円了と民衆
著者
田中 菊次郎
雑誌名
井上円了研究
巻
1
ページ
1-42
発行年
1981-03-19
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006747/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja円了と民衆
社会学部教授 田 中菊次郎
目 次 第−部 南船北馬集の世界 工 ﹁田学﹂の教祖 2 ﹁巡講﹂とその支援者たち 3 民衆・受け手の顔 4 円了・送り手の講演内容 5 円了の世界とその外 補遺 南船北馬集における井上円了博士の演題類別 第皿部 L 2 a 4 ﹁南船北馬﹂現地調査覚書 新潟県における調査メモ 山形県における調査メモ 熊本県におふる調査メモ 福岡県における調査メモ 第−部 南船北馬集の世界 L ﹁田学﹂の教祖 井上円了は﹁田学﹂の教祖であった。明治の官尊民卑の時代に、 無官無位の素志を貫き、哲学館学長を隠退してか 1らは、その余生を全国巡講の旅にあてた。 ﹁巡講﹂では一二六万以上の民衆に、自己の信念を説き教えた。 ﹁田学﹂とは何か。円了は大正五年一月、東洋大学新年宴会において、その所信を述べた。 ﹁紳士が田舎に在れば人之を呼びて田紳といふ、されば学者が田舎に居れば、人必ず之を田学といふべき理なり、 之に反して都下に起居し、位階を帯び、官禄に食む学者は官学といふべし、官学固より貴しと錐も田学亦決して賎し むべきにあらず、之を食物に比考する鯛のサシミ鯉のイキツクリなどは官学に類するものなり、豆腐料理の如きは田 学にひとしきものなり、田学は田楽と音相通ず、故に余は豆腐の田楽を以て自ら任ずるものなり、鯛のサシミは貴人 の膳に上るも貧民の口に入らず、然るに豆腐の田楽は貴人にも貧民にも通じ、其調法なることは鯛の比にあらず、田 ホエ 学は即ち田楽にして余は田楽となり、学問の料理を貴賎貧富に向て供給するを本分とするといふにあり﹂ 官学に対する田学という思想は、哲学館創設の初志、すなわち晩学のもの、貧困者、外国語力のないものに勉学の 機会を与えるという思想を包みこむものであり、円了は哲学館そのものの社会化過程で、田学という自己の立場をは ホ っきりつかんだ。円了は叙勲の沙汰を二度辞退し、このとき﹁無位無官吾事足、終生何敢向権門﹂と賦している。権 力の門に屈しない在野の学者・教育者として、円了は田学の道を選んだのである。 つぎに﹁巡講﹂とは何か。円了はその若き日、仏教改革の啓蒙者として創設した哲学館は、すでに20年にして大学 にまで発展した。この時点で円了は自己の人生の方向を転回した。そして哲学館を後継者に譲り、民衆の中へ飛びこ んでいった。 ﹁巡講﹂とは﹁修身教会﹂運動という名の、一種の社会教育行脚である。講演は当時有力な大衆動員の メディアであった。 ﹁修身教会﹂は教育勅語の示す国民道徳を普及し、民衆に刻みこむ運動であった。社会教化とい ってよいであろう。円了は自らこの運動の教祖となった。明治三十九年、円了は四十九歳である。 円了はものすごいエネルギーを発散しつつ全国を巡講した。大正八年中国巡講の途、大連で客死するまで、十三年 2
に及ぶ社会活動であった。 円了は巡講日誌を﹁南船北馬集﹂と題して第十五編まで書き残した。全国を南船北馬する円了はいつも、つとめて 上機嫌に駄じゃれをとばしつつ、炎熱下の峻峻を撃じ登り、豪雨下の幽谷をわたる求道者であった。そこには大きな 労苦があり、また深い喜びがあった。筆者は、円了の﹁南船北馬集﹂の世界に踏みこみ、巡講とは何であったかを確 めたいと考えた。そこに円了の後半生の素顔と、社会に対面した田学者の世界を発見するのである。 ﹁教祖﹂という呼び方は耳なれないが、円了の巡講するところ、実に多くの人々が集まったこと、円了の説くとこ ろ、民衆が大きな関心を持ち、千人、二千人が群衆したことをいうのである。円了の﹁南船北馬集﹂における中間報 告によれば、円了は明治三十九年から大正六年までの十二年間に、全国四十八市、二、〇六一町村で、二、六七九カ ホヨ 所、四、九九二席の講演をした。聴衆総計一、二五九、八六五人。大正六年末までの数字であるから、巡講はあと一 年半続けられた。それにしても、講演約五、○○○回、民衆動員一二六万人というのは、当時として画期的な社会教 育活動である。 2. ﹁巡講﹂とその支援者たち 巡講の柱である﹁修身教会﹂とは何であるか。円了は﹁西洋では学校以外に日曜教会があって、社会道徳、実業・道 徳の成長を支えている。日本では智徳と道徳がバラバラである。これを匡すには各町村、寺院に修身の教会を設け、 国民道徳の大本である教育勅語を開達敷祈して、町村の人民に悉く道徳を修習させるのが急務である。 ︵日露︶戦後 ホる の︵日本︶経営も、これがまずやらねばならぬことである﹂という。 円了はこの主旨を印刷して、明治三十九年一月各方面にアピールした。巡講をスタートしたこの年、奈良県で土倉 3
ネ 庄三郎と会っている。土倉は修身教会に賛同し、大に尽力しようと約した。修身教会が各地で、二、三年のうちに相 次いで生まれたことは﹁南船北馬集﹂に記録されている。 ところで、 ﹁巡講﹂すなわち修身教会運動を支えた人達はだれであったか。各地の講演会の主催・発起人は多種多 様である。主催者には市郡教育会、仏教団体、青年団、婦人会、実業倶楽部、農会などのほか、斯民会、大道会、戌 申会などの名もみられる。辺境では三力村連合、五力村連合から八力村連合というところもあった。町長、村長、学 校長個人また村内有志という形もあり、村長、医師、軍人分会長、青年団長といった市民的組合わせもあった。 巡講は各郡ごとに、視学が同伴して先導、案内に当たり、円了は別に随行者を選び、巡講のスケジュールをアレン ジした。随行者は哲学館出身者または親しい旧友であった。哲学館、京北出身者の協力が至るところでみられる。会 場へは、これら卒業生や館賓、館外員が、遠近から円了を訪ねている。同窓会も各地で開かれた。円了ゆかりの長岡 ホ では哲学館中越同窓会が、修身教会を開いた。村上専精の弟、和田専心住職は島根県大東町の自坊を会場に提供して キア ポ いる。大内青轡とも兵庫県加占川で、円了は夕食を共にした。長野県臼田町では佐久修身談話会があり、幹部六人の ポ うち三人は東洋大学出身者であった。円了を軸とした哲学館の輪が、地方に広く根を下ろしているのを知るのであ る。 円了は、こうした支援にこたえて、 ﹁山鰍海隅﹂くまなく、 ﹁凄雨斜風﹂を侵し、約束の地へ急ぐ。巡講の旅は七 十日︵長崎︶、八十日︵熊本︶、時には=三ハ日︵北海道︶と休みなく連続した。老年を迎えた円了は物凄い気力に支え られていた。その時折を点描しよう。 *10 ﹁馬上にて険路を塞じ行くこと五里、馬驚くこと五回、夜に入りて岐宿村に着す﹂ ホけ ﹁此日馬上にて山海の間十三里を肢渉し大に疲労を感ず﹂波間に利尻山を望み、留萌から長駆、羽幌に入った。 4
