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真宗研究12号全

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真宗連合皐曾研究紀要

一 一 第 十 二 輯 一 一

開高 ft 42a幹 11F弔

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︵ 口 絵 解 説 ︶

親鷲聖人画像

京 都 常 楽 寺 此 文 和 三 一 年 ︵ 一 三 五 四 ︶ 十 月 存 覚 上 人 が F日 均 常 楽 台 に 安 置 し た 画 像 、 康 楽 寺 流 の 一 向 家 浄 耀 の 筆 。 蓮 花 を 描 い た は 何 子 に よ る 真 向 の 合 掌 像 で ある。元来、この種の椅子型の画像は初期真宗の一部に行われてい るが、本像が真向である点に特色がある。それは恐らく大行影堂交 霞の宗但像を写したのであろう。しかし F ﹂ れ が ま た 合 掌 像 で あ る と ころは影堂の祖像と異る。合掌像としては、覚如上人筆の札銘のあ る善導、源均九宗祖の三祖像に例があるが、これはともに立像で ある。かくてこの聖人像はその形容において特殊な点をもつもの で、それは恐らく存覚上人の意趣に基づくのであろう。裏書による と、文和三年十月浄耀に命じ、現月開眼して常楽台御影殿に安置し たという。この前年六十四歳の上人は東山今小路にあらたに一?を 構えて常楽台と号しているので、本像の製作もそれと一連のもので あろう。悶みに、常楽台の寺伝では、これは上人が夢想によって感 得 し た 聖 人 像 を 浄 耀 を し て 描 か し め 、 覚 如 上 人 か ら 伝 授 の 杭 骨 を − ﹂ れ に 納 め た と い う ︵ 鑑 古 録 巻 下 ︶ 。 一 一 書 は 、 空 覚 が 康 正 二 年 ︵ 一 四 五 六 ︶ じ月修覆したとき、写したもので、次の通りである。 一 ド 時 康 正 弐 克 明 央 則 上 旬 之 候 重 一 恭 修 一 覆 記 之 釈 空 覚 ︵ 化 押 ︶ 本 三 文 和 三 歳 刊 一 拾 月 廿 八 日 命 画 丁 一 同 閏 月 廿 日 奉 請 之 本 y ﹂川廿五日書銘文奉開眼所奉安置常楽台御影殿也 本 F ン ml 康楽寺信濃大法叩浄耀 親 機 一 明 人 特 像 釈 存 山 市 御 判 ︵ 宮 崎 円 返 ︶

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親鷺寿像にみえる聖的一面:・::

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教行信証の三本校異における所見:::::::

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ー 天 正 末

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文禄期における教団変革の視覚から

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内観について

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無量寿経における﹁十念﹂と﹁一念﹂::

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ー特に化風の相違について

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石 光 麿 ︵ 一 ︶ 本

諒 山 ︵ 一 一 一 一 ︶ 斉 ︵ ニ 五 ︶ 信 ︵ 一 夫 ︶ 売 一 一 ︵ 五 ︵ ︶ ︶ 井 元 成 会 一 ︶

一 一 一 ︵ 吉 一 ︶ 臣 ︵ 八 一 ︶

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末代の僧伽

ー真宗教団についての一考戸

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大無量寿経における時について::::

真宗における近代的思惟の形成::

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近代真宗思想史における世俗性::

恵信尼公書簡の編次について

・ ・ 宮

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学 会 葉

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俊 原 良

原 祐 葉 昭 ︵ 九 五 ︶ 行 ︵ 一 Q 一 ︶ 生 三 一 回 ︶ 泉 ︵ 三 五 ︶

香 ︵ 一 三 五 ︶ 地廓慧︵一四六︶ 譲 ︵ 一 五 八 ︶

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親驚寿像にみえる聖的一面

麿

︵ 京 都 女 子 大 学 ︶

宗祖の肖像として、著名なものはそのご存命の姿を描写した鏡御影と安城の御影があり又南北朝前期の作で安城の 御影の系統をひく京都伏見の常福寺に蔵されていた熊皮の御影がある。現存するこの三幅の御影はいずれも神格化さ れた聖人の姿ではなく、極めて人格的な、凡夫の自覚に立つ人間像を伝えるものと云われている。︵語鞘弓静弟﹄︶ 鏡御影は藤原信実の息専阿の描写せるもので、延慶三年宗祖滅後四十八年に覚如、がこれを修補している。この巻留に 書かれた識語によるとこの肖像は、宗祖のご存生之尊像で、その容貌は毛端まで違うものでなかったという。鏡御影 の風貌は風霜きびしい関東の大地にきたえられて、 ひたすら念仏の教化に努め、自信教人信、難中転更難の生涯をお くられたたくましい宗祖像をしのばせている。そこには高僧、清僧というよりは農夫とともに又屠出の下類とともに 生きられた意思強固な人間像を初併させるものがある。この鏡御影とともに建長七年宗祖八十三才のおり描写せられ た安城御影も又その風貌すこぶる気掛にみちたものを伝えるが、その顔の描写は﹁此御影テツカラ被御覧御鏡、 ヨ ク 親驚寿像にみえる聖的一面

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親 繍 騎 寿 品 援 に み え る 聖 的 一 一 回 似タリト被仰、御シラカノ数マテモ門

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違奉写云々﹂といわれるほどモデルの聖人に酷似していた︵存覚袖日記︶。安 域御影ができて九十年後の文和四年に存覚がこの御影を見て、 メモを詳さに残した存覚袖日記によると、安城御影に は宗祖の日常生活に用いられた調度品が描かれていた。すなわち、 此影参河国安城照空房相伝而文和三歳甲午九月四日上洛之時比御影事語之の有拝見志之由依申同翌年文和四歳八月 廿五日上洛奉入之間敬拝見拭随喜之涙銘文之様弁御調度等事記之。 一、御衣々文キヒシ、一、御袈裟ノ緒ハ白 卸 小 袖 ハ 一、御帽子被巻御頚不見 一、御小袖ハ桑巻染茜裏ノ門

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御スソミエタリ 一、御念珠ハ両手ニ被持如恒、御念珠ノ露ノ際ヨリ緒ヲハキラル 一、御火桶ハ桑也連子アリテ火ヲ被生タル連子ヨリミエタリ 一、御座ハ大文御敷皮ヲ被用狸皮 一、御草履ハ猫ノ皮 一、御鹿技ハ桑ノ木ノマタフリ也 上ヨリマタフリノ所マテ狛皮ヲ被巻、 とあり、座像の前に、猫皮を巻いた桑の木の鹿校同じく猫の皮の草履、火を生けた桑の木の火桶がおかれ又敷物に狸 の皮が用いられていたことを記している。 又熊皮の御影ユ調度品としては鹿杖のみが描かれているが、安城御影の関本と較べて、この鹿壮ば同じ形のものであ ることがわかる、座像の容貌も安城の御影のそれとよく似ている。敷物は﹁能⋮皮の御影﹂と伝えられるように狸皮で は な く 熊 皮 、 か 描 か れ て い る 。 そ れ が 狸 皮 か 、 熊皮のいずれであるかは、 ﹂の御影の所伝によるほかはないが、 座 像 に は熊皮と察せられるような大きな動物の敷物がみえている。 いずれにしても、安城の御影、熊皮の御影とも動物の毛

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皮を用いた調度品が措き添えられていることは、当時の高僧画には例を見ないものであるという。︵話鮮明の画像﹂ 京 都 女 子 大 学 紀 要 口 、

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︶さてこうした調度品は何を意味するものであろうか。手塚唯聴氏は特に安城御影の調度品が、 具体的に何を意味するものであるか不明であるとされながらも桑を使った品があるので、﹃専修寺文書﹂にみえる﹁桑 畑専信﹂という専信の呼び名から、専信房専海が聖人に贈ったものであったかも知れないという臆測を提示している。 ︵一期同氏︶さりながらこれはあくまで氏の臆測であって、氏自身この調度品が具体的には何を意味するか不可解と云 われるように、管見の及ぶところでもこの問題について明かにした論著は殆んど見られないようである。た父、宮崎 先生は宗祖の寿像について﹁神格化された聖人の姿ではなく凡夫の自覚に立つ人間像を伝える﹂ものであることを指 適され、こうした調度品は人格を基盤として立つ宗祖の人間像を示すものであることを明らかにしておられる。 ︵ ﹁ 親 驚 の 寿 像 ﹁ 鏡 御 影 ﹂ 私 考 ﹂ ﹃ 相 概 販 一 一 昨 日 り る 真 ︶ つ ま り 具 体 的 に こ れ ら の 調 度 品 が 何 を 意 味 す る も の で あ る か 明 確 な指適はされていないが、当時の他の肖像画に見当らない凡夫らしい調度品として、宗祖の姿を伝えるふさわしいも のであるとされている。当時の禅宗の頂相と比較してみても確かにそうした違いを感ぜしめられる。 私はこうした﹁凡夫の自覚﹂を伝える寿像であることに全幅の信頼をおくとともに、こうした宗祖の寿像にみえる調 度 口 聞 が 、 より具体的には平安時代に庶民の中で念仏を弘めた念仏聖とか阿弥陀聖とか呼ばれる一群の﹁ひじり﹂の系 譜に宗祖がつらなっていることを示すものであると考えている。以下この問題について愚見を述べたいと思う。

親驚が俗聖の系譜につらなるものであることはすでに堀一郎氏の大著﹃我が国に於ける民間信仰史の研究口宗教史 篇﹂にみえるところであり又、近年では五来重氏が同様の見解を示しておられる。 ︵ ﹃ 高 野 聖 ﹄ ︶ 両 氏 の 著 作 は と も に 親 驚 寿 像 に み え る 聖 的 一 面

