解説
L Q太
事治
全集
﹄刊
︑臨
諮・
9︑八雲害賠﹀などは︑その始まりを告げており︑以昨の﹁津
軽﹂詳細ないし研究について少なからぬ方向づけを行った号
宇野は︿本当らしいことを︑ほとんど本当のまま︑素藍に︑か
かれてあるので︑好感がもてた﹀と評留しつつもその︿もの
たりない﹀惑を︿吋章構﹂がなさすぎる﹀点に指摘して小説形
式への疑畿を持ち出し︑花田は︑問題を表現の鑑強的意味あ
いへ交叉させ︑本来ナショナルなものをインタ!ナショナル
なものとなすべき太宰がこうした故郷ものを書くに一患っては︑
津軽の︿オズカスの勝利ではあったであろうが︑同時に二十
官紀の芸街家の敗北であった﹀と︑論の当否はともかく﹁津
軽
﹂ 批 評 の あ る べ き 要 所 を 指 摘 し た
︒ 対 し
︿ こ の 新
軽
つが 津
1 9 5
を指して︿前
1 9 6
期と後期をつなぐ結び目のやうな作品で︑太宰文学を解く最
大の鍵﹀(前掲)と位置づける以上に重要な示唆である︒今日
までさほど問題視されなかったのは︑それが何がしか一般論
的な手触りを離れないことと︑批評的構築を断念した文言で
ある理由に依ろう︒が︑読者・研究者に再度要請されるのは︑
かかる先駆的﹁津軽﹂評価の各々が覗かせる︑奇妙だが明度
のはっきりした差異性と︑その差異の対照性ゆえに反って反
照させずにはおかぬテクストなるものの同一性││つまり
﹁津軽﹂という表現に内在する︽同一的較差性︾のようなもの︑
に対する関心の向け方ではなかろうか︒太宰的小説表現に常
に付きまとう︑例の︿虚実や真偽﹀の問題︑あるいは︿引用
という方法﹀の問題︑そして何よりも︑自己が自己自身(に謹
わるもの)を語るということに関与する﹁自己言及﹂的︿かた
り﹀の問題や︿自己同一性﹀確認の問題:・等々││こういった
昨今の太宰研究において避けては通れない問題が︑すでにい
ち早く兆していた事実を確認しておきたい︒作品﹁津軽﹂に︑
豊島や亀井が言うような︿太宰文学を解く最大の鍵﹀がある
とするなら︑これらをおいて他にはない︒
つが 軽
津
︿太宰治﹀というこのインターナショナリストは︑対︿近代﹀
的ロ
l
カリストたる日本というナショナルな︑であればこそまたローカルな津軽という︑まさに世界地図上の極小の一点
を︑自らのクニ(フルサト)としてウチ(イエ)に持ち︑それを 描くという強い必然と困難さを﹁津軽﹂に託したのであるから︒以降に綴られる﹁津軽﹂論(太宰研究)も︑したがって︑自ずとこれらの問題を引き寄せ︑またそれを取り巻く方向へと自然な展開を遂げるかたちとなる︒@評価の定着と研究の展開先の亀井や佐藤らの論を経て︑﹁津軽﹂評価は一応定着したように見える︒しかし︑研究サイドから見れば︑議論は益々複雑化したとも言え︑例えば奥野健
男の
﹁解
説﹂
(﹃
定本
太宰
治全
集﹄
7︑
昭訂
・
9︑筑摩書房)に代
表される︑これを︿自己確認の書﹀と見る捉え方││鶴谷憲三
に言わせれば︿自己存在の基盤確認の書であることは衆目の
一致
する
とこ
ろで
あろ
う﹀
(﹁
津軽
﹂︑
﹁別
冊国
文学
・太
宰治
必携
﹂昭
日 ・
9)
とする見方ーーが定説化する一方で︑﹁津軽﹂論は一向
に減少する気配を見せない︒なぜか?私見に依れば︑この
ブラックボックス種の文言の有する暗箱的な機能(つまり︑そう言っている分
には
間違
いの
少な
い言
い方
)に
こそ
疑義
を抱
く(
﹃吉
本隆
明﹁
太宰
治﹂
を語
る﹄
昭閃
・印
︑大
和書
房)
のだ
が︑
それ
はと
もか
く︑
﹁津
軽﹂
論
の跡を絶やさぬ繁栄には︑眼を反らさせないものがある︒論
ブラックボックス
及 が 暗 箱 を 見 限 ら ぬ 限 り
︑ 果 て し な く 続 き そ う な 気 配
│