*12 ﹁風雪、早暁軽輿に駕し、四人之を昇き峻坂を撃ち深雪を穿ち山行五里﹂午後二時に愛媛県小田町に着いた。 ﹁烈風暴雨、天為に暗し、断嵯千尋の桟道にかかる、暴風墜石と戦うて進む、其危険言ふべからず、其名も高き ﹁おせんころがし﹂の険に至る、時に旋風人車を巻きて岩壁に衝突せしむ、身転し車破れたるも、幸に事なるを得た *13 るは、天祐にあらずして何ぞや﹂ 国鉄は幹線がようやく通じたという時代であった。鹿児島、宮崎を経て大分で三カ月ぶりに汽車の笛声を聞いたと *14 いう。幹線を外れると、軽便鉄道、馬車鉄道、腕車︵人車︶があるならまだよい。馬に乗り、トロッコにも身を委せ た。大回わりをしなければならないので、午前四時起きもあり、離島では二日も船が欠航した。しかし円了は春がく れば、また悠然と去年の冬の寒さも忘れたかのように、行動を開始するのである。東海道は当初は新橋発車であっ た。僻村では小学校の宿直室や裁縫室で一夜を過したこともあるが、苦にしていない。 3 民衆・受け手の顔 井上円了を迎える民衆の姿は、どうであったか。巡講の受け手である民衆の動員状況、講演の内容、民衆の反応な どについて、検討する。 民衆動員については、さきに一二六万人と指摘した。講演の個所は二、六七九、席数は四、九九二回であるから、 これを十二年で割ると、円了は一力年に二二三カ所で講演し、聴衆は一回に二五〇人余を集めたことになる。 南船北馬集に記録された巡講日誌によると、円了は一カ所で二回、三回と講演したり、一日にニカ所、三カ所と移 動していることがある。聴衆は一回一〇〇人から二、○○○人と様々である。人数の算定は目算によったと書かれてお り、正確にチェックしたのではないが、大体の状況はわかる。その状況を拾ってみる。反応はさまざまである。 5
*15 熊本県龍峯村では﹁開会の時来るも聴衆集らず、薄暮に及びて開催す﹂同県八代郊外の宮地村では﹁聴衆大雨を衝 *16 て來集し、場内寸地を余さざるに至る﹂ *17 島根県隠岐島の海士村では﹁目下挿秩最中、農家繁忙なれば、中等以上のもののみ来聴す﹂長野県飯田町では﹁大 *18 雨を侵して來聴するもの五、六百人の多きに及ぶ﹂岐阜県瑞浪村では﹁聴衆充溢、一千五六百人を以て算す、頗る盛 *19 *20 会なり﹂岐阜県八幡町では﹁聴衆大数二千人と号す﹂とある。 *21 山口県滝野村では﹁風強く雨劇しき為に参聴者百人に満たず﹂山口県平郡村の一離島では﹁老弱男女群衆し、校内 に溢れて校外に及ぷ、其聴衆と戸数とを比算するに二 より三人づ、出席せる割合となる。当夜宿寺に於て開会す。 *22 是れ亦満堂なり、本村は戸数五百戸﹂一覧表の記録によると、平郡村小学校二回九五〇人、寺院一回五〇〇人とあ り、合計一、四五〇人と計算されている。 *23 岩手県一関では﹁東京大相撲の興行あるにも拘らず聴衆充溢、殆ど立錐の地なし、主催者は青年団﹂と大相撲にも 打ち勝った。 これらの民衆動員は、さきに述べたように、多くの官民の団体による動員力が与って力あった。これらの聴衆を円 了は公衆と呼んでいた。それは老弱男女、巾広い一般民衆であった。円了は幼稚園児、小中学生、高校生に対しても 話している。巡講は農山海村くまなく、山にわけ入り、海をとび継ぎ、実にたんねんに聴衆を造出している。 特殊なケースとしては、青森、岩手、北海道では鉱山・炭鉱の工夫たち、愛知、岐阜、長野、群馬では織工場の工 女たち、北海道、宮崎では監獄の囚人たち、台湾、朝鮮では軍人たちにも講演している。 民衆の円了歓迎風景であるが、熊本県奥古閑村では村の入口まで主催者が出迎え、整列した子供たちが日の丸をう *24 ち振ったり、青年たちがラッパを吹奏したり、天草郡姫戸村では﹁船の湾内に入るや、五個の和船が各国旗を掲げ、 6
船首に太鼓を鳴らし、数十人の壮丁之を競漕して我一行を迎ふ、環状を画きて湾内を三回周行して着岸す、是れ貴賓 珍客を歓迎する天草の古例なりといふ、岸頭人集りて山を築く、宿所は郵便局にして、会場は小学校なり、此日遠近 *25 四五里の間より老弱男女来雲集し、其数二千人以上に及ぶ﹂ *26 北海道旭川では、円了発着ごとに煙火をもって歓迎し、八丈島三ツ根湾でも﹁旗を建て姻花を挙げて迎えらる﹂ま た山口県萩では、青年会が自動車をもって出迎え、二里半を三十分で走った。﹁本邦に於て自動車の歓迎を受けたるは *27 之を幅矢とす﹂とある。いずこも熱烈歓迎とみられる。 4 円了・送り手の講演内容 民衆に対する送り手、円了の伝えたメッセージ、すなわち講演内容はどんなものであったか。これを知ることは、 巡講を評価するに欠かせない。 幸いに、 ﹁南船北馬集﹂は円了の分類した講演内容の﹁演題類別﹂を記している。各府県における巡講が一段落す ることに、これを集計しているのである。 ▽詔勅及修身に関するもの ▽妖怪及迷信に関するもの ▽哲学及宗教に関するもの ▽教育に関するもの ▽ 実業に関するもの ▽雑題︵旅行談︶に関するもの の六種類である。 演題類別は﹁南船北馬集﹂四編の愛媛県紀行に初出し、以来ひき続き十五編に及んでいる。この集計は明治四十二 年四月から大正七年五月半ばに至る約十力年にわたるものである。明治四十二年四月以前の巡講についての演題類別 はない。さて、この十力年の演題類別の総計はつぎのとおりである。 演題類別 回 数 全回数に対する% 7
詔勅修身 妖怪迷信 哲学宗教 教育 実業 雑題 合計 、五〇八 八七七 一〇〇 三〇二 二五五 二〇〇 三、七〇六 すなわち詔勅修身に関するものが最も多く、 る。妖怪迷信に関するものは二割五分近く、 る。哲学宗教は一割五分と意外に少く、 られたとみられる。妖怪講演は主催者や聴衆の希望があったことがある。 いる個所は少い。日誌の中でわずかに摘記されたものを示そう。 *28 奈良県今井町では﹁宗教と教育との関係を述べて修身教育の事に及ぶ﹂とあり、青島では戦跡巡覧のあと﹁兵螢に *29 至り、忠孝以本説を述ぶ﹂と記している。 円了の詔勅と修身に関する思想のワク組については、大正二年一月修善寺温泉で休養中に、 ﹁教育報徳訓﹂なるも *30 のを作っている。これは二宮尊徳の報徳訓に擬したといい、円了が教育勅語と道徳、教育の関連を述べたものとし て、演題内容の参考とすることができる。 教育淵源在教育勅語 忠孝根元在祖宗遺訓 国体精芳在億兆一心 道徳振興在教育普及 四〇・六九 二三・六六 一五・二二 八・一五 六・八八 五・四〇 一〇〇・○○ 全講演の四割を占めているのは、修身教会運動であるから当然であ 第二位に位置しており、円了のおばけ博士、妖怪博士の名声に対応す 第三位である。一カ所で三回も話すとなると、テーマは聴衆に合わせて変え 巡講日誌では、しかし、演説内容を示して 8
教育完備在国家経済 国本養成在国民智徳 人格完成在自己修養 當教育者不可怠修養 *31 さらにもう一つ、大正六年一月﹁湯河原迎歳記事﹂には教育勅語道徳訓十二首、戌申詔書道徳訓八首、軍人勅諭道 *32 徳訓六首を、新春に当たって賦したとある。 まず教育勅語道徳訓は、孝干父母・友工J兄弟・夫婦相和・朋友相信・恭倹持己・博愛及衆・修学習業・知能徳器・ 公益世務・国憲国法・義勇奉公・扶翼皇運の十二首に分けられている。 戌申詔書は、上下一心・忠実服業・勤倹治産・惟信惟義・醇厚成俗・去華就実・荒怠相誠・自彊不息の道徳訓八首 である。 軍人勅諭は、忠節・礼儀・武勇・信義・質素・一誠の六首である。いずれも七言絶句となっている。 以上をもって、勅語修身に関する講話のワク組は明らかであり、その内容は十分に推察される。聴衆の反応につい て、象徴的な記載がある。広島県君田村で﹁御詔勅を敷術せるに、演説の前後一人の拍手するものなく、時々念仏 *33 の声を聞くのみ﹂ 妖怪迷信に関しては、もっと明るいふん囲気であった。京都では哲学館関西同窓会の発起で、円了は市役所議事堂 *34 で﹁丙午の迷信﹂について講演した。ちょうど、ひのえうまの年であった。 妖怪博士は各地で、研究に熱心であった。長崎県島原・有明湾で﹁余一夕二時に客舎を出て海浜に至り天明まで待 *35 ちしも、遂に不知火を見ることを得ざりしは遺憾なり﹂ 信濃紀行では木曽の迷信、管狐について調べた。 ﹁一村中に四五軒位は管狐の住する家と称せらる、ものありて、 他人之と結婚せざるのみならず、其家の所有せる田畑を売却せんとするも買ふ人なし、蓋し其家には管狐七十五頭同 棲し、之と結婚又は其田畑を買入る、ときは、七十五頭の内より移住し來ると信ずるに由る。其実況は雲州の人狐と 9
