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龍谷大學論集 472 - 003相馬一意「曇鸞『論註』における世俗諦と方便説」

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曇驚

における世俗諦と方便説

問題の所在

曇鰐の ﹃ 往 生 論 註 ﹄ ﹃ 唐 高 僧 伝 ﹄ に お け る 彼 の 伝 記 の 、 における仏教思想を問題にする場合、 これまでは 論仏性﹂を学んだという記述(大正五

0

・ 四 七

O

上 ﹀ に よ っ て 、 ﹁二種法身説﹂という特異な仏身説が ま た あ る い は 、 ﹃大智度論﹄等の二身説などに依っているとして、 中観学派の教説がその基本にあると考えられてきたところであ る。しかし、論者は、これまでの本人自身の研究によって、曇驚が四論を学んだという説も中観学派の仏身説に基づ ともにはなはだ疑わしいと考えるようになっている。 いて﹁二種法身説﹂を立てたという説も、 けれども、残念なことに、論者の主張はいまもって認められたとは言い難いものがある。その点で多少の満たされ ない思いを持って、曇鷺の時代あるいはそれ以後の時代の仏教思想を研究してきたところである。そういう中で、近 年 ﹁ 仏 の 方 便 ﹂ ﹁仏の衆生救済のはたらき﹂といった事柄に注意が向くようになって、そちらの方向から、世諦と か世俗の中ではたらく方便といったもの、これらについて曇驚﹃論註﹄がいかに把握しているか、こういう点も一度 整理してみる必要があるのではないかと考えるようになった。 中観学派の思想に真俗二諦説というものがあることはよく知られている。だから、これと曇驚の思想はどのように ー「 四 曇軍事「論註」における世俗諦と方便説(相馬〉 - 47ー

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かかわるか、といった関心であるといってもよい。 ﹃論註﹄に﹁第一義諦﹂という要語がでているから、真諦という 観念は明確であるといえるが、 では、その対概念である﹁俗諦﹂はどう捉えられているのか、というわけである。そ してそこに、果たして中観派の主張するような二諦説が認められるか、この観点から見た場合に、曇驚の思想につい て、中観派の教学に基礎をおいたものといえるかどうかあらためて検討してみようというのである。

語句の使用例

まずは論じようとする題目に関する語句の使用例の検索から始めよう。 ﹃論註﹄において﹁真諦﹂という語の使用例はただの一つもない。これを﹁勝義諦﹂と言い換えて調べてみても同 じである。あるいはまた、 ﹁俗諦﹂とか﹁世俗諦﹂という用語で検索し直しても、同様の結果しか得られない。した がって、この検索結果からすれば、 えるのである。けれども、 ﹃論註﹄においては真俗二諦説はまったく説かれていないと、 一応のところはい ﹁二諦﹂の語で検索してみると、 ただの一度ではあるがつぎのような用例にであうのであ る 。 す な わ ち 、 二 者 従 一 一 菩 薩 智 慧 清 浄 業 -起 荘 厳 仏 事 。 依 -一 法 性 一 入 -一 清 浄 相 ( 是 法 不 -一 顛 倒 一 不 ニ 虚 偽 一 名 為 -一 真 実 功 徳 ↓ 云 何 不 一 一 顛 倒 ↓ 依 = 法 性 一 順 三 一 諦 一 故 。 云 何 不 ニ 虚 偽 ↓ 摂 一 一 衆 生 一 入 一 一 畢 寛 浄 一 故 。 二には、菩薩の智慧清浄の業より起る荘厳仏事なり。法性に依り清浄の相に入りて、是の法顛倒せず、虚偽なら ざれば名づけて真実功徳と為す。云何が顛倒せざる。 る。衆生を摂して畢寛浄に入らしむるが故なり。 法性に依りて二諦に順ずるが故なり。 云何が虚偽ならざ という記述があるのである。 ﹁二諦﹂というからには、その内容にはいろいろあるにしても、当然に真俗の二諦と考 えなければならないであろう。この二諦について、 ﹃論註﹄には格別なる内容解説など何もしていないから、これ以 - 48ー 趨谷大学論集

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上の言及は一切できないのであるが、 にはゆかないのである。 この使用例によって、曇驚は真俗二諦説にまるきり無縁であったとも言うわけ そ れ に ﹁第一義諦﹂という語を検索してみれば、 四回の用例を見ることができる。この語が真諦とか勝義諦とか と同義であることは自明であるから、曇驚にも真諦という概念は明らかに認められるわけである。 この数少ない用語の使用例によって、 先の﹁﹃論註﹄においては真俗二諦説は説かれていない﹂という予断は、 ﹁ニ諦﹂と﹁第一義諦﹂という語があって、真俗二諦説らしきものが認められ しばかり改められなければならない。 る、と。とすれば、ここで、 ﹁真諦﹂と﹁俗諦﹂の内容について、 また両者の関係について考えてみる必要性が出て くるということになるであろう。確かに、二諦という語の内容について曇驚は何の説明もしていないし、全体の記述 の中に、世俗あるいは世間に対して﹁諦﹂としてのとらえ方も述べられていないようなので、別の視点をもって、二 諦あるいは俗諦についての内容把揮がいかなるものであったのかを追求してみなければならないと感じられる。それ ゆ え 、 ﹃論註﹄のいう世俗について、あらためて再検討してみようとするわけである。

真実世界と虚偽の世俗

﹃ 浄 土 論 ﹄ を 受 け て 曇 驚 は 、 ﹁観察門﹂の内容としていわゆる﹁一一一厳二十九種﹂の解説をしているのであるが、そ こ で は 、 ﹁観見﹂と﹁発願﹂という形で行っている。すなわち、浄土の荘厳は、 ﹂の世が不完全なる世界であるとの 観見と、その矛盾を解消した真実世界を実現しようとする発願との結果打ち立てられたものというわけである。極楽 浄土の荘厳の本質が法蔵菩薩の四十八願の結果であるから、言うまでもないことであるかも知れないが、阿弥陀仏の 因位たる法蔵菩薩が、ある国土をみそなわして、そこにある不完全性・虚偽性を認め、そういう俗世界の問題点・矛 盾点を解消した理想世界として浄土はあるという形式である。 ﹁観見﹂される内容は、この裟婆世界を代表として述 少 曇驚『論註』における世俗諦と方便説(相馬〉 - 49ー