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親 驚 寿 像 に み え る 聖 的 一 酉 四 ﹁ひじり﹂の生態についてくわしく述べておられるのでこの問題を論ずることに今更の感をいだかれる方もあろうが、 しかし親驚の寿像をめぐって、聖との関係において、これを検討して、私なりの見解を述べることもあながち無駄で は な い と 思 う 。 さて、平安時代には市中にあって庶民を教化した念仏聖や阿弥陀聖と呼ばれる一群があったが、こうしたひじりの最 初の人物は有名な空也であった。慶滋保胤の日本往生極楽記には、空也伝を記して、 沙 門 弘 也 。 不 仁 一 = 口 − 交 母 一 、 亡 命 在 v世。或云。出 ν 一 一 讃 流 一 。 口 常 唱 ニ 弥 陀 仏 一 。 故 号 ニ 阿 弥 陀 聖 一 。 或 住 ニ 市 中 一 作 ニ 仏 事 一 。 又 号 ニ 市 聖 一 。 : : : 中 略 ; : : 天 慶 以 往 。 道 場 褒 落 。 修 二 念 仏 三 昧 一 希 有 也 。 何 況 小 人 愚 女 多 忌 v之。上人来後。白唱令ニ他唱

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之。爾後挙 v世念仏為 v 。 誠 是 上 人 化 一 一 度 衆 生 一 之 力 也 。 とあり又最古の空也伝である源為憲の空也諒にも﹁尋常時、称二南無阿弥陀仏一間不 v v 、 天 下 亦 呼 為 − h 阿 弥 陀 聖 一 ﹂ と伝えている。すなわち空也が現われるまでの天慶年間以前では、道場や緊落で念仏三昧を修するものはまれで、小 人や愚女はこれを唱えるのをきらった。しかし空也が現われ自らこれを唱え、他人にもこれをすすめてからは世をあ げて念仏を唱えるようになった、これはまことに空也の教化力によるものであったと、慶法保胤は空也の伝道を高く 一評価し、その故に世間のひとは空也を﹁阿弥陀聖﹂とか﹁市聖﹂と呼んだと伝えている。民間浄土教の祖として空也 は民衆の大きな支持を得ていたが、それは彼の念仏がもともと兇術者としてのものであったからであり、空也の人気 も兜術者としてのものであったと一五われている︵田誠主幹ぎが、空也伝の伝えるところでは、必ずしも児術性ば かりに民衆の支持があったとは考えられない。浄土教のもつ本来的な伝道性を自信教入信の立場で表明したが故に、 すなわち、念仏が世俗的立場を超越して真実性をもつものであることを弘布したが故に民衆から慕われた。慶滋保胤 が空也の伝道性を高く一評価したのもこの点にあったと考えられる。

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又、有名な六婆羅蜜寺蔵の﹁空也像﹂は鎌倉期の彫刻でおそらく時宗系のひとの手になるものと考えられているが、 この空也像は口に念仏をうそぶき、鹿杖に手にし鉦をた L き 、 身 に 鹿 皮 を 着 た も の で あ る と い う 。 ︵ ﹃ 賄 一 割 一 昨 日 巻 四 。 ︶ こうした像の伝えるところは空也が市聖と呼ばれ、民衆の讃仰を得たことを象徴するものにほかならないが、のちの 遊行を中心とした時宗の一団ゃ、聖の集団などには、この空也を模してか、鹿杖を好んでもち歩いたようである。又 空也とほ父時代を同じくして聖とよばれたものに行固がある。行国は皮仙とも皮聖とも呼ばれ、行願寺を建立しここ に住したので、この堂は草堂とも称された。行園の行実については日本紀略、小右記、栄華物語等に記事がみえるの で以下そうした記録を抜粋してみよう。 ︹ 日 本 紀 略 ︺ 後 篇 十 一 寛弘二年五月三日庚氏、御読経終、今日修行聖人行園供ニ I 養 建 立 一 条 堂 一 、 件 聖 人 不 レ 論 − 実 、 熱 一 、 著 ニ 鹿 皮 二 号 − 之 皮 聖 人 、 行 闘 J 寛 弘 五 年 八 月 十 四 日 壬 寅 皮 聖 人 於 − 一 行 願 寺 一 、 白 ニ ふ 日 一 五 十 了 子 十 月 三 日 一 、 始 ニ 四 十 八 講 一 、 擬 ニ 弥 陀 四 十 八 願 一 也 、 為 二 法 界 衆 生 逆 修 一 也 、 行 円 寛 弘 七 年 間 三 月 廿 一 日 庚 子 、 配 一 間 今 日 、 最 勝 講 始 、 限 以 一 一 五 日 一 、 今 日 皮 聖 人 於 − 一 行 願 寺 一 供 一 養 法 華 経 一 千 部 、 千 余 拡 仏 像 一 、 件 聖 人 首 戴 ニ 仏 像 二 身 著 一 一 皮 要 一 、 元 鎮 西 人 也 、 生 年 六 十 余 、 後五時寛仁二年三月十六日己回、季御読経始﹂ o 是 日 。 皮 聖 入 院 行 。 於 ニ 建 立 寺 一 。 一 即 売 始 修 六 万 九 千 三 百 余 燈 事 一 。 図絵三 宛 ニ 法 華 経 文 字 一 。 : ・ ︹ 小 右 記 ︺ 親 驚 寿 像 に み え る 聖 的 一 一 回 五

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親 園 周 寿 像 に み え る 聖 的 一 一 回 ー 』 ノ、 長保元年十一月七日朗卯刻中宮産男子、時一鐸一生世云横川皮仙・ ︵ 一

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一 五 ﹀ ﹁ 長和四年九月十日町皮仙新占東山結構小堂安置金色釈迦如来、亦此寺盲仙有暗諦数巻大乗経云々、仰向彼堂場、頭 中将資平、前大和守景斉同車、到坂下騎馬参上、有皮仙盲仙等、盲仙暗諦観仏三味経、誠随喜、件仙名延亮、讃岐 国 人 、 年 品 川 三 目 盲 、 其 後 暗 諦 大 乗 等 経 、 若 是 権 者 欺 、

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事一長月十日根去七日行園野安︺来云、従九日可令往還人拾粟田山石、又以鉄槌鎖等可破大石、忽令作鎖二可 一昨持来以木作讃様、今日重示送云、只今可送者差使送之、従大津来云、彼従昨日令拾小石亦大石、往還人 与 者 、 響応拾之、又大石少々破得往反車馬破石之処既無停滞云々、 すなわち行園はもと鎮西のひとであった。寒暑をいとわず、鹿皮の衣を常に身にまとっていたから、皮仙とも皮聖と も称された。仙とは山中で修行する僧のことをいうから、行園は初めは横川の修行僧であったと考えられる。寛弘二 年、京都一条の北辺に行願寺を建立供養した。この堂は行園が皮衣をまとっていたので草堂とも呼ばれた。 ︵ 権 記 ︶ 寛弘五年八月十四日この行願寺で弥陀の四十八願を擬して四十八講を始め、同七年三月廿一日には同寺で最勝講を始 め法華経一千部、図絵三千余駄仏像を供養している。又長和四年に新たに東山に小堂を構え、盲目の仙とともに大乗 経を請している。こうした記事は行国が貴賎の帰依をうけていたことを物語っているが、それは小右記長和五年の条 に彼が京都から大津に至る道路で粟田山付近の大石を鉄槌をもってくだき道を修理して車馬往還の便をはかったとあ るので、その人気は社会事業的な奉仕による面もあった。 いずれにしても行園は鹿皮の衣を著けながらも皮聖︵かわひじり︶と呼ばれて貴践の尊敬をうけた。栄華物語巻十﹁ひ かげのかつら﹂には藤原道長の室、高松殿明子の次男、馬頭顕信が皮聖のもとで出家した様子を次のように述べている。

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か Lふる程に、殿の高松殿の二郎君、右馬頭にておはしつる。十七八ばかりにやとぞ、 いかにおぼしけるにか、夜中 ばかりに、皮の聖の許におはして、 ﹁われ法師になし給へ。年頭の本意なり﹂との給ければ、聖、 ﹁ 大 と の 与 い と 貴きものにせさせ給に、必ず勘当侍なん﹂と申して聞かざりければ、 ﹁いと心ぎたなき聖の心なりなり。殿びんな し と 立 は せ ん に も 、 かばかりの身にては苦しうや覚えん。悪くもありけるかな。こ L に な さ ず と も 、 か ば か り 間 山 ひ 立ちてとまるべきならず﹂と宣はせければ、 ﹁理﹂とうち泣きて、なし奉りにけり。聖の衣り著させ給て、直衣、 指 貫 、 さるべき御衣など皆聖に脱ぎ賜はせて、綿の御衣一つばかり奉りて、山に無動寺といふ所に、夜のうちにお はしになり。皮の聖、あやしき法師一人をぞそへ奉りける。それを御供にて登り給ぬ。この大徳などや言ひ散らし け ん 、 日の出づる程に、この殿うせ給へりとて、大殿より多くの人をあかちてもとめ奉らせ給に、皮の聖の許にて 出家し給へると言ふ事を聞しめして、 いみじとおぼしめして、皮の聖を召しに遣したるに、 か し こ ま り て 、 と み に も 参 ら ず 。 ﹁いとあるまじき事なり。参れ/\﹂と度/\召された、参りたれば、殿の御前泣く/\有様間はせ給 へば、聖の申し L ゃ う 、 かう/\。いとふびんなる事を仕まつりて、 ︵ 1 ﹀ ﹁などてかともかくも思はん。聖なさずとも:・ ﹁ の 給 は せ し さ ま 、 かしこまり申侍﹂と申せ