*36 毫も異なることなし﹂ また小笠原母島では、裁判所書記がドクロを愛すると聞いて﹁君愛燭髄吾愛霊、両人相対語幽冥、開來生死一如 眼、読起世間無字経﹂の一詩を呈し、ドクロの印刻を贈られたので﹁誰言天下無妖怪、明月清風悉妖怪、心地一開哲 *37 眼來、談妖怪我亦妖怪﹂と答謝している。意気軒高の円了博士である。 佐渡島では貌の怪の迷信をとりあげている。 ﹁開く所によるに昔時鉱山の輔に絡の皮を用ふる為に之を繁殖せしめ たりといふ。斯くして狢の多くなりたる為に之に関する迷信を生じ、すべて精神に異状を呈する場合には、狐狸の代 *38 りに絡の所為に帰するに至りしならん﹂円了は明快に解く。 山形県寒河江町では最上川の各間に大沼があり、 ﹁数十の小顕が水上に浮かび、風なきも自然に能く動き、風あれ *39 ば却て風に逆て動く、之を大沼の浮島と称す。実に一妖怪なり、余遺憾ながら之を実視するの時間なく⋮⋮﹂ とい う。これは自然科学の領域ででもあろうが、そこまでは書いていない。 山形県庄内地方では﹁西田川郡の海岸、浜中より湯之浜に至る三里の間に、往々身体の自由を失ふことあり、之を 餓鬼が付くと称す、其時所持せる握飯を海中に投すれば、始めて蘇生の思ひをなし、自由に歩くことを得るに至ると *40 いふ、是れ一種の心理作用なるを知らずして、海中に溺死せし亡霊の崇の如くに信じ居るなり﹂ 徳島県では犬神と天狗の迷信が多い。これらの迷信をなおすのは宗教家の責任ではないかと円了は考えていた。そ して﹁此迷信を医し、公徳を進むるには宗教家の活動を要するも、本県の宗教家中、此任に当り得るもの幾人かあ *41 る、其多数は却て迷信を助長するならん﹂と手きびしく批判する。 日誌では、長崎市で仏教青年会主催の夏季講習を用いて、円了は一週間にわたって﹁仏教哲学及妖怪論﹂を講義し *42 た。また徳島市でも高女校で妖怪談をしている。円了は迷信の解釈と打破の弁をしたものと思われる。 10
哲学宗教に関するものは、円了の本領である。滋賀県湖北地方を巡講中、 ﹁霊魂不滅、未来有無の説明を需めら れ、因果の原理について立論したり、時に詩に賦して其意を人に示せり﹂とつぎの詩を掲げて、因果論を説いてい *43 る。 天寿本難期 栄枯非所知 仁人災春至 逆賊福還随 善悪若無報 神明必有私 仏教説因果 此理復異疑 教育、実業に関しては、風俗改良、公徳養成について語ったことが多かった。それは南船北馬集二編に明治四十年 度統計を示し、巡講で﹁精神修養、風俗改良、公徳養成などに関し、諄々訓戒を与へ注意を促した﹂とあるからであ *44 る。 雑題︵旅行談︶に関するものについては、円了は事欠かなかったであろう。島根県萩町では﹁︵明治︶元勲は漸次に *45 此世を去りて寂蓼たるを覚ふ、今将に萩人土の大に感奮して第二の元勲を産出すべき時に際せり﹂と青年に訴えてい る。
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円了の世界とその外 ﹁南船北馬集﹂は旅行ガイドブックでもある。全国各地方の衣食住の習慣、産業︵農業、鉱業、工業︶観光︵古 蹟、名所、温泉︶などを事こまかに紹介している。円了はむしろ意図的に、この要素を付加したものであろうか。当 時は今日のような旅行案内はなかったからである。旅館の宿料は各所で比較されている。ホテルの紹介もくわしい。 蒲郡の旅館は﹁建築庭園共に宏壮且つ整頓し、背後の山上に休亭数棟あり、又私設動物園を置く、海上には石油発動 *46 の遊船を備ふるあり、蓋し東海道第一の旅館ならん﹂と賞めあげるかと思えば、和歌山県川原村では﹁田舎不相応の 11*47 大旅館﹂とくさすのか、賞めるのか、とにかくアンバランスである。 鉱害問題が出てくるが、これらもはっきりしない。茨木県石神村に至り﹁此夜多賀郡日立鉱山煙臭を感ず、近在煙 *48 害の苦情多しといふ﹂また同高鈴村では﹁隣村日立村は、目下建設中の煙筒其高五百十尺にして.世界第一と称す、但 *49 し煙毒が遠近の樹を枯死せしめ、本郡内に有名なる助川の風景も大いに減殺せらる、に至る﹂ 助川駅外望荒皐 五反尺余姻突高 鉱気蔽天樹多死 殺風景使泣吟曹 と激しい所感を表わしている。しかし秋田県小坂町にくると゜一転する。 ﹁近年鉱毒問題鴛々たるも、此深山幽谷の斯 *50 く繁栄を来し、遠近の村落も其余沢に浴すること紗からざるを見て所感一首を賦す﹂ 鹿角山中多鉱区 富源流出自成都 黄煙有毒君休説 十里寒村余沢濡 ここでは鉱害などはいうな、と円了は考えた。しかしそれでも気にはかかっている。秋田県鹿角郡は﹁鉱山多きに 拘らず労働賃銀比較的低く、車夫一里十銭、雇夫一日四十銭、大工八十銭なる由、鉱物の運搬余り頻繁なる為道路凹 *51 凸多く、車行容易ならず﹂といちまつの不安を洩らしている。 労賃については女工問題もある。大阪府では﹁大津町は府下第一の織物産地にして、綿毛布の産額殊に多し、其工 *52 場数百ありといふ。工女の日給は弁当持にて三十銭より七、八十銭なる由﹂と注目しているが、群馬県富岡町では ﹁原製糸場を一覧す、工女約千人、其中四分は越後、六分は本県及他県なるやに開く、工場は明治三年の起工、五年 *53 の開業にして政府の創立にか、れり﹂と視察しながら労働状態については記していない。 もっとも、南船北馬の世界においては、円了は当時の社会状況を記録しようと意図したわけではない。円了の世界 の外で、社会は進んでいた。 最後に、巡講に関しては、哲学堂について述べておかねばならないであろう。円了は学長を隠退するに当り、後継 12
者と相談して、和田山の哲学堂を退隠所とすることになり、その経営に当たった。円了は哲学堂を精神的な修養公園 *54 とすることに定め、建設費と維持費として七万五千円を積立てる計画を立てた。大学退隠後の巡講は、国民教化の目 的をもつ一面、それは哲学堂完成の資金づくりをも目的とした。 すなわち﹁︵巡講︶開会の経費を支弁するために、地方巡講中、町村有志の所望に応じて額や掛物の揮毫をすること に決し、之に依て受けたる謝儀の半額は開会経費に充用し、若くは町村の公共事業、慈善事業に寄附することとし、 *55 他の半額は哲学堂の建築の費、維持費に充用することとした﹂巡講中の揮毫収入が今後の資金源とされたのである。 こうした収入、支出について、円了は南船北馬集に逐一公表している。それによれば、大正六年末までの揮毫料・ 寄附の総計は六万三、九五↓円で、支出としては哲学堂、同図書館や公園施設のほか、海外旅行補助費があり、残っ たのは哲学堂基本金一万五、二〇〇円と剰余金三、四〇〇円であった。計画には及ぼないが、かなりの成果である。 しかし揮毫は大へんな作業であった。 *56 広島県府中町で﹁両日滞在中昼夜共に揮毫に従事す﹂三重県津市では﹁︵住職らの︶奔走の結果、揮毫所望者数百名 *57 の多きに達し、哲学堂維持金も望外の多額を拝受するに至る﹂岩手県黒沢尻町では﹁宿寺住職今西由訟氏はニカ月前 より郡内山間部を巡回し、賛成を勧誘せられし由、揮毫の数、哲学堂維持金の額、共に県下各郡に冠たるのみなら *58 ず、他府県に於ても、殆んど類例なき程なり、随て早員より深更まで終日終夜揮毫に忙殺せられたり﹂ 郡馬県宮郷村ではズ哲学館出身者ら︶諸氏奔走尽力の結果、哲学堂維持金は本県中最多額を拝受するに至れり、随 *59 て昼夜揮毫に忙殺せられ、夜半まで筆を欄せず﹂ まさに悪戦苦闘といってよいであろう。京都府物部村でも﹁早朝より揮毫と奮闘し、哲学堂維持金もいわゆる記録 *60 破りの好成績を得たり、昨日今日の両日程多忙を極め、疲労を感ぜしは殆んど前例なしと謂て可なり﹂ 13