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﹁邪道の所生﹂等々であっ て、完全に否定されるべき世俗のあり方として述べられている。すなわち、観見される世界は、肯定されがたい克服 されねばならないこれこれの欠陥があるところと説明されている。だからこそ、発願があり浄土の荘厳に結びつくの べられていると思えるが、 したがって﹁虚偽の相﹂ -, 輪 転 の 相 L で あ

ま た 、 ﹁ 有 漏 ﹂ であり、観見される世界(これが世俗であろう﹀が、それなりの存在意義を認められた世界としては考えられていな い。つまり、この現実世界のありようについて、首肯し何らかの価値を評価して、 ﹁俗諦﹂として捉えるような考え 方はなされていないということである。 し た が っ て 、 浄土は完全無欠の真実世界であ ﹁ 真 俗 二 諦 ﹂ といったおさえ方はないといってよかろう。 ここでは り、世間は、否定され乗り越えられるべき虚偽の世界ということで、 俗諦﹂にかかわる世界といったイメージはないのである。 ところで、真諦と俗諦の関連について、 ﹃中論﹄あるいは中観学派でいうところの﹁世 ﹃大智度論﹄で語られる﹁指月のたとえ﹂という話はよく知られている。 すなわち﹃大智度論﹄巻九並びに巻九五にでるものであ出。このたとえが、うまい具合に﹃論註﹄にも用いられてい る。月で真諦をたとえ指で俗諦をたとえたと理解すれば、真実とそれを指し示す言語表現あるいは文字に記される教 ﹃中論﹄に即した二諦説の位置づけを認めることができよう。 え ・ 経 文 と い う 、 し か し 、 ここでのたとえのあり方 は、真実を月にたとえ、それを指す指金一一一口葉﹀としての世俗といった文脈ではなくなっての使用法なのである。だか ら 、 こ の 点 か ら も 、 ﹃中論﹄等の真俗二一諦説などを﹃論註﹄が受け継いでいないことの明証を見ることができるであ ろう。それゆえ、以下しばらくは、この記述の紹介をしておこう。 下巻の﹁起観生信章﹂に五念門を明かす中、第二の讃嘆門を解説するところにこのような問答がなされている、 問目、名為=法指↓如=指指 v 目 。 若 称 -一 仏 名 号 一 使 得 レ 満 レ 願 者 、 指 レ 日 之 指 応 = 能 破 v 。 若 指 レ 日 之 指 不 レ 能 レ 破 レ 聞 、 称=仏名号一亦何能満レ願耶。答目、諸法万差。不レ可二概プ有=名即 v 。 有 -一 名 異 v法。名即レ法者諸仏菩麗名号般 - 50ー 穂谷大学論集

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若波羅蜜及陀羅尼章句禁呪音辞等是也。如三禁腫辞云ニ日出東方乍赤乍黄等句↓仮使酉亥行レ禁不レ関-白出一而腫得レ 差 。 亦 如 三 行 レ 師 対 レ 陣 但 一 切 歯 中 諦 = 臨 兵 闘 者 皆 陣 列 前 行 ↓ 諦 ニ 此 九 字 -五 兵 之 所 レ 不 レ 中 。 抱 朴 子 謂 ニ 之 要 道 一 者 也 。 又 苦 = 転 筋 一 者 以 = 木 瓜 一 対 レ 火 喪 レ 之 則 愈 。 復 有 レ 人 但 呼 ニ 木 瓜 名 一 亦 愈 。 吾 身 得 ニ 其 効 一 也 。 如 レ 斯 近 事 世 間 共 知 。 況 不 可 思 議 境 界 者 乎 。 滅 除 薬 塗 レ 鼓 之 轍 復 是 一 事 。 是 轍 己 彰 ニ 於 前 一 故 不 = 重 引 ↓ 有 -一 名 異 v 者 如 -詣 指 v 日 等 名 也 。 問うて日はく、名を法の指と為す。指をもて日を指すがごとし。若し仏の名号を称するに便ち願を満つることを 得 と い は ば 、 日を指す指、能く閣を破すベし。 仏の名号を称すと 若 し 日 を 指 す 指 、 閣を破すること能はずは、 も、亦何ぞ能く願を満てむや。答へて日はく、諸法万差なり。 一概すべからず。名の法に即する有り。名の法に 異する有り。名の法に即するとは、諸仏菩薩の名号、般若波羅蜜、及び陀羅尼の章旬、禁呪の音辞等是なり。禁 腫の辞に、日出東方乍赤乍黄等の句を云ふがごとし。仮使酉亥に禁を行じて日出に関らざれども、腫、差ゆるこ とを得。亦師に行くに陣に対ひて但一切歯の中に、臨兵闘者皆陣列前行と詞するがごとし。此の九字を請するに 五兵の中らざる所なり。抱朴子に之を要道と謂ふ者なり。又転筋を苦しむ者、木瓜を以て火に対て之を喪せば則 ち愈ゆ。復人有りて、但木瓜の名を呼ぶに亦愈ゆ。吾が身に其の効を得るなり。斯くのごとき近事、世間に共に 知れり。況や不可思議の境界なる者をや。滅除薬の鼓に塗る轍へ、復是一事なり。此の鳴へ己に前に彰す故に重 ねて引かず。名の法に異する有りとは、指の日を指すがごとき等の名なり。 ﹂ う い う 問 答 で あ る 。 月とそれを指す指ではなくして、 ﹁ 日 ﹂ 論 者 、 が よ っ た 底 本 の 都 合 で 、 こ こ の 翌 日 山 で は 、 陽﹀とそれを指す指となっているが、日を月に読み替えれば問題はない。非常に有名な箇所で、また仏の名号の功徳 をいう重要な箇所でもあるので、少し長い引文ではあったが途中を省略もせずに出しておいた。 ここの文言を用いていうとして、 ﹁ 名 の 法 に 即 す る ﹂ も の で あ り 、 ﹁名の法に異する﹂ものが月を指す指であるが、ここで論註氏が強調したいのは ﹁名の法に即するとは、諸仏菩薩の名号、般若波羅蜜、及び陀羅尼の章句、禁呪の ( 太 曇驚『論註』における世俗諦と方便説(相馬〉 - 51ー

