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『無名の人ジュード』試論1)
福 岡 忠 雄 (一) 『無名の人ジュード』(ノtZde the Obscure)は,学問の情熱に燃える前途有為 な青年が,押さえがたい性の衝動に苦しみ,アラベラとシューという二人の対 照的な女性のはざまで遂に身を滅ぼしてゆくというような単純な話などではな いのではないか。言い替えれば,学問という崇高な理想が,性欲あるいは, 結婚という現実の前に敗れ去る物語というのはこの小説の一面に過ぎないので はないだろうか。そのような読み方がこれまで一般になされてきたのは,バー ディ自身の発言に捕らわれ過ぎたためであろう。 April 28. A short story of a young man一“who could not go to Oxford”一His 2) struggles and ultimate failure. Suicide. (This novel attempts) to tell, without a mincing of words, of a deadly war 3) waged between flesh and spirit. この二つの引用を重ねれば,“肉”とはジュードのセクシュアリティ,“霊”と は真理を求める彼の学問的情熱のことであり,この命を賭けた戦いが,肉の勝 利のうちに終わる過程,それがこの物語のすべてだということになる。そして, 1)本稿は,日本バーディ協会第34回大会(平成3年10月)におけるシンポジアム「『ジュー ド』を読む」での筆者の発表に基づいている 2) F.E. Hardy, The Ltfe of Thomas Hardy (London:The Macmillan Press, 1962), pp. 207−8 3) Thomas Hardy, /ude the Obscure (Preface to the first edition)このような読み方からすれば,ジュードの悲劇はひとえに彼が大学に行けなか ったことに発している,ということになる。しかし,作者の言い分はともかく, テキストを読む限り事はそう単純ではない。むしろ逆に,学問の府クライスト ミンスターへの止み難い憧景に身を焦がすジュードをテキストは常にアイロニ カルな目で見ているのである。ジュードのクライストミンスターへの一途な憧 .れが,少年らしい純粋さを感じさせる反面,常にその過剰な思い込みのために, 我々にある種の危うさを覚えさせてしまうのだ。彼が,クライストミンスター を称して「黄金のエルサレム」,「まぼろしの聖都」とボルテージを高めるごと に,テキ・ストは決まって,彼の陶酔に水を差すようにbatheticな応答を用意す る。 “The heavenly Jerusalem,” suggested the serious urchin. “Ay−though 1 should never ha’ thought of it myself . 4) to−day,” (responded the workman.) ...But I can’t see no Christminster アイロニカルな気配は彼の“熱情”への次のような椰楡にも明らかである。 Jude addressed them, inquiring if they had come from Christminster. “Heaven forbid, with this load !” said they. “The place 1 mean is that one yonder.” He was getting so romantically attached to Christminster that, like a young lover alluding to his mistress, he felt bashful at mentioning its name again. He pointed to the light in the 5) sky−hardly perceptible to their older eyes. また,大学町としてのクライストミンスターも,決して理想を追うにふさわ しい場所として描かれてはいない。それはむしろ,朽ち果て崩れかけ,「歳月と 4) lbid., 1−3 5) Loc., cit,
