の順
︑
︵丙︶村山田氏・刊﹁真宗聖教全室このように
F G E D C H
の順
︑
︵丁
︶仰
﹁親
驚聖
人全
集﹂
・同藤島氏・例梅原真隆氏︵但し
D
を除
く︶
︒
伊藤氏︵向上︶M m
−肋
多屋
氏−
MW大谷氏
のよ
うに
︑
C D E F G H
の順
︑
の四種に説が分れている︒
︵皿
︶次
に︑
I
とJとの二つについては︑︵甲
︶刊
鷲尾
氏等
のよ
うに
︑
J
を前にみるもの︑と︵乙︶村上原氏等のように︑ーの方を前におく説
との二種に分れている︒
少くとも以上の三点は︑現存恵信尼公書簡の編次に関する主な問題点であろうと思う︒
3 D
について
まず問題︵
i
︶の
︑
D
の一文の取り扱いについて考えてみよう︒川
w
鷲尾氏等はこの一文をE
﹁このもんをかきしるしてまいらせ候も:::﹂の中に含ませている︵﹃親驚聖人全集﹂が︑その脚註で︑鷲尾氏はこの一文を
E
の追伸とみているように述べているのは︑何かの誤りではなかろうか︶︒また仲山田氏は︑やはり
E
の後にこの一文を収めてはいるが︑頭註で︑﹁或
はこ
れは
別の
書簡
の断
片:
::
:・
では
ある
ま
いか﹂と断っている︒また何﹁国文東方仏教叢室田﹂が︑この一文を︑
E
の文章の最後の部分の﹁なにもまいらせぬ事富山 信尼 公書 簡の 編次 につ いて
四 九
恵信尼公書簡の編次について
一 五O
こそ心もとなくおほえ候へとも﹂の﹁事こそ﹂と﹁心もとなく﹂との間へ挿入したのは︑原本が﹁事こそ﹂で用紙が
終り︑﹁心もとなく﹂以下は︑その同じ紙の初の余白に還って書き継がれているために︑﹁事こそ﹂の文章が︑別紙で
あるこの
D
の文章へ続くものと誤解した結果で︑これは勿論山田氏の指摘をまつまでもなく︑文意が続かないから︑両紙を連続させることは不当である︒
私が後に述べるように︑
E
は明らかにC ・ F
−G
の後
に続
く追
記で
︑
いま
D
をこの
E
の続きとみることは︑山田氏の注意を呼んだように︑確かに不自然である︒
それ
では
これ
を︑
ω
﹃親
驚聖
人全
集﹂
等の
よう
に︑
C
﹁こその十二月一日の御ふみ:::﹂の続きに収める取り扱いはどうか?この取り扱いの一つの根拠は︑恐らく︑弘長
3
年2
月日日の年記あるFG
と関連する
C
は︑同じ年の﹁二月十日﹂附けになっている
E
にも関連する筈であるが︑そのE
に ︑
﹁ことしのけかちにやうへしにもせんすらん﹂と
あってこの﹁けかち﹂が︑
いま
の
D
の中の﹁こそのつくりものことにそんし侯て::・::いくほといくへきみにでも候はぬに:::﹂と一連の事実とみたところにあったと思う︒
しか
しこ
れは
︑梅
原真
隆氏
の指
摘︵
﹃恵
信尼
文書
の考
究﹄
R百︶の通り︑前者が﹁ことし﹂というのは弘長
3
年のことである
から
︑
D
をE
と一連とみる限りは︑その﹁こそ﹂は同2
年を意味することとなり︑弘長2
年に﹁つくりものことにそんした﹂ことを証明する史料が他に見つからないばかりでなく︑内容的にみても両者を一連の文章とみることは︑
甚だ不自然である︒従ってこの
D
は ︑
弘長
4
年H文永元年︵HN
白色以後のものとみるのが一応穏当であろう︒ではそ
れ以後のいつとみるか?