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音辞等是なり﹂として列挙されているものである。すなわち、単に月(真実﹀を指さすものに止まらず、一言うなれば そが重要視されている。論者は以前に、 その名および音声が具体的な作用・功徳を持つものこ ﹁曇驚と称名思想﹂という論考を発表している刷、そこでも問題にしたよう 真実を指し示すだけのいわば俗諦的なあり方を超えていて、 に、曇驚は﹁名﹂とそれを音に現した音声にも特別な関心を示しているのである。 こ の よ う な 、 ﹁名の法に異する﹂名前などではなくして、それ以上の存在たる﹁名の法に即する﹂ものを認めよう とする曇驚の態度は、 ﹃大智度論﹄に基づくたとえを使っているにしても、 たとえを用いる根本的な精神において大 きな隔たりがあるといえよう。 少 な く と も 、 真実のありかを一訴す言語・言葉といった世俗の捉え方ではない。 て、この指月のたとえを検討した後でも、俗諦としての言語表現といった観念などとはほど遠いものが﹁論註﹄には あるということができるので、この﹃大智度論﹄に由来するたとえを検討したうえで、 ﹃中論﹄等の真俗二諦説を忠 実に受け継いでいることはないと断言できよう。 では、今度は﹁第一義諦﹂という語の使用例にかかわって、真実世界はどう捉えられているか、それを見てみよう。 ﹁第一義諦﹂の語は、前述したように、用例としては四回あるが、 みな同一事例に関して用いられており、 h -3 -Jj

中 ' 一

つの概念にまとめられる。 ﹃論註﹄の下巻の﹁観察体相章﹂を始めるにあたり、 入 観 = 察

第体

相 義二弘

分 中 有 体 一 者 器 体 二 者 衆 生 体 。 二 者 示 ニ 現 自 利 利 他 ↓ 一 一 一 者 器 分 中 又 有 一 二 ニ 4 E 一 ↓ 一 者 国 土 体 相 。 観察体相とは、此の分の中にこの体有り。 一には器体、二には衆生体なり。器の分の中に又三重有り。 一 に は 国 土の体相。こには自利利他を示現す。三には第一義諦に入るなり。 として書き出されている。すなわち三厳二十九種という浄土の荘厳のうち、十七種の器世間に関するものは、弥陀世 - 52ー 龍谷大学若命集 よ ペ コ

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界の国土の荘厳であり、法蔵の自利・利他行の結果であり、 また、第一義諦を本質としている、と見るべきだという のである。そして、ここでいう第一義諦については、 入第一義諦者 彼無量寿仏国土荘厳第一義諦妙境界相十六句。及二句一次第説、応レ知。 第一義諦者仏因縁法也。此諦是境義。是故荘厳等十六句称為一一妙境界相↓此義至ニ入一法句文一当ニ更解釈↓ 入 第 一 義 諦 と は 、 彼の無量寿仏国土の荘厳は第一義諦と妙境界相の十六句なり。 一句を及ぼして次第して説けり、知るべし。 第二義諦とは仏因縁の法なり。此の諦は是境の義なり。是の故に荘厳等の十六句を称して妙境界相と為す。此の 伺 義、入一法句の文に至りて当に更に解釈すベし。 と述べているから、阿弥陀仏のさとりの対境たる真実、あえてわかりやすく表現すれば、阿弥陀仏のさとりの本質と いうことであろう。しかし、これではその内容ははっきりしない。ただこの語は、右のように、﹃浄土論﹄の引文中 に 出 て い る か ら 、 ﹃論﹄に由来する語であることがわかる。 次に、第一義諦について﹁此の義、 入一法句の文に至りて当に更に解釈すベし﹂といっているのであるから、当然 にそこの部分を見てみるならば、 略説入二法句一故。 上国土荘厳十七句如来荘厳八句菩薩荘厳四句為レ広。入二法句-為レ略。何故示=現広略相入↓諸仏菩薩有三一種法 身 ↓ 一 者 法 性 法 身 二 者 方 便 法 身 。 由 = 法 性 法 身 一 生 -一 方 便 法 身 ↓ 由 = 方 便 法 身 一 出 = 法 性 法 身 吋 此 二 法 身 異 而 不 レ 可 レ 分 。 一 而 不 レ 可 レ 向 。 是 故 広 略 相 入 統 以 ニ 法 名 ↓ 菩 薩 若 不 レ 知 ニ 広 略 相 入 一 則 不 レ 能 ニ 自 利 利 他 ↓ 一法句者調清浄旬。清浄句者謂真実智慧無為法身故。 曇驚「論註」における世俗諦と方便説(相馬〉 - 53ー

