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ジャワ知識人の西欧認識をめぐる諸問題 : 1913-1922年 [ Javanese Intellectuals’ Conception of the West: A Case Study of Soewardi Soerjaningrat and His Colleagues from 1913 to 1922]

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(1)

東南 アジア研究 15巻4号 1978年3月

資料 ・研 究 ノー ト

ジャ ワ知識 人 の西 欧認 識 を め ぐる諸 問題

(

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- A CaseStudyofSoewardiSoerjaningratandhisColleaguesfrom1913to1922

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TsUcHIYA

SoewardiSoerjaningrat,a Javanese aristocratfrom the Paku Alam House of Yogyakarta,leftJavein September1913,and stayed in Hollandforsixyears,until 1919. During theseyearsand thethreefollowi ng hisreturn toJava,thatis,upto 1922,when hefounded the firstTaman Siswaschool,hcwasactiveasa militant anti-colonialwriter.TheHindiaPoetra(SonofIndia)underhiseditorshippropagat

-ed hisideastowardsthe colonized motherland and theW est. Carefulscrutiny of hiswritingsrevealsaslgni丘cantchangein1-isideasafterhisarrivalin Holland.

Previously,hismain concern wasfocussed on the politicalissuesoftheEast Indies ratherthan on the question of (Javanese) culture. W hen in Holland he becameinterested in hisown Javanesecultureandbegan toadvocate ittotheDutch whom he considered had neglected the culture and history of his native land. Through this,hebecameinterested in ancientIndian philosophy,which wasunder -going a revivalatthattime in theW est. Italsorevived in Java,whereitwas known asTheosophy. Wederopbouw (Reconstruction),an organ of"HetComi tc voorbetJavaanschNationalisme" (TheCommitteeforJavaneseNationalism),under theeditorshipofSoetatmoSoerjokoesoemo,wascentralinadvocatingthisphilosophy. Soetatmo,Noto Soeroto,and Soerjopoetro,personal friends of Soewardifrom the PakuAlam House,allcontributedtothemagazine. They claimed Javaneseautll en-ticity asa legitimatesuccessorofancientIndian philosophyand tried toreinterprete itsothatitcould berelevantto"thespiritoftheage" (Democracy).

They wereallenchanted by Tagore'sasrama (traditionaldormitory) typeof education,and recognized itnot only as an advanced trend in education which mightresolveHthecrisisofW estern humanityHbutalsoassomethingwhich could legitimizeJavaneseindigenoussocialvalues・

The activitesof Soewardi inflindia Poetraand those of his comrades in Wederopbouw werethusideologicalpreparationsforthe Taman Siswaeducational system,and also paved the way formodern lndonesian politicalideology,ilamely Hdemocracy and leadership"orHguided democracyH.

(2)

土屋 :ジャワ知識人の西欧認識をめく小る諸問題 (1913午∼1922年)

ま え

筆 者 は先 に ス ワル デ ィ ・ス ル ヤ ニ ソ グ ラ ッ トSoewardiSoerjaningrat,チ プ ト ・マ ン ダ ン ク ス モ TjiptoMangoenkoesoemoらが ジ ャ ワを追 放 され るに至 った経 緯 を 明 らか に した。1) こ の うち ス ワル デ ィに 焦 点 を あ て 彼 が オ ラ ンダ- 向か った 1913年 か らジ ャ ワ- 帰 還 後 数 年 を経 て1922年 に タ マ ン ・シ ス ワ学 校 を 設立 す る まで の時 期 の彼 の軌 跡 を辿 る と, そ こに は彼 を め ぐ る一 群 の ジ ャ ワ知 識 人 が 登場 す る こ と, そ して ス ワル デ ィを 含 め て彼 らが くジ ャ ワ主 義 〉 とで も呼 び うる よ うな注 目す べ き思 想 を抱 懐 して い た こ とが 認 め られ る。 それ は一 万 で ブ デ ィ ・ウ トキ の思 想 の徹 底 化 で あ る と と もに他方 で タマ ン ・シ ス ワ設 立 の思 想 的 背 景 を準 備 す る もの で あ った 。 本 稿 で は ス ワル デ ィの思 想 的軌 跡 を辿 りな が ら この思 想 の 内容 と特 質 を考 察 す る。 l ス ウル デ ィの オ ラ ン ダ認 識

(

1

)

ス ワル デ ィの諸 論 稿 ス ワル デ ィが ジ ャ ワを去 った 1913年 9月か ら再 び ジ ャ ワ- 帰 還 した 1919年 9月 の

6

年 間2)お よび そ の後 1922年 7月 に タマ ン ・シ ス ワ学 校 を設 立 す る まで の約 3年 間 , この総 計 9年 間 (こ れ は彼 が

2

4

歳 か ら33歳 の時 期 に あた る) に彼 が 記 した 論 稿 を一 覧 に してみ る と以下 の通 りで あ るo な お執 筆 した 月 の 半tj明 して い る もの は あわ せ て書 き添 え る。3) 1)土屋健治

『原住民委員会』をめ ぐる諸問題」 『東南アジア研究』15巻2号,1977,pp.13ト152. 2)1913年 9月 6日にス ワルデ ィは妻を伴ってバタグィア港か らオランダ-向けて出発 した。 9月13日にベ ン/ガル湾上で 「原住民委員会」での自らの活動を総括す る一文を記したが こjlは同年 r原住民委員会」 刊行のパンフ レット (オランダで

用坂)に掲載された。東 イン ド党の三人の指導者がオランダに到着し た ことは当時その地に在住していたイン ドネシ7.出身の留学

団に新鮮な衝撃を与えた。三 名はこれ ら留学生が1908年以降組織 していた 「東 イン ド国体」("IndischeVereeniging")に加入した。 しか し チ プ トが到着後ただちに F東 イン ド人』(DelndiかS)を創刊し デ ッケルとともに 活発な言論活動を開 始するとともにオ ランダ社会民主党の党員 と積極的に接触 したのに対 し, ス ワルデ ィはそ こか ら一 歩身 を引き徐々にチ プ トとは性格の異なる活動に踏み込んでいった。1913年か ら15年 にかけてスワルデ ィの 具体的な行動の軌跡は余 り明 らかではないがルフェー ブルの記述に 従えば, ス ワルデ ィは-∼グに 属 を構えてのち--グの師範学校で教師の資格を得 るとともに,1915年にオランダで最初の ヾモ ンテ ッソ リ学 校'Yが--グで開設された ときにその理事の一人 となった。 また同 じ--グで 当三命の教育''をPLFT) えたヤ ン・リフ ト-ル ト(JanLigthart)に協力し彼の影響を受けた とい うO(LeFebre,"TamanSiswaH, Orlentatie,No.43,1951,p.358. スワルデ ィは1917年 8月には追放解陳になるが欧州大戦の影響で彼 が実際にジャワ-戻 るのはそれか ら2年 後のことであった。なお当時の在オランダイン ドネシア人留学 生の状態については次の永積昭の諭稿が周到に論 じている。雑誌 『ヒソデ ィア ・プ トラ』 の内容につい て本稿はこの永積論文に負 うところが大 変大 きかった。 (永積昭 「オランダにおけるイン ドネシア留学 生の活動 (1908年∼17年)- 「イン ドネシア協会」成立前史- -」 ごフ ジア経済』18巻3号,1977年, pp,2--21.) 3)私見の限 りでは以上の32点がスワルデ ィの執筆になる諭稿であるが, この他に1916年の 『東イン ド教育 会議議事録』中に数 カ所にわたってスワルデ ィの発言が記載 されている他, 『ヒンデ ィア ・プ トラ』誌 の特別記事 ・報哲に彼の発言が記録されている場合がある。(その一例 として

,

「東イン ド防衛問題に関 す る会議」におけるス ワルデ ィの発言があげ られ る。 これについては永積が前掲論文において周到な分 析 と興味深い示唆 とをその18ページか ら21ペ-ジにわたって与えている。) さらにこの他 にもこの期間 の彼の言論活動の記録が,匿名で出された可能性を含めてなお存在 しているか もしれない。 531

(3)

東南 アジ ア研究 15巻 4号 (1)

1

91

3

解放 の祝祭 と解放 の纂奪

(9

月)

(

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1

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3

a 『サ レ カ ッ ト ・イ ス ラ ム (イ ス ラ ム 同 盟 ) の 素 描

』 (

1

1月)

(3)

1

91

3b 『ラジマ ン博士 と運動

(

1

2

月)

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91

3

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『独立記念式興 とジ ャワ医学校生徒

(1

2

月)

(5)

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91

4

『修正』

(1

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『ジャワの知識人 と独立記念式 典

(1月)

(7)

1

91

4も 『ジャワ人 と洋服

(2

月)

(8)

1

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われわれ の民族 衣装』

(7

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『ヒ ンデ ィア ・プ トラ誌 刊 行 の 辞』

(3

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a 『フ ァ ン ・デ フ ェ ンテ ル 氏 とバ ス キ 氏 の 思 い 出

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』 (3

月?)

