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大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 利用統計を見る

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(1)

大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場

著者

白川部 達夫

著者別名

Shirakawabe Tatsuo

雑誌名

東洋大学文学部紀要. 史学科篇 = Bulletin of

Toyo University, Department of History, the

Faculty of Literature

38

ページ

43-94

発行年

2012

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006701/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

大坂干鰯屋仲間は同地へ入荷する干鰯・〆粕、緋粕などの魚肥を取り引きして、小売商や在村に販売する問屋仲買商人 の仲間である。その経営の実態については、従来知られていなかった。ここで紹介する近江屋長兵衛家は、寛政年間頃に 干鰯屋仲間に加入した問屋仲買商であった。当時、大坂干鰯屋仲間は主として問屋を中心とした問屋組︵古組︶と仲買を 中心とした本組とにわかれていたが、近江屋は問屋組に属し、海部堀川町に居住していた。近江屋長兵衛は、文政期には 問屋組の年番を勤め、仲間商人のなかでも有力なものであった。近江屋の家系と問屋組の年番時代の市の取り引きについ ︵1︶ ては、別稿で検討したところである。ここでは近江屋長兵衛家の干鰯問屋仲買としての活動を中心に史料紹介を兼ねて検 ︵2︶ 討を行いたい。 大坂干鯛屋仲間は、当初問屋と仲買の区別もなく取り引きした。このため問屋と仲買は完全には分離しなかった。干鰯

大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場

はじめに

一近江屋長兵衛と大坂干鰯屋

大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場

白川部達夫

(3)

︵3︶ この覚は、兵庫屋清三郎が取︵〆粕︶一○二俵を近江屋に販売して、その代金を受け取った時のものである。兵庫屋は ︵4︶ 問屋組の問屋仲買である。ここでは兵庫屋と近江屋は相対で取り引きしているので、年番などはかかわっていない。とこ 言ひ︶ ろで同じ日付で兵庫屋が近江屋に宛てた金四四両二分の受取覚が残っている。 た相対売買が行われた。市売については、すでにふれたので、ここでは相対売買から紹介したい。 は鞍の島といわれた地区の市場で市売された。しかしすべてが市売されるのではなく、問屋・仲買同士でも買合と称され これには﹁六十五匁弐分かへ﹂と金銀の為替相場が記載されている。計算するとこの〆粕代金にほぼ相当するので、兵 一、弐員九百六十一云 右之通慥二受取申候、 亥十二月廿日 一、金四拾四両弐分也 右之通慥二受取候、以上 亥十二月廿日 弐員九百六十三匁壱分 近江屋長兵衛殿 近江屋長兵衛殿 党 覚 六十五匁弐分かへ とり百弐俵也 兵庫屋 兵庫屋

情三郎印

渭三郎画

四四

(4)

庫屋は実際は金貨で支払いを受けたと考えられる。 近江屋は市売や相対取引で問屋仲買から仕入れを行っていたが、魚肥の確保のために仕入れ銀の投下も行っている。つ ︵6︶ ぎの史料は松前緋〆粕の前払いの請取である。 神崎屋孫兵衛殿 ここでは伊丹屋平兵衛が近江屋と神崎屋孫兵衛から松前緋〆粕五○○石の内金三二八両余を受け取り、九月までに大坂 に届ける約束をしている。伊丹屋平兵衛は大坂の商人で蝦夷地と交易を行っていた。天保二年︵一八三二、その持ち船 が高田屋嘉兵衛に雇われて荷物を運んでいる時、外国船と遭遇し、この処理をめぐって高田屋が密貿易の嫌疑を受け、天 ︵7︶ 保四年︵一八三三︶持船没収の処分を受ける事件が発生した。 右之通、当地着一 日売附一札如件、 一、松前緋〆粕 大坂着拾員目二付拾弐匁七分 文政七申四月

伊丹屋平兵衛④

近江屋長兵衛殿

又五貫目

運賃之払

内金三百弐拾八両弐朱請取

、当地着二て荷物売附書面之金子慥請取申候処実正也、然ル上は当九月限り無相違、右荷物相渡可申候、為後 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 代弐拾五貫四百目 覚 五百石目 但シ弐万貫目 四五

(5)

︵8︶ ︿9︸ 近江屋は松前最寄組に属し、その開発人の一人であった。神崎屋孫兵衛は、文政三年︵一八二○︶の﹁調印帳﹂では、 近江屋と同じ問屋組に属していた。近江屋長兵衛・神崎屋孫兵衛と同じ問屋組の神崎屋仁兵衛は、この前年文政六年︵一 八二三︶正月に商売を相互に実意で取り扱うことを約束して、各自銀五○○匁を出して、これを三人の内一人が預り運用 ︵Ⅷ︶ することを約束したきわめて近い間柄であった。近江屋長兵衛と神崎屋仁兵衛は、文政三年︵一八二○︶に商売上の不行 ︵Ⅲ︶ 届きで、問屋組から取り引きを閉め出されて、詫びている。この扱い人には神崎屋孫兵衛も含まれており、この点でも三 者は密接な関係があったことが想像される。近江屋は松前問屋ではなく、松前物の仲買であったが、大坂の仲買は仕入れ 銀を投下して直接、魚肥の集荷にあたることもあったのである。 ほかの問屋仲買も仕入れ銀の投下を行っていたようで、つぎの史料は松屋安右衛門がその貸附銀証文を近江屋へ譲り渡 ︽皿︶ したものである。 近江屋長兵衛殿 松屋はこの年経営に行き詰まり、近江屋に屋敷などを売り渡し、借家として経営を立て直そうとしていた。そこで松前 証文譲り一札之事 一、金弐拾両貸附証文一通 右松前城下阿部屋金蔵え我等方より貸附置申候所実正也、然ル所其元二て借用之銀子調達出来不申候二付、相対之上、 右証文其元殿へ譲り渡申候間、金蔵罷登り次第、其元殿より元利御取立可被下候、其時一言之申分無之候、自然金蔵 不調法二相成候ハ、、我等方より相弁、元利共急度返済可仕候、為後証証文譲り一札、依て如件、

文政三年松屋安右衛門④

辰極月 四六

(6)

これは、同証文を吹田屋安次郎に預けたもので、回収を依頼したか、何かの担保として利用したものであろう。担保な どとして利用されたならば、債権が流通したことになる。 市売や買合︵相対取引︶以外に近江屋は西国の藩から専売品としての干鯛の取り扱いを委託されることがあった。延岡 藩や佐伯藩などがあげられる。この点は別に論じることにして、ここではふれない。 近江屋の魚肥販売については、帳簿が欠けていて、その具体的様相がほとんどわからない。わずかに帳面の一枚だけ売 部屋村から出て松前で商人となったものが屋号としたもので、金蔵は松前と大坂の間を北前船で行き来して、松屋と取り の阿部屋金蔵に貸し付けた金二○両の証文を譲ることで、支払いに宛てたものである。安部屋︵あぶや︶は能登羽咋郡安 ︵B︶ 引きがあったのであろう。金蔵が支払えなければ、松屋が責任をもつとしている。この同じ時に、松屋は近江屋にたいし ︵脚︶ て、銀二六貫匁の預り銀証文を差し出している。預り銀証文とは差し引きが滞った場合、改めて証文化して預かったこと にするもので、実質は借金証文である。おそらく換金化の可能性のある債権を引き渡した上で、預り銀証文を作成したの ︵喝︶ であろう。この証文は、文政五年︵一八二三になっても回収できなかったようで、つぎのような覚が残っている。 右之証文慥二預り申候、以上、 文政五年午閨正月十八日 一、金弐拾両 但し阿部屋金蔵殿分 近江屋長兵衛殿 大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場 覚 証文壱通 吹田屋 安次郎 四七

(7)

︷妬︶ 日記の断簡が残っている。これを示すとつぎのようである。 文政十丁亥四月 此〆弐百七拾六匁五分 内八匁七分五り 〆弐百六十七匁七分五り 内壱匁七分 又壱匁壱分四り 〆弐百六十五匁三分四り 又壱匁八分 〆弐百六拾七匁壱分四り 神崎屋利助は文政三年︵一 令 〆九分つ蚤 ︿一 売日記 三十匁五分 三十一匁 五 五 ︵一八二○︶ ︵灯︶ の﹁調印帳﹂に近江屋と同じ問屋組の問屋仲買としてあらわれるものである。取り 神崎屋 利助 中仕賃 半同分引 直引 三五引 四八

(8)

