『業施設論』の業論と表・無表分別
青 原 令 知
龍口明生先生が心血を注がれた戒律研究の分野について,筆者は浅学にし てほとんど知識を持たない身である。だから筆者が少しく身を置いたアビダ ルマ研究の中でしか語ることはできないが,先生の学恩に多少なりともお報 えすべく,戒体論にも関わる「無表」の概念について愚稿を草したい。先生 の退任へのはなむけとなれば幸いである。1
.問題の所在 チベット訳にのみ現存する『業施設~ (Las gdagsρ
a; Karmaprajnapti) は,『世間施設~ (Lokapraj宛ゆが)W 因施設~ (Kara1Japraj冗ゆが)に続く 『施 設論』三部門の最後の部門を形成するアビダルマ論書である。『施設論』は, 『集異門足論~ ü"法謹足論~ ü"識身足論~ ü"界身足論~ u"品類足論』と併せて伝 統的に六足論と称されてきた,説一切有部の最初期の論書群の一つである。 しかし,漢訳では玄奨は他の五論はすべて翻訳したが『施設論』だけはその 訳業リストに存在せず,後に宋代の法護と惟浄の手によりなされた部分訳 (r因施設』に相当)が現存するだけであり,逆にチベット訳大蔵経にはf
也 の五論はなく上記『施設論』三部門だけが現存するという,特殊な事情があ る。そのためか『業施設』は部分的な翻訳研究や短い論稿がいくつかなされ ているものの,その全容はいまだ解明されているとは言い難く,業関連の研 究においても本書には触れられることが少ないのが現状である。 筆者はこれまで『業施設』に関して若干の考察を加えてきたが,そこで明『業施設論』の業論と表・無表分耳IJ らかになったことは,本書は業を主題としながら絶えず煩悩論を意識し,業 と煩悩の区別に神経を尖らせていることである。それは,初期論書が中心課 題とした修行道論や断惑論においてすでに煩悩法が体系化されつつあった中 で,本書が先行する煩悩論との抵触を避け,それらとの整合性を保ちつつ業 論独自の体系を築こうと試みたからであり,また本書が論の構造の中心に据 える十不善業道の教説のうち,特に意業道が煩悩的要素を持ち,業と煩悩の 区別がすでに問題になっていたからにはかならない。本書にはそのための試 行錯誤がいまだ未解決のまま残存しており,非常に問題の多い構成となって いる。 今回の小稿では,その中でも多くの問題点が顕著に表われる「表・無表」 について考察する。 無表 (avijnapti)は有部業論の特異な一面を示す概念として知られるが, 梨明期の有部論書を眺めたとき,『業施設』を除くいわゆる六足発智の中で は,「無表」の語は r集異門足論.Jw法組足論.Jw品類足論.Jw護智論』に登場 する。そのうち『集異門足論.Jw法趨足論』の初期論書では,八支聖道と十 無学中の正語・正業・正命を解説する中にその名称がみられるが,青原
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で論じたように,論書形成過程の中で後から無表の語が 付け加えられた形跡、があり,論の発生当初に無表という概念はなかったもの と思われる。一方,『品類足論』で無表は主として諸法の諸門分別の中で分 析のー要素として整った形で用いられ,『護智論』にいたると極めて多くの 用例が登場し,特に第4章業誼に表無表納息という一節を設けて多角的に 表・無表が分別され,またすでに無表の三分類(律儀・不律儀・処中)も定 着しているようである。有部の無表の概念はこの『品類足論』から『稜智 論』にかけての時期に成熟していったものと思われる。しかしそれらにおい ては,後の諸論書のように無表自体の本質が明確に概念規定されることはなし
、
。
今回取り上げる『業施設』の無表説は,おそらく初期論書と『護智論』期 の中間あたりの,有部業論に無表が導入されて聞もない時期の学説のように2
-『業施設論』の業論と表・告書表分別 思われる。本書の無表については,すでに荒井
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により考察がなされ ている。極めて的確な指摘があるのだが,紙数の限定された論稿ということ もあり,その意義が論じ尽くされているとは言い難い。ここではその成果に よりながら,より厳密に検討を加えたい。2
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+不善業道の意義
無表を論ずる前にまず,これと密接に関わると思われる,十不善業道説に ついて検討したい。青原[
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で触れたように,『業施設』全 11章全体の中心に据えられるは,十不善業道 (da~ãku~alamülakarmapath.a
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:r斜i)の十であり,これら は離殺生・離不与取・離欲邪行・離虚証語・離離間語・離島悪語・離雑識 語・無食・無眠・正見の十善業道と対になる。悪趣に陥る重大な悪業とそれ を離れた善業により善趣に至ることを勧める教説であり,大乗戒がこの十善 業道を基調にしている点で注目されている。アピダルマの教学では軽視され ていたとみる向きもあるが,本書における扱いからすれば,有部の業論形成 過程の中で十業道はむしろその中心的役割を果たしたと考えられる。 本書が十不善業道を説く契機は,第l章の官頭に引用する『故思経』 (Sarrtcetaniyasutra)にある。『故思経』は,その主題が故意に(
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なされ集積された業が苦の異熟を招くことを教示することにあり,そ の故意の業に身による三種,語による四種,意による三種があり,それら十 業について一つずつ説明されていく。この十業が上記の十不善業道にほかな らない。『業施設』はこの引用経で示される十業に対する分別を軸に展開す るのである。 しかしまず問題なのが,引用経中では「不善業道」の名で呼ばれていないr業施設論』の業論と表・無表分別 ことである。それらは「故意に行なう業 (*sarpcetaniyakarma)J と称され る。特に食欲・眠意・邪見の三についても,経文では「意によって故意に行 なう三種の業J (yid kyis ched du byas pa'i las rnam pa gsum)と説かれ (KP D: i174al; P: khu210a7),明らかに「業」とされている。周知のよう に,有部における身語意の三業の位置づけは,身語業が思巳業,意業は忠業 とされ,意業はあくまで思 (cetana)という一心所法である。そのため, 十不善業道中の食欲・膜意・邪見の三は,思を等起する「業道」であるが業 ではないとされる。つまり業でなく煩悩の範曙とみなされている。だからこ こで食欲等が業と呼ばれるのは,有部にとっては不都合のはずで、ある。 ところが『業施設』はそのことにはまったく触れず,その代わりに第
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章 で経の引用直後に思業・思己業を定義して意業を思と位置づけ,また第5
章 で業と業道の相違を分別することで,有部の正統説を確認している。経文の 不具合は無視された格好であるが,ともかく本編で十業が不善業道と呼ぴ直 されたのは,十業道が一般化した名称であったためでもあろうが,経文のま までは食欲等が業になってしまう過誤を避ける意図があったものと思われる。 また,そうまでして r業施設』が十不善業道を考察対象に選んだのは,それ が業と煩悩の両方に関わる分類でありその関係性を明示しうることもその理 由の一つであろう。 ところで『業施設』で展開する十不善業道の解説の中では,殺生等のそれ ぞれの意味についてはまったく定義されることがない。それらはすべて『故 思経』の説明に委ねられ,経を引用することで十不善業道の各要素の定義づ けをおえていると考えられる。したがって,経中の十業の説明内容は,その 後の十不善業道の分別と密接に関わっている。そこで『故,思経』の十業の規 定の仕方をみてみよう。たとえば殺生は次のようになされている。 [KP D: i173al; P: khu209al] 殺生[する者]は,凶暴になって掌を血に染め,害したり殺すことに固 執して恥じることなしすべての有情・生類に対して,蟻にいたる生類 にさえも,憐れみをもつことがなくなります。彼は殺生を離れません。4
