奈良教育大学学術リポジトリNEAR
「十九世紀の世界」教材化の一視点
著者 佐古田 康義
雑誌名 高円史学
巻 3
ページ 38‑58
発行年 1987‑10‑01
その他のタイトル A Viewpoint of Teaching "the 19th Century World"
URL http://hdl.handle.net/10105/8645
﹁十九世紀の世界﹂教材化の一視点
一中学校における世界史学習の視点とは
佐 古 田 康 義
中学校に入学して子ども達は世界の勉強をすることに期待をしているのか︑それとも世界の勉強をそれほど意識していな
いのか︒小学校での学習の範囲は地理にしても歴史にしても日本国内に限られていたといっても過言ではなかろう︒小学6
年の後半に設定されていた日本と世界の関係︵貿易など︶の学習は内容的には大変薄いものとなり︑世界地図の学習も︑世
界の国々の学習も極力削られる状況にある︒子ども達は全く初めて世界に関する体系的学習を中学校で行うことになる︒
しかし︑世界の学習に関する期待はさほど強くはない︒﹁くわしくなる︑範囲が広くなる﹂程度の感覚である︒小学から
中学へ機械的に社会的な把糎の空間が地域←日本←世界へとひろがっただけのように思える︒ここには子どもの主体的な 〝
世界観″ は感じられないように恩える︒だが実際は︑子どもは様々な場面で 〝世界″を意識している︒反核︑軍縮問題︑ア
フリカの飢餓などは子どもの意識の中になんらかの影響を与えていることは確実であろうし︑日常の食生活︑音楽の中に〝
世界〟を意識することは常にあることだろう︒
子どもの意識の中にあるであろう〝世界″と世界の学習の意義の隙間を埋める作業が日々行われなければならない︒機械
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的な空間の延長としてのみ世界を把えるというのは克服していかねばならない︒世界をみようとする眼︑世界という広がり
の中で日本を︑あらゆるものごとをみようとする態度が必要とされているのであリ︑この基本的な姿勢を育てていく場が中
学での学習ともいえる︒例えば︑﹁奈良の大仏﹂という教材の中にも世界のひろがりの中の日本を実感できる場面がある︒
大仏の開眼式が行われた時の状況はどうであろうか︒大仏殿の前にインドやベトナムの僧侶が列席し国際色あふれる式典が
挙行されたのである︒日本の歴史を教える中で︑このような場面をいくつか設定できるように恩う︒〝世界″を意識させる
一つの手立てともいえる︒
ところで意識させるべき〝世界″とはどんなものであるのか︒機械的に並べられた地域11日本−世界という同心円的
拡大の中においても感じられる〝世界″ は︑ヨーロッパ中心の世界観ではないのか︒日本を中心とした同心円的拡大の中で
把えられる世界観としてアジア諸国の位置付けが行われているのか︒例えば︑日清・日露戦争の教材化の視点の中にどれほ
ど︑朝鮮のことが意識されているのか︑日露戦争は日本とロシアとの単なる戦いではなく戦場となった朝鮮の領土︑国民の
視点が必ず把担されているといっていいのか︒また︑古代における日本と大陸との文化交流の中で朝鮮半島を単なる文化の
架橋としての存在としか見れない状況をどう考えるのか︒機械的同心円的地域認識の拡大は︑日本で停止せざるを得ない︒
この地点から世界観はヨーロッパへ一足飛びに到る︒
﹁ヨーロッパ中心史観﹂の克服は久しく言われてきたことであるが︑その克服のあり方はどうあるべきなのか︒この点に
ついては︑一八四八年革命の研究の中で斬新な視点が提起されてきているように思う︒喜安朗氏は一九世紀前半期における
ヨーロッパ内部の変革主体の形成に主眼を置き︑単なるヨーロッパの侵略に対するアジアの解放という構図では一九世紀の