引きは干鯛屋仲間の仲間内での相対取引と考えられる。網印から品物は干鯛であろう。﹁五﹂というのが俵数で、その一 俵当たりの単価が銀三○匁五分であった。干鯛は俵の取り引きで、貫目は表示しないことが一般であった。二種類の干鰯 の価格を合計すると銀三○七匁五分となる。最初の〆銀二七六匁五分は、前者の合計数値の八分九厘九毛にあたる。した がって﹁〆九分つことは、干鰯俵数に単価を乗じた数値銀三○七匁五分に○・九を乗じた数値が銀二七六・五匁となる という趣旨と考えられるが、実際計算してみると銀二七六・七五匁となり、○・二五匁少ない数値が記載されている。理 由については不明である。俵価格にたいして一○パーセントに近い引きを付けるのはどのような意味かわからない。四月 なので販売時期を逸したというわけではない。不良な俵であったか、何らかの理由で引きが行われたのであろうか。銀二 七六・五匁から、三五引、直引、半同分引が引かれ、荷物の揚げおろし経費として仲仕賃を加算して代金が定められた。 以上の売日記の断簡以外に直接干鰯取り引きに関する史料はないが、別に﹁魚粕国々直段極言﹂という覚書が残ってい ︵喝︶ るので、紹介しておくことにする。 魚粕国々直段極害 代銀四拾五匁七分壱り三弐 十分一役銀四匁五分七り 運賃百石目金弐拾七両

三俵半拾

壱石目四拾員目立 金壱両二付 大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場 壱石二付 拾五貫目入 四九

(9)

題名内容から判断して、奉行所や藩に魚肥取り引きの掛かりや利益を説明した史料と考えられる。別に同筆で魚粕一万 引残弐拾七匁四分四り 右之通二御座候、以上 此代百弐匁六分 差引三拾五匁三り六八 当所売立 拾七匁弐分八り 三口〆六拾七匁五分六り三弐 残 内 石 拾 て 弐 目 貫 三 貫 目 拾 目 四 二 八 拾 付 員 船 員 目 方 目 弐 弐口〆七匁五分九り 内 四匁五分弐り五四 ロハ元買入銀借入之利足九朱 又三匁四り八毛 売支配口銭 船方用捨引 ︵匁︶ 弐拾七口替 過上徳 五○

(10)

︵四︶ 石についての勘定覚があるが、虫損が大きく数値の読めない部分があるので、こちらを紹介することにした。両者とも実 際の売買の記録ではないが、問屋仲買が想定する取り引き内容を示すものとして参考になる。時期は明記がないが、魚肥 価格から見て、天保中期以降は価格の高騰から本史料との差が大きく妥当しないと考えられる。それより以前の文政・天 ︵別︶ 保初年ぐらいの時期が一つ想定されるであろう。 ここではまず金一両で魚粕三俵半、一俵一五貫目の重量として四○頁目を購入したと仮定している。金一両に何俵とい う価格表示は関東で一般的に行われているものなので、関東物を購入したという想定であろうか。この場合、直接資金を 投下して買い付けた自分荷物としての計算で、荷受問屋として委託販売の利益計算ではない。そこでこの魚粕の重量四○ 貫目T容量一石の換算規準が一般に行われていた︶を銀貨にすると銀四五匁七分一厘︵厘以下は計算違いがあるがこの ままとした︶となる。ここでは金一両Ⅱ銀六○匁の公定相場が使われている。これに十分一役銀、船賃が掛かり、一石︵四 ○貢目︶の価格と合計すると銀六七匁五分六厘余となった。重量一○貫目あたり銀一六匁八分九厘ということになる。 この魚粕の売立価格が重量一○貫目で銀二七匁となっていた。経費を含んだ購入額にたいして一・六倍程度の価格差が 想定されている。そこでまず船方用捨が重量で二貫目あらかじめ引かれ、残った重さ三八貫目に価格を乗じると、銀一○ 二匁六分の売立額となる。売立額から経費を含んだ購入額を引くと銀三五匁三分六厘が粗利益である。さらにここから魚 粕を購入する時の資金の借用利子九朱分と、売支配口銭を合わせた銀七匁五分九厘を差し引くと、銀二七匁四分四厘の利 益が出る計算になっている。労賃などは計上されていないから、もう少し利益は小さくなるはずであるが、経費を含んだ 購入額の四○・六パーセントというかなり有利な利益計算を見込んでいる。文化末から嘉永初年までの阿波国板野郡中喜 来村の大藍師三木家の魚肥販売の場合、利益率は十数パーセントが普通で、二○パーセントを超えることは五年ほどしか ︵幻︶ なかった。この点からもこの史料は、利益を過大に見ているのではないかと思われる面もあるが、当時の魚肥取り引きの 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 五 一

(11)

近江屋長兵衛殿 ︵裏書︶ ﹁表書之通り慥受取申上候、以上、

極月廿一日いな永④﹂

これは北新場の干鰯小売商秋田屋が稲葉屋栄蔵へ五○両の手形を組んだので、手形と引替に現金を渡すように近江屋長 ︵別︸ 兵衛へ申し入れたものである。稲葉屋栄蔵は、二代目近江屋長兵衛の子供で、稲葉屋の名跡を継いでいた。稲葉屋が販売 した干鰯の代金を秋田屋が支払うにあたって為替を組んだのであるが、当然、秋田屋も近江屋に口座をもっていて、そこ からの引き落としを申し入れたと考えられる。 近江屋は両替商も営んでいた。中川すがのによれば天保一四年︵一八四三︶の﹁大坂両替商手形便覧﹂にだけ、居町か ︵躯︶ ら少し離れた京町堀二丁目所在の本両替商として名前があらわれるといわれる。両替活動の史料として、つぎのようなも ︵鰯︶ のがある。 一端を示してはいよう。 一金五拾両也 右之通、稲葉屋 取組申為替手形之事 通、稲葉屋栄蔵殿え為替取組申候条、承知此手形引替御渡し可被下候、為後日手形依て如件、 ︵印文、北新場干鰯店・秋田︶ 天保十二丑年十二月六日

秋田富之丞④

大坂海部堀 五 一 一

(12)

A岸和田問屋と近江屋 いつぽう干鰯仕入れについては、岸和田の肥料商をめぐる文化二年二八一四︶の訴訟記録が残されている。 和泉国日根野郡尾崎村の干鰯問屋松屋善四郎が岸和田の横山屋宇兵衛と近江屋長兵衛などを訴えた訴訟である。これで は同年三月一○日に横山屋字兵衛が松屋方に関東干鰯の買い付けにきて、干鰯一六六俵を代銀一貫八六九匁六分四厘とい う約束で内金をとって売り、品物を横山屋の指示にしたがって、大坂海部堀川町の近江屋長兵衛方へ積み登せた。その後、 一三日に横山屋は再び買い付けにきて、干鯛二一三俵を銀二員二三○匁二分九厘として、岸和田の岡田与兵衛方へ送った。 そこで二五日に松屋が代銀の受け取りに岸和田に出向いたところ、横山屋は紀州に出張中として面会できなくなったとい う。調べてみると、大坂へ送った干鰯は近江屋長兵衛方にそのままあり、岸和田に送ったものは岡田与兵衛と奥田善兵衛 の蔵にあるとわかった。この干鰯は江戸よりの送り荷物で、送り状と手板は横山屋に渡してしまったので、不払いとなれ ︵あ︶ ば松屋が責任を負うことになるので、速やかに返済してほしいと願っている。尾崎村は浦村で南海・四国の船懸りの地と して知られており、干鯛の漁場でもあった。尾崎村の干鰯問屋松屋の所には、江戸の問屋が売買を委託する干鰯送り荷物 が送られてきて、それを目当てに岸和田や大坂から買い付けが入っていたことがわかる。 この事件に並行して岸和田北町の干鰯商松屋佐二兵衛からも訴訟が起こされていた。松屋佐二兵衛の主張によれば、横 山屋宇兵衛と近江屋のものがきて、火急に干鰯がほしいが横山屋には現在、関東干鰯の入津がないので手持ちを売ってく れるように申し出があった。横山屋と近江屋は取り引きがあったが、松屋とは初めての取り引きであった。関東干鰯二三

二近江屋長兵衛と大坂湾岸都市

大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 五

(13)