-r業施設論』の業論と表・無表分~IJ この経典にはパーリAngutおranikaya(= AN)および漢訳『中阿合経』 に対応経があり,またシャマタデーヴァの倶舎論註 (Abhidharmakosa t-ik
ゅの
ika=AKU)に全文が引用され,さらに上に引いた部分は『法組足 論』皐慮品第一に五学処の離殺生の解説として同文の引用経がみられ,その 党文断片も存在するので,それらの資料から原語的な考察が可能となる。 『業施設』の引用経の中,殺生 (sroggcod pa)の語は対応諸本から推察し て,原語は「殺生者J(pral)atipatin)であり,単なる殺生 (pral)atipata) ではなく殺生を行なう行為者を表わす語とみなされる。他の九業についても 同様の原語と思われる。チベット文ではその語義が訳語には反映されていな いが,殺生者と解釈しなければ文章も繋がりにくい。ここでの説明は,殺生 という行為そのものではなく殺生する者について語られたものであり,殺生 に手を染める者の無慈悲さなどの心象面がむしろ強調されている。この経が 「故意の (sarpcetaniya)J業を主題とすることと関連するのであろう。 さらに注目したいのは,「殺生を離れない (pra頃tipatadaprativiratal:uJ という表現で結ぼれていることである。この r_を離れない」の語は残る九 業にもすべてに見られ,「不与取を離れない」等とある。この表現は,反対 概念である十善業の「離殺生J(pral)atipatad prativirata:
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u等と対句をな す用語である。殺生者と離殺生者を対比するのは,十業や五学処に関連する 阿合・ニカーヤの教説によく見られるものであるが,たとえば 比丘たちよ,五法を具える在家信者 (upasaka)は恐れを抱きます。い ずれの五を[具える在家信者]でしょうか。殺生する者 (pa唄tipati) です。不与取する者 (adinnadayi)です。欲邪行する者 (kamesumic -chacari)です。妄語する者 (musavadi)です。飲酒放逸処の者 (sur -amerayamajjappamada tthayi)です。…比丘たちょ,五、法を具える在 家信者は恐れない者です。いずれの五を[具える在家信者]でしょうか。 殺生を離れた者 (pal)atipatapativirato)です。不与取を離れた者です。 欲邪行を離れた者です。妄語を離れた者です。飲酒放逸処を離れた者で す。 (AN.V. 16.171 [vo I.lII: 203. 10-22J)r業施設論」の業論と者・無表分別 などの例は,殺生者等と離殺生者等を対置した用語法となっているが, 比丘たちよ,殺生を離れた (pal)atipatapativirata)有情は少ないけれ ど,殺生を離れない (pal)atipataappativirata)有情は非常に多くあり ます。 (SN.LVIふ71
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l.V.468 . 18-20J ) などの例では,殺生者を「不離殺生」と言い換えた表現を用いている。殺生 者が「不離殺生」と言われるのは,おそらく十善業や五学処の「離殺生」と いう表現を逆に「殺生者」に適応して作られた表現と思われる。しかし,上 記の『業施設』の引用経の場合,対応する『中阿合経』とAN
には「殺生を 離れない」の語は存在しないことから,この「不離殺生」という表現は,引 用の経文に後から加えられた言葉と思われる。そしてそれが加えられている のが本書と『法謹足論~,AKU
の有部系論書であることは,特に有部アビダ ルマの論書レベルの議論において殺生者は「不離殺生」であるという認識が 強かったことを物語る。また引用経では十善業は説かれていないので,それ らを予想させる意味でも「不離」の語を加える必要があったとも考えられる。 「殺生等を離れる」とは,戒を遵守して殺生等を生涯行なわないことを勧 めるために言われる言葉である。この「離れる」に対して逆の立場を「離れ ない」と表現するのは自然なことかもしれないが,そもそも殺生者・不与取 者等を説く教説の意図は,その行為が離れるべき不善業でありそれに親しめ ば好ましくない結果に陥ると諭すことにあったはずで、ある。しかし殺生者を 「殺生を離れない者」と位置づけるとき,十業の教説の意味は変質する。離 殺生が習慣的に殺生を抑制しているあり方を示すのと同様,不離殺生は習慣 的に殺生が抑制なく繰り返される状況を意味することになる。 有部アビダルマの業論は,そのことを徹底して追求していく。『法組足論』 は「故,思経』相当の経文を解釈して,「掌を血に染める者j (rudhirapal)i) を,養羊業・養鶏業・養豚業・漁師・猟師・盗賊・死刑執行人・屠牛業・象使 い・捕兎業・獄卒・悪党・迫害者たちと位置づけ,「彼らはその血を起こし, 生じ,生み出し,生起し,表出しよう (pravi$karal)aya)と, [殺生を]や めず (anarata)離れず (avirata)遠離しない (aprativirata)0 j と断ずる。- 6
一『業施設論』の業論と表・無表分別 つまり「殺生を離れない者」とは, 日常的に殺生に関わる仕事を生業とする 人々のことを意味するに至っている。ここに列挙される職業人は,後の有部 教学で「不律儀家J
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あるいは「不律儀に住する者J(
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として分類されるものである。3
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+不善業道の表・無表分別
前節で述べたような十業道の「離Jr不離」のあり方から発想された概念 が,無表(
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i)であると考えられる。有部の無表説は別解脱律儀を 中心とした戒体論として展開するが,その根源は十業道, とりわけ十善業道 の解釈が契機であったことが,本書の内容から推測されるのである。ただし 担国 現存の「業施設』においては善業の解説はすべて省略されているので,十不 善業道のみを対象とした考察となる。まず以下に,本論で無表がどのように 扱われているかを見てみよう。 『業施設』において無表は「表・無表」分別という形で,第3章の「十不 善業道J,第5章の「貧眠療と倶生する法」および、第6章の「十不律儀」の 諸門分別の一要素として登場する。まず最も中心となる第3章の十不善業道 の議論をみてみよう。ここでの十不善業道の表・無表分別は次のような形で 説かれている。[KP D
