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バスケットボールにおける屋外板張りコートに関する一考察 (大正期~昭和初期) 利用統計を見る

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バスケットボールにおける屋外板張りコートに関する一考察(大正期〜昭和初期)

A Historical Study of Playing Basketball on the Itabari Court“A Japanese Wooden Court for Playing Outdoors” (the Taisho Era to the Early Showa Era)

及 川 佑 介 Yusuke OIKAWA

1.は じ め に

バスケットボールは屋内の競技としてアメリカ で考案され(1891 年)、我が国には明治期に伝わ ったが、当時は屋内の競技施設が整っていなかっ たことから、屋外で一般的に行われていた。大正 6年には東京基督教青年会の体育館(写真1参 照)が竣工され、この体育館は昭和期に入り「日 本籠球界の殿堂」1)といわれるほどの施設であっ た。このように、少ないながらも徐々に屋内施設 でバスケットボールが行われはじめた。

しかし、大正期から昭和初期のバスケットボー ルを行える屋内施設は観覧席の設備がないなどの 不備な点があり、大日本バスケットボール協会が 設立された昭和5年の時点では、東京基督教青年 会の体育館を上回る設備を有した施設はなかった ようである2)。さらに、大日本バスケットボール 協会の中心的人物であった李想白は、屋内施設に ついて次のような問題点を挙げている3)

   競技場のない事(競技場が少ないこと:筆者 補足)。観衆に不便、選手に苦痛、技術発達の 障碍。せめて最後の欠点を救う為に、リーグ戦 とか、選手権大会の如きものは、何んとかして

も少し大きく、正規に近い大きさのコートでや りたいこと。

と述べているように、屋内施設があっても正規の コートの大きさで行えず、屋内施設及びバスケッ トボールコートの問題は「技術発達の障碍」があ ると考えられていたのである。したがって、大正 期から昭和初期にかけて屋内競技施設の不足とそ の設備の不備な点から極東選手権競技大会や全日 本選手権大会のように規模の大きな競技会は屋外

国士舘大学大学院スポーツ・システム研究科(Graduate School of Sport System, Kokushikan University)

AND SPORT SCIENCE VOL.28, 83-88, 2009

報告書(体育研究所プロジェクト研究)

写真1 東京基督教青年会の体育館

(李想白『指導籠球の理論と実際』春陽堂、1930.10、p.49、より転載)

(2)

で行われていた。我が国でバスケットボールを屋 内で行うことが一般化したのは昭和 30 年以降か らであったと考えられる4)

屋外コートにおいて競技会を開催する時には、

大勢の観客を集めることができるという利点があ る。例えば、昭和初期には明治神宮のコートに1万 人以上の観客を集めたほどであった5)。 だから、

大正期から東京基督教青年会の体育館は存在して いても屋外バスケットボールコートを使用してい たのである。しかしながら、屋内スポーツとして 誕生したバスケットボール競技を技術面からみた 場合に、屋外で行うことの問題があった。それは、

昭和初期に幾度か取り上げられていた屋外バスケ ットボールコートの地面が砂や土であったこと、

屋内のような床(木材)ではなかったことである。

屋外バスケットボールコートの地面の状態につ いて次のような記述がある6)

   屋外コートはボールに油気がなくなって砂が ついて非常に握みにくい事だった。我々が練習 後風呂屋へ行って頭を洗ふと髪の毛からヂャリ ヂャリ出て来るのはみんなボールについた砂を かぶった為だった。そんなコートだから当時の ゲームは今よりは一般に荒ッぽくて大まかだっ た。実際足場が悪いために今の様なこまかい仕 事は出来なかったのだ

これは、大正末期における立教大学の屋外バス ケットボールコートを回顧していた記述である が、コート上の「砂」7)及び「足場の悪さ」がバ スケットボールの技術的向上を妨げていたようで ある。大正末期の立教大学の屋外バスケットボー ルコートといえば、 大正 12 年の第6回極東選手 権競技・大阪大会に選手として出場した者が、練 習のためにほとんど毎日通っていたコートであっ た8)。また、屋外バスケットボールコートはロー ラーをかけて平らにし、生えてくる草をむしり、