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此 三 句 展 転 相 入 。 依 = 何 義 -名 レ 之 為 レ 法 。 以 = 清 浄 一 故 。 依 -一 何 義 -名 為 = 清 浄 吋 以 = 真 実 智 慧 無 為 法 身 -故 。 真 実 智 慧 者実相智慧也。実相無相故真智無知也。無為法身者法性身也。法性寂滅故法身無相也。無相故能無レ不レ相。是故 相 好 荘 厳 即 法 身 也 。 無 知 故 能 無 レ 不 レ 知 。 是 故 一 切 種 智 即 真 実 智 慧 也 。 以 = 真 実 一 而 目 = 智 慧 -明 三 智 慧 非 レ 作 非 = 非 作 -也 。 以 = 無 為 一 而 標 = 法 身 -明 z 身 非 レ 色 非 = 非 色 一 也 。 非 一 一 子 非 -者 畳 非 レ 非 之 能 是 乎 。 蓋 無 レ 非 之 日 レ 是 也 。 自 是 無 レ 待 復非レ是也。非レ是非レ喜非之所レ不議、是故言語浄句弱者者謂一一真実霊祭室町。 略して説かば一法句に入るが故なり。 上の国土の荘厳十七句と如来の荘厳八句と菩薩の荘厳四句とを広と為す。一法句に入るを略と為す。何が故ぞ広 略相入を示現する。諸仏菩薩に二種の法身有す。一には法性法身、こには方便法身なり。法性法身に由りて方便 法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出す。此の二の法身は異なれども分つべからず。一なれども同ずべか らず。是の故に広略相入して、統ぶるに法の名を以てす。菩薩若し広略相入を知らざれば、則ち自利利他するこ と 能 は ざ れ ば な り 。 一法句とは謂はく、清浄句なり。清浄句とは謂はく、真実智慧無為法身なるが故なり。 此の三句、展転して相入す。何の義に依りてか、之を名づけて法と為す。清浄を以ての放なり。何の義に依りて か、名づけて清浄と為す。真実智慧無為法身なるを以ての放なり。真実智慧とは実相の智慧なり。実相は無相な るが故に、真智は無知なり。無為法身とは法性身なり。法性は寂滅なるが故に、法身は無相なり。無相の放に能 く相ならざること無し。是の故に相好荘厳は即ち法身なり。無知の故に能く知らざること無し。是の故に一切種 智は即ち真実智慧なり。真実を以て智慧に目くること、智慧の作に非ず、非作に非ざることを明かすなり。無為 を以て法身を標すこと、法身の色に非ず、非色に非ざることを明かすなり。非を非すれば、量非を非するの能く 是ならむや。蓋し非を無する、之を是と日ふなり。自ら是にして待すること無きも復是に非ざるなり。是に非 - 54ー 龍谷大学論集

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ず、非に非ず、百非の鳴さざる所なれば、是の故に清浄句と言ふ。清浄句とは調はく、真実智慧無為法身なり。 と、このような説明がなされている。下巻の﹁浄入願心章﹂のところである。 ﹃論註﹄としては甚だ重要な部分であ ると思うので、少しばかり長い引文ではあったが、途中を省略などせずに、ここも必要の全部分を示しておいた。 浄土の三種の二十九の荘厳は、結局は、清浄なる阿弥陀仏の願心一つにおさまるというのが本章の言いたいことで ある。それを語ってその後に、右の説明文が続くのである。すなわち、三厳二十九種を広としたなら、 まとめ略して いうとすると﹁一法句﹂になるというのである。この一法句はあまり聞き慣れない言葉であるし、必ずしも内容が明 らかというものでもないが、続いて﹁清浄句﹂と﹁真実智慧無為法身﹂とで言い換えられているところからすれば、 真如法性および理智不二の仏身を指しているのであろう。 ﹃論註﹄の特色は、これをまた、有名な﹁二種法身説﹂で語る点にある。第一義諦を月として真実として教えるに 止 ま ら ず 、 ﹁広略相入﹂すべきものと捉え、その広略相入の具体的すがたを法性法身と方便法身によって示している ﹁何が故ぞ広略相入を示現する。諸仏菩薩に二種の法身有す。 わ け で あ る 。 一 に は 法 性 法 身 、 二 に は 方 便 法 身 な り 。 法性法身に由りて方便法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出す。此の二の法身は異なれども分つべからず。 なれども同ずべからず﹂という表現が特に大切である。どちらか一方があればそれでよいというものではない。 略朴ん﹂あるいは﹁由生由酌﹂というように、どちらもがあって意味があるのであり、それこそが阿弥陀仏の姿、浄 土のあり方であるというのであろう。 ﹃浄土論﹄の﹁第一義諦妙境界相﹂という表現を、どのように理解するのが原文に即した解釈なのか、論者は確言 できる力がない。ただ、これを曇驚は﹁第一義諦と浄土の妙境界の相﹂と把握したのである。そして、結局は浄土の ﹁略﹂なるご法句﹂と対置し、広略相入と捉え、それをまた二種法身説に適用してい 二十九種荘厳全体を広とし、 るのである。真宗学的な用語で表現し直せば、荘厳相のすべては阿弥陀仏の清浄願心のなせるワザであり、その心を 広 曇重苦『論註』における世俗諦と方便説(相馬〉 - 55ー

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もって衆生済度の二種法身の活動があるというのであろうし、また、それを知り正しく観察することで、世親菩薩を 初めとする私たち衆生の自利利他の菩薩行も成り立つと考えていると思われる。 ここの部分は、訓読がなかなかやっかいであり、意味されている内容に重要な概念がいくつもみられて、解釈に苦 労するところであろうが、あえて簡単に表現してしまえば、右のように受けとることができよう。 よって、ここの第一義諦は、凝然としてこういう真実があるというのではなくして、善巧方便を駆使して衆生済度 に立ち現れる姿として、あるいはその活動と一体なる具体的なはたらきとしてある、といわなければならない。その 点で、世俗と切り結ぶ真諦であるとはいえようが、真諦・俗諦と対置されるような二諦説的なものではないといえよ う。論者は拙著において、ここの内容をまとめて、 広:::三厳二十九種・方便法身・修・有・方便 ・法性法身・性・空・真実 略 : : : 一 法 句 というような記述をしたことがある。そこでも簡単に触れておいたところであるが、ここの内容として、生死と浬繋 と か 、 俗諦と真諦というべアなどを、 広だとか略だとかであるとして組み入れることは少し無理なのではなかろう か、という意見を述べてもおいた。方便法身も浄土の二十九種荘厳も俗諦というわけにはゆかないであろうし、真俗 二 諦 の 考 え を 、 ﹁広略相入﹂や二種法身の﹁由生白出﹂と同様であるとすることもできないであろう。それゆえ、中 観学派的な真俗二諦説などは、ここには説かれていないということができる。あるのは、真実からの自ずからなる衆 生救済の活動(方便﹀のはたらきのみである。 四 真 実 の は た ら き ・ 方 便 それでは、今度は ﹃往生論註﹄における方便の観念を見てみたいと思う。方便の主体がいずれであるにしても、 - 56ー 龍谷大学論集