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「十不善業道」云々に関連して,殺生は表といわれるのか,それとも無 表といわれるのか。答える。表もあり無表もある。 「表」は何か。答える。たとえばここに,ある者は「生類の命を断て」 と命じられ,彼も「断つべきだ」と答えることもあろうし,「断つな」 と命じられたのに「断つ」と答えることもあろう, [自分が]出向いて 行って生類の命を断つ場合もあろう, [相手が]やって来て生類の命を 断つこともあろう。いずれにしても,生類の命を断つそのときの身業, それが「表」といわれる。『業施設論』の業論と表・告書表分)JJI 「無表」は何か。答える。殺生をやめず,戻らず,捨てず,離れない, そのときに身体によってまったく表示しないもの,これが「無表」とい われる。 以下,不与取・欲邪行・虚証語・離間語・島悪語・雑積語の六身語業道に ついても,表・無表の両者があるとして殺生と同じ構文で説明されていく。 しかし残る食欲・眠意・邪見の三不善業道については,
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食欲と眠患と邪見は表といわれるのか,それとも無表といわれるのか。 答える。表でもなく,無表でもない。 とだけ述べ,それ以上の説明をしていない。 この分別においては,身語の七業道には表と無表があり,意の三業道はい ずれでもないとされ,正統有部の定理に相違しない解釈をしているのである が,まず注目すべきは身語業道の表と無表の定義がなされていることである。 後の有部論書では様々に無表が定義されることになるが,ここでみられる解 説は,有部論書の中で最も古い表・無表の定義といえる。 その説明によれば,殺生の表とは「まさに殺生を行なうときの身業」であ り,無表は「殺生を離れず身体にまったく表示されないもの」とされる。殺 生時の身業という表の定義は,身体に表出された剃那の業ということであり, 常識的に理解しやすいものである。しかし無表が「殺生を離れず身体に表示 きれないもの」とされるのは,この一文だけを読んだのでは何を指すのか判 然としない。 しかし上に見てきた本書所引の『故思経』の経文が「殺生を離れない者」 を語っていたことを考え併せれば,この定義は容易に理解が可能となる。す なわち,経文の殺生を離れない者とは殺生を繰り返す習慣性を身に付けてい る者であった。しかしそれは間断なく殺生し続けていることではない。むし ろ日常的には殺生に携わらない時間の方が圧倒的に多いはずで、ある。その殺 生していない剃那は殺生以外の身業を起こしているのであり,その人が殺生 を離れていないことは外商には表われない。外見上で不離殺生者か否かを区8
-r業施設論』の業論と表・無表分Z'J 別するすべはないのである。ここでの表・無表の分別は,この不離殺生者の 殺生を,殺生する剃那の表面化した身業と,殺生以外の身業を起こしている 聞の「殺生を離れない」殺生への傾向性のようなものに区別して説明しよう としているのである。この場合注意すべきは,無表が不離殺生を起こすので はなく,不離殺生そのものが無表とされる点である。無表とは表業にはない 何らかの潜勢力を示すのではなく,不離という外面的に表示されない身語の 行為の特殊なー形態を示すに過ぎない。 上述のように「不離」という不善業道の表現は,対極にある善業道の 「離」を逆に適応したものと思われる。無表のような発想は,不離殺生など の不善業道よりむしろ離殺生など十善業道の考察に端を発した可能性が高い。 青原 [2006]で明らかにしたように,初期の『集異門足論』と『法組足論』 には善の無表の概念を予想しうる「律儀」の用例が多数見出されるが,不善 の「不律儀」の用例は皆無である。初期の有部の関心はもっぱら善業に注が れていたことを物語る。そもそも戒の具足によって殺生等を「離れる」とい う「業」は,外見上は殺さない状態を保っているだけで,本質的に外面に表 出される行為ではない。しかも単に殺生していないだけの状態とは区別され る何らかの本質が与えられなければならない。この表面上の行為の奥に潜ん だ無表示のあり方は,従来は単に戒とか律儀と称せられていた。有部はその あり方に無表という新たな概念を設定して,それを業論の中に位置づけよう としたのである。その離殺生等の善業道に無表を想定したのと同様に,不離 殺生等の不善業道にも無表を適用し「殺生等を離れない」という業を解釈し たのである。 また,そのような無表の着想においては,意業道は想定の範囲にない。も とより不善の食欲・眠悉・邪見に対置される善の意業道は,無貧 (anabhid -hya)・無眠 (avyapada)・正見 (samyagdn;ti)であり,身語業道のように 「離」を用いた表現をしていない。これらは単に食欲等がないことではなく, 積極的に無食等という別法として解釈される。したがって無表は「離」と表 現される身語の七善業道を解釈するために導入されたものであり,その表現
r業施設論』の業論と表・無表分別 をもたない意の三善業道は当初から除外されていたのである。 その無表を不善業道に拡張して解釈した場合,確かに『故思経』の経文で は意業道にも「食欲等を離れない」の表現があり,厳密にはそこに意業道の 習慣性のような概念が生ずる余地があるが,正統的な有部の志向はもっぱら 身語に表出される業のあり方に向けられていたのである。
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表・無表分別の位置
次に,この表・無表の分別が十不善業道の解説会体の中でどのような位置 づけにあるのか,他の諸門分別との関わりの上で考察してみよう。その中か ら,「表Jr無表」の表現が導入された経緯が明らかになるであろう。本論の 十不善業道は,まず第2章第3項目(以下 [2-3J等と表記する)において 十の名称、が列挙され, [2-4Jで三不善根が不善業道を生ずる原因であること が述べられた後,第3章と第4章において本格的に殺生等の十に分別が加えら れる。そこでの細目を掲げれば,以下の通りである。 [3-1J因果に関する12項目 [3-2J表・無表分別 [3-3J有色・無色分別 [3-4J有対・無対分別 [3-5J心所・非心所分別 [3-6J食生・眠生・擬生分別 [3-7J下品・中品・上品の業報 [4-1J下品・中品・上品 [4-2J下品・中品・上品の事例 [4-3J三悪行との包摂関係 この中で表・無表の分別は, [3-2Jから [3-5Jまでの,いわゆる諸門分 別の項目の一つに位置づけられている。そのうち表・無表以外の [3-3J有 色 (rupin)・無色 (arupin),[3-4J有 対 (sapratigha)・無対 (apratigha), -10-r業施設論』の業論と表・無表分別
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心所(
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・非心所(
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の三門は,アビダルマ論書一般に 広〈用いられる諸門分別の標準項目である。そこに表・無表の分別が加わっ ているが,表・無表は他のアビダルマ論書では諸門分別の基準に用いられる ことはほとんどない。 これら四門はすべて共通した形式の問答でなされ,前節で引用した表・無 表分別と基本的に同形式である。すなわち,殺生等は「有色か無色かJr有 対か無対か」等と設問されて十不善業道それぞれが判定される。しかし, 表・無表分別の場合のような項目自体の定義づけはなされず「有色である」 等と簡潔に述べられるだけである。それらの項目自体の意味は,表・無表と 違って周知のものであったことが伺える。そして,常に身語の七業道と意の 三業道がそれぞれ同じ範噂に括られる。上述の表・無表分別ではそのうち身 語にのみ表・無表の区別をみたが,他の三門の分別を反映させれば, 身語七業道の表 =有色・非心所・有対 身語七業道の無表=有色・非心所・無対 意三業道 =無色・心所・無対 という三通りの区分になる。ここでの四門の分別項目はいずれも色・心所の 区分に関わる要素であり,十不善業道の分別として数ある諸門の中からこれ ら四門が特に選ばれたことは,色法としての身語業と思の心所としての意業 を明確に区別する有部の業論の立場を表明している。 さらに有色・非心所である身語にのみ表・無表の区分が設けられるが,特 徴的なのは,表・無表に有対・無対が対応していることである。前節に表・ 無表分別を示したので,有対・無対分別の分別の方も引いておこう。[KP D