『無名の人ジュード』試論 203 風雨と人間とを相手とした死闘に傷つき敗れて,外形を剥ぎ落とされ」た町, 古い歴史の重みに喘ぐ町であり,“幽霊”,“幻影”などの言葉の頻出が示すよう に,そこに棲みついているのはおびただしい過去の亡霊,肉体を失った虚な声 6) のみなのである。と同時に,その歴史の古さ,継承された伝統の重みを盾に, 権威,秩序,因習の砦として君臨している町でもある。従って,この小説が, 因習の呪縛のために身を滅ぼした青年の物語であるとすれば,その仮借ない因 習の最:大の拠点は,クライストミンスターそのものなのである。と言うことは, この物語は初めから,学問の理想が性的衝動の押さえ難さに敗れた物語などで はないということになる。そもそも,学問なり知識なりが,崇高な理想の追求 だとか,より深い人聞性実現だとかとは全く結びつけられてはいない。そうで はなくて,学問,知識への希求は,むしろ性的欲求と同じ位に危険な“罠”な のである。知的衝動に身を任すことは性的衝動に身を任すことと同様に,確実 に彼に破滅をもたらすものなのである。 その理由の一端はテキストに既に明らかである。シューのあの辛辣な言葉, 「あそこは無知の集まり...町の人達は人生をありのままに見ているのに,大 学の連中ときたらまるで駄目...フェテEシストと亡霊に悪かれた者たちば 7) かりだわ」に尽きる。つまりそこは,現在ではなく過去が,生ではなく死が, 現実ではなく幻影が支配するところなのである。大学の壁の外で,大学などに は一向関わりなく暮らす人々,彼等の喜怒哀楽,彼等のlived experienceに全 く無関心に,ひたすら壁の内側で,学問という秘儀に耽る所なのである。 ジュードのクライストミンスターへの憧景が,彼の破滅の契機である第二の 理由は,バーディが恐らく持っていたはずの,知識の体系,学問の体系への猜 疑心に発するものではなかったかと思う。知識,学問が常に不偏不党,客観的 ・中立的営為だと考えるのは楽観に過ぎよう。それらがどんなに無色透明に見 えても,何らかの形で,現存の文化的・社会的秩序の維持に奉仕しているはず なのである。バーディの場合で言えば,当時のイギリスのブルジョワ価値観に 6) lbid., II−1 7) lbid., II−4
基づいたVictorian ideologyの体系がそれである。その中身については,後で シューを論ずる際にその一端に触れることにして,ここでは,バーディが,そ の生まれ・育ち故に,つまり,彼の階級的出自故に,当時の支配的イデオロギ ーに対してマージナルな立場にあったこと,そのために,そのイデオロギーの 虚構性をある程度見抜くことができたのではないかとだけ言っておこう。つま り,バーディにとって学問・知識を目指すということは,それら学問・知識が 支える支配的イデオロギーの中へ組み込まれる危険性を意味していたと思われ るのである。知識・法・モラルを司るクライストミンスターはまさにそのイデ オロギーの牙城である。従って,ジュードの悲劇は,クライストミンスターか ら排除されたことに始まるのではなくて,そもそもクライストミンスターに魅 入られたことそのものに発しているのである。 ジュードが敗北したのは肉の誘惑に負けたからだとして,では,霊,即ち知 識なり真理なりの道に徹していれば彼の人生は充実したものになっていたはず と言えるかどうか。肉を取ろうと霊を取ろうとジュードにとって結局は不毛の 選択だったのではないか。この小説の開巻部に濃厚なジュードの行く末につい ての暗い予言,即ち,どう生きようと彼には結局破滅しかないとの予言は,こ の不毛の選択のせいではないだろうか。同じ悲劇でありながら『キャスターブ リッジの町長』(The Mayor of Casterbridge)や『ダーバビル家のテス』(Tess of the d’Urbervilles)とこの小説が決定的に違う点がある。それは,ヘンチャ ードやテスの死には,悲劇は悲劇ながら,最:後にはある種のmoral victoryが あったのに対して,ここには全くそれが無いということである。これもまた, ジュードにつきつけられた選択が,いかなる形のビクトリーも不可能な不毛の 選択だったからではないだろうか。肉心霊という二項対立が“健全な”もので ある限り,即ち,肉を退け霊に殉ずれば円満な解決が得られるというのであれ ば,ジュードの敗北の裏にある種の教訓を読み取ることができたかもしれない。 しかし,それが初めから不毛の選択であるということは,その二項対立の立て 方そのものに問題があるということなのである。そして,本来不毛であるはず の二項対立を如何にも“健全な”もの,“自然な”ものに見せかけているもの,
『無名の人ジュード』試論 205 それをさしあたりイデオロギーと呼んでおくことにしたい。 (二) 当時のイデオロギー,特に男女関係を規定する性のイデオロギー(sexual ideology)の中身の検討に入る前に,この作品がそれをあぶり出すのに極めて 有効な構図を含んでいることをまず説明しておきたい。 既に幾つかの指摘があるように,『ジュード』と前作『テス』とは表裏一体の 関係にある。テスをジュードに置き替え,アラベラをアレックに,そしてエン ジェルをシューにそれぞれ入れ替えれば,そのシンメトリーは誰の目にも明ら かであろう。それは単に主要登場人物の性格づけだけではない。プロットその ものにも対称性がある。テスがエンジェルに初めて会って心引かれたのは,村 のダンスの時だか,エンジェルの方は知らない。ジュードが初めてシューに心 引かれたのは,大叔母の家に置いてあった彼女の写真だが,勿論シューは知る よしもない。