│つまり︑﹁津軽﹂生成の要所に関わる︑美しい秘密(謎)で
ある︒大久保典夫の提出した二つの論考(﹁﹃津軽﹄論ノオト﹂︑
﹃作
品論
太宰
治﹄
昭叫
・
6︑
双文
社出
版/
﹁故
郷・
母・
家│
﹃津
軽﹄
を
ブラyクポァクス
視座
とし
て﹂
︑昭
M
・3﹁国文学﹂)は︑いわばこの暗箱の手触軽
りを藍に確かめようとした︑最初の試みであったと言える9
自己確認の書︿という暗箱﹀であることは疑わずとも︑その確
認の取りつけ方に︑いかにも太宰的な糞費を克ょうとしたも
ので︑﹁母なるもの﹂の欠如を︑それを代饗する﹁たけ﹂に象
議される人々の中に見︑︿津島家と津島家を致り巻く人々︑父
系を軸とし︑それの受け血としてむ奴細川系を描くこと﹀が﹁津
軽﹂の堂界だと指摘した申また︑この大久謀説に異議を提出
した
相馬
正一
の検
証(
﹁明
津軽
﹄に
つい
てい
︑﹃
薄軽
恥紹
日・
段︑
樺軽
書
一溌﹀も語白い︒説くところ︑太宰が実際に小拍の﹁たけ﹂を訪
ねたのは︿彼自舟の合山自︾の秘密﹀を聞くことにあり︑作
品中の﹁たけ﹂の形象は︿現実の摂母きえと子守のタケとを
重ね合わせ﹀たもので︑津軽紀行は故郷との︿訣別の哀構を
叙した︑いわば克納めの旅﹀と見る︒どことなく︑先の豊島
の論などと対比させてみたくなる言及である︒
A守奴蝉系もしく詰周縁的世界大久保典夫による︿奴縛系﹀藩
援の
コ
i
ドは︑東郷克英司津軽M論!
周縁
的世
界へ
の帰
還﹂
(﹃
一
時の
講座
太幸
治﹄
昭開
︐
3︑有精堂﹀の提自によって︑一挙に文化
記号論的な精彩を放った︒すなわち︑︿津軽行自体﹀が︿秩序
と制度からなる人工的文花的中︑心から遁走して︑反文化的な
間諜笹界の自怒と混沌の中へ自己を﹁還元﹂する︑一種エロ
ス的な回帰の体験であった﹀とし︑それは︿津軽内部におい
ても︑中心部よりは届縁部が目ざされており︑二章一の意味で 意
1 9 7
つが思縁への旅﹀であるとする9だからまたそれは︿作られ装わ
れた表層としての自己から︑深層としての本質的な自己︿内な
る辺境)への旅であった﹀と︑作品としてよりは箪ろ人間太宰
にとって積極的な意味あいを嘆ぎ出すc大久探がそこに太準
品しい︿﹁子﹂の純情﹀を競み攻るのに対して︑東郷が少しく
︿﹁反骨﹂精神や民衆志向の中途卒端さ﹀を指摘する理由でも
ある︒自己確認という︑その確認のニュアンスが微妙に異な
って
いる
ので
ある
︒
‑中心と覇縁おるいは中央と地方ともかく︑東郷論文がも
たらした﹁薄軽﹂論活性化の意義は大きく︑後経する論客ら
の援の焦点を絞り易くしたのは間違いない︒その最たる技穫
を︑安藤宏の弓津軽h
の構
造︺
(吋
太宰
治 h3
︑昭
信・
7︑
洋々
一社
﹀
と︑鶴谷憲三の﹁太宰治志仲軽﹄i
︿っ
たな
さ﹀
の患
党一
主昭
和
の長
一瀦
小説
畑一
千
4・7︑童文堂)に見ることができるaが︑それを
頭会する前に︿するためにも)是非とも触れておきたい言及が
ある︒小野正文の論考ヰ捧軽﹄に託した太宰の心構い(司太宰
拾
hl
︑昭
郎・
7︑
洋々
一社
﹀に
覗く
︑以
下
mりような一節である9
︿ 六
穀のうちの﹁父子兄弟﹂の﹁子一の立場を抜け出し︑﹁妻子︺
とともに小家庭を営んでいる﹁東京の草震﹂が今や﹁住まう﹂
ベき﹁拠り所﹂なのである﹀︒この指播は︑当たり前のようで︑
ことのほか意味が重い︒東郷が︿﹁援寝﹂の場所にすぎない中
から︑存在の根源である辺境への逆行というか
央の
1 9 8
たちになっている﹀とするのに対照させ
問題を含ませている︒弘克を挟めば︑ここにこそ﹁クニ﹂や
﹁ウチ﹂や﹁スミカ﹂などのもつ爵義的意味あいが︑すでに関
われているように思われるか主だ9そもそも﹁中心いとは﹁周
縁﹂とは︑︿私﹀にとって荷なのか?