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「十不善業道」云々に関連して,殺生は有対といわれるのか,それとも 無対といわれるのか。答える。有対もあり無対もある。 「有対」は何か。答える。表である。 「無対」は何か。答える。無表である。 殺生に準じて,不与取・欲邪行・虚誕語・離間語・島悪語・雑識語も同r業施設論』の業論と去・無表分別 様である 食欲・眠意・邪見は有対といわれるのか,それとも無対といわれるのか。 答える。無対といわれる。 身語七業道には有対と無対がありそれぞれ表と無表と位置づけられ,意三 業道はただ無対とされている。身語については表・無表に対応させながら, 意の三には対応がみられないのは,上述の表・無表分別で意業道は表でも無 表でもないとされたことに呼応する。ただ意業道はすべて無対とされる点が 異なる。 そもそも有対・無対の分別は,色の本質として定義づけられる対硬性 (pratighatva)の有無によって諸法を区分したものであり,教学上は十二 車司 処中の意処と法処が無対で,残る十処が有対とされる。そしてこの分別がな されるとき,有見 (sanidarsana)・無見 (anidarsana)の分別と組み合わ されるのが通例である。有見・無見とは旧訳では可見・不可見といわれ,そ の法が見えるかどうか,すなわち眼根の対象であるか否かの分別であり,有 面 目 見は色処,無見は他の十一処とされる。それが有対・無対と組み合わされる のは,同じ色 (rupa)と呼ばれても色誼と色処では意味するものが異なる ので,その包摂関係を明示するために考案されたものと思われる。そうして 一切法は有見有対・無見有対・無見無対の三種に分類され(有見無対は存在 。 司 しない),それらは三法の項目に別立されることもある。 しかし有部の諸法分類において,たとえば『品類足論』静播等品で無見無 対法が八界・二処・五謹に包摂されている (T.1542. vo
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26: 727bl1-12)よ うに,色殖でありながら法処に属する無見無対法の存在が認められている。 こ の 無 見 無 対 色 の 存 在 は 古 く か ら 議 論 に 挙 が り , 法 処 所 摂 色 ( 也ar. mayatanantargatarupa)と呼ばれて各部派・学派によりその解釈を異にし, 有部ではこれを無表色と解釈したことは周知のことである。上記の有対・無 対の分別の中に表と無表が配置されるのは,表・無表が有対・無対の分別と 深く関わっていることを示す。 しかし,不可解なことに『業施設』の諸門分別では「有見・無見」の項目 - 12一r業施設論』の業論と表・無表分別 が採用されていない。他の論書では有見・無見と有対・無対は例外なく並べ 自由 て分別され,両者はいわば不可分なものとして扱われる項目である。ところ が本書では,先の四門の分別において通常は有見・無見分別があるべき位置 に「表・無表」の分別がある。すなわち本論の諸門分別では,従来の「有 見・無見」が「表・無表」の分別に置き換えられているのである。 そこにはおそらく,語業の所属の問題があったものと考えられる。この有 見・無見の分別では,上述のように眼根の所取である色処が有見とされ,他 の十一処はすべて無見である。この分別を業に適用するならば,有見は身業 のみであり,声処を臼性とする語業はすべてが無見となり有見はありえない。 上述のように不善業道は「殺生等を離れない者」の説明であり,殺生等を現 に行なう状況と行なっていないが離れていない状況の,両者を含むものとし て発想されていた。もしそこに何らかの分別基準を設定するとしたら,身の 三業道の場合は,そこに有見・無見を適用すればその区分は成立する。しか し虚誕語等の語の四業道にそれは適用できない。もとよりそれらはすべて無 見であり,眼に見えるかどうかではなく,耳に聞こえるかどうかの問題だか らである。かといって語業に対応させた有聞・無聞などといった項目を新た に作ってしまうと,問題をかえって複雑にしてしまう可能性がある。 表・無表という表現は,そのような語業道の分別に生じる不備を補う用語 として導入されたのではなかろうか。すなわち,眼根と耳根の対象となる業 を一括して「表 (vijnapti,表示されたもの )Jと表現し,身業における有見 のような意味を語業にまで拡張したのである。それにより「殺生等を離れな い」業道に関して,外面的に表示される「表」と表示されない「無表」とい う,身語に共通する分類が可能になった。そうして『業施設』はあえて従来 の有見・無見に代えて表・無表の分別をここに置いたのである。したがって 表・無表の表現は,身語業道を一括して語ることが最大の目的であり,前節 の考察結果と閉じく当初から意業道は除外されて発想されていたのである。 しかし身語業が「表」と呼ばれるとき,その反対概念である「無表」は大 きな問題であった。無表の「表示されない」という意味は意業にも適用され
r業施設論』の業論と表・無表分別 るのかどうか,またその特殊な状態が表と同じ色と見なしうるのか,様々に 議論を呼ぶことになる。無表は不確定的なまま導入当初から種々の解釈を生 む危険性を苧んでいたのである。同じ『業施設』でも,有部正統説に準拠し た十不善業道の分別に対して,第5章と第6章に登場する表・無表分別では 事情が異なってくる。次にこれら二章を見てみよう。
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+不律儀の「非表」分別
「業施設』第5章と第6章では,それぞれ「食膿爆と倶生する法」と「十 不律儀」の主題について諸門分別がなされるが,その分別基準は両者共通し, (1)業・非業 (2)表・無表 (3)有色・無色 (4)有対・無対 (5)心所・非心所 の五門が立てられる。これは上述の十不善業道の四門に業・非業分別を加え たものである。十不善業道の場合は [5-6]に業・業道の分別がなされてお り,そこに業・非業分別の内容を含んでいると考えられる。したがってこれ ら五門は,本書の各テーマに共通した分別項目として採用されていたことが 分かる。ただし第6章は有色・無色でなく色 (rupam)・非色 (narupam) であるが,意味としては同種の項目といえる。 まず先に第6章について検討したい。第6章では十不律儀が分別される。 十不律儀 (sdompa ma yin pa bcu;*dasasarpvaral).)とは,殺生・不与取・ 苦既日行・虚証語・離間語・魚悪語・雑識語・食欲・眠悉・邪見とされ,十不善 業道の各要素をそのまま流用した分類である。この分類は『業施設』の独創と もいうべき所説で,他の論書で言及されるのを見ない。不律儀 (asamvara) の語は後の有部論書では三無表の分類(律儀・不律儀・処中)の一つに数え 上げられ,殺生等の重大な悪業を日常的に行なう悪戒を意味する。十不律儀 - 14r業施設論』の業論と表・無表分別 はもとよりその不律儀無表そのものを指すのではないが,不律儀無表の概念 は十不善業道の「殺生等を離れない」ことと軌をーにしているので,まった く無関係とは言えない。しかし青原 [200gb:383-380]で論じたように,第 7・8章では同じ不律儀の名のもとに煩悩論的な分別が展開することから, 「不律儀」は不善業道を拡張して業と煩悩を網羅する用語として設定された ものと思われる。そのため,表・無表の分別も十不善業道とは観点が異なっ たものになっている。 さて,第6章での表・無表分別の仕方は十不善業道の場合とは異なり,次 のような形式で述べられる。 [KP D: i201凶ー202a1P: khu244b6-245a2] [殺生から邪見までの十不律犠のうち]不律儀でもあり表でもあるもの はあるのか。答える。ある。殺生からなる表と,不与取・欲邪行・虚誕 語・離間語・重量悪語・雑識語からなる表である。 不律儀であるが表ではないものはあるのか。答える。ある。殺生からな る無表と,不与取・欲邪行・虚誕語・離間語・重量悪語・雑穣語からなる ω 無表,同様に食欲・眠,書・邪見とである。 ここでは身語の表に対して身語の無表と意の三が一括されて区分され,一 見,意の無表を説いているように見える。しかしここで分別されているのは, 試訳のように「無表」でなく「表でないもの(非表)Jとみなされる。それ はここでの設問形式から推定される。すなわち上の二つの設問は,