世界像︑ひいては統一的世界像の構築には向かないという指摘をされているように恩う︒また︑良知力氏は著書﹃向う岸か
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らの世界史﹄などに見られるように︑一八四八年革命を支えた指導者のスラブ認識︑ロシア認識の問題点から︑﹁歴史なき
民﹂ への視点の追求の重要さを指摘している︒さらには︑一八四八年革命の震源地はフランス︑イギリス︑ドイツであると
いうような︑西ヨーロッパを中心とする波及史観をのりこえて︑当時の様々な変革が諸々の地域で各段階の要求に応じてな
されたのだとする歴史像見直しの一視点を提供しているようにも患える︒
しかし︑現行の指導要領では世界史的内容は大幅に削減され︑日本に視点をおいて︑日本との関係があるもの︑日本の歴
史を世界史に位置付けようとするものであり︑日本史の背景として世界を見るという背景史観である︒しかも古代・中世の
扱いは簡略化され︑前近代の世界史内容は大きくまとめられ︑その中もヨーロッパ中心の事項で占められる︒ゲルマン民族
の移動︑中世ヨーロッパ︑十字軍︑ルネサンス︑宗教改革︑地理上の発見⁝と続く︒中学校世界史全体を貫いているのはや
はり依然として欧米中心の世界史構成であり︑それは教材の配列を見ていても明らかである︒
このようなヨーロッパ中心史観を克服するべき仕事が中学校の世界史学習でなされねばならないと思う︒その克服の視点
として次の事を大事にしていきたい︒
① 世界のできごとの大きな流れが︑世界のひろがりの中で把えられる︒
② ヨーロッパ中心︑大国中心︑あるいは強者中心ではなく︑あらゆる者の立場にたって状況を正しく把えられる︒
③ すべての民族に対して平等であるという視点から︑それぞれがお互いに世界史を構成しているのだという把え方︒
④ 支配者の歴史ではなく︑歴史を動かす大きな力は日々の民衆の活動の中にあることを確認する︒
以上の点に注意しながら中学校の世界史学習を把えていきたいと考えている︒
次に﹁一九世紀の世界﹂を例にとり︑異体的な授業の組み立てを考えてみることにする︒
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二一九世紀の世界の教材化について
1 指導要領から考えた場合
新指導要領の全体構成からみると﹁一九世紀の世界﹂の内容は︑開国前の日本と世界という単元で第二学年の初頭に位置
づけられている︒そしてその最初に﹁ヨーロッパの近代社会と産業革命﹂という項目がある︒その後に鎖国期の日本の歴史
が教えられることになり︑あくまでも日本の近代化に影響を与えたヨーロッパという設定が強く出ている︒まさに菅栄史観
で あ
る ︒
市民革命や産業革命のとらえ方はどうなのであろうか︒国内に市民階級が成長し︑政治的には革命による政治参加を求め
る運動が︑経済的には自由な資本主義の成長が推し進められたわけであるが︑これらの発展の背景には海外の広大な植民地
があったためだという意識が強く出ていると田やっ︒イギリスやフランスの市民革命あるいは産業革命=近代化は海外の植民
地を犠牲にして成立したものであり︑日本の近代化は鎖国状態で︑海外貿易すら行わず明治維新によって近代化をスタート
させたという自国本位の形を近代化の一般形と把えている︒イギリスやフランスは近代化の形が特殊的という把え方を定着
させているようである︒ヨーロッパの近代化の日本への影響という設定は︑単純に日本がヨーロッパの道程を歩んだとする
のではなく︑また世界の中の日本という視点を確認するのでもなく悪しき比較史の手法でもって自国流の解釈を行わせるこ
と に
な る
︒
西欧先進国の近代化の過程が人類普遍の歴史のごとく考えられ︑それ以外の国々の歴史は近代化のおくれ︑封建遺制とい