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1

91

6b 『あ る近代的 ジ ャワ領主』

次に これ ら32点の論稿の内,(1)はデ ッケル,チ プ トとともに刊行したパ ンフ レッ トにマ レー語訳 とと もに掲 載 された もの,(2)か ら(8)までほ,オ ランダでチ プ トが主宰 した雑誌 『東 イ ソ ド人』 に掲載 された もの,(9)か ら(13までほ, ス ワルデ ィ自身が1916年か ら1917年 にかけて主宰 した雑誌 『ヒソデ ィア ・プ ト ラ』誌 に掲載 された もの, (14)は

植民地教 育会議」 のため に用意 された諭稿,

(

lE)か ら銅 まで と(2g)は同 じく LrPヒンデ ィア ・プ トラLコに掲載 された もの,(24)(29はアムステル ダムの新聞に掲載 された もの,(2郎ま 「イ ン ドネシア学徒連 合」 の機関日出こ掲載 され た もの,(2かよブデ ィ ・ウ トモ

創立1

0周年を期 に刊行 され た F]ス ソバ ンシ。‖こ掲 載された もの,鱒 は東 イ ン

先 の刊行物 に掲載 された もの,

鍋8

かまバ ン ドゥソの 日刊紙 『デ ・エ クス プ レス』 に掲 載された ものであ る。なお

,(

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(

2

1

)

鋤 は 『蘭領東イ ン ド,過去 と現在』 (1916年か ら1936年 にわた ってオ ランダで刊行された雑誌) に,はば同内容の ものが掲載 され ている。 なお また,以上 の うち,(8)(ll)(113)(1舶 1)は 1967年 に刊行 された ス ワルデ ィの著作集文化編 に イ ン ドネシア

訳が付 され て転 戦され ている。 この内筆者が現在 までに 入手 しえた論稿 は,(1)及び(8)か ら(23)までの各稿及び(

2

鋤 の19点に留 まるo L たが ってそれ以外 の13点 については題 名と執筆時期,掲 載誌を知 りうるに留 まる。 以上 の リス トはサ グ ィ トル及び スル ヨ ミ-ル ジコが 各々作成 した論文 リス トと筆 者自身の文献蒐集を加えて作成 した もので あ る。 これ らの論稿 はすべ てオ ランダ詔で 記され ているが.以下 にその原題 と

載誌,掲載時期を掲げ てお く。

(1)HVrijheidsherdenkingenVrijheidsberooving"/"MemoedjiKemerdikaandanMerampasKemer -dikaan,"(DouwesDekker,TjiptoMangoenkoesoemo,Sc'ewardiSoerjaningrat,Mijmeringe72 vanZndiersoverZlollands・Feestvierderl'jindeKolonie,Schiedam,1913,pp.7-10,35-38.). (2) HEen Schetsvan deVereening`SarekatIslam、,HDL,I,ldiers(DI),Vol.i,No.3,(うNov.,1913

pp.26-27.

(3) HDr.Radjiman en debeweging,HDZ,Vol.1,No.7,4Dec.191:3,p.83.

(4) "DeOnafhankelijkheidsfeesten en deStovianen,MDI,Vol.1,No.7,4Dec.1913,p.tq3. (5) "Rectihcatic,"DZ,Vol.1,No・13,13Jam.1914,pp.155-156.

(6) "Javaansche Intellectueelen en de Onafhankelijkheidsfeesten,"DZ,Vol.1,19Jam.1914, pp.175-176.

(7) "Javanen inEuropeescheKleeding,"DZ,Vol.1,No.16,5Feb.1914,pp.191-192.

(Lq) HOnzeNationaalKleeding,=/HPakaianNasionalKita,HDZ,No.37,2July1914,pp.134-138. (KarjaK.H.Dewantara,BagianKe-IZAIKebudajaan,Yogyakarta,1967,pp.264J279., (9) "Terlnleiding,"HindiaPoezra (HP),Vol.1,1916-1917,pp.1-3.

(lO)"TerGedachtenis,(Mr.C.Th Deventeren氏.Basoeki),HP,Vol.1,1916-1917,pp.6-7. (u) "Een ModerneJavaanscheVorst,"/"Seorang RadjaDjawaJaneModern,"HP,Vol.i,191

6-1917,pp.25-27.(KarjaK.H.Dewanlara.・KebudaJaan,PP.332-335.) (lrA HHetOordeeloverHindiaPoetra,"HP,Vol.1,1916-1917,pp.33-36.

(4)

土屋 :ジャワ知識人の西欧認識をめ く・,る諸問題 (1913年・∼1922年)

(

1

分1

91

6

c rヨヒ ソデ ィア ・プ トラに関 す る見解』

(

1

91

91

6d

F言語 と民族 』

(7

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(

1

41

91

6

e ?教育機 関 で 占め るべ き土 着言語 (お よび 中国語 とア ラ ビア語 )並 び に オ ラ ンダ語 (1

91

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1

91

7

a の位置』

(8

月)

アワ ヒデ ィン ・スデ ィロフ ソ ド,追 悼 記』 『ジ ャン ビ地 方 の反乱』 f東 イ ン ド防衛 問題』

(

1

91

7?

)

『発 言 の権 利。』

(

1

91

7?

)

『双 方 の不 信』 『ヒ ンデ ィア ・プ トラ誌編 集局便 り』 アパ ンゲ ラ ン ・ア リオ ・ノ トデ ィロジ ョの追想IL

個 "TaalonVolk,=/"Bahasa dan Bangsa,H HP,Vol.l,1916--1917,pp.74-76.(Karja K.H. Dewantara:Kebudajaan,pp.106-108.)

掴 "W elkePlaatsbehooren bijhetOnderwijsin te nemen,Eensdeels de lnheemscheTalen (ook betChineesch enArabisch),AnderdeelsbetNederlandscll?'ソ"Bagai manakahKedudu-kanBahasa-bahasa Pribumi(dJugaBahasa Tionghoa dan Arab) disatu Pihak dan Bahasa Belandadilain Pihak,dalam Pengadjaran?= VerslagてノanbetEersteKoloniaal0nder比りJS CongJ・cs,Aug.1916,DenHaag.(Karja

K

.H.DewanlaraIKebudajaan,pp.110-186.) 縞 目W ahidenS〇edirohoesodoin Memoriam,"ZIP,Vol.1,pp.11二日 15.

‥W ahidinSDedirohoesodo,=Nederlandsch-IndieDudenNieuuT,(NION),Vol.1,1916-1917,

pp.2()5-270.

(ltj)ハDEOpstand illDjanbi,"HP,Vol.1,1916-1917,pp.155--158.

(17)"IndigW eerbaar,HHP,Vol.1,1916-1917,pp.145-153,177-181,211-211. 梱 りDeMedezegingsrecht,"LIP,Vol.1,191(ト1917,pp.192-198.

(19) "W ederzijdschW antrouwen,"HP,Vol.1,1916-1917,pp.20ニト208.

也()) =Van deRedaktievanHindiaPoetra,"HP,Vol.1,1916-1917,pp.2091'11. (L'1) ‥PangeranArioNotoDirodjo,in Memoram,HHP,Vol.1,1916-1917,pp.215-216.

"PangeranArioNotoDirodjo (Oud-voorzittervan 'Boedi-Oetomo',overleden 22 Mei1917) en zijn Aandeelin deOpleiding vanbetJavaansche Volk,"//"PangeranArio NotoDirodjo danSumbangannjadalam Kebangkitan kembaliBangsa Djawa,"NZON,Vol,2,1917-1918,

pp.95-101.(Karja

K

.H.Dewantara.・Kebudajaan,pp.335--353.)

(2:a ‥ArrestatieenVeroordeeling van MasMarco,HHP,Vol.1,1916-1917,pp.261-263.

(33) "Nieuwe Persorganen・.De lndi紬r," "Shung Hwa HuiTsa Chih''en "Onze Koloniale

(2勾 ‥Stroomingenen Partijen inOostlndiさ,"NieuweAmSerdammer,2June,1917.

個 HTerugnaarhetFront,HDeGroeneAmsterdammer,15Sep.,1917.

(26 日DeOpleiding voorlndieinHolland,"Zndik'indeNederlandscheSludentenwereld,1918,

pp.20-22.

(27)"He†Javaansch Nationalismein delndischeBeweging

,

"

SoembangsihIGedenkboekBoedi

-OetomoI1908-20Met-1918,Amsterdam,1918,pp.27-48.

幽 "‖etlndisch NationaalStreven,Interview metdenHeerKol,"Den Haag,1918. (29 日Van delndonesischeRedactietafel,HHP,Vol.2,1918,pp.213.

HHetHerdenkingsfeestvanhetlOl'arig bestaan derVereeniging `Boedi-Oetomo', 1908-・-_r'() Mei-1918,"NION,Vol.3,1918-1919,pp.98-104.

鋸 =DeStand derStaking,HDeELrPres,8Feb.,1922.

的 HGeldsteundoorlntellectueelenvoorNationaleStrijders,"DeExpres,8Feb.,1922.