テスがエンジェルに再会したのは,小説も四分の一を過ぎたとこ ろ,ジュードとシューの出会いもやはり同じ頃。お互い愛し合うようになって, エンジェルがテスに,実はロンドンで束の間他の女と同棲していたことを告白。 シューもまたジュードにかつてロンドンで大学生と同棲していたことを告白。 一方,告白を聞かされたテスにもジュードにもその時評に結婚の障害となるの っぴきならない事情が既にあったということ。そしてそれが二人とも,それぞ れ,アレックとアラベラによって強引にセクシュアリティの世界に取り込まれ た結果だということ。要するに『ジュード』は『テス』の焼き直しなのであ る。 焼き直しという言葉が出たついでに言えば,全く同じもののコピーという意 味ではなく,陽画(ポジ)と陰画(ネガ)との関係と言った方がいいかもしれ ない。ただし,私がここで敢えて“焼き直し”などという否定的な言葉を用い たのは,決して既しめるつもりからではない。作者の側に,ある限られた数の 原型的人物像があって,それらが各作品毎に少しずつ手を加えられた“変奏” として,一つ一つの作品を作り上げてゆくことは,何もハーディに限ったこと
ではなく,良かれ悪しかれ,創作の常と言える。 そうではなくて,ハーディが,テスをジュードへ,アレックをアラベラへ, エンジェルをシューへと“焼き直した”時,そこでは単なる“変奏”では済ま ない,作品の主題そのものに関わる重大な問題が立ち表れてきたことを,私は 言いたいのである。つまり,男を女へと,女を男へと裏返した時,前のものと は似ても似つかぬ重要な変更が生じたこと,そして,その変更の根底にあるも のこそ,当時の性に関わるVictorian ideologyであることをである。 例えば,相手の告白に誘われて,ジュードもテスも,それぞれののっぴきな らない事情を告白する。だが,その事情とは何だったか。ジュードの場合,そ れは既に結婚しているという事実,即ち法的な問題である。当時の厳格な婚姻 法からすれば,これはある意味で仕方がない。しかし,テスの方は,自分が処 女ではないという事実である。つまり,女にとって処女性は,法的規制の対象 と同じレベル,r旦それに抵触した者は,人間として正当な資格を有しないと いうレベルに置かれ,ているということなのである。このように,テスからジュ ードへの焼き直しは,言わば逆照射のような形で,テスの悲劇の根底にあった ものを浮き彫りにしてくれる。 シューとエンジェルとの対称性についてはどうか。二人は,知的,精神的に 進んだ考え方の持ち主である一方,性的にはきわめて潔癖な人物である点で共 通する。そして,正規の結婚をしながらも,二人は相手とのセックスを拒否す るという点でも同じである。しかし,結果はどうだったか。エンジェルは,一 時南米にのがれ,やがて自分の狭量さを恥じて,めでたく愛する女をとり戻す。 それは,純粋に彼の個人的信条,個人的モラルの問題であって,自分の狭量さ に目覚めればそれで済んだのである。 しかし,フィロットソンとのセックスを拒否したシューはどうだったであろ うか。彼女の場合,それは直ちに,社会的,法的問題に発展する。セックスし ない女は,まず結婚という制度の枠内に留まる事を許されない。それは,他人 からの強制であれ,自ら進んで出るのであれ,基となるルールは同じである。 世間が,あるいは,慣習が,彼女を異端者扱いするのはひとえに,彼女が法が
「無名の人ジュード』試論 207 許した,あるいは,法が督励する行為を行わないからなのだ。婚姻の枠組の中 でセックスをしないことは,婚姻の枠組の外でセックスすることと同じ位に犯 罪とされる。犯罪という言葉が強すぎるなら,“病気”と言ってもいい。犯罪に しても,病気にしても,いずれも健全な社会を維持するためには速やかにこれ を排除する事が必要だということになってくるのである。 焼き直しによって浮かび上がってきた性のイデオロギー,それを最:も端的に 表しているのは例のAPure Womanという一句であろう。知っての通り,ハ ーディは『テス』の副題として,A Pure Womanという一句を添え,これが大 いに物議をかもした。当時,女性がピュアだというのは,専らセックスなどと いうおぞましいものとは無縁であることを意味したからである。当時の読者は, テスの遍歴からして,彼女をピュアだと言うのはとんでもないと憤ったのであ る。ここからは,私の推測になるが,ハーディはそれならというので,テスを 焼き直し,裏返してみせたのではないだろうか。即ち,ひたすら知的,霊的で, 肉体を嫌悪し,性からも身を離す女性,即ち,読者が崇めるAPure Womanの 化身を創ってみせたのである。だが,結果はどうであったか。シューはテス以 上にごうごうたる非難を浴びることになったのである。ハーディはひょっとし て,内心ほくそ笑んでいたかもしれない。と言うのも,そこで露呈されたのは, テスやシューの人間としての欠陥などではなくて,読者が代表する当時の性の イデオロギーが,如何に矛盾したものであり,かつ,不当なものであるかとい うことに他ならないからである。 (三) 次に,この作品を論ずる以上避けて通れない問題,即ち,シュー・ブライド ヘッドとは何者だったのかについて,これまで述べてきたことを踏まえて,私 なりの考えを提起してみたい。 実際シューとはどんな女性だったのだろうか。いわくperverse,いわく coquettish,いわくopaque,いわくfastidious,更にはpathological等,それ ぞれ少しつつニュアンスは違うものの,要するに彼女は「困った女」であり,
