津 軽 水 神 考
舘 衷
日本人は水に対する恩恵と恐怖を神務化して諾神仏に仮托して信仰
という形をとって来た︒本積では自然的・文化的背景のもとに︑全閣
的水神をのベ︑津軽の水神に及びたい︒
全 国 的 水 神 信 仰
水は人類にとって欠く事のできないものであるので世界各地で大切
拡扱われ︑中慢でも﹁水を治めるもの拭天下を治める﹂のことわざが
ある通りであるが一雪だけふれておく︒
零
i う i
と読み関乞︑雨乞祭のこと︒左訟の箆公五に三唱︿義名﹀を見て盤方す﹂
とあって︑竜という彼空の動物の威力で雨を降らせることを一信じてい
たことが知られる︒
a
本においても︑本に対する信停は島まりに多くてそれこそ牧挙にいとまがないが︑少しのべよう︒
まず︑神代において﹁天津罪﹂の中に﹁天津罪とは畔設︑溝理︑樋 放:::﹂と八重罪のうち︑一エつが水
i
水轍耕作に関している︒﹁海
幸 彦︑山幸彦﹂の物語りも︑竜宮
i亀神i司水神関係である︒
官代広入っては︑万葉集巻二︑結関の部位
明良署清錦藤宮御宇天皇代︿天武天皇)
夫 車
︑ 藤 原 夫 人 に 鶏 へ る 御 歌 一 首 わが患に大雷降れり大原の 古 り に し 塁 に 降 ら ま く は 後 わ が 藤 警 岡 原
の,忠一L夫
擢主璽加入
し 神 か 其 に 。 和 処 言 へ に ひ 奉 散 て れ
ち 蜂 るけ ら 歌 む し ー め 蓄
し がある︒樹寵神とは本稿の中心をなす竜神で珂水神の量船︑丹生川上社
の祭神であるが︑このように崇良朝から深く信じられていたようであ また︑現荘京都市の神泉苑は平安初期︑弘法大師が︑
る王を請 じて踊乞をし
とされてきたところである︒
中世初一践の鎌倉将軍︑右大足実朝の 時 に よ り す ぐ れ ば 民 の な げ き な り 八大竜王雨やめ給へ
(金
塊集
)
な ど
は ︑
八大竜王が可水神であることをはっきち島らわしている︒
資船︑川上神がその中︑
h v
であるほか︑竜田(風神﹀
‑ 広 瀬 ︿ 盟 問 神 )
‑ 広
田 (
源 問
隠 ﹀
‑加茂︿雷雨神﹀なども共に自然
l 気 象 の 神 と さ れ て
いる︒津軽においても︑
四 代 藩 主 信 政 は 領 内 四 社 に
︿ 広 胆 の 代 り に 資 船)これらを指定しているのもその影響といえよう︒
これらは︑京・大和を中心として発展したのでそこからのべよう邑 日 本 文 化 の 中 心 で あ っ た 大 和 平 野 は 瀬 田 内 気 候 広 の 東 端 を 占 め て い て 乾 燥 地 帯 で
︑ 現 荘 で も 摺 池 の 数 は 数 万
︑ 第 二 位 の 讃 較
︿ 香 川 県
﹀ を は る か に は な し て い る
︒ 従 っ て 析 雨
・ 止 雨 に 対 し て 古 代 か ら 朝 廷 を 中
心 ど し て 諸 神 に 摂 顕 を こ め て お り
︑ 都 が 京 都 民 移 り
︑ 律 令 舗 の も と に 全間的支配がなされるようになって︑制問調雨蝦を祈頴することは朝挺 の 中 心 的 行 事 と な り
︑ 為 政 者 の も っ と も 心 を つ か っ た こ と は
︑ 今 に 痩
るる
諸 神 仏 へ の 祭 記 祈 願 の 記 録
・ 風 習 な ど に よ っ て 知 り 得 る と こ ろ で あ 論
を 進 め る に 為 た っ て
︑ 大 和
︑ 京 都 の 水 神 と 津 軽 地 方 と の 一 覧 を 掲 げ る
︒ し か し
︑ 民 間 信 抑 の 系 統
e 分 頬 は 臨 難 を き わ め る も の な の で 暫 定的なものであることをことわっておく︒
貴 系
船 系 水 則上系上
分 系
広 四社系
瀬 竜 田 加茂(上)
広 田 京 橡 系
︿ 一
ニ 神
﹀
中 下
統
国心短 祭 間象女神 詔
寵 稗 天 水 分 神 国 水 分 神 若