(5)

東南 アジア研究 15巻 4号

(

2

う1

91

7b 『マス ・マル コの逮捕 と有罪宣告』

を3

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91

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l刊紙』

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91

7d 『東 イ ン ドの歴史的潮流 と諸政党』 (6月)

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91

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『前線-』

(9

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91

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『オ ランダ在住 の東 イ ン ド人 のため の教育』

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東 イ ン ドの運動 におけ るジ ャワナ シ ョナ リズ ムについて

。_ワ

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91

8b 『東 イ ン ドの民族 的希求, ファン ・コル氏 との会見記』

(

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『イ ン ドネシアの編集局 よ り』

(8

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91

8d 『ブデ ィ ・ウ トモ設立1

0周年 の記念式典 に よせ る

⊂_]

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『ス トライキの立場』

(2

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92

2

a

『民族闘争 の担 い手 に対す る知識人 の財政援

助』 (

2

月)

これ ら

3

2に及ぶ 論稿 をその 執筆年 に よって 分けてみ ると 1

91

3

4,1

91

4年 4,1

91

5年 0,

1

91

6年11,1

91

7

6,1

91

8

5,1

91

9年か ら1

92

2年 2とな って1

91

6年,1

7年 に集 中 してい る。

またその掲載誌 をみ る と オ ランダ 到着直後 に 『

東 イ ン ド人

紙上 に八つ の 論稿を掲載 したほ

か は, 『ヒンデ ィア ・プ トラ』 に合計1

4の論稿が発表 され てい る。 したが ってス ワル デ ィのオ

ランダにおけ る言論活動 は1

91

6年,1

7年 に彼がその編集長 をつ とめた 『ヒンデ ィア ・プ トラ

誌 を主要 な舞台 として展 開 された とい うことが で きる。

次 に これ らの論稿をその内容 に したが って一応 の分類を してみ るとおお よそ次 の よ うに整理

され る。(

イ)「オ ランダ解放1

0

0周年記念式典」 に関す るもの。 これ は 1

91

3年か ら翌年 の初頭 に

かけて執筆 され てお り(

1

)

(

4

)

(

6

)

3論稿が これ に該 当す る。(

ロ)

追悼記 ない し人物評。 これ に該 当

す るのは(

3

)

(

1

0(

l

l

)

(

l

geカの 5諭稿 で執筆 の時期 は1

91

6年か ら1

8

年 にかけて集 中 してい るO(

/

,

)

植民地

におけ る民族運動 の状況を報道 しまたそれを論評す るもの。 これ に該 当す るのはすべ ての時期

にわた って執筆 され るとともにその数 もまた もっとも多数 に及んでい る

.(

2

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の1

7論稿が これ に該 当す る。 この うち(

7

)

(

8

)

はイ ン ドネ シア人が洋装をす るこ

とについて論 じた ものであ り鋤 は戦闘的なジ ャーナ リス トであ るマス ・マル コ (

MasMar

c

o)

が 「

秩序 と安寧」を乱す論文を発表 した とい う科 で逮捕拘留 された ことに対 して抗議 を表 明 し

た ものであ る。 マス ・マル コは ≠

等 し く分 かち ともに感応 し合 う〃(

"s

amar

at

as

amar

aS

a

"

)

とい う標語 に よって彼 の人民主義的社会主義的思想を唱導 したが, この標語はス ワル デ ィの心

を強 くとらえ るとともに政庁 の言論活動- の抑圧 はス ワル デ ィ自身 の追放 の契機 ともな った こ

とが らであ り,ス ワル デ ィは この事件 について ことに激 しい筆致 で論 じてい る。注 目すべ き論

稿 であ る。

4

) 次 に(

1

7

)

(

1

8(

1

射ま 「

東 イ ン ド防衛問題」お よび 「

民族参議会」 (フォル クス ラー ド)

4)

晩年スワルディはマス ・マルコを彼にもっとも影響を与えた先達の一人として高 く評価している。

Ki

(6)

土屋 :ジャワ知識人の西欧認識をめ ぐる諸問題 (1913年∼1922年)

開設 問題をめ ぐる経緯を述べ るとともに この問題 に対す る植民地政庁の民族 自治-の無理解な

態度を批判 した論稿 であ る

(

I)

植民地 におけ る言語教育の問題お よびひろ く一般に民族 と言語

の関係を論 じた もの

O

これ には

(13

)

(1

4

)

2

論稿が該当す る。 この

2

論稿 とも

1916

年に執筆 されて

い る

。掴

編集者の立場か ら編 集方針編集記な どを記 した もの

。(9)

鋤鍋(

2

9の四つが これに該当す

る。

これ らの論稿 を通 じて うかがえることは,一方 でス ワルデ ィは東 イ ン ド党 の指導者の一 人と

して 「蘭領東 イ ン ドの独立」を追究す るとい う東 イ ン ド覚 の結成以来の主張を貫 くとい う姿勢

を示 しつづけなが ら(

上述の分類の うち(

イ)

とぐうの大部分),他方で政治に関す る問題 よ りも文化

の問題に関す る論稿にそれ以上 の情熱を傾け るとともにその領域 で 自らの独 自性を示 しは じめ

てい るとい うことであ る。 この領域 に直接かかわ ってい る(

別 よ上述 の(

I)

に分類 さj

tた

2

論稿に

す ぎないが この うち論稿

(

1

4

)

は この時期に彼が記 した論稿 の中で もっとも長文 であ るとともにそ

こには彼 の思想が総展開 されてい るとい う意味で もっとも完成度が高い。 さて論稿

輔 こみ ら

れ るよ うに文化 に関す る論稿 は具体的には言語 の問題お よび教 育の問題 として表われてい るが

(この点については後述す る),一方, これ と局面を異にす るとはいえやは りス ワルデ ィの文化

へ の関心を特異 なそ して独創的な形 で表 明 してい るのが(

。)

に分類 された諸論稿 とくにそ の うち

(

1

g

やの追悼記であ るo彼 は これ らの論稿を ノ ト ・デ ィロジ ョお よび ワヒデ ィソ ・スデ ィロフ ソ

ドとい う民族主義運動 の先達者 の逝去を悼む追悼記 として草 し,そのなかで彼 らの生涯 の事跡

を辿 りつつ彼 らの生涯その ものが ジャワ文化をす ぐれて体現 していた と述べ てい るのであ る。

この よ うにス ワルデ ィが彼 らを ジャワ文化 のみ ごとな体現者 であ った とい う点 においで称える

とい うこと自体すでに注 目に価す ることであ るが,それ とともに逸すべか らざることは,ス ワ

ルデ ィが このよ うな形式 の追悼文を同時代 の民族主義者 の死 に際会 して草す とい う作法 の創始

者 であった とい うことであろ う。 この よ うな追悼文 はその後 イ ン ドネシアでそのさま ざまな時

代 とさまざまな局面 において数多 くあ らわれ,それ らの多 くは故人の民族主義思想を一つの遺

産 (ワ リサ ン二

W arisan)

として次代に伝 える うえで大 きな意味を もった 。

5

)ス ワルデ ィは

1910

年 代の半ば オ ランダに在 って ワヒデ ィソ, ノ ト・デ ィロジ ョの 生涯 とその 思想を記す ことに

よって,ブデ ィ ・ウ トモを生み出した彼 らの世代を民族主義運動 の文脈 においては じめ て通産

化 してみせたのである。それはその形式 と内容の双方 において画期的な文化史的意味を もつ も

のであった。

(

2

) ヨンクマ ンと 「イ ン ドネシア学徒連合体」

ところで 『ヒンデ ィア ・プ トラ

』 は

1917

4

月に第- シ リーズが中断 されたのち

1918

8

5

)この点をス トモと ワヒディンの関係において論 じたものとして,

BenedictO'G.Anderson,A Time ofDarknessandaTimeofLightITransi,ositioninEarly IndonesianThought,Paperforthe CongressofHumanSciencesatMexicoCity,1976・

(7)

東 南 ア ジ ア研究 15巻 4号

よ り第二 シ リーズの刊行が再 開 され1922年 8月 まで 「イ ン ドネシア学 徒連合体」("Indonesisch VerbondvanStudeerenden")の機関誌 として刊 行 され るが,ス ワル デ ィはその第二 シ リーズ の編 集委 員 として ヨ ンクマ ン (Jonkman),ヤ ップ ・ホ ン ・チ ュ ン (YapHongTjoen)ととも に名 を連 ねそ の再 刊第一 号では序 言 を記 しなが らそ ののちは この雑 誌 の執筆陣か ら姿 を消 して い る。 この第二 シ リー ズの主宰者 であ った オ ランダ人 ヨ ンクマ ンの回顧録 に よれ ば 『ヒンデ ィ ア ・ブ トラr7はそ の再 刊を機 に編 集局を- - グか らニ トレヒ トの ヨンクマ ンの 自宅 に移 しのち 1919年 1月には ス ワル デ ィと 交 代 してスル ヨ ・プ トロが 編 集 の任 にあた る ことにな った とい う

6

) これ はス ワル デ ィが1918年 以降 『ヒンデ ィア ・プ トラ』 を編集 しまた 同誌 に執筆す る こ とか ら急速 に身 を引 く何 らか の事情があ った ことを示 してい る。 ヨンJ//マ ンは ファン ・ホ- レンホ -- ン, ス ヌ ック ・ヒュル フ ローーニ ェな ど植 民地 の慣 習法 と宗教 に関心 を寄せ る ライデ ン学派 の影響 を受け て東 イ ン ドの社会 と文 化- の関心 をひ ら くと ともに,倫理政策 の精神 を推進す る ことを政 治的使命 とす る親植民地派 の学 生指導者 として次 第 に頭 角を現 わ し1917年 当時か ら在 オ ラ ンダのイ ン ドネシア人,華 人 とオ ラ ンダ人 の学生 グル ープ (ライデ ン, ニ トレヒ トが 中心、) を糾 合 しは じめ 同年