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顕信が急に出家を思い立ち、皮聖のもとに身を寄せたが、皮聖は顕信が道長の息男とあっては、最初はその申の出を 断 っ た 。 し か し 、 たっての希望で遂に出家を許し、賎しげな法師を一人つけて無動寺に登らせた。夜明けとともに道 長は手分けして顕信の行方を探し、彼が皮聖の許で出家したということを聞いて、その出家の事由を皮聖に訊ねた。 その後右馬入道顕信は比叡山から大原に移り住んでいたが、病気になり絶食状態が続き、無動寺に帰った。道長が案 じているうちに、顕信が亡くなったのでその兄弟たちは弔問のため比叡山へ登ったという。︵閥抗明暗諸に十九︶ 栄 華 親驚寿像にみえる聖的一面 七

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親驚寿像にみえる聖的一面 八 物語のこの記事は貴族階級の中心である道長の息男さえも、皮聖の許で出家し、大原の別所で聖の一群に身を投じた ことを伝えているがそれとともに、聖という存在が世俗を脱していわば﹁非俗﹂の立場に立つことを意味し、その故 に世人の山口市敬を集めたことを物語っている。行固がたとえ鹿皮の衣を著ていても、卑しいものと扱われずに尊仰され たのは、その非俗性のためであった。持戒堅固な僧の立場から云えば、動物の皮を用いた日用品を用いることは最も 俗的なことで破戒無戒に等しいと考えられるが、なお尊仰を集めたのはその信仰が内包する﹁非俗性﹂のためであっ た と 思 わ れ る 。

空也や行園が民衆の帰依をうけたのは、その信仰が非俗的意味をもつからであったが、又この両者は鹿皮の衣や鹿 杖等を身につけている。こうした調度品は、﹁聖﹂の好んで用いたものらしく、﹃梁塵秘抄﹂第二に、 と あ り 、 聖の好む物、木の節、鹿角、鹿の皮、蓑の皮、錫杖、木幾子、火打笥、岩屋の苔の衣 ︵ 一 一 二 五 ︶ また僧智印が天治二年十一月二日筆写した﹃一ニ州俗聖起請十二条事﹄に、﹁一問、以愚昧之心可読語大乗哉、 答 、 可 読 議 : : : ﹂ 。 ﹁ 一 問 、 愈 食 麗 衣 、 可 厭 之 如 何 、 答 、 更 不 可 厭 之 、 最 所 好 也 。 ﹂ ︵ 以 上 抜 粋 ︶ と あ る の で 鹿 皮 は 聖 の 最 も好むものであった。同時に彼らは大乗の立場を理解することに努めていたことが知られる。このように聖の衣食等 は極めて世俗的な臭気の充満するものであったが、反面、彼らの修道は世間的認識を超越する非俗の立場を追求して いる。また聖が﹁尊きもの﹂として、崇められていることは、同じく﹁梁鹿秘抄﹂に 大峰行ふ聖こそ、あはれに尊きものはあれ法華経請する声はして、確の正体まだ見えず。

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山寺行ふ聖こそ、あはれに尊きものはあれ行道引声阿弥陀経、暁償法釈迦牟尼仏。 と見えるので、山中で修行する法華聖や阿弥陀聖は﹁尊きもの﹂として謡われた。 このように山中で修道する聖の中には己れの身を修行のために唯、山中に置くばかりでなく民間に降って念仏をす L めたり、又念仏に専念して他の事を知らないものがあった。今昔物語には、この例があるので示してみる。 付今昔物語巻十七の二﹁阿弥陀の聖といふ者有けり。日夜に行き、世の人に念仏を勧むる者也。

II 巻二十の十二﹁其山に久しく行ふ聖一人あり、心に智り無して、法文を不 v学ず。只弥陀への念仏を唱るよ り外の事不 v 知 、 ず ﹂ 又 、 ﹁ 栄 華 物 一 立 巴 巻 十 九 御 裳 、 ぎ 。 ?﹂争也、

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世の中の聖どもさながら参りたり。賀茂の祭の一条の大路に出で来てののしる。新阿弥陀。前阿弥陀などいふ法師 ばら声を捧げて阿弥陀めくさへぞ尊かりける。::: と万灯会に人が多く集まり、阿弥陀聖が沢山やってきて大変賑やかであったと述べており、そのようすが尊かったと いう。ここで阿弥陀聖を﹁法師﹂と呼んでいるが、この﹁法師﹂は敬意的に使用されている。 ﹁ 法 師 ﹂ と い う 呼 称 に ついては平安中期以前の文献では、例えば日本三代実録や栄華物語では充分敬意を以て使用されているが、平安末、 鎌倉期に入ってからはむしろ蔑称として使用されるケ l ス が 激 増 し て い る と い う 。 ︵ 吋 一 叫 す 臨 時 一 課 長 山 立 耕 一 れ 賄 曜 日

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鮎︶今昔物語巻二十九ノ九﹁阿弥陀ノ聖、殺人宿其家被殺語第九﹂では阿弥陀の聖という法師は悪僧限りない ものとして語られ、法師は蔑視的に用いられている。しかし今昔物語には﹁聖﹂は真面目な求道者として語られる場 合が少くないので、尊称、蔑称両方で使用されている。 以上のように平安時代中期以前の聖は大むね尊敬を受けているものが多く、末頃になっても敬意をもって接せられる 親驚寿像にみえる霊的一面 九

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親驚寿像にみえる聖的一面

聖があり、心ずしも室町以降とくにみられるような卑しい存在ばかりではなかった。鎌倉期に入ってからも源空の言 行を記述した﹁和語灯録﹂巻五には﹁ひじりにて申きれずば、 めをまうけて申へし、妻をまうけて申されずば、 ひ じ りにて申へし﹂という源空の言葉を伝えており、 また﹃法然上人行状画図巻四十五﹂にも﹁ひじりで申されずば在家 になりて申すベし。在家にて申されずば遁世して申すべし﹂と同様な源空の言葉を記している。源空は在家でも、出 家でも念仏すべきをすすめているのだが、この﹁ひじり﹂の遣い方には世間を離れて修行するものの意味で用いてい る 。 ﹁ひじり﹂と妻帯の俗人、及び﹁ひじり﹂︵遁世︶と﹁在家﹂というようにこれを対比している。

源 空 聖 人 私 日 記 ︵ 西 方 指 南 抄 中 巻 ︶ に は 、 天台座主中納言法印顕真が大原に龍居して念仏門に入り、 その時、法然 聖人が浄土宗義を立したと聞いて処処の智者をさそって大原竜禅寺に集まり、法然聖人を請じて念仏の功徳を聞いた という。その集ったひとのなかに、光明山僧都明編や笠置寺解脱上人の名がみえている。明編は東大寺三論宗の学匠 一門の貞慶などともに学才の誉れ高い高僧であったが、後世、高野聖の元祖といわれているように建久六年︵一 一九五︶五十四才で高野山に入った。︵議問自立参照︶明一偏は空阿弥陀仏と称し﹁出家遁世の本意は、道のほとり野 辺の聞にて死せんことを期したりしぞかし﹂︵ト一 τ 一口芳︶と述べているが、これは親驚の言葉と伝えられる﹁某開眼せ ︵改邪紗﹀という言葉と何とよく似ているであろうか。 で 、 ぱ賀茂河にいれてうほにあたふベし﹂ 高野聖として明編が専修念仏と深い関係をもつようになったのは、大原龍禅寺集会における源空の導きにあった。源 空のもとにはこのように聖と呼ばれるひとが集っていたようである。﹃西方指南紗﹂や﹁ご消息﹂にも、源空のこと ﹁ 堀 一 f 前掲 を﹁聖人﹂と呼んでいるのがみえるがこの﹁聖人﹂の呼称は﹁聖﹂のことを指呼していることが多いという。

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都 翫 ︶ 法師の呼び方についても、平安末以降は餌取法師とか餌差法師とか蔑称的な用い方が多くなっているが、親臨時自身も 又﹁正像末和讃﹂に﹁僧ぞ法師という御名はたうときこと L き与しかど、提婆五邪の法ににていやしきものになづけ た り 。 ﹂ と述べており、法師という名は卑しいものに名づけたとしている。しかるに﹃教行信証﹂後序には﹁真宗興 隆 大 祖 源 空 法 師 、 弁 門 徒 数 輩 、 不 三 考 ニ 罪 科 一 、 狼 坐 ニ 死 罪 一 、 或 改 − 福 儀 一 賜 ニ 姓 名 一 処 ニ 遠 流 一 予 其 一 也 爾 者 巳 非 ニ 僧 一 非 ニ 俗 一 是 故 以 ニ 禿 字 一 為 ニ 姓 一 空 師 弁 ニ 弟 子 等 坐 ニ 諸 方 辺 州 一 経 ニ 五 年 居 諸 一 ﹂ と 源 空 を 法 師 と 呼 ん で い る が 、 こ の 後 序 の 呼 称 に つ い て 、 古 田 武 彦 氏 は 、 ﹁親驚流罪時、旧仏教側の圧力によって、公式文書において﹁源空聖人﹂の表現がとり得なか った事情を明かすものである。従って、親驚自身にとっては﹁真宗興隆大祖﹂であっても、公式文書内の表現では罪 科中の法然を指称する時﹁源空法師﹂と表記する他なかったのである。﹂︵嗣祇論文︶と述べておられる。だが存覚は 袖日記に、安城御影にはもともと﹁親驚法師真影建長七歳口月八日、法眼朝国筆口筆一字別行也﹂と御表書してあっ たと記録しているので、親驚生前から閉店後直後にかけてすでに門弟は祖師を法師と呼称していたと考えられる。すな わち安城御影の製作は建長七年、専信房専海が高田本教行信証を書写した際に因由したものとされており︵肝臓一諜城 学紀要 M 巻︶、それは元久二年、親需が源空より選択集の書写を許された際にその真影をも図画されたことと相応じる 意味をもっていた。祖師の主著を書写することと、その肖像画を図画することは人格的関係の深い師弟の結びつきを 一示すものであるが、安城御影がそうした宗祖と専海との深い人間関係を示す資料ならば﹁親驚法師﹂の呼称も、深い 敬愛の念をもって書かれたものといえよう。 す る と 、 ﹁法師﹂という呼称は後序で﹁源空法師﹂と使用されていても、それは﹁非僧非俗﹂という言葉と密接な関 連をもって使用されたものであって必ずしも﹁正像末和讃﹂で親驚が使った﹁卑しきもの﹂という意味ではなかった。 親驚寿像にみえる型的一面