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う枠組みで把えられた経緯を見るならば︑各国独自の歴史性をふまえた近代化の姿を求めることも当然のことと考えられる︒
しかし︑その両極端な変化は承服できない︒各国独自の歴史発展を強調するならばそれは全くの自国史になり︑世界史学習
の範ちゅうからは完全に脱け落ちることになる︒
指導要領の内容構成から考えられる世界史学習の試みは︑日本の近代化を学習するための前提として位置づける以上︑常
に上記の問題を含むといわねばならない︒
2 本校のカリキュラムから考えた場合
中学校における世界史学習をどのような単元構成で行うか︑内容精選の問題をどうするか︑様々な問題があり簡単にかた
づけることはできない︒一つ一つが吟味の対象とされなければならないがここでは本校におけるカリキュラムから世界史学
習のあり方を考えてみたいと思う︒
バイ
本校の世界史学習は︑世界史独立学習の形をとっている︒社会科全体は変形方型を採用し︑第一学年時に過三時間︵内わ
けは世界地理を二時間︑世界史を一時間︶の授業を行っている︒世界史学習は一年時に過一時間のペースですることになっ
ている︒世界史学習の範囲は原始・古代から第一次世界大戦が始まる前までを扱う︒そういうわけで︑世界史学習はいわゆ
る 〝点学習″的なものにならざるを得ない︒世界史全体の通史的学習︑系統的体系的な継続学習はやはり難しい︒また︑対
象が中学一年であることも考えると歴史事実の具体的な解説︑分量も相当精選せざるを得ないのが現実である︒こういう点
から︑本校の世界史学習の把え方を自分なりに解釈するとすれば︑
① 日本史の背景とする把え方ではなく世界史全体の独自の歩みとして学習する︒
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② ヨーロッパの発展史という形で単元構成を取らないで︑諸民族のそれぞれの発展に目をむける︒
③ ヨーロッパ史が人類普遍の発展史などではない︒ヨーロッパ史をも相対化しながら歴史事実の見方・考え方の基本的
な態度を身につける︒
④ 小学校日本史と中学校日本史のつなぎ的性格もあることを考慮して大まかな人類史の展望を持たせるようにしたい︒
と︑以上のように考えている︒異体的な歴史事実の検証を通して子供自身に時代へのせまり方︑考え方を育てるべきである
が︑それは第二学年以降の日本史学習の中で追求されるであろう︒第一学年の世界史学習としては︑子供の興味・関心を高
めると同時に︑歴史事実に見られる様々な見解の相違をその一端でよいから紹介し︑思考の刺激としたいと思っている︒
3 ﹁一九世紀の世界﹂の教材化を通して
原始・古代文明から中世にかけて世界各地の人々がそれぞれの伝統的な社会︑文化を発展させてきた︒それらが相互に結
びつき︑影響を与えあう関係が絶対王政の下で重商主義の名のもとに生成してくる︒諸地域が一体化したものとして〝世界
史〟が形づくられるこの時期以降の歴史展開の中で先述の中学校世界史学習の視点が定められなければならないと思う︒ま
た︑世界の一体化が進められる中で現代社会に通ずる様々な要因︑例えば産業社会が出現し︑民主的政治制度が確立され︑
科学技術が急成長するとともに︑植民地問題に端を発する南北問題や民族主義の台頭︑社会主義恩想の誕生およびその運動
の急展開など様々な形が示されている︒こういう点からも現代社会成立の歴史的背景が確立されてくるという認識を一つの
一九世紀世界像として︑世界史学習における一つの区切りとして位置づけ把握しておく必要があるようにも思う︒
そこで︑〝ヨーロッパの近代化と世界″という大単元での内容を﹁一九世紀の世界﹂︑すなわち現代世界の歴史的前提と
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して認識することで再構成したいと思う︒