1

1月には これ らの 大 同団結 で あ る 「イ ン ドネシア学 徒連 合体」 を結成 してそ の議長 に就任 した。 この連 合体 は(1)東 イ ン ドに関す る知見を粧 ノこし, よって会 員間相 互の協 力を 図 り

(

2

)

東 イ ン ドに関す る諸研究 の必要性 をひ ろ く 喚起 し(二両 -ラ ング 人青年 の間 に植民地 での公平無私 な活動 に対す る関心 を高め る ことを 目的 と していた:そ のために この団体 は ワー- ニ ン- ン, - - グな どでセ ミナ ーを開催 しまた 『ヒン デ ィ7 ・フ トラエコをそ の活動 の宣伝媒体 として活用 した。7) これ らの活動 を主導 した のは もっ ぱ らコンクマ ン, フ ァン ・モ ー ク らのオ ラ ンダ人 であ った 。 ヨンクて ンの回顧録 にみえてい る この よ うな学徒連合体 の 目標 とそ の活動 は明 らか にオ ラン ダ人- の甘 崇活動 を意 図 した ものであ り,そ の理想が 「東 と酉 の調和」 を実現 し, また オ ラン ダ とイ ン ドネシアが ともにかつ ての黄金 の時 代 を復活 させ そ の ことに よって両民族 間 (ここに はオ ラ ンダ民族 , イ ン ドネ シア民族 ,華 僑が 含まれ る) の永遠 の信頼関係- それ は 「民族連 合体」 〔Volkenbond) として表 明 され てい る--- をあ らゆ る国難を克 服 して樹立す る8)とい う ところにあ る

り, この連合体 は オ ランダ人進 歩派 ・親植民地派 の支持 と同意 は受 け て も, ま た , イ ンバ ネシア とい う名称 の新 鮮 さ (これが は じめて公式 にイ ン ドネ シア とい う名が本来 の 学 術用 語 としての意味 か ら離れ て用 い られ た 例であ る とされ る。9))のゆえに, ない し 「東 酉の

6)J.A.Jonkman,ZleiOzdeNederlandsIndiL,I,memoires乙・a71mr.J.A.Jonkman,Assen,1971,

pp∴32∴う5. 7)ibicl.,pp.19-45. 8)ibid.,p.こl't3.

9)AkiraNagazumi,"`∫ndonesia'and`lndonesians':SemanticsinPolitics,"AsianProjile,Vol.1, No.1,1971;i,p.94-99.

(8)

土星 :ジャワ知識人の西欧認識をめぐる諸問題 (1913年∼1922年) 調 和 」 また 「相 互 の黄 金 時 代 の復 活 」 とい う理 想 のゆ え に, さ らにそ の活 動 の 基 氏が オ ラ ンダ 人 に対 す る啓 蒙 活 動 に あ った とい うこ とのゆ え に, 当 面,在 オ ラ ンダの イ ン ドネ シ ア入 学 生 グ ル ー プ との協 力 関 係 を 実現 しえた に して も, ス ワル デ ィの よ うに 植民 地 で の民 族 主 義 運 動 の波 を ひ とた び か い く ぐ り (彼 に とって例 え ば オ ラ ンダに お け る 「黄 金 の十 六 世紀 」 な どは シ ニ カ ル に しか 捉 え え な い もの で あ った。10)), な お また 民 族 主 義 運 動 の そ の後 の動 向 と発 展 に鋭 い知 覚 を働 か せ て い た 者 に とって は, し ょせ ん ,論 理 的 に も感 覚 的 に も同 調 しか た い もの で あ った とい え よ うO ス ワル デ ィが 1918年 以降 『ヒ ンデ ィア ・プ トラL再 こ熱 意 を 失 っ てい った理 由 のひ とつ は お そ ら く この点 に求 め られ よ う。11) (3) ス ワル デ ィと 『ヒ ンデ ィア ・プ トラ

』誌

す で に述 べ た よ うに ス ワル デ ィの論 稿 の うち は ば 半 数 は 1916年 と1917年 に 執 筆 され また この 時 期 に彼 が 主宰 した 『ヒ ンデ ィア ・プ トラ』 の第一 シ リーズ (1916年

3月

∼ 1917年

4

月)に掲 載 され て い る。 この第一 シ l)-ズ の歴 史 と性 格 , そ の 内容 の概 要 , また この雑 誌 に お け るス ワ ル デ ィの役 割 等 につ い て は既 にサ グ ィ ト リと永 積 昭 が 簡 に して要 を 尽 くした 紹 介 を お こな って い るが,12)永 積 が 指 摘 す る よ うにそれ は文 字 通 りス ワル デ ィの 「個 人 雑 誌 」 の性 格 が 強 く, 彼 の叔 父 で ジ ャ ワ音 楽へ の造 詣 の深 い スル ヨ ・プ トロ (Soejo Poetro)な らび に ス ワル デ ィ, ス ル ヨ ・プ トロ と同 じバ ク ・ア ラム家 の 出身 で ノ ト ・デ ィロジ ョの子 供 であ り1906年 当時 か らオ ラ ンダ在 住 の留 学 生 ブル - ブの 中心 的存 在 とな って い た ノ ト ・ス ロ ト (NotoSoerotoJ 13)の両 名 の 協力 を え て この雑 誌 の編 集 に遇 進 し, 魚 が 水 を えた よ うに健 筆 をふ る って い る。.14) ス ワル デ ィは そ の刊 行の 辞 (論 稿(9))に お い て この 雑 誌 は政 治 的 闘 争 の た め の機 関 誌 で は な く, 「教 育

・芸

術 ・学 問 ・農 業 ・牧 畜 ・工 業 ・商 業 ・政 治 な ど要 す るに東 イ ン ドの民 衆 の調 和 あ る発 展 のた め に必 要 なす べ て の もの」15)をす す ん で掲 載 す る とい う方 針 を述 べ てい るが , この よ うな方 針 を表 明 しそれ に も とづ く雑 誌 を 刊 行 す る とい う1916年 の ス ワル デ ィの立 場 と, デ ッケル , チ プ トと並 び立 つ 東 イ ン ド党 の 「三 羽 烏 」 (De Driemanschap〕16)の一 人 と して彼

10)土屋健治 前掲論文。

ll)他にも帰国準備や ブデ ィ ・ウ ト

設立10周年記念行事のための活動などが この頃か ら彼の関心 事になっ ていった とい うことも考え られ よう。

12)SavitriPrastitiScherer,HarmonyandDissonance:Earl3′NationalistThoughtinJaも,`7,M.A. ThesisCornellUniversity,1975,pp.77-94.永積昭 前掲論文 pp.10-21.

13)ノ ト スロ トの

時の活動については,永積昭前掲論文 (7-べこ-ジ)のほか, 日露 戦争がオランダ在住

の留学生に及ぼ した心刊汀由衝撃について次に記 されている。

"‖etKarakterderlndischeVereeniging en van betlndonesisch Verbond vanStudeerenden,"

Wederopbouw,May 1920,p.141.

14)永積昭の分析に従えば (前掲論文16ページ) 『ヒソデ ィア ・プ トラ』誌に掲載 された署名論文 の半ば以 上 はこの 3名によっで 執筆 され またその半

以上すなわち署名論文全体の%強はスワルデ /‖'j身の論稿 で埋め られている。

15)ZlindiaPoetra,Vol.1,No.i1916/1917,p.1.永積昭 前掲論文 p.ll.

16)この用語は次にみえている。 KiHadjarDewantara,"Pemuda-pemudaKitadiNederland,HDart KebangsaanNasionalSampaiProklamasi,Jogjakarta,1952,p.91.

(9)

東南 アジア研究 15巻4号 自身が ジ ャワか ら追放 され るその契機 とな った 「オ ラ ンダ独立式典」- のルサ ンチマ ンをなお 燃 えたたせ てい る

1

91

3

年 末か ら

1

91

4

年初頭 にかけての立場 との間 には,政 治 と文 化 の関係 を彼 がいか に認識 す るのか とい う点 でのひ とつ の変 化が認 め られ る。 彼 は

1

9

52

年 に タマ ン ・シス ワ 学校創立30周年 を記念 して回顧録 を著 してい るがその中でオ ラ ンダ滞在 中の思い 出につ いて二 つ の小稿 を 記 してい る。 そ の うちのひ とつ は 「デ ン ・- - グのイ ン ドネ シア新 聞 ビュー ロー について」と題 され , この 「ビュー ロー

(

"Indonesische Persbureau") の実態 とその 活動 の大要 を回顧す る ものであ る017) これ はス ワルデ ィ自身 とこの ビュー ローがはば同一視 され て 回顧 され てい る ことか ら,彼が自らのオ ラ ンダ滞在 につ いて後年 いか な る意味 づげを与 えてい た のかを示す格好 の資料 であ るr, と くに これ が先 に述べた文化 の問題 を考 え る際 の鍵を与 えて い る と思われ るので以下 にその大意 を記す。 ス ワルデ ィに よれ ば 「イ ン ドネ シア新 聞 ビュー ロー」 とは