「不可解な女」だということでは共通する。ジュードを破滅に導いた責任は, アラベラの打算以上に,シューのこの不安定,不可解な行動にあると言うので ある。確かに,シューが謎めいた女であることをテキストは何回も繰り返して いる。しかし,まず最初に気をつけねばならないのは,それらの殆どが文脈上 ジュードの視点で語られている部分だということである。この小説に点ては, ハーディの他のいかなる作品にもまして,語り手の視点と主人公の視点とが複 雑に交錯し,時に一体誰の視点に立った文章なのか判断に迷う場合が少なくな いが,一つだけ確かなことは,シューを勝手に聖女に祭り上げたり,反対に, コケットと決めつけたりしているのは多くの場合ジュード本人だということで ある。この点,テスを牧歌的世界の無垢の具現と崇めたエンジェルとよく似て いる。 How could Sue have had the temerity to ask him to do it−a cruelty possibly to herself as well as to him ? Women were different from men in such matters. Was it thatthey were, instead of more sensitive, as reputed, more callous, and less romantic ; or were they more heroic ? Or was Sue simply so perverse that she wilfully gave herself and him pain for the odd and mournful luxury of practising long−suffering in her own person, and 8) of being touched with tender pity for him at having made him practise it ? うっかりすれば,語り手の語りと読んでしまいかねないが,この部分が所謂“自 由間接話法”であることは,文中のhimをすべてmeに置き替えてみればすぐ に分かるはずである。従って,冒頭部分も,「彼にそんなことを頼むとはなんて 無神経な」ではなくて,「僕にこんなことを頼むとはなんて無神経な」と読ん で,ジュードの内面の意識の表白と解すべきである。一見,第三者の語りと見 えて,実はジュードの意識,ジュードの視点からの記述であるという事例は, この部分に限らず全篇に見られる。ということは,作品中のシュー像の多くが, 8) lbid,, III−7
『無名の入ジュード』試論 209 クライストミンスターの場合と同じく,彼の過剰な思い入れのために,誇張さ れ歪曲されていると見るべきなのである。 しかし,ジュードの場合,これを単なる彼個人の幻想と言って片づける訳に はゆかない事情がある。と言うのは,実は,ジュードの幻想は,当時のsexual ideologyを代弁しているに過ぎないからである。 シューはどうして「困った女」,「不可解な女」なのだろうか。その第一の理 由は,彼女が女らしくない女だからに過ぎない。自由な意思と行動,常識的な モラルへの反発,旺盛な知的好奇心一男性にあってはなんら非難されること のないこれら特質が,いったん女性に付与された途端に,不可解な女という烙 印を押されるもとになってしまうのである。しかし,そもそも,女らしさとは 何なのか。それはひょっとしたらイデオロギーによって捏造され,押し付けら れたcultural constructに過ぎないのではないか。決して,女性の本質に基づい たものなどではないことは,女らしさの代表とされる,貞節,従順,謙譲など の徳目が男性にとって都合のいいものばかりであることからも明らかである。 シューの不可解さとは,要するに,男が女に押しつけた鋳型に彼女が収まり切 らないというだけのことなのである。その証拠に,ジュードと同じく男性の側 に立つフィロットソンもやはり,シューの不可解さに翻弄されるのに対し,同 性であるアラベラは,シューとの接触の乏しさにもかかわらず,一向に彼女を 謎めいた女とは見てはいない。むしろ,直ちに彼女の本質を見抜いている。そ れを示す最も良い例は次のくだりである。この場面は,ジュードを見限って遠 くオーストラリアに行ったはずのアラベラが,突然,ジュードとシューの住む 家を訪ねてきた翌朝の場面である。前の晩,アラベラへの嫉妬心にかられたシ ューはジュードを引き止めるために遂にベッドを共にする。翌朝,アラベラへ の冷たい仕打ちを後悔したシューは,彼女をホテルに訪れ,前日の非礼を詫び る。この会話の場面は従って二人が実質的に面と向かいあった初めての場面で ある。 “O, 1 thought you might have (called yourself Mrs. Fawley), even if he’s