五俵を荷物の着次第代銀を支払う約束で、大坂の近江屋の許に送り届けた。そこで代銀は横山屋へ渡してくれるように指 ︷郡︶ 示したが、結局支払いが滞り訴訟となったのである。 これについて近江屋の返答害が残っている。尾崎村松屋の訴訟にたいしては、干鯛の注文があったので、横山屋へ三月 九日頃人を派遣して、横山屋から買附端書をとって干鰯一六六俵を銀一貫八八八文七分三厘で受け取り、大坂の京町堀神 崎屋嘉兵衛へ銀一貫九三五匁七分五厘で売って代銀を支払った。したがって横山屋に代銀請求をすべきで、近江屋はかか ︵”︶ わりがないというものであった。なお買い代銀と売り代金の差額は、買い代金の二・四八九パーセントで、二分五厘程度 になるので、口銭部分にあたるのではないかと考えられる。そうだとすると近江屋は問屋として販売を委託されただけと いうことになり、松屋に支払う責任はないということになる。岸和田北町の松屋佐二兵衛の訴訟にたいしては、返答書に よれば数年来取り引きがあった横山屋が関東干鯛が入船したといって近江屋を誘い、近江屋は手代を派遣して見本を確認 した上で受け取ることになり、大坂へ送りつけた。岸和田の松屋は近江屋はよく知っていて、販売した干鰯荷物を松屋に ︵肥︶ 揚げたりしたことがあったという.これも近江屋は代銀は横山屋へ支払ったので、本来関係がないとしている。 大坂干鰯問屋の近江屋は岸和田の横山屋と密接な関係を保ち、岸和田や尾崎に入船した関東干鯛荷物を入手していたこ とがわかる。近江屋の属した問屋組は西国・北国の干鰯が中心で、関東干鰯は本組の方が江戸問屋との結びつきが強かつ ︵羽︶ たとされる。問屋組の近江屋としては、大坂湾岸の諸港に関東干鰯の入手先を確保しておく必要があったのであろう。近 ︵洲︶ 江屋と横山屋との取り引きを示す覚がつぎの史料である。 覚 酉十二月五日 一、五員九百三拾八匁弐分弐り 青守粕百四十七俵買物代かり 五四

(14)

文化二年︵一八一四︶は戌年なので、おそらく横山屋の支払い滞り事件を受けて、近江屋と横山屋の間でも、代銀の 清算が行われたのであろう。前年一二月の青森粕一四七俵と鱒粕七○本分が横山屋が近江屋を通じて購入した借り方で、 関東干鰯五三一俵が横山屋が近江屋へ販売した分になっている。差し引き銀二員四四三匁余が横山屋の借り方となり、こ ︷訓一 の内、半分を用捨され、残りは証文で渡して清算した。この証文は、つぎのようであった。 弐員四百四十三匁九分弐り かり 内壱員弐百廿匁九分六り 預御用捨也 残銀壱員弐百弐拾匁九分六り 証文二て相渡し 右之通二て是迄売買物代無出入相済申候、以上、 戌五月廿五日 横山屋 一、三貢五百目也 〆九員四百三十八匁弐分弐り 内六員九百九十一匁三分 差引残り 半分を用捨され、残りは 預り申銀子之事 近江屋長兵衛殿 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 預り荷物分 鱒粕七十本代銀二引直しかり 関東干か五百三十一俵 三手板売代銀かし

宇兵衛④

五五

(15)

ここでは、月に一%の利足で預かったことにして毎年六月に返済することになっている。利付きなので、預り銀証文と いっても、借金証文に近いものである。 和泉方面では、ほかにも文政六年︵一八二三︶二月に下条大津浦の石津屋治郎左衛門が近江屋長兵衛へ宛てて、銀一 ︿兜︶ 一貫匁の預り銀証文を出している。これは一○年賦で毎年銀一貫一○○匁ずつ無利子で返済し、滞った場合、一兀銀高に月 一パーセントの利子を加えて返済する契約となっている。当初は無利子の年賦契約なので、銀二・貫匁はこの時借りたと いうのではなく、取り引き過程で蓄積された負債であろう。この以前に、近江屋は石津屋と大きな干鰯取り引きを行って いたことが想像できる。また嘉永一兀年︵一八四八︶には、貝塚の四軒問屋の一人であった大岡屋彦十郎へ銀三員三○○匁 ︵鋤︶ を預り銀とし、月一パーセントの利子で返済することとした。これは、利貸しの証文であり、商売上の金融であったと考 えられる。大岡屋は貝塚に入港する米穀・魚肥を荷受けして仲買に販売する問屋であったので、この取り引きにかかわる ︵斜︶ ものであったのであろう。 B尼崎干鰯屋と近江屋 いっぽう近江屋は西摂津の尼崎町の商人とも深い関係があった。ことに干鰯屋で両替商を営んだ梶屋兵左衛門とは、親 件、 |、銀壱賞弐百廿匁九分六厘 右之銀子慥二預り申処実正也、然ル上は、来六月晦日切月壱歩之利足相加へ、元利共急度返済可仕候、為後日佃て如 文化十一年 戌五月 近江屋長兵衛殿 泉州岸和田

横山屋卯兵衛④

五六

(16)

長兵衛殿 ここでは近江屋が取り引きを承知して、通帳を出して差し引きすることとなった。尼崎は大坂と兵庫の間にあり、干鰯 屋は双方から仕入れるとともに、大坂の干鯛屋に干鰯を売ることもあった。それらの決済に、近江屋の両替商売と協力す ることは、有利であったのであろう。文政九年︵一八二六︶は、問屋組︵古組︶と本組とが対立を開始した年で、両組は ︵訂︶ 文政二年︵一八二八︶に和解するまで取り引きを断っていた。問屋を主たる業務とした問屋組は、仲買を主たる業務と した本組のものが買いに来ないため荷物を売り捌くことができず、新規に仲買を取り立て処理をはかった。文政二年︵一 が開かれた場所で、周辺に西摂の木綿作地帯が開けていた。当時は当主は兵左衛門であったが、代々は久右衛門を称する 密な取引関係を結んでいた。梶屋は尼崎中在家町の年寄で、古くから干鯛屋を営んでいた。尼崎は畿内で最初に干鯛市場 ︵犯︸ ことが多かった。梶屋は近江屋とも干鯛仕入れで取引があり、文政九年︵一八二六︶に両替商を開業した。その時、近江 ︵洲︶ 屋長兵衛との取り引きを申し出た一札が残っている。 一、此度金銀取引之儀御頼可申処、御承知被下、依之取引通帳壱冊井二、証文取引通帳壱冊私方へ御渡し被下、慥二 受取申候、然ル上は、出入度毎二御記し可被下候、尤利足之儀は、其時之振り合ヲ以御勝手二御附出し可被下候、 ︵ママ︶ 猶又於此取引如何様之儀有之候共、少しも御損銀相懸申間鋪候、申又右通帳紛失致候義も有之候ハ、、貴店御帳面 ヲ以御勘定可被下候、其節叩故障申間鋪候、為後証一札、冊て如件、 文政九年戌五月 梶屋

兵左衛門④

近江屋 大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場 一札之事 五七

(17)

八二八︶に両者が和解すると、この時取り立てた仲買を仲間から退かせることにしたが、そのなかに梶屋をはじめ尼崎の ︵犯︶ 干鰯屋の多くが所属していた。文政九年︵一八二六︶に梶屋が両替商を開業した背景には、尼崎と大坂鞍の問屋組との取 引決済業務を担うことも含まれていたのであろう。いつぽう梶屋が両替商を開くと、文政一○年︵一八二七︶には武庫郡 上瓦林村の割元岡本家も口座をもち、振手形で決済を行うようになっており、地域の農村部でも手形決済が広がってい ここでは梶屋は近江屋市兵衛にたいして、銀二員五○○匁を支払うように指示している。近江屋市兵衛は、近江屋長兵 ︵弧︶ 衛の分家で干鯛屋で梶屋と干鰯取り引きがあった。梶屋は近江屋長兵衛店に口座をもっていて、干鰯代銀を支払ったので ︵塊︶ ある。つぎの史料は両替商としての行為である。 た。 ︵鋤︶ ︵㈹︶ つぎの史料は梶屋が手形で支払った例である。

覚近市殿へ

右は中印分之内御渡し可被下候、以上、 |、銀弐員九拾匁五分、ふり手形二て 此ものへ為持遣し可申上候間、書面二申上候通、此銀子割印二致有之候二付、歩引座へ御預り置可被成下候、乍御 面倒此ものへ、右受取害被遣し可被下候、重て右通持参可仕候間、其節御記し可被成候、以上、 丑四月舟日 近江屋長兵衛殿 覚 銀弐員五百匁也 口上

梶兵左衛門印

五八

(18)

この書状では、預けた証文のうち銀七○○匁の証文の引き渡しを申し入れるとともに、泉清より緋の価格をいってきた ので、書状を持参したものを遣わした事情を説明して、心添えを依頼している。泉渭は文政九年︵一八二六︶の問屋組・ ︵判︶ 本組の対立の時に、本組の結束のために作成された﹁組合申合印形帳﹂に見える和泉屋清兵衛であろう。梶屋の記録では ︵幅︶ 天保五年∼同七年︵一八三四∼三六︶、天保一○年︵一八三九︶と取り引きしていたことがわかる。 近江屋は、梶屋以外にも尼崎を中心に西摂津に取り引きを広げていた。尼崎中在家町の干鰯屋安台屋とも親密な取り引 長兵衛様 ここでは銀二員九○匁五分の手形を近江屋へ送り、歩引座に付けておいて、後に通帳へ記載して処理することが述べら ︵網︶ れている。最終的に通帳上で突き合わせて清算されるのであろう。つぎの書状は、干鰯取り引きにもかかわっている。 ︵ウハ封︶