(20)

親 驚 寿 像 に み え る 聖 的 一 一 回 平安時代には聖が法師と呼ばれ可成りの尊敬を受けた事実は前述の通りである。親驚が源空を﹁聖人﹂と呼び又﹁法 師﹂と記しているのも元来﹁ひじり﹂が脱俗の立場にあって、而も年璃を無視し僧階を意としなかった非僧非俗の生 活にあって真の求道者の意味をもっていたからであろう。 親驚自身﹁非僧非俗﹂と自覚し、又﹁法師﹂と呼ばれている事実はこの聖の系譜に連っていることを示している。非 僧ということは、出家持戒によらない立場を示しているが、市もその中で非俗を自覚することは、世俗的価値を超え る信心為本の立場に徹することであった。親驚の立場が権力を拒否し、身分、地位にこだわらない同朋主義に立つこ とができたのも、それが世間的認識では測ることのできない信心という非俗性に貫かれていたからであった。

安城御影や熊皮御影に描かれた調度品はまきしく聖が本来もっている非俗性と而も妻帯を可能とする在俗者の生活 の両面を示していると思われる。僧であることを示す衣の姿に聖の好む鹿杖や動物の皮を用いた敷物、草履を描きそ え て い る の は 、 ﹁非僧非俗﹂の自覚を持った宗祖の聖的一面を門弟達が受けとめていたことを物語っている。 註 (1) 松 村 博 司 、 山 中 裕 校 訂 、 岩 波 古 典 文 学 大 系 布 、 河 、 で は 従 来 、 横 川 聖 と さ れ て い た の は 誤 り で ﹁ か わ の 聖 ﹂ が 正 し い と 校 訂 さ れ て い る 。 (Z) 堀 一 郎 氏 の 前 掲 著 書 に も ﹁ ひ じ り は 本 来 非 僧 俗 の 求 道 者 で あ っ た ﹂ と 述 べ て あ る 。 幻 頁 。

(21)

の三本校異における所見

弘 陪 江 沼周杭

︵ 本 願 寺 派 ﹀

﹁教行信証﹂の古本には、次の三種が現存する。 草稿本︵坂東本︶:::東本願寺蔵||東 清 書 本 ・ : : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 西 本 願 寺 蔵 | | 西 専 信 書 写 本 :

j

i

− − : : 専 修 寺 蔵 | | 高 これらの三本については、その筆跡・奥室

7

体裁などの面から史的考証がなされているのであるが、今は本文の字句 や訓点など内容の同異によって考察せられるところを、試みに述べてみたい。なお、右の三本とは時代を具にするけ れども、比較対照する便宜上、左の一本をも併せて一ボすこととする。 存 如 蓮 如 両 筆 本 : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 西 本 願 寺 蔵 | | 冊 以下、これら四本を東西高両の記号で一示し、引文については、大正蔵経を︹正蔵︺とし、現在一般に流布している諸 〆 ﹃ 町 、 / a\/ t \ 〆 t \ 教行信託の三本校異における所見

(22)

教行信証の三本校異における所見 四 本を︹現流︺として表わす。また、文の所在は西本願寺蔵版の丁数によって示した。 さて、これらの諸本は、その内容において本質的な相違は見られないけれども、 一々の字句・訓点・字体・仮名づ かいなど微細な差異まで悉く挙げるならば、相当な数にのぼる。その中、殆んど問題にならないと思われるものを除 b c

一応注意を要すると認められるものだけ抜き出しても、 およそ八千の項目が数えられるのである。 昭和四十二年五月西本願寺で改版発行せられた蔵版﹁教行信証﹂には、それらの一々について脚註を付し、校異を 示 し て あ る 。 相違の様態は種々雑多であって、 一概にこれを分別判断することはできないけれども、全般を通じて窺われる主な 特徴をまとめると、次のように考えられる。 ︵ 文 例 は 代 表 的 な も の を 挙 げ る に と ど め た 。 ︶

吾 ;,6

E開 〔ー〕 いずれも一つの原本より成る同類のものである。 a 独特の訓点の一致 行 財 ﹃ 易 行 ロ 山 ﹂ 四 本 共 ﹁ 皆 称 一

ι

憶 ニ ふ ル コ ト 阿 弥 陀 仏 米 願 一 払 ν 是 い −1 \ノ、ノシタマヘリ\ノセシメタマヘリ、ノニセシメタマヘリ 信末日山﹁本願成就文﹂東西﹁至心廻向﹂、高﹁至心回向﹂、両﹁至心廻向﹂ 〆 t 〆 1 〆 t 〆 l‘ 、 b 異字の一致 信 末 附 ﹁ 浬 繋 経 ﹄ 化 本 位 ﹁ 末 法 灯 明 記 ﹄ 脱字・脱文の一致 四 本 共 ﹁ 名 二 日 月 称 一 ﹂ 、 ︹ 正 蔵 ︺ は ﹁ 名 目 二 月 称 一 ﹂ 四 本 ﹁ 彼 酒 家 至 ニ 酒 家 こ 、 ︹ 現 流 ︺ は ﹁ 従 − 一 酒 家 − 至 ニ 酒 家 こ C

(23)

信 本 陣 ﹁ 往 生 要 集 ﹂ 証 時 ﹁ 論 註 ﹂ 四 本 ﹁ 燭 壊 ﹂ 、 ︹ 現 流 ︺ は ﹁ 不 ニ 燭 壊 こ ト ヲ ナ ラ 四本﹁不 v得ニ異不こ﹂、︹現流︺御加点本﹁不 ν 得 v 不 v ν 一 不 ν

d 難読・難解の訓点の一致 オ ソ ラ 一 ク ハ キ コ ト ヲ O 品 ニ ヌ ヲ ク 、 シ キ コ ト ヲ 四本﹁既知三上首恐同二長劫己、︹現流︺御加点本﹁既知−主首一恐同ニ長幼こ 東 西 高 概 ね ﹁ 按 太 史 云 等 衆 重 カ ク ト モ ﹂ に 作 る 。 〆 ’ 見 、 〆 , 、 、 〆 , 、 、 ︹ 正 蔵 ︺ は ﹁ 検 ニ 太 史 公 等 衆 書 己 、 両 ﹁ 検 ニ 太 史 公 証 位 ﹃ 論 註 ﹄ 化 末 蹴 ﹃ 弁 正 論 ﹂ 〔ニ〉 等 衆 重 一 ﹂

3 ノ 東が原本である o r t

1 j

a

東の推敵後に他本に書写している。 行で正信偶﹂冊﹁唯説和一竺一宮﹂を﹁唯説弥陀本願海﹂ レ ハ O チ ノ 化本貼﹃小経﹂顕説の釈﹁此即此経示ヱ顕義一﹂を﹁此,是:::﹂ b 他本は東の字形を誤まり写す。 ヒ ト シ キ コ ト ユ 教世﹁述文賛﹂懐﹁元 v 匹故﹂の﹁匹﹂が﹁巨﹂に似た形に書かれている。酌軒町﹁ヒト院コト﹂、︹正蔵︺ 化本財﹁大集経﹄冊﹁了ニ知清浄一竹一−﹂の﹁士﹂が﹁土﹂に似る。酌冊﹁

ι

﹂ 、 配 ﹁ 弘 ﹂ に 作 り ﹁ 土 ﹂ と 註 記 、 r , ‘ 、 〆 ’ t、 r ’ t、 改 に む 改 。 む(西〉 。(高〉 (西〉(両) (高〉「 (両〉唯 「 説 此レ弥 s~'、陀 苧 レ 本 願

乙海

﹁ 匹 ﹂ f「 正 〔三〉 蔵 ︺ ﹁ 士 ﹂ 、1 ノ 、 , ノ 西は東を忠実に清書したもの 〆 s 〆 g

a

直接東によったと考えざるを得ない例 信本開﹃論註﹄﹁信心不 v淳﹂の﹁淳﹂の頭註、恥は上欄左から右へ﹁淳﹂の註、更に﹁誇﹂の註を横向けに記す。 〆 t 、 、 四は上欄右から左へ﹁語﹂の註、次に﹁淳﹂の註を縦書きす。これでは﹁誇字:・同−

L

P

﹂が解しがたい。恥 教 行 信 証 の 三 本 校 異 に お け る 所 見 五

(24)