1

91

3

年 に- - グに設 立 され た イ ン ドネ シア民族主義 運動 の情報収集 と宣伝 のための機 関 であ った。創立者 はス ワル デ ィ自身 であ り- - グのス ワル デ ィの 自宅がそ の事務本部 とな った。 こ こにはイ ン ドネ シア各地 か ら新 聞や 雑 誌が続 々と送 付 され て きた。 また この機 関 はは じめて公式 にイ ン ドネ シア とい う名称 を用 い た

「ビュー ロー」 の 目的 は祖国 の情報 を オ ラ ンダで報道す るとともにイ ン ドネ シアの伝統芸能 を さま ざまな形 でオ ラ ンダ人 に伝 え る ことにあ った。 当時 のオ ランダの状況 は二つ の点 で彼 を 深 く失望 させ る ものであ りそ の状 況を打開す るために この よ うな 目的が掲 げ られ た のであ る。 第一 はオ ラ ンダ国会 におけ る植民地 問題 の扱われ方 であ った。 そ こではあれ これ の問題 が真剣 に慎重 に討議 され る ことは まれ であ り,通常 は議 長が案件 を棒読 み し ≠賛成〃 多数 に よる成立 を確認 す るために木槌 でテ-ブルをたた くとい う形 で終わ るのであ った。 だか ら植 民地 の問題 は もっぱ ら や木槌 の問題〃 として処理 された。 この よ うな事態 に抵抗す るため 「ビュー ロー」 はオ ラ ンダ下院議 員にイ ン ドネ シア人 白身 の立場 を主張 した記事 を オ ラ ンダ語 に御訳 して送付 したLlそ の結果 「民族参議会」 の構 成 の問題 や留学生 の処 遇問題 では, オ ラ ンダ進 歩派 (社会 民主労 働党) の議 員の国会 での活動 に強 い影 響 を与 え る ことが で きた。 第二 の問題 は もっ と根本的な問題 であ ってオ ラ ンダ人一 般 のイ ン ドネ シア観 の浅薄 さに関係 す るものであ る。 当時植民地 は一 方 で 「イ ン ドネ シアは コル クであ りオ ラ ンダはその上 に乗 っ て漂 うJlだ)といわれ 「東 イ ン ドが失われれ ばた ち まちオ ラ ンダに災禍 が もた らされ る」 といわ れ また 「東 イ ン ドはエ メラル ドの首飾 り」 といわれ てお り,その限 りで彼 らはイ ン ドネシアを 愛 していたがそれ は し ょせ ん植民地 イ ン ドネ シアのその豊能 な大地 と産 物を愛 してい る ことに

17)KiHadjarDewantara,"Tentang lndonesische Persbureau diDen Hang," Dart Kebangsaan NasionalSampaiPlokramasi,pp.97-104.

18)この一句はのちスカルノによってオランダの弱少さを強調するために用いらjlているo土星健治 「スカ ルノと-ッタの

論争 ]

『甫 アジア研 究 9巻 1号』1971年,p.78.

(10)

土星 :ジャ・7知識人の西欧認識をめぐる諸問題(1913年∼192三狗二) はか な らなか った。他方 で彼 らはイ ン ドネ シアの歴史 と文化 につ いてそ こには文 明 も文 化 もな く未 開 ・野蛮 だけが横行 してい る と考 えていた。彼 らの この よ うな認識 を変 え るため に 「ビュ ー ロー」 は さま ざまな展示 会や演芸会 をオ ラ ンダの諸都 市で開催 し,実 は イ ン ドネ シアが オ ラ ンダよ りもは るか に長 い歴 史 を持 ちそ の過程 です ぐれた独 白の文化を築 きあげて きた ことを示 そ うとした。 そ のため に また ス ワル デ ィ自身 ライデ ン, ユ トレ ヒ ト等各地 の大学 で講演 をお こ な った rビュー ローJ の活動 は

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6

年 以来 月刊誌 『ヒ ンデ ィア ・プ トラ』 を刊行す る ことに よって よ り広 範で活発 な もの とな った。 また

1

91

8

年 には ブデ ィ ・ウ トモ創立

1

0周年 の出版事業 を担 当 し 『ス ン′バ ンシ

E

J

]を上 梓 したo 「ビュー ロー

は また ノ ト ・ス ロ トが主宰 す る- - グの出版社 アデ ィ ・フス タカと提携 して ス ワルデ ィの筆 にな る民族主義 の先覚者 の伝記 を出版 した。 以上が ス ワル デ ィに よる

顧 の大要 であ る. この中で先ず注 目し うるのは, この 「ビュー ロ ー」 の名称 であ る。 「イ ン ドネ シア新 聞 ビュー p-」 が

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91

3

年 以来存在 していた とい うことを 示 す 資料 はほか に見 当た らない19)ので,これ はス ワル デ ィ自身 が 自 らの役割 に後年 にひ とつ の 名称 を与 え る際 にあ えて

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91

3

年 以来 と述べ また あえてそれ を イ ン ドネ シア と名付けた とい う可 能性 が強いO そ してそ こには先の ヨソ クマ ンの 自伝 にみ られ る 「イ ン ドネ シア学徒連合体」 を 意 識 した上 で これ を無視 し ことにイ ン ドネシア とい う名称 に由来す る く先 駆性〉 を 自 らの側 に ひ き寄 せ る とい う意図が うかが え る。 (事実, この

顧録 は 「学徒連合体」 につい ては まった く言及 しないのみか, この連合体が創立 され それ が 『ヒンデ ィア ・プ トラ』 の第二 シ リーズを 刊 行 した

1

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8

年 以降 の時 期 は, ブデ ィ ・ウ トモの 『ス ン/ミンシ』 刊 行 とノ ト ・ス ロ トとの出版 協 力 の活動 の時 期 として記 してい る。) 次 に興味深 い点 は, ス ワル デ ィが オ ランダ人 に対 す る啓蒙活動 に力を注 ぎ (この限 りで先 の ヨ ンクー、,ソの意 図 と一 致す る) そ の方 法 として祖 国 の文 化 の宣伝 に努 めた と述べ てい る ことで あ る。」ここでは倫理政策 の もつ啓 蒙主義 におけ る主客 の立場 が逆転 して啓 蒙 され る対 象 はオ ラ ンダ人 とオ ラ ンダ社 会その ものであ る。 そ して この蒙昧 な対 象 とは, ス ワル デ ィに よれ ば,一 方 で植民地 問題 を "zakelijkheid"とい う概念 に もっぱ らかかわ る事項20)としで 了解 し,他方 で植民地 の歴史 と文化- の関心 を 自 ら 封印す る

(

「パ ン ドラの箱」 として の植 民地) よ うな状 況 にあ るオ ラ ンダ社会 であ った。 ス ワル デ ィにおけ る 「政 治か ら文 化- の転身」 の背後 には こ の よ うな文脈 において理解 し うるよ うな彼 のオ ラ ンダ認識 があ った と考 え うるであ ろ う。 そ し て また この文脈 においては植民地 の人 間 (ジ ャワ人) であ るス ワル デ ィはオ ラ ンダ人 の誰 とも 19)わずかに次の umタマン ・シスワ正史』の内に,この rビューp-」が1918年にブデ ィ・ウ トモ創立10周 年のための

捕 吏事業を 担当したと述べているのがみ られるが, その

.

出典はおそらくこの 回顧録白身で あろうと思われる。 Team Studie Taman Siswa,Laporan StudieSejarah Pendidikan SwaSia

Tama/lSiSu,a,Yogyakarta,1974,pp.150-151.

20)この概念については土星健治 「『原住民委員会』をめ ぐる諸問題」pp・143-145・

(11)

東南 アジア研究 15巻 4号 (例えば ヨ ンクマ ン)比較 を絶 してす ぐれた啓 蒙者 の立場 に立つ のであ ってオ ラ ン′ダ人 (例え ば ヨンクマ ン) はたかだか 「優秀 な生徒」 として認識 され るのにす ぎな くな る。 さて 『ヒ ンデ ィア ・プ トラ』 が この よ うな事 情,なか んず くス ワル デ ィの この よ うな

信 と 情熱 に もとづいて刊 行 され た とすれ ば,そ こに載 せ られた ス ワル デ ィの諸論稿 はその意 図を見 事 に実現 していた とい え る。そ こでは文 化 の問題 に彼 の照 準が合わ され ていた ことはい うまで もな く, そ の中 で も彼 は 既 に述べ た よ うに 言 語の問題 について ことに 彼 の知見 を披 牡 してい る。 (4) 「民族 と言 語」 この問題 を彼が と りあげ る契機 とな った の

ほ1

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6

8

月未 にデ ン ・- - グで植民地 におけ る 初 等教 育 の改善 と充 実 を 目的 として 「第一回 植民地教 育会議」が開催 され るにあた ってス ワル デ ィが問題提起者 のひ と りとして 指 名 され た とい う ことであ った。21)彼 は 会議 の 第二 テーマ 「原住民学 校においてはいか な る言語が使用 され るべ きかJ の報告予定者 として 言語問題 に関 す る所感 を記す (諭稿

(

13)) とともに会議 のため の報告 書 〔諭稿(14)) を準備 したO (このrプ需品稿 (13)は資料 として巻 末 にそ の全訳 を付 してお くO) 言語 問題 についての彼 の論点 を要約すれ ば

,(

1

)

言語

と民族 はひ とつ であ り,あ る言 語を抹殺 す る ことは不 自然 であ り危険 な ことであ るo またそ う主張す る ことは顔 廃 であ る

.(

2

)