整備していても「冬の霜柱でつかり駄目になった 時と、九月草で荒らされた時」9)があったなど、

手入れが面倒であったことから「不心得な学生が、

コートの内へ、下駄は勿論、普通の靴で入っても、

まるで自分の顔でも、ふんづけられた様な剣幕で、

怒ったものだ」10)と述べられ、 屋外バスケット ボールコートの維持は難しく、気を遣って管理し ていたようである。このことから、バスケットボ ールのコート(地面または床)は当時の選手らに とって重要視されていたと考えられる。

以上のことから、大正期から昭和初期における バスケットボールコートに関して、屋外では「砂」

や「足場の悪さ」などの問題点、屋内では「観覧 席の設備がない」、「正規のコートの大きさで行え ない」などの問題点が挙がっていた。このような 屋内外のバスケットボールコートの問題を解決さ せるかのように誕生したのが、屋外に板を敷き詰 めて造った板張りコートであった。

板張りコートが初めて登場したのは、大正 6年 の第3回極東選手権競技・東京芝浦大会である。

その後に開催された極東選手権競技大会(昭和2 年、昭和5年、昭和9年)等で、板張りコートを 使用していたことがわかっている。板張りコート では、観覧席を設けることやコート上の「砂」の 問題も解決できたと考えられる。

これまでのバスケットボール史研究で板張りコ ートを中心に行われた研究はなく、年誌等では板 張りコートを使用していたという記述がわずかに 残っている程度である。屋外バスケットボールコ ート(土)の「砂」及び「足場の悪さ」の問題を 解決したと思われる板張りコートの登場は、競技 の技術的向上や普及に関係していたと考えられ る。したがって、本稿では板張りコートに注目し、

大正期から昭和初期に板張りコートを使用してい た事実の整理、そして、板張りコートの導入とそ の変化を明らかにする。

2.初の板張りコートの設置(大正6年)

日本バスケットボール協会が創立 50 周年を記 念して出版した『バスケットボールの歩み』(昭

(3)

和 56年)では、「組立式コートの完成」、「座談会 協会設立のバスケットボール 組み立てコート」

という二つの記事があり、板張りコートを設けて いたことについて紹介している。しかし、それら 二つの記事では、板張りコートが大正期に存在し ていたことには一切触れず、さらに、座談会では 昭和5年に行われた第 9回極東選手権競技・東京 大会で、はじめて板張りコートを使用したと誤っ て記述されている11)

現在確認した限りでは、我が国ではじめて板張 りコートを使用したのは、大正6年の第3回極東 選手権競技・東京芝浦大会である。このことは、

同大会の開催記念に販売された絵葉書12)から確認 することができる。その絵葉書が写真2、写真3 である。写真2をみると、敷き詰められた板は少 しだけ高く位置し、ゴールはエンドラインに沿っ た状態で固定され、写真3からは、板張りコート を陸上トラックの内側に設置していたことがわか る。

その後、日本は大正期の極東選手権競技大会に 三度参加したが、板張りコートの姿をみることは なかった。 大正 12 年開催の第6回極東選手権競 技大会は大阪市立運動場で行われ、第3回大会時 のように、陸上トラックの内側に土のバスケット

ボールコートを設けている13)14)。 大正期に一度 だけの板張りコートの設置に終わった理由は、そ の設置費用が高額であったと述べられている15)3.昭和初期における板張りコートの普及

昭和期に入り、日本のバスケットボールチーム が板張りコートを経験したのは、昭和2年に上海 で開催された第8回極東選手権競技大会である。

同大会では、板張りコートを設けていた他に、電 燈照明や電光掲示板を設置し、数千人の観客を集 めることのできる観覧席を設けていた。しかし、

板張りコートの状態は所々で釘が出ていて、雨が 降ると板と板との継ぎ目が大きく口を開け、板が 反り返り、負傷者が出たことで板を張り替えると いった状況であった16)17)

次大会の第9回極東選手権競技・東京大会(昭 和5年)でも板張りコートを用いた。この板張り コートは、コートの中央部を高く位置することで 水はけの工夫を加えた構造であった。同大会で用 いた板張りコートを後に早稲田大学は購入したが

18)、そこで、当時練習していた者によると、水は けのための傾斜はかなりあるように感じ19)、床板 の状態は「ブカブカ」20)していたと述べている。

写真2  大正6年における第3回極東選手権競技・東京 芝浦大会での板張りコート(その1)