I 教材について
イギリスにおける市民革命はイングランドの民主主義運動︑例えばその急進的なディガーズの運動などがクロムウェルに
よって弾圧され一時挫折したかのようにみえた︒ハ四九年八月クロムウェルはアイルランド遠征を試み︑アイルランド人
を征服し︑さらにスコットランドにも遠征し決定的勝利を得ている︒この後︑クロムウェルの独裁︑王政復古と続き名誉革
命が起こるが︑この革命は民衆が参加しておらず︑宮廷クーデタFのような形で終わり︑イギリスの革命を立憲君主政の名
の下に王と議会との新しい関係づくりに終始させるものであった︒イギリスの革命は王と議会との相互関係のせめぎあいで
あり︑民衆とくに農村大衆を巻き込んでの農民革命というレベルまでには広がる可能性を持っていなかった︒そのため︑イ
ギリスの社会関係は農村においては中世以来の関係が大変革を見せたとはいえず︑地主の地道な成長が見られたというべき
ものとなった︒王と議会とのせめぎあいの中で大商人︑マニュファクチュア経営者の力も増大し︑議会政治の下でイギリス
は︑保護関税制度︑アイルランド農民からの土地収奪︑アメリカ大陸における植民地政策を押し進めていく︒イギリス革命
の結末は地主と資本家の二人三脚の産物であり︑この関係から進められた自由主義経済のてん末はアイルランドの植民地支
配に始まる﹁世界の工場﹂ への第一歩であった︒
一七世紀イギリス革命をあえて〝不十分な市民革命″と呼ぶならば︑その克服が目ぎされたのが︑一九世紀のチャーチス
ト運動を頂点とする資本家と労働者のせめぎあいであろう︒イギリスにおいて労働者が出現し成長するまでには一世紀︑産
業革命の時代を経過しなければならなかった︒﹁一九世紀の世界﹂の中でイギリスの占める位置は︑一七世紀市民革命の徹
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底︑すなわち労働者階級を中心とする選挙法改正を目的とした政治闘争の主要舞台としての在り方と考えられる︒
◇
三部会の召集︑バスチーユの攻撃からはじまったフランス革命は国民議会の下で旧制度の死亡証書ともいえる﹁人権宣言﹂
を発表した︒一七八九年八月二十六日に可決された﹁人権宣言﹂は自由・平等・人民主権をたからかにうたいあげ︑所有権
は不可侵かつ神聖の権利であるとしたが︑財産を持たないものについてはなにも考慮されてはいなかった︒九一年憲法では
選挙権は財産ある者に限られ︑南・東フランスに住むユダヤ人には形の上での市民権が与えられただけで現実の差別は消え
たとはいえず︑また︑海外植民地での奴隷制についてはいっさいかえりみられることはなかった︒国内では王が処刑され︑
共和制に移行し︑さらにジャコバン党が政権を握り革命は急進化していく︒一七九四年︑かえりみられなかった海外植民地
の奴隷制に対して奴隷解放宣言が革命議会によって採択される︒これは革命の急進化というよりも︑フランスの植民地の一
つであるハイチ島での黒人による自由を求めての蜂起の結果といってよい︒革命の影響はハイチの黒人奴隷に対しても自由・
平等の意識を植えつけることになった︒国内情勢をみると封建的土地所有は無償廃止となり︑土地の払い下げが封建制を根
底からくつがえすことになった︒農民に土地が分け与えられていった 〝農民革命〟 はフランス革命の一つの成果ではあるが︑
これは新たに財産を持つ者を生み出していくことにつながった︒﹁安定﹂を求める勢力が次第に増えてくる︒財産の維持を
強く願う者は革命の流動性を嫌い︑﹁英雄﹂を待望する︒フランス革命はこの時点において大きく後退し︑財産ある者はナ
ポレオンのパトロンとして︑そしてナポレオンは〝フランス″ のパトロンとして行動することになる︒
フランス革命もまた︑ナポレオンという鬼子によって有産階級による自由主義経済の発展のステップ=ボードとしての存