東 イ ン ド 全域 で共通 の 言語が 必要 とされ るな ら, それ に もっ とも ふ さわ しいのは オ ラ ンダ語 ではな く て,す でに実質的に共通語 とな りつつあ るマ レー語をおい て他 にないO(3)オ ラ ン

吾は当

面西

欧 の科学技 術 を獲得す る鍵 として必要 であ るが,それ は

西

欧 の科学技術 の成果 を翻 訳 し うる知 識人 を養成す るために必要 とされ るにす ぎない。第(1)の論点 をス フル デ ィはチプ トの ジ ャワ

廃止論 を批 判 しなが ら提起 してい る(資料 参照)。第

(

2

)

の点 については論稿個 で詳論 してい るが それ は東 イ ン ド諸地域 の原住民学校 でひ とつ の共通 な言 語が採用 され る ことは将来 この地域 を よ り強 固 に統合す るた めに有効 な手段 であ り, その際 にマ レー語が唯一 その資格を 備えた

言語

であ る ことを主張す る ものであ る。 第(3)はオ ラ ン

ダ語

の果 たすべ き役割 を限定す る とい うこと であ る。 この よ うに してス ワル デ ィは一方 で東 イ ンノド党 の政治的立場 を マ レー 語 (イ ン ドネシア語 ) を制動 榊 こ導入す る とい う方 向で主張す る ことに よ-'て r東 イ ン ド」 (イ ン ドネ シア) とい う †緋或の実体 的な一 体 化をめ ざし,他方 で ジ ャワの知識人 として文 化 (宣 こでの文化 とは ジ ャワ 文化 にはか な らない) が 言語 と切 り離 しえない ものであ る ことを言語 と民族 の二位一 休性 を主 張 しまた ジ ャワ語そ の ものの美 しさを唱道す る ことを とお して示 してい るのであ るO ところで ス ワル デ

1身が述べ てい るよ うに 「学校 でいか な る言語を用 うるべ きかJ とい う ill)この会議の速記録にみ られるスワルデ ィの描告は論稿(14)をかな り要約したものである。

(12)

土屋 :ジャワ知識人の西欧認識をめ ぐる諸問題 (1913年∼1922年) 具体的 な問題 は,言語 と民族 の問題 ことに また ジ ャワ語 とジ ャワ社会 の問題 とい うよ り抽 象的 な次元- の論議- とひ ろが ってい った。 そ してそ の場 合 にジ ャワ語をめ ぐるス ワル デ ィとチ プ トの見解 の相違 は,お よそ ジ ャワ社 会 とジ ャワ文 化 とをいか に捉 え るか とい う点 をめ ぐる当時 の ジ ャワの 知 識人 の二つ の 思想 の型 を 端 的に反映す る ものであ った。 さし当た り く欧化) と く土着) とい う概 念 で要約 し うる これ ら二つ の型 はそ の後 のイ ン ドネ シアの政 治思想史 を形成 してい く二つ の主調音 をなす ものであ る。 それが

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0

年 代後半か ら

1

9

2

0

年 代初頭 にかけ て どの よ うに成立 してい った のか を次 に検討 してみ よ う。

ジ ャワ知識人の ジ ャワ文化論 (1) チ プ トとス タ ッ トその論争 当時 ス ワル デ ィ以上 に ジ ャワ文 化 に固執 した のはオ ラ ンダに在 住 していた ノ ト ・ス ロ トとス ル ヨ ・プ トロであ ったが, 一 方 ジ ャワにいて 自ら 「ジ ャワナ シ ョナ リズ ムのための委員会」22)

(HetComi tdvoorhetJavaanschNationalisme) を組織 して くジ ャワ主義〉 を主張 した のは, 上述 の三者 と同 じ くバ ク ・ア ラム家 出身 でかつ てス ワル デ ィらとともに 「オ ラ ンダ解放記 念式 典 のための士 民委 員会」 の委 員 に名を連 ね 当時 はブデ ィ ・ウ トモの有 力な メ ンバ - として 「民 族参議 会」 で 活動 していた ス タ ッ トモ ・スル ヨクスモ (S。etatmoSoerjokoesoemo) であ っ たO ス タ ッ トモほ この委員会 の機 関誌 として 『ト再建

』(W

ederopbouw)とい うオ ラ ンダ語 の雑 誌を

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8

年 か ら

1

9

2

3

年 にかけ てバ タグ ィア郊外 の ウ ェル テ フレーデ ン (現在 の ジ ャテ ィヌガ ラ

区)

で刊行 してい る。 雑 誌 『再建r三日 こつ いては後述す るが, このス タ ッ トモ とチ プ トとの問 で

1

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8

年 に先 のス ワル デ ィとチ プ トの立場 の相違 を もっ と広範 に もっ と根底 的 に示 した論争 が お こなわれた。彼 らの主張 は スて ラ ンで 刊行 された 『ジ ャワナ シ ョナ リズ ムかそれ とも東 イ ン ドナ シ ョナ リズ ムか』 に収 め られ てい るO23) 先ず ス タ ッ トその唱 え るジ ャワナ シ ョナ リズ ム論 の骨子 は次 の通 りであ る。24) ジ ャワ民族

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0

万 人 に とって東 イ ン ドの国家 (natie)や ナ シ ョナ リズ ム とい う言葉 は耳新 し い言葉 であ り,それゆ えにあい まいな言葉 であ る(,ジ ャワ民族 とは ジ ャワ文 化 の上 に成立す る 民族 であ る。 それ がひ とつ の民族 として成立 してい るのは, ジ ャワ人 の一 人一人が意 識す る と しない とにかかわ らず 自分 自身 の言語 と文化 とを有 してい る こと,そ してそ の文化 のなかで誕 生 し自 らの果たす べ き義務 につい て教 え られ て きてい るか らであ るO ブデ ィ ・ウ トモの存在理 由は, この よ うな ジ ャワ民族 が "われわ れ は何 故何 のために ジ ャワ人 として生 まれた のかク と い う問いをあ らためて問 うこ とに よってそ の存 在意義 を表 明 し, またそ の ことに よって先ず も 22)この委 員会の詳細 については不 明であ る0

23) R.M.S.Soerjokoesoemo,AMuhlenfeld,TjiptoMangoenkoesoemo

,J

.

B

.

Wens,Javaanschof ZndischNationalisme?,Semarang,1918.

24)ibid.,pp.17.

(13)

東南 アジア研究 15巻4号 って ジ ャワ民族 白身 の一体性 を維持 しさ らにその発展をめ ざして協 力す るとい うところにあ っ た。 しか るに この よ うな努力はその文化 の成員に よってのみ行なわれ うるのであ って余人が こ れ に手を さしのべ る ことは まった く不可能な ことであ る。 それゆえ, ブデ ィ ・ウ トモは分裂主 義だ とい う非難 はまった くいわれ のない ことであ って,む しろブデ ィ ・ウ トモ こそひ とつの文 化を担 う人 々がその 自己存在 の確認を求め るべ く結束す ることに よって将来 のナ シ ョナ リズ ム の種子を植 え付け る とい う志 向性 を内包す るものであ った。一方,東 イ ン ド民族 の一体性 な ど とい うものは現在存在 していない。それ はせいぜいオ ラ ンダの支配か ら作 り出された ものにす ぎない。だか ら東 イ ン ドナ シ ョナ リズムを掲 げ る東 イ ン ド党 とイス ラム主義を標傍す るイス ラ ム同盟 はオ ラ ンダ支配に よって形成 された ものであ るo これ に対 して ブデ ィ ・ウ トモはジ ャワ 人が 自己表 明す る手段 として ジ ャワナ シ ョナ リズ ムを掲 げ るのであ る。今 日の文化闘争 の時代 にあ って, この よ うなブデ ィ ・ウ トモの立場- -われわれが ここに誕生 しここで育 って きた と い うことに よって決定 されてい る義務を実現 してい く立場一一 を理解す る ことは もっ とも重要 な課題 であ る。 ス タ ッ トモの この主張 に対 しチ プ トは次 の よ うに述べ る。25) スタ ッ トモに まった く欠如 してい るのは歴史 ことに世界史 の動 向に対す る理解であ る。先ず 現在 の世界 の大勢 をみれば ヨー ロッパが アジアよ り発展 してい ることは明 らかであ り,ゐれわ れが進歩す るためには ヨー ロッパの歴史を学 びそ こにまっれわれ の辿 るべ き道が示 され てい る こ とを理解す るべ きことは理 の当然 であ る。た しかに東 イ ン ドを構成 してい るのは多種多様な民 族 と文化 であ る。 しか し例 えばオ ランダの歴史を一瞥 しただけで もオ ランダが中世 の諸侯分立 の時代か ら現在 の統一 国家へ の道 を歩んで きた ことは容易に理解 で きる。種族 の差 についてみ て も, マ レー人 とジ ャワ人 の種族 的文化的差異 はオ ランダ人 とフ リース人の差 ほ どもないので あ る (フ リース ラン ドは北海沿岸 の一地方)。 異 な る民族が統一 国家を形成 してい るもっと良 い例は, オース トリア- - ンガ リー帝国,スイス,ベルギーの歴史 に明瞭 に示 され てい るo L たが って ジ ャワ民族 が東 イ ン ド民族へ と融解 してい くことを 目ざす のは当然 の ことであ り,そ の際 に もし必要 な らばジ ャワ民族 が 自らの民族的独 自性 を犠牲 にす る こともまた余儀 ない こと なのであ る。 ジ ャワ族 はい まや 自らの国家を有 してお らず,東 イ ン ド国家,正確 にいえば東 イ ン ド植民地 のその-構成部分 にす ぎない。われわれ に とって祖国 とは この東 イ ン ドの ことには かな らず ,東 イ ン ドの国家形成 に向けて努力す る ことがわれわれ の任務なのであ る。

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年 当時す でにチ プ トは, 「ジ ャワ語 とジ ャワのア ダ ッ トは中世 の奴隷的状況 の産物であ り,だか らジ ャワ語 は奴隷 の言語 であ る」 と述べ てい るが(資料参照), この よ うな厳 しい 自己 認識 とここにみ られ るよ うな東 イ ン ド統一 国家にかけ る情熱 とはまった く同 じ軌道上 にあ る。 これ に対 して述べた よ うにス ワル デ ィは, ジ ャワ語 はジ ャワ文化が滅 びない限 り決 して滅び る 25)ibid.,pp.15-34,61164.