not really yours. Decency is decency, any hour of the twenty−four,” (said Arabella.) “1 don’t know what you mean,” said Sue stiffly. “He is mine, if you come to that !” “He wasn’t yesterday.” Sue coloured roseate, and said “How do you know ?” “From your manner when you talked to me at the door. Well, my dear, you’ve been quick about it, and 1 expect my visit last night helped it on 9) 一ha−ha !” 驚いたことに,アラベラは一目で昨夜ジュードとシューとの間に何があったか を見抜いてしまったのである。即ち,シューの最もプライベートな部分,男た ちをあれ程当惑させた彼女のsexual lifeのありようを彼女はその場で見抜い てしまうのである。言い替えると,同性であるアラベラにとってシューは謎で もなんでもないのである。 第二の理由は,シュー自身にある。彼女は自分の感情,行動を十分にジュー ドやフィロットソンに伝えることができていない。男たちの苛立ちは,この彼 女の“説明不足”に発している。実際,シューは頻繁に「説明できない」,「言 葉ではいえない」などの科白を繰り返す。 “O, don’t you understand my feeling ! W7hy don’t you ! Why are you so gross!1 jumped out of the window !” “Jumped out of window ?” 10) “1 can’t explain !” 11) “1 can’t explain−1 will when you are older....” 9) lbid., V一一2 10) lbid., IV−5 11) lbid., VI−2
『無名の人ジュード』試論 211 12) “1 cannot tell you. lt is something....1 cannot say.” しかし,実はこれも一方的に彼女の責任だとするわけにはゆかない。彼女には 自分の感情,行動を男たちに納得させるだけの言葉が与えられていないのであ る。彼女が用いざるをえない言葉は,既に,あの“女らしさ”を規定したのと 同じイデオロギーに染められてしまっているのである。イデオロギーが許容す る言葉,あるいは,そそのかす言葉しか持たない彼女が,イデオロギーそのも のに抵触する自分の行動を説明できないのは,むしろ当然だと言える。まさに, バスシーバの言うとおりである。 It is difficult for a woman to define her feelings in language which is 13) chiefly made by men to express theirs. しかし,シューが「困った女」である最大の原因はそんなことではない。そ れは,先にも触れたが,彼女がセックスを拒否することに最大の理由がある。 言い替えると,セックスを拒否する女こそ,性のイデオロギーに対する最大の 脅威なのである。社会をなり立たせている様々な人間関係の中でも最も重要な 関係としての男女関係,その関係を従来支えてきた根本に対する挑戦なのだか ら。 セックスとは,たとえ個人のレベル,当事者の意識の上では,愛し合う者同 志の喜びに満ちた結合だとしても,社会的レベル,イデオロギー的レベルでは, 彼ら当事者の意識とは全く別の意味づけがなされてしまっている。つまり,そ れは好むと好まざるとに関わらず,相手を所有する契機だということである。 バーfィは,友人のEdmund Gosseに宛てた手紙の中で,ジュードとシューと の関係に触れ,その最大の問題は「彼が自分の好きなだけ自由に彼女を所有 12) lbid., VI−9 13) Thomas Hardy, Far from the Madding Crowd, Ch. 50