教行信証の三本校異における所見 ~ ; 、

3 ノ 頭註なし、両割註とし﹁誇﹂ 〆 f‘ 、 フ キ ヤ ウ ウ ト 信末位﹁浬繋経﹄東﹁日−一行雨乙に作り、﹁雨﹂を﹁行﹂ , ‘ 〆 t、 、 フ ト ﹁ 日 ニ 雨 行 一 ﹂ の 註 な し 。 の上に入れる記号を付す。 (西〉 日フ 雨

t

(高〉 (両〉 n 正 蔵 ¥...J b 形の誤まり

i ノ エ ヌ ψ − 行 附 ﹁ 小 経 蔵 疏 ﹂ 東 ﹁ 口 調 , ﹂ の ﹁ ヨ ム ﹂ が e − / l、、ョム 信末世﹁礼讃﹂

t

M

キ主﹂の苦の横線と﹁、一こ︵キ一一︶と交わり﹁トご 1 J \ ︸ ノ \ / 四西は高によって補筆註記改訂し、更に︹現流︺などを参照 r I ﹂/ t / t 、 、 J J

a

高による訓点の補筆註記 / 1 、 , ノ \ i ノ O シ ヲ ス 、 ︸ ノ シ 行自称名破満の釈東両﹁破−一:・元明一﹂、高﹁破こ、西﹁破スイ木﹂とある / f\ 〆 t 、 / ︷ \ 。 ニ シ − T 行岨﹁易行品﹂東両﹁智慧明﹂、高﹁明﹂、西﹁明ケシイ本﹂ 1 1 〆 t / 、 、 / I 〆 l、 、 ー ノ シ ト サ フ 、 ︸ ノ サ フ ス ル コ ト \ ノ ザ 7 1 j 行 同 大 智 の 文 東 ﹁ 無 ν雑﹂、高﹁雑﹂、西﹁雑スルコト﹂両﹁雑﹂ : / L O / t / 仁 イ ノ i 一 一 五 f L 。 。 ノ 、 J ノ ア ラ ユ ル \ J ノ ア ラ ユ ル ノ 信本山本願成就文東﹁諸有衆生﹂、高﹁諸有 L 、西﹁諸有 L 両 ﹁ 詰 有 ﹂ 6 4 f \ 〆 f / l 〆 ︷ 、 b 高による字句の校異註記 ー ノ \ ノ 1 ノ 1 ノ本イマ一五 信 木 地 ﹁ 浬 繋 経 ﹂ を 引 く の に 東 両 ﹁ 又 一 一 一 口 ﹂ 、 高 ﹁ 又 云 ﹂ 、 西 ﹁ 又 一 マ 一 口 ﹂ / Lf \ / L f \ イ 本 一 J タマフコトヲ\︸ノニ F ニ 、 l ノニノシタマフコト 信本鮎﹁浬般市経﹂東﹁為−衆修−一苦行一 L 高 ﹁ 為 ν 衆 故 苦 行 シ タ マ フ コ 卜 ﹂ 、 西 ﹁ 為 v衆修ニ苦行一シタマフコト﹂に作り f \ ﹁ \ ノ イ 木 千 シ タ マ フ

7 / 本 − 一 故 一 一 有 ナ リ ︶ と 脚 註 、 両 ﹁ 為 v衆修ニ苦行一﹂、︹正蔵︺﹁故苦行﹂但し南のコ一本﹁修苦行﹂ 〆 ’ t\

I ノ

c

高による訓点・字句の改訂 / f、 、 ラムそノタヘニセムーノラムモノニタヘノユ\ノ\ノ 行妨﹁浬繋経一﹂東﹁不 ν 堪 ニ 常 行 一 施 ﹂ 、 高 ﹁ 不 v 堪ニ常行施こ、西は東の如き点を高の如く改む、 / a 〆 ’ \ 〆 t f ’ t 〆 t ﹁ ヨ ス ﹂ 似 て る (西〉 左 仮 名 ヨ (西)ス L 苦~(高〉 し、(両〕 (高〉左 「 司

i

i

苦士な ヘ し (両〉 苦

2

に 似 る 。 両 一「 不

Z

Vモ 堪

i

(25)

常 行 − 施 ﹂ ア ラ ハ ス ノ カ ホ ハ セ ヲ 1 ノ ア ラ ハ ス ヲ カ ホ ハ セ ナ , 、 J 、 ノ ア ラ 、 ス 1 1 信末祐本願成就の釈東﹁形ニ身心悦予之貌−也 L 、 高 ﹁ 形 ニ 身 心 悦 予 − 之 貌 也 ﹂ 、 西 は 東 の 如 き を 寸 町 民 身 、 い 限 引 −

L

鉱 セ 削 ﹂ 〆 t 〆 t 〆 ︻ 、 f t 、 ョ ロ コ フ 、 ノ ア ラ ハ ス ノ ヲ カ ヲ ハ セ に 改 む 、 両 ﹁ 形 ニ 身 心 悦 予 − 之 貌 也 ﹂ 信末崎﹁止観﹂恥即︹正蔵︺﹁笠口昨者﹂、断﹁薩﹂に作り﹁提ィ﹂と頭註、配﹁提﹂を﹁薩﹂と改む 真仏土佐﹃大阿弥陀経﹂恥﹁莫 v不ニ聞知この仮名﹁ルコト﹂とありしを﹁ルハ﹂に改む、高﹁ルコト﹂、西﹁ル 〆 t ‘ 、 〆 t 、 〆 t に 改 む 、 両 ﹁ ル ハ ﹂ ハ ﹄ を ﹁ ル コ ト ﹂ 現流本を参照 1 ノ 、 , ノ 、 , ノ 。 、 J ノ キ 信末財﹁浬繋経﹂東高両﹁羅聞紙王﹂、西﹁祇﹂の右傍に﹁者ィ﹂の註。︹正蔵︺﹁者﹂に作る、但し南の三本は﹁祇﹂ ’4 r t 、 f , 、 、 〆 g\ 〆 t 化本航﹃末法灯明記﹂恥制﹁如ニ今時一匙最末時也﹂、︹正蔵︺﹁是俳齢最末時也﹂西側は右傍に﹁像法﹂を補記

e

z

本を参照 、 , ノ ﹁ 住 ニ 導 師 行 一 ﹂ 、 慣 は 右 下 に ﹁ 道 万 持 品 ﹂ の 註 あ り d 教 詰 ﹃ 大 経 ﹂ f 西のみ特異な個所 −各巻の引文について、行巻には﹁成就行﹂、信巻には﹁成就信﹂、証巻には﹁難思議往生﹂、真仏土巻には﹁成就土﹂ な ど の 傍 註 が 多 い 。 2 願名などに関する傍註も多い。

3

全般的に仮名が詳しい。 〔五〉 4 (高〕化 教 は 巻 立(東〕尾 事 な 題 百 ど

委長

iia

に て ~ 目キ

立 当

前 異 見 な る

東高は﹁顕浄土真実教行証文類六﹂、両は﹁:・六末﹂とす。西のみ﹁顕浄土方便化身土文類六﹂とあり 七

(26)

教 行 信 証 の 一 一 一 本 校 異 に お け る 所 見 八 字体の違い 教同総標綱紀恥酌冊﹁按﹂、恥のみ﹁案﹂に作る 同 右 東 西 両 ﹁ 廻 ﹂ 、 高 の み ﹁ 回 ﹂ に 作 る 信巻別序東西両﹁釈親驚﹂、高のみ﹁釈轡﹂に作る f t 、 f \ f t 、 / t 、 b 経 一 言 ・ 論 日 ・ 釈 云 の 用 例 が 異 な る 。 行時﹁安楽集﹂を引く﹁又云﹂、即のみ﹁又日﹂に作る / t

・ 、

行蹴﹁述文賛﹂を引く﹁又一再﹂、時のみ﹁又言﹂に作る / t

。、 E ノ 行 財 ﹁ 浬 般 市 経 ﹂ を 引 く ﹁ 浬 繋 経 言 ﹂ 、 高 の み ﹁ : : : 云 ﹂ に 作 る f ‘ 、 a 訓点が異なる ヲ キ ヨ ト 行儲﹁論註﹄恥配偶﹁聖智元知也﹂、叩﹁聖知元パ知也﹂ : 、 J 1 ノ 、 ノ マ シ マ サ ス コ ト マ ン マ ザ ス コ ト 、 ノ マ サ ス コ ト マ ザ ス コ ト 行則一乗海釈東西両﹁元ニ異如来一元ニ異法身こ、高は﹁元 v ニ 如 来 一 元 ν 異 ニ 法 身 こ 〆 ﹃ 、 、 、 t ノ ア = ヲ 、 ス ノ 、 セ 信 末 M 本願成就の釈東﹁形白身心悦予一之貌也﹂ : / L o 、 1 ノ ア ラ ハ ス ヲ カ ホ ハ セ ナ リ 高 は ﹁ 形 ニ 身 心 悦 予 一 之 貌 也 ﹂ 、 西 両 は 四 の C の第二文に記した通り 信 末 日 本 願 成 就 の 釈 ∞ ﹁ 畏 多 少 之 一 言 一 也 ﹂ 、 何 は ﹁ 民 一 多 少 一 喜 一 ロ ハ 也 ﹂ 、