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土屋 :ジャワ知識人の西欧認識をめ く.,る諸問題 (1913年∼1922年) ものではな くそれゆえジ ャワ語の滅 亡を推進す る ことは額廃的であ ると論 じてチプ トの主張を 断固 として斥けた。 以上 にみ て きた よ うな ス ワル デ ィとチ プ ト, また ス タ ッ トモ と チ プ トの 見解 の相違 はその後 の民族主義運動 の過程 でみ られ る二つ の思想 の型 の原型 をなす ことに よっ て,ひ とつ の重要 な思想史的課題 を提示 してい るとい え よ う。 ここでは次にス タ ッ トモに焦点 を 合わせて彼 の主宰 した 『再建』誌を検 討 し

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年 代後半か ら

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年代前半 にみ られ るこの 特異 な くジ ャワ主義) の内容 を考察す る ことにす る。

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スタ ッ トモ と 『再建』誌 ス タ ッ トモは ジャワナ シ ョナ リズム とい う言葉 で述べ てい るその内容を 『再建』 の中で具体的 に展開 してい る。 この雑誌 は 「ジ ャワナ シ ョナ リズムのための委員会 の出版」 と記 され てい る ほか に 「ジ ャワ青年運動お よび ジ ャワ人の精神生活 にかかわ る月刊誌」とい う副題が付せ られ, その編集委員 にはス タ ッ トモの他に ラ ッフマ ン (Abd.Rachman)お よび スマデ ィプ ラジ ャ (R.

H.

Soemadipradja)の二名,さらに (後には)在 オ ランダの編集委員 として ノ ト ス ロ ト お よびスル ヨ ・プ トロの名が記 され てい る。 また各号 の表紙 には 「美 は力を統べ,力は美 に宿

り,知恵 は正義 を もた らす」 ("Schoonheid,dieM achtbeheerscht.Macht,die Schoonheid bezit. W ijsheid,dierechtvaardigt.=) が記 され てい る。

この雑誌 の 目的を端的に示す のは 『再建』 とい う名称であ る。 く再建) とは,かつて存在 し ていた ジ ャワの理想的な社会組織,社会倫理,民族 的衿持-- それ は く秩序 ・安寧 ・繁栄 ・福 祉)"Tata-Tentrem-Karta-Rahardja" とい う社会状態 と く主 -従) "Kawulo-Gusti"の関 係を二位一体 とす る人間関係 の成立 してい る状況 として観念 され てい る26)- を,外国人 の支 配に よってそれ らが喪失 されたい ま,再 び回復 し復興 しよ うとす る意味 であ る。そ して ジ ャワ の理想的な状態 はモジ ョバイ ト, マ タラム等 の統一 国家 の時代 には確かに存在 していた に もか かわ らず,そのマ クラム王 国 の末蘭 であ るジ ョクジ ャカル タ,ス ラカル タを は じめ とす る四焼 固はオ ラ ンダ植民地支配の体系に組み込 まれ て しまい,その結果 自らそれ を く再建す る)活力 を失 ってい るとい う認識が, この く再建〉 とい う言葉 には合意 され てい る。 く再建〉 を行ない うるのは ジャワの青年,それ もジャワ人社会 の倫理規範 と精神生活 について真剣 に思いめ ぐら してい る青年 であ り,具体的 にはブデ ィ ・ウ トモに参加 してい るジ ャワ青年 (多 くは下級貴族 の子 弟) であ る。 この雑誌 に うかがえ るこの よ うな性格 を, ジ ャワの政治思想史 にて らして考え る とき,それ は二つ の特質を示 していた とい うことが で きる. 節- は, ブデ ィ ・ウ トモ- そ の組織 とい う よ りもそ こに成立 していた人間関係お よびその関係を成立せ しめかつその内容を規定 していた 26)これに関する議論は次に詳しい。BenedictO'G.Anderson,"TheIdeaofPowerinJavaneseCulture,''

ClaireHolt(ed.)CultureandPoliticsinIndonesia,Ithaca,1972,pp.1-69.

Soemarsaid Moertono,Siate and Statecraftin Old Java,A Study of theLaterMaiaram Period,16thto19thCentury,Ithaca,1968.

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東南 アジア研究 15巻4号 あ る精神 的風土- が,た んに ジ ャワのみ でな くひろ くイ ン ドネ シア民族主義 に方 向づげを与 え またそれ に思想的根拠 を与 え よ うとす る活 動 において発揮 した ジ ャワ文化 の潜 在 力であ る。 第二 は,それ を遂行す るさいに顕著 に示 され た歴 史 と文 化 (ここには ジ ャワとジ ャワ以外 の蘭 領東 イ ン ドと西欧 のすべ てが含 まれ る。) の 「よみか え能 力」 であ る。 この 「よみか え」 は先 ず もって ジ ャワ文 化 のイデオ ロギ ー化 としてお こなわれ る。 そ こでは, これ らすべ ての歴史 と 文 化 は, ス タ ッ トモ らが 」′解す るジ ャワ文化 の文脈 において読みか え られ そ の文脈 の内部 に位 置 づけ られ る。 それ の基底 にあ るのは ジ ャワ文 化を イデオ ロギ ー として再定置 しよ うとす る情 熱 とこの情熱 を支 えてい る強力な 自信 であ る。 ス タ ッ トモ らの この よ うな思想 的営為 は

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年 代 前半 にスカル ノの 「指導 され た民主主義」 において理念的 に完成 され る現代 イ ン ドネ シアの政治的正統性 の根拠 に直結 してい る と言 うこ とさえで きる。 この点 についての詳論 は別 の機会 に譲 るが, 『再建』 にみ られ るス タ ッ トその 思想 を要 約 していえば, それ は 第一 にす でに 述べた よ うに ジ ャワ 社会 の 特 質 を ``Kawul o-Gusti"の 一体性 とい う点 に求 め, また, この 一体性 を 成立 させ る 最大 の要件 を く智恵) (彼 はそれ を オ ラ ンダ語の くwijsheid)とい う言葉 で表現 してい る。27)) として捉 えてい る こと であ り,第 二に民主主義 につ いて く智恵) を ともなわ ない民主主義 は カタス トロフ ィを もた ら す ("Demokratie zonderwijsheid iseenramp vooronsallen.")と認識 してい る ことであ る。28)ス タ ッ トモの意図は ジ ャワ文化 の核心 を "Kawulo-Gusti"として抽 出 し, この観念 の 文脈 のなか にい まや時代精神 としてあ らわれ た民主主義 (demokratie)を定置 させ よ うとす る ところにあ った。 そ して この よ うな認識 は タマ ン ・シス ワの組織原理 のなか にそ の まま継 承 さ れ てい くことにな った。 以上 ス ワル デ ィとス タ ッ トモの両名 につい て彼 らの文 化活動 の内容 をみ て きたが,それ では 何故彼 らが文化 の問題 に この よ うな情熱を燃 や した のか ,そ こに うかが え る使命感 と自信 とは 何 に もとづいていた のかを,最 後 に検討 してみたい。 (3) ジ ャワ知識人 の西欧認識 『再建』 は タマ ン ・シス ワが設 立 された翌年

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年 ) に廃刊 され てい る。 タマ ン ・シス ワ の設立 の背景 には

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年末 にスル ヨム ンクラムを長 として

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名 の ジ ャワ人 に よって設立 され た ス ラサ ・ク リオ ンとい うジ ャワの精神修養 の団体があ り,29)そ こに参加 した者 の多 くはス ワル

27)これはジャワ語で Witjaksanaないしwitjaksuh,イン ドネシア語でbidjaksanaに該当するものとし て考え うるものである。後年スワルデ ィ自身スタットモのこの wijsheidを kebidjaksanaanと訳して

いる。(K.H.Dewantara,DemokrasidanLeiderschap,1959.)

28)AbdoelRachman,‖DemocratieenW ijsheid,HWederopbouw,No.10,ll,12,1920,pp.192-199.

また 『再建』に掲載されているスタットモの著作広菖 (Sabdo-Pandito-Ratoe)にはこの 章句がその まま用いられている。

29)この団体に関する最新の論及は次にみ られる。KiPronowidigdo,"LahirnyaTamanSiswa,"pendト dikandanPembangunan50TahunTamanSiswa,Yogyakarta,1976,pp.305-308.