﹁近江屋長兵衛様梶兵左衛門

貴下﹂

以手紙申上候、何も御安栄二可被成由二付、奉欣喜候、然は御預ヶ申上候証文口之内七百目鮒州順菫肌右連印銀子相〆 申候二付、此ものへ証文御渡し可成下置奉御頼候、籾又昨日泉清殿より緋之義値段申参候二付、今日此もの引合考々 差遣し可申二付、何卒御内々此ものへ御添心被成下候様、呉々御願申上候、貴家様二て篤と直段之処御内談可申上候 様申付置候事二御座候、先は早々取込乱筆御免可成下候、以上、 十二月五日 未六月十五日 近江屋 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 梶兵左衛門 五九

(19)

き関係があったようで、安台屋美佐の身代限りにあたって立ち会いとして、債務の処理にあたっている。証文の包みの上 ︷妬︶ 書きには﹁尼崎安台屋美佐殿身体限り之節請取証文籠兵庫中伊近長立会﹂とある“中伊︵中村屋伊兵衛︶は、梶屋の 金銀出入帳によれば、天保五年︵一八三四︶から嘉永元年︵一八四八︶まで魚肥の取り引きを継続していた兵庫の肥料商 ︵塀︶ である。兵庫の中村屋や大坂の近江屋は、安台屋と取り引きがあり、その身代限りの時に、債権整理の立ち会い人になっ ︵蛤︶ たのであろう。近江屋が安台屋に貸し付けた預り銀証文はつぎのようである。 弘化三年︵一八四六︶一二月に安台屋太郎兵衛は銀一○貢五○○匁の預り証文を近江屋市蔵宛に出している。市蔵は、 近江屋長兵衛の分家市兵衛の子供で、天保年中に市兵衛が死んだ時に、幼少のために本家に預けられたもので、安政二年 ︵一八五五︶に市兵衛家を再興している。安政元年︵一八五四︶に元服したというから、その八年前にあたる弘化三年︵一 ︷鋤︶ 八四六︶には、まだ契約の名目的当事者にすぎなかったであろう。この預り銀証文は市蔵の父市兵衛の安台屋との取り引 きの清算のために作成されたものと考えられる。安台屋は翌弘化四年︵一八四七︶には、美佐に代替わりし、貸し付け銀 の回収に努めたものの、身代限りとなったようである。近江屋に残された証文を示すと表1のようである。 右之銀子慥二受取預り申処実正也、然ル上は、月八朱之利足ヲ加へ何時成共、其元殿御入用次第元利共無滞急度返済 可仕候、為後日之預り証文価て如件、 可 仕 弘 候 近 化 、 江 三 為 屋 午 後 市 十 年 日 蔵 二 之 殿 月 預 預り申銀子之事 一、銀拾員五百目也 安台屋

太郎兵衛④

六○

(20)

﹁証文籠﹂に包まれていた預り証文は九通である。証文を見ると、武庫郡上瓦林・小曽根・道意新田の貸し付けに関す る預り銀証文であり、ことに上瓦林・小曽根村が中心であった。太郎兵衛代には、冒頭の上瓦林村兵右衛門への貸し付け 以外は概して少額で、利子は月利一パーセント、年利一二パーセントで、支払い期日が約束されていた。なお兵右衛門は 弘化四年二八四七︶にもあらわれている。美佐の代になると弘化四年︵一八四七︶一二月に上瓦林村でまとめて証文が 作成されている。ここでは金額は多くなるが、利子は月五朱から月八朱で、年利六パーセントから九・六パーセント程度 或副屏〆荊計郵弓・咄計鐡玉屏悼画斡茸・函斜剣掛咄︵囲飼計掛雲片服堂蕊翠噸︶洲尭c執﹁針田餉珊需﹂升声諏計姦玉再。割料珊掛屠︽ 執﹁針田鹸酬荒﹂労s代J計。膨帥雪田汁裂卿副再國誠針部所副玉渕掛咄︵団勗計倒筐篦翠謝沿謹溌謝噸︶〃訓勢、楠﹁訓琶捕叫詠些爵﹂行 貯が︽︶ 庄濯恥筒買剛応洞副粥掛朏。吠琳叩。 二 一 吟 や 由 一 付 や H や 且 捕詐 大坂干鰯屋近江屋長兵術と地域市場 剛一罰勗珊叶剛S罰二畿留料 坐ハー

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(21)

に低下し、支払い期日は入用次第となっている。証文銀の総額は、太郎兵衛代が一貫九六五匁余、美佐代が三貫九四○匁、 合計五員九○五匁余であった。安台屋太郎兵衛から近江屋市蔵へ宛てられた預り銀証文の銀高は一○貫五○○匁であった から、これに対応するものではなく、近江屋長兵衛との取り引きにかかわるものであったと考えられる.また村方史料か ら上瓦林村と道意新田の百姓の持高をわかる限り入れたが、中堅以下の百姓と取り引きしていたことがわかる。なお安台 ︵帥︶ 屋は文化・文政期には上瓦林村の大庄屋岡本家とも取り引きがあった。 近江屋が尼崎周辺農村に干鯛を販売した直接の記録は現在残っていないが、その痕跡を示すものとして、印鑑の覚が残 ︵別︶ っている。その一例を示すとつぎのようである。

印鑑④武庫村善右衛門

印鑑④同村市郎左衛門

印鑑④同村清八

印鑑④同村久右衛門

印鑑④同村吉右衛門

印鑑④同村喜兵衛

右之通、銘々実印相違無御座候、以上、 これは尼崎の北西部にある武庫郡武庫村の百姓の印鑑覚である。取り引きのための印鑑の確認に渡されたもので、ほかに ︵犯︶ まとまったものとして武庫郡守部村のものがある。おそらく干鰯取り引きにかかわって印鑑が確認されたのであろう。 ︵粥︶ 尼崎では近江屋は町屋を質にとっており、その代銀滞りの訴訟を起こしてもいる。 家質銀出入 一ハーー

(22)

右被取調候所、対談仕度旨申出候二付、願人え御利解被下候、尚口応下済早々可致やう、可申付候、已上、 九月十日 中在家町

役人画

︵力︶ 生瀬屋善四郎事名前違 当時長太郎二御座候 尼崎中在家町生瀬屋善四郎にたいし、近江屋は銀三貫匁を家質として貸し付けており、その返済を迫って、大坂の海部 堀川町年寄を通じて、中在家町役人に申し入れた。中在家町役人は善四郎と協議して、返済の意志があるので済ますよう に申付けたことを返事している。これについては別に一札があるが、こちらでは家質利銀一二六匁の滞りが問題となって ︵別︶ いる。この利銀が滞ったため、元銀三貫匁の返還をもとめたことがわかる。年利とすれば七・二パーセント、月六朱にな る。生瀬屋善四郎家は、今は長太郎が当主であると、中在家町役人の説明がある。近江屋は善四郎代に家質をとり、少な 右ハ、町内近江屋長兵衛より早々出訴仕度旨申出候二付、及御引合候本人御調之上、下済御取計被下度候、若掛ヶ金 不行届候ハ、、無拠出訴為致可申候間、否哉奥書御調印可被成下候、以上、 未八月 大坂海部堀川町

尼崎中在家町年寄④

不行届候ハ、、無拠出 未八月 尼崎中在家町 本町御役人中 三貫目 大坂干鯛屋近江屋長兵術と地域市場 相手其御町内 生瀬屋善四郎 井五人組 一ハーニ

(23)

くとも数年経過して、代替わりを把握していなかったようである。生瀬屋の名前は、文化一○年︵一八二三の尼崎の干 一弱︶ 鰯屋仲間の一札にも見られないので、干鰯屋ではなかったと考えられる。ほかに年不詳未八月には、尼崎別所町の小山屋 ︵師︶ 音松にたいする銀四○○匁と滞り利子一九匁二分の家質出入の出訴の引き合いが残されている。 全加︶ うである。 C庄本問屋株一件 近江屋は干鯛販売にともなって、地域流通にもかかわることになった。西摂津の猪名川と神崎川合流点の豐島郡庄本村 には船問屋があり、猪名川・神崎川の水運を担っていた。近江屋はその問屋株をもっていた。その譲渡の一札はつぎのよ 約定申一札之事 一、此度我々所持之家屋鋪井当地表高瀬荷問屋株右仕来通り、貴殿方え相讓り申約定仕候処実証明白二御座候、然ル 処夫々帳切致譲渡し可申之処、最早余日も無御座候二付、来ル子年二至り候ハ、、早々帳面切替譲渡可申候、則為 其問屋株札井書物等御渡し置申候、然ル上は決て違変等申候儀毛頭無御座候、冊約定書如件、

文政十亥年庄本村

十二月一兀三郎④

家屋敷譲り主 同村 株譲り主

伊右衛門③

六 │ リ リ

(24)