在となった︒ナポレオンによる大陸封鎖令はフランス資本主義確立のための大きな一里塚であった︒近代民主主義の発展の
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中でフランス革命の占める位置は大きく︑その成果も十分に評価されねばならないが︑あえてフランス革命の限界に焦点を
絞ることにより︑﹁一九世紀の世界﹂の特徴を浮き彫りにしたい︒
フランス資本主義の先兵としてナポレオンはハイチの黒人を弾圧する︒しかしハイチは一八〇四年︑黒人国として独立を
かちとる︒一九世紀になるとフランスはウィ!ン体制により王政復古するが︑海外植民地における黒人独立の動きや︑ヨー
ロッパ諸民族の自由・独立への要求の動きに影響されながらフランス革命の限界をのりこえていくことになる︒一八三〇年
の七月革命は︑フランス資本主義確立のための障害物︵復古王政︶を完全に取りのぞき︑銀行家ラフィトを中心とする金融
ブルジョアジーによって権力が掌握されることになった︒しかし︑同時に産業社会の成立とともに労働者階級の出現と彼ら
の選挙権獲得要求が激しくなってくる︒一八四八年の二月革命は最初の資本家と労働者の対決といってもよいだろう︒妥協
の産物としての臨時政府は六月事件を契機に労働者勢力を閉め出し︑資本主義の全盛期を生み出していく︒
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Ⅱ教材化の視点
教科書の内容構成のようにイギリスの革命︑フランスの革命という個々の把え方ではなく︑それぞれの革命は一国の枠内
で行われつつもそれは未完の運動であり︑その帰結点は一八四八年にあることを指摘しておきたい︒
﹁一九世紀の世界﹂を教材化する際に大事にしたいことを次にまとめてみる︒
①一九世紀を支えるものは市民革命と産業革命であると考えるが︑中学一年での扱いであることを考慮すると︑産業革
命を中心とする教材の組み立ては︑工業技術や経済制度︑世界貿易の構造など国際経済のしくみを説く必要性がでてくるた
め内容が高度にならざるを得ないように思う︒また︑長期的︑静的な展開であるため一時間の授業場面としては設定しにく
い︒そこで︑動的な市民革命を軸として教材を組み立て︑大まかな流れの中で系統性を強調したいと考える︒
② 現代世界の歴史的前提としての一九世紀像という観点から︑労働者階級の出現とその解放︑被抑圧民族の解放︑さら
にアジア・アフリカ・ラテン=アメリカの諸民族の自由・独立の闘いが世界史的課題として一八四八年をさかいとして提起
されたことを重要視したい︒
③ イギリス・フランスの市民革命を近代民主主義発展の一つの典型としてとらえるだけでなく︑その裏で植民地支配の
事実があったこと︑および革命そのものが 〝市民″ のものであったのかどうかを運動の限界という点から把えなおすことが
必 要
で あ
る ︒
④ 革命そのものをドラスチックに把えさせることも必要と考えるが︑内容上特にフランス革命に力点がおかれすぎると
いう気もする︒冷静に︑イギリス革命もフランス革命も︑そしてアメリカ独立戦争も含めて︑〝市民革命″と呼ばれる歴史
事像は﹁市民がが中心となって絶対王政を打ちたおした革命で︑これによって民主主義が進んだ﹂のだという認識から一歩
進めて︑名誉革命の展開やフランス人権宣言の内容︑あるいはアメリカ独立宣言の起草の経緯︵黒人やインディアンの権利
が結局認められなかった︶などからの把え直しの認識が必要である︒
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Ⅲ 指導計画︵全一七時間︶
第一次 絶対王政⁝⁝三時間
︒資本主義のめばえ ︒絶対王政のしくみ ︒各国の絶対王政
第二次 市民革命⁝⁝五時間