(16)

上尾 :ジャワ知識人の西欧認識 をめ ぐる諸問題 (1913年∼1922年) デ ィ, ス タ ッ トモ, スル ヨ ・プ トロを含め て設立 以降 の タマ ン ・シス ワの指導者 とな ってい っ た。 ス ラサ ・ク リオ ンが具体 的 にいかな る団体 であ った のか は明 らか でないが,以上 にみ て き た 『ヒンデ ィア ・プ トラ』 におけ るス ワル デ ィと 『再建』 におけ るス タ ッ トモ,それ に両者 を つ な ぐノ ト ・ス ロ トお よび スル ヨ ・プ トロ (彼 らの内 ノ ト ・ス ロ トのみ はス ラサ ・ク リオ ンに 参加 していないが, これ ら

名 はいずれ もバ ク ・ア ラム家 出身 であ る)の線上 に, キ ・ア ダン ・スル ヨム ンタラムKiAgoeng Soerjomentaram とい う, ジ ョクジ ャカル タ王 家 の王 子 とし て生 まれ なが ら爵位を 受け る ことを 拒 否 して 野 に下 り農民 としてその 生涯 を終 えた特 異 な人 物30L--それ は神 の化身 に して道 化者 として この世 に現われ る ワヤ ン劇 中のセてルを思わせ る ---をつ な ぎ合わせ る と,そ こにス ラサ ・ク 1)オ ンの輪 郭ひいては タマ ン ・シス ワ設立 の骨格 が浮 き出 され て くる。 『ヒンデ ィア ・プ トラ

と 『再建』 か らス ラサ ・ク リオ ンない しタマ ン ・シス ワ- と帰 着 し てい くこれ らジ ャワ知識 青年 の動 きの背 後には,彼 らが西欧 と植民地 の双方 において意味 を見 拍 していた あ る共通 の時代精 神があ り彼 らはそれ に接触 しまたそれ を獲得す る ことを契機 とし て

自信

を もって ジ ャワ文 化 の唱道 ない し再生 に挺 身す る ことにな るのであ る。 それ は西欧 の近 代 的人間像 に対す る懐疑 ・批 判 として西欧 において唱遺 された諸 々の思想的潮流 であ った。 ス ワル デ ィ日身 についていえば彼が見た オ ラ ンダ社 会 は基 本r伽 こは植民地経営 の近代 化を 支えて い る合理主義 的 な精神す なわ ち zakelijkheidのその大 いな る 土 壌 であ るよ うな 西欧近代 の相 貌 であ った。 しか し同時 に彼 はその近代社会- の批 判が西欧 で生 み 出 されつつ あ る ことを7解 していた。 そ の中で彼の関心 を と くに惹 いた のは,西欧的 な近代 人間観 に対 して東洋哲学 と東 洋的人間観 と くにイ ン ド哲学 を対置 させ そ こに近代 におけ る人間 の救済 を求 め よ うとす る ドイ ツを

心 とす る へ東洋回帰〃 の思想 であ った。 なか で ももっ とも強 い影響を及 ぼ した のは, ス ワル デ ィが オ ラ ンダに到着 した

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年 に ノーベル賞 を受賞 した タゴ-ル の思想, ことに彼 の主 宰 す るアス ラマ (寄宿塾) に結実 してい るタゴ-ル の教 育観 であ った. タ ゴ-ル逝去

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月) に際 して スワル デ ィは タマ ン .シス ワの機関 誌 『プサ ラ』 に追 悼 の辞を載せ タ ゴ-ルが

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年 以来 ス ワルデ ィとタマ ン ・シス ワにいか に深 い影響 を与 えて き たか につい て余 す ところな く語 ってい るO (この追悼文 は資料 として巻末 にその全訳 を付す 。ー) そ こでは タゴールの出現 が 西欧 に新鮮 な衝撃 を与 えた こと,そ してそれ以上 にス ワル デ ィ白身 に感銘を もた らした ことが述べ られ てい るが,そ の感銘 は ジ ャワ人 こそ頁 の タゴール理 解者 と な りうる とい う自負 と

信を導 き出 してい った ことが うかが え る。 ジ ャワの知識人 のなか で タ ゴールに最初 に注 目しその思想 の紹介 につ とめた のは ノ ト ・ス ロ トであ った。 ノ ト ・ス ロ トの

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)

スルヨムソタラムの生涯とその事跡については,MarcelBDnneff,KiAgengSurjomentaram,Prince

etPhilosopheJavanais(1892-1962),Mimeo.Paris,1977,Grangsang Surjomentaram,"Riwayat SingkatKiAgengSurjc・mentaram,=BeritaBuana,24July,1975・

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東南 アジア研究 15巻4号

タ ゴール紹介 は 『再 建』 に も載 せ られ てい るが,彼 はそ こで西欧を知 る以 前の ジ ャワでの少年 時 代 の甘美 な思 い出を タゴール の思想 に触れ る ことに よって追体験 してい る。彼 らはいずれ も

タゴール の教育思想 の内に ジ ャワの ≠理想型ク そ の ものを見 出 していた のであ る。

一 方 また ス ワル デ ィはオ ランダにおいて, タゴール と共鳴 した の と同 じ視 座 でモ ンテ ッソ リ に共 感 し,また1913年 に人智学 (Antroposophy)協会 を設 立 したル ドル フ ・シ ュタイナ ーに共 感 を示 した とい う。31)これ らは彼 と彼 自身 の文化 (ジ ャワ文 化)をあ らため て同一化 させ またそれ を く再建)す るため の情熱 を彼 に与 えた とい うことが で きよ う。 先 の 「イ ン ドネ シア新 聞 ビュ ー ロー」 におけ る彼 の活動 は何 よ りもこの よ うな 自負 と自信 に支 え られ ていた のに相違 ない。 この よ うにみ る と,彼 が1916年 に創 刊 した オ ランダ語の雑誌 にあえて 『ヒンデ ィア ・プ トラ』

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『イ ン ドの息子 』) とい う一見奇妙 なマ レー語名 を冠 した のほ, あ るいは この

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ndi

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に東 イ ン ド (イ ン ドネ シア) のみ な らず イ ン ドそ の ものの意味 を も合意 させ よ うとしていたか らか も しれ ない。 はば同様 の事情が ジ ャワ在住 の ジ ャワ人 ことにブデ ィ ・ウ トモに参加 した中部 ジ ャワの貴族 の内,バ ク ・ア ラム家ゆか りの青年 たち の問 に も見 出 され る。彼 らに見 出 され るのは,倫理政 策 以降, ジ ャワの知識人 にあたか も影 の よ うに よ り添 ってい る神智学 (Theosophy)の影響 で あ る。諸宗教 におけ る神秘主義 的側面 を重視 し神 がお のれ の内に宿 りお のれ 自身 を真 に知 る こ とが神 を知 る ことであ る と唱え る ことに よって諸宗教 の統 合 と人類 の兄弟愛 をめ ざす神智学 は 1875年 に神智学 協会が設立 され て以降世界 の各地 にその影響力を拡大 してい ったが,そ こで も くイ ン ドの神秘) と くイ ン ドの智恵〉 がその核心 をな していた。32)例 えばバ ガ ヴ ァ ッ ド・ギー タが聖典化 され , ラーマ ク リシ ュナ (1834-1886) の思想 とヨーガが注 目された。 オ ランダに 神智学 協会 が設立 され た のは1897年 であ りそ の 会 員 は 植民地 で もひ ろが ってい った とい う。 この間 の事情 は余 り明 らか ではないが, この協会 が東 の く神秘主義) に共感す る ことに よって く酉 と東 の調和〉 を求 め る限 りにおいて,彼 らはイ ン ドネ シアの知識人 の良 き理解 者 であ る と 同時 に彼 らの 目的 は両 民族 の精神 的一体化 を唱 う倫理政 策 の 目r桝 こも適 っていたO 先 の 『再建

の美 と力 と 正義 に関す る 標 語そ の ものが 実 は この 神智学 を唱 え る ≠智恵 の伝 統 ''(や力 に支 え られ 美 の内に表 明 された智恵 は真 実 の同胞 愛 において支配す る。'yj33)か ら導 き 出 され てい る ことを うかがわせ, 『再建』 をおお う神智学 の 影 はた いへ ん 濃 い ものに思われ 31)スワルデ ィはル ドルフ ・シュタイナー (RudolfSteiner,186ト1925)及び人智学から何らかの影響を受 けていたという示唆を筆者に与えたのはニ トレヒト大学のクラーク教授である。しかしその関係がいか なるものであったかについては不明である。 ただしシュタイナーの 著作のオランダ語訳の広喜が先の 『ジャワナショナ リズムかそれとも東インドナショナ リズムか』の出版社 (スてラソ)の出版物として 掲載されていることか ら,シュタイナーの著作が1918 年当時ジャワで読まれていたと考えられる。ヨ-ネス ・-ムレ-ベン署 『ル ドルプ ・シュタイナー』(川合

増鳥

朕 定方昭夫訳)工作舎,1977年を参照0 31')

A.

Besant,HThe〇sophicalSociety,"Ensyclopaediaof Religionand Ethics,New York,195tq,

pp.300T304. 33)ibid.,pp.SOL-302.

参照

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