株を譲ったのは庄本村元三郎であるが、これに付随して、同村の伊右衛門も家屋敷を譲っている。株の所持者元三郎は、 伊右衛門から家屋敷を借りて、船問屋を営んでいたようで、今回は、問屋株だけでなく、家屋敷も一緒に譲られたのであ る。また譲り主のほかに、請負証人として尼崎の炭屋幸兵衛、同治兵衛が讓りを確認している。両人は元三郎から船問屋 の経営を請け負っていたものであったと考えられる。なお後の一札では、この株は猪名川上下船着問屋という名称で呼ば ︵犯︶ れ、佐々木屋清吉という名義であったとされる。売買代銀は、この証文には記述ないが、文政一三年︵一八三○︶の一札 には、代銀七五貫匁で購入して、そのうち五分六厘が近江屋長兵術持ち、三分三厘が上原孫七・田中亀太郎、一分が梶屋 ︵卵︶ 兵左衛門持ちであったとしている。この代銀がなにを対象としたかは明記がないが、おそらく株と屋敷を含むすべての代 銀だったのであろう。この購入には、尼崎の炭屋幸兵衛が仲介に動いたようで、売買に先だって骨折料銀二頁五○○匁が、 ︵帥︶ 近江長兵衛・梶屋兵左衛門から支払われている。 庄本問屋については、文政六年︵一八二三︶に問屋辰三郎が伊丹舟番所から銀一○貫匁を拝借した証文が残っている。 右之通相違無之候、以上、 近江屋長兵衛殿 大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場 右同断 同所 請負証人 尼崎

炭屋治兵衛④

炭屋幸兵衛同聯取︶ 六五

(25)

方の関係について天保八年︵ 差入申一札之事 辰三郎は当時、幼少であり代判人が立っている。証文が引き継がれているので、文政一三年︵一八三○︶一札にいう三田 ︵例︸ 屋兀三郎と文政六年︵一八二三︶の辰三郎は同じ三田屋であろう。これによると問屋と土蔵四カ所を引当にしている。 庄本村船問屋は、近江屋などが直接経営したのではなく、請負人に任せていた。最初は炭屋が任されたと考えられるが、 文政一三年︵一八三○︶には大坂の堂島浜一丁目辰屋吉蔵が支配料銀三員七○○匁を先納する条件で一年間請け負いたい ︵館︶ と申し出た。また翌年二月の一札では、二年間の契約で請け負いたいとしている。支配料は銀七員四○○匁で、前年の 二年分である。このうち銀五貫匁は先渡しで、残りは翌年一○月の渡しとなっている。これにより﹁問屋用店壱ヶ所井二 ︵“︶ 梁行四間桁行七間之土蔵弐ヶ所、川辺納屋四ヶ所﹂を借りて船問屋を営業することになっている。史料は、差出者、宛所 がないので、請負人が前年請け負った辰屋吉蔵だったかはわからない。庄本船問屋は、店と蔵、納屋など相当な設備をも ち、年間に三頁七○○匁の請負銀を出しても利益のあがるものと考えられており、猪名川通船の盛んだった様子がうかが える。請負銀は購入代銀の四・九パーセントにあたり、おおよそ二○年で元銀が回収できる計算であった。庄本問屋と村 ︵例︶ 方の関係について天保八年︵一八三七︶にはつぎの一札が出ている。 |、庄本村問屋清吉為呼内米年々銀三百匁シ、村方え取納メ来候処、去ル午年より申年迄、三ヶ年相滞此銀九百匁、 右ハ伊丹久兵衛殿より可相納筈之処、彼是申示今納不申、依之村方譲り渡シ帳切出来不申、右二付、先年 大嶋様え差出置候御用金廿両但し五朱利足付証文之通、我等方え引請右呼内米一件は我より急度相済可申候、然上 は已来呼内米一条二付、外方より如何様之儀申出候共、我等引請其元殿ヘハ叩も御迷惑相掛ヶ申間敷候、為後日引 請一札、依て如件 天保八酉年 佐々木屋清吉 一ハーハ

(26)

A売り掛け出入と預り銀証文 近江屋長兵衛家文書には、干鰯の売買帳面が一冊も残されていない。このため経営の具体的様相を数量的に把握するこ とはできない。しかし農民との間で取り交わされた預り銀証文が大量に残っており、これによりその広がりをうかがうこ とができる。近江屋は、鞍市場での問屋仲買の取り引きとともに、地方の肥料小売商や農民に肥料を販売した。帳面がな いのでその取り引き内容はわからないが、小売商は月末払いであったが、農民はおそらく前貸し形態をとったであろう. 大坂干鰯屋仲間が直接、農民へ魚肥を販売した事例は、本組の辻屋源兵衛が摂津国武庫郡上瓦林村岡本家と取り引きした 佐々木屋清吉は庄本問屋の名義で幸兵衛は、炭屋幸兵衛のことであろう。庄本問屋の佐々木清吉は村方の助成として毎 年銀三○○匁ずつ納めてきたが、三年間未納となった。事情は不明であるがこの銀は本来、伊丹久兵衛が納めなければな らないものであるが、納めなかった。そこで領主の旗本大島氏に出した五朱利付きの御用金二○両の証文を引き取り、助 成は炭屋幸兵衛が引き受けることにしたとしている。請負人はいるが、炭屋幸兵衛が天保八年︿一八三七︶になっても、 問屋の実際の運営を行っていたのかもしれない。だからこそ助成米のやり繰りについても、引き受けることができたとい える。請負人と実際の河岸運営にあたるものは別人であったと見られる。したがって近江屋長兵衛は実際の流通に関与し たのではなく、資金を提供する形で、これにかかわっていたといえる。

三近江屋長兵衛と地域市場l預り銀証文を中心に

四月七日 近江屋仁兵衛殿 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場

代幸兵衛④

六 七

(27)

史料が残されている。これでは見本を見せて注文をもらい、西宮の回漕業者を通じて、魚肥を送っている。安永九年︵一 七八○︶から始まり、文化二年︵一八一四︶から天保元年︵一八三○︶まで本格的な取り引きが続いた。この間、岡本 家は年末ないし年初に肥料代を支払い、不足分を次年度に引き継いだ。銀一貫匁程度を引き継いだこともあるが、あまり ︿閃︶ 累積しないうちに数年で清算している。近江屋長兵衛の場合も、ほぼ同様な形態だったのであろう。しかし代銀を引き継 いでいるうちに、累積して返済に支障が生じることもあった。これにたいして近江屋では町役人を通じて、回収を促すこ ︵㈹︶ とになった。つぎの史料は訴訟を起こすことを告げて、滞り代銀の支払いをもとめたものである。 上神田村御役人中様 御頼趣、承知致為其奥印仕 寅九月 一、銀百六十八匁八分八り 丁内 近江屋長兵衛より ︵ママ︶ 其御村方三左衛門殿度々催促仕候得共、埒明不申出訴仕段度申出候間、及御引合候、無相違候ハ、、下済御取計可被 成候、若不行届候ハ、、出訴被為致可申候否哉、奥書御調印可被下候、以上、 寅九月 海部堀川町

年寄④

海部堀川町 承知致為其奥印仕候、 干か売掛出入 以上、 神田村

年寄又五郎④

一一Ⅱ全 ノ、 八

(28)

近江屋長兵衛殿 これは翌年十月になって、町奉行所の裏印が出されて、裁判に持ち込まれたことを示す。寅九月の文書に対応したもの か記載がないのでわからないが、村名・年寄名が一致しているので、おそらく、しばらく交渉が続いた後、出訴が実行さ れたのであろう。出訴が行われれば、大坂町奉行所では、訴状に裏印をして、相手を召喚して取調をする。訴人はこの裏 印のある訴状を、相手に示して期日に出頭することを促し、相手側はこの拝見証文を書いて渡す。近世の訴訟手続きの一 ︵粥︶ 般的あり方であった。もう少し詳しく書いたものを見ると、つぎのようである。 近江屋長兵衛から海部堀川町の年寄に願い出て、年寄から、相手の居村である上神田村役人へ、これ以上返済が滞れば 出訴すると引き合いを行っている。神田村は摂津国豐島郡にもあるが、上神田村とあるので河内国茨田郡神田村が該当す る。上神田村年寄又五郎は、引き合いがあったことを了解したと奥印して、海部堀川町役人へ同書を返している。しかし ︵師︶ 又五郎の説得も成功しなかったと思われ、つぎの史料が残っている。 ︿裏︶ 一、御番所様より御浦印壱通 右之通慥二請取預り申候、以上 文政弐年卯十月 大坂海部堀川町 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 覚 覚 御役人様 神田村

年寄又五郎④

■ △ ノ、 九

(29)