(極東体育協会「第三回極東選手権競技大会記念(絵葉書) 極東体育協会特定宮内写真館、1917.5、より転載)

写真3  大正6年における第3回極東選手権競技・東京 芝浦大会での板張りコート(その2)

(極東体育協会「第三回極東選手権競技大会記念(絵葉書) 極東体育協会特定宮内写真館、1917.5、より転載)

(4)

そもそも、板張りコートの利点は、地面に板を 敷き詰めることで凹凸や砂の問題を解決し、観覧 席を多く設けることができる点であった。しかし、

昭和2年と昭和5年の極東選手権競技大会で用い た板張りコートは、床板の構造に問題があると指 摘されたのである。

昭和8年において明治神宮の相撲場に設けた板 張りコートは、上記した床板構造の問題を払拭し ただけでなく、理想的な造りであったようである。

(写真4参照)板張りコートの構造上は、ほとん ど昭和5年に明治神宮で造られた板張りコートと 同じであったが21)、水はけをよくするための傾斜 は、コートを使用した者に感じさせない造りであ った22)。さらに、床板の厚さは5寸(約 15.1㎝)

の木材を用いたことで、ドリブル時のボールの反 発は良好であったようである23)

明治神宮の相撲場に板張りコートを設けた昭和 8年以降、全国的に板張りコートは見受けられる ようになり、立教大学、関西学院大学、旧制甲南 高等学校などで造られた24)25)。中でも、昭和 11 年に設けられた旧制甲南高等学校の板張りコート は、当時、東洋一のバスケットボールコートと称 されていた。(写真5参照)旧制甲南高等学校の 初代マネージャーを務めた木戸乙男によれば、こ の板張りコートの床板は、軍艦の甲板を使ったこ

とで水はけは良く、雨が降ってもすぐに乾くと述 べていた26)

以上のことから、板張りコートの構造上の精度 は、明治神宮に造った昭和8年頃から高まったと 考えられ、各地で板張りコートは設置されるよう になった。そして、昭和8年頃を境に、競技会の ためだけに造られた板張りコートから学校等で常 設する板張りコートへ変化したと考えられる。ま た、昭和 14 年に同志社大学で、屋外の新しいバ スケットボールコートとしてアンツーカーコート が造られた。こうした新しい屋外のバスケットボ ールコートが誕生した背景には、板を敷き詰めて 造った板張りコートが大正期から存在し、徐々に その構造上の精度を高めてきたことが関係してい るように思える。

4.お わ り に

東京基督教青年会の体育館は大正6年に竣工さ れ、当時からバスケットボールを室内で行える環 境はあった。しかし、それは狭く、観覧席の設備 はなく、その他も不備な点があるなど、理想的な 体育館建設はすぐに解決できる問題ではなかっ た。大体育館の建設計画を進めると同時に、他方 では、屋外のコートにより急速な競技の普及発展

写真4 明治神宮相撲場の板張りコート(昭和8年)

(大日本バスケットボール協会『籠球(第 6 号)』1933.3、

p.7、より転載)

写真5 旧制甲南高等学校の板張りコート(昭和 11 年)

(甲南高等学校バスケットボール部 OB 会「創部 80 周年 記念式典・祝賀会パンフレット」2003.11、表紙)

(5)

に対応しなければならなかった。そして、コート の広さのことや観覧席のことを考慮すると、屋内 に比べ、屋外の方が競技会を開催するのに都合が よかったのである。

そうした状況下で登場したのが、屋外に板を敷 き詰めて造った板張りコートであった。我が国に 板張りコートは、大正6年の第3回極東選手権競 技・東京芝浦大会で初めて登場したが、大正期に 再び板張りコートをみることはなかった。その理 由は、板張りコートを設ける経費が高額であった と述べられている。

昭和期に入り、昭和2年と昭和5年の極東選手 権競技大会で板張りコートは設けられたが、板と 板との合わせ目が十分でなく、所々で釘が出てい たなどの構造上の不備が指摘されていた。そして、