E r

恥 に ほ ぼ 同 じ 。 C d その他の違い \ t ノ 、 1 ノ 、 j ノ シ テ ヲ 、 , ノ 東西両﹁摂ニ取衆生こ、高のみ﹁摂取﹂に﹁ヲサメムカエトリタマフトナリ﹂の左訓ありて、右仮 / ’ kf \ / t 、 〆 L 信 本 財 ﹁ 論 註 ﹄ 名 な し 。 信 末 12左 真 仏 弟 子 釈 の 結 び (東〉 (西) (両〉 愚 禿 鷲。 (高〉 の み 驚 」ー の 字 な し

(27)

〔六〕 、 、 , ノ 、 、 , ノ 高は東の補訂前の形態に近い / t / t \ ︸ ノ

a

東の改訂前の文字や送り仮名に合う / t、 、 O \P ノ \ , ノ 、 ︸ ノ \ J ノ 教付引文の結び﹁則此﹂東は﹁是﹂とありしを﹁此﹂に改む。高﹁是 L 西 両 ﹁ 此 ﹂ 〆 t \ 〆 t 〆 f / F t、 均 J 、 、 , ノ 、 、 J ノ 、 h , ノ 、 、 J / ’ ‘ 、 信本制﹁如来会﹂﹁元 v 退﹂東﹁シ﹂とありしを﹁ク﹂に改む。情﹁シ﹂、個情﹁ク﹂ ヨ リ \ ノ 、 ︸ ノ \ ︸ ノ \ ︸ ノ ヨ り 証位﹁玄義分﹄﹁此方発遣﹂東﹁ニシテ﹂とありしを﹁ヨリ﹂に改む、高両了一シテ﹂西﹁方﹂ / l 、 / t / ︷ \ / t\ニシテ 0 1 ノ 化本財五専の釈﹁四専名﹂東﹁称﹂とありしを塗抹し﹁名﹂と頭書、時﹁称﹂、 一 一 / ︷ \ 〆 F t、 ー ノ 1 ノ 西﹁名﹂に作り左傍に﹁称﹂と註記、両﹁名﹂ / t / ︷ \ 、 ︸ ノ

b

東が後に補筆したと思われる字句がない。 / t、 、 行巻標挙の細註叩は﹁臨時抗出﹂とし真の右上に﹁浄土﹂を補記し、択の右下に﹁本願﹂を補記す。叩﹁真実之 \ J ノ 、 1 ノ 行 ﹂ の み 。 西 可 ﹁ 浄 土 直 実 之 行 ﹂ ︵︵選択本願之行 、3 ノ 、 、 ノ 化本前三願転入の釈のあと﹁報二謝至徳一﹂東は﹁至﹂右傍補記、高﹁至﹂なし、西﹁至﹂の左傍に﹁イ本アリ﹂ / t\ 〆 , 、 、 〆 f t、

1 1 ノ の 註 、 両 ﹁ 至 ﹂ あ り 。 〆 t、 、 、 、 , ノ

c

東の頭誌がない場合が多い。 f \ 行日﹁品開唯一戸﹂冊佃は頭註、市仰にはなし。 、 、 ノ 、 1 ノ 、 h ノ 、 1 ノ の字の註東は頭註、西は日右の﹁命﹂の所で頭註、高にはなし、両は割註。 〆 t 〆 f / t / t1 ノ 、 ノ 1 ノ 1 ノ の字の註東西は頭註、高にはなし、両は割註。 f t 、 、 / t、 、 r r t 、 、 〆 ’ t、 \B ノ \ ノ 、 1 ノ 、 J 〆 の字の註東西は頭註、高にはなし両は割註。 〆 t\ / t 、 〆 ︷ 、 、 / t、 、J ノ 、 3 ノ 、 ﹄ ノ \ i ノ の字の註東西は頭註高にはなし両は割註。 / 九 / 九 / t / 九 行 同 ﹁ 論 註 ﹂ ﹁ 命 ﹂ 行 陥 ﹁ 論 註 ﹂ ﹁ 称 ﹂ 行 拡 ﹁ 礼 讃 ﹂ ﹁ 出 回 ﹂ 信 本 吋 ﹁ 論 註 ﹂ ﹁ 淳 ﹂ 教行信証の三本校異における所見 九

(28)

教 行 信 証 の = 一 本 校 異 に お け る 所 見

O

経言・論日・釈云の体裁が整っていない。 A U 1J 五 の

b

に示す通りである o r L 1 J 1 ノ \ ノ 七古同は推敵後の東によって校異補記し、現流本その他を参照す。 / 1 K / k f \

a

東による字句の校異 / t町 、 i 白 。 、 J J カ ノ 行日﹁十住論﹂﹁諸仏大法 L 、高は本文﹁海﹂に作り﹁法﹂と頭註 f , 、 、 、 、 J ノ 行 佐 ﹁ 十 住 論 ﹂ ﹁ 威 儀 尊 貴 ﹂ 、 吉 岡 は 本 文 ﹁ 議 ﹂ に 作 り ﹁ 儀 ィ ﹂ と 頭 註 / ︷ 、 、 − 一 。 、 1 ノ 行悩﹁要集﹂﹁多足﹂、高は本文﹁即﹂に作り右傍に﹁足ィ﹂の註 1 1 / ︷ \ 。 、 , ノ 、 3 ノ 信末時﹁止観﹂東両﹁菩提者﹂、高本文﹁薩﹂に作り﹁提ィ﹂と頭註、西﹁提﹂を﹁薩﹂に改む f \ / t 一 テ \ ﹄ ノ 信末貼﹁浬繋経﹂﹁特見﹂高本文﹁持﹂に作り左下に﹁料﹁﹂の註 i / ’ t、 チ \ ノ カ 化本財﹁弁正論﹄﹁河池﹂、高木文﹁何﹂に作り左傍に﹁河ィ﹂の註 ︷ 1 / ’ t、

h ノ b 東による字句の補記 〆 l、 、 、 、 , ノ 、 、 J ノ 、 、 ﹄ ノ 行制﹁大智﹂についての註、東西﹁元照律師也﹂と頭註、両﹁大智唱云﹂の下に割註、 〆 t 〆 ︷ ‘ 、 / 目 、 (高〉 ー「 大 智 しー の 左 傍 白「 フじ 照 律 師 ィ ﹂ と 補 記 真 仏 土 地 ﹁ 論 註 ﹂ ぽは﹁法縁﹂右傍補記、舗は﹁法縁﹂なく右傍に﹁有縁﹂と補記︵次下の コニ者無縁﹂に対して﹁有縁﹂と記せるか︶、恥﹁法縁﹂右傍補記し﹁或本ニアルイ本ナルヘシ﹂の註、冊 ﹁ 二 者 法 縁 是 中 悲 ﹂ 、 ︹ 現 流 ︺ 法

扇。警

乃 古 あ 主 り 刀て 也 Lー 一 滴 は 本 文 に ﹁ 斯 ﹂ な く ﹁ 斯 ィ ﹂ と 頭 書 補 記 化 本 17右 (東〕横 に 超 よ の る 釈 送 り 仮 名 の 補 記 C

(29)

ス ノ 、 J J シ タ 一 テ マ y ル 品 〆 t 、 行田﹁サ行品﹄慣例﹁

1

ニ命彼仏本願力ヲ﹂、高﹁帰ニ命彼仏本願力こに作り﹁力﹂に﹁ヲィ﹂と註記、明﹁帰ニ 命彼仏本願力ことあり︵命の左仮名は高を写し誤るか︶ シ タ カ ヒ タ テ マ ツ ラ 一 1 ノ 信本鮎﹃序分蔵﹂﹁不 ν従﹂高は﹁従の右﹁タノミタテマツラ﹂とあり、左に﹁シタカヒタテマツラィ﹂と 〆 s 、 、 註記 ︹現流︺による校異 \ 3 ノ 、 B ノ 、 h ノ 行 財 ﹁ 安 楽 集 ﹂ 東 高 伺 ﹁ 計 ニ 一 衆 生 念 仏 之 功 一 ﹂ 、 寺本・高野山宝寿院本は﹁ごに作る 。 、 i ノ 、 ︸ ノ 四 本 と も ﹁ 歓 喜 至 二 一 心 一 ﹂ 、 一 一 明 ﹁ 念 ﹂ と 頭 註 、 明 ﹁ 念 ィ ﹂ の 註 、 ︹ 現 流 ︺ の ﹁ 礼 讃 ﹂ で は ﹁ 念 ﹂ と あ d 、 , ノ 高﹁切﹂と頭註、両﹁一切﹂・︹現流︺は﹁一切﹂、た立し高山 / t \ 信 本 財 ﹁ 礼 讃 ﹂ り﹁機儀﹂では﹁心﹂とある 、 、 ノ ノ \ i ノ \ j ノ 。 、 1 ノ 信 末 日 四 ﹁ 浸 般 市 経 ﹂ 東 西 両 ﹁ 屑 口 ﹂ 、 高 右 傍 に ﹁ 膚 ィ ﹂ の 註 、 ﹃ 一 / Lf \ / t f 、 レ ン ノ ヲ ニ 、 l ノ 化末町﹃大集経﹂東﹁憐ニ陀衆生一故﹂、高﹁陀﹂の左傍に﹁イ無﹂の註、右傍に﹁ミン﹂の仮名あり、﹁思﹂と頭 〆t 、 、 註す。側﹁陀﹂の右に﹁忠弘﹂と註記、何﹁陀﹂を﹁他﹂に作る。︹正蔵︺﹁時一思衆生一故﹂とある。