︒イギリス革命 ︒アメリカ独立革命 ︒フランス革命 ︒市民革命とは 第三次一八四八年⁝⁝六時間
︒産業革命 ︒一八四八年のヨーロッパ ︒ドイツ・イタリアの統一 ︒アメリカ南北戦争
第四次 ヨーロッパとアジア⁝⁝三時間
︒イギリスのインド支配 ︒アへン戦争と太平天国
全体で四次の計画を立てているが︑中学一年までの世界史学習は︑第三次の一八四八年のヨーロッパまでとしたはうがよ
いと思う︒教科書の記述をみても︑一八四八年以降は具体的歴史事実を取り扱っている場合が多く︑また︑それは一八四八
年で示された労働者や被抑圧民族による自由・平等・独立・民主主義の獲得要求の具体化でもあるからである︒
三 授業展開
指導計画の第三次一八四八年のヨーロッパまでは︑今まで述べてきたことを中心に︑事実関係を整理する中でそれぞれの
革命の限界に的を絞った授業をおこなった︒その中で労働者階級の運動の具体的展開・国際的団結︑拡がりが一九世紀世界
の特徴であること︑さらに革命の経験のないドイツ・イタリアでは封建的勢力との妥協の中で労働者が抑圧され︑資本主義
が発展していく道をとったこと︑アメリカやロシアは︑ヨーロッパ︑アジアの被抑圧民族の解放勢力に刺激され︑黒人や農
奴の解放の運動にはずみがつくと同時に奴隷解放や農奴解放などの動向がみられることを指摘しておいた︒
◇
二九世紀の世界﹂のしまを授業展開にそくしてみるために︑アメリカの南北戦争を例にとって検証することにしたい︒
先述のような単元の構成を考え︑労働者階級の勢力の増大・団結という展望を現代世界認識の前提の一つとしたいといった
が︑ドイツ・イタリアではまだ労働者階級の勢力はさほど大きくなく︑封建勢力の力が圧到をしていた段階であるし︑それ
よりも国家統一が最重要課題として残っていた︒また︑一九世紀のアメリカは資本家対労働者という図式の前に領土拡大と
奴隷制の問題が残っていた︒それぞれは一八四八年革命による諸民族の独立・解放の流れを具体化するものであり︑特にア
メリカにおいて独立革命を市民革命とする見解にそうならば︑アメリカの独立は植民地の資本家がイギリス資本の呪縛から
解放されただけであり︑アメリカ内部の市民革命を達成しない限り独立革命は市民革命として不十分であるという認識のも
とに︑限界をのりこえるべき一九世紀を設定しなければならない︒この文脈のなかで南北戦争の中にのりこえるべき〝限界〟
の実態を確かめることにしたい︒
<アメリカ南北戦争V
I 題材への視点
この題材を取り扱う際に特に注意したいのは次の点であろう︒︵授業での留意点︶
① 独立後のアメリカ合衆国における﹁民主主義﹂
︒独立後のアメリカ合衆国は︑ナポレオン戦争などを利用し︑イギリスからの経済的自立を目ざした︒それとともに東部の
産業資本家や西部の開拓農民などの民主的要求も高まり︑ジャクソニアン=デモクラシーと呼ばれる一時期をむかえる︒だ
がこの﹁民主主義﹂は︑西部への膨張をのぞむ農民︑職人︑労働者︑資本家たちのものであり︑﹁西部への膨張﹂の最大の
犠牲者はインディアンであること︑そして黒人に対しては﹁自由﹂を奪い︑逃亡に失敗し︑つれもどされた奴隷に対しては
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他の奴隷の見せしめのために焼印をおしたり︑耳をそいだり︑激しくむち打つなどの残虐行為を法律で承認することであっ
た︒独立宣言の 〝すべての人〟 から除外された黒人やインディアンに対する差別・弾圧が継続し︑それにもとづいての領土
拡大︑発展であることを考えねばならない︵奴隷制のありようについては末尾の資料①参照︶︒
② 北部・南部とイギリスとの関係
︒北部︵東北諸州︶は︑イギリスからの経済的自立を達成するために資本主義の急速な発展に努めていた︒特に綿紡績業で
の発展は冒ざましく︑商品の販路を海外市場に求めてアジアへの進出︑さらには南部への国内市場の拡大と外国商品に対す