字 遊 売 命 天 御 荘 命 臨 御 柱 命 別 雷 神 天 照 来 御 魂 市杵島能
神
弁天様
堂
社 広
十 和 田 様
軽 代 表 京 都 市 貴 齢 社 奈 良 県 吉 野 部 金
奈 全
良 県 吉 野 山 他
一 一
一 岳
神 社
領 全
内 四 社 奈 良 県 北 蕗 城 郡 奈 良 県 生 駒 郡 京
都 市 上 京 広
雷 電 宮 西宮市広田 種 間 無 宗 機 器
(日
い約
一地
弁天
)
︿
住吉系
一ニ
持J
田 神
﹀ 梅神系 神 金毘羅系
不動系 竜神系 稲荷系
端津姫
中 底髄男命
戸、 二
E
斗諸竜神 大物主舎 宇 不動明王
迦 乃 売 神
大阪府住・吉区
長崎県上県郡 新 潟 県 佐 渡 郡 番川熊琴平町
京 都 市 伏 見
︒貴船神社︑京都市左京区鞍馬貴船需
海 輩 神 社 宝竜宮
十和田様 天武天皇の白底六年︿六七七﹀に建てられたという吉社︑司水神とし
て山域国の加茂川の上流貴船川畔に鎮鹿する祈雨・止雨の神として古 野の丹生川上神社と共広最も尊崇された︒
嵯蛾天皇弘仁九年︿八
八﹀七丹︑炎皐謹しく︑
同十年六丹︑裳雨が長く 五穀色を変じたの で︑朝廷では瞥吊・黒馬を献じて雨を祈ち︑
続いたので︑幣島と白馬を獄じて楕を祈った
a
これから皐諜・詞水の
邸側は必ずこの祈願がなされた︒とくに 一日付九日の雨祈祭!雨乞祭には
祈 る
︒
本社・奥宮・前広滝で︑
その年の縄問の適度であることと五穀豊鏡を
では
おおみたのうるほふばかりせきかけて ゐせきに蒸せ川上の神
の秘歌を唱えるという︒
このように朝廷で崇敬したので全閥的に広まり︑一一一百余社の来社が
あ号︑後でのべるが津軽では十和田様の名で専ばれている竜神様であ
︒丹生川上神社
る奈 良 操 吉 野 器
上 社
︿ 合
同 鑑
理
‑中社︿悶象女﹀
L 、
‑ 下 一 社 ︿ 陸 軍 の 一 一 一 社 の 総 称 で ︑
ずれも吉野山をめぐって存在し︑貴船と共に最も朝廷の崇敬の厚かっ
た 官 幣 大 社 の 一 一 円 本 神 で あ る ︒
︒大和水分四処
天の水分︑
国の水分神亨記号︑大和では吉野・墓誠・宇陀・都郡の 四社がその代表で文武天皇ニ年︿六九八﹀
に鶏を吉野の水分の蜂に車中
って罷を祈ったとある︒後世︑
みくまりをなまって︑御子守となり︑
子守神として脊名になった︒
この水分と刑上社とが吉野山及び周辺にあるため︑吉野山の本尊旗
正権混と吉野山出自体の金の副都信仰まどが一体化して信的押され︑布教さ
れたのか︑議王信保!御蕗︿一一一岳﹀
l金 峰
l
水 神 と な っ て い る 劉 が 少
く な
く ︑
キフネと仮名をつけている例も津軽に
さらに蔵王とかいて︑
ある︒東北では宮誠県の麓五苅出嶺神社は天水分神・融水分神を記号︑
もと水神社と称していたし︑同じく宮城県本吉郡の一一一岳蛇王権現は佐
沼御前ともいい水神である︒青森調対立一戸郡剖越の一一一岳神社も搭称蛇王
権混といい︑竜神を蛇り
雨水の神である︒
︒ 竜 神 系 前述の輩とは
のであるが︑地蛇億持の僕はあまり北多くて枚 挙にいとまがないとレってよい︒
代表の一例誌︑大和国
あげよう︒木津川上読の水源地と し て の諸持におとらず探く信仰され︑開閉に五竜持が注み︑
の五重塔の宝輪に
められたというし︑竜穴神社は析璃・止訴の
神社として名高い︒
O
宗像神投
i 弁天様 神は海・水神で
の
‑竜女であるが︑問時に竜蛇宮本 体とする信仰の対象であって︑厳島・
‑江の島は毘本の
として名高い︒伏見稀祷も水神系に数えられる︒
︒京畿以外のもの 全間的広無数といってよいが
その代表のいくつかを︒
北九州の宗霞神社︑ 四闘の万能池の竜神・ 有名に・なって江戸 から逆輸入された形の久留米の水天宮︑北離の白山は九諜竜別に結び っく竜蛇信仰であり︑関東で註榛名山の竜持︑
東北では月山
i
農業神
ー 竜
蛇 ︑
の竜蔵権規
i 秋田の太平山の大蛇信抑︑