明治神宮相撲場で昭和8年に理想的な板張りコー トが設けられてから各地で板張りコートは造られ るようになっていった。さらに、板張りコートは、

昭和8年頃を境に競技会を開催するためだけでな く各学校で設置するようになったと考えられる。

つまり、初期の板張りコートは、観客の動員を意 図していたが、昭和8年頃から技術的向上を意図 しての設置であったのではなかろうか。

板張りコートが普及したと考えられる昭和8年 頃は、アメリカから講師を招聘して新しいチーム 戦術を全国的に広め、我が国のバスケットボール 界が国際大会で通用するように技術の習得を試 み、競技力が急速に向上してきた時期である。だ から、板張りコートの普及と我が国の競技力の向 上には、何か関係しているように思える。しかし ながら、本稿では、まだ、その因果関係を明らか にできる段階には到達していない。したがって、

大正期から昭和初期における板張りコートに関す るさらなる情報の収集はもちろん、体育館の普及 状況と照らし合わせながら検討していくことが今 後の課題である。

本稿は、 平成 21 年度国士舘大学体育学部附属 体育研究所研究助成金を受けて行われたものであ る。記して感謝の意を表したい。

注及び引用文献

1) 李想白『指導籠球の理論と実際』 春陽堂、1930.

10、p.49 2) 上掲書、pp.49-50

3) 李想白「日本籠球界の将来」『籠球 部創立十周年 記念立教大学籠球部部報』所収、立教大学籠球部、

1931.6、p.76

4) 我が国における体育館の普及とバスケットボール が屋外から屋内へ完全に移行した時期を明らかに することは資料的に困難であると考えられるが、

その一つの尺度としてバスケットボールの競技規 則書に記されているコートの大きさの規格から推 測することができる。大正7年から昭和36年まで のバスケットボールコートの広さの規格について 競技規則書やバスケットボール専門書から確認し てみた。その結果、昭和29年までのコートの広さ の規格は、サイドライン・エンドラインの長さが 最大~最小として各数メートル(m)ずつの幅を 保ち定められていた。このように幅をもたせたコ ートの広さを規格としたことは、昭和20年代の終 わり頃までは、日本の体育館の数は非常に少なか ったと考えられる。つまり、屋内で競技する際に、

統一されたコートの広さを定める程、体育館建設 ができていなかったという事実から、コートの広 さの規格に幅を保たせざるを得なかったと推察で きる。昭和30年からコートの規格が統一されたこ とから、昭和30年以降に、体育館でバスケットボ ールを行うことが一般的になったと考えられる。

(三橋義雄『女子競技』 廣文堂、1924.11、p.409、

安川伊三、大谷武一編『ティームゲイムス』目黒 書店、1925.5、p.213、三本義雄『最も要領を得た る バ ス ケ ッ ト ボ ー ル 』 木 下 製 作 所 出 版 部、

1926.11、p.11、文部省『運動競技場要覧』日本体 育連盟、1927.9、p.28、大日本体育協会『昭和三年 度バスケツトボールゲエム規則』大日本体育恊会、

1928.2、p.1、大日本体育協会『昭和四年度バスケ ツトボールゲエム規則』大日本体育恊会、1929.2、

p.1、大日本体育協会『昭和五年度バスケットボー ル競技規則』大日本体育協会、1930.3、pp.1-2、大 日本バスケットボール協会『昭和六年度バスケッ トボール競技規則』大日本バスケットボール協会、

1930.12、資料、大日本バスケツトボール協会『昭 和七年度バスケツトボール競技規則』大日本バス ケットボール協会、1931.12、p.3、安川伊三、大谷 武一『改訂ティ ーム・ ゲイムス』 目黒書店、

1933.10、p.320、大日本球技研究会『籠球研究』一 成社、1934.2、p.4、大日本バスケットボール協会

『昭和十・十一年度バスケットボール競技規則』大 日本バスケットボール協会、1935.8、p.17、大日本 バスケットボール協会『昭和十一・十二年度バス ケットボール競技規則』大日本バスケットボール 協会、1936.9、p.17、大日本バスケットボール協会

(6)

『昭和十二・十三年度バスケットボール競技規則』

大日本バスケットボール協会、1937.9、p.17、佐々 木等「籠球指導」『競技運動各論下巻』所収、建文 館、1939.2、p.3、日本籠球協会編『昭和二十一年 度バスケット・ ボール競技規則』 日本籠球協会、