(11)

これは本質的に﹁衆生の教化﹂にかかわり世俗世界にはたらくものであると考えられるからである。 ﹃論註﹄における方便の用例は数多く見られるが、そのほとんどは、いわば﹁仏の方使力﹂として向下的にはたら くものとして出てくる、ということができる。根本智に対する後得智(方便智﹀の活動が方便という語の本来の意義 なのであるから、このことに何の不思議もない。 でも、このように結論的にまとめてしまう前に、このはたらきがど のように描かれているか、具体的な記述を追って、以下、内容を四っか五つにまとめて検討してゆくことにしよう。 {一、阿弥陀仏の直接的な方便} =u寸 論 方 註 便 』 法 中 身 tこ 」 t主 と 前 い 項 う にイム 引 身 い 説 "

T

こ tこ 記 端 述 的

ω

﹁阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量の功徳の名号﹂といった表現や、 に窺うことができるものである。残念なことに、ここにいう方便法身については、 こ れ は 、 があるばかりで、直接的な説明文はないが、 切 者 衆 彼 生 応 苦 化 +J.身 日"ö~~ー 切 時 不 レ 前 不 レ 後 一 心 一 念 放 ニ 大 光 明 ﹁ 悉 能 遍 至 = 十 方 世 界 -教 ニ 化 衆 生 ↓ 種 種 方 便 修 行 所 レ 作 滅 = 除 ニ に は 、 一切の時に前ならず後ならず、 大光明を放ちて悉く能く遍く十方世界に至 一 心 一 念 に 、 彼 の 応 化 身 、 り、衆生を教化す。種種の方便をもて修行して作す所、 一切衆生の苦を減除せむとするが故なり。 との記述に、その方便の活動を見ることができよう。 こ れ は ﹃ 浄 土 論 ﹄ の 表 現 で あ り 、 方便法身の活動ではなくし て 、 ﹁応化身﹂としてのはたらきを述べているものではある。けれども、ここに言われる﹁大光明を放ちて悉く能く 遍く十方世界に至り、衆生を教化す。種種の方便をもて修行して作す所、 一切衆生の苦を滅除せむとするが故なり﹂ の内容は、衆生救済の利他活動に他ならない。そして、これまでに示してきたように、方便法身と同じ位置づけにあ る浄土の三厳二十九種の荘厳が阿弥陀仏の利他の姿であることは、これまた記してきた﹁観見﹂と﹁発願﹂の解説に 曇驚『論註』における世俗諦と方便説(相馬) - 57ー

(12)

荘厳功徳の一々の内容を検討するなり、 言及してきたところである。あるいは、

ω

﹁不可思議﹂であるかの記述を見るならば、方便法身のはたらきを理解するにそれ程の困難はないと思う。 こうした荘厳のそれぞれが如何に こういうことで、阿弥陀仏は一方的に種々の方便を設けて、私たち衆生の救済に立ち現れるのであるが、ここで特 徴的なものは﹁方便の名号﹂として名号法のはたらきをいうことと、 り方とであろう。こういう内容で方便がまず語られている。 ﹁方便法身﹂という表現がなされての仏身のあ 士一、菩薩の巧方便回向] ﹃論註﹄下巻の﹁善巧摂化章﹂には、次に、作願・観察の二門を成就した菩薩は﹁巧方便回向﹂なるものを得ると いう。この巧方便とはもともと﹃浄土論﹄にでる概念であるから、まずはそちらの記述を確認しておくと、 菩薩巧方便廻向者調説礼拝等五種修行所レ集一切功徳善根、 伺 摂 = 取 一 切 衆 生 一 共 同 生 中 彼 安 楽 仏 国 M 不 レ 求 一 一 自 身 住 持 之 楽 一 欲 レ 抜 二 切 衆 生 苦 一 故 、 作 下 願 菩薩の巧方便廻向とは、謂はく、説きたる礼拝等の五種の修行の集むる所の一切功徳善根をもて、自身住持の楽 を 求 め ず 、 一切衆生を摂取して共に同じく彼の安楽仏国に生ぜむと作願 一切衆生の苦を抜かむと欲するが故に、 す る な り 。 とあるから、菩薩の利他活動を意味していて、特に、ともに浄土に生まれようと願うことであると理解できる。 註﹄はこれを解説して、無上菩提心といい願作仏心といい、また度衆生心と言い換えて、その後﹁巧方便﹂を説明し てこのように続けている。 菩 薩 己 自 成 仏 。 以 = 己 智 慧 火 -焼 二 切 衆 生 煩 悩 草 木 ﹁ 若 有 三 一 衆 生 不 = 成 仏 一 我 不 一 一 作 仏 ↓ M 開 ( 中 略 ﹀ 以 下 後 -一 其 身 -而 身 先 主 故 名 = 巧 方 便 ↓ 而 彼 衆 生 未 エ 尽 成 仏 -巧 方 使 者 謂 菩 薩 願 、 - 58ー 龍谷大学論集 ﹃ 論

(13)