まさに残酷物語に近い。哲学堂完成の悲願は南船北馬のもう一つの世界であった。円了としては、収入の一部を公 共事業、慈善事業に寄附できたことが、せめてもの喜びであったかも知れない。 円了は大正六年四月、長男玄一の結婚披露宴を省略し、その経費を五〇〇円と見積り、東京都養育院へ三〇〇円、 東洋大学、仏教会館へ各一〇〇円寄附した。 また円了は大正七年還歴を迎えたが、その祝宴をやめて、費用を公共事業へ寄附した。東洋大学へ五〇〇円、哲学 会へ三〇〇円、真宗大学、長岡中学和同会、郷里小学校︵越路村︶へ各一〇〇円、 江古田小学校へ二〇円、計一、一 二〇円であった。 円了は大正二年にこう述懐している。 ﹁十年を経て全国を巡了したりし時に至り、己れの余命あらん限りは、自ら 哲学堂の門番となり、毎朝麗掃の余暇に、来観の諸氏に対し、座談説法をなし、其労ら学生の監督をなしたいと思 *61 ふ﹂ 円了はその夢半ばにして倒れたのである。 *1 井上円r﹁南船北馬集﹂12編、P33。蘇峰の田舎紳士論は中等階層を意味したが、円了はその意味では使わなかった。また 円了は豆腐が好物であった。 *2 ﹁南船北馬集﹂12編、 * 6 * * *
5 4 3
卯35∼38。二度というのは明治天皇大葬と大正天皇即位式の時であった。 南船北馬集15編、叩32∼34。 ﹁南船北馬集﹂1編、緒言即2∼3。 上同、1編、P9、土倉庄三郎は豪農で近畿自由民権運動を支援した。 南船北馬集 1編、P25 14* * 25 24 * * * * * * * * * * * * * * * * * 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 3 3 14 9 8 5 5 5 4 3 3 2 5 4 2 1 12 4 4
編号編編編編編編編編編編編編編編編編編
、 、 、 、 、 、 、 N 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 即75∼76 D▲3 D▲ウ・ P55、長崎県福江 P63P6
P6、房総巡講 P42 P10︵明治41・4・20︶ P11︵明治41・4・22︶ P58︵明治42・6・17︶ P72︵明治43・7・26︶ P87︵明治43・9・2︶ P97︵明治43・10・6︶ ら PO︵大正2・10・3︶ 1 P25︵大正2・12・28︶ ⑪05∼06︵大正6・9・19︶ 工 − P8︵明治41・4・9︶ P17︵明治41・5・7︶ 15* 44 * * * * * * * * * * * * * * * * * * 43 42 41 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、
13713186
編編編編編編
いずれも道徳訓となっているが、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 2 10 1 7 13 13 9 6 5 1 1 8編編編編編編編編編編編編
P1︵明治43・11・21︶ P95︵大正2・9・17︶ P3︵明治39・4・6︶ P61︵大正5・10・11︶ P92 P3 6 D°−∼1 1 1 修身教会は大正元年から国民道徳普及会と改称された。 P19︵大正2・4・23︶ P19︵明治39・5・13︶ P46︵明治39・9・19︶ P77︵明治43・8・2︶ P5︵明治43・11・26︶ P3 4 ︵大正3・6・21︶P2∼2
1 1 P12︵大正5・7・4︶ P40︵大正5・8・25︶ 卯02∼03︵大正2°2°18︶ 1 1 P38︵明治39・8・19∼25︶ P50︵大正3・9・11︶ P94 16* 61 * * * * * * * * * * * * * * * * 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 45 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、 南船北馬集、
8131514128881514i11110 iO 15108
編編編編編編編編編編編編編編編編編
P96︵大正2・9・18︶ 叩6∼7︵大正3・7・11︶ P69︵大正3・4・6︶ P71︵大正3・11・13︶ P74︵大正3・11・18︶ P78︵大正4・6・24︶ P82︵大正4・6・27︶ P2︵大正6・2・25︶ P10︵大正6・H・25︶ P5 7 ﹁哲学堂経営の始末﹂P4∼4
P6 7P4∼4
P8︵大正2・4・2︶ P62︵大正5・4・2︶ P96︵大正6・9・4︶ P19︵大正6・12・8︶ 四98∼99︵大正5・招・6︶ 叩48∼49 17補遺:南船北馬集における井上 円了博士の演題類別 井上円了の全国巡講における講演の内容分析については、その彪大な・かつ多彩な著述にこめられた思想のあふれ 出たものとして、その深奥から出発せねばならないであろう。しかし円了思想は.神通自在”に、時代に応じて発展 しており、ここでは.南船北馬集”に現われた演題類別にとどめる。 演題類別は南船北馬集第四編の愛媛県紀行第二日誌に初出し、第十五編まで統計的に記録されている。演説内容に ついては、ほとんどといってよいほど、紀行には説明されていない。またこの統計は第四編の明治四十二年四月以前は ない。従ってこの統計はそれからはじまって大正七年五月に至るまでの九年三ヵ月間の類別である。これによってわ かることは全国巡講において円了がどういうテーマについて民衆に語りかけたか、巡回した各府県におけるテーマの 変動と回数の順位である。 巡回講演の内容分析については、最近井上家文書から﹁旅行必携簿 巻二﹂が発見された。円了先生は巡回に当た って講演のレパートリーを準備された。全国を巡講するについては、実に綿密な予備調査と日程についての事前決定 がなされていることは、井L家文書﹁雑記第四十四号 井上円了手控﹂に明らかである。後者は大正八年二月に起稿さ れているが、前者の書かれた年代は明らかでない。﹁旅行必携書 巻一﹂が発掘されれば確定することができよう。し かし﹁巻二﹂は全国巡講における送り手としての井上円了の講演内容の一部をうかがうことを可能とした、まことに 貴重な文献である。 ﹁旅行必携簿 巻二﹂は開巻一、ニページに演説テーマを列記している。 18