e

z

本による校異 \ ︸ ノ 、 i ノ \ J J オ ノ y カ ラ 、 j 〆 行砧﹁五会法事讃﹂東西両﹁観音勢至自来迎﹂、高﹁自﹂の左に﹁ミツカラィ﹂と註記 64 / ’ t \ / ’ t \ 〆 ’ t 、 、 / r t \ J / \ jJ1 ノ O ナ リ ニ シ テ 、 ﹄ ノ 行財﹁観経義疏﹂東西両﹁円頓一乗純一﹂、高﹁ナリ﹂の右傍に﹁イ無﹂の註あり ’ ー 、 〆 , ‘ 、 、 〆 t 、 、 / ’ t 、 〆 , ‘ 、 − 一 、 ︸ ノ \ J ノ \ 。 ノ ハ 、 ト タ タ 一 フ テ ス 二 ヲ 、 ︸ ノ 証 一 山 ﹁ 論 註 ﹂ 東 西 両 ﹁ 号 一 口 v 日 未 ν 足 − 一 一 以 明 ニ 不 動 こ 、 高 左 傍 に ﹁ イ マ タ タ ラ サ レ ト モ ア キ ラ カ ナ ル ヲ モ テ フ ト ウ ト イ フ ィ 勾 一 / t 町 、 / f / i \ レ ハ / f 本﹂の註あり ︹ 正 蔵 ︺ ﹁ 膚 ﹂ と あ る 化 本 院 ﹁ 平 等 覚 経 ﹂ (東〕 (西) (両〕 不ス 可ラ 。致 (高〉 到ル の 左 に ﹁ ス ﹂ と 送 り 、 下 に ﹁ 疑 ィ ﹂ と 註 し 、 異本は﹁疑ヲ致ス 教行信証の三本校異における所見

(30)

教行信証の三本校異における所見 ヘカラス﹂とあるを示す そ の 他 の 考 証 を 一 示 す i B ヲ 、 J J 行拙﹁弥陀経蔵疏﹂﹁終帰﹂、高は左傍に﹁シテ殿﹂の註 f h ‘ 、 ム キ ヨ ク \ 3 ノ 行日﹁論註﹂﹁音曲﹂、高は左傍に﹁オム殿﹂の註 4 / , 、 、 一 一 、 1 ノ \ ︸ ノ 。 、 J 〆 信末砧﹁浬築経﹂東西︹正蔵︺﹁殺者殺果﹂、高は右傍に﹁因欺﹂の註、 6 4 〆 t 〆 t 、 / t \ , ノ のか︶、両右傍に﹁困ィ﹂と註記 / f

貼紙あり f ︵下の﹁殺果﹂に対して殺因と考えたも g 0 0 1 ノ 行肘﹁五会法事讃﹂﹁間名念我徳迎来﹂、高﹁十八願迎来﹂の貼紙あり。 / t、 、 、 、 , ノ 信本吋﹁散善義﹂を引く﹁又云﹂、高右傍に﹁自比観経三心﹂の貼紙あり / r t

i / \ t ノ \ h ノ 、 3 ノ 八東は高西の書写した後にも補筆あるか ﹁l \ / ︷ \ / [ ﹀ L

a

文字の補記 y ム テ チ ヤ ウ レ キ \ ノ チ ヤ ラ 足 、 ノ 、 J \ ノ 証吋﹃論註﹄﹁摘二聴歴﹂、東は﹁摘字他暦反排除也﹂等の頭註を付す。高西両頭註なし。 1 反 f \ ハ ラ ヒ ノ ソ ク ナ リ f k / \ / L ﹁ 暦 ィ ﹂ と 註 し 、 ﹁ 玉 一 一 イ ハ ク ﹂ 等 の 脚 註 あ り 。 化末鈷﹁大集経﹂冊﹁盈満宇品:﹂⋮十時の上に﹁又一戸一口﹂を補記、向か時の上﹁又一五﹂とあり、何﹁又言﹂あ り右傍に﹁月蔵分云ィ﹂の註あり (両) t主 ﹁ 歴 ﹂ の 右 傍 に b 訓点文字の改訂 ー ノ \ / \ ノ イ ハ ク ニ ノ シ ヤ ク セ ム \ ノ テ 将 名 ナ リ ノ ノ ヲ 西 ﹂ 口 同 両 ﹁ 受 提 謂 − 一 波 利 一 諸 商 人 食 ﹂ 、 東 は 上 記 の 如 き 点 を 改 め て ﹁ 受 ニ 提 謂 波 利 諸 商 人 食 こ と 訂 正 / \ / l 〆 ︷ \ ヒ ト ナ リ / ︷ \ ヒ ト ナ リ ヒ ト ナ リ \i ノ 、 ︶ ノ 、 3 ノ 、 3 ノ 西高﹁正法犠燃﹂、東は﹁燃﹂を﹁然﹂に改む。両︹正蔵︺﹁然﹂に作る 〆 f 〆 t f \ / ︷ \ 化 末 時 ﹁ 大 集 経 ﹂ 化 末 肌 ﹃ 大 集 経 ﹂

(31)

﹁ l J 、 、 ノ 1 ノ 、 1 ノ 、 l く 、 ノ 1 2 九西や高の校異によれば、東西高のほかに当時お本

x

本があったものと推知される 〆 1LfL / L f ﹀ ︷ \ / L

J 1 J 四の

e

や七の

e

に見られる通りである o f L f L ヘ l J \ ノ \ / 、 ノ \ ノ 3 十両の校異によれば、東西高の他に当時中山本があったものと推知せられる。 ﹁ lk / t / t / t 〆 t、 、 \ ﹄ ノ \ 1 ノ \ ﹄ ノ 。 。 、 i ノ 行悦﹁正信伺﹂東西高﹁証知生死即浬繋し、両右傍に﹁菩提イ本﹂と註記 ; / f \ / ︷ \ / ︷ \ f k \ ︸ ノ 1 ノ 、 3 ノ ク O \ J ノクコト 信本州﹁如来会﹂東西高﹁元 v退 ﹂ 、 両 ﹁ 克 v退﹂ d & 〆 t t 〆 ︷ \ / t レ \ / \ ノ \ ノ サ ル コ ト ヲ タ ノ シ マ ク コ ト ヨ 勺 \ ノ 信 末 位 真 仏 弟 子 釈 の 結 び 東 西 高 ﹁ 不 ν 快 v L 、両﹁快﹂の左傍に﹁決ィ﹂の註あり。 一 j / 1 Lf \ f \ ー ノ \ ︸ ノ \ ノ 0 1 ノ 化末川﹁大集経﹂東西高︹正蔵︺﹁三工人童女﹂、両女の右傍に﹁子 J ﹂の註あり ︽ 巴 / l t 、 / l / t也 、

以 上 、 ﹃教行信証﹂の古本の字句訓点などの同具に基づいて見られる所を十項にまとめて略示した。厳密に論ずるな らば、校異のすべてを分類整理した上で判断すべきであり、 また補筆改訂などについては、その時期の前後や筆者が 同一人であるか否か、などをも勘案しなければならないのであるが、今は主な特徴をとらえて概観するに止めた。 \ ︸ ノ 之を要するに、東は現存の形態になるまでに幾多の推敵補筆を経ているのであって、その比較的原初形態のものか 〆 r 、 、 、 h ノ 、 、 ノ ら高が書写せられたか、または高に到るべき或本が書写せられたものと考えられ、次に推蔵されてほ父現存形態に近 / ︷ 町 、 / ︷ \ \ ︸ ノ 、 h ノ い所で西に清童日せられ、その後も俺かながら補筆改訂せられて、現存の東の形態になったもの左考えられる。 / t、 、 1IJ1J 、J 1 J \ ︸ ノ 西は三に示すように、推敵後の東を清書して成ったものであるが、四に見られるように、高によって多く補筆註記 / t / l l\ / t / l l\ / f\

3J 〆 改訂せられ、更に現流本などを参照して、現存の形態になったものと考えられる。然るに、高によって補筆改訂せら / l \ ﹁ i / ﹁ i / \ ︸ ノ \ J ノ れたといっても、全体にわたって具さにそれがなされたのではなく、五六などに見られる通り、高によらずに東から ﹁ k f L f \ / ︷ \ 教行信一証の三本校異におげる所見

(32)

教行信証の三本校異における所見 四 ﹁ J 1 ノ 、 ︸ ノ 、 ノ 書写したま与になっている所もある。また僅かではあるが、四の

e

に見られるように、東にも高にも合わない西のみ ﹁ ﹂ / L / 九 〆 \ \ t ノ 、 3 ノ の特異な個所も存する。そのような個所はなお疑問として残るものであるが、今のところ、明舗のほかにお木があっ て之を参照したものと考えるか、それとも清書した人の意楽によったものと考えるほかはない。 \ ノ 、 1 ノ 高は日に示す通り、恥やそれを承けた西に比べて、字句や訓点などが相当異なっているという点で、僚とは別の系 f k f ﹂ / L f k ﹁ J − J ﹁ J 1 ノ 統の本であるという見方も可能である。と同時にまた二一六などから見ると、やはり東を根源とするものであること / I L 戸 に ﹁ L f k 、 ー , ノ 、 、 , ノ 、 、 , ノ も否定できない。そこで、高は東の原初形態に他の或本を参照して成ったものか、それとも東の原初形態から書写し 〆 t \ 〆 t 、 、 〆 f

・ 、

、 、 , ノ た或本を見写したものであろうと推測せられる。然る後、推蔽後の東によって校異補筆し、また現流本や他の匁本を 〆 t、 、

I ノ 参照などして、現存の高の形態が成立したものと考えられる。 f , 、 、 以上の所見を表示すると、下の表のようである。 ム コ ヨ 寸 じ ﹁刀ニコ口 ﹂の小論は、今回の西本願寺蔵版 ﹁ 教 行 信 証 ﹂ を 改 版 す る に 際 し て 、 大江淳誠和上を中心として、秀野大 街・岩崎正衛・三木照固などの諸氏 と共に調査した古本校異の結果を基 としてまとめたものである。校異の