巧方便とは謂はく、菩薩願ずらく、己が智慧の火を以て一切衆生の煩悩の草木を焼かむに、若し一衆生として成 仏せざること有らば、我作仏せじと。而るに彼の衆生未だ尽くは成仏せざるに、菩薩己に自ら成仏す。 ( 中 略 ﹀ 其の身を後にして、而も身先だつを以ての故に巧方便と名づく。 と。すなわち一切衆生を成仏させるという仏の活動が、ここの﹁巧方便﹂に他ならないという。もっとも、その利他 ﹁彼の衆生未だ尽くは成仏せざるに、菩薩己に自ら成仏す﹂とあるように、利他の完成の 前に自利を成就するという、・興味深い方便説とともに出ていて注目させられるが。でも結局は、それは善巧方便とい う術語で語られる内容そのものと言うことができる。このように記したうえで﹃論註﹄は、この方便をまとめて、 同 開 此 中 言 -一 方 便 一 者 謂 作 下 願 摂 = 取 一 切 衆 生 一 共 同 生 命 彼 安 楽 仏 国 国 彼 仏 国 即 是 畢 寛 成 仏 道 路 、 無 上 方 便 也 。 此の中に方便と言ふは、謂はく、一切衆生を摂取して共に同じく彼の安楽仏国に生ぜむと作願するなり。彼の仏 国は即ち是畢寛成仏の道路、無上の方便なり。 活動を優先すべき菩薩が、 と述べている。成仏せしめるという利他の目的を達成させる最大の方便が、浄土に往生させること、安楽仏国を得さ せることであるというのである。浄土の荘厳あるいは阿弥陀の活動、あるいは名号のはたらきのすべてが、この浄土 往生のためにあることは今さら言うまでもなく自明のことであるから、 ﹁方便﹂の一語にそれらすべてが収まると言 っ て よ か ろ う 。 ︻ 三 、 智 慧 と 慈 悲 と 方 便 の 三 門 ︼ 続く﹁離菩提障﹂と﹁順菩提門﹂という短い部分に、巧方便回向を成就した菩薩の持つ三種の利他の心が説かれて いる。名目は、智慧門・慈悲門・方便門という。かなり特異な名だと思うし、こうした三門は、論者は寡聞にして初 めて接するものであるが、内容を見てみれば、修行が完成した菩薩の持つ利他の心に他ならない。それをここでゆっ 曇重苦

r

論註』における世俗諦と方便説(相馬〉 - 59ー

(14)

M H くりと解説している紙数もないので、以前の論文中にまとめておいた衰を用いて示すとすれば、 ︻ 障 菩 提 門 章

H

離菩提障章︼︿遠離三種菩提門相違法﹀ 一 、 依 智 慧 門 不 求 自 楽 、 遠 離 我 心 貧 着 自 身 故 二 、 依 慈 悲 門 抜 一 切 衆 生 苦 、 遺 離 無 安 衆 生 心 故 三、依方便門憐感一切衆生心、遠離供養恭敬自身心故 { 順 菩 提 門 章 ︼ ( 一 一 一 種 随 順 菩 提 門 法 ﹀ 一 、 無 染 清 浄 心 二、安清浄心 三、楽清浄心 以不為自身求諸楽故 以抜一切衆生苦故 以令一切衆生得大菩提故 以摂取衆生生彼国土故 このように整理することができる。智慧門こそ、表面上には﹁不求自楽、遠離我心貧着自身故﹂という自利的な側面 で記されているが、裏から見れば、だからこそ利他の心につながるものであろう。いや、この反対の概念を慈悲門と 方便門の二門で語っているのかも知れない。いずれにしても、こういう三門にて、﹃浄土論﹄も﹃論註﹄も同様に、 利他の精神を十分に語っているということができる。こういう中に﹁方便門﹂が位置づけられているわけで、これま た﹁方便﹂がいかなるものであるか、明らかに見て取れるところであろう。 { 四 、 般 若 智 と 方 便 智 ︼ 伺 右のごとく述べられている三門は、そうして般若と方便にまとめられるという。 註﹄は智慧と方便、一あるいは般若と方便というこつの表現を用いているが、 ﹃ 論 ﹄ は 般 若 と 方 便 と い い 、 要 す る に 、 般若智(根本智) と後得智 - 60ー 龍谷大学論集 ﹃ 論

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(方便智)とで仏智が説明される大乗仏教の大筋にしたがうものであると思われる。自利利他円満のすがたといって もよい。後の﹁願事成就章﹂の初めに、﹃論﹄が、﹁是くのごとく、菩薩、智慧心・方便心・無障心・勝真心をもて

"

能く清浄の仏国土に生ず﹂というように、右二章の内容は、結局﹁智慧心・方便心・無障心・勝真心﹂の四心におさ まるというから、智慧心・方便心とも言い換えられている。が、これらも、般若の智と後得方便の智のはたらきをい うものに相違はあるまい。ということで、仏教本来の方便の概念も、もちろんのこと踏まえられている。 最 後 に 、 これを別扱いすると第五番目の内容となるが、 ﹃ 論 註 ﹄ 五 念 門 の う ち の よ ? 回

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向 w 門 l

の 方 こ 便 と 智 で 業 あ 」 と る . か 三 ら ノ 語

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で る こ れ は ﹁ ﹁ 方 便 智 業 ﹄ と は 回 向 な り ﹂ と あ る よ う に 、 便智業﹂とよんでいるわけで、回向と方便の関係について重要な記述ではあるが、 回向の活動そのものを﹁方 いまここの議論では、格別方便に ついての説として問題にするにはあたらないと思う。 以 上 、 ﹃論﹄と﹃論註﹄における方便の用例を検討してきた。 つまりは、回向とか利他活動とか言い換えることの できる内容が﹁方便﹂の語の下に示されている。この行いの主体が菩薩の場合があって、修行途上の者による方便と いう記述もあるが、﹃論註﹄では、﹁凡そ、是の彼の浄土に生ずると、及び彼の菩薩人天の所起の諸行とは皆阿弥陀

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如来の本願力に縁るが故なり﹂というのが最終的な意見であるから、菩薩の行いもつまりは阿弥陀仏のはたらきに帰 着するといってよい。 したがって、方便はすべて阿弥陀仏の善巧方便であり、方便法身のはたらきであると理解する こ と が で き よ う 。 そうして、方便の方向性はただの一つ。浄土の荘厳の意義を語る諸部分によっても、﹁三願的証﹂と呼び慣わされ 帥 円 ているところの記述によっても、﹁浄土往生﹂、阿弥陀仏の国土に生まれさせることにある。最終的には衆生すべて に無上菩提を得させることにあるが、そのためには、まずは浄土往生が大切で、その実現をめざしてこそ阿弥陀仏の 曇鴛『論註』における世俗諦と方便説(相馬〉 - 61ー