廿一、倫理ト宗教トノ関係 廿二、霊魂不滅談 廿三、未来ノ有無 廿四、将来ノ仏教 附和漢厭世観 廿五、 妖怪総論 廿六、心理的妖怪 廿七、幽霊談 廿八、迷信論 廿九、真怪論 三十、心理療法 借一、世界周遊 談 借二、欧米風俗視察談 琳三、露国行路所見 舟四、印度所感 借五、仏蹟巡拝所見 借六、日本人ノ特性 計七、戦後ノ経営 借八、実業振興策 舟九、女子心得 四十、青年心得 四十一、戦争ノ事 四十二、僧身雑 話 附武土道 ついで本文に入り、各項目について、その構想メモを記している。非常に詳しい項目、まことに簡単な項目と構想 の密度は不同であるが、何を語ろうとしたかは大要知られるのである。円了は諸階層の聴衆をみながら適当にこれを 混合・選択しながら語ったと思われる。一日に何回も、また同じ会場で何を語るかは﹁必携﹂が回答を出したであろ う。演説テーマが廿一から四十二までしかないが﹁巻一﹂は↓から廿までを示してくれるであろう。 19
南船北馬集・演説類別府県別一覧 第4 5編 愛媛県一部 島根県 千葉県一部 鳥取県 鳥取県往復途中 信濃南部 飛騨国 越中国一部 美濃東部 飛騨残部 越中国 福島県一部 兵庫県一部 小 計 詔勅修身 妖怪迷信伝 哲学宗教 教 育 実 業 雑 題
88551891263
571322 2
9 28589211502322121
0己70
4 18684766781414
]2 1 1 3 109037578’D
22
7﹁23
5 92ρ0877364
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6 7763222521521
0 31 † 三’O 146 185 60 86 50 79 38 3 73 22 11 27 780 第6,7編 八丈・小笠原 台 湾 山陽一市一村 呉市大野村 埼玉県第一回 兵庫五郡 福島東部 淡路国 埼玉県第二回 徳島県 兵庫県第二回 小 計CUO 3
3 21 14 22 7 16 12 12 143 3Q己 18178572▲
ll 1 10∨18
23へ﹂832
1 31 64丁3034
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135346119
2
173917514
3
︵乙7 1[﹂ 7 56 39 59 26 50 25 27 358 第8,9編 備後国 兵庫 一市一町 広島(安芸) 遠江国 下関市 山口県 大阪rf輌,三河国 山口県第二回 滋賀県第一回 (湖東)南西九郡 三河西部 播磨東部 佐’渡・越後一部 小 計53424159
4 5
’D 3 44 11 14 272017
3 1 16 24 31 5 3 127 152工433CU
3 2 1 30 6 3 13321812411
10 2 24亘6
5 7 7 5 12 242
4
817
714
7 1 λ句04
115 6 125 4 10 118 10 99 134 27 30 678 20第】0,1}編 東参,西参一部 滋賀湖北三郡 福島県石三郡 茨城珂北三郡ほ か 岡山備作三州 秋田県 小 計 詔勅修身 妖怪迷信伝 哲学宗教 教 育 実 業 雑 題
048
4ワ’ 27 89 71 259327
つ01 14 62 28 156 13 11 3 673つ0
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=・’ロ OO︻02 62 201 147 588 第12,13編 信越三州一部 栃木県南三郡 伊 勢 美濃国西部 山形県 山東省及他地方 丹後丹波・若狭 三河国西部 小 計 22 20 62 30 65 10 37 8 254 3 6 33 25 41 1 26 1 136 10 7 32 12 29 7 15 6H8
330691619
1 3 う’︻﹂517 8 282Q︶7・07
2 27 42 50 149 74 158 19 94 16 602 第14,15編 大阪府 山城国 丹波一部 大和一部 宮城県南部 岩手県 群馬,埼玉ニケ所 尾張国 和歌山 小 計 37 18 62 71 53 54 295 26 11 40 46 28 30 181 14 2 33 23 8 20 】00 4 0 10830’D 13
12 4 137︻JCU7 4
7 3 9?﹂282
1
4 100 38 165 168 99 128 700 総 計 1,508 877 564 302 255 200 3,704 % 40.69 23、66 15.22 8,15 6.88 5.40 100 21第n部 ﹁南船北馬﹂現地調査覚書 22 井ヒ円rが明治三十九年︵一九〇六︶哲学館大学長を辞して、全国巡講ー﹁南船北馬﹂の旅を始めてから、大正八年 ︵一九一九︶大連に客死するまで、十四年にわたる講演行脚は一体何であったのか。円了博士が残した記録は﹁南船北 馬集﹂第十五巻︵大正七年十月刊︶で終っている。巡講の聴衆は記録されただけで約一二六万人であるが、第十五巻の 日誌は大正七年五月で終っており、聴衆の数もそこまでの集計である。円了はその後、朝鮮、青森、栃木、福島、静 岡を巡回し、大正八年五月中国・満州の講演行脚の途に壇上で雄志半ばにして倒れたのであるが、この間の記録は公 刊されていない。 これらは、しかし、井上家に保存されている円ア文書によって補完することができる。たとえばこの中の静岡県巡 講については﹁雑記第四十四号・井上円了手控﹂に、その全容が記録されており、大正八年二月から四月に至るメモ が、そのまま﹁南船北馬集﹂の原稿として、ある程度は復元しうるほどに、書き残されている。こうした井上家文書 がさらに発掘されれば、 ﹁南船北馬集﹂補遺を綴ることが可能となろう。だが、これは後日の課題である。 話を元にもどし、この論考の主題は、井上円了が語りかけた一二六万の民衆に、何を残したかに焦点をしぼって考 察することである。それは円了が現代とどう関連するかという課題である。円了の全国巡講が一体何であったかとい う問いかけに答えたいと思うのである。 方法として、私はまず地方新聞の協力をえて、その読者の反響を手がかり、足がかりとした。各地の県紙は明治十 年代にいちおう出そろっており、いずれも創刊以来の新聞紙面のマイクロ化を進めている。工程は現在からさかのぼ
って、できるだけ古い年代にさかのぼっている。それらは各有力地方新聞社、あるいは県市立図書館に備えられてい る。私はこれらのマイクロ版から、井上円了の足跡を採集することから始めた。 ﹁南船北馬集﹂の時代は、しかし明治末期から大正中期にかけてであり、円了巡講の年代に合わせて、各紙のマイ クロの有無を確かめた。現在の新聞の分布は、太平洋戦争末期の新聞統合、一県一紙政策によってでき上がったもの で、戦前の地方有力紙であるいは廃刊され、あるいは合併されたものが多く、現在の題字では遡れないこともある。 東大の明治新聞雑誌文庫や日本新聞協会の調査も、マイクロに関しては不十分であった。そこで現地に当たってみ た。 幸いに、円了巡講の時点において、地方新聞のマイクロ紙面があるところは、井上博士講演に関する紙面を採集す ることができた。その紙面と﹁南船北馬集﹂の記事をミックスして、私は円了研究への協力をアピールする記事を書 いた。いまはまだ新潟、山形、熊本、福岡の四県紙にとどまっているが、今後なお続ける予定である。 東洋大学百年記念事業の一環として、全学を挙げて進めている、学祖井上円了総合研究の意義を謳い、各県下にお ける巡講の状況を説明したところ、各新聞社の編集局長、学芸・文化部長は、いずれもこの企画に賛同し、私のアピ ールを掲載することを快諾された。 このアピールの記事は各紙の文化あるいは宗教のページに大きく掲載され、読者からの反響が相ついだ。 ﹁円了の 思想・行動が当時各地でどういう影響を与えたか、筆者らはその波紋を調べている。もし読者のうちにお祖父さまや お父様の話を聞かれたり、円了について手紙とか書墨とか、何か憶えている方があれば、どういう事でもお教えいた だきたい﹂との訴えは、六十年も七十年も昔のことでもあり、どこまで記憶を呼びさますことができるか自信はなか った。しかし円r博士が巡講に際して各地で揮毫した書墨が多数残されていた。 ﹁昔えらいお坊さんが書かれた﹂ 23