(1)sdom pa ma yin pa yang yin la/ rnam par rig byed kyang yin pa yod dam zhe na/
不律儀でもあり表でもあるものはある (astyasarpvaro 'pi vijnaptir api)のか
(2) sdom pa ma yin pa yin la/ Inam par rig byed (ni) ma yin pa yod dam zhe na/
不律儀であるが表ではないものはある (astyasarpvaro na vijnaptil;)
r業施設論aの業論と表・無表分別 という二句の分別の形をとっていると思われる。
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の下線部はデルゲ版に のみ“ni"が挿入されているのだが,その読みでは明らかに「無表」ではな く「表ではない」の意味に解される。またこの設問形式は業・非業,色・非 色,心所・非心所の三門に共通した型であり「不律儀かつAJと「不律儀か っ非AJの有無を問う設問になっている。したがってこの分別は不律儀と 「表J (vijnapti)との包摂関係を語っているのであり,「表」と「表ではな いJ(na vij na ptilj)ものとを区分する「表・非表」分別というべきである。 この場合「非表」は「無表J (avijnapti)なる別法を意図していない。だか らこの分別においては「表ではないもの」に身語の無表と意の食欲・眠患・ 邪見が合まれるのである。決して意の無表の存在を認めている訳ではない。 一方この分別には「殺生からなる表Jr殺生からなる無表」等の語句があ るが,この身語の「無表」はおそらく第3
章の十不善業道の中で定義された 無表を指すのであり,「非表」を意味しないのは明らかである。つまり身語 については表・無表の区別が前提としてあり,その上で十不律儀全体を 「表」と「表でないもの」に分別したことが明らかとなる。荒井[
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の いう「二段構え」の表・無表分別がここでは一括されているといえよう。 では,このような表・無表を前提とした表・非表という分別がなぜなされ ねばならなかったのか。その背景には煩悩的要素を包括する「不律儀」その ものの性格があるようである。『業施設~[
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には,十不律儀が不律儀と 呼ばれる根拠が論じられている。 [KP D: i201a7: P: khu244a6Jどうして殺生は抑制されない律儀で、ある のか。答える。表によって所縁に対して抑制されないから[殺生を]離 れず,すべての欲界[の所縁]に対して抑制されないと言うべきである。 殺生に準じて,不与取・欲邪行・虚証語・離間語・重量悪語・雑識語も同 様である。 どうして食欲・眠惹・邪見は抑制されない律儀で‘あるのか。答える。耀 によって所縁に対して抑制されないから[食欲等を]離れず,すべて [の所縁]に対して抑制されないと言うべきである。打 。
r業施設論』の業論と表・無表分glJ 不律儀が「所縁に対して抑制されないいasamvrta)J と定義づけられて いるが,これは律儀 (sarpvara)のもつ「抑告IJJという原義をもとにした解 自由 釈であり,十業道が「離Jr不離」と言われることに通じる。そして殺生等 の身語七が「表」によって抑制されないのに対して,食欲等の意三は「纏」 (paryavasthana)によって抑制されないとされる。ここに意不律儀が抑制 きれない原因が「纏」とされ,身語不律儀の「表」と対置されている点に注 目したい。 ここでの身語不律儀は,殺生等の「表」が生ずるときに不抑制がもたらさ れ,殺生から離れなくなるとされる。これは具体的には身語の無表を合意す るのであろうが,それには触れずむしろ不抑制を起こす表業に着目した定義 となっている。十不善業道の場合,表・無表による「不離」は身語業道にの み適用され,意業道は除外されていた。しかしここでは意不律儀は「纏」に よって定義づけられている。食欲等が不律儀と呼ばれる限りは「抑制されな い」意味を示す必要があったためであろう。そこで煩悩を総称する語である 「纏」を用いた。「櫨によって抑制されない」とは,食欲・眠意・邪見が煩 悩としてはたらくとき,その傾向性・習慣性がもたらされることを意味する。 食欲等の煩悩的な特質によって,その不律儀としての意味を説明しているの である。このように,食欲等の煩悩性を身語不律儀における「表」と同等に 扱うことにより, 意不律儀の不律儀としての地位を与えているのである。 十不善業道の解釈において食欲等の意業道は,極力議論から排除される傾 向がある。おそらしそれを論ずるとどうしても煩悩論として展開する結果 となるからであり,業と煩悩を明確に区別して体系づけたい有部の正統とし てはなるべくそれは避けたかったのである。しかしまったく意業道を語らぬ ままにすませたのでは,暖昧で不備が残る。第6章以降の不律議論は,その 不備を補おうとしたひとつの試みのようにみえる。名称自体を「不律儀」と 呼ぴ変えたことにより,業の枠組みに制約されないですむ。特に第7・8章 では十不善業道の制約さえ離れて,六根不律儀をはじめ,五部所断法と三界 繋にもとづく五不律儀・九不律儀・十五不律儀・九十八不律儀・三十六不律
r業施設論』の業論と表・無表分別 儀など,すでに体系化が進んで、いた煩悩論を積極的に取り入れた不律議論を 展開している。 そのように,業と煩悩の区別を越えてむしろ網羅的に考察された不律議論 であったからこそ,十不律儀の諸門分別においても,表・無表にかえて表・ 非表の分別が無理なく採用されたのであろう。しかし,その内容は有部の正 統からみれば異端であり,それゆえこの不律議論は後の有部の論議ではほと んど顧みられることがないのである。
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識・心所を含めた表・無表分別