14) (possess)できなかったことだ」と述べている。ここで言う“所有”という言葉 がdouble meaningを持つものであることは言うまでもない。 POSSESS v. tr. 1. hold as property; own....5. have sexual intercourse with (esp. a woman) (COD, eighth edition) つまり,セックスは男性による女性所有の有力な手段であるということである。 ブルジョワ・イデオロギーの中で“所有”の持つ意味がどれ程重要であるか今 更言うまでもないであろう。男による女の所有,その合法的な形としての“結 婚”は,このイデオロギーの根幹なのである。セックスを拒否することは,所 有されることを拒否することである。従って,それはたちまちブルジョワ・イ デオロギー全般に関わるきわめて「困った」問題なのである。 ビクトリア朝のsexual ideologyを最もよく表しているのは「家の中の天使」 15) (Angel in the House)というフレーズだろうと思う。Coventry Patmoreの 詩から取られたこの句は,当時理想的な女性像を要約するものとして,広く もてはやされたと言う。それは一見,女性への全面的な賛辞のように見えるが, 実は,その裏にあるのは,男の側からの企み,即ち,男性中心社会のイデオロ ギーに他ならない。「家の中の天使」一それはまず,女性の本来占めるべき場 所を家庭に限定することによって,彼等が社会に進出することを阻む意図を持 っている。つまり,政治・経済・学問への女性の参加を封じようというのであ る。次に,天使と規定することによって,つまり,彼等にspiritualityを押し付 けることによって,sexualityを抑圧しようしたのである。女性には性欲はな 14) ..,and one of her reasons for fearing the marriage ceremony is that she fears it would be breaking faith with Jude to withold herself at pleasure, or altogetlter, after it ; though while uncontracted she feels at liberty to yield herself as seldom as she chooses. This has tended to keep his passion as hot at the end as at the beginning, and helps to break his heart. He has never real!y possessed her as/ereely as he desired. (Hardy’s letter to Sir Edmund Gosse dated November 20, 1895). My italics. 15)以下の議論の詳しい内容については,拙稿「ビクトリアン・セクシュアリティとバーデ ィ」(『彦根論叢』1988年11月)参照
『無名の人ジュード』試論 213 い,それが,当時,科学的言説としてまことしやかに主張されていたのである。 女性に於ける逞しいセクシュアリティは,男性にとって心理的に脅威であり, 社会的には,家族・家系のlegitimacyへの脅威だったからである。 ところが,その一方で,彼女たちはセックスを強要されもした。それは,女 たちを自立した存在ではなく,何よりも母親と定義づけるためだったのである。 母である最大の条件は自己犠牲である。新しい生命をはぐくみ育てるために母 親は忍耐強く,我欲を押さえ,場合によっては自分の命さえ惜しまない。かく して,自己否定,忍耐,従順といったといった特質が,後から押しつけられた ものではなくて,彼等が最初から備えている母性本能から派生してくるものだ と主張されたのである。従って,セックスしない女,母親になることを拒否す る女もまた,セクシュアリテ4の逞しい女同様,社会への脅威とみなされたの である。 社会的秩序維持のために,女性の本性を母親と定義づけること,それは言い 替えれば,社会的・法的枠内でしか母親という存在を認めないということであ る。単に,子供を産んだだけで直ちに母親になれるのではない。Little Father Timeによるあの凄惨な事件の一つの意味がここにある。あの事件に於て,シュ ーは,お腹の中に身ごもっていたものまで含めて,子供をすべて失う。つまり, 彼女は母親としての地位を剥奪されたのである。それは,あの時点でジュード とシューが依然として正式の,つまり,法的な夫婦になっていなかったからで ある。従って,シューは産んだだけであって,母親とは認められない,母親で あり続けることを許されないのである。この事件を契機にシューは一気に因習 の軍門に下ることになる。それは,母と子という最もnaturalなはずの関係すら が,実は,socia1なもの, conventionalなものであったこと,この厳然たる事 実に彼女は絶望するしがなかったからではないだろうか。天使として女性の sexualityを否定する一方で,母親となるべくそれを強制するというこの矛盾, テスやシューの悲劇の根本原因はこの絶対的矛盾にあったのではないだろうか。