御丁内 但、右伝兵衛儀ハ当時伝次郎と改名致し候、以上、 ここでは、干鰯売り掛け出入であることが明記され、差日も記載されている。奉行所での処理については、直接記録が ︵的︶ ないが、一般的には金公事は期日を限り、金額を指定して支払いが命じられた。金額は分割で切金と称している。 出訴の引き合いから、取調のなかで、両者が歩み寄れば、残金を預けた形式で証文として、後日支払わせるということ ︵刈︶ になり、預り銀証文が作成されたと考えられる。預り銀証文の比較的古い例を示すとつぎのようである。 一、合銀百三拾五匁也 右之銀子慥二預り申所、実正也、然上は銀子返済之儀、其元殿之以御用捨、申年より戌年迄壱年二銀四拾五匁シ、三 ヶ年二返済可仕候、万一壱ヶ年分二ても相滞り候ハ、、高百三十五匁二て御取立可被成候、為後日之証文価て如件、

寛政十一年郡山村

未十二月

久左衛門④

一、其御丁内近江屋長兵衛より当村伝兵衛相手取干鰯売掛り代銀出入当月十八日町御奉行様へ被願上、依之裏御印附 訴状壱通慥二受取申候、以上、 亥正月廿四日 河州中野村

庄屋正二郎④

未十二月 近江屋長兵衛殿 大坂海部堀川町 預り申銀子之事 七○

(30)

これは摂津国島下郡郡山村の久左衛門が出した預り銀証文であるが、近江屋が﹁用捨﹂して、銀一三五匁を三年賦で返 済することにしているもし返済が滞る場合は、全額一時に返済しても異議はないとしている。利子の記載はなく、無利 子であることが預り銀の特徴であった。預り金は裁判上は本公事に入り、利子の付く貸し金は金公事として区別されてい ︵刀︶ た。本公事は金公事より重視されて、それだけ保護が厚かった。同年の河内国高安郡万願寺村などの預り銀証文でも、条 ︵泥︶ 件は同じなので、この頃はこうした証文が一般だったのであろう。なお近江屋が用捨した内容が、銀高そのものを削減し た上で三年賦としたことをいうのか、三年賦にしたことが用捨の内容かは明確ではない。前述した岸和田の横山屋宇兵衛 の場合は、債務を削減した上で、預り銀証文としているので、債務削減があった可能性はある。また金公事では切金で催 促が行われ、本公事はこれがなく、利子が付かない預金は本公事扱いとして保護された。その内容は、もし返済が滞れば、 本公事として全額回収できるという点であった。 寛政期の預り銀証文には利子が付かなかったのであるが、文化期に入ると年賦銀が滞った場合には、月一分︵年利一二 ︵湖︶ %︶の利子を付けて全額返済する条件にかわってくる。一例を示すとつぎのようである。 預り申銀子之事 右は年々ほしか代残、此度相対之上、左之通当酉年より来ル午十一月迄拾ヶ年賦相定毎年十一月晦日切銀六拾匁シ、 無相違、急度相渡可申候、自然壱ヶ年二ても相滞り候ハ、、元銀二月壱歩之利足御加へ御取立可被成候、其時一言之 申分無御座、為後日依テ如件、 文政八年酉二月 河州茨田郡土居村

平右衛門④

|、銀六百目也 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 七 一

(31)

近江屋長兵衛殿 この場合、干鰯代銀の明記がある。この預り証文では、銀六○○匁を毎年二月晦日限りに銀六○匁ずつ、一○年賦で 返済することにして、もし返済が滞れば、元銀に月一分、年利一二%で取り立てることを約束している。こうした場合、 年賦で銀子が返済されているうちは、預り銀として本公事扱いであろうが、順調に支払いが行われているので訴訟にはな らず、本公事扱いが発生する理由がない。しかし滞った時には利子が付くことになり、そうした場合、扱いは金公事にな るのであろうか。奉行所がどのように判断したか興味深い問題である。いずれにせよ近江屋の証文では、在村の場合、文 化期以降幕末までこの形式の証文が一般的であった。また借金証文は数点しかなく、ほとんどが預り銀証文であるのも特 徴である。 声えス弓 いつぼう大坂の町方を対象とした預り銀証文も多数あるが、干鰯問屋仲買のもので、この場合は、年賦契約はなく利子 がついていた。したがって町方では預り銀証文といっても、借金証文とさほど変わりない機能のものが行われていたとい ︵別︶ 最後に、まれには債務の免除が行われることもあった。つぎの史料はそれを示すものである。 ︵ママ︶ 右之銀子外連印ヲ以我等借用仕在候処、実正二御座候、然ル処、此度難渋二付、家名相続相成堅二付、御頼上候処、 ︵里︿︶ 格別之御用捨ヲ以、私出情之時節迄御待被下、難有奉存候、往々家名相続出来候節は、前書之銀子無意儀、急度返済 一、銀九百三拾目也 内三百五拾目 残り五百八拾目也 一札之事 当時相渡 七 一 一

(32)

B預り銀証文の分析 預り銀証文は、近江屋長兵衛宛だけに限定すると一九七通あり、その年代と地域分布は表2のようであった。また図1, 2に大坂周辺と阿波の預り銀証文や売り掛け金出入であらわれる村むらを示した。 表2の証文では、天明七年︵一七八七︶がもっとも古いが、この時期はまだ近江屋は干鯛屋を営んではいなかったと考

︵花︶︵刀︶

えられる。その後、寛政六年︵一七九四︶の摂津国西成郡南大道村の百姓が出した預り銀証文があるが、この頃からは干 鰯商売のものであろう。証文の対象とした地域では、町方が七一通、在方が一二六通であった。在方では河内が半分程度 の六七通で、摂津・阿波が各二五通であった。不明は村名の場所が二カ国に存在するなどの理由で確定できないものであ る。また証文の郡名にも誤解と思われるものが二通あったが訂正して数えた。 全体の年次的動向としては、一八二年から一八四○年代、文化後半から天保前半期が合計一二四通と半分以上を占め し支えた。このため近江屋は残り銀五八○匁を用捨することにしたので、善七が家業を立て直した時には返済すると一札 春日出新田の善七は、銀九三○匁を借用して、銀三五○匁まで返済したのであるが、返済が困難となり家の相続にも差 幸心︶ を入れている。いわゆる出世証文である。 可仕候、為後日之一札冊て如件、 安政四巳年三月 近江屋長兵衛 大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場 摂州西成郡 春日出新田

善七③

(33)

軒︾篭識峨再〃副鮒剖S餅S強獣・計強〆冨針雨沼汁珊窟﹂心︵ラ桃識〃ご臼捕︶尋角肖曄米童・盆鰄I郷S州S尋々S幾章読汽孝緬や画で汁・墨跡芭捕 再蝉両強オュバウがS劇.田三嬰脚汁﹁綱汁諜謝盗汽苛1か蝶国許儲倭其s霜童酬﹂︵1︶二剤幕汁椛減雑嬰商燗﹂忠紬沿椛華訓践叩〃gg領︶s望 鮒四s副晶孟雛両院J計。僻叶捕剴呈碑補方強鋪制敏叫舜ごSd″I櫛汽緋﹄副Ⅱ篭邑憧味圃通F汁。 ている。近江屋の繁栄期だったとされる時期にほぼ相当する。 地域別に見ると、河内では茨田郡が最大で二四通あり、このうち葛原村五通・馬江村五通と集中している村があった。 これにつぐのが河内郡一八通で、福万寺村六通、吉原村五通などが目立っている。また若江郡が一五通で、八尾村が五通 ︵八尾、八尾木戸、八尾庄之内︶と集中している。ほかは高安郡三通、西成郡二通、讃良、渋川、丹北、八上郡、郡名不 −6 吋の 四つ 甲] 四画 四四 中︽ 函、 エ︽ 舗尭 ︾・ ﹄のつ︵ ﹄つ 四つ 四つ 一つ 四つ @つ ﹃つ 剛胸罰二閨掛S潮刺莞詫 七四