次 に 第 5章 を み て み よ う 。 本 章 の 「 食 眠 擬 と 倶 生 す る 法 」 と は , 食 Oobha)・曝 (dvesa)・擁 (moha)の三不善根とともに生ずる諸法を業の 観点から取り上げたもので,これも他の論書ではあまりみられない論議であ 自由 る。この主題は第2・3章に登場する三不善根に関連した議論でもあろうが, 本章の直接の契機は,その直前の [4-3Jの十不善業道と三悪行 (duscar -ita)の包慎関係の論議にあるようである。 そこでは,十不善業道の身三・語四・意三をそれぞれ身悪行・語悪行・意 悪行とした上で,それらが三悪行すべてを包摂するのかが論じられる。身語 の二悪行については,殴ることや飲酒,誤った独り言などの具体例を挙げて, 不善業道に包摂されない身語悪行が示される。一方,意悪行の場合は,食 欲・眠意・邪見に包摂されない意悪行は「食欲・眠患・邪見にともなう受・ 想、・思・触・作意・識」とされている。つまり意不善業道にともなう識や倶 生の心所法をすべて意悪行としているのであり,有部の業論では特異な解釈 とみられ「婆沙論』でも言及されて問題視されている。 本章に説かれる貧眠擬倶生法の議論も,分別対象として扱われる諸法が 「食眠療と倶生する身語二業と受・想、・思・触・作意・識Jとされ,この意 悪行と同様の範曙にあり,それを承けた論議と思われる。そのためそこで扱 われる諸法は業や業道の範囲を越えており,すでに問題を苧んでいる。 -18-『業施設論』の業論と表・無表分 ~IJ その貧眠廃倶生法について上述の五門分別を行なうことが本章の骨子であ るが,今述べた問題点が反映されて,その分別は 身語表 =業・表・有色・有対・非心所 身語無表 =業・無表・有色・無対・非心所 思 =業・無表・無色・無対・心所 受想触作意=非業・無表・無色・無対・心所 識 =非業・無表・無色・無対・非心所 と,五つに区分される結果となっている。そもそもこの五門は,十不善業道 (および十不律儀)の分別において,色法である身語と心所である意を区分 して単純な結果となるように選ばれた項目であった。それを心・心所をも含 む諸法に適用したため,このような複雑な結果となったのである。すなわち, 身語については問題はないが,意業である思は同じ心所でも受・想・触・作 意と異なり,また識は心であるから心所とは別物として扱われる。 その中で,表・無表分別にも問題が生じている。次のように述べられる。 [KP D: i199a7-b3 P: khu241b4-8J 食と倶生する諸法は表といわれるのか,それとも無表といわれるのか。 答える。表もあり,無表もある。 「表」は何か。答える。貧と倶生する身表・語表,これが表である。 「無表」は何か。答える。[貧と倶生する]身無表・語無表と,食と倶 生する受・想・思・触・作意・識,これが無表である。 以下,眠・癒と倶生する法も同様に説かれる。諸法のうち,表を身表・語 表とし,身語無表とそれ以外の識・心所をすべて無表としているが,ここで の表・無表分別の設問形式は第 3章の十不善業道の場合と同様で、あり,チベ ット訳文からは十不律儀のように「表・非表」と判じうる要素を持たない。 おそらく「無表 (avijnapti)Jの語が使われているように思われる。しかし 表が身語表,無表が身語無表および受想等とされる区分は,上述の十不律儀 の分別と共通しており,分別項目で用いられる「無表」の語は実質的に「非 表」であり,その中で言及される「身無表Jr語無表」の語は「無表」を指
『業施設論』の業論と表・無表分別 す。つまり同じ無表 (avijnapti)の語を用いながら,前者は「表ではない もの」を包括する意味で使用しているのである。有部の定説を前提とした場 合,そう解釈するしかない。 このように,ここでは身語の無表に加えて,受等の倶生の心所と識までも が「非表」の範曙に括られている。しかし上述のように「婆沙論」が受ない し識の心・心所を意悪行の範曙に加えることに不審の念を抱いたように,有 部の立場からすれば,心・心所を業論の中で語ることは極めて異例であり, 誤解を生ずるものであった。だからこの貧眠擁倶生法の論議も先の不律議論 と同じく,後の有部論書においてはぽ黙殺されているのである。 いずれにしても,第5章と第6章にみられるのは身語の表・無表を含めた 表・非表という二重の分別であり,第
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章の十不善業道の表・無表分別とは 観点が異なっている。有部が無表という場合は身語業についてのみ言われる のであり,それとは別の意業等についていうときは,むしろ「非表非無表」 というべき性格を有するものといえる。上に明らかにしたように,第3章の 十不善業道が有部の伝統に則した解釈をなし正統説にはずれることがないの に対して,第5章の食膿擁倶生法と第6章(および第7・8章)の不律儀論 は自由度の高い論議をしており,悪くいえば適切さを欠いたものである。こ れら二つの主題の部分は,十不善業道とは異なる発想、の元に編まれたものが, なかば強引に論の中に組み入れられたものと考えられる。それほど無表の概 念は当時未熟な段階にあり種々の議論を呼んで、いたのである。7
. 結 論
極めて冗長な論考になったのは否めないが,以上の考察で明らかになった ことをまとめてみよう。 (1)w業施設』の表・無表の概念は,十不善業道のもつ「殺生等を離れな い」局面を説明するために導入されたものであり,殺生等を行なう華JI那の身 語業を表とし,行なっていないが離れず習慣化している行為のー形態を「無 - 20一r業施設論』の業論と表・無表分別 表」と呼んだ。しかし十善業道の無責・無眠・正見は「離れる」の語を付さ れない別心所として立てられることから推測して,表・無表の区別は意業道 には当初から想定されなかったのであり,またその分別は善業道の解釈から 起こり,後に不善業道に適用されたものと思われる。 (2)表・無表という表現の仕方自体は,有見・無見に代わるものとして考 え出されたものであり,「表示されたものJr表示されないもの」という,身 業道と語業道を一括できる分別項目として採用され,有見・無見の不備を補 った。しかし,特に表・無表分別から除外された意業道の解釈において異見 を生ずる余地を残した。 (3)一方で、『業施設』には業と煩悩や心・心所まで含めた分別(食眠擁倶 生法・不律儀)もなされ,その際には身語の表・無表と,それらを含めた 表・非表(表でないもの)というこ重の分別が試みられている。しかしこの 試みは後の正統有部からは批判的に受け止められ,あるいは顧みられなくな った。 いずれにしても,本書には繋明期の有部業論とその体系化の過程での種々 の試みがそのまま残され,後世学説として淘汰されていくさまが明らかに見 てとれる。有部にとって業論は最重要課題とみなされず,議論が立ち遅れた ためにそのような状況がもたらされたのであろう。 〈一次資料〉
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r業施設論』の業論と表・無表分 ~IJ 「入阿見達磨論』塞建陀羅造玄笑謬「入阿見達磨論~ (T. 1554.vol.28: 980b22 -~jj!i; "J、号A安 iYFi周』 989a20) 五百大阿羅漢等造玄突謬『阿毘達磨大毘婆沙論~ (T.1545.vol. 27: 1a1-1004a9) 『法組足論』 大目乾連造玄突謬『阿見達磨法慈足論~ (T.1537.vol.26: 453 b22-514a10) 『雪量智論』 迦多街尼子造玄笑課『阿毘達磨君主智論~ (T.1544.vol.26: 918a1 1031c29) 『品類足論』 世 友 造 玄 奨 謬 『 阿 見 達 磨 品 類 足 論J (T.1542.vol.26: 692b17 -770a20) 〈二次資料〉 青 原 令 知 [2005J r初期有部論書における無表と律儀」印仏研究53-2 [2006J r初期有部論書における無表と律儀(承前)J岐阜聖徳学園大 学仏教文化研究所紀要6 [2009aJ r ~業施設論』の構造」印仏研究57-2 [2009bJ rr業施設』における煩悩の総称語」印仏研究58-1 荒 井 央 [1978J r業施設論における無表について」印仏研究27-1 荒 井 行 央 [1981J r業施設論の翻訳(l)J東洋大学大学院紀要18 [1982J r意思と行動ー『業施設論』における無開業論一」印仏研究 31-1 [1983J r業施設論の翻訳 (2)J智山学報32 春日井真也 [1954J r業施設論に引用せられたるマガ婆羅門について」印仏研究3 勝 又 俊 教 [1956J r十大地法の成立過程について」印仏研究4-2 平 川 彰 [1960J r大乗戒と十善道」印仏研究8-2 福 田 琢 [1998J r 加藤清遺稿蔵文和諜『世間施設~ (1)J同朋悌教34 [1999J r 加藤清遺稿蔵文和誇 r世間施設~ (2)J同朋偽教35 [2000aJ rr業施設』について」日本仏教学会年報65 [2000bJ r 加藤清遺稿蔵文和諮『世間施設~ (3)J同朋偽教36 [2001J r加藤清遺稿蔵文和誇『世間施設J(4)J同朋大学論叢84 [2002J r 加藤清遺稿蔵文和謬『世間施設~ (5)J同朋大学論議85・ 86 [2004aJ r加藤清遺稿蔵文和謬『世間施設j (6)J同朋大学論議89 [2004bJ r加 藤 清 遺 稿 蔵 文 和 謬 r世間施設J(7)J同朋偽教40