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方 便 は は た ら く と 、 ﹃論註﹄の曇驚は考えているということである。 こ の よ う に 、 ﹃浄土論﹄をうけた﹃論註﹄においては、方便をする主体は阿弥陀仏で、その目的を﹁浄土往生﹂に あわせて、方便という観念が位置づけられているというのがこの項の結論である。 五 と め ま これまで、論者の興味と関心において、少しばかり煩雑な議論を続けてきた。最後に全体をまとめてこの拙論を終 え る こ と に し よ う 。 結論的に断言するとすれば、 ﹃ 往 生 論 註 ﹄ に お い て は 、 ﹁ 真 俗 二 諦 中 観 学 派 、 就 中 、 の主張したような ﹃ 中 論 ﹄ 説﹂は一切考えられていない、ということである。確かにコ一諦﹂という語が一度使用されていて、 ﹁ 第 一 義 諦 ﹂ の 語も四回の用例を認めることができるが、それらの使用部分の記述を検討しても、真諦・俗諦をベアにしたような記 述も観念もまるでない。 それでは、世俗の世界をどのように評価しているかと、別の視点で私たち衆生一の世界についての叙述をみてみるな ら ば 、 こ れ は 、 ﹁否定され乗り越えられるべき虚偽の世界﹂でしかなく、そこを何ほどか評価して世俗諦として位置 づける見方などは何もない。﹁指月のたとえ﹂とお.ほしき﹃大智度論﹄由来のたとえがあるから、世間における言語 表現としての世俗の評価、あるいは世俗諦としての意義の認識などがあるかと思えば、これもまるで考えられていな ﹃論註﹄には世俗諦という観念は認められていないようである。 ぃ 、 と い え る 。 反対概念の第一義諦(真諦)の説明においても、同様な結論に達することができた。第一義諦は﹁善巧方便を駆使 して衆生済度に立ち現れる姿として、あるいはその活動と一体なる具体的なはたらき﹂として一方的に描かれるだけ で、この教説中には、真諦・俗諦といった二諦的なあり方はまるで述べられてはいない。あるのは、 ﹁ 真 実 H 真諦か - 62-龍谷大学論集

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らの自ずからなる衆生救済の活動(方便﹀のはたらきのみ﹂である。 ﹁ 方 便 ﹂ の は た ら きが問題になったから、この作用が起こるのはやはり世俗の世界であろうから、ことのついでに、この方便について ということで、論者の検討しようとしていた事柄は、 一応の結論にいたったのである。しかし、 ﹃論註﹄にいかなる説がみられるか、それをあわせて検討してみた。 ここで注目されたことは、方便のすがたとしてまずは三厳二十九種の浄土の荘厳があり、総まとめとして名号のは ﹁方便法身﹂とよばれる行為主体がある、等々である。が、こうしたものはいずれも﹁阿弥陀仏の善 た ら き が あ り 、 巧方便﹂ということであって、仏の衆生救済のはたらきに尽きる。そして、この方便のめざす方向は、私たち衆生を 浄土に生まれさせること、この一点にあるということが確かめられた。 この方便のはたらきが、私たちを﹁浄土往生﹂せしめるというのであれば、それはこの俗世界ではたらくのであろ うから、この方便にかかわって世俗がどのように問題にされているか、当然、このことも議論されてよいと論者は考 えたが、これについては、 ﹃論註﹄では何も問題にされていない。ただただ、方便法身たる阿弥陀仏が利他・回向の こころで衆生のためにはたらくことのみが論じられているだけであった。 し た が っ て 、 ﹁ 方 便 説 ﹂ よ っ て 、 かすかにつながるかと思えた に お い て も 、 世俗諦は何等問題になっていない。 ﹃論註﹄は﹁真俗二諦説﹂とはまるで関係がない、と思われる。真諦が、 ただそれだけが意味があり、浄土門として、それを阿弥陀仏の方便のすがたとして一方 一方的にそして向下的にはたらいて、私た ちを無上菩提の高みに導く、 的に語るだけである。それゆえ、通常考えられるような俗諦説とはまるで無縁であるといえる。 ︹ 註 記 ︺

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﹃ 論 註 ﹄ に お け る 仏 身 説 が 中 観 派 の 二 身 説 な ど に 由 来 す る の で は な く 、 唯 識 学 派 の 三 身 説 に 基 づ く と い う こ と は 、 論 者 は 、 ﹁ 往 生 論 註 の 唯 識 学 的 源 泉 ﹂ 令 印 仏 研 究 ﹄ 四 二 ・ 一 、 一 九 九 三 年 ) 以 来 主 張 し て き た こ と で あ る 。 ま た 、 ﹃ 論 註 ﹄ 仏 身 説 の 詳 細 - 63一曇鷲『論註」における世俗舗と方便説〈相馬)

(18)

については﹁往生論註に見られる仏身説﹂(渡逸教授還暦記念論集﹃仏教思想文化論叢﹄永田文昌堂、一九九七年﹀にまとめて おいた。さらに、曇驚と﹁四論宗﹂との無関係性については、﹁高僧伝等における四論の研究者 ( 2 ) ﹂令行信学報﹄一四、二

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一年)や﹁﹃論註﹄と三論ないし四論との関係﹂(龍谷仏教学会﹃仏教学研究﹄五六、二

OO

二 年 ) 等 を 参 照 さ れ た い 。

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﹃往生論註﹄原漢文の所在は、﹃浄土真宗聖典七祖篇﹄(原典版﹀︿平成四年、本願寺出版社)によって示す。ただし、本 論文に引く原文の漢字は新字体を採用しているし、句読点は、後にだした論者の訓読にしたがって挿入しているから、ここに引 用相当句があるという意味しかない。

ω

この訓読文は、論者自らによる。以下もすべて同様であって、それぞれの引用の場所は明示しないが、訓読文全体は、拙著 守往生論詮議読﹄(平成一一一年、百華苑)におさめてある。伝統の訓読文を、韓路することなく本人の納得できる訓みにしてい るから、そう訓読した背景を知りたいときは、そちらを参照して欲しいと思う。