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函﹄・︾四mm ﹄い@や①①⑭ ﹄つ画望画﹃画 い︽で一四③ 岸①︾④③、 ﹄つ︺いつ四 、四﹃①、 、、③ ﹃の 。1 画、 ﹄の。ふい 今 ー [ 。 ← “ 【 . ー ‐ ー 画望﹄ぬ、 ﹄つつ ﹄﹄︾、めい ﹄やいい、 、骨① 、③ ‐ 骨﹄印 い︺つつつ 季嫁一懲訓︵直︶ 競穂 四、↑ の﹃ 四四o﹃骨 四 、 い﹃ へ] ﹄﹄ < C ー ー ' 函でつつつ ﹄吟﹃つつ 今や︽つ司 画四画﹃四 畳や四mい ﹃︾一mm ↑。 ‐ 函やつ④﹄ 写鋒一篭副︵尚︶ 菖国 to、つ [。 。 1つつ t ・ 、つ ‐ 零鮮一懲訓︵樹︶ 汁苫 四四画いい 図、 、、︾、﹃函 [ 。 [ 。 ﹄﹄ 〈 ◎ ー ﹄︾い①、 いいや﹃①、 ﹄の一四四m 一四四骨司 ﹃④ “ 零簿一建訓︵皆︶ 亘慧 一四 ー へ] 四四つ﹄や い い ー ー 、つ ︽① へ] ‐ ‐ 、① ﹄︾いつつ 写簿一難訓︵皆︶ 引至︵計茸︶ いつ①いの へJ ー 画・司色④一・ 色 。 ー 令 ﹄、 ﹄の 昌澤 ﹄、 い ー 、つつ 四℃い、函 印、で﹄の③ 岸﹄西寺国司③ 胃﹄やい④① ]、凹司、国 四口の四m ↑一つ 、卓い﹄つ 零鮮一懲訓︵皆︶ 里計 ]④﹃ 、 四 昌一 ︽① 四③ ︽唾 四つ 四画 一 t 。 壽鋒

(34)

図 1 近 江 屋 長 兵 衛 と 大 阪 周 辺 地 図 大 原 野 服部 十 日 市 郡 山 総 持 寺 唐 崎 茨木 〃 粟 生 大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 伊 丹 西 宮

ノ I

吉原 野 江 中新開今米 吉 田 新 家 吉田 大 坂 下小坂岩田 市 場

天 王 寺 山畑 八 尾 万願寺 山本新田 一 猪名川 庄 本 大道 道意新田尼崎 又兵衛新田 武庫川 淀 川 安治 大 和 川 r 、 堺 金 田 明各一通であった。預り銀証文の 分布が、その取引圏と一致するわ けではないとしても、近江屋の在 方取り引きの重点が、河内では茨 田、河内、若江の三郡を中心とし た地域にあったことは、ほぼ想像 できる。 摂津では西成郡が最大で八通で 大道村関係で六通を占めた。また 島下郡六通、島上郡五通、東成郡 三通、川辺、武庫郡、郡名不明各 一通であった。大和では大和川が 同盆地入った葛下郡に二通見られ た。大和川水運を通じて、大和盆 地にもある程度販売が行われたよ うである。大坂近郊では、どちら かといえば、北部の地域に分布が 広まっており、南部にはほとんど 七五

(35)

図 2 近 江 屋 長 兵 衛 と 阿 波 国 大 浦 折野 牛 屋 島 乙瀬

矢 上 矢 武 唐 園

吉I羊 打喜 鶴 島 浦 西条 佐藤須賀 高原上六条■ 下浦 圧 徳 島 、 吉 野 川 預り銀証文の分布はなかった。ことに和泉の 村方にかかわるものが全く見られなかった。 阿波では、板野郡が一九通︵内板東郡五通︶、 名西五通、郡名不明が一通であった。板野郡 は近世では、東西に分けて板西・坂東郡と称 ︵稲︶ することがあった。坂東郡の記載もあるが、 坂野郡にまとめた。同郡は藍の主産地で、こ れへ向けての魚肥販売が中心であったことが うかがえる。 町方は、大坂の干鯛屋が中心であるが、兵 庫、尼崎、岸和田、和泉国下条大津浦、貝塚 などの商人の預り銀証文が一通ずつある。 証文の一件平均の銀高は一貫五七六匁余で あるが、町方の銀高が大きく二貫九二九匁余 で、ついで阿波が銀二貫一三三匁余となって いる。町方では商人同士の取り引きの結果、 預り銀証文が作成されるので、一件あたりの 銀高は高くなりがちである。また阿波は大坂 七六

(36)

付けて返済するという条件で、 借金証文とかわらない内容である。両者の比重を示したのが表 3である。河内・摂津の在村との取り引きでは、年賦の預り銀 証文が基本であったことがわかる。また阿波では記載のあるも のが少ないが、半分程度の比率であった。さらに町方では利付 表 3 預 り 銀 証 文 の 年 賦 と 利 付 の 比 重 ”|僻剛鯏州棚岫一州 州一筋印257,|Ⅲ 2

492745

141

0611 12 大坂干鰯屋近江屋長兵術と地域市場

613

223

1 1 ったと考えられる。 預り銀証文は、年賦のもの と利付きのものとがあった。 年賦の場合、決められた年賦 返済ができない場合は、利付 き返済となるという条件がつ いていたが、それでも決めら れた返済を行っている限りは 無利子であった。利付きの場 合は、初めから一定の利子を が頻繁に行われ、売り掛け処理も綿密であったことが、証文銀高を低く抑えることにな ろう。これにたいして、大坂周辺の村むらは銀一貫匁を大きく下回っている。干鰯販売 から離れており、取り引き規模が大きく細かな督促が行き届かなかったということがあ 表 4 預 り 銀 証 文 の 年 賦 期 間 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 小 計1332 2 15 4八0qJnU4宙Ru 七七 84 l ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 摂 津 河内 大和 阿波 不明 町方

13111142

11

81347

13 243 11 1 1

111

211

1111

13211

14 47 2 5 4 12

(37)

表 5 預 り 銀 証 文 の 年 賦 銀 額 の 分 布 l ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 小 計 銀高(匁) 1001∼200C 501∼1000 401∼500 301∼400 201∼300 101∼200 61∼100 46∼60 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 1∼15 小 計 87 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 注:金表示の場合は、当該年の大坂の金銀相場で銀に換算した。 年賦の付いているものに限って、その年賦期間の分布を見たのが、 表4である。年賦期間には、一○年間と五年間が一つの目安で、おお むね一○年間以内の所に分布が見られる。またそれ以上は七通で最大 三五年間となっている。時期による年賦期間の変遷ということはとく に認められなかった。 長期間の年賦は町方に多いがこれは、何らかの親しい関係があっ て、相続を助けるために行われている。最大の三五年賦は近江屋弥兵 衛に預けた銀六三○匁であったが、年間わずか三匁の支払いになって ︵刃︶ おり、のれん内の救済処置だったと考えられる。また二六年間の松屋 安右衛門への年賦処置は、銀二六貫匁を年間銀一貫匁ずつ返済するも ︵帥︶ ので、銀額は大きかったが同家の破綻の救済のためであった。さらに 文政二年︵一八一九︶に行われた長浜屋三郎助への二○年間の年賦 ︵別︶ は、同人が文化一四年︵一八一七︶に近江屋長兵衛に海部堀川町の屋 ︵肥︶ 敷地を売った関係があった。阿波の場合、預り銀が銀六貫匁という多 ︵鯛︶ 額だったために、三○年賦となったようである。またそれ以上のもの である。 は救済的性格が強いが、利付きは商業的な融資の性格が強くなるよう きの証文が基本で年賦は三分一ほどであった。町方では、年賦の証文 七八 摂 津 河 内 大 和 阿波 不 明 町 方

11354

136

11 9 13 5 11

222

1 2

121122221

14 48 2 6 3 14

(38)

表 6 預 り 証 文 の 利 子 率 l ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 小 計 1 3 1 大坂干鰯屋近江屋長兵術と地域市場 04 0 J、9 3.8 3.7 〕_6 小計 138 − は、利付きで返済するようになっている。河内の場合は事情がわからな い・ 年賦で返済する銀額がどの程度であったかを見たのが、表5である。 年賦銀額は一兀銀額と年賦期間の相関関係により決まってくる。またその 決定は、預り銀主と近江屋長兵衛との親密度や信用関係などが反映する ので一概にはいえない。それでもこの表でもだいたいの特徴は出ている。 摂津・河内の在村部では、銀一○○匁以下のものがほとんどで、銀三○ 匁以内のものも高い比重を占めている。預り銀となった銀額自体が少な かったこともあるが、現実的に返済できる程度まで負担を軽減して、返 済を確実にする配慮をしているようである。その点では阿波ではやや高 く出ているが、遠隔地で一兀銀額が高くなりがちであることと、回収もむ ずかしいことがあろう。町方では、やはり在方よりは年賦銀額も高くな っているが、商業金融的側面があるからと見られる。 最後に利子率の分布について表6に示した。これは利付きの預り証文 だけでなく、年賦の預り証文にある年賦返済が滞った時どのような利子 で返済するかを記載したものも数えた。一番高いものは河内の月利一・ 六パーセント︵年利一九・八パーセント︶であるが、これは天明七年︵一 ︵餌︶ 七八七︶のもので近江屋に残る一番古い預り銀証文である。この時期、 七 九 摂 津 河内 大和 阿波 不 明 町方 16 3 1 1 1 49

312

2

72

4 1 3 1 22

48241

21 56 2 9 5 45

(39)