安藤宏の論の提出はそこか会関話されたとも言える︒﹁津
軽﹂・﹁序踊﹂の果たす重要性への着昌である︒即ち︑そこで
︿私﹀が︑いかにも︿おのれの肉親を語る事が至難な業である
と同様に︑故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない﹀と
一世間いながら︑その実すでに諾っている︿六つの町﹀と︑だか
ら︿
私は
︑佑
の捧
軽の
町を
語ら
う﹀
と⁝
一一
一口
って
語§
れて
いく
﹁本
絹﹂の︿佑の持経の町﹀とは︑︿堂に見えざる呼拡関保を形造
ってい﹀る︑と指擁する︒論の護支上︑︿中︑む部﹀なるものを
金木︿生家﹀を含む︿六つの町三︿内丹部﹀を金木︿高流・鹿の
子溜
池て
小泊
・議
出・
今器
︑︿
外内
部﹀
を一
一一
厩・
龍飛
・鯵
ヶ沢
・
深浦︑といった町々︿に象数されるもの﹀に鷺き︑︿外円部﹀か
ら中へと︿臨いこんでいく精神の運動﹀のなせる引力や斥力
的表象に﹁津軽﹂的世界を克るaそれゆえに︑たけに代表さ
れる︿忘れ持ぬ入﹀たちへの筆の強識も生む︑︿閉いこみが描
かれぬ中心部へむ謹告した愛憎に根ざすものである限り︑内
円部にあるむはこのように血霧共間体内部にあってなおかつ︑
その普流あるいは題縁に位聾する人々でなければならない﹀ るべき
戦 つが 滞
と説く︒あるいは同じ力学の下に生じる︑︿︽兄︾という権或
を借りることなしに津軽人の︽患臨︾を一諮ること﹀の盟難さ
の指摘や︑︿この作品に︑﹁都事常民いの婦省譲を関式的に重
ねること﹀の危険性の指摘など︑なかんずく︑外ケ浜で︿私﹀
が耳にする︿可憐な麓女の歌声﹀の印象を捉えて︑そこに︿内
円部を囲いこもうとするうちに︑ふと外円部をつ議議って瞬
間的に顔を出してしま﹀う︿異界﹀の思索む髄龍ある現出を
‑
見出し︑吏にこれを﹁序編﹂弘前にての︿欝沼﹀おれ も号ぬM
ねる指摘等々︑全く欲張りな論む講築ながもり︑議熱︑
せる
もの
があ
る︒
鶴谷憲三の論文も︑東郷←安藤の論を引き一承けてなされた︒
東郷がこの︿昨品における文化人類学的な意味での中心部は︑
金木・木造を含む津軽平野にあり︑それを哀れノ富むようにし
て︑東海岸と西海岸の﹁信屈﹂たる属議部が藍重されている﹀
として金木に視軸を量き︿ここでは喜然さえも洗隷されてお
り文化的なのだ﹀と見なす仕草に対し︑鶴谷は︿とりわけ︑弘
前は﹀と暗に弘前に︿津軽の﹁中央い﹀を晃る向きを示し︑﹁中
に対する﹁地方︿津軽こ︑その﹁地方﹂の中で
いの町々︿や小治﹀と五能隷治い西海
でもなく︑金木方萌
時の町々
の
からやや速く望まれる岩木山は可憐︿鴇小なるがゆえの築﹀
ばれるにふさわしく︑︐売り物'となっ
地吹雪は︑︿残念ながら﹀弘前にはない︒だか込︑鶴容が︑中期
以降の太宰に︿﹁自信む無さ﹂ならぬ︑自己の文学観への秘め
たる自需の顕現化﹀を認め︑︿﹁所調︑文化院﹂恕洗礼をも十
数年の都会生活で充分に承けてきているのが︽私︾なのであ