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争の訳になる。最初に「世間施設門第一」 の名を出すが,党本を欠くと注記して実際は「因施設門第二」から始まる。そ れも第14章で終わり(チベット訳は全19章), r業施設門」への言及はない。 (2) r世間施設~ 'Jig rten bzhag仰 (Lokaprajn,ρ
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ti)=D: Tohoku No.4086,Taipei NO.4091 ilbl-93a7; P: Otani No.5587 khu1al-112al.~因施設』
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抑 gdagspa (KarmJaprajn,
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ρti) =D: Tohoku No.4087, Taipei NO.4092 i93a7-172b4; P: Otani No. 5588 khu112al-208b2.r業施設~ (KP)は一次資料・ 欄参照。 (3) 荒 井 [1978J[1981J [1982J [1983J, 春 日 井 [1954J, 宮 崎 [1982J, 福 田 [2000aJなど。中でも荒井の一連の研究は非常に的確で重要な指摘を含んで おり,本稿の成果はこれらの業績に負うところが非常に大きい。また,福田の 論文には本書の梗概が北京版のページ数とともに掲載され,テキス卜が扱いや すくなった功績は大きい。福田は戦前の学者加藤清の遺稿にもとづいた『施設 論』の全和訳及ぴチベット訳校訂テキストを順次公表中であり(二次資料のリ スト参照),今後の成果が期待される。 (4)青原 [2009aJ,[2009bJ参照。 (5) これらにおける無表説については,三友 [1976:120-127J参照。 (6) 平川 [1960:691Jは「十善は阿合の随所に説かれており,仏教の重要な実践 徳目であるが, しかし在家・出家共通の徳目であるために,アビダルマ時代に -24-r業施設論』の業論と表・無表分g'J は軽視された。婆沙論や倶会論等にも関説されているが, しかしアビダルマの 教理体系の主流からは,はずれている。」という。根拠が示されていないので, 何をもって「軽視されJr主流からはずれている」のか理解したがいのである が,確かにアビダルマの教理で十善・十悪そのものが中心的に諮られることは ない。しかしアビダルマでは別解脱戒のみを戒とみなす訳ではなしたとえば r集異門足論』に「具戒」が十善によって定義づけられる (T.1536. vol.26: 373c25-28)など,戒や業の論議においては十業道はきわめて重要な位置を占 めている。ただアビダルマの教理体系の中では業論や戒論よりも断惑論などの 重要教理が優先されるのであり,全体的に十業道の論議が少ないのは当然であ る。それを「軽視」と呼ぶのなら,大乗仏教とて事情は同じように思う。筆者 は逆に,大乗戒が十善に着目した素地はすでに有部の業論と戒論にあったと見 たい。 (7)阿合・ニカーヤにも十不善業道・十善業道の名は登場するが,十業が必ずし もその名称で呼ばれているとは限らない。むしろアピダルマ的な命名のように も恩われる。 (8) [KP D:200b7-201a6;P:243b4-244a5] r十不善業道云々に関連して,それら 十不善業道であるもののうち,どれが業でありかつ業道でもあり,どれが業道 であるが業でないのか。答える。七つは業でありかつ業道でもある。殺生・不 与取・欲邪行・虚誕語・離閑語・免悪誇・雑識語である。三つは業道であるが 業ではない。食欲・眠怠・邪見である。(中略)どうして食欲・眠悉・邪見は 業道であるが業ではないのか。答える。食欲・眠悉・邪見は業でもなく所作で もないが,食欲・眠悉・邪見によって等起された思'の道・行路・道路である。 その理由により,食欲.
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惹・邪見は業道であるが業ではない。J*テキスト sems las byung ba rnams (心所)をsemspa rnamsに訂正。 cf.r 婆i少論~ (T. 1545. vo.l27: 589b25-c8)。
(9) AKBhではそのことが問題となっている。下の註側参照。 (
1)0 [KP D:175a3-4;P:212al-2] r思業は何か。答える。思 (cetana)・現等思
(abhisa~cetanã) ・巳思 (cetayita) ・恩類 (cetanãgata) ・造心 (cittãb
hisalPskara)・意業 (manaskarma),これを思業という。思己業 (bsampa'i las)は何か。答える。思巳の身業と思己の語業,これを思巳業という。Jcf. 青原 [2009a:936-935]。
(11) 以下の註に示す対応経との比較のため,原文を示しておく。
srog gcod pa ni drag cing lag dmar pa bsad pa dang / rab tu bsad pa la zhen pa ngo tsha med pa / sems can srog chags su gyur pa thams cad la tha na srog chags grog sbur yan chad la snying rje med pa yin te / de ni srog gcod pa ma spangs pa yin no / /
r業施設論』の業論と表・無表分別 ( 12) AN. X. 21. 207-208 (vol.V: 297-301).目下の該当箇所はpeyyalaで省略さ れているので,直前の第206経から引いておく。以下の対応資料も該当筒所を 註に順次引用する。 Idha bhikkhave ekacco p句atipatihoti luddo lohitap置がhatapahatenivittho adayapanno sabbapa:tlabhutesu. (AN. vol.V: 292.15-16) (13) r中阿合経J(15)業相聴品「思経」第五 (T.26. vol.1: 437b24-438b12)。 「ー自殺生。極慈飲血,其欲傷害,不慈衆生,乃至蝿品。J(T.26. vol.1: 437 c02-03) (14) AKU D: ju236bl-238b5;P: tu270a3-272b5.本庄 [1994:68-70]に全文和訳 がある。
kha cig srog gcod cing lag ba khrag dang bcas pa
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bchom zhing rab tu spong la ngo tsha ba med ching snying吋emed pa grog sbur yan cad kyi srog chags~byung po thams cad kyi srog nye bar bzung steI
srog gcod ba las ma log par gyur ba dag goI