﹁おちいさんが書いてもらった﹂と、家宝となっている扁額や、掛軸が、よくみれば甫水・井上円了書の署名がある ことがわかって、多くの読者から大学研究室に連絡があり、それらを写真にうつして送っていただいた。私は﹁南船 北馬集﹂のコピーを送って、さらにこれらの記憶を増幅した。南船北馬集には、お世話になった方々の氏名を克明に 記しているが、その子息やお孫さんが、それと知って祖父や父の当時の日記を届けていただいたこともある。円了の 書が所蔵されているところを、自ら探しこれを研究室に連絡していただき、村役場の記録なども調べて教えていただ いた。これらのありがたい協力は、ことしの三月になってもまだ続いている。その地域は新聞の配布区域の関係か ら、さきに述べた四県のほか長崎、山口両県にも及んでいる。次から次へと好意ある人々の間に連鎖反応を呼び起こ していることが、わかるのである。また連絡の手紙の終りに﹁ご研究のこ大成を祈ります﹂と激励の言葉まで書き添 えて下さった方々もあった。研究者として、身に余る光栄であり、また感謝の至りである。 以下に各県における現地調査の概要を記すこととする。個々の詳細な記録と、まとめはこれを省略し、後日に期し たい。 L 新潟県における調査メモ 現地調査はまず新潟県から始めた。井上円了の郷土である。昭和五十三年︵一九七八︶七月、円了の占里である長岡 市郊外の浦村︵現在、三島郡越路町浦︶にある慈光寺、円了の母校長岡洋学校の後身・長岡高校を訪ね、資料・談話 を集めた。長岡校友会の斉藤支部長、青木前支部長のご指導をえた。長岡高校には図書館に井上円了コーナーがあ り、 ﹁長岡高校百年史﹂にも多くの資料があった。 ︵高木・田中両教授、三浦大学院生︶ 第二回調査は翌五十四年七月、再び慈光寺を訪れて当主井上円秀師の母・井上タクさんの話を取材、さらに檀家総 代として慈光寺を長く世話されている高橋友二郎氏︵八十六歳︶に円了の思い出や、豪農として県下にも有名であった 24
大庄家∴局橋家のみた明治・大正の農村、民間の思想動向、円了の生まれた三島郡と長岡藩との関係などを聞いた。 明治中・末期の社会背景が浮かび出た。高橋家は隣村にあった石黒家とも親交があり、円了が少年時代に通った蘭学 医石黒直恵︵ただのり︶の塾も三島郡片貝村池津︵現・小千谷市︶に残っている。長岡市の互尊文庫にも若干の資料があ った。高橋友二郎氏からは追って八月二十三日、井上円了から尊父・高橋九郎氏への書簡をいただいた。 ﹁拝啓両三日前辱書面難有拝見仕候、妻子滞在中ハ参堂種々預御馳走且ツ貴重之品御恵贈下され一同大二悦居申 候、幸二無事昨日午後三時安着致候不取敢右御知申述候、御寄附本月分金五円本日哲学書院より回送相成候、領収 書包入差上申候毎度御厚情難有奉深謝候 早々頓首 明治廿六年五月二十五日 井 上 円 了
高橋九郎様﹂
この書翰によって、円了は家を継がなかったが、哲学館拡大の苦闘の中でも、生家慈光寺のことを、どれほど考え ていたか、 ﹁本月分﹂とあるから、この援助をこのころいつも送っていたことがわかる。寄附金は慈光寺に対するも のである。友二郎氏は﹁多少とも円了先生の風格をお偲び下さらば幸甚です﹂といってこられた。︵高木・田中両教授、 三浦大学院生︶ 第三回は十一月、六日市の名刹・曹洞宗雲洞庵に新井石龍禅師︵九十二歳︶を訪ねた。西田幾多郎の門下。明治の仏 教改造運動や宗教哲学、円了との出会いなどをうかがった。禅師は旧制長岡中学︵現・長岡高校︶在学中に、母校を訪 れた円了博士の講演を思い出された。 ﹁その時分は円了先生の名は県下あまねく知られていました。中学生に話すことですから専門の話はせず、一般に 25対する修養のことでした。日本人英語とほんとうの英語はちがうんだよ。ワン、ツウ、スリー、フォーアというプ ラクチカル・イングリッシュとジャパニーズ・イングリッシュとはちがう、というようなことを話されました﹂ 新潟市では新潟日報社を訪れ、円了研究についてご協力を願い快諾を得た。日報社からは﹁越佐の墨芳﹂という、 会津八一から良寛、その他の書家の大冊の本が出版され、円了も収められていた。円了の名は新たに広まっていた。 新潟日報には﹁郷土の先覚者井上円了﹂という私の寄稿が、昭和五十三年十二月十六日付学芸欄にのった。 ”私学 設立に半生/全国巡講し浄財を募る”と円了の真骨頂が報道された。読者からの反響は、ただちにその日付の手紙とな って寄せられた。︵田中教授、喜多川助手︶ 第四回調査は昭和五十五年三月、柏崎市の光賢寺を訪れた。新潟日報を読んで早速連絡をとって下さった住職藤井 信榮氏の祖父円順氏は円了の弟にあたる。円順氏は哲学館大学に学び、のち大学の事務長︵庶務・会計︶を勤められた 方であった。光賢寺には哲学館創立時の各界からの円了宛の書簡があった。この種の書簡は円了の生家慈光寺にも多 数保存されており、両家に分けられたもののようである。長岡市では、やはり読者から協力者となられた遠藤留次郎 氏︵八十一歳︶‖亀田町‖の分家の当主遠藤倉治氏︵九士二歳︶11長岡市11に連絡したが、耳が不自由ということで結局 会えなかった。倉治氏は旧長岡中学の出身者であったので、 ﹁和同会雑誌百号﹂ ︵和同会は円了らが在学中に創立した自 治会︶や﹁長岡中学校読本﹂︵同中学の準教科書として生徒に長岡精神を鼓吹するための資料としたもの︶から円了資料を後日 送ってこられた。留次郎からもその後たびたび情報連絡がある。第五回調査は読者からの協力者、郷土史家大宮不二 男氏11長岡市‖からの連絡で、林広策氏︵八十八歳︶‖.長岡市‖を訪れた。広策氏の兄が元治元年︵一八六四︶生まれ で、円了とよく遊んだという。円了さんは親戚の堀之内村︵現在は町︶願念寺によくきた、その時である。広策氏も円 了の名は知っていた。後年の話だが、円了は人好きのよい人で誰にでも話しかけたと記憶している。また﹁若いもの 26