手山の 前述の宮城の裁ま苅田嶺水神;::︑仏教系でも
山形県 の
の 品
屯 王
・
︑岩手県持法寺の天 男鹿半島の
八郎携の八郎龍神:;・︒青
︿ 桂
清 水
﹀ ︑
田沢湖の辰子地持︑
森県では八一戸の法領社のおがみ様︑十和信事法量神社の竜神等であろ
う津 軽 の 水 神
津軽の水持に関しての記録は十和田湖の陶宗坊竜持︑岩木山の自党 の竜女にしても官い物語りではあるが︑史料としては江戸時代のもの で為る︒古い方から顕次にのべると︑
猿繋深抄大権現の祭神は
の命といわれ︑死後︑墓を握ったら大 蛇であったというし︑農業持・本神としても設われている
︿一鍛的に
は大般若経の守護神﹀︒為信が努艶沖寸地神の坊で海難から逃がれた
(一統志)という記事もある︒
懇 社
神 主
一
一霊感応
小野別遠江守 帯造立十湾出費船宮精舎一宇
本下安全之故 性命成就神首加持
当官調官 鶴 見 十 四 日
盛 岡
備 臨
時 寸
︿新撰撤興国誌
第 一 は南宗坊に十和田湖を追い出された八竜が鎮鹿した沖浦の
和田様の記録である︒
津軽と糠部の堺︑耕榎の岳民瀕本有り︑十湾の沼と一おう也︒地神五 代より始る也︒数か年に恋って大同二年斗質の
の衆徒講蘇坊と 八竜を追出し十湾の沼に入る︒今天文十五年まで八
広及び也︒
( 津
軽 一
一 統
志 )
などがあり︑文化四年(一八
0
・ 七 ﹀
おた菅江真澄の に十和田湖を
紀行文4 巻 東 洋 文 臨 伸 ︑ 平 凡 社 説 け )
の
議 十
‑:・杉林の下路をとおってゆくと堂があるQ背竜大権現という額が かかっている︒以下︑散供をうつことなどが記録されている
Q
幕末の劇人平定魯仙の﹁谷の響﹂に 天 保 十 四 年 (
八四一ニ﹀卯︑碇が輿大落前の岸︑くずれおちて本理
誉議ぎ︑水湛へてきながら揺の加くなりし
ι
︑土
入︑
r w
と称して
f
牽臨する者多かり(津軽方言民︑山中の窪田に水を瀧へて沼を成すも
の︑土人︑十和田と一五)︒
があ号︑山中の・水たまりを十和田様といって竜神を詑る風習が江戸時
代からあったことが知られる︒
この代表的なものの一つに前述の棟札の沖捕の十和田宮があり︑現
在まで有名なのは大鹿町一一一ツ白内刈の上龍の十和田宮であろう
ο
一 一 者
ともに山中であるため︑進拝所が設けられ︑現在では︑そこが・本社に
なってしまってレる︒史料をあげると 費船神社
本 村
ツ関内﹀の甫二霊山中広あ号︑受渡一一毘
祭神︑海津見神︑水披乃女神 勧請の年月詳ならず
旧十和田宮と唱う︒
(新撰控奥国蕗
第二巻)前に大沼あり︑一一一丁四万もあらんか︑御手洗の油と唱う︒祭日は毎
年四
月十
九日
(問
題﹀
︑
遠近の詣入︑地辺につどいて米銭の参供︿サ
γ
ン ゴを池
水に
捧お
して
︑
‑身の吉凶︑年の豊作を点う︒梓験あり︒ま
た池中に大なる枯木横たわれソ︑枝ごとに白きすりいもの招き物︿実は
P
ロサンショウオむ卵)あり︑俗花山神の鱗僻へ餅と唱う︒(津軽道中課︑万延元年
l
八六O )
とあっ・て︑この地の人はもちろん︑一一一ツ悶内出!平山川下詫の入が諺年
旧四月十九日に参詣に来て豊凶を占っている︒
地を三つに区分し︑早稲・中稲・娩舗がよいか︑サンショウウオの
卵の多少で判断するらしい︒近年︑品種改良・農耕技街の進歩により 豊凶に気候が普ほど影響されなくなって︑神仏に祈ることが忘れられ
﹁十和田様のそチコですじゃ﹂と一一一ツ目つつあるが︑終戦直後でも︑
内の人から本当の餅をもらって食べたし︑諜査に多くと︑六︑七十載
の老人達からはみなこの十和田様に参詣した話をきかされる︒
このほか︑縄社の県下などに誌十和脂様あるいは雨乞する霊池が各
地にあって︑信者が散供を打っている︒
雨 乞 の 神
東北の果︑津軽でも水不足は大変で︑昔はよく水喧嘩が行われた︒
一面︑神仏に折ることも盛んに行われ︑立戸時代は藩をあげて祈祷な どをしているし︑水神はもちろん