C阿波との取り引き 近江屋長兵衛がいつどのような経緯で、阿波との取り引きを始めたかわからないが、少なくとも文化年間には預り銀証 文をとるほどの関係となっている。つぎの史料は名西郡高原村の百姓が出した預り銀証文で、現在残る阿波の預り銀証文 利一パーセントが適用され、とくくつ高い金利が適用されたわけではなかったといえる。 いして基本的に無利子年賦返済として宥免的処置であり、返済が滞った場合も、大坂周辺在村で普遍的に行われていた月 して、この金利を実際に適用したのではなかったということができる。預り銀証文での年賦返済は、大坂周辺の在村にた ことになっていた。摂津・河内・大和の証文は大半がこのタイプであるので、この点を考慮すると、近江屋は在方にたい った時にのみ、契約違反として適用される金利であったから、仮に順調に返済が行われれば無利足年賦で返済が完了する わけではなかった。しかしこのデータには、年賦返済の時に適用される金利も数えている。年賦返済の場合は、それが滞 トは、古くから畿内農村で広く行われた基準的金利で、他の地域から見ると低利ではあるが、畿内ではとくに安いという うである。町方では、月利一パーセントを超えるものもあるが、やはり商業金融としての判断であろう。月利一パーセン れ以下のものが行われていた。時代的変遷についてはとくに特徴はなく、預り銀主と近江屋長兵衛との関係で決まったよ まだ干鰯屋は開業していなかったので、干鯛売買のものではない。それ以外は、在村では月利一パーセントを中心に、そ ︵鯛︶ ではもっとも古いものである。 預り申銀子之事 一、合銀壱貫三百六拾五匁五分四りん 右之銀子慥二預り申処実正也、然上は何時成共其元御入用次第急度返済可仕候、為後日冊て如件、 八○

(40)

この証文では、干鯛・〆粕買代銀の残り銀一貫三六五匁余が返済できなくなって、九年賦にして毎年銀一九五匁余ずつ 支払うことを約束している。図2に預り銀証文や売り掛け金訴訟にあらわれる村むらを示した。高原村は、吉野川の平野 部で藍の特産地であった。寛政初年︵一七八九︶に干鰯屋仲間の加入したと考えられる近江屋は、文化初年︵一八○四︶ には阿波の板野・名西郡などの藍作の中心部に干鰯を販売していたことがわかる。取次を立てて大規模な取り引きが行わ ︵師︶ れたこともあったようで、嘉永四年︵一八五二の一札にはつぎのようにある。れたこともあったようで、嘉 仕渡申書物之事 一、銀三拾貢百九拾六匁 右之通、肥シ代文政十 申二付、連判之銀手形 為後日之書物如件、 申分無御座候、価て一札如件、 前書之銀子此夏我等手作肥し干鯛〆粕買代残銀之返済之義相対ヲ以来ル辰年より戌ノ九月迄、九ヶ年定メ毎年九月銀 百九拾五匁八りんシ、無違滞返済可仕候、万一壱ヶ年二ても相滞候ハ、、惣銀高二て皆済御取立被成候、其時一言之 銀三拾貢百九拾六匁八分八厘 之通、肥シ代文政十亥十二月約メ親弁右衛門口入取次二て借用仕居申処、度々催促二預り候得共、御算用相立不 二付、連判之銀手形六通、私より金五両相添入帳仕処実正二候、然上は、其方御勝手二御取約メ可被成候、価て 文化四年卯ノ十二月 近江屋長兵衛 大坂干鯛屋近江屋長兵衛と地域市場 阿州名西郡高原村之内桑島 遠方二付兵作落印

与兵衛④

証人大和屋万助④

八 一 一 空

(41)

これでは、嘉永四年︵一八五四に下庄村弁右衛門の親が肥料代を口入取次として借りた銀三○貫目余が未済となった ため、銀手形六通と金五両を渡したことがわかる。末尾の表現がわかりにくいが、銀手形を近江屋が自由に回収してよい ということであろうか。同じまとまりの文書群のなかには、預り銀証文がある。おそらくこれが弁右衛門のいう銀手形で ︵師︶ あろう。その一通を示すとつぎのようである。 ここでは板野郡唐園村の石蔵と取次弁右衛門が銀九六二匁を預かったことが述べられている。この預り銀証文は、文政 一、銀⑤ 右は、垣 て如件、

嘉永亥三月

文政五年午十二月 、銀子慥二預り申処実正也、然上は、其許殿御入用次第何時二ても元利無滞急度返済可仕候、為後日預り証文価 銀九百六拾弐匁六分六厘 その一通を示すとつ 近江屋長兵衛殿 預り申銀子之事 近江屋長兵衛殿 阿州板野郡唐園村

石蔵④

同郡下庄村取次

弁右衛門④

阿州板野郡下庄村 取次

弁右衛門④

八 一 一

(42)

五年︵一八二三一二月から文政七年︵一八二四︶まで七通あり、板野郡唐園、西中富、下庄村のものが近江屋に差し出 したものであった。総額は銀九員四八九匁一分三厘で弁右衛門が取りまとめた銀三○員匁の三分一程度である。嘉永四年 ︵一八五二までに処理がつかなかったものが、弁右衛門から近江屋へ引き渡されたのであろうか。いずれにせよ証文の 農民とは、文政五年︵一八二三より七年以前に取り引きが行われており、その残銀は未済になっていったので、預り銀 証文に直され、それが文政一○年︵一八二七︶になって弁右衛門にまとめて返済の取次などを依頼するようになったので あろう。弁右衛門は肥料販売の取次を行っていた関係で、借金の取次も行ったと見られる。しかし嘉永四年︵一八五二 になって、それもむずかしくなり、証文と金五両を出して借金の取次をおりたと考えられる。化政期の干鰯売り掛けの史 ︵鯛︸ 料としては、つぎのようなものがある。 一、私儀其元二て干鰯買代滞御座候処、御番所御屋敷へ御願被下候二付、去ル文化十三子六月罷登り候所、銀子調達 出来不申二付、厚御用捨被下、我等所持諸道具迄、銀高弐百目余御座候間、売払持参仕候て御済方仕候筈二預り御 用捨二候得共、帰国之上調達出来兼候、然所、此度私方より為御呼登二て、罷登り候所、其元殿済方出来不申候間、 此度又々御憐慰之上、当時銀三拾壱匁相渡し、残銀百六拾九匁、当八月十一月来卯二月迄、三ヶ度相渡し可申候、 右銀子限月迄之内、皆済出来不申候ハ、、元銀壱員七百匁三分四り二御引直シ可被下候、尤夫迄入銀仕候分ハ利足 銀二被成下、如何様二相成候ても、一言之申分無之候、為後日一札、冊て如件、

文政元年阿州名東郡

寅七月 庄村

伝兵衛④

大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場 一札

図 1 近 江 屋 長 兵 衛 と 大 阪 周 辺 地 図 大 原 野 服部 十 日 市 郡 山 総 持 寺 唐 崎 茨木 〃大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場粟 生 伊 丹 西 宮 訓 蕪 一ノI : 野 江 吉原 中新開今米 吉 田 新 家 大 坂 吉田 下小坂岩田 市 場 久 宝 襄 郡 萱 振 幅 万 寺天 王 寺 八 尾 山畑 万願寺 山本新田一猪名川庄 本大道道意新田尼崎又兵衛新田武庫川淀 川安治大 和 川 r 、 堺 金 田 明各一通であった︒預り銀証文の分布が︑その取引圏と一致するわけではない
図 2 近 江 屋 長 兵 衛 と 阿 波 国 大 浦 折野 牛 屋 島 乙瀬 矢 上 報 一矢 武 唐 園 罵 珪吉 I 羊 打喜 鶴 島 浦 西条 佐藤須賀 高原上六条■ 下浦 圧 徳 島 、 吉 野 川 預り銀証文の分布はなかった︒ことに和泉の村方にかかわるものが全く見られなかった︒ 阿波では︑板野郡が一九通︵内板東郡五通︶︑名西五通︑郡名不明が一通であった︒板野郡は近世では︑東西に分けて板西・坂東郡と称 ︵稲︶することがあった︒坂東郡の記載もあるが︑坂野郡にまとめた︒同郡は藍の主産地で︑これへ向けて
表 5 預 り 銀 証 文 の 年 賦 銀 額 の 分 布 l ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 小 計銀高(匁) 1001〜200C 501〜1000 401〜500 301〜400 201〜300 101〜200 61〜100 46〜60 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 1〜15 小 計 87 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
表 6 預 り 証 文 の 利 子 率 l ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 小 計 1 3 1大坂干鰯屋近江屋長兵術と地域市場 040 J、9 3 . 8 3 . 7 〕̲6 小計 138 − は︑利付きで返済するようになっている︒河内の場合は事情がわからな い・ 年賦で返済する銀額がどの程度であったかを見たのが︑表5である︒年賦銀額は一兀銀額と年賦期間の相関関係により決まってくる︒またその決定は︑預り銀主と近江屋長兵衛との親密度や信用関係などが反映するの
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