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− − J 守 、 或 本 ︶ 詳細については、昭和四十二年五月末日改版発行の西本願寺蔵版﹁教行信証﹂を看られたい。

4 2 Z (尚) 々の御好意に感謝いたします。 最後に、右の調査について、貴重な古本を親しく拝見させてくださった東本願寺ならびに高田派専修寺の当局の方

(33)

西

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i

天正末

J

文禄期における教団変革の視角からーー

︿ 大 谷 大 学 ︶ 本願寺の東西分立とは、本願寺教団の東西分裂にほかならない。東西分派を教団変革の反映とみなす立場が最近有 力となってきたのも、かかる認識を根底とするものであり、本稿の基本的視角もまたここにある。 近世においては、教団頂点の内粉としてこれをみる見解が中心であるが、その内に教団そのものの分裂からみる視

A

﹁本願寺表裏問答﹂には、以下に示す如く、本末組織の面から東西分派をみる視点が存在する。 ︵ 教 如 ﹀ 累代カミニイタダク手次ノ坊主ヲステテ。直参トイハンカタメ。或ハ門主。手ツカラ下賎ノヤカラニ。数奇ト号 点 が 若 干 見 出 せ る 。 シテ雑居シ飯食セシム。 ︵ 真 宗 全 書 五 五 、 八 七 頁 ︶ B 裏方ノ坊主ハ。表ニウワ坊主アルカユへニ。御裏ニ帰ス。御開山ノ御手ヲハナレテ。 ツナサキノ坊主ニツヰテタ ダヨフナンゾ御本尊ノ御ウラカキニタカフヤ。トリツキ坊主ノ手ヲハナレテ。本師匠ニ直ニツクヘキ事。親祖ヨリ ノ血脈キレザル。御開山ノ御門徒トナツクヘシ。又直参ノ坊主。公事ヲシイダレ。其公事ニナラザレパ。御一裏一ヘハ 東西分派論序説 二 五

(34)

東西分派論序説 一 一 六 シ ル モ ノ ア リ 。 ソ ノ ト キ ハ 。 ソノ坊主ヲ御開山ニオモヒカユヘキカ。ソノトキハ。ツナヲステテ。大物ユトリックゴ トク。御門徒ミナ。御開山へ直参スへキコソ。今生ノ満足。永生ノオモヒデタラン。世間ニモ。亦被官ノモノ。我 主ノ手ヲハナレテ。ナヲソノ本主ニツカウルコソ本望トシ名誉トス。 ︵ 同 、 一 五 二 頁 ︶ C 越 後 信 濃 間 ニ 。 コレヲキキ。是ヲ見ナカラ。取次坊主ノツノナサキニトリツキ。御本廟へ直参ノノゾミナキコト。 今生ノ名望モウシナイ。後生ノ大事オホツカナシ。 ︿ 問 、 一 五 三 頁 ︶

D

裏方ニハシリユク坊主。右クタンノ子細ヲ知ルト云テモ。上坊主ノ手ヲハナレタキ名聞利養ニカへテ。是ヲカク シ テ シ ラ セ ズ 。 ︵ 同 、 一 五 四 頁 ︶ 本末組織からの離脱独立、直参化が問題となっていることが知られよう。

A

では、教如が﹁手次ノ坊主﹂から下坊主 を切りはなそうとしていることを非難し、

B

では、それに従って教如方についた坊主を﹁ツナサキノ坊主﹂につくも のと難じ、すみやかに﹁本師匠﹂ ︵准如︶につくべきことを強調している。 一見、下坊主の本末組織からの離脱を非 難している如くであるか、実はそれを肯定しつつ、その上で准如方につくことを要求しているのである。

C

はこの点 を重ねて強調するものであり、

D

では、このことを知りつつも、上坊主からの独立を第一に考え、 いづれにつくかを 第二とす下坊主の現実的立場をなげいているのである。 東西分派の背景に、このような本末組織からの離脱の動向のあることを知るのであるが、それは直ちに直参化を意 味するものではなかった。

B

に よ れ ば 、 ﹁ウワ坊主﹂の手をはなれた下坊主は直参化したのではなく、 ﹁ ト リ ツ キ 坊 主 ﹂ の 手 に 属 し て お り 、

C

でも、﹁取次坊主﹂が直参化をさまたげていることを知りうる。従って、その前提となった 本 末 組 織 は 、 ﹁ウワ坊主﹂|下坊主というものではなく、 ﹁ウワ坊主﹂| l ﹁取次坊主﹂||下坊主というものであ って、そこから﹁ウワ坊主﹂が排除されつつあったことが推測される。このような﹁ウワ坊主﹂の支配をはなれた寺

(35)

院・坊主が教如方を形成したのであり、准如方は﹁ウワ坊主﹂、 お よ び ﹁ ウ ワ 坊 主 ﹂ ﹁取次坊主﹂から独立した直 参寺院によって構成されるものであった。 准如方は、直参化を進めるため活発な働きかけを行っていたようである。東本願寺派の書である﹁事書﹂ ︵ 真 宗 全 書五五﹀では、准如方からの働きかけを拒否した越中生地の正宗・青木新蔵らが領主により殺害されたこと︵二九五頁﹀、 同じく越中蓮沼道林寺以下十七ケ寺が弾圧をうけたこと︵二九六頁︶を記している。こうした直参化の運動は古くか ら存在していた。三河における本宗寺と上宮寺の争い、近江における顕証寺・称徳寺と本福寺の対立は、一家衆寺院が 在地有力寺院の下坊主を直参化せんとしておこったものであった。また、大坂退去問題のときもこの動きが顕如側に の坊主に可被仰付之由候。従思食寄、 ﹁直参に可被召之旨被仰出、或者望申輩有之由候。不可然候。又門徒を他 又者依望、雄被仰付候、重而白是可申付之候、可得其意事肝要候﹂とのべてい あった。天正八年五月十四日教如消息は、 る。直参化を進める主体は、三河本宗寺、近江顕証寺の如き一家衆寺院であり、あるいは本願寺自体であった。 ﹂ の よ う に み て く る と き 、 ﹁ウワ坊主﹂と呼ばれるものの正体は明らかであろう。 ﹁ウワ坊主﹂とは一家衆寺院で あって、その背後に、顕如・准如があったのである。従って、 ﹁取次坊主﹂といわれるものは、それら一家衆寺院の 下にあって、在地に大きく根をはった有力寺院にほかならない。 ﹁ 本 願 寺 表 裏 問 答 ﹄ は 、

B

の文につづいて磯部勝願 寺下信州六ケ寺が教如方に帰したことをのべており、ここでは﹁ウワ坊主﹂ H 勝 願 寺 、 ﹁ 取 次 坊 主 ﹂ H 信州六ケ寺と ﹃事書﹂にのべる弾圧をうけた越中道林寺など十七ケ寺のうち、道林寺・光西寺・勝 満寺は天正十九年までは越前本覚寺の下坊主であったことが知られるから、﹁ウワ坊主﹂日本覚寺、﹁取次坊主﹂ H 道 いう想定が可能である。また、 林寺などという想定ができる。ここで注意すべきは﹁ウワ坊主﹂|﹁取次坊主﹂|﹁下坊主﹂という本末組織は近世 のそれとは性格を異にする、きわめて政治的なものであることである。 東西分派論序説 二 七

(36)

東西分派論序説 八 本覚寺本末組織は、加賀教団を統括する加川三ケ寺、越中を二分する瑞泉寺・勝興寺の教団に対抗して形成されたも のであり、本末関係というよりは与力関係といわれるものに近いもので、これら上坊主は一国的規模で在地寺院を支 配するのちの触頭にあたり、当時は録所・僧︵総︶録と呼ばれるものであった。在地有力寺院は、これら録所的一家 衆寺院との与力関係から独立する過程において教如と結合していったのである。また、 った中小寺院・道場をその本末組織に組みいれていったのである。 一家衆寺院の直接支配下にあ 以上のごとくにみるとき、東西分派の要因の一つに中世的本末組織 H 一家衆による地域教団支配体制の解体、在地 有力寺院の自立、本願寺への直結の動向があげられるのであるが、 し か ら ば 、 かかる中世的教団構造を解体に導いた ものは何であったのか、という問題を考えねばなるまい。結論的にいうなら、 一家衆寺院と在地有力寺院の、中世か ら近世への移行過程への対応の差に求められるであろう。さらに掘り下げるなら、両者の存在形態の差に求めること が で き る で あ ろ う 。 東西分派を教団変革の反映としてみる柏原祐泉教授は、天正八年の大坂抱様に問題の出発点をすえてこの点に言及 ﹁国人的、武士的門徒と結んで一段した教団が、織曲一一政権・徳川政権に従属することにおいてその武士的、土豪 的性格を失い、純寺院化を余儀なくされる﹂というシェーマで説明されている。基本的には妥当性をもつにしても、 し 以下の如き問題点が残る。すなわち、このシェーマを寺院聞の性格の差を無視して一般的・普遍的なものと考えると、 名地域教団の分裂、就中、前述の如き中世的本末組織解体の現象を説明不可能とし、地域教団分裂の要因を見失なわ せる。純寺院化の現象を単一の路線とみるのではなく、基本的には純寺院化の道を歩むにしても、それへの対応の多

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