ω

試しに手元にある﹃総合仏教大辞典﹄(法蔵館)を繰ってみれば、﹁二諦﹂という項目の下に、各種の二諦説が示されている ( 下 巻 、 一

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九七頁中段以下﹀から、内容がこの言葉だけで決定しているというわけにはゆかない。 ∞ 前 註

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に 示 し た ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 七 祖 篇 ﹄ ( 原 典 版 ) の 一 一 一 一 一 頁 七 行 目 、 一 一 一 一 九 頁 一 二 行 目 と 一 一 一 一 行 目 、 そ し て 、 一 四

O

頁 一 行目である。また、本論第三項には、この原文をあげて論及している。 制この語は、三厳二十九種のトップ、﹁荘厳清浄功徳﹂中の観見を示すところにでる令七祖篇﹄原典版の六五頁)ものである o

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同様に、国土荘厳の第一二、﹁荘厳性功徳﹂中のやはり観見を示すところにでる令七祖篤﹄原典版の六八頁)言葉である。 的﹃大智度論﹄の巻九には﹁語以得義、義非語也。如人以指指月以示惑者、惑者視指而不視月。人語之言、我以指指月、令汝知 之。汝何看指而不視月。此亦如是語為義指語非義也﹂とあり(大正二五・一二五中)、その巻九五には﹁如人以指指月、不知者 但観其指而不視月。是故仏説諸法平等相亦如是皆是世諦﹂と簡略に出ている(同・七二六上﹀。 仙 W ﹃中論﹄の二諦説においては、俗諦が言語表現として考えられていて、﹁若し俗諦に依らざれば、第一義を得ず。第一義を得 ざれば則ち浬撲を得ず﹂と諦相互の関係が語られている。この二諦説の原文は、すでに既出の論文にまとめておいたのでそちら を 参 照 さ れ た い 。 拙 稿 ﹁ 真 実 と 言 葉 ﹂ ( ﹃ 龍 谷 紀 要 ﹄ 一 一

0

・ 二 の 三 頁 、 一 九 九 九 年 ﹀ で あ る 。 M W ﹃浄土真宗聖典七祖篇﹄(原典版﹀一一七 J 八 頁 。

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本論中に示した漢文および書き下し文を見られたし。あるいは、﹃七祖篇﹄原典版に付せられている校異を参照のこと。 MW 拙稿﹁曇驚と称名思想そのハ

I

)

﹂(﹃印仏研究﹄四七・二、一九九九年)と、﹁曇鱒と称名思想その (H)│ 道教におけ - 64ー 龍谷大学論集

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る名重視の観念 │ L q 行 信 学 報 ﹄ 一 一 一 、 一 九 九 九 年 ﹀ と で あ る 。 帥﹃浄土真宗聖典七祖篇﹄(原典版)一二三頁。 帥 同 右 一 一 一 一 九 頁 。 伺ここの漢文訓読についてはなかなかやっかいな問題がある。論者は、﹁論註﹂の釈文に相応させて﹃浄土論﹄本文も訓み、意 味も矛盾なく理解できるようにしているつもりである。論者の書き下しと﹃七祖篇﹄原典版のそれとがどれほど異なっている か、両者を比較して欲しいと思う。また、私が本文のように訓読したことについては、拙稿﹁往生論註(下巻)研究の問題点﹂ ︿﹃行信学報﹄八、平成七年)の、第二項②&③の記述を参照されたい。 帥﹃浄土真宗聖典七祖篇﹄(原典版)一五八頁

1

0

伺曇驚の釈文から、前註 M W に示した拙論の検討を経て、論者が達した結論である。 帥既出の拙著﹃往生論註講読﹄の二七四頁の解説を参照のこと。 同やはり原文の所在を﹃浄土真宗聖典七祖篤﹄(原典版﹀で示しておけば、その一一

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頁で、上巻末の﹁八番問答﹂の部分に で る も の で あ る 。 同前註帥を参照。この語がでる記述については、本論文の前の第三項を見ょ。 帥﹃浄土真宗聖典七祖篤﹄(原典版

)l

五 六 頁 。 同﹃論註﹄下巻の﹁観察体相章﹂の記述をみると、器世間清浄十七種の荘厳の体を観察するに、すべて﹁此云何不思議﹂という 表現で始まっていて、どれほど﹁不可思議﹂であるかが語られている。浄土の荘厳のすべてが衆生救済のための仏事を為してい て、このはたらきは﹁不可思議﹂としか言いようがないというのである。 帥﹃浄土真宗聖典七祖篤﹄︿原典版)一六一一一頁。 帥同右一六五頁。 帥前註に引いた文に直接続く表現である。 開既出の拙稿﹁往生論註(下巻)研究の問題点﹂の最後近くを参照されたい。 明司浄土真宗聖典七祖篇﹄(原典版)一ムハ八頁。ただし、ここのところの訓読は、伝統的には﹁智慧と慈悲と方便との一一一種の 門は般若を摂取し、般若は方便を摂取す﹂などとされている。原典版一六八頁もそうなっている。論者は、ここを﹁:::との三 種の門は般若に摂取せられ、般若は方便に綾取せらる﹂と訓む。そうしたについては既出拙稿﹁往生論註(下巻)研究の問題点﹂ 曇驚『論註Jにおける世俗諦と方便説(相馬〉 - 65ー

(20)

の 第 二 項 の ⑦ を 参 照 願 い た い 。 伺﹃浄土真宗聖典七祖篇﹄(原典版)一七一頁。 帥同右一七七頁。 開この﹁すべては阿弥陀仏の本願力による﹂ということを証明するために、﹃論註﹄は﹁今的らかに三願を取りて、用て義の意 を証せむ﹂といいながら、﹃無量寿経﹄の第十八願、第十一一胸、そして第二十二願を引いている。この部分をコニ願的証﹂とい うのである。前註帥の箇所に続く記述で確かめられたい。 キ ー ワ ー ド 曇驚 世俗諦 論 註 - 66ー 龍谷大学論集

参照

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