それ
につ
いて
︑
一つの一不咳を与えるものは︑この文中の﹁ところともかわり候ぬ﹂の一句である︒これは文永元年
に書
かれ
たこ
とが
︑
﹁五月十三日﹂の日附けに加えられた別筆の添え書きによって明らかであるところの︑
J
の中
に
出る﹁いまはところともはなれ扶て﹂の一旬に照合すべきものであろう︒共に尼公の住所変更をあらわしているので
宮山 信尼 公書 簡の 編次 につ いて
CとDの一部。 Dの右上隅の「四」が前のCの同じく「三」に対
応するとみられていた。
あるが︑これらがもし同一事実を示すとするならば︑
いま
の
D
の一
一文
は︑
応文永元年とみておいてよろしいであろう︒同じ文永元年と確実に推定でき
る
I
の中
でも
︑
﹁こそのけかちになにもますかたのとこれのとなにとなくおさなきものと
もLL
−下
あま
た候
をこ
ろさ
しと
し候
しほ
とに
:;
・;
:﹂
と述べて︑弘長
3
年の飢鰹が老齢の尼公に大きなショックを与えていたことが分
る︒
D
を右のように文永一冗年とみようとする私は︑これをその前年に書かれたC
の中に含ましめることも︑また
C
と一連の追記E
に含
まし
める
こと
も︑
¥ ,
ずれも当らないと思う︒
それにも拘らず︑在来の多くの坐去が︑これを
C
の一通に含ましめた︑もう一つの有力な根拠は︑この
D
の一紙の右上隅に見られる﹁四﹂の数字である︒すなわちこの数字が
C
の第
3
紙の右上隅に記された﹁三﹂の数字に対応すると解したからであろう︒
尼公書簡の中で︑この種の数字がみえるのは︑右のほか︑同じ
C
の第|紙の左上隅の﹁ご
・ L
の第
l
紙左上隅の﹁ご
−同
第紙の右上隅のご一﹂
2
同第
3
紙右上隅の﹁三﹂及び同第4
紙右上隅の﹁四﹂とである︒これらの数五
恵信尼公書簡の編次について
一 五
字は恵信尼公自身の筆跡ではなかろうかと思われる節が多分にあるが︑何人にもせよ︑
C
とL
以外にこのような数字が全くなかったと断言できない以上︑いまの﹁四﹂の数字のある一紙
D
も︑梅原氏の想定のように︑C
とL
以外の別の書簡の第
4
紙をあらわすとみることも︑当然許されるであろう︒従ってこの﹁四﹂がC
の﹁
一一
ごに
続く
とみ
るの
は︑
必ずしも必然性をもっとはいえない︒
このことは︑両者を内容的にみると一層はっきりする︒そこで梅原氏は︑
D
をC
とは別の一通の断簡とみて︑全書簡を十一通に数え︑内容的観点から
I
の次に配列せられた︒ーの次に置くことは別として︑D
の一紙を別個独立の一通の残簡とみられたことは妥当であると思う︒
もっともこのような見方に対して︑この
D
の一紙は︑内容的にI
と類似し︑しかも私見のように︑ーと同年とすれば︑さらに一歩を進めて︑これは
I
の失われた部分の一紙ではなかろうか︑という見方や︑恐らく独立した一通に属する追記かと推定せられる
H
の一通︵寛喜の内省の年時を訂正した一文︶と一連のものではなかろうか︑という想定も出るかも知れないと思うが︑
ーや
H
の筆
勢・
墨色
の相
異︑
﹁四﹂に対応する数字が発見されないことなどから︑私
はやはりこれを︑梅原氏と同じく︑別個独立の一通の残簡とみたい︒そして文永元年の﹁五月十三日﹂附けの
J
より
は以前のものとみたい︒というのは︑右
J
によれば︑尼公がそれ以前に﹁たひたひひん﹂を届けていたことが分り︑いま
の
D
を含む一通がその便の中に含まれる可能性があるし︑また
この
D
には
︑
﹁おとこ二人正月うせ候ぬ︵恐らく