は一度東京へ行ってこい﹂そういう時代があった。私も東京へとび出した。京北中学に友人がいたので、大学の前を よく通った。大学とはこんなとこかなあと思った、などと懐古された。家は染物屋で元禄時代から続いていた。東京 から帰って教員の資格をとり学校長を勤めた人である。大宮不二男氏からも新潟県の郷土史について、とくに土田隆 夫氏の円了研究についての資料を贈られた。新潟市では県立図書館で円了巡講に関する﹁新潟新聞﹂のマイクロ記事 六件を採集できた。明治四十三年七月∼八月、大正三年六月、大正四年九月∼十月、大正六年八月と巡講は四回にわ たっていたが、新潟日報には昭和五年からのマイクロよりなく、黒田学芸部長から羽島松雄図書館長に照介されたも のである。さらに協力者・桑野平太郎氏11新潟市11は収集した円了の新たな掛軸などを持参され、コピーを提供され た。桑野氏は﹁越佐の墨芳﹂に収められている円了書の所蔵家についても調べておられた。戦後の農地改革で富農が 没落した﹁税吏残酷物語﹂も興味あるものであった。︵田中教授︶ さて、この間にも読者からの情報は続けられ、今日までに十六人の方々から十数種の円了の遺墨や手紙などがコピ ーされた。その主なるものを拾ってみよう。 宮崎勉氏11小千谷市11からは﹁正直の外に手段はなかりけ里 如何に工夫をこらしてみても﹂という軸のほか二枚 の扁顔のコピーを送られた。この道歌は﹁私の家の蝋燭業に合うように書かれてあります、それから一軒の呉服屋さ んにはそれに合うた詩、もう一軒のお菓子屋さんにもそのように詠まれたそうです﹂と手紙にあった。円了の当意即 妙である。 岩田務さん‖堀之内町‖は浄土真宗・願念寺の坊守を務められ﹁災余増輝﹂の扁額の写真を送られた。さきに触れ たが円了の母方の親戚筋のお寺で、大正四年落雷で全焼した。円了が訪ねた時、書いたもので﹁円了さんは報恩講の 時に法話され、檀家から生仏と親しまれておられたようでございます﹂と記されていた。 27
高野寿郎氏‖佐渡郡羽茂町11は生家や親戚に所蔵されていた四点を写真に撮され、赤泊村東光寺の伊東良雲氏が、 円了先生の教えを受けたとの話を聞いた記憶があることから、良雲師の子息良雄氏に問い質され、追跡調査をされ た。良雲師は結局東京で、どこかで円了と接触されたことは確かで、良雄氏も子供のときから円了先生の名前が頭に 焼きついているということだった。 高野氏の調査によれば、小木町史には﹁大正三年六月十七日午後四時小木小学校で円了博士の精神修養と幽霊談の 講演があり聴衆四百余名を数えた﹂ことが、当時の学校日誌に記載されていた。また取材された﹁済世活人﹂の書は里 道芙蓉さん所蔵で名門の北島医院の女医さんであった。円了の頭のヒラメキはズバリである。 21 山形県における調査メモ 山形県蔵王で日本新聞学会総会が昭和五十五年︵一九八〇︶六月に開かれ、私は﹁南船北馬集﹂第十三編の山形県巡 講日誌のコピーを用意して山形新聞社を訪れた。これがいわば第一回現地調査である。 山形新聞社では専務主筆岡崎恭一氏、編集局長田中良一氏と会い井上円了研究について説明し、紙面でのアピール を依頼、即諾をえた。円了博士は大正五年六、七、八月にわたって県下を巡講したこと、時あたかも早魅で雨がなく 炎暑の中を歩き回わり、三万二千六百五十人の聴衆に語りかけた。社会観察豊かな日誌を読んでもらった。そして山 形新聞の当時のコピーを得た。記事四件が採集された。一例を紹介しておこう。 山形新聞︵大正五年八月十三日付︶﹁十一日午後一時三十分より酒田町郡会議事堂に於て文学博士井上円了氏の通俗講 演会を開きたるが、折柄の炎暑に拘らず聴講者三百名以上に達し、博士は老躯を壇上に運べば満堂破る、ばかりの 拍手を以て之を迎へ、精神修養てふ題下に極めて熱誠なる講演を試みて聴衆に多大の感動を与へ小憩の後再び妖怪 28
談と題して一場の能弁を揮はれ、同四時三十分閉会せり﹂ こうした事などを書きしるした東洋大学百年のアピールは山形新聞の七月三日付文化欄に掲載された。 ﹁やまがた ・大正五年夏/井上円了博士の巡講﹂という題であった。二日たって反響が届き始めた。年を越えて昭和五十六年一 月九日にも連絡があった。 ﹁拝啓七月に御手紙戴き早速円了の書写真を取って送るつもりでしたが小生心臓を悪くし休んだのでおくれて申訳 有りません。あまりおくれたので此れから御送りして差しつかえないかどうか御伺い致す次第です。御多忙中御手 数でも御知らせ下さる様御願い申し上げます。 早々﹂ この鈴木三郎氏11河北町谷地‖は心臓を患い病臥中にも私への約束を忘れず、お手紙をいただいたのである。 第二回調査は昭和五十五年七月、山形市と村山市である。確実・有力な情報の中から円了博士の講演を聞いた方々 をまず選んで、夏休みに入るとともに飛び出して行ったのである。朝烏栄吉、篠原幸作両氏とのインタビューは大正 五年当時の円了思想の影響力の強さを生々と示した。目的地の大久保は、楯岡駅から遠く、自動車で最上川の奇勝・ 碁点橋を越えたところにあった。円了が﹁巨石が水中に点在するありて対碁の観ある﹂と記したところである。山形 市では校友会支部長藤沢三郎氏を訪れたが、ご病気中で長話はできなかった。さきに第 回調査のときは前支部長日 野雲華氏に円了の話をうかがったが、いずれも調査への協力お願いが主であった。 第三回調査は同年十月、三たび山形市と東村山郡を回った。かねて待っておられた結城晋作氏と、力強い協力者烏 兎沼宏之︵うとぬまひろし︶氏、今野満佐寿︵こんのまさす︶氏に会った。烏兎沼氏は東村山郡中山町長崎から西村山郡 矢地町へと自動車で案内された。これは円了が巡講でたどった道を逆コースではあったが、いろいろ説明された。円 了の講演した寒河江小学校も宿所・対葉館もすでに改新築されていたが、谷地中部小学校は明治建築のままで、玄関 29
の二階の屋根に時計台があった。また今野氏は円了の書十三点の所在を調べられ、午後の半日を暗くなるまで、テク テクと同行して取材案内された。桃の熟するころで、あちこちの庭が美しく色どられていた。 これらの調査は十八人の読者・協力者のお陰であり、書墨十八点のコピーを得た。なお各方面に円了書が所蔵され ているという。調査結果の主なるものを摘記する。 朝烏栄吉氏︵七十七歳︶11村山市‖大久保の純農家、菊池一族の本家といわれる。 ﹁山形弁わかるかな﹂と念をおさ れたが、何とかねとインタビューした。 ﹁私は小学五年生、円了先生のお話はめずらしかった。親たちが迷信深く、夕方はさぶしかった。暗くなるとこわ かった。狐火、鬼火、人魂の話など、円了先生は絶対おっかないものでないと説かれた。それから大人たちのお茶 飲み話でも、迷信らしいものがでると円了先生のお話になった。私は子供心に気持が明るくなった。﹂ 篠原幸作氏11村山市11︵朝島氏と共にインタビューした︶﹁大久保に電灯のついたのは大正七、八年だから大正五年に は電灯はなかった。迷信を信ずるのは当然かも知れない。私は人魂など見たことはないが、親たちはおっかないと いっていた。円了先生のお話以来、迷信は弱まった。当時この村は六百戸なかったが、会場の小学校の体操場があ れほどいっぱいになったことはない。六、七百人はいたでしょう。近郷からも集まった。﹂ 講演会を主催した丙午会︵丙午はひのえうま︶は、村の教育後援会で、最上川西側の四力村で河西教育会を組織する 母体となった。当時この指導者であった森直秀村長の別館で円了は宿泊した。 ﹁唯一誠﹂の書に﹁為森兄﹂の為書が ある。直秀氏の子息利吉氏は近衛文麿氏と親しかったという。別館﹁経苑﹂はそばもち︵カイモチ︶で有名で観光客が 多く、扇谷正造氏らの署名がサイン帳にあった。 結城晋作氏11山形市‖アララギ歌人斉藤茂吉門下であった結城哀草果氏の令息。歌誌﹁山麓﹂を主宰し、ことしち 30