る﹀とする視点や︑︿﹁棒軽のったなさ﹂︑﹁文化人ではなかっ
た﹂という後の述壊はむしろ逆説的な言辞と受けとめるべき
であろう﹀と説く向きは︑意として軽視されるべきではない︒
そこ
に︑
例え
ば︑
饗腔
孝男
の一
一一
一口
う︿
単に
文学
的な
或功
者の
蟻
郷のよろこびではないこの作品の強い陰影に富んだ味わいの
原点
﹀︿
明太
宰治
論主
紺日
・立
︑講
談社
﹀が
あち
︑野
坂幸
弘の
一一
おう
︿戦
後の新時代的愚瀬のなかでの﹁文往運動﹂あるいは﹁地方文
化﹂
に対
する
太宰
の寄
定的
な姿
勢﹀
(﹁
太宰
治
ζお
ける
都会
と田
舎︑
罷臼
・時
﹁解
釈と
鑑賞
﹂)
の生
じる
理出
があ
る︒
a v
︿か
たり
﹀/
自己
の同
一化
と異
化神
谷忠
孝が
一一
一一
口う
よう
に︑
﹁滞軽﹂は︿﹃富議百景﹄のドテラ姿を﹁乞食のやうな姿﹂に
やっ
して
﹃思
ひ出
﹄の
世界
に推
参し
よう
とし
﹀(
﹁津
軽/
家︑
﹁別
靖国
文学
・太
宰治
事典
﹂平
5・
5﹀
た世
界と
晃立
てる
こと
もで
きる
︒
しか
も﹁
富畿
百最
﹂こ
そ︑
私見
(﹁
弘前
大学
近代
文学
研究
誌い
籍出
・
3﹀に鍛えば
l
︿太宰みずからの﹁風禁﹂の︑最初の発見だと合点﹀でき︑︿﹁故郷﹂が視えてくるのも︑この時期から﹀で︑
︿視えてしまった﹁故郷﹂は︑きっと︑いじらしく可機な存在
︿愚景)以外ではな﹀く︑︿だから吋津軽﹄
軽
つカf 津
1 9 9
れた
﹀
iと も言い換えられる︒それも﹁患ひ出﹂という︑昔の自己による︿昔語り﹀の︑意構の中の自己の﹁風景﹂を︿引用﹀するかたちで︑いわば︑津軽が﹁津軽﹂であるかのように︑津軽を﹁津軽﹂によって︿またはその逆に)間一化しているのである︒この場合︑﹁津軽﹂を太宰治という筆名に︑津軽を津島修治という実名に置換してもいいcそして︑この間一花こそは即興化で
あるとも震える︒︿芸術になるのは︑東京の風景でなかった︒
芸荷が私を欺いたのか9私が芸術を欺いたのか︒結論邑芸術
は︑
私で
為る
﹀︿
﹁東
京八
景﹂
﹀と
いう
話法
の生
じる
理鳴
であ
る︒
︿語るもの﹀と︿諮られるもの﹀︑︿諮ること﹀と︿語られたこ
と﹀などの棺互同一化がすで
ι
小説的表現として定着lつま
り異化ーされてしまっている︒﹁津軽一の︿倍じるところに現
実はあるのであって︑現実は決して人を謂じさせる事が出来
ない﹀という謎めいた言葉も︑だから︑予め相対化なし了えた
島らの援を過して︑自然に選びとられてくる現実だけを︿信
じる﹀と言ってるのであって︑︿信﹀には棺違ないが萄自では
な く
︑ い わ ば
︑ あ え て 片 目 を 頼 る こ と と 併 行 さ せ て
︑
嘘でない現実をあるがままに晃ている︑という風に読み換え
ることができる︒つまり︑︿私は童飾を行はなかったむ読者を
だましはしなかった﹀全津軽﹂)と結ぶゆえんである︒
︿長 野 謹