る保護関税貿易を主張していた︒これに対し南部は従来のタバコを中心とするプランテーションから綿花のプランテーショ
ンへと変化した︒これはイギリス産業革命が進展し綿花の需要が高まり︑南部がイギリス綿工業の原料供給地としての位置
を確定されたことによる︒綿花をイギリスに輸出し︑イギリス商品を購入する︒綿花栽培には安価な労働力として黒人奴隷
が輸入される︒南部プランターは奴隷制の維持と自由貿易を主張していた︒
③ ″奴隷解放の父″ リンカーンは正しいのか︒−﹁アメリカン・デモクラシー﹂の点検
︒独立宣言後も残された課題の一つである黒人問題の解決に功績を残したリンカーンとしてのイメージが非常に強い︒アメ
リカの民主主義を代表する人物としてゲティスハーグの演説とともに子供たちがよく知っている存在でもある︒しかし︑そ
のリンカーン像は少しゆがめられていることを認識する必要がある︒さらにそれは︑②で示したような北部と南部の関係を
〝奴隷制に反対する北部″と 〝奴隷制を主張する南部″というように色分けし︑〝北部を代表するリンカーン″が大統領に
なったため南部が不満を示し︑分離して戦争をはじめた︑という北部対南部の図式を敵対関係と決めつけ︑これからはじまっ
た戦争で北部が勝利して︑リンカーンが奴隷制を廃止し︑民主主義を進めた︑すなわち南北戦争を市民革命としての意味を
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持つ出来事として位置づけることに直結していることも認識する必要がある︒
北部と南部の関係は決して敵対していたわけでなく︑お互いに補充しあう関係であったとも考えられる︒北部の工業がイ
ギリスにたよらず発展していくためには︑海外植民地の獲得も必要であろうが︑まずその前に南部を国内植民地とし︑国内
市場を囲めることが大事である︒また南部もイギリスとの結びつきを完全になくすことはできないが︑北部の商業資本にも
依存しなくては外国商品にたよりっぱなしはリスクがともなう︒南北共存・補完関係は基本的には変わらず軸としてあり︑
リンカーンが南北戦争中に苦慮したことはあくまでも連邦の維持であった︒
南北の対立は新しい州を自由州とするか︑奴隷州とするかの争いであり︑さらにこの対立を深めていったのが︑逃亡奴隷
法強化によって激しくなった奴隷解放運動であった︒﹃アンクル・トムの小屋﹄の著者ストウ夫人も奴隷解放に努め︑彼女
の家は逃亡奴隷を北部あるいはカナダまで移動させる秘密組織﹁地下鉄道﹂の﹁駅﹂︵かくれ家︶となった︒
リンカーンが南北戦争中に奴隷解放を行うのは︑南北分離を避けるためであり︑黒人が南北戦争を自己の解放戦争ととら
え積極的に北軍について戦ったこと︑そして南部とのつながりのあるイギリスの軍事介入をけん制する上でも︑奴隷解放を
進め戦局を北軍に有利に展開させることが必要事であったと考えられる︒このことは次の演説によって知ることができる︒
すなわち︑﹁この戦争におけるわたしの至上の目的は︑連邦を救うことにあります︒奴隷制度を救うことにも滅ぼすことに
もありません︒もし奴隷をひとりも自由にせずに連邦を救うことができるのならばわたしはそうするでしょう︒そしてもし
すべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるならば私はそうするでしょう︒﹂というように︑奴隷解放はアメリカ
の分裂をくい止めるための道具として考えられ︑民主主義の使命を果たすことではなかった︒法制上の制度としては人格的
な点でも自由を認められたが︑生活の保障のための土地分与などは考えられず︑黒人は小作農としてさらに零細な労働力と
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