ようど三百号を数えた。父哀草果が若き日円了先生に会い、書を書いていただいたとの連絡があった。その書は﹁圓 満﹂とあり、座敷の神棚の側に高く掲げてあった。 ﹁山麓三〇〇号記念号﹂に寄せられた−工屋文明の哀草果七回忌の 歌に﹁宮嶋よ靹よ思出はとびとびにてただ圓かなりき君が振舞﹂とあるのを発見した。円了は若い哀草果の中に直観 的に円満の心を感じとって書したのであろう。農村歌人哀草果はそういう人であった。子息晋作氏のお話は感動的で あった。 ﹁円了先生の額は子供の時からここにかかっており、今もそのまんま。他のものはいろいろ掲げ変えたが、これだ けはそのまんまです。父は曹洞宗で、円了さんが隣の地区の明円寺に来られたとき、父は宗派がちがうので大分とま どったらしい、が誰でも聞くのは一向差し支えないというので聞かせてもらった。書をいただくについては、世話人 などでないと書いてもらえなかったらしいが、どうしても欲しいとお願い申しあげた。周囲の人は、若いもんが何を いうかというたけれども、結局書いてくれるということでした。父はこの額が自慢で﹁円了先生はえらい人だった﹄ とよく話してくれた。父は当時二十三歳でした。 哀草果は二十四歳で﹁詩歌﹂︵文光堂︶の秀才文壇で一等に入選したという。結城家は養蚕農家で、その季節には座 敷も畳をあげて上段から至るところ棚をつくって、家中に蚕が繭から蚕をかえす。 ﹁円満﹂の額も繭で囲まれる。こ の書は子供のときから家族も親しみ深いのです。﹂ 晋作氏からは七月十日に手紙をいただき、額の手入れもしたいが、私が訪れるまで、そのままにしておきますと約 束され、哀草果が掲げた、そのままを見せてもらった。 ﹁圓満﹂は↑口びていたが、静かに息づいていた。 烏兎沼宏之氏‖東村山市11民俗研究家。胆石の手術で入院されたが、十月十日ごろ退院するとの便りがあった。中 山町豊田地区を中心に調査し、岩谷十八夜観音堂の拝殿正面にある﹁神通自在﹂の大きな横額︵横一間に縦一尺余︶の 31
写真を提供された。この観音堂はオナカマ︵巫女︶のふるさとで、柳沢から山峡の山道を四キロも歩かねばならない ので、私のためあらかじめ取材されたもの。オナカマについては円了日誌が特記している。 今野満佐寿氏︵六十四歳︶11東村山市11農業改良普及委員、郷土研究者。祖父の西塔満寿太氏が中心となって﹁温知 会﹂がつくられた。円了は豊田村柳沢︵当時︶の柳沢寺で溝演した。﹁主催は温知会にして会員西塔満寿太氏、同彦治 氏、鎌上半兵衛、今野、志田、野口諸氏の尽力により、哲学堂維持金の如きは望外の好成績を得たり﹂と南船北馬集 に記されている。今野氏の案内は円了日誌のセンチメンタル・ジャー二ーのようにこの方々の家を歴訪したことだっ た。多くの円了書の扁額、屏風があった。柳沢寺には﹁温故知新﹂の大扁額が掲げられていた。 今野満佐寿宅には円了の道歌と題された大軸﹁暗き夜も雨のふる日も照すなる我真心の光り仰げよ﹂があり、今野 氏の話では、父が最も愛し、冬などはその軸に対座して瞑想にふけった。またもう一本﹁上までみれば及はぬことも 多かりきカサきてくらせおのがくらしを﹂は円了先生の講演からとったもので、私の若いときでしたから、この父の 話を私の子どもや下男、女中に上ばかりみないで、まっすぐみて暮らせと教えた。講演会のあと、西塔宅へ先生を招 待し、餅をついてご馳走した。温知会は中等教育以上を受けた人々の勉強会であった。 3 熊本県における調査メモ 熊本県下の現地調査は、東洋大学大学院社会福祉学専攻出身の大橋慶子さん︵郡山女子短大︶のお話からスタートし た。祖母大橋静子さんの伯父・伊津野隆善師が京都の浄土宗の学僧時代に井上円了と親しかったというのが、調査の キッカケであった。昭和五十五年八月である。私は福岡県調査の準備をしていたのだが、急拠その前に熊本と決め た。円了の京都時代を知りたかったのである。伊津野隆善師は﹁肥後名僧伝﹂︵県教育会、昭和二年︶ にも記載され宇 32
土の西光院住職であった。西光院を訪ねたが、空襲ですべてが失われ、探し求める資料はなかった。 しかし、大橋慶子さん兄妹の先導で、円了の熊本巡講の足跡をたどり、多くの収穫をえることができた。熊本城下 の県立図書館では円了の巡講した明治四十一年のマイクロフィルムのある﹁九州日日新聞﹂が、かなり大きなスペー スを円了報道に当てているのを採集した。家庭教育、宗教と実業、迷信と妖怪、幽霊談など各地の講演内容を詳しく 伝えていた。 こうした調査を抱えて、熊本日日新聞社を訪ね、友人が紹介してくれた業務担当・真藤長生氏を通じて編集局長平 野敏也氏、文化部長久野啓介氏と語った。ここでも記事掲載の了承がえられた。 ﹁.お化け博士”と熊本巡講/井上 円了研究調査から﹂という題名で﹁県民六万人に語りかけ﹂と、九月三日付宗教欄の半ばを埋めて報道された。読者 からの反響は、次々に波紋を呼ぷ形で拡大し十九名に及び、円了資料は筆墨のほか関連文献・日誌や円了からのはが きなど二十八点となった。その主なるものを略記するが、円了博士に随行した菊地適︵かなふ︶の子息、哲学館出身 の大関東洋氏の子息尚之氏の活動、また多くの方々の父祖が円了巡講の主催者であったことが特記される。 菊地哲龍氏︵七十四歳︶11飽託郡北部町‖金剛寺住職。父の適氏は哲学館得業、円了の巡講に各地を随行した。残さ れた円rからの手紙︵明治四十二年三月二十八日附︶は四月十二日尾道まで出迎えてほしい旨が書かれている。適氏はま た熊本市の白川学園の前身・貧児寮︵寮主塘林虎五郎師︶に協力し、中国東北部︵満州︶や北海道まで幻灯を持って資 金集めに回り、住職としては本堂前に塾を作り、子弟を指導したといわれる。 ﹁井上館主哲学館春期大懇親会﹂の加 藤弘之博士らの講演筆記も残されている。円了博士が頼りとされ、またその思想を実践した活動家であった。哲龍氏 のご協力で、これらのことが判明したのである。 33
大岡尚之氏︵八十歳︶11熊本市‖は円了が高橋町正福寺で講演したとき、円了が揮毫し、子供ながらその墨をすっ て手つだったという、その硯を前において、訪問を喜ばれた。当時の正福寺住職大関東洋氏は哲学館出身者で、高島 米峰と同窓であった。円了は当寺に二泊した。東洋は円了に私淑し、この地区ではじめて日曜学校を開いたと、尚之 氏は説明される。 ﹁私はおやじを通じて哲学館といった方がピンとくる。哲学館というのは人学の上であるような印 象があった。境野黄洋さんともその関係で親しくしてもらった﹂というぴ尚之氏も父の影響を受けて﹁仏教日曜学校 教養案﹂︵真下飛泉、小谷徳水校閲︶ を著し岩波教育辞典に紹介された。小谷徳水は宗門解体論で有名だったとのこと である。尚之氏はいま幼児教育のため仏教童話を多く出版されている。久留島武彦の弟子である。東洋氏に宛てた円 了の年賀状、南米からのはがきが送られてきた。尚之氏は円了の風ぽうについて﹁ひげをはやして、役者顔の好男子 で背は高かった﹂とも述べられた。 松本マッエさん︵八十八歳︶‖松橋町‖は小島町専照寺住職松本清亮師の息女で、専照寺で円了講演があったときは 十六歳の女学生だった。 ﹁聴衆は沢山みえました。円了さんは字など書かれたことを微かに思い出します。布教師く らいにしか思っておりませんでした﹂と淡々と語られた。 秋岡隆穂氏11松橋町‖町長。松橋町・明覚寺の円了開演の際の発起人の一人、豊福村長・秋岡季彦氏の次の村長 が、隆穂氏の父であった。円了の軸二本を用意され、曽祖母の墓に案内された。円了さんがその墓碑を書かれたとい う。 ﹁秋岡ミネの墓﹂と円了の書がそのまま刻まれていた。 合志覚也氏11城南町11光徳寺住職。円了日誌に﹁四月十一日隈庄町︵註・現城南町︶に移る。会場は光徳寺、聴衆満 堂﹂とあるので、お訪ねした。覚也氏の先代・覚照氏のときで、 ﹁真如月﹂の見事な扁額があり、為書されていた。 ﹁四月二十九日佐敷町、会場は専妙寺、発起者は住職渋谷智厳氏﹂と日誌にあるが、智厳氏のお孫さんが覚也氏の妻 34