﹁逃亡した﹂の意︶﹂とあって︑正月をあまり遠去かっていないことを思わしめるところから︑同じ文永元年と推定
できるーよりも以前のものとみておくのが穏当であろうと考えるからである︒
4
C
J
H
について次に問題︵
H
︶︑すなわちCJH
の順位について考えてみよう︒
るが
︑尼
公は
その
中で
︑
E
﹁こ
のも
んを
かき
しる
して
まい
らせ
侯も
:;
:﹂
は︑
明ら
かに
︑
C
﹁こその十二月一日の御ふみ:::﹂の追記であまず︑この
C
の初めに述べた六角参寵のときの太子示現の文︵現在散侠︶をここに附記するF
−G
の﹁せんしんの御房くわんき三﹁・
:か
せ大
事に
おは
しま
し候
ひし
とき
の事
とも
:・
﹂と
いっ
て︑
旨を
述べ
た後
︑
年:・﹂の書簡の内容!寛喜の内省
l
に言
及し
てい
る︒
ある︒しかも
E
の尼公の叙述に注意すれば︑C
の追記であるE
の一文が︑明らかに右のF
・G
を予想しているとすれば︑当然それはF
・G
の後に位置すべきでC
の方が前とみるべきである︒このこと
を傍
証し
てい
るの
は︑
これ
ら
C
とF
・G
の二
文の
間で
は︑
F
の第一紙の端に書き添えられた﹁此一紙ハハシノ御文ニソヘラレタリ﹂という添え書き窓信尼公書簡の編次について
Fの最初とGの最後の部分で一枚の紙
を二つ折りにして表裏に書かれている。
最後の年時署名と前後の添え書きに 注意。
と ︑
E
に書き添えられた﹁此一枚ハ端ノ御文ノウへ一マキ具セラレタリ﹂という添え書きとである︒
﹂れ
らの
二つ
の添
え書
きは
︑
いずれも覚如の筆と
推定せられているが︑彼︑がここで﹁ハシノ御文﹂
とい
うの
は︑
C
の一文のことであるから︑少くとも覚
如の
所見
では
︑
C
がもっとも基本的な一文で︑﹂れ
に
F
・G
の一文とE
とが続くものとみていた﹂とは明らかである︒そうすればこれらの順位は︑
当然
︑
C
・F
−G
・E
となるべきであろう︒右の二文
lF
・G
とEl
について的驚尾氏等の一 五 一 一 一
恵信尼公書簡の編次について
一五
四
初期
の研
究者
が︑
F
−G
を前にして正しく取り扱っている︹前記︵甲︶︿ 乙 ︶
︵丙︶︺のに︑近頃の主な研究者
のすべてが︑これを逆にしている︹前記︵丁︶︺のは甚だ奇異である︒しかもまたその初期の研究者等が︑付上原氏
と榊
﹃続
真宗
大系
﹄
︹前
記︵
乙︶
︺を
除い
ては
︑
いずれも
C
を後
に廻
して
︑
F
・G
を最
初に
おき
︑
E
をその次において ︑
H
・C
又は
C
・H
に先立たせていることは︑一一
層奇
異に
感ず
る︒
E
の内容をよく検討すれば︑このような配列はすべてできなかった筈だと思われる︒ここに学者の再考又は訂正を要望しておきたい︒
因みに︑多くの学者が︑
F
と一連の文章とみているG
﹁三
ふき
ゃう
けに
/\
しく
::
:﹂
の一
段を
︑同
大谷
氏だ
けは
︑
前文の三伸とみられた︒これは︑実物についてみると︑ここでかなり広い行間隔をとったために︑
一見
別個
の文
章の
ようにみえるので︑三伸とみられたのも無理ではないが︑恐らくこれは執筆の時があらたまったことを暗示するだけ
で︑内容的にみても一連の本文とみて差支えないようであり︑殊にこの一文の最後には︑﹁こうちゃう三年二月十日
恵信﹂という尼公自身の署名年記があって︑以上の書簡の全体をここで結ぼうとしておられる意図が明らかであるし︑
その端には覚信尼・覚恵・覚如の添え書きもあって︑一文の最後であることをこれらの人たちも認めていたところか
らみ
ても
︑