(AKU D: ju236b5 P: tu270a3) (15) r如世尊説。有殺生者。暴悪血手,耽著殺害,於諸有情衆生勝類,無差・無 感,下至按多比畢i
各迦,皆不離殺。知是名矯能殺生者。J(r法組足論~ T. 1537. vo.l26: 455a29) evazp. hy uktazp. bhagavataI
praI)atipati khalv ihaiko bhavati raudro rud -hirapaI)ib hataprahatanivi:;;tab alajji adayavan sarvasattvapraI)ibhute:;;v antatab kuntapipilakam api praI)atipatad aprativirato bhavatiI
ayam ucyate praQatipatikabI
(DhSk: 80. 22-26) この『法纏足論』の五学処の解説においては,不殺生戒・不倫盗戒・不邪姪 戒・不妄語戒の解説のみに個別に経文が引用され,不飲酒戒では引用が見られ ない。おそらく引用される経文の源泉は五学処ではなく『故思経』のような十 業に関わる教説であったものと思われる。 (16) 上記註(12)(13)の引用文参照。 ( 1司対応諸本のうち, ANだけは離殺生などの十善業も説かれる (AN.vol.V: 298.8-299.10 (cf. 294. 26-296. 31))。不善業を対義語に置き換えた表現で「殺 生 を 捨 て 殺 生 を 隊 れ た 者J(ekacco paI)atipatazp. pahaya paI)atipata pativirato hotj)等を説明している。十善業の部分を具え,かつ十不善業に 「不離」の語が存在しないのは偶然ではないようにも思える。 ( 18) DhSk: 83. 6-7, r法菰足論A(T.1537. vol.26: 455bl1-13)。 ( 19) r婆沙論~ (T.1545. vol.27: 607a24-28), r雑心論J(T.1552. vol.28: 890b18 -20), AKBh: 221. 11-13など参照。 側 本 書 第2章から第8章までは三不善根・十不善業道などすべて不善法の解説 に終始し,第 8章末に,これら 7章の不善業に準じて三善根を根拠として善業 -26-r業施設論』の業論と表・無表分別 も説かれねばならないと指示して,普業の解説をすべて省略している (KPD: i209b5 P:khu255a1) 。しかし『婆沙論~ (T. 1545.vol. 27: 581c02-19)には不 善業に対応した善業の部分の『施設論』の引用が見られるので,善業の記述も すべて完備する『業施設』の伝承もあったことが知られる。
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r五事毘婆沙論~ (1'.1555.vo1.28. 992c10)r無表色者。謂善悪戒相績不断。」 「甘露昧論~ (T. 1553.vo. 2l8. 968a13-16)r云何教行。若身口意作。云何無教 行。身口作意起絵心時,常在不失無教色。」 『心論~ (1'.1550.vo.218. 812cl-6)r有教者,身動是善不善無記。善従善心生, 不善従不善心生,無記従無記心生。無数者,若作業牢固,縛異心中此種子生。 知普受戒人,不善無記心中,彼猶相随悪業人悪戒相随。」 『心論経~ (1'.1551.vo 2.l8. 840a6-12)r彼有教数者,身動。無教者,身動滅 己輿絵識相感,彼相繍縛。知受戒克, !i!佐不善無記心善戒随生。知捕鳥等,錐善 無記心悪戒随生。…此業不可示他故名無教。有言辞故名教。」 「雑心論~ (T. 1552.vo 2l.8. 888b18-29)r作者,身動身方便身作。無作者,身 動滅巳奥絵識倶彼性随生。主日善受戒,穣汚無記心現在前善戒随生。如悪戒人, 善無記心現在前悪戒随生。…有欲令意業是無作性。此則不然。意非作性,非色 故,及三種故。無作亦名不柴,亦名離,亦名捨,亦名不作。以不作之名是無作。 言非業者不然。何以故。作故。若普不作不善。若不善不作善。亦名作。如捨党 支。不以名捨故捨修道,止総事故名~捨。彼亦如是。又復作図故作果故,見悶 説果。知世尊説。形質故是色。無作亦非色。以作是色故彼亦名色。彼亦如是。」 『入阿毘達磨論~ (T.vo. 2l8. 981a21-29)r無表色者。謂能自表諸心心所持幾 差別,故名矯表。奥彼同類而不能表,故名無表。此於相似立遮止言。如於華JI帝 利等説非婆羅門等。無表相者,謂由表心大種差別,於睡眠舞踊L
不商L
心及無心位, 有菩不善色相繍縛不可積集。是能建立芯努等因,是無表相。此若無者,不感建 立有芯努等。如世尊説。於有依福業事彼恒常福士曾長。」 聞 この推測は,先に触れた初期論書に書き加えられた「無表業」の場面からも 支持される。すなわち「集異門足論』の十無学法と『法菰足論』の八支聖道の 正語・正命・正業の解釈はほぼ同文でなされ,四諦の思惟による身詩の悪行か らの「遠離・勝遠離・近遠離・極遠離・寂静・律儀・無作・無造・棄捨・防 護・不行・不犯・船筏・橋梁・堤塘・踏整・於所制約不総・不総性・不越・不 越性・無表業」と解釈される (f集異門足論~ T. 1536.vo 2l.6: 452c20-27, r法 菰足論~ T. 1537.vol. 26: 481cl9-25)。この「遠離」等の類義語羅列表現によ る定義は経文に由来するが, r悪業から離れること」という意味で十善業道や 五学処と同趣旨である。 (23) これらの章下の細目は,各章に付せられた目次偽 (uddana)による。 制業論に特化された項目ともいえる。関連文脈を指摘すれば r舎利弗論』非r業施設論』の業論と表・無表分別 問分業品 (T.1548. vol.28: 579clO-11)に,業に関する二法の42項目にわたる 論母の中に教業非教業,身有教無教業,口有数無数業が挙げられる(後註(33)参 照)。しかしこれとて諸門分別の基準として用いられたものではなし本書の ような扱いは例を見ない。 側 『品類足論~ (T.1542. vol.26: 696b20-21)など参照。 側 r 品類足論~ (T.1542. vol.26: 696b20)など参照。 間 「品類足論~ (T.1542. vol.26: 711c29-712a1), DhSan: 2.21-22など0 (28) 水野 [1951:485J=水野 [1997a:348-349J参照。 仰)1 ~集異門足論~ (T.1536. vol.26: 367c25-26), ~品類足論~ (T.1542. vol.26: 696b20-21), ~護智論~ (T.1544. vol.26: 943b8), ~舎利弗論~ (T.1548. vol. 28: 526c21-26), DhSan: 3. 1-2, Vibh: 13. 4-6など。なお,パーリ論書の諸門 分別の項目には共通の定数があるが,有部の場合は論書や主題により項目数は まちまちである(水野 [1997b:194, 223J参照)。ただ目下の関連項目につい ていえば,有色無色・有見無見・有針無封・有漏無漏・有矯無軍事の五門がセッ トになることカぎ多いようである。
側 チ ベ ッ ト 文LI:.:,.tshig kyal pa las byung pa'i rnam par rig byed ma yin pa'0 / / brnab sems dang / gnod sems dang / log par lta ba yang de dang 'dra'o / /し
かしこの区切り方では「…雑穣語からなる無表である。食欲・1民意・邪見も同
様である。」となり意味がやj然としないので,一連の文と解釈した。…avij. naptir evarp. cabhidhya vyapado mithyãd~科ibca.のような原文を誤訳したも のと思われる。