1946.6、p.1、日本バスケットボール協会規則委員 会『昭和二三・二四年度バスケットボール競技規 則』日本バスケットボール協会、1948.8、p.1、日 本バスケットボール協会規則委員会『昭和二四年 度バスケットボール競技規則』日本バスケットボ ール協会、1949.9、p.1、井上一男『バスケットボ ール−ティ ームプレーの練習法−』 金子書房、

1949.9、pp.230-231、 日本バスケットボール協会

『バスケットボール改正競技規則並びに詳解』日本 バスケットボール協会、1950.9、 資料、 日本バス ケットボール協会規則委員会『昭和二八・二九年 度バスケットボール競技規則』日本バスケットボ ール協会、1953.3、p.3、日本バスケットボール協 会規則委員会『昭和三一年度バスケットボール競 技規則』日本バスケットボール協会、1956.3、p.3、

小澤久雄『籠球指導の実際』日本体育社、1956.5、

p.39、日本バスケットボール協会規則委員会『昭 和三二年度バスケットボール競技規則』日本バス ケットボール協会、1957.10、p.3、日本バスケット ボール協会規則委員会『昭和三二−三五年度バス ケットボール競技規則』日本バスケットボール協 会、1957.10、p.3、笈田欣治、細川磐「バスケット ボールのルールの変遷について」『関西大学文学論 集(第51巻第3号)』所収、2002.1、資料

5) 牧山圭秀「バスケットボールの技術史」『スポーツ の技術史』所収、大修館書店、1972.6、p.379 6) 山田和夫編『籠球 部創立十周年記念立教大学籠球

部部報』立教大学籠球部、1931.6、p.10

7) 屋外のバスケットボールコートの「砂」に関して 補足すると、昭和6年時に第一高等学校で使用し ていたコートは、通称「砂漠コート」といわれて いたことからコート上の「砂」は屋外コートを使 用した者にとって印象深いことであったのではな かろうか。さらに、旧制甲南高等学校でも昭和3 年に完成した屋外の土のコートことを「砂漠コー ト」と称していた。(柏葉会『一高籠球部史』東京 大学出版会、1981.10、口絵、p.141、甲南高校バス ケットボール部 OB 会『旧制甲南高等学校バスケ

ットボール部史』2002.11、p.60)

8) 薬師寺尊正「八年前の話」『籠球 部創立十周年記 念立教大学籠球部部報』 所収、 立教大学籠球部、

1931.6、p.42

9) 野村憲夫「十周年を迎えて」『籠球 部創立十周年 記念立教大学籠球部部報』所収、立教大学籠球部、

1931.6、pp.3-4 10) 上掲書、p.3

11) 日本バスケットボール協会『バスケットボールの 歩み』1981.3、pp.82-83、pp.111-112

12) この大会記念の絵葉書は、6 枚組を 10 銭で販売さ れていた。絵葉書(6枚組)は二種類あったこと を確認できている。(極東体育協会「第三回極東選 手権競技大会記念(絵葉書)」極東体育協会特定宮 内写真館、1917.5)

13) 大日本体育協会『ATHLETICS(第2巻第7号)』

1923.7、口絵

14) 薬師寺尊正「八年前の話」『籠球 部創立十周年記 念立教大学籠球部部報』 所収、 立教大学籠球部、

1931.6、p.42

15) 西村正次「バスケットボール規定の解説(一)」

『ATHLETICS(第2巻第5号)』所収、大日本体 育協会、1923.5、p.73

16) 薬師寺尊正「若き支那の覚醒」『ATHLETICS(第 6巻第11号)』所収、大日本体育協会、1927.10、p.55 17) 日本バスケットボール協会『バスケットボールの

歩み』1981.3、p.47 18) 上掲書、p.82

19) 早稲田スポーツ百周年記念誌編集委員会『早稲田 スポーツ百周年記念誌』早稲田大学体育局、2000.

10、p.263

20) 大日本バスケットボール協会『籠球(第6号)』

1933.3、p.6 21)上掲書、p.6 22)上掲書、p.8 23)上掲書、p.6

24) 甲南高校バスケットボール部 OB 会『旧制甲南高 等学校バスケットボール部史』2002.11、p.61 25) 関東大学バスケットボール連盟『関東大学バスケ

ットボール連盟80年史』2005.10、pp.46-47 26) 木戸乙男からの聴き取り調査、2004.3.20(特別養

護老人ホーム栗栖の荘にて)

参照

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