4各村々のうぶすな神などにも祈願を
こめ
た︒
その中で︑前述の十和田様法当然であるがその飽の霊地にも雨乞し
てい
る︒
措置
ち広
不絡
を用
う 飯誌村の山中に罰池というのがありて皐天の年は農入どもこの池の
辺に葬送の道具及産室の不静物を運
0. あるいは牛馬の骸骨などを投
げ入れ︑草々けがらはしき業をなすに︑忽ち大いに雨あることは往古
よりしかちというて︑一橋地とよベちとなり︒
かかるからに︑往ぬる嘉
永 臨 め 亥 の 年 も 又 皐 ば つ の 災 あ る か ら 村 患 の 農 夫 共
︑ 此 池 の 還 に む れつどい︑騒々のけがらはしきものを持ちくばりて爵乞の業を営みけ
る が
i
汚識不伶の物官もて謂'伍することは何れの闘にもまふ宥るこ とながら極めてなすべ
に あ ら ざ る 事 な れ ソ ︒
また︑相馬村の陣場沼は 舟 抗 鉱 山 よ り 約 六 キ ロ
︑ 陣 場 森 の 頂 上 に ひ ょ う た ん 形 の 混 あ り
︑ 近 くに小臓があって竜神を蹴る
e 皐の時この︑揺を梓にてかきまわすと
調が降る︒数十年前までは全村あげて癖おした︒
の議査記鍛があり︑
西目最村の詔頭︿地)
にわらで大きな蛇をつくり 村人がかっレで行き︑お水をする︒
同じ薦問屋村の白訳の詔では 老若男女が全課で本流しながら︑男女がわらのふんどしをして角力 をとるなど︑神様のいやがる告為をした︒約六十年前まで持った︒
と教えてくれた︒
以上︑その他は事例なのベるいとまがないので︑各種の名弥の数をあ げておくことにする
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十
様︿資船社)
ニ九社
和
部
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会 為
神
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一四社
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竜 三
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間二社 海
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ニ社
章
弁天
凶九社
様︿絢属社﹀
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信
五
社 の
面様︑本天宮﹀
(昭和五十年東現在)
む す び
津 軽 の 本 神 を 調 査 し
︑ そ の 設 麓 ず け を す る た め に 全 国 的 調 査 に 蓑 手 したのはよいが︑ 島まり民その資料が多く︑
かつ雑多なのに予をあげ て し ま っ た
︒ そ れ ほ ど
︑ 水 持 信 仰 は 一 般 的 で あ る と い え よ う
︒ 津 軽 で
云 え
ば ︑
どの堂社も祭神に関係なく雨乞いや晴天の祈願棋がなされる︒
誕って︑津軽一円此︑靖雨の信仰の網が張りめぐらされるようなもの
であろう︒
そ の こ と を 謁 査 の 上 か ら ま と め て み る と
︑ 東 は 十 和 困 難
i
浅 欝 石 川
!持浦の十和田宮
i
中野・十川の不動︑商は一千
m l
一ニツ関内の十和自
宮
i阿関羅︿不動)
‑乳井の毘沙問(或は堂が平﹀
‑久渡専の観膏の トリオ︑この浅瀬石川と平川の合流点近く北猿質の水神が存恋するし︑
西は岩木山︿白竜の峰︑
田売の竜女﹀!岩本川!話屋の乳穂が譲︿不 動﹀︑村市の毘抄門︑桜庭の講水観苦のトリオが成立しているのは︑
岩木
m 水系の水源地信仰になるのではないかとも考えられる︒
いずれ
にしても今稜
麗 の 調 査 研 究 を 必 要 と す る 民 関 信 仰 で あ る
G